第11話:逆転の戦術構築と聖水作戦
指揮車両。
ジューコフはヴェーバーの情報を頭の中で整理していた。
実体と非実体の遷移。予測不能な効力。自己修復能力。戦闘学習能力。そして、憑依された魂。
「コズロフ」
「はい」
「敵の特性は三つ。一つ、攻撃の効力が不安定。二つ、自己修復する。三つ、学習する」
「……絶望的ですね」
「しかし弱点もある」
コズロフは眉を上げた。
「ヴェーバーの言う『効力が不安定』というのは、逆に言えば『効く瞬間がある』ということだ。カチューシャがすでに見抜いている。幽霊列車が攻撃する瞬間、銃を撃つ時、汽笛を鳴らす時、速度を変える時。実体化する」
「攻撃の瞬間を狙い撃つ?」
「それだけではない」
ジューコフは地図を広げた。
「あの列車が物理的実体を持つなら、物理的法則に従う。速度、重量、慣性、そして線路の上を走る以上、脱線もする」
「……体当たり、ですか」
「そうだ。ただし、すり抜けられたら無意味だ。だから」
ジューコフは伝声管のスイッチを全車両に入れた。
「神父イヴァン。聞こえるか」
食堂車から、息を切らせた声が返ってきた。どうやらさっきまで撃ちまくっていたらしい。
「は、はい! 聞こえます、同志元帥」
「給水タンクの水をすべて聖水に変えろ。幽霊列車に散布する。効果があると思うか」
伝声管の向こうで、一瞬の沈黙。それからイヴァンの声が、驚くほど力強く返ってきた。
「あります。必ず。聖水は霊的存在を強制的に実体化させる力を持ちます。あの列車が完全な実体になれば、物理攻撃が通じる」
「よし。やれ」
「私に、全給水タンクの祝福を?」
「できるか」
「できます。こんなに嬉しい命令は初めてです。本当に」
「そうか。では急げ」
ジューコフは伝声管を切り替えた。
「オルロフ爺。現在地と速度は」
「現在地! ミンスクまであと五十キロ! 速度六十! 幽霊野郎も同じ速度だ!」
「複線区間はいつからだ」
「あと、十五キロってところか!」
「そこまで持ち堪えろ。それから——」
ジューコフは一呼吸置いた。
「その機関車で、ドリフトはできるか」
伝声管の向こうで、長い沈黙があった。蒸気の音と、遠くの銃声だけが聞こえる。
それから、オルロフ爺の声がした。それは笑い声に近かった。
「できるか、じゃねえ。やるか、だ。やるに決まってる」
「頼む」
「元帥。一つだけ聞かせろ」
「何だ」
「今回の無茶は何度目だ?」
「三度目だ。最初は線路のない地面の上を走った。次は工廠でゾンビに囲まれたまま三日間耐えた。今回は幽霊に体当たりする」
「……進歩してるのか、これ」
「している。前に進んでいる」
「前にだけはな。わかった。やってやる。だがな元帥——」
オルロフ爺の声が、ふと柔らかくなった。
「作戦が終わったら、いいウォッカを奢れ」
「承知した」
ジューコフは微かに口元を歪めた。それは笑みだった。極限状態で、それでも部下が冗談を言える。それがこの部隊の最大の強みだった。
◇ ◇ ◇
歩兵車両では、グロモフが額の血を拭いながら戦況を確認していた。
「被害状況!」
「重軽傷者四名! 死者はゼロ! でも——」
キリレンコが叫び返す。彼のサーベルは血に濡れていた。幽霊の血なのか、自分の血なのか。おそらく自分の血だろう。左腕の包帯が、いつの間にか真っ赤に染まっている。
「弾薬の消耗が激しいです! 半分以上がすり抜けて無駄になってる!」
「無駄じゃない! すり抜けた弾も、あいつらに『こっちはまだ戦ってる』と教えてる!」
「それ、戦術的に意味あります!?」
「士気の問題だ!」
「士気のためにはなりませんけどね!」
二人の怒鳴り合いを聞いて、周囲の兵士たちが小さく笑った。笑いながら、彼らは撃ち続けた。それがグロモフ隊の戦い方だった。笑えるうちは、まだ負けていない。
◇ ◇ ◇
貨車の隅では、クラスノフ博士がノートに必死にペンを走らせていた。
「素晴らしい! 弾丸の貫通率が約四十三パーセント! 先ほどのヴェーバー中尉の情報と一致する! そして、カチューシャの観察通り、敵の攻撃時には貫通率がほぼ百パーセントに跳ね上がる! つまり攻撃行動が実体化のトリガーになっている!」
彼は壊れかけた眼鏡を押し上げながら、ノートの端に走り書きした。
「仮説、幽霊列車の実体化は『他者への物理的干渉意志』と連動している。銃を撃つ、体当たりする、汽笛を鳴らす。つまり『攻撃』が実体化の鍵だ」
「博士! 銃弾が!」
クラスノフは叫び声で我に返った。窓の外から飛び込んできた銃弾が、彼のノートをかすめて壁に突き刺さった。紙が散り、インクが飛び散る。
「ああっ! 私のデータが!」
「データより命を守れ!」
ペトロヴァが彼の襟首を掴んで床に引き倒した。軍医の腕力は、馬を押さえつけるために鍛えられたものだ。
「博士、あなたは重要な頭脳です。死なないでください」
「そ、そうか。私は重要な——」
「ええ。ゾンビのことを一番理解しているのはあなただけです。死んだらデータが取れません。馬もそうですが、死んだら治せない」
「……私を馬と同列に扱わないでほしいのだが」
「哺乳類はみんな同じです。たぶん」
ペトロヴァは笑顔でそう言うと、救急箱を抱えて負傷者の元へ走っていった。
◇ ◇ ◇
給水タンク車両。
神父イヴァンは、巨大な給水タンクの前に立っていた。タンクの中には、イワン二号が走るために必要な水。蒸気機関車の血液とも言うべき水が、数千リットル貯蔵されている。
「……全量を、ですか」
彼は息を呑んだ。これまで彼は、小さな瓶の水を祝福したことはある。洗礼の水、病者のための水。しかし、数千リットルの水を、一度に聖水に変えるなど、前例がなかった。彼の知る限り、教会の歴史にもない。
「できますか」
ヴェーバーが背後から声をかけた。彼はいつの間にか給水車両に来ていた。武器は持っていない。しかし彼の手には、情報将校としての記録用の手帳があった。
「……わかりません。しかし」
イヴァンは十字架を握り直した。
「私の信仰が本物なら、量は関係ないはずです。水一滴でも、水瓶でも、海でも、神の祝福は等しく及ぶ」
「私は信仰のことはわかりません」
ヴェーバーは静かに言った。
「しかし私は、あの列車が止まるのを見たい。あの中に閉じ込められた者たちの中には、私がかつて知っていた者もいるかもしれない」
「あなたの知り合いが、あの中に?」
「情報部時代に、アーネンエルベに潜入させた工作員です。彼は、帰ってきませんでした」
ヴェーバーの声は、驚くほど淡々としていた。しかしその目は、幽霊列車の機関士席の「影」をじっと見つめていた。
「……わかりました」
イヴァンはうなずき、給水タンクの前に立った。両手を広げ、十字架を掲げ、深く息を吸う。
「主よ——」
彼の祈りが始まった。
それは決して大きな声ではなかった。むしろ、銃声と爆発音にかき消されるほど小さな声だった。しかしその言葉には、スターリングラードの廃墟で一度死にかけ、それでも生き延びた男の魂が込められていた。
「この水を清め給え。ここに宿るすべての不浄を祓い、あなたの祝福をもたらし給え。この水が触れるすべての霊を鎮め、安らぎを与え、永遠の眠りへと導き給え——」
タンクの中で、水がかすかに揺れた。
蒸気機関車の振動のせいか。それとも、別の何かか。
イヴァンの額に汗が浮かぶ。祈りは続く。タンク全体を包み込むように、彼は十字架を水中に浸し、ゆっくりと旋回させた。
「——アーメン」
彼が祈りを終えた瞬間。
タンクの水が、一瞬だけ、ほのかに青白く輝いたように見えた。
錯覚かもしれない。しかし確かに、ヴェーバーの目にもそれは見えた。彼は手帳に「給水タンクの水に異常な光沢を確認」と書き込んだ。情報将校としての本能だった。記録せずにはいられなかった。
「……これで」
イヴァンは振り返り、ヴェーバーに微笑んだ。
「準備は整いました。あとは、あの水を浴びせるだけです」
その時、伝声管からジューコフの声が響いた。
「複線区間まであと五キロ。総員、作戦最終段階に移行する」
◇ ◇ ◇
戦闘は、まだ続いていた。しかしその中で、何かが変わり始めていた。
銃声の合間に、カチューシャだけが気づいた変化があった。幽霊列車の動き、わずかだが、変わっている。
「……あれ?」
彼女はスコープ越しに幽霊列車の車体の細部を観察した。装甲の傷が、さっきより再生が遅くなっている。銃座の「影」の動きも、どこかぎこちない。まるで、疲れているかのように。
「幽霊も疲れるんだ。面白いね」
彼女は新しい発見をしたように目を輝かせた。幽霊列車は無尽蔵ではない。学習し、適応し、再生する。しかし限界はある。この事実に、彼女は一人で密かに感動していた。
「じゃあ、もっと疲れさせてあげる」
彼女は次々と標的を撃ち抜いていった。無駄弾は一発もない。すべての弾丸が、幽霊列車の銃座を沈黙させ、装甲を削り、そして不可視の「何か」を消耗させている。
それはまるで、機関車が石炭を燃やし尽くすように。幽霊列車もまた、「燃料」を消費しているのだ。その燃料が何なのかは、今はまだ誰にもわからなかった。しかし確かに、それは減っていた。
イワン二号の前方に、複線区間の入り口が近づいていた。
◇ ◇ ◇
食堂車で、コミッサロフとイヴァンは一時的に持ち場を離れ、壁にもたれて息を整えていた。二人とも煤と硝煙で顔が真っ黒になっている。
「……同志。あんた、給水タンクの水を全部聖水にしたのか」
「ええ。やり遂げました」
「正気か」
「信仰とは得てして正気ではありませんよ。同志も、共産主義という信仰を持っているでしょう」
「あれは信仰じゃない! 科学的——」
「科学的に導き出された結論を、信じている。信じるという点では同じです」
コミッサロフは口を開き、そして閉じた。反論したいのに、言葉が出てこない。彼は深いため息をついた。
「……わかった。今だけは認める。あんたの信仰が、この戦いの鍵になる、と」
「今だけですか」
「今だけだ」
「では、今だけでも十分です」
イヴァンは微笑み、立ち上がった。彼の手には、まだ十字架が握られている。
「さあ、同志。もうひと働きしましょう」
「どこへ」
「放水ノズルの操作です。あの聖水を、幽霊列車に浴びせる。誰かがやらなければなりません」
「……私もか」
「もちろんです。あれだけお互いに議論した仲ではありませんか」
コミッサロフは手帳をポケットにしまい、立ち上がった。
「非科学的な作戦に自ら参加するとは、私も落ちたものだ」
「落ちるのも、また信仰です」
「うるさい!」
二人は肩を並べて、放水ノズルのある車両へと走っていった。
◇ ◇ ◇
機関室。
オルロフ爺は前方の線路を見つめていた。霧の向こうに、複線区間の標識が見え始めている。
「イワン二号。もうすぐだ。準備はいいか」
蒸気がシュウウッと漏れる。彼はそれを返事だと思った。
「ドリフト走行だ。機関車にとっちゃ、一番の汚名だ。レールの上をまっすぐ走るのが機関車の誇りだってのに、横に滑るなんざ、あっちゃならねえ」
彼はアクセルを握り直した。
「だがな。それが仲間を守るためなら、機関車の誇りだって、ちょっとぐらい曲げていい。そうだろ、イワン」
彼は初代イワンのボルトを見た。あの時と同じだ。あの時も、彼は線路の上を走ることすら許されなかった。レールを引きちぎり、枕木を砕きながら、それでも前に進んだ。
「クズネツォフが言ってたよ。『直せないものはありません』って。嘘だ。あいつ自身が直せなかった。でも——」
彼は製造プレートに触れた。そこに刻まれた「走れ」の文字。
「だからよ。俺が走る。お前が走る。それで全部だ」
前方に、複線区間の入り口が見えてきた。線路が一本から二本に分かれる。左手には、幽霊列車がまだ並走している。
「来いよ、幽霊。線路の上で勝負だ」
オルロフ爺は、狼のように笑った。
◇ ◇ ◇
指揮車両。
ジューコフは全車両に通達を入れた。
「総員。これより作戦を開始する」
全乗組員が、伝声管に耳を傾けた。
「第一段階。複線区間進入と同時に、カチューシャが切り替えポイントを狙撃。イワン二号を幽霊列車と同じ線路に乗り入れさせる」
「第二段階。放水ノズルから聖水を散布。幽霊列車の実体化を確定させる」
「第三段階——」
ジューコフは一呼吸置いた。
「イワン二号をドリフト走行させ、幽霊列車に側面から体当たり。脱線させる」
「以上だ」
誰もが息を呑んだ。しかし、誰も異論を唱えなかった。全員が理解していた。これが唯一の勝ち筋だと。そしてこの列車は、これまでずっと「唯一の勝ち筋」だけで走ってきた。
ジューコフは窓の外を見た。並走する幽霊列車の黒い蒸気が、冬の空に不気味な尾を引いている。
「——やるぞ」
それが、彼の最後の言葉だった。




