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第9話:死者の汽笛

雪が、止んでいた。


十一月の終わり、ベラルーシ国境を越えたあたりから、天候は奇妙なほど安定していた。鉛色の雲は低く垂れ込めたまま動かず、風は息を潜め、気温は零下十度で張り付いている。まるで世界全体が、次の何かを待ち構えているかのような静けさだった。


イワン二号は、その静けさの中をひた走っていた。


車輪はドイツ式標準軌のレールを確実に掴み、ピストンは規則正しいリズムを刻み、蒸気は白く凍りながら後方へと流れていく。スモレンスクでの三日間の籠城戦とクズネツォフの死から、すでに丸一日。列車の傷はまだ生々しく、装甲にはへこみが残り、客車の窓ガラスは数枚が割れたままだった。しかしイワン二号は、まるで何事もなかったかのように走り続けていた。


そう。列車は走る。それが列車の仕事だから。


そして乗組員たちもまた、仕事を続けていた。


◇ ◇ ◇


最後尾の貨車。見張り台に、二人の兵士が座っていた。


アントンは二十二歳。モスクワ出身の補充兵で、もともとはグロモフ大尉の歩兵部隊に配属されたばかりの新参者だった。丸顔でそばかすが多く、まだあどけなさの残る顔立ち。彼はこの列車に乗るまで、実戦経験がほとんどなかった。スターリングラードにもモスクワ防衛戦にも間に合わなかった、いわば「遅れてきた世代」の兵士だ。そのせいか、彼は怖がりなくせに妙におしゃべりで、沈黙に耐えられない質だった。


ボリスは二十八歳。スターリングラードの廃墟を生き延びた古参兵で、グロモフの部隊の中でも特に無口な男だった。細面で頬がこけ、目はいつも半分閉じているように細い。彼は必要最低限のことしか喋らず、感情を表に出さない。しかし彼が隣にいるだけで、不思議と周囲の兵士たちは落ち着くのだった。彼がまだ生きているという事実そのものが、一種のお守りだった。


見張り任務は退屈だった。線路の後方を監視し、もしゾンビの群れが追いかけてきたら警報を鳴らす。それが彼らの仕事だったが、今日に限ってゾンビの姿は一匹もなかった。あまりに静かすぎる。それが逆に、ボリスの神経を逆撫でしていた。


「なあ、ボリス」


アントンが寒さで震えながら口を開いた。彼は黙っていられなかった。沈黙が怖かった。沈黙の中では、スモレンスクでの戦闘が、ドミトリーの死が、クズネツォフの最後の瞬間が、嫌でも頭に浮かんでくるからだ。


「幽霊列車の噂、聞いたか?」


ボリスは答えなかった。いつものことだった。アントンは気にせず続ける。


「食堂車でクラスノフ博士が言ってたんだよ。ドイツ軍の秘密兵器で、戦死者の魂を鋼鉄に閉じ込めた列車が、東部戦線を彷徨ってるって。あの博士、本気で信じてるみたいでさ」


「……」


「でもよ、ゾンビがいるんだぜ? だったら幽霊列車がいてもおかしくないと思わないか? 俺はまあ、半分は信じてる。半分は嘘だと思う。でも半分信じてるってことは、つまり——」


「寝言は寝て言え」


ボリスが初めて口を開いた。その声は、驚くほど低く、よく通った。


「幽霊なんているわけないだろ。あれは、戦争が生んだ噂話だ。死んだ仲間を忘れたくない奴らが、勝手に作り上げた話さ」


「でも博士は——」


「博士は学者だ。学者はなんでも信じる。それが仕事だからな」


アントンは少しむくれたような顔をしたが、反論はしなかった。彼はボリスの言葉を、心のどこかで信じたかったのだ。幽霊列車なんていない。ゾンビだけで十分だ。これ以上、理解できないものに出会いたくない。


「そうだよな。幽霊なんて——」


アントンが言いかけた時だった。


ボリスの手が、突然彼の腕を掴んだ。


「……黙れ」


「え?」


「静かにしろ」


ボリスの声は、さっきとはまったく違っていた。そこには、スターリングラードで培われた戦場の本能が滲んでいた。彼は何かを感じ取っていた。まだ目に見えない何か。しかし確かに「そこにある」ものを。


「……見ろ」


ボリスが指さした方向、線路の後方。雪原の地平線に、奇妙なものが見えた。


霧だ。


白い霧が、まるで意思を持っているかのように、列車を追いかけてきていた。風はない。なのに霧は、這うように、生き物のように、線路の上を滑走しながら近づいてくる。


「霧なんて珍しくないだろ。この季節だし——」


「速度が違う」


ボリスは立ち上がった。彼の手はすでに小銃の銃把を握っている。


「この列車は時速六十キロで走っている。霧が風もなしに時速六十キロで移動するか?」


アントンは言葉を失った。彼も立ち上がり、震える手で双眼鏡を手に取った。レンズを覗くと、霧の全体像がよりはっきりと見えた。


それはただの霧ではなかった。


霧の中に、もっと濃い「何か」があった。黒い煙。蒸気機関車が出す煙に似ているが、色が違う。墨を溶かしたような黒。それが霧の中に筋を引きながら、列車と同じ速度で、列車と同じ方向に、移動している。


「……なあ、ボリス」


アントンの声は掠れていた。


「ここ、単線だよな。線路、一本しかないよな」


「ああ」


「じゃあ、なんで……別の列車の煙が見えるんだ」


その瞬間だった。


彼らの足元から、振動が伝わってきた。しかしそれは、イワン二号の走行振動ではなかった。もっと不規則で、もっと重い、別のリズム。まるで、二つの列車が同じ線路の上を並走しているかのような。


物理的にありえないはずの振動が、確かに彼らの身体を震わせていた。


「警報を」


ボリスの声は、冷たく、しかし震えていなかった。


「アントン、警報を鳴らせ。今すぐだ」


アントンは弾かれたように警報装置に駆け寄り、レバーを引いた。列車全体に響き渡る鐘の音が、冬の静寂を切り裂いた。


そして彼らは、見てしまった。


霧の中から、それが現れた。


最初に見えたのは、煙突だった。黒い蒸気を吐き出す、巨大な煙突。次に、機関車の前面装甲、無数の弾痕で穴だらけになり、ところどころが熔接で補修された跡が生々しい。そして、運転席の窓。


そこに、何かが座っていた。


人間の形をしていた。しかし、人間ではなかった。半透明の影のような存在が、操縦桿を握り、前方を見つめている。それは「生きて」いた。いや、すでに死んでいるが、動いていた。どちらが正しいのか、アントンには判断できなかった。ただ一つ確かなことは、その「影」は、確かに彼らの方を「見て」いた。


そして、幽霊列車は汽笛を鳴らした。


その音は、アントンがこれまで聞いたどんな汽笛とも違っていた。高く、長く、そして無数の声が重なっているように聞こえた。男の叫び、女の悲鳴、子供の泣き声。それらが一つに溶け合った、この世のものとは思えない不協和音。


「……ボリス」


アントンの小銃を持つ手が震えていた。歯がかちかちと鳴り、膝が笑っている。彼は怖かった。これまでに感じたことのない種類の恐怖。ゾンビに対する恐怖とも、戦闘の恐怖とも違う。理解を超えたものに対する、本能的で、原始的な恐怖。


ボリスは無言で小銃を構えた。彼の顔からは表情が消えていたが、指だけは驚くほど落ち着いていた。


「……俺はな、スターリングラードで思ったんだ。人間ってのは、怖いものがあると、それを『幽霊』って呼びたがる。そうすれば、理解できなくても納得できるからな」


「それって——」


「だがな、アントン」


ボリスは弾倉を叩き込み、撃鉄を起こした。


「名前がなんであれ、倒せるものなら倒せる。俺はそう信じてる」


霧の中で、幽霊列車の全貌が姿を現した。


全長約百五十メートル。六両編成。装甲は重厚で、至るところに増加装甲が溶接され、銃座が無数に設置されている。車体全体が半透明に揺らめき、時折向こう側の雪原が透けて見えた。しかし完全に透明になることはなく、そこに確かな「質量」が存在することが、見る者に本能的な恐怖を叩き込んだ。


銃座には「影」が座っていた。それぞれが異なる軍服、ドイツ国防軍、親衛隊、あるいはそれ以外の、もはや判別不能な制服を着た影たちが、無言で前方を見つめている。彼らは死んでいた。しかし動いていた。死してなお、この列車に縛り付けられているかのように。


最も恐ろしいのは、機関士席の「影」だった。それは他の影よりも濃く、形がはっきりとしていた。帽子を深く被り、操縦桿を握るその姿は、まるでオルロフ爺の鏡像のようだった。列車を愛し、列車と共に生き、そして列車と共に死んだ者の成れの果て。


幽霊装甲列車「ゲシュペンストツーク」。ドイツ語で「幽霊列車」を意味する名を持つそれは、東部戦線の死者たちを乗せて、今日も走り続けている。


「——総員、戦闘配置!」


伝声管からジューコフの怒号が響き渡った。警報を受けての即断だった。


アントンはまだ震えていた。しかし彼の手は、小銃を握りしめていた。ボリスはすでに照準を覗き、いつでも撃てる体勢に入っている。


「アントン」


「……なんだよ」


「生きてるうちに言っておく。お前の噂話、半分は信じてた」


「——は?」


「残り半分は、今信じることにする」


ボリスの口元が、ほんの一瞬だけ歪んだ。それが彼の精一杯のジョークであり、そして「共に戦おう」という意思表示だった。


アントンは、震えながらも笑った。


「……お前、そんな顔で笑うんだな。初めて見た」


「余計なお世話だ」


そして二人は、銃を構えた。


霧の中で、幽霊列車の銃座が一斉に動き始める。無数の「影」が、彼らの方を向く。無数の銃口が、イワン二号に照準を合わせる。


戦闘が、始まろうとしていた。


◇ ◇ ◇


機関室で、オルロフ爺は異変を誰よりも早く感じ取っていた。


「イワン二号。落ち着け。大丈夫だ」


彼は操縦桿を握る手に力を込めた。機関車の振動が、さっきからおかしい。彼は四十数年の経験で、線路の上を走るすべての振動を知っている。しかし今、床から伝わってくる振動の中に「知らない振動」が混ざっていた。


それは別の列車の振動だった。間違いない。この線路の上を、もう一つの列車が走っている。


「おかしい。線路は一本のはずだぞ」


彼は窓から首を出し、後方を見た。霧が迫っている。その中に、機関車の煙突が見えた。


そして彼は、その列車の「顔」を見た。


「……なんだ、ありゃ」


オルロフ爺の声は、恐怖ではなく、畏怖に近かった。別の機関車。ドイツ製だ。彼にはわかった。四十年機関士をやっていれば、世界中の機関車のシルエットが判別できる。その機関車は、ありえないほど改造され、ありえないほど傷つき、ありえないほど「生きて」いた。


「幽霊列車ってのは……本当だったのか」


彼のポケットの中で、初代イワンのボルトとクズネツォフの製造プレートが、チャリ、と小さく鳴った。まるで「気をつけろ」と警告するかのように。


オルロフ爺は片手でウォッカ瓶を掴み、蓋を歯で開けて一口含んだ。アルコールの熱が喉を焼き、腹に落ちていく。


「……いいだろう。幽霊だろうが化け物だろうが、走ってる限りは列車だ。だったら——」


彼はアクセルを押し込んだ。


「機関士としては、負けられねえ」


◇ ◇ ◇


指揮車両では、ジューコフがすでに双眼鏡を構えていた。彼は霧の中から現れた幽霊列車を、微動だにせず観察している。


「……コズロフ」


「はい」


「あれは何だ」


「わかりません。しかしクラスノフ博士が以前から警告していた——」


「トーテンロコモーティフか」


ジューコフは双眼鏡を下ろした。その顔には、不思議なほど動揺がなかった。


「元帥。驚かれないんですか」


「驚いている時間がない。あれが何であれ、我々の前を塞ぐなら——」


「障害物です」


「そうだ。障害物だ。吹き飛ばせば終わる」


コズロフはため息をついた。今度のため息は、呆れよりも感心に近かった。この元帥の前では、幽霊もゾンビも「障害物」の一言で片付けられてしまう。


「全車両に通達。これより、幽霊列車と交戦する」


ジューコフの声が伝声管を通じて全車両に響いた。


「敵の正体は不明。だが恐れるな。走り、撃ち、そして前に進む。それだけだ」


その「それだけだ」が、どれほどの無茶を含んでいるか、乗組員たちはすでに十分すぎるほど理解していた。しかし不思議なことに、ジューコフの声を聞くと、無茶が無茶に思えなくなる。それがこの男の、指揮官としての最大の才能だった。


「全砲門、射撃準備!」


グロモフの怒号が客車に響く。歩兵たちが銃眼に殺到し、DT機関銃の銃手がグリップを握り直し、屋根の上ではカチューシャが対戦車ライフルを抱えて配置についた。


「——来いよ、幽霊野郎」


誰かが呟いた。それがアントンだったのか、ボリスだったのか、あるいは別の誰かだったのか。もはや誰にもわからなかった。ただ全員が、同じことを考えていた。


幽霊だろうがなんだろうが、自分たちはすでに死者の群れを突破してきた。線路のない大地を走り、工廠に三日間立て籠もり、仲間を失いながらも前に進んできた。


だから、怖くない、わけではなかった。怖かった。しかし彼らは、怖さと戦う方法を知っていた。


撃つことだ。


銃声が、冬の平原に轟いた。


戦いの火蓋が、切って落とされた。


◇ ◇ ◇


食堂車の隅で、ヴェーバーは壁に手を当てて立ち上がっていた。彼は伝声管から聞こえるジューコフの声を聞き、窓の外の幽霊列車を見つめ、そして静かに呟いた。


「……ついに来たか」


彼は知っていた。幽霊列車がいつか現れることを。そして彼は、一つの決断をした。情報将校としてではなく、今この列車に乗る者として、彼は戦うことを選んだ。武器は与えられていない。しかし彼は、ある意味で最も危険な武器を持っていた。知識だ。


「同志元帥」


ヴェーバーは伝声管のスイッチを入れた。


「何だ」


「幽霊列車について、まだ話していない情報があります」


「話せ」


「あの列車は——」


そして彼が語った情報が、この戦いの行方を決めることになる。


まだ誰も知らなかった。

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