第8話:託された意志と共に
スモレンスクの廃墟が地平線の彼方に消える頃、雪が降り始めた。
十一月の終わり、ベラルーシ国境が近い。ロシアの冬は容赦がない。それが今だけは、彼らに味方していた。ゾンビは寒さで動きが鈍り、線路上に現れる数も減っている。自然が与えた、つかの間の猶予。しかし誰もが知っていた。この静けさは長くは続かない。
客車の中は、重い沈黙に包まれていた。
乗組員たちは、それぞれのやり方でクズネツォフの死と向き合っていた。誰もが何かを失い、誰もが何かを託された。その重さが、列車全体に沈殿している。
しかし列車は止まらない。前に進む。それが、死者たちが生者に遺した唯一の命令だった。
◇ ◇ ◇
機関室で、オルロフ爺は黙々と計器をチェックしていた。
彼のポケットには三つのものが入っている。初代イワンのボルト。クズネツォフが最期に投げた製造プレート。そしてウォッカの小瓶。それらが時折触れ合って、チャリ、と小さな音を立てた。
「……機関士どの」
背後から声がした。振り返ると、グロモフが立っていた。彼の軍服は煤と血で汚れ、顔には疲労の色が濃い。しかしその目は、まだ戦う者の目だった。
「大尉か。どうした」
「クズネツォフ中尉のことです」
オルロフ爺は計器から手を離さなかった。
「……ああ」
「彼は、最後に何を」
「これだ」
オルロフ爺はポケットから製造プレートを取り出し、グロモフに手渡した。冷たい金属。ドイツ語の刻印。そして、その下に手彫りで刻まれた「走れ」の文字。
「……あいつらしいな」
グロモフはプレートをじっと見つめた。それから、そっと機関室の棚の上に置いた。
「俺からも、礼を言わせてほしい。彼は歩兵じゃないのに、最期は歩兵のように戦った」
「あいつは工兵だった。最後までな。列車が走るために必要なことを、全部やって、それで」
オルロフ爺は言葉を切り、しばらく沈黙した。蒸気の音だけが、機関室に満ちている。
「……大尉。あんた、部下を亡くしたな」
「ああ。若い兵士だ。ドミトリー。二十歳だった」
「そうか」
オルロフ爺はウォッカ瓶を取り出し、蓋を開けた。一口飲んでから、グロモフに差し出す。
「飲め」
「勤務中だ」
「俺はいつでも勤務中だ。飲め」
グロモフは少し迷ってから、瓶を受け取り、一口だけ含んだ。ウォッカが喉を焼く。しかしその熱が、不思議と心の冷えを和らげた。
「……機関士どの。俺は指揮官として、部下に死なれるたびに思うんだ。俺の判断が間違っていたんじゃないか、と」
「間違ってるさ」
「……即答か」
「戦争で、間違わない判断なんてあるものか。間違うに決まってる。問題は——」
オルロフ爺は瓶を取り戻し、もう一口飲んだ。
「間違った後に、それでも前に進めるかどうかだ」
「前に進む、か」
「そうだ。あの元帥を見ろ。間違いだらけの人生だろうよ。だが前に進み続けてる。その結果が、この無茶苦茶な列車の旅だ」
グロモフは声を出さずに笑った。
「……違いない」
「だからよ、大尉。お前も前に進め。死んだ部下のぶんもな。それが指揮官ってもんだろう」
「あんたは」
グロモフはオルロフ爺の顔を見た。
「あんたは、誰のぶんを背負ってるんだ」
オルロフ爺は答えなかった。ただ、初代イワンのボルトを握りしめ、計器を見つめていた。その横顔を見て、グロモフはそれ以上尋ねなかった。
「……機関士どの。一つだけ、ジョークを言っていいか」
「なんだ」
「滑るかもしれない」
「だろうな」
「『蒸気機関車は——止まることを知らない』」
沈黙。
「……それ、ジョークなのか?」
「いや。ただの事実だ」
二人は顔を見合わせ、それから同時に小さく笑った。それは戦場で流す涙とは違う、乾いた、しかし確かに温かい笑いだった。
◇ ◇ ◇
食堂車では、コミッサロフが一人、手帳と格闘していた。
彼の手帳には、これまでの戦闘記録がびっしりと書き込まれている。ゾンビの数、消費した弾薬、負傷者の名前。そして、戦死者の名前。
「ドミトリー・セルゲーエヴィチ・ヴォルコフ。二十歳。歩兵。スモレンスク工廠にて戦死」
彼はその行を何度も読み返した。二十歳。自分が入党したのも、ちょうどそのくらいの歳だった。理想に燃え、党の規律こそが世界を正しく導くと信じていた。しかし今、彼は二十歳の兵士の死を「報告書の一行」に変換しようとしている。
「……馬鹿げている」
彼はペンを置いた。
「報告書は誰が読むんだ。この任務は存在しないんだぞ。誰にも読まれない報告書を、誰のために書いているんだ、私は」
「あなた自身のためですよ、同志」
背後から声がした。また神父イヴァンだ。コミッサロフは振り返らなかった。もう驚かなかった。
「……私自身のため?」
「ええ。誰にも読まれなくても、書くことで心が整理される。祈りと同じです」
「祈りと同じなどと——」
「そうですよ」
イヴァンはコミッサロフの向かいに座った。いつものように穏やかな笑みを浮かべている。
「あなたが手帳に書いていることは、立派な鎮魂です。死んだ者たちが、確かに存在したという記録。それは唯物論的にも、価値のあることでしょう」
コミッサロフは何も言えなかった。ただ、手帳のページをめくる。そこには、クズネツォフについての記述があった。
「……クズネツォフ中尉。彼は最期に何を思ったんだろうな」
「さあ。でも、列車を守った。それだけで十分でしょう」
「十分、か」
コミッサロフは手帳に新しい一行を書き加えた。
「『クズネツォフ中尉、自己犠牲により列車と乗組員を守る。彼の行動は、ソ連邦の英雄にふさわしい』」
そして彼は顔を上げ、イヴァンに言った。
「……これは祈りではない」
「ええ」
「死者への敬意だ。それも唯物論的に許容される」
「もちろんですとも」
イヴァンは立ち上がり、食堂車を去ろうとした。その背中に、コミッサロフが声をかける。
「待て。一つだけ聞きたい」
「なんでしょう」
「あんたはいつも、なぜそんなに落ち着いているんだ。死がすぐそこにあるのに」
イヴァンは振り返り、少し考えてから答えた。
「私はね、同志。もうとっくに死んでいるんです」
「……なに?」
「スターリングラードで、一度死にました。廃墟の地下で、爆撃に巻き込まれて。でも私は生き延びた。なぜ生き延びたのか、ずっと考えていました。そして気づいたんです。『まだやることがある』と」
彼は胸の十字架に手を当てた。
「だから私は、死ぬことを怖がっていないのではなく、生き延びた時間を無駄にしたくない。それだけです」
コミッサロフはしばらく黙っていた。それから、手帳にまた何かを書き込んだ。今度は、何を書いたか誰にも見せなかった。
「……理解できん。まったく理解できんが」
「それでいいんです」
イヴァンは微笑んで、去っていった。
◇ ◇ ◇
貨車の一角。ヴェーバーは、壁にもたれて座っていた。
彼はまだ、ここでの自分の立場を理解しきれていなかった。捕虜なのか、客なのか、情報提供者なのか。誰も明確には言わない。だから彼は、ただ静かにしていた。それが今の自分にできる唯一のことだった。
「ドイツ人」
声がした。顔を上げると、若い兵士が立っている。ソ連の軍服。まだ二十歳そこそこに見える。しかしその目は、すでに何度も戦場を見てきた古参兵のそれだった。
「……何か」
「これ、やる」
兵士が差し出したのは、黒パンの一片だった。固く、少しカビの匂いがする。しかしヴェーバーは、それがこの状況でどれほど貴重なものかを知っていた。
「なぜ」
「あんた、毛布をもらっただけだろ。元帥がそうしろって言ったから、みんなあんたに何もやってない。でも——」
兵士はパンをヴェーバーの手に押し付けた。
「クズネツォフ中尉が死んだ。あの人、いつも『ドイツの技術は悪くない』って言ってた。敵でも、いいものはいいって。だから、これはその借りだ。それだけだ」
「……名前は」
「言わない。あんたに名前を教えたら、あとで面倒なことになる」
兵士はそう言って、足早に去っていった。
ヴェーバーは手の中の黒パンを見つめた。固い。冷たい。しかし彼はそれを、ゆっくりと口に入れた。カビの味がした。それでも彼は、全部食べた。食べながら、彼は自分が何を感じているのか、うまく言葉にできなかった。ただ、喉の奥が熱くなったことだけは、確かだった。
◇ ◇ ◇
指揮車両。ジューコフは地図を広げ、次の停車駅を確認していた。ミンスク。約三百キロ先。順調に行けば、丸一日で到達できる距離だ。しかし「順調に行く」ことが、この旅で一度でもあっただろうか。
「コズロフ」
「はい」
「クズネツォフの後任は誰に任せる」
コズロフは少し考えてから答えた。
「正式な後任は決められません。彼の代わりはいません。しかし——」
彼は機関室の方を指さした。
「実務はオルロフ爺が引き継ぐでしょう。彼は機関士ですが、機関車の整備も一人でできます。それに鹵獲列車の細かい仕様を把握しているのは、もうあの人だけです」
「客車の修繕は」
「工兵隊の生き残りが数名。クズネツォフの下で働いていた者たちです。彼らがなんとか」
「……そうか」
ジューコフは地図から顔を上げ、窓の外を見た。雪が降り続いている。線路は白く覆われ始めていた。
「次の問題はミンスクだ。クラスノフとヴェーバーの両方が警告している。ミンスク周辺には——」
「幽霊列車、ですか」
「幽霊列車だ」
ジューコフは腕を組んだ。
「幽霊などという非科学的なものは信じない。と、言いたいところだが、ゾンビが現実に存在する今、何が起きても不思議ではない」
「対策は」
「対策、ではない」
ジューコフの目が光った。
「倒し方を考える。幽霊だろうがなんだろうが、この線路の上では、すべて障害物だ。吹き飛ばせば終わる」
「……吹き飛ばせるものなら」
「吹き飛ばす。幽霊とやらが物理的実体を持つなら破壊できる。持たないなら——」
「持たないなら?」
「その時は、持たせてから破壊する」
コズロフはため息をついた。しかし今度のため息には、どこか呆れではなく期待が混ざっていた。この元帥なら、本当に幽霊を吹き飛ばしかねない。そう思えることが、この旅の最大の武器だった。
◇ ◇ ◇
列車の屋根の上は、雪で覆われ始めていた。
だがカチューシャは、まだそこにいた。彼女はスコープを覗きながら、前方に広がる白い平原を監視していた。防寒着は着ているが、それでも寒さは骨身に染みる。彼女の指は凍え、吐く息は白く凍った。
「……寒いなあ」
彼女は呟いた。しかし笑顔は消えない。
「でも、ゾンビも寒いよね。動きが遅くなるから、狙いやすい。いいことだ」
彼女はスコープの中に、遠くの線路脇でよろめくゾンビを一匹見つけた。距離は約八百メートル。風は左から右へ、秒速五メートルといったところか。彼女は自然に指が計算を始めるのを感じた。風偏、弾道落下、目標の移動速度、それらが頭の中で一つの点に収束する。
引き金を引く。
銃声。ゾンビの頭が弾け、身体が雪の上に崩れ落ちた。
「三十八人目」
彼女はスコープから目を離さずに言った。
「クズネツォフ。あなたのぶんも、ちゃんと数えてるからね」
◇ ◇ ◇
日が傾き、ベラルーシの平原が夕陽に染まり始めた頃。
機関室で、オルロフ爺は一通の儀式を行っていた。
彼は初代イワンのボルトと、イワン二号の製造プレートを、機関車の計器盤の上に並べた。そしてウォッカの瓶を手に取り、ほんの少しだけ機関室の床に垂らす。それは彼なりの献酒だった。機関車に注ぐ酒、鉄道員の間では、新しい機関車の安全を祈る古い習慣だった。ソ連時代には「迷信」として禁止されたが、オルロフ爺はそんな規則を気にしたことがない。
「イワン。初代。よく走った。お前は一番の機関車だった」
彼はボルトを指でなぞった。
「クズネツォフ。お前は一番の工兵だった。馬鹿で、頑固で、最後まで人に迷惑をかけないように死にやがった。礼を言う機会を、くれてやれなかったのが心残りだ」
彼はウォッカをもう一口。
「イワン二号」
彼は操縦桿を握り直した。
「お前はまだ新しい。走り始めたばかりだ。だが、いい機関車になれる。初代の魂と、クズネツォフの魂が、お前の中にいる。だから——」
彼はアクセルを押し込んだ。蒸気が唸り、車輪が加速する。
「だから、走れ。前に進め。それがお前に託された、たった一つの仕事だ」
◇ ◇ ◇
食堂車。その夜、ジューコフは久しぶりにアコーディオンを手に取った。
乗組員たちは、最初は遠巻きにしていた。元帥がアコーディオンを弾くところなど、見たことがなかったからだ。しかし彼が奏で始めた旋律、ロシア民謡「ステップ、果てしなく」が車内に流れ始めると、一人、また一人と集まってきた。
ジューコフの指は、戦場で指揮を執る時と同じくらい確かだった。しかし音は、戦場の怒号とはまったく違っていた。静かで、深く、そしてどこか悲しかった。それは死者への鎮魂であり、同時に、生きている者たちへの励ましでもあった。
グロモフが目を閉じて聞き入っている。キリレンコは膝の上のサーベルを見つめている。ペトロヴァは医療バッグを抱えたまま、壁にもたれている。コミッサロフは手帳を閉じ、神父イヴァンは十字架を握り、クラスノフ博士でさえペンを置いた。ヴェーバーは客車の隅で、ただ音に耳を傾けている。
そしてオルロフ爺だけは機関室に残り、伝声管を通してかすかに漏れてくるアコーディオンの音を聞きながら、一人でウォッカを飲んでいた。
◇ ◇ ◇
演奏が終わった時、誰も拍手をしなかった。
しかし誰もが、何かを感じていた。それが何なのか、言葉にできる者はいなかった。ただ、共有された沈黙が、食堂車を温かく包んでいた。
ジューコフはアコーディオンを置き、立ち上がった。そしてただ一言だけ言った。
「泣くのは後にしろ。前に進め」
彼は振り返らず、指揮車両に戻っていった。
しかし彼が去った後、食堂車には奇妙な空気が残っていた。悲しみと決意が、同じ空間で溶け合っているような空気。誰かが小さく笑い、誰かが目を拭い、そして誰かが「よし、見張りに戻る」と言って立ち上がった。
それが、彼らの別れの儀式だった。クズネツォフに。ドミトリーに。イワンに。これまで失ってきたすべてのものに。そして、これから失うであろうすべてのものに。
列車は止まらない。前に進む。
涙は後に残し、意志は前に進む。
それでいい。それこそが、この列車の乗組員としての在り方だった。
◇ ◇ ◇
深夜。機関室にはオルロフ爺が一人だけだった。
彼は窓の外を見つめながら、ウォッカ瓶をそっと傾けた。前方には闇。後方にも闇。列車は闇と闇の間を走っている。
「……なあ、イワン二号」
彼は計器盤に話しかけた。
「前に進むってことはな、二度と戻れないってことだ。後ろに残してきたものは、もう拾えない。死んだ仲間も。壊れた列車も。昔の自分も」
彼は息を吐いた。白く凍る。
「でもな、それでいいんだ。前に進めば、前に何かがある。たぶんな」
彼は初代イワンのボルトを指でつまみ上げ、そっと計器盤の上で転がした。
「クズネツォフが言ってたよ。『直せないものはない』って。嘘だ。あいつ自身が、直せなかった。でも——」
ボルトが、かたん、と音を立てて止まった。
「だからこそ、残った俺たちが走るんだ。あいつが直した列車で。あいつが守った列車で」
彼は顔を上げ、前方の闇を見据えた。
「ミンスクか。次は何が待ってるんだろうな」
彼は小さく笑い、ウォッカ瓶を傾けた。
イワン二号の車輪は、今夜も止まらない。
◇ ◇ ◇
夜が明ける。
ベラルーシの平原に朝日が昇り、雪に覆われた大地が金色に輝き始めた。オルロフ爺は一睡もせずに機関室に座っていたが、不思議と疲れは感じなかった。むしろ、これまでにないほど清醒だった。
伝声管から、ジューコフの声が響く。
「機関室。前方の状況は」
「異常なしだ、元帥。誰もいねえ。死体も、ゾンビも。ただの雪原だ」
「結構。現在地は」
「ミンスクまで、あと二百キロってところか」
「了解。速度を維持しろ」
「言われなくても」
オルロフ爺は操縦桿を握り直した。その手には、もはや迷いはなかった。
イワン二号は加速する。前方には、まだ見ぬミンスク。そしてその先には、幽霊列車。彼らはまだ知らない。自分たちが何と遭遇するのかを。しかし知っていたとしても、おそらく同じだった。
進む。ただ、進む。
それが彼らの答えだった。




