第7話:スモレンスク工廠籠城戦(三日目)
明け方。工廠の中で、クズネツォフはついに最後の溶接を終えた。
「……できた」
彼の声には、達成感も疲労感もなく、ただ「事実」だけがあった。
「全部だ。客車五両、全車両に銃眼増設と装甲補強を完了。対空機銃架台も設置済み。機関部——」
オルロフ爺が彼の言葉を引き継いだ。
「機関部は問題ない。バルブを三つ交換して、蒸気管を一部ソ連式に改造した。ドイツ式よりこっちのほうが頑丈だ。ドイツ人には悪いがな」
「……走れますか」
「走るに決まってる」
オルロフ爺は操縦席に座り、計器を見渡した。彼はまだ、この機関車に名前をつけていなかった。しかし彼の手つきは、すでに初代イワンに向けるのと同じ優しさを帯びていた。
「クズネツォフ」
「何でしょう」
「お前のおかげだ。礼を言う」
クズネツォフは少しだけ間を置いて、短くうなずいた。それが彼の精一杯の返事だった。
◇ ◇ ◇
その時だった。
工廠の外で、大爆発が起こった。次いで、叫び声と銃声。
「来たぞ! 本隊だ! 今までの比じゃない!」
見張りの叫びが工場内に木霊した。クラスノフが屋根から這い降りて叫ぶ。
「周期が、周期が完全に崩れた! 電波強度が異常上昇している! これは——」
彼は息を呑んだ。
「総攻撃だ! 発信源が何かを察知したのかもしれない! 今までで最大の波が来る!」
ジューコフは伝声管の代わりに、直接大声で命じた。
「総員、戦闘配置! 列車の改造は終わったか!」
「終わりました!」クズネツォフの返事。
「よし! 全員、列車に乗り込め! オルロフ爺、機関を!」
「まだ機関の準備が——」
「時間がない! 走りながら暖めろ!」
「……無茶だ!」
「今さら何を言う!」
オルロフ爺は怒鳴り返そうとして、しかし笑った。まったくその通りだった。今さら何を言う。
「わかった! 三分待て! 三分で蒸気を上げる!」
「二だ!」
「ふざけんな! 二分半!」
「それで良い!二分半でやれ」
オルロフ爺はウォッカ瓶を一気にあおり、操縦桿を握った。
「イワン二号! 初仕事だ!」
その名前が、初めて口にされた。鹵獲列車の機関車は、もはや「ドイツ製の鉄クズ」ではなかった。イワン二号。初代の魂を受け継ぎ、しかし新しい名前を持って、これから走り出す。
◇ ◇ ◇
工廠の入り口で、バリケードがついに突破された。
ゾンビがなだれ込んでくる。数百。数千。数えるのはもはや無意味だった。
「全員、列車へ! 走れ!」
グロモフは最後尾でPPShを掃射しながら撤退を指示した。キリレンコは負傷した兵士を肩に担ぎ、ペトロヴァは医療バッグを抱えて走る。神父イヴァンは走りながら祈り、カチューシャは屋根から飛び降りながらゾンビの頭を二つ撃ち抜き、着地した。
全員が列車に殺到した。
しかし、クズネツォフは、まだ列車の外にいた。
「クズネツォフ! 何をしている! 早く乗れ!」
オルロフ爺が叫んだ。しかしクズネツォフは、列車の最後尾で、連結器の最終確認をしていた。彼の性格からして、列車が走り出す前に安全確認を終えないわけがなかった。
「……あと、一箇所だけ」
彼は車両の下に潜り込み、最後のボルトを締めた。手に持ったスパナが、かちり、と音を立てる。
「これで、よし」
顔を上げた時、彼の目の前にゾンビが立っていた。
工廠の壁を破って侵入してきた群れの一部が、列車の周囲に殺到していたのだ。クズネツォフは落ち着いてスパナを握り直した。彼は兵士ではない。武器は工具箱とスパナだけだった。
「……直せました。あとは——」
彼はゾンビの頭にスパナを叩きつけた。鈍い音。ゾンビがよろめく。しかし次のゾンビが、その背後から現れる。
「走るだけです」
クズネツォフはスパナを振るった。彼の戦いは、静かで、しかし確かだった。彼は自分が死ぬことを理解していた。誰よりも早く、誰よりも正確に。そして彼はそれを受け入れていた。工兵とは、そういうものだ。作るために生き、作ったものに守られて死ぬ。彼の作った列車が走り出せば、それで十分だった。
「——クズネツォフ!」
オルロフ爺が運転席から身を乗り出して叫んだ。
「手を伸ばせ! 引っ張り上げる!」
しかしクズネツォフは首を振った。彼の周りにはすでに十体以上のゾンビが群がり始めている。もし彼が手を伸ばせば、ゾンビも一緒に列車に取りつく。彼はそれを誰よりもよく知っていた。車両の安全を確保するために、自分が犠牲になる。それもまた、己の役目だった。
「……オルロフさん」
クズネツォフは初めて、機関士のことを「機関士どの」ではなく「オルロフさん」と呼んだ。
「これを——」
彼はポケットから何かを取り出し、オルロフ爺に向かって投げた。それは小さな金属片。鹵獲列車の製造プレートだった。ドイツ語で機関車の製造番号と製造年月日が刻まれている。彼は三日前、この機関車を初めて点検した時に、それを外して保管していたのだ。
「イワン二号を、頼みます」
それが、ミハイル・アンドレーエヴィチ・クズネツォフ中尉の最期の言葉だった。
彼は手榴弾のピンを抜いた。それは彼が常にポケットに忍ばせていたもので、最後の最後まで自分のためではなく、列車を守るためのものとして持っていた。
爆発。
工廠の壁が崩れ、ゾンビの侵入を塞いだ。土煙と破片が舞い上がり、すべてを覆い隠す。クズネツォフの姿は、もう見えなかった。
「……クズネツォフ!」
オルロフ爺の絶叫が工廠に響いた。彼は運転席から飛び降りようとした。しかしジューコフが彼の肩を後ろから掴んだ。
「行くな。死んだ者を無駄にするな」
「死んでない! まだ——」
「死んだんだ。そして我々を生かした。その意志を無駄にするな」
ジューコフの手は、オルロフ爺の肩を離さなかった。彼の声は、命令でも説得でもなく、ただ「事実」を伝えていた。
オルロフ爺は震える手で、クズネツォフが投げたプレートを受け止めた。冷たい金属。そこには、この機関車がどこで生まれ、いつ造られたかが刻まれている。
「……バカ野郎」
オルロフ爺は操縦桿を握り直した。涙で視界が歪んでいる。しかし彼の手は、機関士の手として、完璧に正しい操作を行っていた。
「お前も乗れって言ったんだ。なんで……なんで……」
彼は汽笛を鳴らした。
イワン二号の汽笛は、初代イワンよりも少し高く、しかし力強かった。それは泣き声のようでもあり、咆哮のようでもあり、そして確かに、一両の機関車が新しく生まれた瞬間の産声でもあった。
蒸気が噴き出し、ピストンが唸り、車輪が軋む。イワン二号は、工廠の破壊された壁を背に、走り出した。
ジューコフは指揮車両の窓から、崩れゆく工廠を見つめていた。
「……クズネツォフ中尉の戦死を記録しろ。死因は——」
「なんと書けば」
コズロフの問いに、ジューコフは少し考えてから言った。
「任務における自己犠牲。列車と乗組員を守るため。それ以上は、必要ない」
「了解」
コズロフは手帳に書き込んだ。しかし彼のペン先は、ほんの少しだけ震えていた。
◇ ◇ ◇
工廠が遠ざかっていく。
スモレンスクの廃墟が、イワン二号の窓を通り過ぎていく。三日間の籠城戦は終わった。しかし彼らは生き延びた。いや、クズネツォフを除いて。
オルロフ爺は運転席で、クズネツォフから受け取った製造プレートを、そっと計器盤の上に置いた。初代イワンのボルトの隣に。
「……イワン二号。お前にはな、二人分の魂が宿ってる。一人は初代のイワン。そしてもう一人は——」
彼は言葉を詰まらせた。涙が製造プレートの上に落ち、金属の表面を伝った。
「もう一人は、ミハイル・クズネツォフ。お前を走らせるために、自分の命を差し出した、馬鹿真面目な工兵だ」
彼はウォッカ瓶を手に取り、一口飲んだ。それから、少しだけ機関車の床に垂らした。
「……野郎。礼を言う機会を、最後の最後で奪いやがって」
そして彼はアクセルをさらに押し込んだ。
「いいか、イワン二号。前に進め。前だけを見ろ。それが、あいつがお前に残した最後の命令だ」
イワン二号は加速した。その車輪はドイツ式標準軌のレールの上を、驚くほど滑らかに転がっていく。もはや線路を破壊する必要はない。この列車は、この線路のために造られたのだから。
スモレンスクを出て、前方にはベラルーシの凍てつく平原が広がっていた。空は鉛色に曇り、雪がちらつき始めている。十一月の終わり。冬が、本格的に戦場を覆い尽くそうとしていた。
指揮車両で、ジューコフは地図を広げた。スモレンスクは通過した。次はミンスク。約三百キロ先。
「コズロフ」
「はい」
「残りの距離は」
「ベルリンまで、約千二百キロです」
「まだ千二百か」
「……ええ」
「だが、これでまた前に進める」
ジューコフの声には、いつもの怒りも焦りもなかった。ただ静かな決意だけが、そこにはあった。
◇ ◇ ◇
客車の一角では、神父イヴァンが静かに祈りを捧げていた。その隣で、コミッサロフが座っている。彼は何かを言おうとして、やめた。
「……なんだ、同志」
「いや」
「祈りの邪魔をしないなんて、どういう風の吹き回しです」
コミッサロフは手帳を取り出し、何かを書きながら言った。
「クズネツォフ中尉の死は、唯物論的に説明がつく。工兵としての使命感。列車を守るという合理的判断。自己犠牲も、生物学的な群れの防衛本能と解釈できる」
「……それで?」
「しかし」
コミッサロフはペンを止め、顔を上げた。
「あの瞬間、私は彼が笑ったように見えた。最後に、確かに笑った。爆発の直前。それが——」
彼は言葉を探した。
「それが、唯物論的に説明がつかない」
「人間の心は、もともと説明がつかないものですよ」
「……あんたは、それを神の領域と言うんだな」
「言いませんよ」
イヴァンは目を開け、コミッサロフを見た。その目は、不思議なほど澄んでいた。
「今はただ、祈るだけです。死者のために。そして、生きている者のために」
コミッサロフは何も言わなかった。ただ手帳を閉じ、目を閉じた。祈ったのか、考えていたのか、それは誰にもわからない。少なくとも彼自身は、「祈り」とは認めなかっただろう。しかし彼の手帳には、その日、一言だけ、走り書きがあった。
「クズネツォフ。彼は良い共産主義者だった」
神父イヴァンはそれを見て、そっと微笑んだ。
◇ ◇ ◇
屋根の上には、今日もカチューシャがいた。
彼女はスコープを覗きながら、遠ざかるスモレンスクの街を見つめていた。廃墟の中に、まだ動いているゾンビの姿が点々と見える。工場の残骸から立ち上る煙。クズネツォフが散った場所だ。
「……三十七人」
彼女は呟いた。
「三日間で三十七人。もっと撃てると思ってたけど、結構みんな頑張るから、取り合いになっちゃう」
彼女はスコープから目を離し、空を見上げた。
「クズネツォフ、最後まで車両の下にいたね。おかげでイワン二号は走ってる。すごいよ、あれは」
彼女は立ち上がり、風に金髪をなびかせた。
「じゃあ、次はもっと撃つから。見ててね」
それが彼女なりのクズネツォフへの祈りだったのかもしれない。あるいはただの独り言だったのかもしれない。しかし彼女の目には、いつもより少しだけ、人間らしい光が宿っていた。
◇ ◇ ◇
ヴェーバーは、客車の隅でクズネツォフの最期を目撃していた。
彼は何も言わなかった。言える立場ではなかった。しかし彼は、ただ一人だけ、クズネツォフが最後に何をしたのかを正面から見ていた。敵国の兵士の自己犠牲を、敵国の将校として目撃した。それは彼の中で、何かを変えた。
「……記録しなければ」
彼はポケットから、ボロボロの手帳を取り出した。ドイツ国防軍の情報将校として、彼はすべてを記録する義務がある。しかし彼のペンは、しばらく止まったままだった。
「なんと書けばいい」
彼の呟きは、誰にも届かなかった。しかし彼は、それでも何かを書き始めた。
◇ ◇ ◇
列車の最後尾。ペトロヴァは一人、貨車の隅に座り込んでいた。
彼女は医療バッグを抱えたまま、動かなかった。手にはまだ、ドミトリーに打ったのと同じ鎮静剤の注射器が握られている。彼女はクズネツォフを救えなかった。いや、救う間もなかった。彼は自分から死を受け入れた。医者として、それは彼女の敗北だった。
「……哺乳類は、自分を犠牲にしたりしない」
彼女は天井を見上げて呟いた。
「群れのために自分が死ぬのは、社会性昆虫の行動様式だ。哺乳類は、少なくとも、牛や馬は、自分の命を優先する」
彼女は目を閉じた。
「人間は、難しい」
彼女は注射器をしまい、深呼吸をした。それから立ち上がり、負傷者の様子を見に歩き出した。泣いている暇はない。生きている者が、まだ彼女を必要としている。
それが彼女の戦い方だった。
◇ ◇ ◇
イワン二号は、加速を続けた。
背後にはスモレンスクの廃墟が遠ざかり、前方にはベラルーシの平原が白く染まっている。新しい列車は、古い線路の上を滑るように走っていた。ソ連広軌ではなくドイツ標準軌の線路。それは敵が敷いた線路であり、これから敵の心臓部へと続く道だった。
しかし皮肉なことに、その敵の線路のおかげで、イワン二号は最高のパフォーマンスを発揮できていた。
「調子はどうだ、イワン二号」
オルロフ爺の問いに、機関車は蒸気の音で答えた。シュウウウ、という排気音が、まるで呼吸のように規則正しい。計器の針は正常値。ピストンの動きは滑らか。車軸は安定し、車輪はレールを確実に掴んでいる。
「悪くない。悪くないぞ」
オルロフ爺は製造プレートをもう一度見た。そこに刻まれた文字は、彼には読めない。ドイツ語だからだ。しかし、その下に手書きで追加された文字があった。クズネツォフが工場で最後に刻んだものだ。キリル文字で、たった一言。
「走れ」
それが、工兵隊長がこの列車に残した、最初で最後の命令だった。
オルロフ爺は小さく笑った。涙を拭い、ウォッカをもう一口。そしてハンドルを握り直した。
「了解だ。走ってやるよ。ベルリンまで、まっすぐにな」
汽笛が轟いた。イワン二号の叫びが、冬の平原にこだまする。
それは喪失の叫びか、再出発の宣言か。
おそらく、その両方だった。




