第7話:スモレンスク工廠籠城戦(二日目)
夜明けとともに、ゾンビの波は一時的に引いた。
しかしそれは休息ではなかった。潮が引くように、次の大波の前触れだった。クラスノフ博士は工廠の屋根に登り、自作の観測機器(使い古しの双眼鏡と、計測用の糸と分度器を組み合わせた奇妙な装置)でゾンビの群れの動きを追跡していた。
「同志元帥!」
彼は屋根から這い降りながら叫んだ。
「パターンが見えました! ゾンビの襲撃には、約六時間の周期があります! おそらく電波の信号パターンが間欠的で——」
「次の波はいつだ」
「約四時間後です! そして先ほどより規模が大きい!」
「数は」
「数えきれない! それが何よりのデータです!」
ジューコフは腕を組んだ。彼の頭の中では、すでに防衛計画が再構成されていた。弾薬の残り、負傷者の数、そして残された時間、あと二日。
「グロモフ。弾薬は」
「四割を消費しました。このペースだと三日目の半ばで底をつきます」
「節約しろ。頭を狙え。それ以外は撃つな」
「了解」
「ペトロヴァ。負傷者は」
軍医のペトロヴァは、工場の隅に作られた即席の治療所から顔を出した。彼女の白衣はすでに血と泥で汚れている。
「今のところ重傷者なし。軽傷者五名。ただし——」
「ただし?」
「包帯が足りません。それから、破傷風の血清も。ゾンビに引っ掻かれた傷は、普通の傷より感染リスクが高い。これは医学的根拠というより、私の勘ですが——」
「勘でいい。必要なものをリストにしろ。コズロフが工廠の在庫を探す」
「了解です。あと——」
ペトロヴァは少し躊躇してから言った。
「馬用の鎮静剤が意外と役に立っています。もし工廠に家畜用の医薬品があれば——」
「工廠だ。牛はいない」
「残念です」
ペトロヴァは本気で残念そうな顔をした。ジューコフは微かに口元を歪めたが、それはほとんど誰にも気づかれなかった。
◇ ◇ ◇
第二波は、クラスノフの予測より三十分早く来た。
「周期が短くなっている! 電波の強度が上がっている可能性が——」
クラスノフの声は、最初の爆発にかき消された。工廠の北壁に、ゾンビの群れが集中していた。彼らは賢くはないが、数が知恵を生み出していた。弱い場所を見つけ、そこに殺到する。それが彼らの唯一の戦術であり、そして十分に効果的だった。
「北壁だ! 持ち堪えろ!」
グロモフは叫びながら、自らDT機関銃のトリガーを握った。彼の両脇で、兵士たちが必死に射撃を続ける。倒しても倒しても、ゾンビの波は止まらない。死体が死体の上に積み上がり、それがバリケードの代わりになるという皮肉な状況が生まれていた。
「大尉! 左の窓が——!」
その時だった。
北壁の窓の一つが、ゾンビの圧力で枠ごと内側に崩れ落ちた。そこから雪崩れ込んでくるゾンビの群れ。兵士たちの射線が間に合わない。
「うおおおおおお!」
キリレンコが飛び出した。彼のサーベルが弧を描き、最初のゾンビの頭を水平に薙ぐ。返す刀で二匹目を斬り伏せ、三匹目を蹴り飛ばした。
しかし四匹目が彼の左腕に噛みついた。
「キリレンコ!」
グロモフが叫んだ。しかしキリレンコは倒れなかった。彼は噛まれた腕を意に介さず、右手一本でサーベルを振るい、ゾンビの頭を刺し貫いた。
「剣は——嘘をつかない!」
彼は叫んだ。その声は痛みと怒りと、そして笑いに満ちていた。
グロモフはキリレンコの元に駆け寄り、PPShで周囲のゾンビを掃射した。そしてキリレンコの左腕を見て、息を呑んだ。軍服の袖が破れ、肌が露出している。が、奇妙だった。血が出ていない。
「……防刃布?」
キリレンコは痛そうに腕をさすりながら、しかし笑って見せた。
「コサックの刺繍、ただの飾りじゃないんです。馬具用の厚革を縫い込んであります。噛みつかれても、まあ、痣で済みます。いてて」
「……お前という奴は」
グロモフは怒鳴ろうとして、しかしできなかった。代わりに声を出して笑った。
「笑え、死ぬのはそれからだ!」
「それ、私の台詞ですけど?」
「今は俺の台詞だ! いいから撃て!」
二人は背中合わせで戦い続けた。窓から侵入したゾンビの群れは、他の兵士たちの増援によってようやく押し返された。
◇ ◇ ◇
戦闘が一段落した後。治療所では、ペトロヴァがキリレンコの腕に包帯を巻いていた。
「骨は大丈夫です。でも痣がひどい。しばらくはサーベルを——」
「無理です」
キリレンコは即答した。
「……ですよね。たぶんそう言うと思ってました」
ペトロヴァはため息をつき、包帯をきつく巻いた。
「せめて、痛み止めを」
「ウォッカで十分です」
「医療用の鎮痛剤があるのに、なんでみんなウォッカを飲みたがるんですか」
「ロシア人だからです」
「……たぶん、そうですね」
ペトロヴァは苦笑いして、キリレンコの肩を軽く叩いた。彼女の治療には、いつも「たぶん」がついて回る。しかし不思議なことに、その「たぶん」は、兵士たちに妙な安心感を与えていた。
◇ ◇ ◇
食堂車の隅に、ヴェーバーは座っていた。
彼には見張りがつけられていたが、手錠はされていなかった。それがジューコフなりの「最低限の信頼」だった。彼は毛布にくるまり、黙ってソ連兵たちの様子を観察していた。
そこに、コミッサロフがやってきた。
「おい、ドイツ人」
「……ヴェーバー中尉です」
「どっちでもいい。質問がある」
ヴェーバーは顔を上げた。コミッサロフは手帳を開き、几帳面な文字で何かを書き込もうとしている。
「お前たちの『幽霊列車』について、詳細を話せ」
「幽霊列車?」
「クラスノフ博士から聞いた。トーテンロコモーティフ。あれは何なんだ」
ヴェーバーは少し考えてから、慎重に言葉を選んで話し始めた。
「アーネンエルベ第二部門。降霊班と呼ばれていました。親衛隊全国指導者ヒムラー直轄の極秘プロジェクト。その目的は、戦死者の魂を鋼鉄に憑依させること」
「非科学的だ」
コミッサロフは反射的に言った。しかしヴェーバーは静かに首を振った。
「私も科学者ではありません。しかし、少なくとも『何か』は実際に存在します。制御不能になった幽霊列車が、東部戦線を彷徨っている。これは事実です。私自身、目撃報告をいくつも読んでいます」
「唯物論的に——」
「同志」
後ろから神父イヴァンの声がした。コミッサロフが振り返ると、イヴァンは穏やかな笑みを浮かべて立っている。
「唯物論的に説明できないからといって、存在しないとは限りません。この列車に乗っている我々が、それを一番よく知っているはずです」
コミッサロフは口を開き、閉じ、そして深いため息をついた。
「……あんたはいつも、そうやって私の唯物論を——」
「否定はしません。補完しているだけです」
「同じことだ!」
しかしコミッサロフの声には、以前のような敵意はなかった。むしろ、彼は手帳に何かを書き込み、ヴェーバーに尋ねた。
「その幽霊列車、どうやったら倒せる」
「……わかりません。我々のデータでも、物理的な破壊が可能かどうかは——」
「では、祈るしかないのか」
コミッサロフはイヴァンをちらりと見た。イヴァンは嬉しそうに十字架を握り直した。コミッサロフはそれを見て、もう一度ため息をついた。
「まだだ。まだ神は認めん」
「いつか認める日が来ますよ」
「来るか」
「来ます」
ヴェーバーは、二人の口論を黙って見ていた。彼の目には、奇妙な温かさが宿っていた。敵であるはずの彼らが、信仰と科学をぶつけ合いながらも同じ方向を向いている。それは彼がこれまで見てきたドイツ軍の硬直した指揮系統とは、まったく異なるものだった。
◇ ◇ ◇
二日目の夜。
その夜の襲撃は、これまでで最も激しかった。
月が雲に隠れ、あたりは完全な闇に包まれた。視界が効かない中、ゾンビの群れは音と匂いだけで工廠に殺到した。バリケードが何度も突破され、そのたびに歩兵たちが肉弾戦で押し返す。戦闘の合間に、誰かが短く叫び、そして静かになった。
一人の若い歩兵が、噛まれた。
名前はドミトリー。二十歳。グロモフの部隊の中でも、特に冗談が好きな若者だった。彼は壁の穴を塞ごうと前に出た時、闇の中から伸びてきた腕に左足首を掴まれ、そのまま引き倒された。
「ドミトリー!」
仲間が叫ぶ頃には、彼の足から血が噴き出していた。噛み千切られた傷は深く、骨が見えていた。
ペトロヴァが駆けつけた時、ドミトリーはまだ意識があった。彼は痛みに顔を歪めながら、それでも笑おうとしていた。
「……軍医さん。俺、もうダメですか」
「ダメかどうかは、私が決めます。黙ってて」
ペトロヴァは手早く止血を始めた。しかし彼女の目は、傷口の色をじっと見つめていた。噛まれた傷は、普通の傷とは異なる変色が始まっている。感染している。潜伏期間は数時間から半日。つまり——
「……軍医さん」
ドミトリーが静かに言った。彼の声は、先ほどよりずっと落ち着いていた。
「俺、スターリングラードでも生き残ったんです。だから、もしダメなら、頭を撃ってください。ゾンビになるのは嫌だ」
ペトロヴァは何も言えなかった。ただ手を動かし続けた。彼女の頭の中では、馬用鎮静剤の投与量が計算されていた。人間には強すぎる。しかしそれしか手がない。彼女は注射器を手に取り、針をドミトリーの腕に刺した。
「……眠るよ。痛くない。眠ったら、起きられないかもしれませんが」
「それでもいいです」
彼は目を閉じた。そして、最後に言った。
「グロモフ大尉に伝えてください。今度こそ大尉のジョークに笑いたかった、って」
それが、ドミトリーの最期の言葉だった。
彼は眠りに落ち、二度と目を覚まさなかった。しかしゾンビにもならなかった。ペトロヴァの鎮静剤が、感染が脳に達する前に、彼の心臓を静かに止めたのだ。それが救いだったのかどうか、ペトロヴァにはわからなかった。
彼女は注射器を置き、しばらく動かなかった。それから、そっとドミトリーの瞼を閉じた。
「……哺乳類は、みんな同じはずなのに」
彼女の声は震えていた。
「人間は……難しい」
◇ ◇ ◇
グロモフは、ドミトリーの死を聞いても、表情を変えなかった。
いや、変えられなかった。指揮官は部下の死にいちいち涙を流していられない。泣くのは、戦いが終わってからだ。戦いの最中に涙を見せれば、他の部下が不安になる。だから彼は黙ってドミトリーの遺体に毛布をかけ、それから振り返って言った。
「……誰かジョークを言え」
「大尉」
キリレンコが口を開いた。しかし今回は、ツッコミではなかった。
「ドミトリーは、あなたのジョークが大好きでした。彼だけはいつも、一人でこっそり笑ってたんです。『大尉のジョークは滑るから面白いんだ』って」
グロモフはキリレンコを見た。キリレンコは笑っていなかった。
「……そうか」
グロモフはそれだけ言って、持ち場に戻った。彼は戦い続けた。そして、今夜の戦闘が終わった後、誰もいない工場の隅で、一人で泣いた。彼の涙を見た者はいない。




