第7話:スモレンスク工廠籠城戦(一日目)
第一日目
工廠の中は、戦時工場そのものだった。
天井を走るクレーンの鎖が揺れ、溶接の火花が闇を断続的に照らし出す。クズネツォフの指示で、工兵たちは鹵獲列車を三つの班に分けて同時進行で改造していた。第一班は客車の壁に銃眼をくり抜き、鉄板を溶接して内部から補強。第二班は屋根に這い上がり、対空機銃の架台を設置。第三班は機関部の分解整備。これはオルロフ爺が直接指揮を執っていた。
「ダメだ! このバルブは逆向きだ! ドイツ人はなんでいちいち逆に作るんだ!」
オルロフ爺の怒鳴り声が工廠に響く。
「……設計思想が違うんです」クズネツォフが冷静に答える。「ソ連式は単純で頑丈。ドイツ式は精密だが複雑。どちらにも長所があります」
「うるさい! 俺は四十年ソ連式でやってきたんだ! 今さらドイツ式に合わせられるか! こっちに合わせろ!」
「それは無理です。物理的に」
「ウォッカを飲めばなんとかなる!」
「なりません」
そんな調子だったが、作業は確実に進んでいた。
◇ ◇ ◇
工廠の外では、歩兵たちが最初の波を迎え撃っていた。
第一日のゾンビの襲撃は、まだ散発的だった。工廠の存在に気づいた個体が、ぼんやりと集まってくる程度。バリケードの隙間から小銃で狙撃すれば、十分に対処できた。
グロモフはバリケードの上に立ち、双眼鏡でスモレンスクの街を観察していた。廃墟の中を、数体のゾンビがうろついている。まだ遠い。しかし、あの廃墟の奥にあるスモレンスク中央駅の方角からは、もっと多くの「動き」が感じられた。
「大尉、交替です」
キリレンコが這い上がってきた。
「ああ。異常は?」
「今のところ、たいした数じゃありません。でも——」
「でも?」
「北側に、不時着した航空機があります。ドイツ軍の連絡機です。尾翼のマークを見ると、国防軍の情報部所属。ついさっきまでは気づかなかったんですが、つい先ほど、機体から煙が」
「……生きているのか」
「確認に行きますか」
グロモフは少し考えた。
「ジューコフ元帥に報告する。お前はここで見張りを続けろ」
「了解」
◇ ◇ ◇
ジューコフはグロモフの報告を聞き、すぐに決断した。
「連れて来い。ただし武器は取り上げろ。情報を聞く。価値がなければ——」
「銃殺ですか」
「それは情報を聞いてから決める」
ジューコフの声に感情はなかった。しかしグロモフは知っていた。この元帥は、敵であっても無駄に殺すことを好まない。そして「情報」という言葉に、常に耳を傾ける。彼は戦場で何度も、捕虜から得た情報で局面をひっくり返してきたのだ。
「俺が行きます」
「頼む」
◇ ◇ ◇
グロモフとキリレンコ、そして三人の歩兵が、廃墟の中を慎重に進んだ。不時着した連絡機は、工場の北側、かつて貨物駅だった場所に墜落していた。胴体が半分に折れ、翼がもぎ取られている。パイロットはすでに死んでいる。コックピットからはみ出した遺体には、噛まれた痕が生々しく残っていた。
「……かわいそうに。脱出する前にやられたか」
キリレンコがサーベルを抜いた。
「大尉。機体の陰に誰かいます」
グロモフはPPShを構え、ゆっくりと近づいた。
「出てこい。武器を捨てろ。少しでも妙な動きをしたら、頭を撃ち抜く」
しばらくの沈黙。そして——
機体の残骸の陰から、一人の男が現れた。
痩身。銀縁眼鏡。ドイツ国防軍の制服は破れ、あちこちに血の跡がある。しかし襟だけは、きちんと止められていた。両手を挙げ、ゆっくりと立ち上がる。右手に拳銃が握られていたが、彼はそれをそっと地面に置いた。
「……私はフランツ・ヴェーバー中尉。ドイツ国防軍情報部所属」
彼のロシア語は、驚くほど流暢だった。訛りはあるが、正確で、落ち着いている。
「そこのファシスト野郎」
歩兵の一人がPPShの銃口を向けた。
「てめえ、なんでロシア語が——」
「四年前まで、モスクワの大学に留学していました」
「スパイか!」
「いいえ。歴史学の研究者です。専門は中世ルーシの教会建築。それが今回の任務に役立った理由を、説明するには少し時間がかかりますが……」
グロモフは歩兵を手で制した。
「中尉と言ったな。何の情報を持っている」
ヴェーバーはグロモフの目をまっすぐに見た。その目は疲れ切っていたが、不思議なほど澄んでいた。恐怖はあった。しかしそれ以上に、何かを伝えなければならないという使命感が、彼の背筋を伸ばしていた。
「ゾンビの発生源についてです。ベルリン郊外、ヴュンスドルフ地区に、アーネンエルベの研究所があります。そこから特殊周波数の電波が発信されています。その電波を止めれば——」
「電波を止めれば、なんだ」
「すべてのゾンビが停止します。私はその情報を、あなた方ソ連軍に伝えるために派遣されました」
歩兵たちの間にざわめきが走った。
「信用できるか、そんな話」
「できなくても構いません」
ヴェーバーは両手を挙げたまま、一歩前に出た。
「私は情報を伝えます。信じるかどうかは、あなた方次第です。それが私の任務ですから」
グロモフはしばらくヴェーバーを見つめていた。彼はこれまで多くの捕虜を尋問してきた。命乞いをする者、嘘をつく者、泣き叫ぶ者。しかしこの男は違った。自分の命がかかっている状況で、まるで講義をするかのように淡々と情報を述べている。
「……連れて行く。元帥が判断する」
◇ ◇ ◇
工廠の一角。ヴェーバーはソ連兵に取り囲まれ、壁に背を向けて立たされていた。
銃口が四方から彼に向けられている。コミッサロフは手帳を握りしめ、神父イヴァンは十字架を握りしめ、グロモフは腕を組んで睨んでいる。雰囲気は明らかに「尋問」だった。
ジューコフが現れたのは、その時だった。
「そのドイツ人か」
「はい。フランツ・ヴェーバー中尉。国防軍情報部所属。ベルリンの研究所が発信源であり、電波を止めればゾンビが停止する、と」
「……クラスノフ」
ジューコフの呼びかけに、クラスノフ博士が群れの中から飛び出してきた。彼の眼鏡は相変わらずテープで補修されている。
「なんでしょう、同志元帥! ちょうどゾンビの行動パターンの解析を——」
「その話は後だ。この男の言っていることは、お前の仮説と一致するか」
クラスノフはヴェーバーに近づき、じろじろと彼を観察した。ヴェーバーは微動だにせず、クラスノフの視線を受け止めた。
「電波の周波数は」
クラスノフが尋ねた。
「正確な数値は不明です。しかし資料によれば、短波帯域の特定周波数を使用していると。電波の到達範囲は約二千キロメートル。発信源が破壊されれば、受信端末であるゾンビは全て機能を停止——」
「機能を停止? ゾンビを機械のように言うな。あれは元人間だ」
「失礼。しかし、メカニズムとしては——」
「同志元帥!」
クラスノフが振り返った。その顔には、嬉しそうなのか悔しそうなのかわからない複雑な表情が浮かんでいる。
「このファシストの言っていることは、残念ながら私の仮説とほぼ一致します!」
「……残念ながら、か」
「ええ! 私が一年かけて構築した仮説を、ドイツ人がすでに結論として持っていたというのが残念です! しかし科学に国境はありません! くそっ!」
ジューコフはクラスノフの肩を叩いてから、ヴェーバーに向き直った。
「国防軍の将校が、なぜソ連に情報を渡す」
「私は……」
ヴェーバーは初めて、少しだけ言いよどんだ。
「私は、国防軍情報部の一部が、親衛隊の暴走を止めようとしている事実を知っています。カナリス提督の派閥です。彼らはヒムラーのアーネンエルベ計画が、ドイツそのものを破滅させることを恐れている。だから——」
「ドイツが破滅するのは我々にとって好都合だ」
「ゾンビに国境はありません。ソ連もいずれ、同じ運命を辿る」
沈黙。
「……だから、我々に情報を渡すのか」
「敵に情報を渡してでも、この災厄を止めなければならない。それが、私の上官たちの判断です。そして私個人も、同意見です」
ジューコフはヴェーバーの目をじっと見つめた。長い沈黙。ソ連兵たちは固唾を飲んで見守っている。コミッサロフは手帳に「ドイツ将校、弁明中」と走り書きし、神父イヴァンは無言で十字架を握っていた。
「……コズロフ」
「はい」
「こいつに毛布をやれ。情報は検証する。それまでは客車の隅に座らせておけ」
「……よろしいのですか」
「情報は正しい可能性が高い。クラスノフの仮説とも合致する。そして——」
ジューコフはヴェーバーに背を向けながら言った。
「嘘をつく目じゃない」
ヴェーバーは初めて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。しかし彼は「ありがとう」とは言わなかった。言えなかった。敵の元帥に感謝することは、まだ彼の誇りが許さなかった。
「……毛布か」
グロモフが呟いた。
「どういう意味だ、大尉」
キリレンコが聞いた。
「元帥はな、情報を聞くだけなら毛布は渡さない。尋問して終わりだ。毛布を渡すってことは——」
グロモフは微かに笑った。
「少なくとも、すぐには殺さないってことだ」
◇ ◇ ◇
ヴェーバーに毛布が渡された頃、工廠の外では第二波が始まっていた。
日が落ち、スモレンスクの廃墟が闇に沈むと同時に、ゾンビの動きが活発化した。寒さで動きが鈍るはずのロシアの冬だが、これだけの数が集まれば関係ない。互いにぶつかり合い、押し合いへし合いしながら、工廠に向かって雪崩のように押し寄せてくる。
「来るぞ!」
グロモフの叫びで、歩兵たちが一斉に射撃を開始した。小銃、短機関銃、そして工場の入り口に据え付けられたDT機関銃が、夜の闇を切り裂く。マズルフラッシュが断続的に閃き、薬莢が床に跳ねる音が工場内に反響した。
「右側面! あの窓から!」
キリレンコが叫ぶと同時に、工場の高い窓からゾンビが雪崩れ込んできた。バリケードの弱い部分を狙ったわけではない。ただ押し寄せる数の暴力が、あらゆる隙間から侵入を試みていた。
「うおおおおっ!」
キリレンコがサーベルを抜き、真っ先に駆け寄った。窓から落ちてきたゾンビが立ち上がるよりも速く、水平に振り抜かれた刃が首を刎ねる。首のない身体が数歩よろめき、崩れ落ちた。
「剣は嘘をつかない!」
「口もな!」
グロモフがPPShを掃射しながら叫んだ。
「うるさいぞ、キリレンコ! 実戦でサーベル振り回すな!」
「振り回しているのではありません。正確に斬っているんです! ほら、二匹目!」
今度は斜めに斬り下ろす。ゾンビの頭蓋が真っ二つに割れ、腐敗した脳漿が飛び散った。キリレンコはそれを軽やかなステップでかわし、三匹目の首を刎ねた。
「剣は嘘をつかない!」
「二回目!」
グロモフの怒鳴り声に、周囲の兵士たちが思わず笑った。死のすぐ隣で、彼らは笑っていた。それがこの部隊の強さだった。恐怖に呑まれず、しかし恐怖を無視もせず、笑いながら恐怖と共存する。グロモフが指揮官として最も大切にしていたのは、そういう「人間らしさ」だった。
◇ ◇ ◇
工廠の奥では、クズネツォフが溶接を続けていた。
外の銃声も、悲鳴も、怒号も、彼の集中を妨げることはできなかった。彼の世界には、ただ「溶接すべき鉄板」と「補強すべき車体」だけが存在していた。溶接マスクの向こうで、彼の目は赤く充血し、手は微かに震えていた。しかし作業の精度は落ちていなかった。むしろ、疲労が極限に達すると、彼の手は自動的に正しい動きを選び取るようにできていた。
「クズネツォフ」
オルロフ爺が背後から声をかけた。
「何でしょう」
「お前、飯を食ったか」
「……さっき」
「いつだ」
「……朝です」
「今は夜中だ!」
オルロフ爺は黒パンの塊と水筒をクズネツォフの前に押し出した。
「食え。それから三十分寝ろ。命令だ」
「機関士どの。私に命令権は——」
「俺が勝手に命令してるんだ。文句があるならジューコフに言え。あの無茶苦茶な元帥なら、『寝ろ』って言うに決まってる」
クズネツォフはしばらく逡巡していたが、結局、溶接トーチを置き、パンを受け取った。
「……十五分だけ」
「三十分だ」
「二十分で」
「二十五分。これ以上は譲らん」
クズネツォフは微かに、本当に微かに笑った。そしてパンをかじりながら、壁にもたれて目を閉じた。二十五分後、彼はきっかり目を覚まし、再び溶接トーチを手に取った。




