第6話:イワンの最期——そして託されたもの
スモレンスクの朝は、死者の沈黙とともに訪れた。
動かなくなったイワンの周囲で、乗組員たちはそれぞれの任務に散っていった。グロモフは工廠の入り口に防衛線を敷き、キリレンコは弾薬の集積所を設営し、カチューシャは工廠の屋根に登って狙撃ポジションを確保した。彼女は「ここ、見晴らしいいね」とだけ言い、誰の返事も待たずにスコープを覗き始めた。
しかし一人だけ、動かない者がいた。
オルロフ爺は、まだイワンの前に座り込んでいた。
彼は立ち上がれなかった。立ち上がるということは、イワンを見捨てるということだった。そして彼は、生涯で何度も「見捨てる」ことを強いられてきた。妻を結核で失い、息子を戦争で失い、機関士として何両もの機関車がスクラップになるのを見送ってきた。そのたびに、彼は自分に言い聞かせてきた。機関車はただの鉄だ。生き物じゃない。泣くことじゃない、と。
しかし今日だけは、その嘘が通用しなかった。
「イワン……」
彼は機関車の前に立ち、その前面装甲に両手を当てた。冷たい。もう蒸気の熱は伝わってこない。ピストンは止まり、ボイラーは冷え、車輪は沈黙している。たった数千メートルのために、イワンはその生涯を燃やし尽くしたのだ。
「あと少しだったんだ。スモレンスクの駅まで、あと数百メートル。そこから先はドイツ式の線路だった。お前の車輪じゃ走れなかったんだ。だから——」
オルロフ爺は言葉を詰まらせた。
「だからお前は、ここまでで十分だったんだよな」
◇ ◇ ◇
そこに、ジューコフが歩み寄ってきた。
彼は何も言わなかった。ただオルロフ爺の隣に立ち、同じようにイワンの車体を見上げた。風が二人の間を吹き抜け、イワンの冷却された装甲から霜が舞い散る。
「……元帥」
オルロフ爺は顔を上げなかった。
「あんたは機関車をなんだと思ってる」
ジューコフは少し考えてから、答えた。
「武器だ」
「だろうな。だがな」
オルロフ爺はイワンの装甲を拳でそっと叩いた。コツン、という小さな音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
「機関車は生き物だ。少なくとも、俺にとってはな。こいつは俺が設計した。俺が部品を選び、俺が図面を引き、俺が初めて火を入れた。こいつが産声を上げた時、俺はその場にいたんだ。だから——」
彼は振り返り、涙で濡れた顔をジューコフに向けた。
「機関車を捨てる時は、せめて看取ってやってくれ。命令じゃない。頼みだ」
ジューコフはオルロフ爺の目を見つめた。充血した老人の目から、涙が止めどなく溢れている。彼はその涙を拭おうともしなかった。恥じてもいなかった。
「……わかった」
ジューコフは軍帽を取り、胸に当てた。
「ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ・ジューコフ。ソ連邦元帥。同志諸君——」
彼はイワンに向かって、正式な敬礼を捧げた。
違う。彼は機関車に敬礼していたのではなかった。
「本車両、特務装甲列車第一号『スターリンの鉄槌』号、機関車形式名イワンは、任務を完遂した。これより戦列を離れる」
その声は、伝声管を通さずとも、そこにいた全員に届いた。
乗組員たちの手が、一人、また一人と止まった。武器を抱えていた歩兵も、包帯を巻いていたペトロヴァも、ノートを取っていたクラスノフも、手帳を握っていたコミッサロフも。全員がイワンの方を向き、自然と背筋を伸ばした。
グロモフが最初に帽子を取った。
それに続いて、キリレンコが、ペトロヴァが、神父イヴァンが。コミッサロフも、少し迷ってから、そっと帽子を外した。
工廠の屋根の上で、カチューシャだけがスコープを覗いたままだった。しかし彼女は、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「……お疲れさま」
それが彼女なりの敬礼だった。
◇ ◇ ◇
黙祷の時間は、ほんの数十秒だった。しかしその数十秒は、この先何年経っても乗組員たちの記憶に刻まれるものだった。
ジューコフが帽子を被り直した。それが合図だった。
「クズネツォフ」
「……ここに」
いつの間にか、クズネツォフがジューコフの背後に立っていた。彼の顔は無表情で、手にはすでに工具箱が握られている。しかしその目は、一瞬だけイワンの車体を見つめていた。
「この列車は終わりだ。次の手は」
「操車場の工廠に、ドイツ軍の鹵獲物資列車があります。編成は、機関車一両、客車五両、貨車二両。全て標準軌です」
「改造できるか」
「できます。ただし」
クズネツォフは工具箱の重さを確かめるように持ち直した。
「時間がかかります。客車の壁に銃眼を増設し、屋根に対空機銃の架台を溶接し、機関部の整備をして、試運転まで含めると、最低でも三日。工兵だけでなく、全乗組員の協力が必要です」
「そしてその三日間、ゾンビが来る」
「はい。必ず」
「……オルロフ爺」
ジューコフの呼びかけに、老人はゆっくりと振り返った。彼の目はまだ濡れていたが、先ほどまでの涙とは違う光が宿り始めている。
「あんたは機関士だ。あの鹵獲列車を動かせるのは、ここであんただけだ」
「ドイツ製だぞ。俺は——」
「イワンはお前を必要としている」
オルロフ爺の眉が動いた。
「……イワンはもう、動かねえ」
「違う」
ジューコフはイワンの車体を見上げた。
「イワンの魂は、お前のポケットにある。そして次の列車に乗り移る。そうじゃないのか」
オルロフ爺はポケットに手を当てた。そこには、さっき拾ったボルトの感触があった。さび付いた鉄の塊。しかし確かに、そこにはイワンの一部が宿っていた。
「……あんたって人は」
オルロフ爺は初めて、声を出して笑った。
「機関士の心をわかってるんだか、わかってないんだか」
「どっちでもいい。動かせるか」
「当たり前だ。ドイツの鉄クズだろうが、機関車は機関車だ。俺が整備すりゃ——」
彼は工具箱をクズネツォフからひったくるように受け取った。
「走るに決まってる」
◇ ◇ ◇
工廠の中は、暗かった。
天井の高い空間に、ドイツ軍が遺棄した物資の山が積まれている。弾薬箱、予備の車輪、通信機器、そして、編成されたまま放置された貨物列車。機関車はドイツ製。角張ったボイラー、無骨な駆動輪、煤で黒ずんだ煙突。それはイワンのような威厳も優美さもなかった。ただの「走るための機械」だった。
オルロフ爺は機関車の前に立ち、腕を組んでそれを睨んだ。
「……イワンじゃない」
「ええ、違います」
クズネツォフはすでに機関車のボンネットを開け、内部の点検を始めていた。
「でも、悪くない。整備状態は良好だ。ドイツ軍が撤退する前に、ちゃんとメンテナンスしてある。蒸気圧の上がりは——」
「知ってるよ」
オルロフ爺は機関車の運転席に乗り込み、計器を一つずつ確認した。その手つきは、まるで新しい女と踊る前の、ためらいがちなステップのようだった。
「……圧力計の位置が違う。レバーの重さも違う。石炭の燃え方も——」
彼は操作盤を拳で軽く叩いた。コツン。
「だが、悪くない」
それ以上は何も言わなかった。
クズネツォフは彼の背中に向かって言った。
「機関士どの。名前を決めませんか」
「名前?」
「機関車の名前です。イワンの後継ですから」
オルロフ爺はしばらく沈黙した。計器の針が小さく震えているのを、彼はじっと見つめていた。
「……決めるのは、こいつが走り出してからだ。まだ信用できん」
「了解です」
クズネツォフは工具箱を開け、最初の作業に取り掛かった。
◇ ◇ ◇
工廠の外では、歩兵隊長のグロモフが防衛線の構築を急いでいた。
「キリレンコ! あの貨車を入り口に横倒しにしろ! バリケードにする!」
「了解です、大尉。しかし貨車を倒すには——」
「手で押せ! 何人かで押せ! あとは——」
グロモフは工廠の構造を見渡した。鉄骨の柱、高い天井、所々に空いた窓。防衛には向いている。しかし、それは逆に言えば——
「籠城にはいいが、逃げ道もない。囲まれたら終わりだ」
「その時はその時です」
「……キリレンコ、お前はいつも楽観的だな」
「大尉、楽観的じゃありません。現実的です。囲まれたら終わり、ということは囲まれなければいい。簡単な理屈です」
「……その簡単な理屈を、どうやって実行する」
「さあ。それは大尉が考えることです」
キリレンコは笑顔でそう言うと、貨車を押す作業に加わった。グロモフはため息をつき、それから微かに笑った。
「俺はなんでこんな奴を副官にしたんだ」
◇ ◇ ◇
第一波のゾンビが現れたのは、その日の昼過ぎだった。
工廠の入り口に立てられたバリケードの向こうから、よろめく影が三つ。最初は散発的だった。群れの先触れだ。本隊がここを嗅ぎつけるのは時間の問題だった。
「撃て!」
グロモフの命令で、歩兵たちの小銃が一斉に火を噴いた。三体のゾンビは頭を撃ち抜かれ、バリケードの手前で崩れ落ちた。
「……今のは序の口だ」
グロモフは弾倉を交換しながら、工廠の外に広がる廃墟を見渡した。遠くの通りを、黒い塊がゆっくりと移動している。まだ遠い。しかし確実に、この方向に向かっている。
「三日。持ち堪えられるか」
「持ち堪えますよ」
後ろから声がした。振り返ると、ペトロヴァが医療バッグを背負って立っている。彼女は微笑みながら、巨大な注射器を取り出していた。
「必要なのは、武器と水と——」
彼女は注射器の針を空に向けて、ピストンを押した。透明な液体が飛び散る。
「ちょっとした応急処置の知識です。たぶん」
「……たぶん、か」
「哺乳類はみんな同じですよ」
グロモフはもう一度ため息をついた。しかし、彼の口元には笑みが浮かんでいた。頼りになるのかどうかわからないが、少なくとも心強い。そう思えるだけ、このチームはまともだった。
◇ ◇ ◇
工廠の中で、作業は急ピッチで進められていた。
クズネツォフは一人で三つの仕事を同時にこなしているように見えた。客車の壁に銃眼を開け、溶接機で装甲板を補強し、時折オルロフ爺の呼び出しで機関部を点検する。彼の手は決して止まらなかった。
「休め、クズネツォフ」
オルロフ爺が機関室から顔を出して言った。
「お前、昨夜も寝てないだろ」
「……寝てる暇はありません」
「死んだら終わりだぞ」
「死んだら、ですね。まだ死んでいませんから」
クズネツォフは溶接マスクを下ろし、火花の中に顔を隠した。それ以上は何も言わなかった。彼が口を閉ざす時は、説得が無駄だとオルロフ爺は知っていた。
「……頑固な奴だ」
しかし、その頑固さこそが、この無茶な旅を可能にしているのだ。オルロフ爺はウォッカ瓶を一口含み、自分も作業に戻った。
◇ ◇ ◇
その夜。第一波の本隊が工廠を包囲した。
「少なくとも二百はいる!」
キリレンコが屋根の上から叫んだ。月光の下、スモレンスクの廃墟を埋め尽くすように、ゾンビの群れが押し寄せてくる。多くはドイツ軍の軍服を着ている。スモレンスク攻防戦で死んだ者たちか、あるいはそれ以前、バルバロッサ作戦でここで散った者たちか。もはや見分けはつかない。すべての死者が、平等に「敵」として立ち上がっている。
「全員、持ち場につけ!」
グロモフの声が工場内に響いた。
この夜、工廠は地獄になった。
だが彼らは耐えた。
耐えながら、誰かがジョークを言い、誰かが祈り、誰かが酒をあおり、誰かがデータを取った。耐えながら、クズネツォフは溶接を続け、オルロフ爺は機関を整備し、そしてジューコフは黙って戦場を見つめていた。
三日間の籠城戦が、始まった。




