歪んだステップアップ
1
五月の終わり、梅雨の気配を孕んだ湿った空気が、都心の高校のコンクリート校舎をじっとりと包み込んでいた。
1年B組の教室。その空気は、一週間前とは明らかに一変していた。
「……おい、神崎。お前、吉岡さんと何かあったのかよ」
「うるせえ。触んな」
休み時間、クラスの中心グループから少し外れた席で、神崎蓮が禍々しいほどの拒絶オーラを放って机に突っ伏していた。いつもならサッカー部の仲間たちと談笑し、女子たちに爽やかな笑顔を振りまいているはずの「教室の神様」の面影は、今の彼には微塵もなかった。目の下には色濃い隈が浮かび、声をかけることすら躊躇われるほどに刺々しい。
私は自分の席に座り、お気に入りのブランドのリップグロスを塗り直しながら、横目でその様子を眺めていた。
(あはは。本当にわかりやすい。可愛いな、蓮くん)
鏡に映る私の唇は、瑞々しいピンク色に光っている。
先週末、バーベキューの後に小林くんとレンタルルームへ行き、蓮からの連絡をすべて無視した。日曜日になって、ようやく一言だけ『体調が悪くて、スマホ見られなくてごめんね』と、あからさまに嘘とわかるラインを一本だけ送っておいた。
それに対する蓮の反応が、これだ。彼は今、私という存在が自分の手からすり抜けていく恐怖と、同じサッカー部の小林に対する猜疑心で、内側からボロボロに引き裂かれている。
「ねえ、繭ちゃん……」
不安そうな声で話しかけてきたのは、沙耶だった。
「神崎くん、どうしちゃったんだろうね。昨日からずっとあんな感じでさ……。繭ちゃん、何か知らない?」
私はわざと、ひどく悲しげに眉をひそめ、小さくため息をついて見せた。
「ううん、私もよく分からなくて。ラインしても、なんだか素っ気ないし……。私、蓮くんに何か怒らせちゃうようなこと、しちゃったのかな」
「えーっ、そんなわけないじゃん! 繭ちゃんこんなに可愛いんだし、もし神崎くんが繭ちゃんを泣かせるようなことしてたら、私マジで許さないからね!」
沙耶は私の言葉を微塵も疑わず、私の味方になってくれる。
そう、これが私の手に入れた『無敵の擬態』の力だ。
見た目が美しく、優弱で、守ってあげたくなるような女の子。その記号を完璧にまとっている限り、世界はどこまでも私に優しく、私の都合の良いように回ってくれる。
けれど、私の机の斜め後ろ。
小林くんが、他の男子とプロ野球の話をしながら、時折こちらに送ってくる視線は、蓮のそれとは全く違っていた。
彼の目は、完全に『私を一度手に入れた男』の、卑俗で、共犯関係を楽しむような粘着質な熱を帯びていた。
クラスの誰にも言えない、私と小林くんの秘密。
そして、それによって狂わされていく蓮くん。
私はその二人の男の視線の中心に立ちながら、ゾクゾクとするような全能感に満たされていた。
中学時代、私の存在を無視し、踏みにじり、「電子肉」と呼んで嘲笑った男という生き物が、今や私の掌の上で、私の出方一つで右往左往している。
(もっとだ。もっと私を見て。もっと私に狂ってよ)
私の心の中にぽっかりと空いた暗い穴は、二人の男の執着を吸い込んでもなお、まだ満たされることはなかった。むしろ、一度この歪な快感を覚えてしまった精神は、さらなる刺激を求めて、乾いた砂のように欲望を貪り始めようとしていた。
2
その日の放課後。梅雨入りの前触れのような、重苦しい土砂降りの雨が街を濡らしていた。
私は傘を差し、地元の駅へ向かうふりをして、学校から二駅離れた場所にあるカラオケ店の個室へと向かった。
部屋のドアを開けると、タバコの煙の匂いと共に、ソファーに深く腰掛けた男が私を迎えた。
神崎蓮でも、小林でもない。
ネットのSNSを通じて知り合った、二十二歳の大学生――直人さん。
「お、来たね。今日も可愛いじゃん、繭ちゃん」
直人さんは髪を今風のアッシュ系に染め、耳にはいくつもピアスを開けた、いかにも夜の街に慣れていそうな男だった。
「お待たせしました、直人さん。雨、すごくて遅くなっちゃって……」
私は濡れた折りたたみ傘をビニール袋に入れながら、少しはにかんで見せた。
高校の男子たちとは違う、大人の男。
彼と知り合ったのは、ほんの数日前のことだった。蓮との関係に冷め、小林との肉体関係でも満たされなかった私は、夜、ベッドの中で名前も知らないアカウントを作成し、『寂しいです』とだけ呟いた。そこに群がってきた無数の男たちの中から、一番スマートで、私を「お姫様」のように扱ってくれそうな直人さんを選び出したのだ。
「いいよ、全然気にしてないから。ほら、寒かったでしょ。こっちおいで」
直人さんがソファーの隣を叩く。私は躊躇うことなく、彼の隣へと潜り込んだ。
直人さんの体からは、蓮の高級な柔軟剤とも、小林のシーブリーズとも違う、高価な香水と微かなメンソールのタバコの匂いがした。
三人目の男。
彼が私の肩に手を回し、引き寄せる。その動きには、高校生の男子にはない、圧倒的な余裕と「慣れ」があった。
「繭ちゃんってさ、本当に高校一年生? スタイル良すぎるし、なんか、すごく色気あるよね」
直人さんの指先が、私の制服の襟元を優しくなぞる。
「そんなことないですよ……。学校では、みんな私のこと子供扱いするし」
「へえ。見る目ないね、そいつら。俺なら、こんな可愛い子、一秒も放っておかないけどな」
大人の男から向けられる、甘く、洗練された賛辞。
それが嘘であることくらい、今の私には分かっていた。この人も、私の外見しか見ていない。私の制服という記号と、若くて細い肉体を消費したいだけだ。
でも、それで良かった。いや、それが良かった。
中身の私なんて、誰も見なくていい。
私は、この洗練された男に求められることで、自分の『美しさの価値』をさらに高いステージへとステップ・アップさせているような、奇妙な錯覚に囚われていた。
「直人さん……私、今日、あんまり早く帰らなきゃいけないわけじゃない、です……」
私の唇から、誘うような言葉が滑らかに溢れ出た。
かつて、蓮の部屋で恐怖に震え、涙を流していた地味子の姿は、もうここにはなかった。
3
カラオケの薄暗い室内。モニターから流れるインスト曲の重低音が、ソファーのクッションを通じて私の背中に響いていた。
直人さんの手が、私の制服のブラウスのボタンを、手慣れた手つきで外していく。
「うわ……すごいな、お前。本当に現役のJK?」
下着姿になった私の身体を見て、直人さんの目が、高校生の男子たちと同じように、濁った欲望の色に染まるのを見た。
(あぁ、やっぱりこの人も同じだ)
どんなに大人びていて、お洒落な香水を纏っていても、服を脱がせば男なんてみんな同じ「獣」になる。
恐怖はなかった。あるのは、深い諦念と、それを上回る冷ややかな高揚感。
直人さんが私をソファーに押し倒し、その重い身体を重ねてくる。
彼の唇が私の首筋、鎖骨、そして胸へと降りていく。その愛撫は、蓮や小林とは比べものにならないほど巧妙で、私の身体のどこをどう触れば声が出るのかを、完全に熟知しているようだった。
「ん……っ、あ、は……ぅ……っ」
私の肉体は、直人さんの技術によって、簡単に開発されていく。
皮膚の裏側をパチパチと跳ねるような、強烈な快感が脳髄を支配する。でも、どれだけ身体が熱くなっても、私の意識の奥底にある『目』は、どこまでも冷酷にその光景を見つめていた。
(ねえ、見てる? 中学の時に私を笑ったみんな。私は今、こんな大人の男の人に、めちゃくちゃに求められてるよ)
直人さんの手が私の太ももを割り、私の身体の最も奥深い場所へと侵入してくる。
愛撫の段階を経て、完全に私を受け入れる準備が整った肉体。
そこに、三人目の男の質量が滑り込んできた。
「――っ、ん、あぁ……っ!!」
ソファーの背もたれに頭をぶつけながら、私は高い声を上げた。
激しい快楽の波が押し寄せる。直人さんの動きは容赦がなく、私の身体を壊すかのような強さで突き上げてくる。
私は彼の首にしがみつき、その背中に爪を立てた。
「直人さん、もっと……もっと激しくして……!」
私は自ら腰を動かし、彼の欲望をさらに煽るようにして身体を密着させた。
積極的になればなるほど、男は狂ったように喜ぶ。その反応を見るのが、今の私にとっての何よりの快感だった。私は直人さんの身体を利用して、自分の中にあるドス黒いトラウマを、快楽という名の麻薬で塗りつぶそうとしていた。
激しい肉体のぶつかり合いの音が、カラオケの防音壁に吸収されていく。
直人さんは何度も私の名前を呼び、私の身体を貪り尽くし、やがて大きな喘ぎ声と共に、私の奥深くにすべてを注ぎ込んだ。
私の身体の上に倒れ込み、肩で息をする直人さん。
私は彼の背中を優しく撫でながら、壁にかかった時計の針をじっと見つめていた。
まだ、午後六時。
地元の駅に着く頃には、雨はあがっているだろうか。そんな、どうでもいいことが頭をよぎっていた。
4
直人さんと別れ、都心からの下り電車に乗り込んだ時には、夜の八時を過ぎていた。
制服のブラウスからは、微かにタバコと知らない香水の匂いがしている。私は電車の連結部分の近く、人目が少ない場所に立ち、スマートフォンの電源を入れた。
画面を立ち上げた瞬間、通知の嵐が鳴り響いた。
神崎蓮からの不在着信が12件。
小林からのラインが5件。
そして、今日新しく追加した、他校の男子からのメッセージ。
『神崎蓮:お前、今日どこ行ってたんだよ。放課後、すぐ帰ったって沙耶から聞いたけど、嘘だろ』
『神崎蓮:頼むから返事してくれ。俺、おかしくなりそうなんだ』
蓮のメッセージを読みながら、私は口元を歪めた。
かつて私にとって『教室の神様』だった男が、今や私の返信一つに命を握られているかのように、無様に乞い願っている。
(可哀想な蓮くん。でも、もう遅いよ。私はもう、君一人じゃ満足できない身体になっちゃったんだから)
私の中の空洞は、男を受け入れるたびに、その数を増やしていく。
一人目の男で、私は世界の中心に立った。
二人目の男で、私は背徳の味を知った。
三人目の男で、私は肉体の快楽と、大人の世界を覗き込んだ。
次は、誰にしよう。
クラスのあの目立たない男子? それとも、ネットで私を「女神」と崇める別の男?
私のスケジュール帳は、男たちとの約束で少しずつ埋まり始めていた。
学校では『誰の誘いにも乗らない、清楚で完璧な高嶺の花』。
裏では『複数の男をハシゴして、その肉体と精神を貪るレディ』。
二つの顔を使い分けながら、私は過剰に、あまりにも過剰に、この高校デビューという名の濁流に適応していった。
自分が、薄い氷の上を、裸足で全力疾走していることにも気づかないまま。
濡れた窓ガラスに映る私の目は、まるで底の割れた沼のように、暗く、深く、どこまでも濁っていた。
(第8話へ続く)




