バグ
1
五月晴れの河川敷。バーベキューの煙と、肉の焼ける香ばしい匂い、そして高校生たちのけたたましい笑い声が、初夏の青空へと吸い込まれていく。
「繭ちゃん、これ焼き上がったよ。食べる?」
「あ、小林くん、ありがとう! すっごく美味しそう」
私はトングを持った小林くんに、これ以上ないほど甘い笑顔を向けた。
小林くんは、蓮と同じサッカー部だが、蓮のような圧倒的なカリスマではなく、親しみやすい「いかにも今時の男子」といった風貌だ。彼は私の笑顔に一瞬で鼻の下を伸ばし、「マジ? 繭ちゃんにそう言ってもらえると、焼き甲斐あるわー!」と嬉しそうに声を弾ませた。
その様子を、少し離れた簡易ベンチから、冷徹な視線が見つめている。
――神崎蓮だ。
蓮は缶コンポタを片手に、別の女子たちに囲まれて話していたが、その目は一切笑っていなかった。私と小林くんが近づくたびに、彼の視線がナイフのように私の肌を突き刺す。
(ねえ、蓮くん。こっち見てるの、分かってるよ)
私の胸の奥で、ジリジリと黒いアドレナリンが湧き上がる。
昨日の夜、彼のベッドで「私は蓮くんのもの」と言ったその口で、今は他の男を誘惑している。このスリル。この背徳感。
学校の王様である蓮を、自分の思い通りに嫉妬させ、焦らせているという事実が、私の歪んだ心に極上の栄養を与えていた。
「吉岡さん、ちょっと飲み物買いに行かない? あっちの自販機までさ」
小林くんが、周囲に聞こえないような低い声で、私を誘ってきた。
「うん、行こうかな。ちょっと暑くなってきたし」
私は蓮の方を一度も振り返ることなく、小林くんの後を追って、賑やかなバーベキューの輪から外れた。
2
河川敷の土手を上がり、人目が遮られる自動販売機の裏手。
コンクリートの壁に囲まれた日陰に入った瞬間、小林くんがガラリと態度を変えた。
「ねえ、吉岡さん。ぶっちゃけさ、神崎と付き合ってんの?」
真っ直ぐに覗き込んでくる小林くんの目は、少し充血していて、男の剥き出しの欲望が透けて見えた。
「え? 蓮くん? うーん、どうなんだろ。仲は良いけど、付き合おうって言われたわけじゃないし……」
私は嘘を吐いた。蓮とは何度も身体を重ねているが、確かに明確に「付き合ってください」という言葉は交わしていない。それを都合よく利用して、私は「フリーの可哀想な美少女」を演じてみせた。
「マジで? あいつ、吉岡さんは俺のもんみたいな顔してっからさ。……じゃあ、俺にもチャンスある?」
小林くんが一歩、距離を詰めてくる。
彼の体からは、安物のシーブリーズと、男特有の荒い熱気が漂っていた。
蓮の洗練された匂いとは違う、もっと雑で、動物的な匂い。
「チャンス、かぁ……。小林くんって、私のどこが好きなの?」
私は自販機に背中を預け、上目遣いで彼を見つめた。
「どこって……全部だよ。顔も、スタイルも、マジでクラスで一番可愛い。初めて見た時からヤバいと思ってた」
顔。スタイル。可愛い。
やっぱり、それだ。
この男も、蓮と同じ。私の「中身」なんてどうでもいいのだ。私が中学時代にどんなに苦しんでいたか、どんなに友達が欲しかったかなんて、これっぽっちも興味がない。ただ、この「56キロに痩せてメイクしたハリボテの肉体」が欲しいだけ。
そう思うと、小林くんに対する愛おしさなんて一ミリも湧かなかったが、同時に、どうでもよくなった。
男なんて、誰でも同じだ。
私のこの身体を差し出しさえすれば、どんな男だって私の奴隷になる。
「……じゃあ、確かめてみる?」
私が囁いた瞬間、小林くんの目が獣のようにギラついた。
3
バーベキューが夕方に解散した後、私は蓮の誘いを「疲れたから先に帰るね」と冷たく断り、小林くんと二人で、渋谷のレンタルルームへと向かった。
スマホの電源は切った。蓮から狂ったようにラインが来ているだろうが、今はそれを無視すること自体が快感だった。
薄暗い、狭い個室。安っぽい合成皮革のベッド。
部屋のドアが閉まった瞬間、小林くんは私を壁に押し付け、貪るようにキスをしてきた。
「ん……っ、ん、は……」
蓮よりも乱暴で、不器用なキス。
けれど、男性免疫がバグってしまった私の肉体は、その乱暴な刺激に対して、驚くほど素直に熱を帯びていった。
「吉岡さん……繭、マジでエロすぎる……」
小林くんの手が、私の私服のワンピースのジッパーを引き下ろす。
下着姿になった私の身体を見て、彼は「うわ、すっげえ……」と、息を呑んだ。
その、崇めるような、圧倒的な欲望の視線。
それが今の私の、唯一の精神安定剤だった。男にこうして求められている瞬間だけが、私がこの世界に存在していい理由になる。
ベッドに押し倒され、小林くんの硬い肉体が覆いかぶさってくる。
二人目の男。
蓮の時のような、処女の激痛はもうない。私の身体はすでに、男を受け入れる準備を整えることを知っていた。
「あ、は、っ……ん、んぅ……!」
小林くんが私の中に滑り込んできた瞬間、私は天井の安い蛍光灯を見つめながら、心の中で冷たい涙を流していた。
(あぁ、二人目。私は、二人目の男の味を知っちゃったんだ)
気持ちよさは、確かにあった。蓮よりも強引で、激しい腰使いに、私の身体は何度もビクビクと跳ね上がり、奥の粘膜が熱く締め付けられた。
でも、頭の中はどこまでも空っぽだった。
小林くんが私を抱き締め、「繭、めちゃくちゃ気持ちいい……最高だよ」と耳元で喘ぐたびに、私は自分の心がどんどん削り取られていくような感覚に陥っていた。
私は、小林くんの首に手を回し、自ら腰を突き上げるようにして彼を煽った。
「小林くん……もっと、きつくして……っ、壊れるくらい、抱いて……!」
彼を愛しているからじゃない。
そうやって、男の剥き出しの欲望に押し潰されていないと、自分が消えてしまいそうだったから。
中学時代の、あの暗い水槽の底にいる「デブ眼鏡の私」が、今の私を引きずり戻そうと、足首を掴んでいるような気がしてならなかったから。
激しい水音が部屋に響き渡り、小林くんは大きな声を上げて私の中に果てた。
4
深夜。一人で下り電車に揺られながら、私はスマホの電源を入れた。
予想通り、画面は蓮からの不在着信とラインで埋め尽くされていた。
『神崎蓮:おい、どこいんだよ』
『神崎蓮:小林と一緒にいんの? 答えろよ』
『神崎蓮:繭、ふざけんなよマジで』
画面をスクロールしながら、私はフッと声を出して笑った。
あの完璧な、教室の神様だった神崎蓮が、こんなに無様に、醜く取り乱している。
私という存在に、狂わされている。
「あはは……すごい。私、世界をコントロールしてるみたい」
けれど、電車の窓ガラスに映る私の顔は、まるでお化けのように青白く、目の奥には何の光も宿っていなかった。
私の手元には、蓮という本命(神様)がいながら、新しく手に入れた小林というカードがある。
一人じゃ満たされなかった空洞が、二人になったからといって埋まるわけではなかった。むしろ、穴の直径は二倍になって、私の精神を奈落へと誘っている。
(もっと、もっと男の人が必要。私を、もっとたくさんの男の人で満たして――)
過剰に適応し、狂い始めた美少女の歯車は、もう誰にも止めることができなかった。
(第7話へ続く)




