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新しい蜜

1

五月の風は、驚くほど生ぬるかった。

夕暮れ時、片道1時間の通学電車に揺られながら、私はスマートフォンの画面を見つめていた。

画面に映っているのは、インフルエンサー気取りのクラスの女子たちと撮った自撮り写真。その中心で、ミルクティーベージュの髪をなびかせ、あざとくピースサインを作っている美少女――それが、今の私、吉岡繭だ。

「……可愛いなぁ、本当に」

画面の中の自分に向けて、小さく呟く。

でも、その言葉はどこか、他人の品評をしているようでもあった。毎日、鏡の前でファンデーションを塗り、マスカラで睫毛を跳ね上げるたびに、私は自分という存在を丁寧に作り上げている感覚になる。

この顔と、この身体がある限り、学校での私は無敵だ。

誰も私を無視しない。誰も私を「電子肉」なんて呼ばない。

『繭、今日の夜、空いてる?』

画面の上部に、蓮からのラインがポップアップした。

私はそれを一瞥し、すぐには返信せずに画面を閉じた。

蓮との肉体関係は、週に何度も続いていた。

あの日、彼の部屋のソファーで味わった引き裂かれるような激痛は、回数を重ねるごとに消え去り、今では男の身体特有の、硬くて熱い質量を受け入れることに、私の肉体は完全に馴染んでおり、それなりの快感すら覚えるようになっていた。

けれど、彼に抱かれている最中、私の頭の芯はいつも、驚くほど冷え切っていた。

『繭、最高……。お前、マジでいい身体してる』

そう言って、汗ばんだ身体を押し付けてくる蓮を見るたびに、私は心の奥底で冷笑していた。

この人は、私の何が好きなんだろう。

もし私が、春休みの死に物狂いのダイエットに失敗して、64キロのぽっちゃり体型のままだったら。もし私が、分厚い眼鏡をかけたまま、この人の前に立っていたら。

彼はきっと、私に見向きもしなかった。それどころか、中学の男子たちと同じように、汚いものを見るような目で私を蔑んだに違いない。

(蓮くんが好きなのは、私じゃない。私が血を吐く思いで作った、この『美少女のハリボテ』だ)

それが分かっているから、どれだけ彼に激しく求められても、私の心の空洞が満たされることはなかった。

むしろ、抱かれれば抱かれるほど、その空洞は深く、暗く、広がっていくようだった。私の価値は、この男に肉体を提供することでしか維持できないのだろうか、という不安が、常に背後から首筋を冷たく撫でていた。

2

「吉岡さん、これ、次の時間のプリント」

翌日の昼休み。

教卓へプリントを取りに行った帰りの男子生徒が、私の机の前に立ち、少し赤くなりながらプリントを差し出してきた。

名前は確か、坂口くん。クラスではあまり目立たない、大人しいタイプの男子だ。

「あ、坂口くん。ありがとう!」

私はわざと、彼とまっすぐに目を合わせ、首を少しだけ傾けて最高の笑顔を作った。

「う、うん……! じゃあ」

坂口くんは、耳まで真っ赤にして、逃げるように自分の席へと戻っていった。

その様子を、教室の隅からじっと見つめている視線があることに気づく。

――神崎蓮だ。

蓮は自分の机に腰掛け、サッカー部の仲間たちと話しながらも、その鋭い視線は完全に私を捉えていた。彼の眉間には、微かに不機嫌そうなシワが寄っている。

(あ、また嫉妬してる)

私の胸の奥で、甘やかな、そして酷くドス黒い快感が弾けた。

学校の王様であり、私の初めての男である神崎蓮。彼が、私が他の男の子に微笑みかけたというだけで、あんなに分かりやすくイラついている。

かつて、地元の学校の廊下で、男子たちの顔色を伺ってビクビクと歩いていた私が。

今は、自分の笑顔一つで、男たちの感情を自由自在に揺さぶっている。

「男なんて、本当に単純」

心の中でそう吐き捨てる。

男性に対する恐怖心は、彼らを思い通りにコントロールできるという万能感によって、完全に麻痺していた。男は、私を傷つける天敵ではない。私の歪んだ自尊心を満たすための、便利な「餌」に過ぎないのだ。

「ねえねえ、繭ちゃん」

隣の席の沙耶が、お弁当のイチゴをフォークで刺しながら話しかけてきた。

「今度の土曜日、B組の男子たちと、隣の高校の野球部の人たちとで、合同のバーベキューあるんだけど、繭ちゃんも行くでしょ?」

「えー、バーベキュー? 楽しそう!」

「でしょ? 向こうの高校の野球部、結構イケメン多いって噂だし。みんな、繭ちゃんが来るなら絶対行くって張り切ってるよ」

みんなが、私を求めている。

その事実が、私の乾ききった心を極上の蜜で満たしていく。

私の価値を証明するためには、蓮一人じゃ足りない。もっとたくさんの男たちの視線が必要だ。もっと多くの男たちが、私に執着し、私を欲しがることでしか、私は自分が「価値のある人間」だと信じられなくなっていた。

「うん、私、行く! すっごく楽しみ!」

私が弾んだ声でそう言うと、教室の向こうで、蓮が持っていたペットボトルを少し強く握り潰す音が聞こえた。

3

その日の放課後。

私は約束通り、蓮のマンションを訪れていた。

部屋に入るなり、蓮はカバンを床に放り投げ、私の手首を掴んでベッドルームへと引きずり込んだ。いつもならリビングで少し話をしてからなのに、今日の彼は明らかに焦っていた。

「蓮くん、痛いよ……っ」

「……お前、最近、他の男に愛想振りまきすぎ」

蓮は私をベッドに押し倒すと、強引に私の制服のブラウスを引き裂くようにしてボタンを外していった。彼の目は、嫉妬と独占欲で完全に濁っていた。

「坂口だっけ? あんな冴えない奴にまで、あんな顔して笑いかけんなよ。お前は、俺の女だろ?」

蓮の言葉は、私の身体を支配しているという傲慢さに満ちていた。

でも、今の私は、彼のその乱暴な言葉にすら、恐怖を感じてはいなかった。

(あぁ、蓮くん。そんなに私が心配? 私がどこかに行っちゃいそうで、怖いの?)

「……ごめんなさい、蓮くん」

私はわざと、涙目を浮かべて、か弱い被害者のような声を絞り出した。

「私、そんなつもりじゃ……。ただ、プリントをくれたから、普通にお礼を言っただけなのに……」

「嘘つけ。お前、自分が可愛いって分かってやってるだろ」

蓮が私の下着に手をかけ、強引に引き下げる。

彼の硬い身体が私を圧迫し、何度も重ねた行為が始まる。

蓮の動きは、いつも以上に激しくて、雑だった。まるで、私の身体に自分の所有権を深く刻み込もうとするかのように、何度も、何度も突き上げてくる。

「あ、んっ……ふ、ぁ……っ」

私はベッドのシーツをきつく握りしめながら、彼の激しい愛撫を受け入れていた。

肉体的な快感は確かにあった。けれど、それ以上に私を昂らせていたのは、心理的な優位性だった。

(必死だね、蓮くん。そうやって私の身体を貪らないと、私を繋ぎ止められないんだ)

かつて私を「ハズレ」と呼び、世界の底辺に置き去りにした男という生き物が、今、私の身体の上で、私を失う恐怖に怯えながら、必死に汗を流している。

その構図そのものが、私にとっての最大の快楽だった。

「――っ、繭、お前、本当に……っ」

蓮が私の首筋に歯を立て、低く呻く。

私は彼の背中に腕を回し、その広い背中を強く抱きしめた。

「蓮くん、大好きだよ……っ。私は、蓮くんのものだから……」

口先だけで、いくらでも甘い言葉が紡ぎ出せる。

彼を安心させ、さらに私への依存を深めさせるための、完璧なセリフ。

蓮は私の言葉に、狂ったように腰の動きを早め、やがて大きな吐息とともに、私の中に全てを吐き出した。

私の身体の上に倒れ込み、荒い息を繰り返す蓮。

私は彼の髪を優しく撫でながら、暗くなった部屋の天井を、ただ冷めた目で見つめていた。

満たされたはずの身体とは裏腹に、心の中の空洞は、ますますその大きさを増していた。

4

金曜日の夜。

翌日のバーベキューに向けて、私は自分の部屋で衣類の整理をしていた。

鏡の前に立ち、ブラウスを脱いで、下着姿の自分の身体を映してみる。

163センチ、56キロ。

ウエストはキュッと引き締まり、蓮に何度も触れられた胸とお尻は、以前よりもどこか色気を帯びてきているように見えた。

(私は、可愛い。私は、価値がある)

何度も、呪文のように自分に言い聞かせる。

でも、鏡の中の私の瞳は、驚くほど虚ろだった。

どれだけ痩せても、どれだけメイクが上手くなっても、どれだけ学校の王様に抱かれても、私の根底にある「いじめられっ子の吉岡繭」が、消えてくれない。

ぽっかりと空いた心の穴を埋めるためには、もっと強い刺激が必要だった。

蓮の独占欲だけでは、もう足りなくなっている。

ピコん、とスマートフォンの通知音が鳴った。

ラインを開くと、見知らぬアカウントからのメッセージ。

今日の放課後、連絡先を交換してほしいとしつこく付きまとってきた、他クラスのサッカー部の男子――確か、小林くん、だった。

『小林:吉岡さん、明日のバーベキュー、俺も行くことになったから! ぶっちゃけ、吉岡さんに会いたくて無理言って参加させてもらったんだよね(笑)』

メッセージを見つめながら、私の唇の端が、自然と吊り上がった。

(へえ。私に会うために)

蓮以外の男からの、明確な好意の表明。

私の細胞が、その新しい「餌」に反応して、ゾクゾクと泡立つような感覚を覚えた。

もし、この人と関係を持ったら、どうなるだろう。

蓮くんはどんな顔をするだろう。学校のみんなは、どんな目で私を見るだろう。

普通の「まともな女の子」なら、ここで踏みとどまるはずだった。初めての彼氏を大切にし、健全な高校生活を送るはずだった。

けれど、男性免疫がゼロのまま、歪んだ形で「見た目の価値」と「肉体の快楽」を手に入れてしまった私には、もうブレーキの踏み方が分からなかった。

過剰に適応しすぎた私の精神は、さらなる刺激と、さらなる自己肯定感の暴走を求めて、泥沼へと片足を踏み入れようとしていた。

『吉岡繭:本当? 小林くんが来てくれるなら、私、明日すっごく心強いな。現地で、いっぱいお話ししようね』

送信ボタンを押す指先は、もう微塵も震えていなかった。

(第6話へ続く)

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