不器用な指先
1
金曜日の放課後。都心の私鉄沿線にある蓮のマンションは、私の地元にある古びた一軒家とは何もかもが違っていた。
大理石調の厳かなエントランス、静かに上昇するエレベーター、そして、カードキーで開けられたその部屋は、モデルルームのように生活感が薄く、お洒落なアロマの香りが漂っていた。
「適当に座ってて。今、飲み物持ってくるから」
「あ、うん……お邪魔します……」
蓮がリビングの奥へ向かう背中を見送りながら、私はそっとソファーの端に腰を下ろした。
カバンを抱きしめる腕が、自分でも驚くほど震えている。
ついに来てしまった。男の子の部屋。親は夜まで帰ってこない、完全な二人きりの空間。
学校では「完璧な美少女」を演じられているはずなのに、この部屋の静寂に包まれた途端、私のメッキが内側から剥がれ落ちそうになっていた。
(帰りたい。やっぱり無理、私には早すぎる……!)
心臓が喉の奥までせり上がってくるような錯覚に襲われる。
今なら、急に体調が悪くなったと嘘をついて逃げ出せるかもしれない。けれど、そんなことをすれば、月曜日から蓮がどんな目で私を見るだろう。「期待外れのつまらない女」として、一軍の輪から弾き出されるかもしれない。あの地獄のような、誰からも無視される日々に逆戻りすることだけは、何としても避けたかった。
「はい、アップルティーで良かった?」
「あ、ありがとう」
蓮がグラスをテーブルに置き、私のすぐ隣に腰を下ろした。
ソファーのクッションが沈み込み、彼との距離が一気にゼロになる。学校の制服姿のはずなのに、ネクタイを少し緩めた蓮の姿は、ひどく扇情的に見えた。
「繭ちゃん、さっきからずっと緊張してるよね。顔、すっごく赤いよ」
「え、あ……そんなこと、ないよ……?」
必死に否定しようとするけれど、声が裏返ってしまう。
蓮はクスッと優しく笑うと、私の手からそっとスクールバッグを取り上げ、床に置いた。そして、私の両手を彼の手の中に包み込んだ。
「冷たい。やっぱり緊張してんじゃん」
「蓮くん……」
「大丈夫だよ。何もしないから、リラックスして」
その言葉とは裏腹に、蓮の瞳は熱を帯びていた。
何もしない、という言葉が嘘であることくらい、男性免疫のない私でも肌で察することができた。でも、その嘘の優しさに縋りつかなければ、私は今にも恐怖で叫び出してしまいそうだった。
2
蓮の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
息が詰まる。世界がスローモーションになったように感じた。
長い睫毛、整った鼻筋。彼の唇が、私の唇にそっと重なった。
「ん……っ」
初めての、キス。
頭の中で何かがパチンと弾けるような音がした。
柔らかくて、少し湿った感触。蓮の舌が、私の唇をなぞるようにして滑り込んでくる。どうしていいか分からず、私はただ目を丸くして、体を硬直させることしかできなかった。呼吸の仕方が分からない。酸素が足りなくて、頭がクラクラする。
蓮の手が私の頬を包み込み、そのまま首筋、そして制服のシャツのボタンへと伸びていく。
「あ……」
カチリ、とボタンが外れる小さな音が、静かな部屋に響いた。
その瞬間、私の脳内に、完全に消し去ったはずの「過去」が、濁流のようにフラッシュバックした。
『おい、デコニク。お前、制服パツパツじゃん』
『ボタン弾け飛びそうだな、ウケる』
『背中の肉、チャックに挟まってんぞ』
中学の教室。私を囲んで指をさして笑う男子たちの顔。
引き裂かれた自尊心。油まみれのポニーテール。分厚い眼鏡。
太っていた頃の、あの惨めで醜い自分の記憶が、鋭い刃物となって今の私の肉体を突き刺す。
(嫌だ、見ないで。触らないで……!)
「繭ちゃん?」
蓮が私の異変に気づき、手を止めた。
私は両手で自分の胸元を隠すようにして、小さく丸まっていた。涙がポロポロと目尻から溢れ、綺麗に仕上げたはずのマスカラを滲ませていく。
「ごめ、んなさい……私、やっぱり……っ」
「……初めて?」
蓮の声は、怒ってはいなかった。むしろ、獲物を完全に追い詰めたような、どこか満足げな響きが含まれていた。
彼は私の手を優しく掴み、胸元から引き剥がした。
「そっか。初めてなんだ。……可愛い」
蓮の指先が、ブラウスの隙間から私の鎖骨をなぞり、そのまま下着の境界線へと滑り込んでいく。
触れられた瞬間、全身に鳥肌が立った。
(怖い。痛い。恥ずかしい――!!)
私の内情は、完全にパニックに陥っていた。
男の人の手が、私の皮膚を直接触っている。マイナス8キロを達成して、確かに細くなったはずの私の体。でも、急激に痩せたせいで、太ももの内側や二の腕には、まだ少しだけ肉の柔らかさが残っている。
それを蓮が触った瞬間、「あ、こいつ元デブだ」と気づかれるんじゃないか。そんな恐怖が、頭の芯で警報のように鳴り響き続けていた。
「力を抜いて。俺に任せてよ」
蓮の低い声が耳元で囁かれ、私は抵抗する術を失った。
制服のスカートが床に落ち、私は生まれて初めて、男の人の前で下着姿になった。
恥ずかしさで死んでしまいたかった。部屋の明かりを全て消して欲しかった。けれど、蓮はカーテンから漏れる夕暮れ時の赤い光の中で、私の身体をじっと見つめていた。
「本当にスタイルいいよね。胸もちゃんとあるし、ウエスト細すぎ。合格」
合格。
その言葉を聞いた瞬間、私の心の中に、恐怖とは全く別の、歪んだ感情がピキリと芽生えた。
(あぁ……私は今、この完璧な男の子に『品定め』されて、クリアしたんだ)
中学時代、私を「汚い肉塊」として扱った世界に対する、これが復讐になるのかもしれない。この男を受け入れれば、私は本物の「価値ある女の子」になれる。
恐怖と緊張でガタガタと震えながらも、私は自らを蓮の欲望の生贄に捧げるように、ソファーへと横たわった。
3
ベッドルームへ移動する余裕すら、今の蓮にはなかったらしい。
ソファーの上に押し倒され、蓮の大きな身体が私の上に覆いかぶさる。
男の人の身体は、信じられないほど重くて、硬かった。逃げ出そうとしても絶対に敵わない圧倒的な肉体の格差。それが、さらに恐怖を煽る。
蓮の指が、私の脚を割り、内腿を撫で上げていく。
「あ、痛い……っ、蓮くん、ちょっと、待って……」
「最初だけだよ。すぐ気持ちよくなるから」
蓮の呼吸も、いつの間にか荒くなっていた。学校で見せる爽やかな王様の顔はそこになく、ただの「飢えたオス」の顔がそこにあった。
緊張のせいで、私の身体は完全に強張っていた。
潤いなんてあるわけがない。ただただ恐怖と拒絶反応で、奥の筋肉がカチカチに硬直していく。
そして、その瞬間が訪れた。
「――っ、痛い、痛い痛い! 嫌、やめて……っ!」
身体の芯を、太くて硬い楔で引き裂かれるような、未経験の激痛が走った。
あまりの痛さに、私は蓮の背中に爪を立て、必死に彼を押し返そうとした。けれど、蓮の動きは止まらない。彼は私の涙に濡れた顔を見つめながら、腰の動きを早めていく。
痛い。苦しい。少しも気持ちよくなんてない。
心臓の音が耳の奥でうるさいほどに鳴り響いている。
(これが、初体験……? こんなの、ただの拷問じゃない……!)
ベッドシーンの漫画や小説で読んだような、甘くてとろけるような快感なんて、どこにも存在しなかった。
あるのは、男の強引な肉体の圧力と、皮膚が擦れ合う生々しい音と、自分の身体が他人に侵食されていく圧倒的な不快感だけ。
「あ、ん、っ……ふ、ぅ……」
私は痛みに耐えるため、ソファーのクッションを涙で見えなくなった目で睨みつけ、奥歯をガタガタと震わせながら耐えた。
蓮の口から漏れる、満足げな荒い吐息。
彼は、私の中に自分の欲望をぶちまけることしか考えていない。私の心の内情が、どれだけ恐怖と屈辱でズタズタになっているか、気付きもしない。
「……あ、出そう。繭、顔見せて」
蓮が私の顎を強引に上を向かせ、キスを強要する。
その瞬間、私の中で、何かが完全に壊れた。
(この人は、今の『偽物の私』を消費しているだけだ。もし私が元のデブ眼鏡に戻ったら、ゴミみたいに捨てるくせに)
圧倒的な孤独感が、快感の代わりに私の中を満たしていった。
けれど、その孤独感と同時に、奇妙な全能感も再び頭をもたげた。
(でも、今、この男を満足させているのは、私だ。私がこの身体を差し出しているから、この学校の王様は、こんなに必死になって私を求めているんだ――)
「――っ、はぁ、……繭、最高……」
蓮が私の身体の上に崩れ落ち、熱い吐息を私の首筋に吹き付けた。
部屋の中には、夕闇が完全に降りていた。
私の初めての夜は、ロマンチックな思い出なんかじゃなく、痛みに満ちた、そして自分の価値を男の肉体で証明するための、歪んだ儀式として終わった。
4
それから3週間が経ち、5月の中旬。
私の日常は、目まぐるしいスピードで変質していった。
あの日を境に、私と蓮の関係はクラス公認のようなものになった。放課後は毎日のように彼の部屋へ通い、肉体関係を重ねた。
回数を重ねるごとに、私の身体は確実に「男」という存在に馴染んでいった。最初にあれほど感じていた激痛は消え、代わりに、皮膚の裏側をじわじわと痺れさせるような、肉体的な快感が理解できるようになっていた。
それと同時に、私の内情にも劇的な変化が訪れていた。
「ねえ、繭ちゃん。今日の放課後、ちょっと付き合ってよ」
休み時間。蓮が私の席にやってきて、当然のように私の髪に触れた。
以前なら、それだけで心臓が破裂しそうになっていたのに、今の私は、彼の目を真っ向から見つめ返すことができていた。
「ごめんね、蓮くん。今日はこれから、沙耶ちゃんたちと渋谷で買い物に行く約束があるの」
「え? 俺よりそっち優先?」
蓮が少し不満そうに眉をひそめる。
その顔を見た瞬間、私の胸の奥で、ゾクゾクとするような暗い快感が走った。
(あ、今、蓮くんが私に『焦らされて』怒ってる)
かつては私を支配する神様だと思っていた蓮。けれど、ベッドの上で彼の剥き出しの欲望を見て、その肉体を受け入れていくうちに、私は気づいてしまったのだ。
男なんて、この身体一つで、いくらでもコントロールできる。
私の機嫌一つで、喜ばせることも、不安にさせることもできるんだ、と。
男性に対する恐怖心は、完全に「支配欲」へと上書きされていた。
「もー、怒らないでよ。明日はちゃんと、蓮くんのお部屋に行ってあげるから、ね?」
私は机の下で、蓮の制服のズボンの上から、彼の膝のあたりを自分の爪先でツン、と突っついた。
学校の教室という、誰に見られるか分からない空間での、大胆な秘め事。
蓮は一瞬、目を見開いて絶句した後、顔を微かに赤くして視線を逸らした。
「……分かったよ。明日、絶対だからな」
引き下がる蓮の背中を見送りながら、私は唇の端を吊り上げた。
男性免疫ゼロだった地味子は、もういない。
私は、男という生き物の扱い方を、その肉体を通じて、あまりにも急速に、そして歪な形で学習し始めていた。
(第5話へ続く)




