男という名の異生物
1
週末の原宿駅。竹下通りへと吐き出される人の波は、地元の無人駅しか知らない私にとって、それだけで目眩を覚えさせるのに十分な質量を持っていた。
「あ、繭ちゃん。こっちこっち」
改札の近く、お洒落なセレクトショップの紙袋を手にした神崎蓮が、人混みの中でも一際目立つオーラを放って立っていた。
私服の彼は、制服の時よりもさらに大人びて見えた。緩めの黒いスラックスに、ハイブランドの白いサマーニット。さりげなく首元で光るシルバーのネックレス。
対する私は、この日のために雑誌を何冊も読み合わせ、原宿の雰囲気に浮かないよう必死に選んだ、淡いラベンダー色のシアーブラウスに、タイトなデニムのロングスカート。
「待たせちゃってごめんなさい……!」
「ううん、俺も今着たところ。ていうか、今日の私服もめちゃくちゃ可愛いね。テイスト変えてきたんだ?」
蓮の視線が、私の頭の先からつま先までをゆっくりと滑り降りる。その、品定めするような、けれど純粋に見惚れているような視線に、私のブラウスの裏側は一瞬で嫌な汗に濡れた。
可愛いね、という言葉。それは私にとって、自分の「擬態」が今日も完璧に機能しているという合格通知のようなものだった。
「本当? 都会のお店で服買うの、まだちょっと緊張しちゃって……蓮くんに変って思われたらどうしようって、朝からずっと悩んでたんだよ?」
小首を傾げ、困ったように笑ってみせる。これも動画で覚えた『自分のために頑張ってくれたと男に思わせるテクニック』だ。
蓮は一瞬、目を見開いた後、愛おしそうに目を細めて私の頭をぽんぽんと叩いた。
「バカだな。変なわけないじゃん。むしろ、可愛すぎて他の男に見せたくないわ。……行こうぜ」
そう言って、蓮は当然のように私の手首を掴んだ。
ジャケットの袖口から覗く、男の子の硬くて太い手首。そこから伝わる熱が、私の皮膚を通じてドクドクと心臓へ流れ込んでくる。
手を繋ぐんじゃない。手首を掴んで、人混みから守るように優しく引っ張る。そのスマートな仕草に、私の男性免疫は早くも限界を迎えていた。
(男の人って、なんでこんなに普通に女の子に触れるの……!?)
中学時代、男子との接触といえば、廊下でわざとぶつかられて「チッ、汚ねえな」と吐き捨てられるか、プリントを渡す時に指先が触れそうになって「うわ、デブ菌が移る!」と大騒ぎされるかのどちらかだった。
男という生き物は、私を傷つけ、貶め、嘲笑うための天敵だ。
そんな私の脳内回路を、蓮の温かい体温が、容赦なくバグらせていく。
2
蓮に連れられて入ったのは、裏原宿の路地裏にある、隠れ家のようなパンケーキカフェだった。
コンクリート打ちっぱなしの壁に、お洒落な観葉植物。客層はみんな洗練されていて、中学時代の私なら、店の前を通ることすら気後れして逃げ出していたような空間。
「ここ、イチゴのパンケーキが美味くてさ。女子連れてくるとみんな喜ぶんだよね」
「へえ、そうなんだ……!」
私は笑顔を崩さずに相槌を打ったが、胸の奥がチクリと痛んだ。
『女子連れてくるとみんな喜ぶ』。つまり、彼は私以外の女の子を、何度もここに連れてきているということだ。
そりゃそうだ。これだけ格好良くて、優しくて、クラスの王様みたいな男の子に、彼女の一人や二人、あるいは遊んでいる女の子が何人もいたって不思議じゃない。
(私はただの、その中の一人に過ぎないんだ……)
急に、冷や水を浴びせられたような感覚になり、私は運ばれてきた華やかなパンケーキを見つめた。
1ヶ月前までの私なら、この生クリームの量を前にしたら「太る、またデブって言われる」と恐怖したはずだった。けれど今の私は、マイナス8キロを維持するために胃が小さくなっていて、そもそもこの量を食べ切れる自信がなかった。
「いただきまーす」
フォークで小さく切り分け、口に運ぶ。
「ん、美味しい……!」
「だろ? 繭ちゃん、食べる姿もなんか小動物っぽくて可愛いな」
蓮は頬杖をつきながら、私が食べる様子をじっと見つめている。彼は自分の分のコーヒーを飲むだけで、ほとんど食事に手を付けていなかった。
男の子と対面で、じっと見つめられながらご飯を食べる。そのシチュエーションだけで、喉がキュッと閉まるように狭くなる。
「ねえ、繭ちゃんさ」
蓮がカップを置き、少し声を低くした。
「学校での繭ちゃんって、いつも明るくて、誰にでも優しいじゃん。クラスの男子、みんな繭ちゃんのこと狙ってるの、気づいてる?」
「えっ……? そんな、まさか……」
本当に驚いて、私はフォークを止めた。
「嘘じゃないって。昨日もサッカー部の奴らが、吉岡さんマジで高嶺の花だよな、って話してたし。ガードが固そうだから、みんな声かけるのチキってんだよ」
高嶺の花。ガードが固い。
その言葉が、私の頭の中で奇妙に反響した。
違う。私はガードが固いんじゃない。男の人が怖くて、どう接していいか分からなくて、ただ怯えて縮こまっているだけ。それを、周囲の男たちは「気高く、男を寄せ付けない美少女」だと勝手に勘違いしてくれているのだ。
「だからさ」
蓮がテーブル越しに手を伸ばし、私の指先に触れた。
「俺、焦って誘っちゃった。他の奴らに、繭ちゃんを取られたくなかったから」
真っ直ぐに私を見つめる、蓮の強い瞳。
その瞬間、私の頭の芯が、じわ地響きを立てて融解していくのがわかった。
取られたくない。私を。あの、電子肉と呼ばれていた私を、この完璧な神様が、他の誰にも渡したくないと言っている。
(あぁ……これが、モテるってことなんだ)
中学時代、世界の底辺で泥水をすするようにもがいていた私に、今、最高級の蜜が与えられている。
私はその蜜の甘さに、自分がどれだけ危険な崖っぷちに立っているかも忘れ、うっとりと目を細めてしまった。
3
カフェを出た後、私たちは少し買い物ををして、夕暮れ時の駅へと向かった。
楽しい、夢のような時間だった。蓮はどこまでもエスコートが上手で、車道側を歩いてくれたり、私の荷物を持ってくれようとしたりした。そのたびに、私は「女の子として扱われる」ことの快感に、深く、深く溺れていった。
「じゃあ、俺、こっちの路線だから」
「うん。今日は本当にありがとう、蓮くん。すごく楽しかった」
改札の手前。私は別れを惜しむように、上目遣いで蓮を見上げた。これもまた、お決まりのルーティン。
すると蓮は、周囲の目を気にする風でもなく、私の髪にそっと触れた。
「俺も楽しかった。……次はさ、もっと静かな場所に行こうよ」
「え……?」
「俺の部屋とか。映画のDVD、いっぱいあるからさ」
蓮の言葉の意味を、男性免疫ゼロの私でも、流石に理解できないほど馬鹿ではなかった。
男の子の部屋。二人きり。静かな場所。
それは、何を意味するのか。
「……うん。蓮くんのお部屋、行ってみたいな」
私の口は、私の意志とは裏腹に、滑らかにその言葉を紡ぎ出していた。
怖い。怖い。怖い。
心臓の奥で、中学時代の私が叫んでいる。男の部屋なんて行ったら、何をされるか分からない。私のこの、急ごしらえの身体を触られたら、元デブの痕跡――例えば、急激なダイエットで少し残ってしまった皮膚の柔らかさや、不器用な身のこなしがバレてしまうかもしれない。
けれど、今の私は「蓮に嫌われること」が、世界で一番怖かった。
もしここで断って、「つまんない女」だと思われて、明日から教室でのあの優しい視線が消えてしまったら?
またあの、誰も私を見ない、冷たい暗闇に逆戻りしてしまう。
それだけは、死んでも嫌だった。
4
月曜日。学校へ行くと、蓮の言っていた言葉が本当だと証明された。
「吉岡さん、おはよう! 今週の土曜さ、みんなで映画行かない?」
「吉岡さん、この前の課題のプリント、見せてくれない?」
休み時間のたびに、私の机の周りには男子たちが群がった。
彼らの目は、一様に輝いていた。私の一挙手一投足に一喜一憂し、私が少し微笑むだけで、耳まで真っ赤にして顔を見合わせている。
私はその中心で、完璧な女王として振る舞いながら、心のどこかで冷酷な冷ややかっさを育てていた。
(バカみたい。みんな、私のこの『顔』と『身体』しか見てないんだ)
もし私が、1ヶ月前のあの64キロのデブのまま、同じように「おはよう」と言ったら、この人たちはどんな汚い物を見るような目で私を睨みつけただろう。
男なんて、結局はその程度の生き物だ。中身なんてどうでもいい。ただ、記号として「可愛い女」を側に置きたいだけ。
そう思うと、男に対する恐怖心が、ほんの少しだけ「軽蔑」へと形を変えた。
恐怖が薄れたことで、私の振る舞いには、無意識のうちに拍車がかかっていく。
「えー、土曜日? 行きたいけど、ちょっと予定が入っちゃってて……ごめんね?」
あえて、少しだけ名残惜しそうに断る。男子たちは「あ、そっか……じゃあまた今度な!」と、フラれたにもかかわらず、どこか嬉しそうに引き下がっていく。
断ることで、さらに私の価値が跳ね上がる。手に入らないからこそ、男たちは私を「高嶺の花」として崇め奉る。
私は、男たちをコントロールしているような、奇妙な万能感に包まれていた。
自分が、ただのハリボテの美少女であることも忘れて。
そして、その週の木曜日の放課後。
スマホに、蓮からのラインが届いた。
『神崎蓮:明日、金曜だし学校終わったら俺んち来なよ。親、夜まで帰ってこないから』
親が、いない。
心臓が、ドクンと大きく波打った。
ついに、その時が来る。
私は、新しく買い揃えた、清楚なデザインの、けれど少しだけ胸元が強調される下着のことを思い浮かべていた。
これは、私が高校デビューを完璧なものにするための、最後の儀式だ。
自分にそう言い聞かせながら、私は震える指先で、肯定の返信を打ち込んだ。
(第4話へ続く)




