教室の神様
1
「あ、えっと……」
神崎蓮に覗き込まれた瞬間、私の心臓は肋骨を突き破らんばかりに暴れ狂っていた。
彼の瞳は、濁りのない綺麗な二重で、ハイブランドの柔軟剤のような、爽やかで少し甘い匂いが鼻腔をくすぐる。中学時代の男子たちの、汗と泥が混ざったような生臭さとは根本的に違う、洗練された「男」の匂いだ。
(落ち着け、落ち着け私……! ここで挙動不審になったら、全部バレる!)
私はローファーの中で足の指をぎゅっと丸め、頭の中で「擬態モード」のスイッチをパチリと入れた。口角をきゅっと上げ、少し首を傾げる。YouTubeのモテテク動画で何度も見た、『誘われてちょっと困りつつも嬉しい女の子』のポーズ。
「カラオケ? うーん、楽しそう! でも私、今日ちょっとだけ緊張してて……みんなについていけるかな?」
上目遣いで、あえて少し気弱そうに言ってみる。
すると、蓮の隣にいた少しチャラそうな男子が「大丈夫だって! 吉岡さんが来てくれるだけで、俺らのテンション爆上がりだし!」と身を乗り出してきた。
「ほら、みんな吉岡さんと喋りたがってるよ。行こうぜ」
蓮が私のスクールバッグの持ち手を、指先でちょんと引いた。その自然な仕草に、私の頭はまたショートしそうになる。
断る選択肢なんて、最初からなかった。ここで「帰ります」と言って、クラスの男ウケ・女ウケの両方から孤立する恐怖に比べれば、未知のカラオケに飛び込む方がまだマシだった。
「じゃあ、ちょっとだけ、お邪魔しちゃおうかな」
そう言って笑うと、男子たちが「よっしゃ!」と小さく拳を握るのが見えた。
私は心の中で、冷や汗を流しながら自嘲していた。すごいな、この顔と体。私が一言「行く」って言っただけで、この世界の中心にいるみたいな男の子たちが、こんなに分かりやすく喜んでくれるんだ。
2
駅前のきらびやかなカラオケ店。通されたパーティールームは、すでに独特の熱気に包まれていた。
集まったのは、蓮を中心とした男子4人と、それに負けないくらい垢抜けた女子3人。私を含めて8人。全員が、この1年B組の一軍カーストを形成するであろう面々だった。
「吉岡さん、ここ座りなよ」
蓮が当然のように、ソファーの中央、自分の隣の席をポンポンと叩いた。
「あ、ありがとう……」
私はスカートの裾がめくれないよう慎重に、けれど上品に見えるように腰を下ろした。蓮の太ももと私の太ももの距離は、わずか15センチ。彼が少し動くだけで、制服の生地が擦れ合う音が聞こえそうで、私は背筋をピンと伸ばしたまま、生きた心地がしなかった。
「吉岡さんって、何て呼べばいい? 繭ちゃん、でいい?」
女子の一人、いかにも読者モデルをやっていそうな美形・沙耶が、ストローをくわえながら聞いてきた。
「うん、繭って呼んで! 私も沙耶ちゃんって呼んでいい?」
「もちろん! 繭ちゃん、マジでスタイル良すぎ。どこの中学だったの? うちの地元にいたら絶対噂になってるでき映えだし」
嘘の経歴を話すパートだ。私は事前に用意していた設定を、淀みなく口にした。
「そんなことないよー! 千葉の、すっごい田舎の学校。地味な女子校みたいな雰囲気でさ、毎日ローカル線で通ってたの。だから都会の男の子とか、全然慣れてなくて……」
あえて「男慣れしていない」という事実を、可愛いニュアンスに変換して提示する。これなら、この後もし上手く喋れなくても不自然じゃない。
案の定、対面に座っていた男子たちが色めき立った。
「え、じゃあ彼氏とかいたことないの?」
「うん、全然。ずっと女子とばっかり一緒にいたから」
私がはにかみながら言うと、蓮が隣でフッと小さく笑った。
「へえ。じゃあ、男に免疫ないんだ」
その声が、耳元に近くで響いて、私のゾクッと項の毛が逆立った。蓮はソファーの背もたれに腕を回し、私を包み込むような体勢をとっている。
「なんか……からかいたくなるね、そういうの」
(な、何言ってるの、この人……!?)
中学時代、男子から言われる言葉といえば「ブス」「どけ」「視界に入るな」だった。
「からかいたくなる」なんて、そんな少女漫画みたいなセリフ、現実の人間が口にするのを初めて聞いた。私の顔が、ファンデーションの下で一気に熱くなっていくのがわかった。それを蓮は、おもしろそうに、そして獲物を見つめるような温度のある目で見つめていた。
3
カラオケの機械から、今流行りのアップテンポなJ-POPが流れ始める。
男子たちがマイクを握って盛り上がり、女子たちがそれに合わせて手拍子をする。私はその空間に必死にシンクロしようと、笑顔で体を揺らしていた。
けれど、頭の片隅では、どうしても過去の記憶がチラついて離れなかった。
中学の時、音楽の歌唱テストで私が前に出た時、後ろの席の男子たちがわざとらしくクスクス笑ったこと。
「お前が歌うと地響きがする」と言われたこと。
その時、私はただ下を向いて、分厚い眼鏡の奥で涙を堪えることしかできなかった。
「繭ちゃん、次何歌う? デンモク回すね」
沙耶にそう言われて、ハッと現実に戻る。
「あ、私は歌うの緊張しちゃうから、みんなの聴いてる方がいいな! 聴くの大好きだし!」
「えー、繭ちゃんの歌声聴きたい! 絶対可愛いもん」
男子たちからもブーイングが起きる。けれど、本当に歌うわけにはいかない。歌えば、私の歌い方の癖や、声の震えから、あの「陰キャの私」が漏れ出してしまうかもしれないから。
私が困ったように手を振っていると、隣の蓮がすっと助け舟を出してくれた。
「まあまあ、繭ちゃん最初だし、緊張すんだろ。無理に歌わせんなよ。その代わり、俺とデュエットな」
「えっ、蓮ずるい!」
男子たちのブーイングの矛先が蓮に変わる。蓮はそれを軽くいなしながら、私にウインクをして見せた。
(神様だ……)
この人は、私のピンチを救ってくれる、この教室の完璧な神様だ。
私は心の底からそう思った。彼が私の仮面を守ってくれたのだと。
けれど、それは単なる純粋な優しさではないことに、当時の私はまだ気づいていなかった。
数曲が過ぎ、部屋の照明が少し落とされ、バラード曲が流れ始めた。
みんなの意識がモニターに向いている隙に、蓮が私の耳元に顔を近づけてきた。
「ねえ、繭ちゃん」
「ふぇ? あ、はい……っ」
変な声が出た。蓮の手が、ソファーの上で、私の手にそっと触れていた。
ピト、と温かい手のひらが、私の冷え切った指先を包み込む。
「連絡先、今教えて」
スマホを差し出してくる蓮。彼の親指が、私の手の甲をゆっくりとなぞる。
男の人の手。大きくて、少しゴツゴツしていて、でもすごく温かい。
触れられている場所から、ドクドクと不気味なほどの熱が体中に広がっていく。
「う、うん……いいよ」
私は震える手でスマホを取り出し、彼とQRコードを読み合わせ。
画面に『神崎蓮』の名前と、お洒落な海外の風景のアイコンが表示された。
「ありがと。今日帰ったら、ラインするね」
蓮は私の手をもう一度、今度は少し強くキュッと握ってから離した。
その余韻だけで、私の頭は茹であがってしまいそうだった。男性に対する免疫がマイナス値の私にとって、この程度のボディタッチすら、劇薬を直接血管に注射されたようなものだった。
4
カラオケが終わり、駅前で解散した時には、もう外は暗くなっていた。
「じゃあね、繭ちゃん! また明日!」
「うん、また明日ね!」
沙耶たちと手を振り合い、私は一人、下り電車のホームへと向かった。
1時間半の帰路。電車に乗り込み、ガタゴトと揺られる車内で、私はドアのガラスに映る自分の姿を見つめた。
ミルクティーベージュの髪。綺麗にカールした睫毛。男ウケ抜群の、すっきりとしたアゴのライン。
これが、私。今日、クラスの神様みたいな男の子に手を握られた、可愛い女の子。
ポケットの中で、スマホがブルッと震えた。
画面を見ると、ラインの通知。
『神崎蓮:今日、来てくれて嬉しかった。繭ちゃんマジで可愛すぎて、緊張してあんま喋れなかったわ(笑)』
嘘。あんなに余裕そうに私の手を握っていたクセに、緊張してただなんて。
けれど、その文章が、私の乾ききった自尊心にじわじわと染み込んでいく。
『吉岡繭:私もすごく楽しかった! 蓮くんが隣にいてくれて、安心しちゃったな。助けてくれてありがとう。』
送信ボタンを押す。
すぐに『既読』がついた。
『神崎蓮:男慣れしてないとか、可愛すぎ。今度、二人だけでどっか行かない?』
二人きり。デートの誘いだ。
私の心臓が、またトクンと跳ねる。
怖い。男の人と二人きりで、何を話せばいいのか分からない。何をされるか分からない。
中学時代の私が「やめときなよ、騙されてるよ」と耳元で囁く。
けれど、それ以上に、私の肉体が、この新しく手に入れた無敵の皮フが、もっとあの甘い匂いと、温かい手の感触を求めて疼いていた。
『吉岡繭:うん。私で良ければ、お出かけしたいな。』
1時間半の通学電車が、地元の暗い駅に滑り込む。
眼鏡をかけ、ポニーテールで下を向いていた私は、もうどこにもいない。
私は、蓮の言う「可愛い繭ちゃん」として、この過剰な世界に、もっと深く適応していくことを決めてしまった。
(第3話へ続く)




