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サヨナラ昨日までの私

1

人間の価値は、肉の量とガラスの厚みで決まる。

少なくとも、私――吉岡繭よしおかまゆが過ごした中学校という名の狭い水槽の中では、それが絶対的な真理だった。

「おい、電子肉デコニク。ちょっとそこどけよ」

昼休みの移動教室の廊下。すれ違いざまに、クラスのカースト最上位に君臨する男子が、私の肩をわざと強く叩いていった。

電子肉。それが私のあだ名だった。理由は単純。163センチに64キロという、ちょっとぽっちゃりした体型。いつも分厚い眼鏡をかけて、クラスのオタク男子たちに混ざってボカロ曲やネット小説ばかりを貪っていたから。

「あ、ごめんな……っ」

謝る声すら、自信のなさからくぐもって聞こえた。私の視界は、常に度が合わなくなってきた分厚い眼鏡のフレームと、脂を浮かび上がらせた自分の前髪で縁取られていた。

モデルみたいに細いスクールの中心女子たちに比べれば、私は明らかに太ましく、垢抜けない「お荷物」だった。誰も私を女の子としては見ていなかった。ただの、叩いても文句を言わない便利な肉塊。あるいは、自分たちが「まともな側」にいることを確認するための、哀れな比較対象。

友達はいない。もちろん、男の子と手を繋いだことなんてあるわけがない。

男子から向けられる視線は、いつだって「嫌悪」か「嘲笑」の二択だった。修学旅行の班決めで私と同じになった男子が、「うわ、ハズレ引いたわ。もっと細い子が良かった」と吐き捨てたあの顔を、私は一生忘れない。

「――だから、私は死ぬことにした」

中学の卒業式が終わった日の夜。私は学習机の前に立ち、暗い部屋の中で一人、そう呟いた。

本当に首を吊るわけじゃない。この、64キロの醜い肉塊と、油脂でギトギトの黒髪ポニーテール、 shadowを落とす眼鏡の私を、跡形もなく消し去るという意味だ。

幸いにも、私の学力だけは肉に埋もれなかった。地元から電車で片道1時間かかる、都内の進学高校――私を知る人間が誰もいない、誰も私を「電子肉」と呼ばない新天地の切符を手に入れたのだ。

春休みは、ちょうど1ヶ月あった。

それは、私が別の生き物に変態するための、短すぎる猶予期間だった。

2

「……はぁ、はぁ、んく……っ!」

春休みの間、私の部屋は完全に隔離された『肉体改造の檻』と化した。

朝5時に起き、まだ誰もいない地元の住宅街を、サウナスーツを着込んで走る。

朝食はプロテインとキャベツの千切り。昼は豆腐。夜は茹でたささみとブロッコリー。

それまで私の唯一の救いだった、深夜のポテトチップスや炭酸飲料はすべてゴミ箱に捨てた。空腹で胃がキリキリと鳴るたびに、私は中学の廊下で笑われたあの声を脳内で再生した。

『デブ』

『眼鏡ずれてるぞ』

『あいつと目が合うと呪われる』

(消えてよ……消えてよ、消えてよ!!)

涙がこぼれて、着古したTシャツにシミを作った。それでも足を止めなかった。スクワットを、腹筋を、限界まで繰り返す。

1週間で2キロが落ちた。停滞期が来ると、縄跳びの回数を増やしてでも体重を落とした。

3週間が経つ頃には、私の体から余分な脂肪が、文字通り削ぎ落とされるように消えていっていた。

そして、入学式の3日前。

私は貯め込んだお小遣いを握りしめて、生まれて初めて「美容室」という名のきらびやかな空間に足を踏入れた。地元の床屋ではなく、都心の、ガラス張りの、お洒落な匂いのする場所。

「今日はどうされますか?」

「あ、あの……髪を、染たくて。あと、縮毛矯正も……」

鏡の中に映る私は、まだ怯えた野良犬のようだった。けれど、美容師の放った言葉に耳を疑った。

「お客さん、すごく首のラインが綺麗ですね。鎖骨もちゃんと出てるし。少し明るめの、ミルクティーベージュなんてどうですか? 絶対似合いますよ」

綺麗。似合う。そんな言葉、生まれてから一度も言われたことがなかった。

言われるがままに椅子に座り、数時間。カシャカシャと軽快なハサミの音と、ツンとする薬剤の匂いの中で、私はじっと目を閉じていた。

「はい、お疲れ様でした。目を開けてみてください」

恐る恐る、目を開ける。

そこにいたのは、誰だっただろう。

黒く重たかった髪は、陽の光を浴びて柔らかく透けるような、淡いベージュ色に変わっていた。うねっていた前髪は綺麗に切り揃えられ、おでこのラインに沿って流れている。ポニーテールできつく縛られていた髪が、肩の上でふわふわと踊っていた。

その足で眼科へ向かい、生まれて初めてコンタクトレンズを装着した。

痛みに涙目になりながらも、レンズがピタリと黒目に収まった瞬間。

「あ……」

世界が、信じられないほど鮮明に、眩しく反転した。

視界を遮るプラスチックのフレームはもうない。鏡の向こうにいたのは、分厚いガラスの奥に隠れていた、驚くほど大きな二重の目を持った女の子だった。

家に帰り、体重計に乗る。

【56.0kg】

1ヶ月で、ぴったり8キロが消えていた。

もともと骨組みがしっかりして胸があったせいか、56キロまで落ちた私の体は、ただ細いだけでなく、出るべきところが出た、驚くほどスタイルが良い「モデル体型」へと変貌を遂げていた。

ドラッグストアで買い漁った化粧品を、YouTubeの動画を見ながら必死に顔に塗りたくる。

ファンデーションで肌を整え、チークで頬に血色を与え、リップグロスで唇を濡らす。

鏡の中にいるのは、吉岡繭じゃない。

これは、私が作り上げた、最高に可愛くて、最高に無敵な「擬態コスプレ」だ。

3

4月、入学式当日。

私は新しい制服に身を包み、片道1時間の通学電車に揺られていた。

地元の駅を出発した時は、まだ心臓がバクバクと嫌な音を立てていた。地元の知り合いに見つかったら、「あいつ急に色気づいてる」と指をさされるんじゃないかと怖かった。

けれど、電車が都心に近づき、乗客の顔ぶれが変わっていくにつれて、奇妙な感覚が私を支配し始めた。

(……みんな、私を見てる?)

吊り革を掴んでいるサラリーマン。スマホをいじっている他校の男子。

彼らの視線が、あからさまに私に注がれている。

中学時代の「蔑み」の視線じゃない。もっと熱くて、値値踏みするような、それでいてどこか遠慮がちな、男たちの視線。

私はスカートの裾をぎゅっと握りしめた。

バレてない。私が元ぽっちゃりの眼鏡オタクだってこと、この電車の誰も知らない。

学校の最寄り駅に到着し、桜の舞う校門をくぐる。

掲示板で自分のクラスを確認し、1年B組の教室のドアを開けた瞬間――。

ザワッ、と教室の空気が微かに震えた気がした。

「うわ……めちゃくちゃ可愛い子来たじゃん」

「え、あの子どこの中学? モデル?」

ひそひそと囁かれる声が、ダイレクトに私の鼓膜を震わせる。

私のこと? 本当に?

足が震えそうになるのを必死に堪え、事前に何度も練習した「明るくて、ちょっと抜けている可愛い女の子」の笑顔を作った。

「おはようございます。吉岡繭です。よろしくね」

できるだけ声を高く、弾ませるように。

その瞬間、近くの席にいた男子たちが一斉に顔を赤くして「お、おう、よろしく!」と浮き足立った。女子たちも「吉岡さん、髪色めっちゃ綺麗!」「どこで染めてるの?」と笑顔で集まってくる。

カーストの頂点。

私がかつて、遠くから怯えながら眺めることしかできなかったあの場所に、私は今、何の手続きもなく、ただ「見た目が可愛い」という理由だけで、一瞬にして祭り上げられてしまった。

「ねえ、吉岡さんって彼氏いるの?」

昼休み、机を囲んだ女子の一人が、興味津々という目で聞いてきた。

心臓が跳ね上がった。彼氏? いるわけがない。男の子とまともに話したことすらないのだ。

けれど、「いないよ」と正直に言えば、「あんなに可愛いのに?」と怪しまれるかもしれない。私は精一杯の嘘と、これまた動画で研究した“あざとい仕草”をハジけさせた。

「え~、いないよ! 中学の時は全然モテなくて、ずっと女子とばっかり遊んでたんだよね」

「嘘だぁ! 隠してるでしょ?」

女子たちがどっと笑う。私はその輪の中で、引き攣りそうになる頬の筋肉を必死に維持していた。

楽しい。生まれて初めて、教室という空間で息ができている。

けれど、背中にはじっとりと嫌な汗が流れていた。

もし、この仮面が剥がれたら。

もし、私が男の子と手を繋ぐことすらできない、中身がからっぽの「電子肉」のままだと知られたら、この人たちはどんな顔をして私を切り捨てるのだろう。

4

放課後。

初めてのホームルームが終わり、私はどっと押し寄せた疲労感に耐えながら、帰宅の準備をしていた。

教室の隅々から、男子たちの視線が刺さるように飛んでくるのがわかる。声をかけようか、どうしようか、迷っている男の特有の、あの落ち着かない視線。

「よお、吉岡さん」

不意に、上から降ってきた声に、私の体はビクッと硬直した。

中学時代のトラウマが反射的に肉体を支配しそうになる。私は慌てて笑顔の仮面を貼り付け、声の主を見上げた。

そこにいたのは、クラスの男子の中でも一際目を引く、整った顔立ちの男の子だった。

名前は確か、神崎蓮かんざきれん

入学式の代表挨拶をしていた、スポーツ万能で家柄も良いと噂の、このクラスの確定した「王様」だ。

「これから、クラスの何人かでカラオケ行くんだけどさ。吉岡さんも来ない? 連絡先も交換したいし」

蓮は、いかにも女の子の扱いに慣れた、爽やかで完璧な笑みを浮かべていた。

その目は、まっすぐに私の顔、そして制服の上からでもわかる私の胸の膨らみを捉えていた。

男の子からの、初めてのナンパ。初めての、明確なアプローチ。

私の脳内は、パニックで真っ白に染まりかけていた。

(どうしよう。なんて返せばいい? 嫌われたくない。でも、男の人と二人きりじゃないとはいえ、喋るなんて無理、無理無理――!)

「あ、えっと……」

私の唇が、情けなく震える。

中学時代の地味子が、無敵の美少女の皮を被って、初めて本物の「男」と対峙した瞬間だった。

(第2話へ続く)

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