メッキが剥がれる音
1
六月の終わり。関東地方の梅雨は、世界のすべてを腐らせるかのような、重苦しく、ねっとりとした湿気を帯びていた。
アスファルトから立ち上る雨の匂いが、1年B組の教室のエアコンの風にかき消されていく。
「吉岡さん、昨日の放課後、渋谷のマークシティの近くにいなかった?」
朝のホームルーム前。クラスの一軍女子グループのメンバーが、スマホの画面を私に見せながら、探るような目で話しかけてきた。画面に映っていたのは、夜の渋谷、派手なアッシュ髪の大学生――直人さんと、腕を組んで歩いている女子高生のぼやけた後ろ姿だった。髪の色や体型、そして背負っているスクールバッグは、どう見ても私、吉岡繭のものだった。
私の心臓が、一瞬だけドクンと嫌な跳ね方をした。
皮膚の裏側を冷たい汗が流れる。けれど、私の顔は、一秒の遅れもなく「完璧な擬態の笑顔」を作り出していた。
「えーっ、何これ!? 全然違うよー。私、昨日は放課後すぐ、ママのお買い物に付き合って地元(千葉)のイオンにいたもん。渋谷なんて最近全然行ってないよ?」
「あ、やっぱり? 似てるなぁと思ったんだけど、繭ちゃんがそんな派手な人と歩くわけないよね。変なこと聞いてごめんね!」
女子たちはすぐに納得し、今朝の芸能ニュースの話題へと移っていった。
彼女たちの背中を見送りながら、私は机の下で、制服のスカートを白くなるほど強く握りしめていた。
(危なかった……。本当に、危なかった)
喉の奥がカラカラに乾いている。
「ガードの固い清楚な美少女」という、学校での私のブランド。それがもし、裏で複数の男をハシゴしているただの淫らな女だとバレたら、私は一瞬でこのカーストの頂点から引きずり下ろされる。中学時代の、あの暗い、誰も話しかけてくれない水槽の底へと、再び真っ逆さまに落ちていく。
そんな恐怖が脳裏をよぎるのに、私のスマホは、今日もポケットの中でブツブツと狂ったように震え続けていた。
ラインの通知は、もう3桁に達しようとしていた。
神崎蓮からのメッセージは、もはや恐怖すら覚えるほどの内容に変わっている。
『神崎蓮:繭、なんで今日も無視するんだよ』
『神崎蓮:小林が昨日、お前と同じ香水の匂いさせてた。あいつ、お前に触ったんだろ?』
『神崎蓮:頼むから、俺を見てくれよ。お前がいないと、俺、自分の部屋で狂いそうなんだ。今日、絶対うちに来て』
教室の向こうの席で、蓮はサッカー部の仲間たちの輪にも入らず、ただじっとスマートフォンの画面を凝視していた。彼の美しい顔立ちは、今や嫉妬と猜疑心でドス黒く歪み、かつての「王様」の気品は完全に失われていた。
そして、その蓮を、少し離れた席から嘲笑うような目で見つめている小林くん。
彼もまた、私を一度手に入れたという優越感と、それ以上に「自分のものにならない」という焦燥感で、私に向ける視線が日に日に卑俗で、攻撃的なものに変わってきている。
私が作り上げた、完璧な高校デビューの世界。
二人の男を掌の上で転がし、大人の男たちを魅了していたはずの全能感は、いつの間にか、私自身の首を絞める絞首刑の縄へと変わっていた。スケジュール帳を埋め尽くす肉欲の予定は、私を支える柱ではなく、私を底なし沼へと引きずり込む重りだったのだ。
「……あはは。みんな、私に狂ってる」
乾いた声を出しそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。
もう、ブレーキの踏み方が分からない。メッキが剥がれ落ちる恐怖に耐えるためには、もっと強い快楽の麻薬で、脳を麻痺させるしかなかった。
2
放課後。土砂降りの雨の中、私は結局、吸い寄せられるようにして蓮のマンションへと向かった。
今の蓮に会うのは危険だと、私の理性が警鐘を鳴らしていた。でも、彼の剥き出しの執着を受け止めなければ、私は自分が「価値のある人間」だと信じられなかったのだ。
部屋のドアを開けた瞬間、蓮は私を中に引きずり込み、鍵を閉めると同時に、私の身体を玄関の床へと押し倒した。
「繭……っ! 繭、繭……っ!」
「ん、っ……蓮くん、痛い……っ、冷たいよ……っ」
雨で濡れた私の制服のブラウスに、蓮の熱い涙が滴り落ちる。彼の目は完全に血走っており、私を失う恐怖で、獣のように呼吸を荒くしていた。
「お前、小林ともやってんだろ!? 直人って誰だよ! スマホの画面、チラッと見えたんだよ……っ。俺だけじゃ足りないのかよ!? なんで、なんで他の男にそんな身体見せるんだよ……っ!」
蓮の怒号が、狭い玄関に響き渡る。
かつて私を「ハズレ」と呼び、見下していた男という生き物が、今、私の前でプライドも何もかもをかなぐり捨てて、無様に泣き叫んでいる。
その醜い姿を見た瞬間、私の中の恐怖は、一瞬にして冷酷な、ドス黒い愉悦へと反転した。
(あぁ、そう。そこまで調べてるんだ。私のことが、そんなに狂おしいほど欲しいんだ、蓮くん)
「……蓮くん、落ち着いて?」
私は床に押し付けられたまま、濡れた髪をかき上げ、蓮の頬に優しく手を添えた。そして、これ以上ないほど艶やかで、慈愛に満ちた、でも芯まで冷え切った笑顔を向けた。
「私、どこにも行かないよ? 蓮くんが、私を一番めちゃくちゃにしてくれれば、それでいいの……」
「繭……っ!」
蓮は私の言葉に、救いを求めるようにして、私の唇を貪り尽くした。
彼の動きには、もはや優しさなんて一ミリもなかった。私の制服を破るような勢いで剥ぎ取り、下着を引き裂くようにして、私の身体を剥き出しにしていった。
3
薄暗いリビングのソファ。雨の音が窓を激しく叩く中、私たちは獣のように貪り合い始めた。
「あ、は、っ……ん、んぅ……っ!!」
蓮の硬く、狂暴な質量が、私の身体の最も奥深い場所へと容赦なく突き刺さる。
初体験の時の激痛とは違う、けれど、私の身体を物理的に破壊するかのような強烈な衝撃。肉体が激しくぶつかり合う生々しい水音が、部屋の空気を淫らに染め上げていく。
私はソファの背もたれに指を食い込ませながら、自ら腰を持ち上げ、蓮の狂ったようなピストンをすべて受け止めた。
慣れて、完全に積極的になった私の肢体。それは、快楽を求めていると同時に、蓮の精神をこれ以上ないほど深い泥沼へと沈めるための、能動的な罠だった。
「蓮くん……もっと、きつくして……っ。他の男の人なんて、どうでもよくなるくらい、私を壊してよ……っ!」
あえて、他の男の存在を匂わせるような言葉を口にする。
それだけで、蓮の目はさらに血走り、腰の動きが狂気的なまでに早くなる。
「お前は、俺のもんだ……っ! 他の奴に、絶対に渡さねえ……っ、繭、お前は俺だけでイッてりゃいいんだよ……っ!」
「あ、はぁ……っ、ん、あぁぁぁ……っ、すごい、蓮くん、それ……っ!!」
首筋に歯を立てられ、皮膚が裂けるような痛みが走る。でも、その痛みが、今の私にとっては最高のスパイスだった。男の理性を完全に破壊し、自分の美貌と肉体だけで、学校の王様をここまで無様な獣へと調教したという圧倒的な万能感。
(ほら、見てよ。私を笑った世界。私は今、この完璧な男の人を、私のこの身体だけで支配してるよ)
ソファーの上で、汗と涙、そして淫らな蜜が混ざり合い、飛び散る。
私は蓮の広い背中に両脚を絡みつけ、彼をより深く、自分の奥底へと縛り付けた。
快感の波が、何度も、何度も脳髄を狂わせる。身体は熱く、溶けてしまいそうなのに、私の意識の奥底にある『目』は、どこまでも冷徹に、この破滅的な情事を記録していた。
消費されているんじゃない。私が、この男の人生を消費しているのだ。
これが私の、世界への復讐。
「――っ、繭、お前、マジで……っ、あぁぁ……っ!!」
蓮が私の奥深くで、喉を引き裂くような声を上げた。
同時に、私の身体の最も熱い場所に、ドクドクと大量の熱い質量が注ぎ込まれていく。
その圧倒的な充満感の中で、私もまた、絶頂の波に飲み込まれ、身体を激しく仰け反らせて高い悲鳴を上げた。
「あ、ん、っ……は、あぁぁぁぁ……っ!!」
激しいピストンが止まり、蓮は私の身体の上に、死んだように重く崩れ落ちていた。
4
深夜。一人で下り電車に揺られながら、私はスマートフォンの画面を見つめていた。
首筋には、蓮につけられた赤黒い歯痕が、はっきりと残っている。制服のブラウスの襟を極限まで立てて、それを隠しながら、私は冷え切った指先で画面をスクロールした。
蓮との激しい情事の後、彼が眠っている隙に、私は何も言わずに部屋を出てきた。
スマホには、蓮からの新しいラインはまだ入っていない。
けれど、その代わりに、小林からの一通のメッセージが、私の目を釘付けにした。
『小林:吉岡、お前今日、神崎の家行ったろ。お前らがやってるとこ、写真に撮られて噂になってるぞ。明日、学校来ない方がいいかもな』
スマートフォンの画面が、私の手の震えに合わせてガタガタと細かく揺れた。
心臓の音が、耳元でうるさいほどに鳴り響く。
(噂……? 写真……?)
電車の窓ガラスに映る私の顔は、驚くほど青白く、メイクは完全に崩れ、ミルクティーベージュの髪はボサボサに乱れていた。
そこに映っていたのは、完璧なカースト一軍の美少女ではない。
男たちの欲望に過剰に適応し、自分の輪郭を失ってしまった、ただの「ハズレの吉岡繭」の成れの果てだった。
パキ、と。
私の頭の中で、何かが決定的に、音を立てて割れたような気がした。
私が血を吐く思いで作ってきた、完璧な擬態のメッキが、今、音を立てて剥がれ落ちようとしていた。
(第11話へ続く)




