羊皮紙と、噂と、分かれ道
朝の稽古場で、グーダスは一枚の羊皮紙と向き合っていた。
新人教育の最後に、あの講師から渡されたものだ。
長所、短所、無意識の癖。剣筋の傾向と、その直し方。それらが、癖のある字でびっしりと書き込まれている。
最初は、舌打ちして懐にしまっただけだった。認めるつもりは、なかった。
だが、暇な時間に、何気なく読み返してしまう。それが、いつの間にか、習慣になっていた。
「……重心が、外へ流れやすい、か」
書かれている通りに、剣を構える。踏み込みの、一瞬。意識して、重心を、内へ寄せる。
振り抜いた太刀筋が、いつもより、鋭く走った。
「……っ」
グーダスは、動きを止めた。剣を、見つめる。
父からの手ほどきでは、指摘されたことのない癖だった。何年も、気づかずにいた。それを、たった数日の講習で、見抜かれていた。
「……こいつ、本当に、すごいな」
誰に言うでもなく、つぶやいた。認めたくは、なかった。だが、事実は、事実だった。
グーダスは冒険者ギルドへやってきた。いつもより、人が多く集まっていた。
あちこちで、ひそひそと、話し声が聞こえてくる。グーダスは、掲示板の方へ向かいながら、耳を、傾けた。
「聞いたか、あの村の話」
「ワイバーンが出たんだろ?」
「それだけじゃねえよ。魔狼の群れも一緒に出たらしい」
物々しい話だった。グーダスの足が、自然と、その輪の方へ向いた。
「で、討伐隊は、Bランク以上を集めたのか?」
「いや、それがよ」
声を潜めた男が、周囲を見回してから、続けた。
「新人が一人で片付けたんだと」
「……は?」
グーダスの、足が、止まった。
「Dランクの新人が、だぞ。ワイバーンを、一人で」
「んな馬鹿な」
「本当だって。しかもそれだけじゃねえ」
男は、もったいぶるように、間を置いた。
「その功績で、Cを通り越して、いきなりBランクに昇格したらしい」
ざわめきが、広がった。
「Cを飛ばして?」
「聞いたことねえぞ、そんな話」
「ギルド始まって以来の天才だってよ」
グーダスの背中に、冷たいものが走った。
(まさか)
思い浮かんだ名前を、打ち消そうとした。だが、次の一言が、それを許さなかった。
「名前、なんて言ったっけ。アッチム、だったか」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で積み上げてきたものが、音を立てて崩れた。
アッチム。
新人教育で、一緒だった娘。押しかけ弟子として、あの陰キャ講師に、教えを乞うていた娘。
自分がようやくCに手をかけた、そのすぐ後で、あの娘は、Cを飛び越えて、Bへ行った。
差は、決定的だった。追いつくどころか、もはや、背中さえ見えない。
グーダスは、掲示板の前で、しばらく、動けずにいた。
己の努力を、否定されたわけではない。剣は、確かに、上達している。羊皮紙のおかげで、以前より、遥かに強くなった実感が、ある。
だが、それでも、届かない。
あの、頼りない、おどおどとした講師。あの男の教えを受けた者は、こんなにも、伸びる。
(今さら、頭を下げられるか)
プライドが、それを許さなかった。あの男に、教えを乞う。それだけは、絶対に、できない。
だが、このままでいいとも、思えなかった。
グーダスの手は、無意識のうちに、掲示板の一枚へ、伸びていた。
『Bランク討伐依頼』
届かないはずの、場所への、依頼書。それでも、手を伸ばそうとしている自分に、グーダスは、遅れて、気づいた。
「その依頼、うちも見てたんだが」
ふいに、声がかかった。
振り返ると、三人組の冒険者が立っていた。先頭には、盾を背負った長身の男。引き締まった体つきに、屈託のない笑みを浮かべている。隣には、軽装のスキンヘッドの髭面。そして、その横には、白い神官服をまとい、槍を携えた女が並んでいた。
「人手が一人足りなくてな。よかったら一緒にやらないか」
盾を背負った男が気負いなく誘ってきた。
「……あんたたちは?」
「ああ、失礼。俺の名前はカイルだ。Aランクパーティを率いてる。この街には、少し前から拠点を移していてね」
カイルの目が、まっすぐに、グーダスを見た。
「一人足りなくて困ってるんだ。よかったら、一緒に依頼を受けないか」
グーダスは、しばらく、黙っていた。
あの陰キャ講師には、頭を下げられない。それでも、このままではいられない。行き場のない焦りが、胸の奥で、渦を巻いていた。
「……俺で、いいんですか」
「いいから、誘ってる」
カイルは、あっさりと、答えた。
グーダスは、目の前の依頼書を、もう一度、見た。それから、カイルを、見た。
「……よろしく、お願いします」
頭を、下げた。
それは、あの男に頭を下げることとは、違う。前へ進むための、選択だった。
同じ頃、街外れの、酒場で。
パーダロは、上等な酒を、片手に、涼しい顔で座っていた。周囲の冒険者たちの、噂話が、耳に入ってくる。
「聞いたか、ワイバーンの話」
「ああ、あの村のな。新人が一人で倒したってやつだろ」
「しかもBランクに、一気に昇格したらしいぜ」
一人の男が、記憶をたどるように首をひねった。
「名前、アッチムとかいったか」
パーダロの手が、止まった。
「確か……あの陰キャ講師の、弟子だって言ってたよな」
「マジかよ……あの陰キャ、教えるのは本物だったってことか?」
笑い声が、上がった。
パーダロの、酒杯を持つ手に、じわりと、力が入った。
(あの陰キャの……)
脳裏に、模擬戦の記憶が、蘇る。最高級の魔道具を、すべて使い尽くしても、あの男には、一発たりとも当てられなかった。「道具に、身体が追いついていないだけです」――そう告げられた、あの一言。屈辱は、今も、消えていなかった。
ぱき、と、乾いた音が、した。
パーダロの手の中で、酒杯の脚が、折れていた。中身が、机の上に、こぼれ落ちる。
「……あの陰キャ」
声が、低く、絞り出された。
「つぶしてやる」
周囲の喧騒は、その呟きに、気づかなかった。
パーダロは、割れた酒杯を、静かに、握りしめたまま、動かなかった。その目には、これまでの、優雅な余裕は、もう、どこにもなかった。
※ニャリエナの独り言
今日は三人でごちそうを食べたニャン!
次回、『アッチム、大ピンチニャン!』
期待してニャン!




