衛依頼と、何気ない動作と、面白い人
待ち合わせの広場に現れたのは、昨日の女性だけではなかった。
その傍らには、二人の供がいた。一人は、きっちりと身なりを整えた侍女らしき女性。もう一人は、見上げるほどの大男だ。寡黙そうな顔つきで、両腕にはすでに荷物がいくつも抱えられている。
「本日からよろしくね」
女性が、上品に微笑んだ。
「は、はい……よろしくお願いします……」
アルファスが、ぺこぺこと頭を下げる。その隣で、アッチムが小声でぼやいた。
「で、お貴族様はどこへ行きたいんすか」
「お嬢様、と呼んでくださるかしら」
女性は、くすりと笑った。それから、人差し指を頬に当てて、少し考えるそぶりを見せる。
「そうね。まずは、あちらの市場を見てみたいわ」
「お嬢様」
すかさず、侍女が口を挟んだ。
「市場は人が多うございます。あまり、お一人で先へ行かれませんよう……」
「平気よ。今日は腕利きの護衛がいるのだから」
女性は、まるで取り合わずに、さっさと歩き出してしまった。
「お、お嬢様……!」
侍女が、慌てて後を追う。寡黙な大男も、荷物を抱えたまま、のっそりとついていった。三人も、顔を見合わせて、その後に続く。
それからの数刻は、振り回されっぱなしだった。
お嬢様は、市場の屋台を一つひとつ覗いては、目を輝かせた。串焼きの匂いに足を止め、果物の山に歓声をあげ、見慣れない雑貨を手に取っては、店主にあれこれ質問する。そのたびに、一行はぞろぞろと付き従わなければならない。
「ねえ、あれは何かしら」
「串焼きっすね」
「食べてみたいわ」
アッチムが、げんなりした顔で串焼きを買いに走った。
「お嬢様、お行儀が……」
「いいじゃない。こういう時でなければ、食べられないもの」
侍女がたしなめるのも、どこ吹く風だ。お嬢様は、串焼きを上品に頬張って、ふわりと笑う。
「美味しいわね、これ」
「お肉ニャン!」
いつの間にか、ニャリエナも一緒に串焼きを頬張っていた。
「なんでニャーちゃんの分まで買わされてるんすか!?」
アッチムが頬を膨らませる。
「一緒に食べたほうがおいしいニャン。固い事いっちゃだめニャン」
その横で、寡黙な大男は、お嬢様が「これも素敵」「あれも気になるわ」と指さすたびに買い込まれた品々を、黙々と抱え続けていた。荷物の山は、もはや顔が隠れるほどに積み上がっている。
「……あの人も、大変そうっすね」
アッチムが、同情のまなざしを向ける。
一方、アルファスはといえば、終始おろおろしながら周囲に目を配っていた。人混みの中、お嬢様がふらふらとどこかへ行ってしまわないか、気が気でない様子だった。
「あ、あの、お嬢様……あまり、離れないように……」
「あら、心配性ね」
お嬢様は、楽しげに振り返って笑った。
昼を過ぎた頃だった。
市場の喧騒を、突然、悲鳴が切り裂いた。
「馬が……! 馬が暴れてるぞ!」
人々が、いっせいに逃げ惑いはじめた。
通りの向こうから、それは現れた。荷馬車用の大きな馬が、何かに怯えて手綱を引きちぎり、暴走していた。
蹄が石畳を叩く音が、地鳴りのように響いている。目は血走り、泡を吹き、もはや制御できる状態ではなかった。
「お嬢様、お下がりください……!」
アルファスが、とっさにお嬢様を庇うように前へ出た。その顔から、おどおどとした気配が、すっと消えていく。
「ひっ……お、お嬢様、こちらへ……!」
侍女が、青ざめて主の腕を引いた。寡黙な大男も、荷物を投げ捨て、大きな体で壁を作る。
その時だった。
逃げ惑う人波の中で、小さな子供が、つまずいて転んだ。
「あ……っ」
母親とはぐれたのか、一人きりだった。立ち上がろうとして、また転ぶ。その先を、暴れ馬が、まっすぐに駆けてきていた。
誰もが、逃げることに必死で、気づかない。気づいても、足が動かない。
だが。
「危ない……!」
真っ先に動いたのは、お嬢様だった。
侍女の手を振り払い、ドレスの裾を翻して、子供のもとへ駆け出す。迷いは、一切なかった。上品な令嬢の、どこにそんな速さがあったのか。あっという間に子供を抱きすくめ、その小さな体を、自らの腕の中に庇った。
「お嬢様ーっ!」
侍女の悲鳴が、響いた。
暴れ馬が、止まらない。蹄が迫る。子供を抱えたお嬢様の、すぐ目の前に。
間に合わない。誰もが、そう思った。
お嬢様は、子供を抱きしめたまま、まっすぐに前を見据えていた。恐怖に目を閉じることも、悲鳴をあげることもなく、ただ、子供を守るように、その身を丸めた。
蹄が、振り下ろされる。
――その瞬間。
暴れ馬が、ぴたりと止まった。
「…………」
何が起きたのか、誰にも分からなかった。
ただ、馬はすでに静かになっていて、その手綱を、アルファスが握っていた。いつ動いたのかも、何をしたのかも、見えた者はいない。気づいたときには、もう、終わっていた。
馬は荒い呼吸を繰り返していたが、不思議なほど大人しくなっていた。アルファスの手が、そっと馬の首筋に触れている。
「だ、大丈夫ですか……!?」
次の瞬間には、アルファスは、いつものおどおどした様子に戻っていた。手綱を近くの男に押しつけ、おろおろとお嬢様に駆け寄り、その無事を確かめる。
「け、怪我は……ないですか? お子さんも……お嬢様も……」
お嬢様は、腕の中の子供を、そっと地面に下ろした。子供は、わっと泣き出して、駆けつけた母親のもとへ走っていく。
「……ええ。わたくしも、この子も、無事よ」
お嬢様は、ゆっくりと立ち上がりながら、答えた。その瞳が、まっすぐにアルファスを見つめていた。
「あなたが、助けてくれたのね」
「い、いえ……ぼ、僕は何も……馬が、勝手に止まっただけです……」
アルファスは、目を逸らして、もごもごと言った。
「勝手に……」
お嬢様は、小さく繰り返した。それから、ふっと微笑む。
何をしたのかは、分からない。けれど、この男が何かをしたことだけは、分かった。
「……そう。勝手に、止まったのね」
お嬢様は、それ以上、追及しなかった。ただ、その目には、隠しきれない興味の色が、ありありと浮かんでいた。
三日間の護衛を終え、アルファスたちと別れた帰り道。
馬車に揺られながら、お嬢様は、窓の外を眺めていた。
「お嬢様、三日間、お疲れさまでございました」
向かいに座る侍女が、ほっとした様子でため息をついた。
「正直に申し上げますと……あの方で大丈夫なのかと、終始ひやひやしておりました。頼りなさそうで、おどおどしていて、護衛らしいことは何ひとつなさっていなかったように見えましたが……」
「あら?」
お嬢様は、窓の外を見たまま、小さく首を傾げた。
「少なくとも、暴れ馬をなだめたのは、あの方よ?」
「そうなのですか? あの方は勝手に止まったとおっしゃっておりましたが……」
お嬢様はくすりと笑って続けた。
「初日に市場で、わたくしの財布に手を伸ばした者がいたのだけれど。手が届く前に、不自然につまずいていたわ」
「……え?」
「路地裏で柄の悪い男たちが、四人ほどこちらへ近づいてきていたの気づいたかしら? あの方が、さりげなく道を変えるたびに、全員が空振りしていたの」
侍女は、口を開けたまま固まった。
「それから食事処で、隣の席の男が、わたくしの杯に何か入れようとしていたわね。あの方、自分の荷物を落として騒ぎを起こして、その隙に席を替えさせたの」
「そ、そんなことが……」
「わたくしが気づいたのはそれだけ。もしかしたら、もっと何かしていたのかもしれないわ。全部、何気ない動作に見せかけていたわね」
お嬢様は、楽しそうに笑った。
「あの方、三日間で一度も剣を抜いていないのよ。それでいて、わたくしには傷ひとつついていない。こんな護衛、見たことがないわ」
侍女は、しばらく呆気にとられていた。
「……そんなにすごい方だったのですね。くじで選ばれたのに……」
「くじに見せかけていたのよ」
お嬢様は、いたずらが成功した子供のような表情を浮かべた。
「公然と一人を選んでは、角が立つでしょう。だから、公平なくじということにしてもらったの。事前にギルドに話を通しておいたのよ。優秀な護衛を紹介……ナタリア、といったかしら。あの受付の方。後で、礼を言っておかなくては」
侍女は、もう何も言えなかった。仕える主の聡明さは、今に始まったことではないが、今日ばかりは、自分の目の節穴ぶりが恥ずかしかった。
「なかなか面白い人を、見つけましたわ」
お嬢様は、窓の外へ視線を戻した。遠ざかっていく街並みの、その向こうを見るように。
その横顔には、もう一度あの男に会うことを、すでに決めているような笑みが浮かんでいた。
※ニャリエナの独り言
お嬢様に振り回されて疲れたニャン!
次回、『Cランクに昇格するニャン? しないニャン?』
期待してニャン!




