聖典と、初めての素顔と、師匠のおかげっす
アッチムは一枚の羊皮紙を机に広げ、指でなぞりながら内容を確認していた。その羊皮紙を、アッチムは宝物のように扱っていた。新人教育の最後に、アルファスから手渡されたものだ。
「すげぇっす……」
羊皮紙にはびっしりと、細かな文が書き込まれている。
魔力の流路。
術式の構築。
自分の癖と、その直し方。
他人が見れば、ただのメモの羅列にしか見えないだろう。判読すら難しい走り書きだ。だが、アッチムにとっては、聖典だった。
ここに書かれていることを、一つずつ自分のものにしていけば、強くなれる。その確信があった。
修行を始めて、数日。
最初は、面白いように上達した。羊皮紙の内容通りに身体を動かし、術式を組む。それだけで、これまで何年も越えられなかった壁が、次々と消えていった。
だが、ある日、上達がぴたりと止まった。
「……あれ?」
氷結術式が、安定しなくなった。羊皮紙に書かれた通りに、魔力を循環させているはずだった。なのに、五回に一回は失敗する。出力がぶれ、術式が途中で崩れてしまう。
「氷結……っ、やっぱりだめっす」
何度やっても、同じだった。魔力の流れの、どこかが噛み合っていない。けれど、それがどこなのか、自分では分からない。
アッチムは、羊皮紙を睨みつけた。書いてあることは、全部やったはずだった。それでも、答えは見つからなかった。
結局、アッチムは師匠を頼ることにした。
「師匠ー! おはようございまっす!」
宿の一室であるアルファスの部屋を訪ねると、アルファスは、ニャリエナに髪を引っ張られながら、おろおろしていた。
「師匠……また奴隷とやらしい事してたっすね?」
「ち、違います。してませんから!!」
必死に否定するアルファスを無視して、アッチムは切り出した。
「魔力が、途中で流れなくなるっす」
アッチムは、羊皮紙を広げて事情を説明した。
何度やっても氷結が安定しないこと。
原因が、自分では分からないこと。
隣で聞いていたニャリエナが口を挟んだ。
「おまえのにおいから判断すると、呼吸がおかしいニャン」
「は?」
アッチムは思わず顔をしかめた。
「食って寝るだけのアホ猫に何が分かるんすか?」
「ふぎー!」
ニャリエナの耳が逆立った。
「二人とも、喧嘩はだめです! ええと……」
アルファスはそう言いながら、その羊皮紙を覗き込んだ。
ぶつぶつと何かをつぶやきながら、眼鏡を、すっと外した。そして、布でレンズを拭いた。ただ、それだけの動作だった。
だが、その横顔から、おどおどとした気配が、消えていた。背筋が、自然と伸びている。真剣な表情で思考をめぐらせている。
アッチムは気づいてしまった。
前髪の隙間から覗く、眼鏡のない素顔。普段は分厚いレンズと長い前髪に隠れて、まるで見えなかったそれが、今は、はっきりと見えていた。
初めて見る師匠の素顔は、思っていたより、ずっと幼い顔立ちで、不思議なくらい綺麗な目をしていた。
アッチムの心臓が、ことり、と跳ねた。
「……たぶん、呼吸ですね」
「へ?」
アルファスが、顔を上げた。アッチムは、慌てて目を逸らす。
「魔力を循環させるとき……息を、止めてませんか? 吸うのと吐くのが、術式の流れと、ずれてるんだと思います」
「こ、呼吸……っすか」
「術式の循環に、呼吸を合わせると……たぶん、安定します」
アルファスは、眼鏡をかけ直した。
その瞬間、整った素顔は前髪の奥へ引っ込み、いつもの、頼りない陰キャ講師に戻った。背筋も、また少し丸くなる。
「……あの、間違ってたら、すみません」
おどおどとした、いつもの声だった。
「い、いえ……ちょっと、試してみるっす」
アッチムは、妙に早口になっていた。
「どうニャン! わたしの言った通りニャン!」
ニャリエナは得意げに胸を張った。立派なメロン二個分のお胸がプルンと揺れた。
アッチムは軽く舌打ちした。
「……たまたまっすよね? これ見よがしに胸を強調するのみっともないっすよ?」
「たまたまじゃないニャン! それと、おまえのは小さすぎるニャン」
「はあ? デカけりゃいいってもんじゃないっす! ねえ? 師匠!」
突然話を振られたアルファスは、きょとんと瞬きをした。
「あ、ええと……大きい方が良いと思います……」
そう言って、アッチムとニャリエナを交互に見た。
アッチムはみるみるうちに涙目になった。
「気にしてるのに! ひどいっす!」
アッチムは羊皮紙をひったくると、そのまま扉の外へ走り去った。
「あ、ええと……魔力の流れの大きさの話じゃなかったでしたっけ?」
アルファスは困惑した様子で、眼鏡を押し上げた。
「あのクソ猫とエロ師匠が!」
アッチムはぶつぶつと文句を言いながらも、言われた通り呼吸を意識しながら、術式の修行を再開した。
「氷結」
氷柱が、すっと立った。崩れも、ぶれもない。完璧だった。
「……おお?」
もう一度試すが、やはり成功した。あれほど悩んでいた不安定さが、嘘のように消えていた。
「エロ陰キャの癖に、実力だけはやっぱすげぇっす!!」
そう言った瞬間、眼鏡を外した師匠の顔が頭をよぎった。
「べ、別に思い出さなくていいっす」
アッチムはブンブンと頭を振った。
数日後、アッチムは、初めて、単独で依頼を受けた。
これまで、隣にはいつもアルファスがいて、何かあれば的確な指示が飛んできた。それが、今日はない。
受付で依頼書を受け取りながら、アッチムは、ほんの少しだけ、心細かった。
懐から、羊皮紙を取り出す。アッチムにとっての聖典だ。師匠が、自分のために書いてくれたもの。それを見ているだけで、不思議と、背中が押される気がした。
ふう、と深呼吸をひとつ。
「……行くっす」
アッチムは、顔を上げて、歩き出した。
依頼は、難なく進んだ。
道中の魔物は、習った通りの動きで対処した。呼吸を合わせた氷結は、一度も崩れなかった。危険な場所も、足元や周囲に気を配れば、自然と避けられた。
全部、師匠に教わったことだった。
気づけば、アッチムは依頼を完遂していた。誰の助けも借りずに一人での完遂は初めてだ。
「……やったっす!」
喜びを噛みしめて、アッチムはしばらく動けなかった。
じわじわと、胸の奥が、熱くなっていく。冒険者として、確かに前へ進んでいる事を実感した。師匠のおかげだ。
ギルドへ戻り、達成報告をすると、ナタリアさんが驚いた顔をした。
「初めての単独依頼で、もう成功したのかい?」
「師匠のおかげっす」
アッチムは、胸を張って答えた。
「師匠……? もしかして、アルファス君の事かな?」
「そうっす」
そう言って頷くと、ナタリアさんも「なるほどねえ」と言ってニコリと笑った。
一方その頃、アルファスは、宿の裏で、洗濯物を干していた。
「……へくしょっ」
小さな、くしゃみが出た。アルファスは、不思議そうに首をかしげた。
「誰か、勇者様の話してるニャン」
隣で洗濯籠を抱えたニャリエナが、当たり前のように言った。
「そ、そんなこと、ないと思いますけど……」
アルファスは、おずおずと答えて、また一枚、シャツを干した。
「勇者様は強いしかっこいいから、噂されてもおかしくないニャン」
「……ニャリエナさんにそう言われると、ちょっと照れますね。でも、たまたまだと思いますよ」
アルファス眼鏡を押し上げながら、頭をかいた。
ニャリエナはひくひくと鼻を動かした。
「……勇者様、最近何だか変わったニャン?」
「え? 別に前と同じですよ?」
「ふーん。そうニャン」
ニャリエナは首を傾げた。
そういえば、勇者様から感じていた不思議なにおいが、最近減ったような気がした。
※ニャリエナの独り言
あいつちょっとずつ成長してるニャン!
次回、『新人同士の争いニャン!』
期待してニャン!




