修了と、羊皮紙と、あの人本物だ
「……はっ」
アッチムは、重たい瞼を開いた。冷たい石床の感触が背中に伝わる。
ぼやけた視界の先で、新人たちが次々と身体を起こしていた。黒い霧は消えていた。あの異形の魔獣も、どこにも見当たらなかった。
「お、おれたち……」
「いったい、何が……」
誰もが、混乱していた。
「あ、よかった……みなさん、ご無事ですね……」
声の方を見ると、アルファスが、おろおろしながら立っていた。いつもの、頼りなく縮こまった姿だった。
「あの魔物は……どうなった?」
グーダスが、起き上がりながら尋ねる。
「き、気づいたら……いなくなってました……」
アルファスは、眼鏡を押し上げて、目を逸らした。
「ほ、本当に……運が、よかったです……」
誰も何も言えなかった。あれほどの魔物が、突然消えるなど聞いたことがない。
その沈黙を破ったのは――
「ふにゃ……もう食べられないニャン……すぴー」
ニャリエナだった。
少し離れた場所で丸くなり、気持ちよさそうに寝息を立てている。
「に、ニャリエナさん、起きてください……帰りますよ……」
「ふにゃ……勇者様……一緒にお風呂入るニャン……」
「寝ぼけないでください! ほら、起きて!」
寝ぼけたニャリエナを抱き起こしながら、アルファスは新人たちを見渡した。
「あの……今回は、本当に運が良かっただけ、ですから……」
アルファスは珍しく視線を逸らさなかった。
「常に、意識を集中させて……想定外のことが、起きたら……すぐに、撤退してください。それが……生き延びる、一番の方法ですので……」
新人たちは、顔を見合わせた。狐につままれたような顔だった。
だが、すぐに、いつもの空気に戻った。
「結局、何だったんだよ」
「どうせ、逃げ回ってるうちに、勝手にいなくなったんだろ」
誰も、目の前の男が何かをしたとは考えていなかった。
アッチムだけは、その男をじっと見つめ続けていた。
ギルドへ戻ると、ナタリアさんが待っていた。
「お疲れさま。全員、無事の帰還だね」
ナタリアさんは、新人たちを見渡して、にっこりと笑った。
「これにて、新人教育は修了だ。よく頑張ったね」
そして、一人ずつに、冒険者ライセンスを手渡していく。
新人たちの顔が、ぱっと明るくなった。ようやく、正式な冒険者だ。
その後ろから、アルファスが、おずおずと進み出た。手には、人数分の羊皮紙が握られている。
「あ、あの……これ、よかったら……」
アルファスは一人ずつに、羊皮紙を手渡していった。
「皆さんの……これからの、参考になればと……思いまして……」
しかし、ほとんどの新人は、ろくに目も通さず、羊皮紙を荷物へと押し込んだ。
「はいはい、どうも」
「終わった終わった」
めいめいに、ギルドを出ていく。
グーダスは、羊皮紙に、ちらりと目を落とした。
その瞬間、眉が、ぴくりと動いた。そのまま羊皮紙を両手で持ち直すと、食い入るように内容に目を通した。
「……ちっ」
舌打ちをひとつ。
「あいつは、何なんだ」
吐き捨てるように呟いて、けれど羊皮紙は、丁寧に懐へとしまい込んだ。
パーダロは、立ち止まって、羊皮紙を読んでいた。
最初は鼻で笑いながら。次は眉をひそめながら。そして、いつの間にか両手で羊皮紙を持ち直していた。
読み進めるうちに、その顔が、みるみる赤くなっていく。
「……ふざけるな」
声を絞り出すと、羊皮紙を引き裂いた。
「ふざけるな……! Dランクの、陰キャごときが……!」
そのまま破り捨てて、足音も荒く、去っていった。
アッチムは、その場から動けずにいた。
手元の羊皮紙から、どうしても目が離せなかった。びっしりと書き込まれた文字に、思わず息を呑んだ。
長所。
短所。
無意識の癖。
氷結術式の欠点。
そして、これから先に進むための修行法。
どれも、驚くほど正確だった。あの退屈な講義と、たった十分の模擬戦。それだけで、自分はここまで見抜かれていた。
全身が泡立つ。
これほどの衝撃を受けたのは、生まれて初めてだった。
新人たちがそれぞれ違った反応を見せる中、アルファスは、そっとナタリアさんに近づいて声をかけた。
「あの……ナタリアさん」
小さな声だった。周囲を気にしながら、おずおずと続ける。
「実は……ダンジョンで、異常個体が出現しまして……」
ナタリアさんの片眉が、わずかに上がった。
「今回は全員帰還できましたが……運が良かっただけだと思います……」
「……ほう」
「それで……ひとつ、提案が、あります」
アルファスは、眼鏡を押し上げた。
「討伐依頼の必要ランクを……少なくとも、一つずつは……引き上げることを、提言します。今の基準のままだと……異常個体に当たったとき……帰ってこられない人が、増えます」
淡々と、けれど迷いのない声だった。
ナタリアさんは、しばらく、その顔を見ていた。
近頃の異常個体の増加と、それに反比例した帰還率の低下の問題。冒険者ギルドが、ずっと頭を悩ませてきた問題。その核心を、この頼りない男は、たった一度の実践で、言い当てていた。
「……了解した。上に掛け合っておくよ」
「す、すみません……出すぎたことを……」
「いや」
ナタリアさんは、小さく首を振った。
「助かったよ」
「勇者様ー!」
ニャリエナが、ぴょこぴょこと駆け寄ってきた。
「お腹すいたニャン! 賄い、賄いニャン!」
「あ、今日の賄い……いただいていいですか?」
「いただくニャン! お肉ニャン!」
「そ、そんなに食べたら、お金が……」
「賄いはタダニャン♡」
ニャリエナが尻尾を振り回す。アルファスは困った顔のまま、それでも引きずられるように歩き出した。
「じゃ、じゃあ……失礼します……」
ぺこり、と頭を下げて、二人はギルドを出ていった。
その背中をアッチムは、じっと見送っていた。
おどおどとした、小さな背中。誰がどう見ても、頼りない陰キャ講師だった。
けれど。
「……あの人、本物だ」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
同じ背中を見送りながら、ナタリアさんもまた、口元に笑みを浮かべていた。
「アルファス君。これは予想以上だ」
カウンターに頬杖をついて、目を細める。
「きみの正体に、俄然興味がわいてきたよ」
それから、ナタリアさんはくるりと後ろを向いて、事務作業に戻った。
書類を整理しながら、小さくつぶやいた。
「ふふ。これで、種は蒔かれた。さあて……何人が、花を咲かせてくれるかね」
※ニャリエナの独り言
賄いはハンバーグだったニャン。三つ食べたニャン!
次回、『新人がひとり押しかけてきたニャン』
期待してニャン!




