第2話 奴隷と、相部屋と、お風呂
街が見えてきた頃、アルファスが足を止めた。
門の手前に、検問所がある。衛兵が二人、往来を確認している。
「あの……ニャリエナ氏」
ぼそぼそと、声が出た。ニャリエナは隣で耳をぴくぴくさせながら門を眺めている。
「その、言いにくいというか……僕の口からはなかなか……その……」
アルファスは眼鏡を押し上げた。押し上げた。もう一度押し上げた。
「……獣人の方が人間の街に入るには……その……法律上……僕なんかが言うのも大変おこがましいんですが……」
「なんニャン」
「…………奴隷、契約が……必要で……あわわ……」
最後の方はほとんど聞こえなかった。
「僕なんかのせいでそんな思いをさせるくらいなら……その……縁を切って元いた場所に帰った方が……ニャリエナ氏のためで……」
「奴隷にしてほしいニャン」
間髪入れずだった。
「ふぁ!?」
「奴隷にしてほしいニャン。早くするニャン」
「い、いや待って、その……わかってて言ってますか? 奴隷というのは……その……」
「奴隷になったら、勇者様のそばにいられるニャン?」
「……いられますが……」
「望むところニャン」
アルファスは口をぱくぱくさせた。メガネが少し曇った。
「そういう話では……その……僕なんかの奴隷になっても、何もいいことは……あぅ……」
「早くするニャン」
ニャリエナはすでに検問所の方へ歩き出していた。アルファスは慌てて後を追いながら、ぶつぶつと独り言を言い続けた。
「僕なんかのせいで……その……本当に申し訳なくて……うぅ……」
登録所は街の門を入ってすぐの小屋だった。
受付の男は書類を広げながら、アルファスを一瞥し、ニャリエナを一瞥し、それからまたアルファスを見た。
「所有者の名前は」
「アルファス、です……」
「職業は」
「……旅人、です」
受付の男は職業欄に『無職』と記入した。ニャリエナは受付台に顎を乗せて、興味深そうに男のペンの動きを眺めていた。
「これに印を」
書類が差し出された。アルファスはしばらく見つめた。
獣人奴隷契約登録。所有者の責任において管理すること。逃亡した場合の責任は所有者が負うこと。
「ぅ……」
「どうかしましたか?」
「いえ……なんでも……ないです……」
アルファスは印を押した。受付の男は引き出しから細い腕輪を取り出して、カウンター越しにニャリエナの手首にはめた。銀色の、地味な輪だった。
「逃亡防止の魔法錠でございます。所有者の許可なく一定距離を超えると作動します」
「作動すると?」
「相当の苦痛を伴います」
アルファスはその腕輪をしばらく見つめた。
「え、と……」
「どうかしましたか?」
「いえ……なんでも……ないです……」
アルファスと受付の男のやり取りの横で、ニャリエナは腕輪を眺めていた。腕輪をくるくると回しながら、アルファスを見た。
「これでわたしは、勇者様のものニャン?」
「そう、です……その……本当に申し訳な……」
「嬉しいニャン」
尻尾が大きく揺れた。
アルファスは何も言えなかった。ただメガネを押し上げて、小さくため息をついた。
登録所を出ると、ニャリエナは腕輪をくるくると回しながら通りを見渡した。
「人間の街、初めてニャン。いろんなにおいがするニャン」
アルファスはその後ろをトボトボとついていく。背中の荷物がごちゃごちゃと鳴った。
路地に差し掛かったところで、前から三人の男が現れた。酒のにおいを漂わせた、見るからに柄の悪い男たちだった。
「おい、ちょっと待てよ」
アルファスは足を止めた。
「な、なんですか……あわわ……」
「なんですか、じゃねえよ。陰キャの兄ちゃんが、いっちょ前に獣人奴隷なんか連れやがって」
男たちがにやにやしながら近づいてくる。アルファスはもぞもぞと後退りした。
「そ、その……通行の邪魔に……あぅ……」
「邪魔? はあ? なに言ってんだこいつ」
男の一人がニャリエナの腕をつかんだ。ニャリエナの耳がぺたりと伏せる。尻尾は足の間へ入り込み、肩まで小さく縮こまっていた。
アルファスはニャリエナの顔を見た。
明らかに怯えた表情をしている。それは、森で追い詰められていた時と、同じ顔だった。
アルファスの縮こまっていた気配が、すうっと消え、背筋が伸びた。
「悪いけど……その手、離してもらえますか」
声が変わっていた。さっきまでのぼそぼそとした声ではない。静かで、平坦で、有無を言わせない声だった。
「あ? なんだよ急に——」
男が振り向いた瞬間には、もう終わっていた。
剣の柄で首筋を打って一人。振り返りざまに足を払って二人。最後の一人が声を上げる間もなく、手首を極めて壁に押し当てた。
「あわわ、やっちゃった……ニャリエナ氏、怪我はないですか」
アルファスは眼鏡を押し上げた。それからニャリエナを見て、転がっている男たちを見た。
最後に、背中を丸め縮こまった。
「あ、あぅ……みなさん、その……大丈夫ですか……」
男たちは完全に伸びていた。
ニャリエナは耳をぴんと立てて、アルファスのにおいを嗅いだ。
「いい匂い。かっこいいニャン!」
「そ、そんなことは……は、早く宿に行きましょう……」
アルファスはそそくさと歩き出した。背中の荷物がまたごちゃごちゃと鳴った。
宿に着いたのは日が傾いた頃だった。
宿の主人は帳簿を確認しながら、首を振った。
「あいにく空き部屋がひとつしかなくてね」
「ひとつ……ですか」
「ベッドもひとつだ。それでよければ」
アルファスはニャリエナを見た。ニャリエナはアルファスを見た。
「いいニャン」
「よ、よくないです! その……僕は床で寝るので……いや、それとも別の宿を……」
「この街に宿はここだけだよ」と主人が言った。
「……ふぁ!?」
「決まりニャン」
ニャリエナはすたすたと階段を上がっていった。アルファスはその場に残されたまま、ぶつぶつと独り言を言っていた。
「僕なんかと同じ部屋では……その……ニャリエナ氏に申し訳なくて……あぅ……いや僕が気にしすぎなのかもしれないですが……」
「お客さん、早く上がってくれないと困るんだけど」
「す、すみません……」
部屋に荷物を置いて少し経った頃、ニャリエナが口を開いた。
「部屋にお風呂、あるニャン?」
「……ありますが」
「一緒に入るニャン」
アルファスの動きが止まった。
「……ふぁ!?」
「一緒に入るニャン」
「い、いや……その……男女が一緒に……というのは……人間の習慣として……あわわ……」
ニャリエナは首を傾げた。
「習慣?」
「その……恥ずかしい、というか……僕なんかと一緒では……ニャリエナ氏が……その……」
ニャリエナは迷いなく服に手をかけた。
「勇者様のにおいがするお風呂、いいニャン」
「あわわわわ」
アルファスは口元を手で押さえた。メガネが盛大に曇った。
「においは……その……僕の場合いい匂いでは断じてなくて……昨日も風呂に入れてなかったですし……あぅ……むしろ申し訳なくて……」
「早くするニャン」
ニャリエナはすでに立ち上がっていた。着ているものを躊躇なく脱ぎ始めた。
「ちょ……ニャリエナ氏……! ここは部屋の中で……その……」
「勇者様もはやく来るニャン」
アルファスは前かがみになった。
そのまましばらく動けなかった。
「……僕の人生……その……どうなってしまうんでしょうか……あぅ……」




