第18話 買い物と、檻の中と、さよならニャン
朝、ニャリエナが目を覚ますと、廊下は少し冷えていた。
いつの間にか、そのまま扉の前で眠ってしまっていたらしい。耳をぴくりと動かしながら身体を起こす。
扉の向こうから、小さく咳をする音が聞こえた。
「ごほっ、ごほっ……」
ニャリエナは慌てて立ち上がった。
「勇者様!?」
扉を開ける。アルファスはベッドの上で毛布にくるまっていた。顔が赤い。眼鏡も少し曇っている。苦しそうな呼吸をしながら、ぼんやりとこちらを見た。
「……ニャリエナさん……?」
「熱いニャン!」
ニャリエナは額へ触れた。昨日より熱い。匂いも弱っている。
「ごほっ……だ、大丈夫です……」
「大丈夫じゃないニャン!」
アルファスは起き上がろうとして、失敗した。
「あうっ……」
そのままベッドへ戻る。
「……少し寝れば……」
「治ってないニャン!」
ニャリエナは耳をぺたりと伏せた。どうしたらいいかわからない。でも、このままにはしたくなかった。
「風邪に効くもの、買ってくるニャン!」
アルファスは小さく目を見開いた。
「い、行かなくて大丈夫です……その……」
「それくらい、いいニャン! 病気の時は頼ってほしいニャン!」
真っ直ぐな声だった。アルファスは何か言おうとして、咳き込んだ。
「ごほっ……ごほっ……」
それから、苦しそうに腕を持ち上げる。
「……腕を……」
「ニャン?」
ニャリエナは腕を差し出した。アルファスの指が、奴隷腕輪へ触れる。淡い光が走った。
「……奴隷の距離制限を……緩めました……買い物程度なら……離れても問題ないように……」
ぱちり、と何かが軽くなる感覚がした。
「行ってくるニャン!」
「……気をつけてください……」
その声は、熱に溶けるくらい弱かった。
朝の市場は、人で溢れていた。焼きたてのパンの匂い。肉を焼く匂い。香辛料の刺激。いろんな匂いが混ざっている。ニャリエナは耳を忙しなく動かしながら、人混みの間を歩いた。
「風邪に効くもの……勇者様、苦しそうだったニャン……」
早く戻りたい。胸の奥が落ち着かなかった。
「おや、獣人のお嬢ちゃん」
声をかけられた。振り向くと、小柄な男が笑っていた。薬瓶の並んだ屋台の前に立っている。
「何か探してるのかい?」
「風邪に効くものニャン!」
男は目を細めた。
「へえ。それなら、いい薬があるよ。特別製だ。熱にもよく効く」
「本当ニャン?」
「ああ、本当さ」
男はにこにこしていた。ニャリエナは少しだけ迷った。でも、勇者様の苦しそうな顔が頭に浮かぶ。
「くださいニャン!」
「じゃあこっちだ」
男は奥へ歩いていく。市場の喧騒が、少しずつ遠くなった。
狭い部屋だった。薬草の匂いが強い。棚には瓶が並んでいる。
「これがよく効くんだ」
男が、小瓶を差し出した。甘ったるい匂いがした。ニャリエナは鼻をひくりと動かす。
「……変な匂いニャン」
「薬だからね。ほら、嗅いでみな」
ニャリエナは少しためらった。でも、勇者様のために、早く戻りたかった。小瓶へ顔を近づける。
次の瞬間、視界がぐらりと揺れた。
「……ニャ?」
足に力が入らない。男の笑い声が、遠くで聞こえた。
「悪く思うなよ」
床が近づく。意識が朦朧とする中で、熱で苦しそうにしていた勇者様の顔が浮かんだ。
目を覚ますと、暗かった。身体が揺れている。
「……ニャ……?」
身体を起こそうとして、硬いものへ頭をぶつけた。檻だった。鉄の匂い。木箱の匂い。知らない男たちの匂い。荷車の軋む音が聞こえる。
「起きたか。こいつ、相当上玉だな」
「この獣人は高く売れるぞ。しかも若い」
笑い声が上がった。ニャリエナの耳がぺたりと伏せられた。
「……勇者様……」
ニャリエナは手首に視線を落とした。奴隷の腕輪はもうそこには無かった。無理やり外された跡だけが残されていた。
荷車は長い揺れを繰り返している。石畳の感触はもうない。街の外へ出たのだと、すぐにわかった。
「……どこに連れていかれるニャン……?」
前にナタリアさんが言っていた。攫われた獣人のその後は悲惨だと。胸の奥が、ひゅっと冷えた。
檻の隙間から外を覗くと、遠くに街の外壁が見えた。どんどん小さくなっていく。
ニャリエナは膝を抱えたまま、小さく丸くなった。頭の中へ、ここ数日のことが浮かんだ。
「ニャリエナさんには、帰る場所がありますから」という声。
「ニャリエナさんには、幸せになってほしいですから」という声。
どれも、勇者様の声だった。
半歩遠い距離。別々の部屋の鍵。思い出すと胸がズキンと痛んだ。
「……きっと、勇者様は助けに来ないニャン……」
ぽつりとつぶやいた。
勇者様は、きっとわたしが里へ帰ったと思うだろう。だって、帰る場所があると言っていた。その方が幸せだと言っていた。
ニャリエナはそんな風に考えて、耳を伏せた。
「……勇者様と一緒にいられないなら……もう、どうなっても一緒ニャン……」
声が震え、ぽろりと涙が落ちた。止まらなかった。
「……勇者様、さよならニャン……」
ニャリエナはそう言って顔を伏せた。
檻の隙間から見える街の灯りが、さっきよりもずっと遠くに見えた。
アルファスは毛布へ半分埋まりながら、小さく早い呼吸を繰り返していた。身体が熱い。頭の奥がぼんやりする。
「……ごほっ……」
それでも、頭の片隅ではずっとニャリエナのことを考えていた。
(ニャリエナさんは、自分を慕っている。それはわかる。でも、僕にはその価値がない。そう、慕われる価値はないんだ)
「……はぁ……」
小さく息を吐く。
(慕われることを受け入れたら、それは自分に価値があると肯定することになる。そんなことは許されない。自分を肯定すれば、きっと誰かを傷つけてしまう。)
アルファスは苦しそうに顔を歪めた。
(このままではいけない。ニャリエナさんには帰る場所がある。同族も、家族もいる。自分などと一緒にいるより、一族と一緒の方がきっと幸せなんだ)
アルファスはゆっくりと寝返りをうった。
(何より、一緒にいなければ、彼女を傷つけることはないはず。それが最善だ)
ぼんやりと、そんなことを考えていた。
どれくらい時間が経ったのかわからない。ふと、アルファスは薄く目を開けた。
「……ニャリエナさん?」
返事がない。部屋は静かだった。アルファスはゆっくりと身体を起こした。
「……うっ……」
頭が痛い。窓の外を見ると、昼を過ぎていた。
「……まだ、戻っていないのですか……?」
胸の奥が、わずかにざわついた。買い物が長引いているだけかもしれない。市場は広い。風邪薬など探したことがないだろう。そう思おうとした。
だが、ふと気づいた。
奴隷契約の感覚が、ない。
「……え?」
腕輪の距離制限に許可は出したが、奴隷契約が完全に切れたわけではない。感覚は残るはずだった。なのに、何も感じない。
背筋を冷たいものが走った。
「……ニャリエナさん?」
立ち上がろうとして、ふらついた。壁へ手をつく。嫌な予感がした。心臓が、どくりと脈打つ。
「……まさか……」
アルファスはローブを掴み、熱でふらつく身体を引きずるようにして部屋を飛び出した。
※ニャリエナの独り言
勇者様、さよならニャン……。
次回、『覚醒した勇者様!』
期待してニャン!




