第17話 距離と、ずぶ濡れと、近くて遠い扉の前
翌朝、ニャリエナはほとんど眠れないまま目を覚ました。
昨夜の事をぼんやりと思い出す。勇者様のいない一人の部屋。壁の向こうに、勇者様の気配だけはあった。
「げほっ、ごほっ。」
夜の間、勇者様は何度も咳をしていた。体調が悪かったのだろうか。
心配だったけれど、勇者様の部屋には行けなかった。勇者様の気配は近いのに、ずっと遠くに感じていた。
ニャリエナは布団の上で丸くなったまま、耳をぺたりと伏せた。
朝ごはんは勇者様と一緒だった。勇者様は、湯気の立つスープを前にして、眼鏡が少し曇っていた。
「……いただきます……」
声がかすれていた。
ニャリエナはぴくりと耳を動かした。
「勇者様、声がおかしいニャン。どこか悪いニャン?」
「……昨日少し冷えたので……風邪かもしれないです……」
そう言いながら、小さく咳き込んだ。
「ごほっ……はぁ……」
ニャリエナは心配そうに隣の椅子へ座った。でも、アルファスは少しだけ距離をずらした。
勇者様のにおいを嗅いでみる。調子の悪いにおいがする。そして、あの不思議なにおいが昨日よりも強く感じられた。
胸の奥がまた変になった。
冒険者ギルドへ寄ると、ナタリアさんが顔を上げた。
「おはよ、ご両人。今日も依頼を受けにきたのかい?」
アルファスは掲示板をしばらく眺めてから、一枚を手に取った。
「……今日は簡単な採取にします……ごほっ……」
「……わかったニャン」
ニャリエナは頷いた。
いつもなら「お肉の依頼にするニャン」と口を挟むところだった。でも今日は、なんとなく言えなかった。
二人が出て行くのを見送りながら、ナタリアさんが隣の受付職員に小声で言った。
「……なんか距離あるよね、あの二人」
「ほんとですね。何かあったんですかね」
ナタリアさんは少しだけ目を細めた。
「……さてねえ」
採取の場所は、街から少し離れた森だった。危険は少ない。
アルファスは今日も前を歩いていた。やっぱり少し遠い。
ニャリエナは何度も隣へ並ぼうとした。でも、そのたびにアルファスが自然に位置を変える。
避けられているほどじゃない。でも、それ以上近づけない。それが余計に苦しかった。
森に入ってしばらくした頃、ぽつりと雨が落ちてきた。葉を叩く音が広がっていく。
「あ」
ニャリエナが空を見上げた瞬間、雨足が一気に強くなった。ざあっと音を立てて降り注ぐ。
「ニャッ!?」
「こ、こちらへ!」
アルファスが慌ててローブを広げた。ニャリエナを引き寄せる。
狭い。肩が触れそうな距離だった。勇者様の匂いが近い。熱い。胸が変にどきどきした。
「……ニャ……」
ニャリエナの耳がぺたりと伏せられる。アルファスは気づいていない。
「ぬ、濡れていませんか……?」
「……大丈夫ニャン」
「それならよかったです……ごほっごほっ……」
咳が混ざった。ニャリエナは顔を上げた。アルファスの肩が濡れている。ローブのほとんどを、ニャリエナ側へ寄せていた。
「勇者様、濡れてるニャン」
「だ、大丈夫です……僕はその……慣れているので……ごほっ」
言いながら、また咳が出る。
ニャリエナはできる限り身体を寄せようとした。でも、アルファスはくっつくのを避けるように、距離を開けた。
ニャリエナはぎゅっと尻尾を抱えた。
「……なんで離れるニャン」
雨音の中で、小さく呟いた。
アルファスの肩が止まった。
「えっ……?」
「優しいのに、離れるニャン」
沈黙。雨だけが降っていた。アルファスは視線を逸らしたまま、小さく答えた。
「……そうですね……くっつかないようにしています……」
「……何でニャン? わたしの事、嫌ニャン?」
アルファスが勢いよく振り向いた。
「ち、違います!!」
即答だった。眼鏡の奥の目が揺れている。
「決してそんな事は……!」
「じゃあなんでニャン」
ニャリエナの目には涙が溜まっていた。アルファスは言葉に詰まった。喉が鳴る。何か言おうとして、結局うまく出てこない。
「……あの、ニャリエナさんには……ちゃんと幸せになってほしんです……」
「今でも十分幸せニャン」
「ふぁっ?」
「勇者様といるのがわたしの幸せニャン」
アルファスの呼吸が止まった。ニャリエナは真っ直ぐ見上げていた。
「だから、遠いの嫌ニャン」
雨音が強くなる。アルファスは何も言えなかった。ただ眼鏡を押し上げて、小さく俯く。
「……いえ……僕といると……ニャリエナさんは傷つくんです……」
その声は、雨に溶けるくらい小さかった。
それきり、二人は言葉を発さなかった。雨の音だけがあたりに響いていた。
宿へ戻る頃には、二人ともずぶ濡れだった。アルファスの顔色は明らかに悪い。
「勇者様、大丈夫ニャン?」
「だ、大丈夫です……ごほっげほっ……あうっ……」
全然大丈夫じゃなかった。
階段を上がる途中、アルファスの足がふらついた。
「ニャッ!?」
ニャリエナが慌てて支えた。触れた身体が熱い。
「熱いニャン!」
「そ、そのうち治りますから……」
「回復魔術ニャン!」
アルファスがぎこちなく首を振った。
「……自分自身には……回復術をかけられないんです……」
「なんでニャン!?」
「術式相性の問題で……ごほっ……」
説明の途中で咳き込んだ。
部屋へ戻る頃には、アルファスはほとんどふらふらだった。ベッドへ倒れ込む。
「勇者様!?」
「……す、少し寝れば……治りますから……」
そう言いながら、毛布を引き寄せた。顔が赤い。呼吸も熱い。
ニャリエナはベッドの横に座った。
勇者様の匂いがした。いつもの匂い。でも今日は、弱っている匂いも混じっている。それ以上に、あの不思議なにおいが勇者様を覆っていた。胸の奥が、ぎゅっと痛かった。
「……そばにいるニャン」
アルファスが薄く目を開けた。
「……めっそうもないです……自分の部屋に戻ってください……」
「なんでニャン」
ニャリエナは、ベッドの端をぎゅっと掴んだ。小さな指に力が入る。
「……うつりますから……ニャリエナさんまで体調を崩したら……」
「うつらないニャン」
即答だった。迷う気配すらない。
「そ、そんな保証は……」
「うつらないニャン」
真っ直ぐ見つめてくる瞳に、アルファスは言葉を詰まらせた。
アルファスは少し黙ってから、絞り出すように言う。
「……僕の事はいいので……戻ってください!! ごほっ、ごほっ」
声だけは強かった。でも、言い終わった後に咳き込んだ。
ニャリエナは立ち上がった。
「……わかったニャン」
その声は、昨日よりも小さかった。
扉の前で一度だけ振り返った。アルファスは毛布を顎まで引き上げて、目を閉じていた。
ニャリエナは扉を閉めた。
廊下に出ると、静かだった。扉の向こうに、弱った勇者様の気配が小さくあった。
ニャリエナは廊下にそのまま座り込むと、扉の前で、膝を抱えた。
扉の向こうから、小さく咳をする音が聞こえた。
ニャリエナは耳をぴくりと動かして、膝を抱え直した。
※ニャリエナの独り言
勇者様、どうしてニャン。勇者様のことがわからないニャン……。
次回、『勇者様とさよならニャン!』
期待してニャン!




