第16話 半歩と、別々の部屋と、壁の向こう
朝、ニャリエナが目を覚ますと、アルファスはもう起きていた。
窓際の椅子に座り、荷物を整理している。曲がった眼鏡を押し上げながら、ぶつぶつと独り言を言っていた。
「……保存食の残量が……うん……そろそろ補充が必要ですね……」
ニャリエナは布団の上で耳をぴくりと動かした。
いつもの声、いつも通りの独り言。でも、なんだか違って聞こえた。
「勇者様」
声をかけると、アルファスの肩が小さく揺れた。
「……お、おはよう……ございます……」
振り向き方がぎこちなかった。
ニャリエナは首を傾げた。
「朝ごはん、食べるニャン?」
「……食堂で……食べます」
「一緒に行くニャン」
「いえ……ニャリエナさんが先に……食べてください」
少しだけ、間があった。ニャリエナは瞬きをした。
「……わかったニャン」
なんだか変だった。
いつもの買い出し。二人で一緒に通りを歩く。でも、やっぱりちょっとだけ変だった。
アルファスが前を歩いている。ほんの少しだけ遠い。いつもなら隣にいるのに、今日は半歩くらい距離がある。
ニャリエナは足を速めた。隣へ並ぶ。
その時、後ろから荷車が来た。
「……危ないですよ」
アルファスはニャリエナを庇うように肩を引き寄せ、自分は道の端へ寄った。
二人の距離が離れる。荷車が通り過ぎる。
でも、そのまま距離は戻らなかった。
ニャリエナの耳が、ぴくりと動いた。ちょっとだけ、においを嗅いでみる。
いつもの匂いがした。勇者様の、落ち着く匂い。そこに、たまに感じる不思議なにおいが混じっていた。
ニャリエナは視線を落として、尻尾を抱えるように歩いた。
胸の奥がざわざわして落ち着かなかった
冒険者ギルドへ寄ると、ナタリアさんが顔を上げた。
「お、ご両人、おはよ――」
言葉が止まった。ナタリアさんは二人を見比べた。
「……あれ? なんか、あんたら距離遠くない?」
アルファスの肩が跳ねた。
「と、遠くなんて……その……」
「ニャン……?」
ニャリエナはアルファスを見た。そうだ。やっぱり少し遠い。
ナタリアさんが頬杖をついた。
「前はもっとべたーっとしてたじゃん」
「べたーっとなど……していませんから……」
アルファスが眼鏡を押し上げると、周囲の冒険者がくすくす笑った。
ニャリエナは笑えなかった。
自分から一歩だけ近づこうとして、でも、できなかった。
採取依頼の帰り道。
森の中は静かで、風の音だけが聞こえている。ニャリエナはちらちらとアルファスを見た。やっぱり少し遠い。
「勇者様」
「……なんですか」
「なんか変ニャン」
アルファスの足が止まりかけた。でも、止まらずに歩き続けた。
「……何が、ですか……」
「前と違うニャン。何かちょっと遠いニャン」
沈黙があった。風が木々を揺らした。アルファスは眼鏡を押し上げた。
「あの……ニャリエナさんには……帰る場所があります……」
ニャリエナは耳をぴくりと動かした。
「帰る場所?」
「……お姉様も……一族の方々も……いるんですよね」
アルファスは前を向いたまま、小さく続けた。
「僕なんかと一緒にいるより……その……同族の方々といた方が……幸せだと思います……」
ニャリエナは立ち止まった。
胸の奥が変だった。うまく息ができない。
「……勇者様と一緒にいたらダメニャン?」
アルファスの肩がびくっと震えた。
「えっと……」
「わたし、勇者様と一緒にいたいニャン」
ニャリエナがじっと見つめる。アルファスは目を逸らした。
「そ、その……僕なんかといると……ニャリエナさんは傷つきます……」
「どういうことニャン?」
「僕は人を傷つけてしまうんです……」
「わたしは傷つかないニャン。一緒がいいニャン」
ニャリエナは静かに言った。
アルファスは何も言わなかった。ただ眼鏡を押し上げて、それからまた少しだけ前を歩き始めた。
ニャリエナは、その背中を見つめた。やっぱり少し遠かった。
宿へ戻る頃には、空が赤く染まっていた。
宿の主人から鍵を受け取り、アルファスがぎこちなく振り向いた。
「……部屋の鍵です」
差し出された物を見て、ニャリエナは固まった。アルファスの手には鍵が二本あった。
「……?」
「そ、その……今日は別々の部屋を……」
ニャリエナは泣きそうな顔をした。
「なんでニャン」
「ふあっ!?」
アルファスがびくっと肩を震わせた。
「そ、その……ニャリエナさんも年頃ですし……今まではその……事情が……」
「一緒が、嫌ニャン?」
「ち、違います!! 決して嫌とかではなく……あの……ただ、その方がいいかなと……」
「なんでニャン」
また沈黙があった。アルファスは視線を合わせられないまま、小さく呟いた。
「……ニャリエナさんには……ちゃんと帰れる場所があるんですから……」
ニャリエナは鍵を見下ろした。
別の部屋。ひとり。勇者様と別々。胸の奥が、ぎゅっと縮むみたいだった。
「……一緒じゃ、どうしてもだめニャン?」
アルファスの呼吸が止まった。
「えっと……その……」
その後の言葉が続かなかった。アルファスから、あの不思議なにおいが強く感じられた。
ニャリエナは鍵を受け取った。
「……わかったニャン」
その声は、自分でも変なくらい小さかった。
アルファスは何か言いかけた。でも結局、何も言わなかった。
ニャリエナは一人、廊下を歩いた。
いつもは一緒に入る扉が、今日は別々。勇者様の部屋は隣だった。
近いはずなのに、すごく遠くに感じた。
部屋へ入って、ベッドへ飛び込こむ。
勇者様の匂いがしないベッド。
落ち着く匂い。大好きな匂い。それが今日は、無い。
胸の奥がぎゅうっと苦しかった。
ニャリエナは枕へ顔を埋めた。
「……なんか変ニャン」
ぽつりと呟いた。返事はなかった。壁の向こうに、勇者様の気配だけが小さくあった。
※ニャリエナの独り言
勇者様、急にどうしちゃったニャン。変なにおいも強くなってるニャン!
次回、『勇者様がやっぱり遠いニャン!』
期待してニャン!




