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優しいナイフ  作者: 音澄 奏
4/6

その四

 晃さんが書斎に使っていたというその一室は一つの美しい芸術品であった。

私はその部屋に入った瞬間、ため息をつかずにはいられなかった。

 「これは素晴らしい…!」

 そこは壁が全て本棚になっており、日本の小説はもちろんのこと、そこには世界中の本という本が集められたのではないかと思われた。その部屋は吹き抜けになっていて、二階にある本を取るために階段を上るようになっていた。上った先はぐるりと部屋全体を囲うように人一人が通れる程の通路になっており、彫刻の施された木の欄干が巡らされている。

 隣にいる加賀見も思わず嘆息したのが私にも分かった。

 「さすが、三園財閥だな…僕らとはスケールが違う」

 加賀見もかなりの読書家である。それなりに広い書斎を持っているのだが、彼は「せっかく見つけた本をまたしまうのは非効率だ」とわけの分からないことを言って片付けをしない人間なので、書斎の机には読みかけの本の山ができている始末である。

 かくいう私も加賀見に負けぬ読書家なので、この本の洪水には心を躍らせたが、すぐにここが凄惨な事件現場であることを思い出した。一階の床に血痕と思われる大きな染みが残っていたからである。

 「ここに百合子さんが倒れていたようだね」

 そう言うと加賀見は辺りを荒らさないように注意しながら、周りを観察し始めた。

「百合子さんの死因と事件の凶器は大木刑事から聞いてるかい?」

私は大木刑事から貰ったメモをポケットから取り出した。

「ああ、確か凶器はナイフで、胸元に深く刺さっていたそうだ…。肋骨に到達していたらしい」

「肋骨までか…とすると、犯人は男性かな」

加賀見の言葉に驚いて彼を見た。

「何をびっくりしてるんだい?二階堂君?女性の力では、肋骨までナイフを突き刺すのは難しいと思うけどね」

そうだろう?とこちらを見てにやりと笑う加賀見に、私は改めて彼が「帝都の名探偵」と呼ばれていることを思い出した。

 「…しかし、この部屋…何か不思議だと思わないかい?」

加賀見の言葉に私も頷いた。

 「じゃあ、何が変だと君は思う?二階堂君?」

 生徒に質問する教師のような調子で加賀見は私に言った。

 「そうだな…これだけの失血を伴うような怪我を負ったのに、辺りに百合子さんに抵抗したような様子がない」

 「全く持ってその通り。この部屋にはまるで抵抗した様子がない…!」

 通常、事件現場には被害者が犯人に襲われた際に抵抗した跡が残っているものである。しかし、この部屋には争った形跡や誰かが侵入したような形跡がまるでないのである。それどころか、この床の生々しい血痕さえなければ、誰もここが事件現場だとは思わないだろう。

もしかして、犯人は百合子さんと顔見知りなのではないか…?そんな疑念がふとわいた時、飄々と加賀見が言った。

 「ま、もっとも、事件当時の状態がそのまま保存されていれば、の話だがね」

 「どういう意味だい?」

 思わず詰め寄った私を加賀見はまあまあと宥めた。

 「こう見えても、僕は警察のことは信用してるんだ。僕は、犯人が何か重要な手掛かりを持ち去ったのではないか、って言いたいのさ」

 「龍之介さんのことを疑っているのかい!?」

事件現場に何か手を加えるとすれば、第一発見者である龍之介さんにしかできないことは私にもすぐ分かった。しかし、「必ず犯人を捕まえる」と言った加賀見に泣きながら礼を言っていた龍之介さんを疑うことは私にはできなかった。

「僕は可能性は捨てきれないと思う」

「私の推理は違うね。犯人は百合子さんの不倫相手じゃないかな」

「ふうん」

と加賀見は興味なさそうに呟いたが、目だけは面白そうにこちらを見ていた。

「恐らく、犯人は百合子さんとここで逢瀬を重ねていた。しかし、百合子さんが邪魔になり、ここで殺害したんだ」

「動機は?こんな本邸に近い場所で、誰に見つかるかも分からない、そんな危険を背負ってまで逢瀬を重ねていた百合子さんをわざわざここで殺害する動機は?」

加賀見に淡々と詰め寄られて私は一瞬言葉に詰まった。

「姦通罪、とでも言いたいようだが二階堂君」

と加賀見はにやりと意地悪な笑みを浮かべて言った。

「有夫ノ婦姦通シタル者ハ六月以上二年以下ノ重禁固ニ處ス其相姦スル者亦同シ、此條ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ其罪ヲ論ス但本夫先ニ姦通ヲ縱容シタル者ハ告訴ノ效ナシ、つまり?」

「……姦通罪は、夫が告訴しなきゃ公訴することができない」

「その通り」

龍之介さんによれば事件の発端となった手紙は晃さんの筆跡だった、という。だとすれば、夫である晃さんは妻である百合子さんの密通を容認していた、と考えられるのだ。

「大体、考えてもみたまえ。重禁錮と殺人罪だったら、遥かに殺人の罪の方が重いよ。それをこんな本邸から近い場所で危険を冒してまで、実行するかい?」

「それは加賀見、理性でいえばそうなるかもしれないけど……男女の恋慕が絡んでいるんだよ。理論どおりにはいかないさ。それに龍之介さんが百合子さんは最近情緒不安定だった、って言ってたじゃないか」

「それは僕も気になってはいたさ」

加賀見がすんなりと反論を聞いたのに私は驚いた。

「情緒不安定なご婦人というのは、何をしでかすか分からないところがあるからねぇ」

私はまた驚いて加賀見を見た。今日はどうも加賀見の女性観を聴く機会が多い日である。

「それは君の経験かい?」

「その話もまた今度!…それにしても龍之介さんが受け取ったという手紙はどこにいってしまったのか…いや…そもそも本当に手紙は存在したのかどうか…」

「まだ龍之介さんを疑っているのか!」

加賀見の疑り深さに私は呆れ果てた。

「僕は手紙がどこにいったのか、そもそも存在したのかどうか、って言っただけだよ。手紙と犯人とはまた別の問題さ」

そういう加賀見を私は睨み付けた。どうあっても加賀見は龍之介さんを犯人にしたいらしい。

「何か言いたげだね二階堂?君は龍之介さんのあの涙に随分心打たれたらしいが、誰かを擁護するために推理を進めるのは危険だね」

「じゃあ、君は何のために推理をするっていうんだ!」

「真実のため」

そう言い放った加賀見を、私は尊敬するべきだった。どんな時も真実にも向き合おうとする加賀見の真摯な姿をすぐ傍で見てきたはずなのに、私はまだ何も気付いていなかった。

私がなおも龍之介さんを擁護して口を開こうとした時、加賀見は窓際の絨毯の上に何かを見つけたらしい。屈みこむと、そっと絨毯の上を指でなぞった。

 「……ここ……何かが燃えた跡がある……」

 「燃えた跡?不審火かい?」

 「いや、不審火というほどのものじゃないよ、何か紙切れでも燃やしたような…」

 とそこまで言って、加賀見の顔がさあっと青ざめた。ふらふらとした足取りで立ち上がった加賀見の顔は蒼白で今にも倒れそうに見えた。私は慌てて近づくとどうした?と加賀見に声をかけた。

 「僕は平気さ、大丈夫だ」

そう言うと加賀見は私の手を払いのけると二階へ続く階段の手摺へ手をかけたので、私は慌てて止めた。しかし、彼は二階を見たいと言ってきかないので、しょうがなく私も加賀見の後へ続いた。

二階には思いかけず、事件の大きな手掛かりがあった。欄干に僅かだが血痕が残っていたのだ。

「これは大発見だよ!加賀見!事件の現場はここだったんだ!」

興奮する私とは正反対に、加賀見の顔はますます真っ青になっていくようだった。

「大丈夫かい?君…顔色が良くないよ」

「…ここからは僕達が歩いてきた小道が見えるね。」

真っ青な顔で言った加賀見の方を私も見た。確かに二階からは私たちが歩いて来たあの苔むした小道が見えた。

「ああ、本当だね。さすがに本邸までは見えないようだけど…大丈夫かい?」

 加賀見は青い顔で頷くと言った。

 「一度、帰ろう」

 加賀見の言葉に私は驚いた。

 「だって、現場の検証は……」

 「僕は大体、見終わったよ。……それより、大木くんが何か情報を掴んできたかもしれない。」

 また明日あの部屋で会おう、と加賀見は消え入るような声でいった。


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