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優しいナイフ  作者: 音澄 奏
3/6

その三

三園邸へ忍び込むのは私が思っていたより容易かった。

警察の警備はとても頼りないもので、私は頭を抱えたくなったが、そんな私の胸中を知ってか知らずか、加賀見はこう言った。

「恐らく、警察もあまり目立った動きはできないのだろう。ことが公になると困るからね。三園財閥に何かクギでもさされてるんだろうさ」

私もそう思いたかった。とにかく、いいのか悪いのかはさておき、その日の夕暮れ時、私達は三園邸に忍び込むことに成功した。

晃さんが書斎に使っていたという三園の別邸は、三園邸――便宜上、本邸と書くことにしよう――からそう遠く離れていない場所にあった。本邸が伝統的な日本風なのに対し、後から作られたと思われる別邸は洋風の建物だった。

「しかし、まさか百合子さんを初めに見つけたのが龍之介さんだったとは…気の毒だな…」

 別邸へ向かう途中、呟いた私の言葉に加賀見は飄々と言った。

 「君は、あれ信じたかい?」

 あまりのことに私はもう少しで大声を出すところだった。

 「ちょちょちょちょ、ちょっと!二階堂君!!無言で睨み付けながら首を絞めないでくれ!!苦しいじゃないか!!」

 小声で言いながら、手足をばたばたと動かす加賀見の言葉に私は乱暴に手を離した。

 「加賀見、君はあれを演技だと思っているのか!?」

 ごほごほとむせながら加賀見は言った。

 「僕は専門家の君の意見を訊いてみただけだよ。まぁ、その可能性は低い、と僕は思っているけどね」

 疑うような目で加賀見を見ていた私に彼は言った。

 「龍之介さんが初めに言っていたじゃないか、『僕は捕まるのですか?』って。恐らく、第一発見者ということで百合子さん殺害の容疑者に上がっているんじゃないかな」

 「…龍之介さんが!?」

 「憶測を出ないけどね。そうすれば、君と大木君が『刑事』だと聞いて、取り乱したのも説明がつく」

「確かに…」

「二階堂君、ほらあれが別邸じゃないかい?」

 加賀見と小声で話し合ううち、すぐそこに別邸が見えてきた。

三園の別邸は、玄関に絨毯が敷き詰めてあり、普段そこは靴のままであがるのであろう、いくつかの靴跡がそのまま中へと続いていた。私がそこで靴を脱ぐべきか逡巡していると、加賀見が小さな声で「靴を脱いで」と言った。

「現場の状況をできるだけそのままにしたいからね」

なるほど、確かに加賀見のいう通りだ。

私が靴を脱いでいる間にも、加賀見は靴跡の観察をしていた。

「この一番小さな靴跡は、恐らく女性のものだね」

「百合子さんのものかな?」

「さあ、まだなんともいえないけれど…僕の見た限り、女性のものも含めて最近のものと思しき靴跡は二種類だね」

「随分、はっきり言い切るね」

自信のある様子の加賀見に私は幾分嫌味をこめて言ったのだが、それには全く気づかず彼は自分の靴を手にとって裏返すと言った。

「見てご覧、二階堂君。こちらに来る途中、通ってきた小道に生えていた苔が我々の靴裏にも付着している。ここと…そこ!踏まないように気をつけて!…その二種類の靴跡の苔はまだ若干水を含んでいるようだ」

 絨毯の上を指差した加賀見の人差し指の先を見ると、わずかに水を含んだ靴跡の苔がドアの外の夕日にきらきらと輝いていた。

 加賀見はもう夢中になって、絨毯にくっつきそうなほど顔を近づけてその靴跡を辿りながら「二つ?二つの靴跡?しかし、おかしいな…」とぶつぶつ呟いている。

 「二つということは、小さい方が百合子さんで…もう片方は…百合子さんの浮気相手ってことかい?」

 私の言葉に加賀見は顔の前に指をたて、黙るように指図した。

「滅多なことをいうものじゃないよ、二階堂。百合子さんの死だけでも三園にとってはかなりの醜聞なんだ。…この靴跡は百合子さんの想い人のものかもしれない」

「想い人ねぇ…」

どちらにしろ、晃さんという良人がいるのだから、言い方を変えただけで要するに浮気相手なのではないだろうか…。

 「しかし、妙だと思わないか」

 「何がだい」

 絨毯の上の靴跡を目で追ったまま、呟いた加賀見に私は首を傾げた。

 「二つの靴跡もそうだが、本邸と別邸のこの距離はどうだ?」

 「近すぎるね」

 「そうだとも近すぎる!…仮に百合子さんと想い人の逢い引きを晃さんが黙認していたとしても、この距離はあまりに本邸に近すぎる!」

 加賀見の言葉に私も頷いた。本邸に近いこの別邸で百合子さんが逢引をしていたとしたら…?本邸に出入りする人間の目につく可能性が高い。

 「こんなところで逢引なんて……百合子さんも随分、大胆な女性だな」

 ぽつりと言った私の言葉に加賀見は言った。

 「女性なんて得てしてそんなものだろう。どんなたおやかな女性だって、内面には燃え盛る炎のような情熱を抱えているものさ」

 私は加賀見の横で目をぱちくりとさせた。彼とはそれなりの長い付き合いになるが、その口から女性について聞いたことはほとんどなかったからである。

 「それは、君個人の体験談かい?」

 「僕の女性観については、いずれ暇な時にね!二階堂君!…僕は今、現場を観察するのに忙しい!」

 そう言うと加賀見は二つの足跡の残る絨毯を目で追いながら、事件の現場になった別邸の一室――書斎へと足を進めた。

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