第四十一話、青空と勇者 回想その9
一瞬、喉にだらしなく溜まっていた唾を飲み込む。
「う、ぐふ……ウ……」
上を向いたままの急な嚥下で、生唾が気管に入りかけて咳き込む。
「ぐほ……ゲホ……ふ~……」
前屈みになって、しばらく喘いでようやく平穏が戻ると、
「そ、そんなわけないですよ~、なんでいきなり……」
苦笑いを浮べ、その場を取り繕うように言った。
ドンゴロは目を瞑って黙って俯いていた。
――なんだいきなり!?
光は動揺していた。
全くの無防備なところに、今の予想外のドンゴロの言葉。
さしもの光も平然とはしていられなかった。
「ふ……俺達の目はごまかせねぇよ」
光は狼狽しつつも、黙って相手の動向を見守る。
――いつから……ばれた……?
「話してる相手の目みりゃわかるんだ」
「…………」
「お前……どこかの回し者じゃねぇのか?」
ドンゴロは立ち上がると、袋から小刀をだして鞘から抜いた。
「おら、本当のこと吐いたほうが身のためだぜ? 」
表情も一変して、殺気だった面持で小刀の切先を光の顎先に向ける。
「黙ってないでなにか言え! 」
――く……どうする……
予想だにしていなかった事態に、こめかみに冷たい汗を滴らせ当惑する。
詰め寄るドンゴロに怯み、半ば倒木に倒れるようにして背中をつける光。
小刀を握る手は振るえ、今にもその切先は振り下ろされるかに見えた。
「ふん…………」
だが、突然、ドンゴロが鼻を鳴らし、眉間に寄る皺を減らして立ち上がる。
「まぁ、いい……お前が吐かずとも知る方法はある……そのためにここへ連れてきたんだし。」
「…………」
溜め込んだ怒気を抜くように息を吐き、光を見据えて言った。
呆然としながら、光は息を荒立てドンゴロを見上げる。
その瞳はまだ恐怖に打ち震えていた。
「立て! 」
ドンゴロの右手にはしっかり小刀が握り締められている。表情は緩んだものの、口調にはまだ殺気のような緊迫したものが残っている。命令に従い、光は立ち上がった。
その後ろにドンゴロは回りこみ、背中に小刀の切先を当てた。
「あそこを入っていけ! 」
「は、はい……」
光は顔面蒼白で、消え入るような声で答え命令に従う。
肩越しに前に伸びるドンゴロの手の示す方へ歩いていく。
広場を横切り、木々の一角に分け入り、その間を縫うように入っていく。
「よし、そこで止まれ……」
光は言われるがまま立ち止まった。
ドンゴロに連れてこられた場所――そこには古びた木が立っている。
周りの木とは一線を画する独特の存在感を放っていた。
ざらついた木肌は浅黒く、諸所の木皮が剥がれ落ちている。苔むした根元は一部腐っていた。太い幹はここに根ざしてから長い年月が過ぎている事を見る者に容易に連想させる。
幹の中心付近は縦に裂けていて、丁度真ん中辺りに歪な空間を作り上げていた。
そこに広がる闇は深く、一種異様な雰囲気を醸し出している。
「エンヤ婆さんよぉ、いるかあ?」
光の肩越しからドンゴロは声を張り上げた。
まるで、古木の亀裂に話しかけるかのように。
光は眼前の木から違和感のようなものを感じていた。
違和感というよりは――五感の外にある知覚が体の内でざわめいていた。
――なんだ……この……
突然、どこからともなく、一陣の冷たい風が吹き抜け、周りを取り囲む木々がざわめく。
光の腕や足には鳥肌が広がっていた。
「おーい……」
ドンゴロはまた亀裂に向かって叫んだ。
だが、亀裂に吸い込まれた声が虚しく辺りに響くだけだった。
「……待つか……」
ドンゴロが光の肩を引っ張り、近くにあった岩に腰を下ろそうとした。
その刹那――
「なんじゃああ……」
突然、光の目の前から気味の悪い声が聞こえ長く緒を引いた。
地から轟くような大きな声に、光は小さく悲鳴をあげ無意識のうちに横に飛びのく。
勢い余って倒れそうになるが、突き出した手をドンゴロに掴まれ事なきを得る。
「臆病じゃのぉ……」
「…………」
呆れたようにドンゴロが見下ろしている。
「あれを見てみろ……」
ドンゴロがどこかを指し示す。
光はその先をみると、やはりさっきの古木があった。
だが、何かがおかしい。
――あの古木の根っこ……
古木の露出した根っこの部分が、最初見たときより明らかに数が増えていた。
そればかりか、見ている間にも形が変化しているように光の目に映る。
――まさか……動いている? それとも錯覚?
目を右手の甲でごしごし擦って再度見る。
――明らかに……動いている……
地から生える幾筋もの根が蛇のように蠢いていた。
光は青褪めた顔でそれを見つめたまま、体全体を小刻みに震わせる。
目の前で恐ろしい現象が続いていた。
古木の亀裂の暗い闇に、ぬうっと紅い光が二つ現れる。
亀裂を含む太い幹が、まるで暴風に煽られたように前後に揺らめいていた。
そして――
「おぉ…… ドンゴロか……久しぶりじゃのぉ……」
亀裂の闇の中から突然、くぐもった声が二人の耳に響いた。
ドンゴロはそれを聞くや、小刀を鞘にしまい腰に挿した。光の右腕を掴んだまま、その体を全身で推し進めするように古木まで歩いていく。古木の前までやってくると、光の両肩を掴んで古木に向かせ、肩越しにドンゴロは亀裂に話しかけた。
「エンヤ婆さんも、元気そうでなにより」
「今日はよ、ちょっと用事があってきたんだ」
「ほぉ……」
ドンゴロは顔を綻ばせて、亀裂から聞こえる声と話を交わしている。
古木の化生――ドンゴロはこの化け物をエンヤ婆と呼んでいた。
闇に浮ぶ並んだ紅い球体が、怪しく瞬き、光の顔を見据えている。
――こ、こんな……化け物が……存在するな……んて……
眼前から受ける恐怖は並大抵のものではなかった。
日本では映画の特殊映像くらいでしかお目にかかれない代物が目の前に実存している。
光は倉皇として、その化け物との距離を離そうと後退するが、ドンゴロが後ろでがっちり厚い壁のように立ち尽くしている。
「いやぁ、どうも、こいつ、化け物見るの初めてみたいなんじゃ」
「化け物って言い草は酷いのぉ……これでも木人、木の精の眷属ぞよ」
「まぁ、大目にみてくれ、ハハハ」
光のわななきは後ろのいるドンゴロにも伝わっていた。
背後で退路を塞ぐように立ち、薄ら笑いを浮かべている。
「まぁ……お前も……ここまで来たんだから……そう足掻くな……」
「え……? 」
ドンゴロが耳元で声を潜めて言った。
光はその言葉を聞いているようで耳には入っていなかった。
目の前のエンヤ婆に気を奪われそれどころではない。
「ところでよぉ、エンヤ婆、今日来たのはなぁ、この青年、光っていうんだけどな、こいつを調べて欲しいんじゃ」
ドンゴロはエンヤ婆に頼み込むように左手を立てて言った。
それを聞いたエンヤ婆は、二つの紅い瞳を亀裂の闇で8の字を横にした軌道で転がし続ける。
しきりにドンゴロが自分の禿頭を、何度も指差すジェスチャーを繰り返している。
「ほぉ、そうか、あれをしろっていうんじゃな」
エンヤ婆はドンゴロの意図を飲み込めたようで、紅い瞳をまた元の位置に戻した。
「うむ、頼む……」
低い唸り声が聞こえ、二つの紅い光球が亀裂の闇で歪に転がり始める。
闇の枠内をひとしきり、忙しく行き来した後、真ん中あたりで動きを止めた。
その紅い光の動きを無意識に追っているうちに、光はそれから目を離せなくなっていた。
眺めている間に、周りの空気がどろりと溶けるかのように滲んで見えてくる。
――……眠い…………
――この光は一体……まさかさっきの……
光は瞼に受ける明るみを感じていた。
それをエンヤ婆の眼の紅い光だと思い、一瞬、身を竦ませる。
だが、意識は既に覚醒し、五感も明瞭に機能していた。
――違う……それにここは……
背中に伝わる柔らかく心地よい温もり、手足や胸を覆う絹のような風合い。
周りに漂う暖かい落ち着いた空気は、日本の自室のそれと似ていた。
光はまさかと思い、目を静かに開けていく。
最初に目に入ったのは、白地に金色の丸い物体。
白く霞んで見えるので、目を擦って再度目を凝らした。
今度ははっきり見えた。
白い天井に吊るされた、金色の優美な装飾が美しいシャンデリアが映る。
体を少しだけ起こし、周りにゆっくり視線を流していく。
臙脂色の長いカーテンが視界に入る。
格子状の張り出し窓の横に据えられていた。
窓の片方にも同じものが一つ。窓の外には白いバルコニーが見える。
その向こうには青い空が眩く光っていた。
視線を近辺に戻してみる。白く清潔な布が胸の辺りまで被せられている。
アンティーク調の家具がそこここに見える。
まるでフランスかどこかの5つ星ホテルの一室のようだった。
――ここは……どこだ……なんで俺はこんなとこに……
光は頭を抱え混乱気味に記憶を手繰る。
――あの化け物の眼を見た後……
だが、光の思考は途中で遮られる。
ハァハァ……
空気が漏れるような音が、かなり近い位置から断続的に聞こえているためだ。
光は耳に両手を当てて、音源を仔細に探りはじめた。
その音は――――背後から聞こえているようだった。
――何か後ろにいる……
背筋に冷たいものが走る。
光は人差し指を立てて、思い切って体を捩った。
「だ、誰だ!」
後ろを振り返るとそこには、ドンゴロが小刀を振り上げ立っていた。




