第三十四話、青空と勇者、回想その2。
『天草光よ……』
『ん……? 誰だ……?」
光は暗闇の底で一人佇み、どこからか聞こえてくる正体不明の声に耳を澄ます。
『お前を助け、ベッドに運び治療を施した老婆じゃ……』
『あぁ、あの意味不明な……いや……助かったよ婆さん、有難うな……』
つい本音が漏れそうになり、光は途中で言葉を切り替える。
『ふー意味不明な婆と思われても仕方ないの〜……現実ではぼけてしまっておるからな』
『ん……? 現実?』
『そうじゃ、今わしはお前の夢の世界に邪魔して魂で直接訴えかけとる……現実の体は当に頭がぼやけて会話にならんのでな……』
光はまどろみの中で意識が鮮明であるかのように感じていた。しかし、実際は夢の中に漂う思念のようなもので、その老婆の話す内容を理解しているわけではない。ただ、漠然と言葉の意味を感じる事はできる――そんな状態だった。
『そうか、あの預言で会話するあんたは、ボケてたんだね」
『そのとお……り……』
曖昧な思念での会話のせいか、光の言葉に相手を気遣う理性はあまり働かない。
光に直接的な言葉を投げかけられ、老婆は少し声色を下げて、肯定しながらも認めるのが辛そうに言葉を濁した。
『――ふん、そんなことはいいんじゃ……ちょっとお前に話しておきたいことがある……」
『どうぞどうぞ〜!』
光は闇の中に漂う思念の体を、宙に横たえ、右腕を折り曲げ手のひらを頬に当てている。
取り澄ました顔で手を闇に何度か振って、老婆に続きを促した。とても人の話を聞くような態度ではない。現実の世界とは違う言動を、夢や曖昧な意識下では取る事がしばしばある。今の光はそういった状態であり、幾分本性のようなものが見え隠れしていた。
『…………』
少しの沈黙の間を置いて、暗闇から老婆の溜息が漏れる。
『まぁいい……取りあえず、最初に言っておく事がある。お前は元いた場所へ帰ることはできない……そう、数年は戻れないじゃろう……』
『へ? どういうこと?』
『既にお前は元いた世界とは別の世界に存在する。その異界にあるゼームス大陸の地にお前は元いた世界にあるゲートを潜って踏み入ってしまったからじゃ……そしてこの大陸からお前の住んでいた世界へ帰るゲートは存在しない……』
老婆はその後、沈黙を長引かせた。光の反応を観察するかのように。
『なるほど〜、そうなのか〜困ったな〜ハハハ!』
『…………』
夢の中での思念は妙に思考が軽い。深く物事を考える事が出来ない状態だ。
話の輪郭だけは辛うじて捉えてはいるが、切迫する危機感に苛まれるには至らない。
『まぁ、ええわい、で、話は変わるが……お前はこの世界にやってきたとき満身創痍だった……」
『うん、確かに……』
突然、老婆の言葉に光は敏感に反応した。朧気な思念とはいえ、痛覚に関しては深く刻まれてるいるようで、光は苦りきった顔で静かに頷いた。
『そんなお前をワシは無償で助け治療したのじゃ、ありがたいじゃろ!? だが、なぜお前みたいな見ず知らずの人間にそこまで親切にしたと思う?』
会話に光の思念がシンクロし始め、婆の口調が活気を取り戻し滑らかに言葉が走り始める。光はその勢いを増した婆の口調に突き動かされ、曖昧ではあるが、ぼんやりした思考で答えを探ってみる。指先で額を擦りながら、低い声で唸っている内に何か思い浮かんだのか、額を平手でペシっと乾いた音を立てて叩いた。
『治療代の代わりとして……しばらく、自分の介護をさせようと思ったとか……?』
『それもいい……ち、ちがう……!』
光の単純な思考から浮き出た言葉に、一瞬それも良い考えだと思った老婆だったが、初心のもっと大きな理由に再度思考が傾き、慌てて大きな声で訂正した。
『理由はたった一つ……お前にはやってもらう事があるから……だから助けたのじゃ……』
『――え、はぁ、そうですか……』
老婆は神妙な口調で、意味深そうな言葉を放った。しかし――光のまどろみの中での集中力は既に事切れていた。所詮、夢幻に彷徨う思念では、長い話は受け止めようがなかった。既に興味は殺がれており、流れ来る声と逆に寝返りを打ち、老婆に気のない返事をした。だが、まだ老婆の話は終わっていないらしく、闇から滔滔と言葉が流れ来る。
『まぁ、夢の中で理解しろとは言わん。ただ……頭の片隅にでも残っておればよい……、何れ再びお前は……この森へ片割れと共にやってくる事になるだろう……その時までに、うんと腕を磨いて……おけ……あ……を……れる……お前と…………」
「あ、なんだって……!?」
光は突然、雑音と共に遠のく老婆の声に心が動き、面倒くさそうに耳を傾けた。
「いや、だから、こんなとこで寝てると魔物に食われるぞ、兄ちゃん!」
「え……」
突然、上から降ってきた低い男の声に、光は驚愕で眼を丸くし体を一瞬びくつかせた。見ると、細面の無精ひげを生やした男が上から覗き込んでいる。光は呆然とその男の顔を見つめると、
「あれ、ここどこ……?」
と、小さく呟き、半身を起こして辺りをきょろきょろ見渡した。足の踝くらいの高さの雑草や、膝丈ほどの黄色い花が周りに生い茂っている。見上げれば、薄い桃色がかった青空が、柔らかい陽射しを光に注いでいた。
――あれ、俺さっきまで……老婆は!?
「ここは創世の森近くだ……」
「森……?」
光が不思議そうに呟くと、細面の男は光るの後ろを指差した。光は男の指先の差す場所へ座ったまま向き直る。直ぐ後ろには――地上を覆わんばかりの背の高い数多の木々が、寄り添うように密集していた。その雄大な樹相を下から見上げて、再度呆気にとられていた。




