第三十三話、青空と勇者、回想その1
「有難う……」
「気ぃつけてな〜」
青年は目指すペンションへの道を教えてもらった現地人らしき、高齢の男性にお礼を言うと、山の奥へと通じる小径に足を踏み入れていく。夏らしい短く切り揃えられた黒髪と額に浮く汗に、木漏れ日が滑り白く煌く。
――ふー雑誌に載ってた住所の『……群』とか、電話で駅から山の麓まで走るバスが日に一本とか聞いた時から、予想はしていたが……
薄茶色の綿パンから白いハンカチを取り出すと、こめかみに滴る汗を拭った。
青年の名は天草光。とある大学の2回生である。夏休みの2ヶ月もの長期休暇を生かして、雑誌で見つけた期間限定のペンション住み込みのバイト先へと向かっている――が、一応の光の建前である。だが、実際は、複雑な家庭環境に嫌気がさし、本日、家族に行き先をも告げずに、山奥のペンションに安らぎを求めに一人やってきた――家出青年とも言うべきかもしれない。
ある程度光は、覚悟はしていたつもりだったが、やはり向かう場所はとんでもない秘境のようだった。もうかれこれ――小径に入り込んで2時間は経つ。最初は木の丸太のようなものが、連なる階段として役割を果たしていたが、それも山深く進むに連れて途切れてしまった。傾斜を伴う土と砂利の道に入ってからは、足に加わる負担は急激に増していった。どこから伸びているのかも分からない木の根や、大小様々な石が地面に突起し、足の躓きを誘ってくる。それに加え、海面のようにうねる、起伏の激しい地面は足腰に容赦なく衝撃を伝えてくる。銘々の影響は小さくとも、時間を重ねるごとに、それらは確実に光の体を蝕み、消耗させていった。長時間の険しい山道の移動で、汗を掻き、光の白いシャツは水分を含んで、べったりと上半身に張り付いていた。肩で息をしながら、山道を鉛のように重くなった足を引きずり、唯一つの思いを胸に険しい山道を登っていく。
――まだか……ペンションは……
細い小径を挟むかのように、鬱蒼と茂る青々とした木々や土の斜面が両側に続く。積み重なった疲労が前に踏み出す光の足の軌道を不安定にし始めていた。左右に微妙にずれながら、覚束ない足取りで前へと足を差し入れていく。そうしているうちに、右の斜面が光に迫るように湾曲し、ただでさえ細い道を削り、前進を危ういものへと変えていった。
――怖いな……ここ……左側は柵もないし
少し足を踏み外そうものなら、左側の急斜面に滑り落ちてしまう。そんな難所にかかり、光は恐怖しながらも、慎重に足を運んでいく。正体不明の虫が顔近くをよぎるが、もうそれを気にとめる余裕もなくなっていた。足元を慎重に見据え、注意して歩いていく。その難所の向こう側はまた斜面が右側に捩れ、広くなっているようだった。それを眺めて、光は安堵したせいか、一瞬の緊張の空白を作ってしまう。木漏れ日が途切れた影に、大きな石がある事を見過してしまったのである。
「うわ、しまった……」
そう叫んだ時には、大きな石に毛躓いて体のバランスは失われていた。時の流れが和らいだかのように、その瞬間が異様に圧縮され、恐ろしくスローテンポで視界に流れる。左方の急斜面の底に見える緑の闇が鮮明に映りこんでくる。長短様々な木々が連なるようして生えている。その木々の根元に下生えする草花の存在も、その刹那に余す事なく捉えていた。そのうち時間がまた正常に動き出し、視界が大きく揺れ動く中、光は咄嗟に斜面に右足を踏み出した。片足でバランスをなんとか保ちながら斜面を滑走していく。だが、大きめの石にまた足を引っ掛けると、体を前に大きく投げ出されてしまう。光は咄嗟に頭を庇い、体を内側に折りたたんで、柔道の受身のように宙で前転した。一回転したは良かったが、背中を土の地面に激しく打ちつけ、肺に溜まる息を唾液と伴に根こそぎ吐き出した。頭を抱えて転がり落ちていくが、傾斜が急なため、尚も落下の勢いは治まらない。体中を木々や突起した岩に打ちつけながら、斜面を下っていく。痛覚はあるはずだが、その天変地異のような刹那の間に知覚が追いつかず、ただ為すがままに落ちていく。次第に意識を保てなくなり、今にも途切れて暗転するかという瞬間――光は確かにある種の異質な浮遊を、沈みゆく意識の底で感じていた――が、次の瞬間には全ては闇に塞がれ、一瞬浮んだ思いを置き去りにして、意識はどこか遠くへ運ばれていった。
――俺……死ぬんだな……
「――異界から来た青年は傷負い、生死の境で老婆によって救われるであろう……」
「……ん……うう……」
光は薄っすら瞼に明るみを感じ、耳元で聞こえた何者かの声により、闇の中から意識を取り戻しつつあった。光は瞼をゆっくり開けていく。白く濁った視界の真ん中に木の梁にようなものが映る。それをぼんやり眺めながら、曖昧な意識の中、細い声で呟いた。
「……こ、ここは……」
「異界から来た青年、安寧の地で意識を取り戻す……」
また、耳元でさっきのしゃがれた声が聞こえてくる。たゆとう思考の中、手の平で尻に密着する場所を触ってみる。柔らかい清潔なシーツの手触りが光の手に伝わってきた。光は体の手の関節を曲げてみる。その瞬間、シビアな痛覚が電流のように体の中を駆け巡った。思わず、目をぎゅっと閉じて目尻に皺を寄せ、苦痛に顔を歪める。
「治癒施されしも、まだ数日はその効果は浸透せず……自然の摂理に身を委ねよ」
「……あ……俺斜面から……」
光はしばらくして、自分が斜面から落ちたことを思い出した。そして、今、清潔なシーツの上に寝かされている。光ははっきりしない意識を現状把握や、イメージする事で徐々に回復させようと努める。そうやって、これまでの記憶の断片を繋いでいくうちに、自分は斜面から転げ落ちた後、誰かに救助されてベッドに横になっていると推測を立てた。それを端緒に、意識だけは鮮明になりつつあった。
時間の経過と伴に頭がしっかりしてくると、様々な思考が頭に浮かび上がってくる。まず最初に、浮んだのは命の恩人へのコミュニケーション。つまり、自分の命を救ってくれた恩人に、感謝の言葉を述べないといけない――という強い意志である。さっきから意識の混濁からか、中々把握できない言葉を傍で囁く、老婆の声を虚ろな聴覚で拾っていた。そして今も、しきりにそれは聞こえていた。光は冴え始めた頭の思考だけを頼りに、声が聞こえる右方へ頭を傾けようとした。だが、首が回らない。それどころか、無理に首筋を回そうとしたせいか、肩から胸の筋肉、腹筋、足先に至るまで、痺れを伴った強烈な痛みが迸り、それに悶えながら、少し右に傾きかけた上半身をまた、元の場所に無造作に放擲した。
――これは、全身打撲か……骨折も何箇所かありそうだ……動けそうにない……
「焦りは禁物……数刻のち、全ては明かされるだろう……」
「どなたか分かりませんが、助けてくれて有難う、少し傷が癒えるまで横になってることにします」
光は仰向けになったまま、老婆の影を視界の端で確かめつつ礼儀ただしく言葉を口にした。
だが、ぶつぶつ呟いているが、はっきりした言葉になって返っては来なかった。
薄っすら目の端に映るその影は黒っぽい姿をしている。直視しただわけではないので、色彩だけしか確証めいた事は浮ばない。ただ、さっきから、老婆らしき者は何かの預言のような抑揚のない口調で、光に謎めいた言葉を囁いてくる。不可解きわまりない存在であった。だが、その内容を掻い摘むと、至って好意的なもので、害意は微塵も感じられない。その後も、しきりに何やら囁いている様子だった。光は慣れてきたのか、それがだんだん子守唄のように聞こえ始め、木の香りが漂う部屋で目を閉じているうちに、いつの間にか心地よい眠りにまた落ちていった。
回想入れるのはあまり良い方法ではないらしいのですが、ゼームス大陸と勇者側が謎めきすぎなので、しかたなくちょっとした説明を付け加えるためいれます><




