第三十一話、魔王のプライド。
魔王は姫の部屋の合鍵を使い開けると、部屋の入り口を頭を低くして潜る。
部屋はしんと静まり返っていた。まだ、姫もリーシャも仕事中なので、それは当然と言えば当然の静寂だった。魔王はこの部屋に至るまで、ずっと彩の彼氏卓の格好のままでいた。彩に正体を打ち明けた事により、特に変身対象を変更する理由もないため……は建前で……実際は昼間の事があり、変身対象を変える事に慎重になっていた。
「さてと……」
胸元で手を交差させ、変身を解いた魔王。姫の部屋の中であれば、素の姿でいても一向に構わない。右肩に手をあて、首を左右に曲げて骨が擦れあう音を部屋に響かせた。
「やれやれ……」
魔王は体全体を覆う黒いほっかむりのローブを脱ぎ捨て、無造作に部屋の隅へとそれを投げ捨てた。漆黒のローブは宙にふわりと舞いながら、ビニール袋の塊の上に蓋をするように覆いかぶさる。大きな体を前に屈め、部屋中に広がるゴミや衣類を手で払って空間をつくる。魔王はその空いた空間に仰向けに寝転がって、組んだ手を枕代わりにしその上に頭を置いた。白い天井を薄目で眺めながら、深い息を吐き、しばし静寂に身を置いていた。
魔王ははっとして目を覚ます。いつの間にか寝入ってしまっていた。部屋の中は薄暗く、窓に映る空は群青色に染まっていた。起き抜けのためか、目が覚めた理由は最初のうちは分からなかった。だが、玄関の扉から金属が擦れる音が聞こえてくる。
「ただいま〜……」
「…………」
姫とリーシャが仕事を終えて、帰ってきたようだ。扉を開け広げると同時に、部屋に響き渡る姫の声。朝と違ってその声色は明らかに低く、か細く聞こえる。
まだ起きたばかりで、鉛のように重い体に鞭打ち、魔王はゆっくり起き上がった。そして、部屋の電灯に繋がる紐の先を引っ張り、薄暗い部屋を電灯の白光で満たした。
「よっ! お疲れさん!」
魔王は胡坐を掻いた状態で、疲れた顔で畳に膝を折る二人に労いの言葉を掛ける。
「つ……かれました……」
「大変だったね……」
リーシャは足を崩し、おかまいなしに畳の上に座り込んだ。もはや周りのゴミすら、その目には映っていない。無意識に手でゴミや衣類を払いのけ、空間を作りそこに尻を置いただけだ。姫は疲れてはいたが、リーシャほどではなかった。レストランで働く前はコンビニで朝から夜まで接客をこなしていた。レストランのそれとは比べ物にならないほど楽なものであったが、それでも一日働き続けるスタミナを姫はその小柄な体に持ち合わせている。仕事を終えて疲れてはいるが、まだ余力は残っているようで、一息ついた後、台所の方へすたすたと歩いていった。だが、リーシャは座り込んでからは、立ち上がる気力すら残されていなかった。リーシャは生まれて間もない執事タイプの魔族である。魔王の悩みに良策を進言したり、机に向き合う知的労働には向いていたが、長時間忙しく動き回り、立ちっぱなしの肉体労働には向いていない。なれない仕事を終えたばかりのリーシャは疲れきっていた。端正な顔立ちは疲労の色を浮べ、突っ伏すように体を畳の上に横たえていく。
「リーシャ、ご苦労だったな……すまぬ……」
魔王はリーシャの様子を眺めているうちに、何か後ろめたささえ感じ始めていた。
「何を仰いますか……魔王様はなにも気にとめる必要は……ありません……」
魔王の言葉を受けて顔をあげると、リーシャは疲労感に顔を歪めながらも微笑みを魔王に向けた。その健気にさえ映る姿を見て、魔王は何かしてやりたくなり立ち上がる。そして、部屋の端にある座布団を見つけると、折りたたんでリーシャの頭の近くに置いてやった。
「有難うございます……」
その優しい気遣いに、心を打たれたのかリーシャの目は薄っすら潤んでいた。
頭をその上にゆっくり置くと、頬を赤くして満足げな顔で仰向けに体を横たえる。
そんな中、姫は帰ってきたばかりだというのに、きびきびと動いていた。既に台所に立ち、朝食の際に洗い場に溜められた食器を洗い始めている。水が流れる音や食器が擦れる音が絶え間なく魔王の耳に届く。その後ろ姿を魔王は不安げに眺めていた。
――姫はあの時の俺に気づいたんだろうか……それに……
複雑な思いに身を焦がしながら、目を閉じて横になっているリーシャの顔に視線を落とす。
――例え、気づいたとしても、いや……俺が素の姿で他の女と睦みあっていて、その現場を姫が発見したとしても、嫉妬くらいはしてくれるんだろうか……?
魔王が身悶えるほど気になる事は、姫が実のところ、現在、自分に対してどういう思いを抱いているのか、そのことだけだった。ゼームス大陸にいる頃は、姫に魔王城に何度も足を運んでもらった。やって来た姫と様々な会話を交わし、それなりに交情を深めたつもりでいた。だが、それはもう一年も前の話である。告白の文が姫に届かなかった事が悔まれるが、それも全ては結果論であり、過ぎ去った話だ。
現在、ひょんなことから、ボロアパートの姫の一室にやっかいになっている。この世界にやってきてから、魔王は常に考える事が一つある。一年の月日は姫にどれだけの変化をもたらしたのか――――魔王はその事を考え出すと、苦渋に身悶える事しかできない。
――一年の空白はあまりに長かった……それにより俺は自信を失い、臆病になってしまった……
一年の埋める事のできない空白の月日は、魔王の心を萎縮させるに十分なものだった。魔王は姫が過ごしてきた一年間を全く知らないと言っても過言でない。多少の事は姫の口から聞いたが、実際、一年の月日を同じ世界で伴にしたわけではない。一年の間に姫が男を作っていても可笑しくはない。今のところその気配は無い様に思えるが、姫が魔王達に隠れてひっそり誰かと愛を育んでいる事も考えうる。その可能性は限りなく薄いが0ではない。そして、付き合っていないとしても、今、意中に密かに思っている人間の男性がいることも否定はできない。そういった様々な不確定要素が、魔王を不安にさせ、一年と言う月日が、魔王を臆病に仕立て上げ、それを確認しようと姫に尋ねる事さえできないでいた。
――姫が俺の事どう思ってるだの考える自体……既におこがましいのかもしれないな……
魔王は姫の後姿に視線を戻した。哀愁で揺れる瞳でその姿を後ろから眺めていると、以前ゼームス大陸で散々眼にしていた姫と別人のようにさえ感じられた。
「ひ、姫……」
魔王は思わず、虚空に手を浮かして、声をかけるわけでもなく姫と囁く。
蚊の鳴くような声であった。洗い場に身を置いて食器を洗う、姫に届くような声ではなかった。
しかし――姫はそれに呼応するかのように、不意に後ろを振り向く。魔王の虚ろな視線と姫の大きな金色の瞳が直線を為して触れ合う。魔王はその瞬間、ひやりと胸周りから頭の先まで冷気が循環するのを知覚した。
「何か用?」
――え……!? あれ聞こえたのか……?
姫は地獄耳だった。
魔王はその鋭敏な姫の聴覚に驚いたが、聞こえてしまっては何も言わないわけにはいかない。
「うんちょっとな……」
姫は知ってて黙っているのか、まるで気づいていないのかは分からないが、まだレストランでの出来事を一言も口にしてこない。前者なら姫は魔王が例え、他の人間の女と一緒にいても全く気にも留めないという推測1が成り立つ。魔王にとってこれは最悪のケースだ。だが、魔王の希望的観測だが、姫も魔王の事を普段から意識していて、その話を切り出しにくいという推測2の可能性もない訳ではない。
それでも……自分からその話を切り出し、万が一にも、『あぁ、魔王ちゃんいたね、女の子とデートしてたの? 良かったね〜♪』などと、笑顔で飄々と言われてしまえば、魔王の繊細できめ細かい心はズタズタに切り裂かれてしまう。魔王はそれに心底恐怖していた。そのかつて味わった事のないような恐怖に、打ち負け、姫の背中に張り付いているガムテープの話題に急遽、摩り替えそうにもなる。しかし、魔王はそれを言いかけて思いとどまる。
――今……聞けなければ、俺は臆病者の烙印を一生背負うことになる……それだけはならん……俺は魔王だ……幾千幾万の民の頂点に立つ魔王様だ……こんな事で臆病風に吹かれるなんぞあってはならんのだ……よ〜〜〜し!
魔王は強烈なプライドを無理矢理引き出し、それにより恐怖を押し切る形で腹を決めた。だが、飽くまで力まず、平然を装いそれとなく姫に尋ねる。
「あのな、今日姫達が働くレストランに俺いたんだけど、気がついたか?」
「え〜〜!? いたっけ?」
――なんだ……気づいていなかったか……
姫の答えに魔王は安堵の息を深く漏らす。瞬時に、危惧していた事が杞憂に消え、張り詰めていた体中の筋肉から力が抜けていくのを感じていた。だが――
「……お金もないのに、ま、まさか……魔王ちゃん! あなた!」
姫の顔が豹変していく。タオルで手を拭いながら、興奮気味に顔を赤らめ、魔王に詰め寄ってくる。魔王は姫の言葉を聞いて、誤解している内容が手に取るように分かった。その誤解を一刻も解く必要がある。姫は一旦切れると、瞬間湯沸かし器の如く激昂し手がつけられなくなるのだ。素早く手を突き出し慌てて、口早に弁解を申し立てた
「おいおいおい! 勘違いするなよ! 俺は無銭飲食とかしてないし、見知らぬ人間に魅了を悪用したりもしてないぞ! えーっと……そうそう、蠅に変身してだな、姫達の様子を眺めていただけだ!」
姫の憤りに満ちた眼に気圧され、後方に体を逸らして、咄嗟に思いついた嘘を宥めるように姫に聞かせた。憤りをこめた威圧的な瞳で、魔王を上から押さえつけるに見下ろす姫。姫が魔王が咄嗟についた嘘を信じるか否かは、五分五分だった。
しばらく、姫に睨みつけられ、口を開けたまま冷や汗を顔に滲ませる。
だが、しばらくして――急に姫の眉根の皺が消えて、表情に穏かな笑顔が浮かび上がる。
「――――ふふふ、そうなんだ! てっきり魅了で誰か騙くらかして、見知らぬ人に迷惑掛けたのかと思った!」
「ハハハ……このま、魔王様がそんなセコイ真似するわけないだろ……!?」
魔王は冷や汗をこめかみ辺りに垂らして、動揺を見抜かれないように眼と口調に力を込めた。それを聞いた姫が、更に安堵の息を漏らすと、洗い場の方へいそいそ戻っていった。
――危なかった……しかし、切り抜けたぞ……
切迫した危機を上手く乗り越え、額の汗を手で拭った。そのまま、深い息を漏らして、背中を地面につけ天井を眺める。
しばらく、ぼんやり天井に視線を置いたまま、再び訪れた安寧の時に身を浸していた。
――……はぁ、一時は焦ったけど、良かった良かった……
姫の誤解を解いた事により、またさっき杞憂に終わった出来事に意識を戻し、その余韻を内に満たす。それが外に漏れる形で口元に微笑みも自然と浮ぶ。だが、それも一時の事で、また口を堅く結んで天井を眺めながら物思いに耽っていた。
――まぁ……過去は過去。今は同じ世界で同じ屋根の下に一緒に暮らしているんだ……
横になりながら、右拳を高々と宙に掲げる。
――ふ……一年間などすぐに埋めてやるぞ……それに……俺は魔王……一度目をつけたものを早々手放しはしない……姫は誰にもくれてやらん! 誰にもだ! ハハハハ!
魔王は拳を宙で震わせながら、自分がどういう存在であるか改めて思い出し、心の中でしばらく哄笑していた。
「えーっと、マ、マランガさん、芋とれました……?」
「おらよ、こんなに取れたぞ、魔王運べや、疲れた……」
「もちろん……」
痛いミスを推敲しましたが、見なかった事にしてください……




