第十九話、イクゾー編、終焉。
「――隆君、ちょっと後ろに下がっててくれ」
「そんな……」
「いいから!」
強い口調で隆に言った。今まで見せたことがない、険しい顔で魔物を強く睨みつけている。 横顔からも十分その気迫は伝わってきていた。隆はイクゾーの言うとおり、素直に後ろに下がることにした。
イクゾーは隆が後退したのを一瞥して確認すると、近くにあったゴミ箱を両手で持ち上げて双頭犬に向けた。
「ハハハ、そんなもんで俺の爪を牙をやり過ごせるとでも思っているのか?」
イクゾーは鼻息を漏らし、ゴミ箱を上下に揺らして双頭の犬の気を、絶えず自分に引き付けようとしていた。
「来い! 馬鹿犬!」
イクゾーは隆とできるだけ双頭犬を離す為に、ゴミ箱や体を大きく震わせ、双頭犬の注意を引き付けながら、突然、公園の内部へ突っ走った。案の定、双頭犬はゴミ箱の動きに目を捉われ、イクゾーの後を凄まじい勢いで追って行った。
獣特有の静かな地を叩く足音が遠のいていく。その場に取り残された隆は、やっと、この時イクゾーが身代わりとなって自分を逃がしてくれた事に気づいた。
「じーさん、年の割りには足が速いじゃねーか」
双頭犬は既にイクゾーに追いつき、並走しながら巧みに言葉を投げかけていた。
イクゾーは黙ったまま疾走していた。時折、何かの出っ張りに足をとられそうになるが、公園は自分の庭のようなものなので、ある程度予測がついて寸前で小高くジャンプする。
「――しかし、逃げてばかりじゃ話になんないぞ? そろそろ攻撃させてもらうぞ」
双頭犬は不意に、横合いから鋭い爪をイクゾーに向けて薙ぎ払った。
イクゾーはそれをゴミ箱の底で受け止めるも、とてつもない力が加わりゴミ箱ごと体を宙に浮かされ、背中から砂場の中へ放り投げられた。
砂場がクッションの役目を果たし、それほど強い衝撃を背中に受けなかったが、それでも年老いた体にはきついものがあった。
首がかくんっと上下に揺れたために、一瞬意識が遠のいた。
イクゾーは脳が揺らされ、まだ足元がおぼつかない様子だが何とか立ち上がった。
揺れる視界の中、双頭犬が砂場へ大きな足を踏み込んでくるのが分かる。
息を荒立たせながら、ぼやけた意識の中でイクゾーは笑っていた。
――ワシはもう駄目だが……隆君を逃がす事には成功したぞ……もう何も思い残す事は無い……
既に両手にゴミ箱は握られておらず、双頭犬の攻撃を防ぐ手だては無かった。
イクゾーはもう観念していた、ここで例え、この双頭犬に食い殺されようと本望だとさえ思っていた。しかし、諦めかけたイクゾーの脳裏に聞き覚えのある声が響き渡る。
「イクゾーさん!」
「隆君! 何で来たんだ!?」
イクゾーは目を見開いて大声で叫んだ。
「だって! イクゾーさんを見捨てる事なんてできないよ!」
「く……」
イクゾーは双頭犬が隆の方に振り向いた事で、的が変わった事を悟る。
大きな黒い足で砂浜を蹴り始めていた。
――もう駄目だ……
イクゾーは絶望の淵で諦めかけた時、不意に魔王の言葉が頭をよぎった……
『どうしようもない困難にぶつかった時、そこに書かれた文字の表面を額に当ててみろ』
イクゾーはその言葉を思い出すと、藁をも縋る思いで裏ポケットからあの丸い金属の板を取り出し、一か八か額にその表面を強く押し当てた――――
「少年、お前から先に殺してやるよ」
隆の直ぐ手前に疾風の如く駆け寄った双頭犬が、大口を開け鋭い牙をむき出しにして今にも襲い掛かろうとしていた。
隆はどうすることも出来ず、両手で頭を庇って蹲っていた。
「じゃ死ね……」
双頭犬の片方の頭が牙を向いて、頭上から隆に噛み付こうとした。
だが、隆の頭にその牙が届こうとした瞬間――ピタッとその狂犬の頭が宙で動きを止める。
「――糞犬、その辺にしとけ……」
双頭犬の片方の頭は突如現れた、赤い大きな手にがっしり掴まれていた。
「――なんだてめぇは?」
双頭犬のもう片方の頭が、大きな手の持ち主の姿を視界に捉えていた。
赤い肌で覆われた大きな鬼、もしくは魔物といった姿をした者が傍らに、仁王立ちしていた。
顔の部分には、丁度、三角形を描くように金色の眼が三つ発光しているかのように光っていた。長い白髪が頭の真ん中から左右に、雪崩落ち宙に浮いた状態で上に跳ねている。
「――お前に答える名はない、今ここでお前は死ぬ……」
赤鬼がそう言うと、大きな逞しい足で双頭犬の腹部を、下から思いっきり蹴り上げる。
ドスン!
サンドバッグを重い一撃が貫いたような、大きな音が辺りに突き抜けた。
双頭犬は両方の頭の口から、胃液と血が交じり合ったようなものを吐き出すと、大きな呻き声を上げた。
その瞬間、力なく四肢を地面にベタっとくっつけ目を閉じ、そのまま動かなくなってしまった。
隆は急に周りの音が聞こえなくなったので、頭を抱える手の隙間から外を恐々覗き見た。
しかし、そこには、双頭犬もイクゾーの姿も既に無かった。
まだ震える足で何とか立ち上がり、ぼーっと辺りを見渡していた。しかし、だんだん押さえ込んでいた恐怖心が込み上げてくると、公園の出口へ向って無心で走り出していた。
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「こいつは一体何者だ……? そして俺はどうなったんだ……?」
イクゾーは闇夜の住宅街を屋根伝いに、双頭犬を脇に抱えて軽やかに疾駆していた。
赤鬼となった大きな体は、イクゾーの意志で自由に動かせる。
しかも、元の体より数段力強く、大きな体からは想像もできないほど軽やかに動く。
イクゾーはあの時――半ばやけ気味に金属を額に擦り付けた後、突然、体が大きく膨れ上がり異形の姿に変わっていくのを、その身をもって体験した。
完全にその姿へ変貌した後の気分は、とても爽やかで落ち着いたものだった。
底から無限に湧き立つ力が、全身の鋼のような筋肉に漲るのが実感できた。
そして、気がつけば、この双頭犬の傍に瞬時に移動し、その頭を強く掴んでいた。その時のイクゾーは、普段から考えられないような自信に溢れていた。
イクゾーは屋根伝いに近くの山へ向っていた。この異形の姿を闇で隠しながら夜明けが来る前に、人目につかない場所で落ち着きたかったからだ。
いくら身体が強固なものになったとしても、その姿は人間とは遠くかけ離れている――とイクゾーは鏡は見ていないが、そう信じていた。なので、この姿を人目に晒すわけにはいかなかった。
一旦、どっかの山奥の洞穴にでも居を構えて、自分の身に起きた出来事や、これからどうするかを真剣に考える必要がある――イクゾーはそう考え、ただひたすら、山を目指していた。




