カガリビ 急
カガリビ 急
朝。山は、昨夜より明るかった。雲が切れ、雪の斜面へ薄い光が落ちている。遠くに見えていた二つの火は消えていた。煙もない。それが余計に嫌だった。
メイは窓の隙間から山を見ていた。
「もういないかな」
「いる」
背後でイーライが言った。
「見えるの?」
「見えないからいるんだよ」
「何それ」
「火を消したってことは動いてる」
イーライは床に荷物を並べていた。毛布。火打石。残った豆。干したビッグホーンの肉。火薬。弾。
メイが振り返る。
「本当に出るの?」
イーライの手が止まった。
「昨日の続きをする?」
「途中だったでしょう」
「なら聞く」
イーライは荷物から手を離した。
「ここに残りたいか?」
メイは小屋を見た。寝台。炉。椅子。壁に立て掛けられた杖。白。枯れた金。炭の黒。
二か月前。ここはただの逃げ場所だった。今は違う。ここで朝を迎えた。豆の数で言い合った。薪を何本入れるかで揉めた。雪に閉じ込められた。大きな火を囲んだ。海へ行く約束をした。
残りたい。そう思った。でも。
「残れるの?」
イーライは答えなかった。それが答えだった。
メイは外を見る。
「じゃあ、出る」
「いいのか」
「今、私が決めた」
イーライが少しだけ笑った。
「分かった」
「どこへ行く?」
「まず山を下りる」
「その後」
「西」
メイが彼を見る。
「海?」
「ああ」
一瞬だけ。胸の奥が軽くなった。吹雪の夜。あの火。約束。まだ残っている。
「本当に?」
「ああ」
メイは荷物を取りに行った。左手を使わないよう、無意識に右手ばかり伸ばしていることに気づく。赤い蹄の痣はもう痛まない。けれど消えてもいない。
「メイ」
「何?」
「それ」
イーライが左手を見る。
「隠す?」
「何で」
「町を通るなら目立つ」
メイは痣を見る。
「髪より?」
イーライは何も言えなかった。
メイは外套の袖を下ろした。赤い痣が隠れる。金色の髪は隠れない。切られた右側だけ短く、不揃いなまま。メイは鏡を見なかった。
*
荷物を半分まとめたところで。イーライが顔を上げた。
「待て」
メイも動きを止める。外。雪を踏む音。一歩。止まる。また一歩。イーライが猟銃を取った。メイの身体が固くなる。
「昨日の人?」
「分からない」
イーライが扉の横へ立つ。メイも杖を取る。耳を澄ます。音は一つ。複数ではない。足取りが重い。時々止まる。まっすぐこちらへ来ている。
メルクの力を意識する。流れ。雪。風。そして人。一人。
「一人」
メイが囁いた。
「分かる?」
「うん」
「誰だ」
「そこまでは」
扉の向こうで何かが崩れた。雪。次に、
「……イーライ」
声。二人が顔を見合わせる。
「ベン?」
メイが扉へ行こうとする。イーライが腕を伸ばした。
「待て」
外からもう一度。
「いるんだろ!」
荒い息。
「開けろ!」
イーライが扉を少しだけ開ける。雪と冷気が入る。隙間から外を見る。すぐに扉を大きく開けた。ベン・クロウが立っていた。帽子にも肩にも雪。髭は凍り、頬は赤黒い。
「遅え」
そう言って一歩入った途端、膝をついた。
「ベン!」
メイが支える。左手を出しかける。止める。右手で腕を掴んだ。イーライも反対側から支え、小屋へ入れる。
「何日山にいた」
「忘れた」
「馬は?」
「下」
「一人か?」
「今は」
イーライの顔が変わった。
ベンを椅子へ座らせる。炉は昨夜消したままだ。イーライが火を起こそうとする。ベンが首を振った。
「煙」
「凍えるぞ」
「まだ死なねえ」
「そういう顔じゃない」
「後でいい」
ベンは息を整える。メイが水を渡す。一口。二口。ベンは器を膝へ置いた。
「三人いる」
イーライが聞く。
「昨日の火か」
「ああ」
「誰だ」
ベンはメイを見る。少し迷った。
「髪を買った男」
メイの顔から表情が消える。
「まだ持ってる?」
「持ってる」
「私の髪」
「ああ」
ベンは視線を落とした。
「悪かった」
「何が」
「あの時、止めきれなかった」
メイは答えなかった。
ベンが続ける。
「町じゃ話が増えてる」
「どんな」
「聞かない方がいい」
「聞く」
ベンが小さく息を吐いた。
「お前が金を隠した」
メイは黙る。
「髪に金が宿ってる」
黙る。
「切れば金が出る」
イーライの手が強く握られる。
「誰が言った」
「誰が最初かなんて分からねえ」
ベンは言った。
「昨日まで笑ってた奴が、今日には本当みたいに話す」
メイは杖を握った。
「他には?」
「ミダスから金が消えたのは、お前が吸い上げたからだって」
「馬鹿みたい」
「そうだな」
「なのに信じるの?」
ベンが顔を上げる。
「信じたい奴には理由がある」
それ以上、メイは聞かなかった。
*
「エヴァンスさんたちは?」
「無事だ」
メイの肩が少し下がる。
「サラも?」
「ああ」
「じゃあ、どうして食べ物が」
「見張られてた」
ベンが言った。
「樫へ持っていけば、道を教えることになる」
メイは三日間空だった木を思い出す。
「だから来なかったんだ」
「ああ」
「何もなかったわけじゃないんだ」
その言葉は、自分に向けたものだった。
ベンは水をもう一口飲んだ。
「髪を買った奴が川で砂金を見つけた」
イーライが顔を上げる。
「どれくらい」
「三粒」
「それだけ?」
「それで十分だった」
メイは分かった。偶然。あるいは川に残っていたもの。そんなことは関係ない。欲しい答えが出た。だから。
「私の髪のおかげだって?」
ベンが頷く。
「そういうことになった」
因果の匂いがなくても分かる。人は理由を欲しがる。一度理由を見つけたら、その後の出来事を全部そこへ繋げてしまう。髪。砂金。金が消えた町。逃げたメイ。全部が一つの話になる。
「三人はどこ」
イーライが聞く。
「昨日までは一つ向こうの尾根」
「今は?」
ベンが黙る。イーライも理解した。
「こっちへ来てる」
「俺が出た時には動き始めてた」
「どれくらい先行した」
「半日あるかないか」
イーライが立ち上がる。
「出るぞ」
メイも杖を掴む。今度は反論しなかった。
ベンが言う。
「西へ行け」
イーライが振り返る。
「町じゃなく?」
「今、町へ戻ったら囲まれる」
「でも道具が」
「後でどうにかしろ」
ベンがメイを見る。
「とにかく今は離れろ」
メイは頷いた。
三人で荷物をまとめる。火はつけない。食べ物。水。毛布。銃。薬袋。杖。必要なものだけ。この小屋を出る。そのことが急に現実になった。
メイは寝台を見る。もう戻らないかもしれない。椅子。炉。窓。左手を伸ばせば、それぞれに残った過去を見ることができる。ここで暮らした二か月。でも触らなかった。自分で覚えていればいい。
*
荷物を背負った時だった。ベンが窓へ寄った。
「待て」
全員が止まる。ベンは答えず、外を見た。イーライも隣へ行く。メイは二人の間から覗く。木々の向こう。白い斜面。何かが動いた。一つ。二つ。三つ。人影。ゆっくりこちらへ上がってくる。
イーライが低く言った。
「間に合わなかった」
ベンが猟銃を取る。
「俺が話す」
「三人相手に?」
「町の人間だ。俺の顔は知ってる」
イーライも銃を持つ。
「俺も行く」
メイが二人を見る。
「私も」
イーライが反射的に、
「お前は――」
と言いかけた。止まった。メイが待つ。数秒。イーライは言い直した。
「どうする」
メイは人影を見る。逃げる。裏から山へ出る。そう考える。酸っぱい。さらに先。追われる。焦げ臭い。ここに残る。話す。甘さはない。焦げ臭さもある。どちらにも嫌なものがあった。メイは鼻を押さえる。
「どうだ」
ベンが聞く。
「いい方はない」
「そうか」
メイは杖を握り直す。
「話す」
イーライが見る。
「いいのか」
「逃げても来る」
「だからって」
「私を探して来たんでしょう」
窓の向こう。三人が止まった。もう小屋を見つけている。メイは言った。
「なら、私が話す」
イーライは何も言わなかった。ただ銃を下ろした。完全には手放さない。メイは扉へ向かった。
その時。左手の甲。袖の下で。赤い蹄の痣が、ほんの少し熱を持った。胸の奥にも。あの感情がある。戦う。なぜ戦わない。言葉ではない。ただ、そこにある。
メイは扉の前で一度だけ息を吐いた。それから開けた。雪の上に。三人の男が立っていた。
*
一番前にいるのは、髪を買った男だった。外套の裾は泥と雪で重くなっている。頬はこけ、目の下が黒い。町で見た時より、ずっと疲れて見えた。その後ろに二人。若い男。もう一人は、髭の濃い男。全員が銃を持っている。構えてはいない。だが、手から離してもいない。
ベンが先に外へ出た。
「そこで止まれ」
髪を買った男が鼻で笑う。
「お前か」
「帰れ」
「お前に用はねえ」
「俺にはある」
「何だ」
「三人とも、山を下りろ」
男はベンの向こうを見る。メイ。その瞬間だけ、顔つきが変わった。疲れより。寒さより。欲しいものを見つけた顔だった。
「いた」
若い男が小さく言った。
髪を買った男は一歩進む。イーライの猟銃が上がった。
「止まれ」
男も止まった。視線だけをイーライへ向ける。
「撃つのか?」
「近づけばな」
「話しに来ただけだ」
「その距離で話せ」
「聞こえるよ」
メイが言った。イーライが横を見る。メイは彼より一歩前へ出た。
「私に用があるんでしょう」
髪を買った男が頷く。
「そうだ」
「何」
「金だ」
メイは黙った。
「ミダスの金」
「ないよ」
「どこへやった」
「知らない」
「お前が見つけてた」
「場所を教えただけ」
「それで全部なくなった」
「私がなくしたわけじゃない」
男の口元が歪む。
「都合がいいな」
「本当だから」
「山から出る場所も知ってた」
「見えてただけ」
「何が」
メイは答えなかった。
説明しても、信じない。水。菌糸。匂い。青い目。金色の髪。何から話しても、話は余計におかしくなる。
髪を買った男は続けた。
「川で金が出た」
「聞いた」
「お前の髪を持って行った場所でだ」
「三粒でしょう」
男の眉が動いた。ベンを見る。
「喋ったのか」
ベンは答えない。
メイが言う。
「たった三粒」
「三粒でも金は金だ」
「川に残ってただけかもしれない」
「じゃあ何で、あの場所だった」
「知らないよ」
「またそれか」
「知らないものは知らない」
髪を買った男の声が少し大きくなる。
「金を見つけたのもお前だろ」
「そう」
「金がなくなった時に逃げたのもお前だ」
「逃げたんじゃない」
「じゃあ何だ」
メイは一瞬、言葉に詰まった。ミダス。群衆。髪を掴む手。鋏。絶叫。
「……追い出された」
男は笑わなかった。
「それでも、お前が消えたあと金も消えた」
「順番が違う」
「同じだ」
「違う」
「俺たちには同じだ」
その言葉に、メイは何も返せなかった。
*
若い男が足を動かした。雪を踏む。イーライが銃口を向ける。
「止まれ」
若い男は両手を少し上げた。
「俺は何もしねえ」
「ならそのままいろ」
「寒いんだよ」
「こっちもだ」
「火くらい――」
「ない」
イーライが言った。若い男は小屋を見る。煙は出ていない。
「本当に消したのか」
「お前らが来たからな」
髪を買った男が口を挟む。
「俺たちが来なきゃ、まだぬくぬくしてたってわけか」
ベンが睨む。
「お前らも火を焚いてただろ」
「凍えるからだ」
「同じだ」
男の顔が固まる。誰も何も言わなかった。一瞬だけ。山にいる全員が、同じ寒さの中にいることだけが残った。
*
髭の男が先に口を開いた。
「金の場所を教えろ」
メイを見る。
「それだけでいい」
「分からない」
「前は分かった」
「今は分からない」
「どうして」
「もう見えないから」
「何が」
「……道みたいなもの」
髪を買った男が食いつく。
「やっぱり見えるんじゃねえか」
「だから、今は見えないって」
「どうすれば見える」
「分からない」
「何が要る」
「分からない」
「金か?」
「違う」
「血か?」
メイの顔が歪む。
「何でそうなるの」
「じゃあ髪か」
その言葉で、イーライの指が動いた。撃鉄。小さな音。髪を買った男が笑う。
「やっぱりそこは嫌がるんだな」
「当たり前だろ」
イーライが言う。
「お前には聞いてない」
「俺が答えてる」
メイがイーライを見る。
「私が話してる」
「でも」
「私が」
イーライの口が閉じる。銃は下げない。
メイは男へ向き直った。
「髪が欲しいの?」
「少しだ」
「嫌」
「一本」
「嫌」
「金は払う」
「嫌」
「四ドル」
「いらない」
「十ドル」
「いらない」
「なら二十」
メイは首を振った。
「何でだ」
「私のだから」
「髪一本だぞ」
「一本でも私の」
「切ればまた伸びる」
その瞬間。右側の短い髪が風で頬に触れた。シャキン。音だけが戻ってくる。メイの呼吸が浅くなる。髪を買った男はそれに気づいた。
「前に切られたんだろ」
「……そうだよ」
「なら同じだ」
イーライが一歩出た。
「同じじゃない」
「一本だ」
「帰れ」
「お前は黙ってろ」
「帰れ」
声が低くなった。髪を買った男もイーライを見る。二人の間だけ、空気が変わった。
メイは胸の奥に、あの異質な感情を感じた。戦う。押し返す。奪われる前に。それはまだ、完全に自分のものではない。メイは左手を握った。袖の下で、赤い蹄の痣が熱を持つ。
「イーライ」
彼が振り返る。
「下げて」
「何を」
「銃」
「無理だ」
「まだ何もされてない」
「されてからじゃ遅い」
その言葉を聞いた瞬間。ミダスの群衆の中で見た、イーライの記憶が蘇った。人の肩。押し合う身体。掴まれる金色の髪。鋏。間に合わない。守れない。あの時、イーライの中にあった恐怖。メイはそれを知ってしまっている。だから、今の彼が何を怖がっているのかも分かってしまう。それが余計に苦しかった。
「私を守るため?」
イーライは答えない。
「だったら、私に話させて」
「話してる」
「銃を向けたままじゃ、話してないのと同じだよ」
沈黙。イーライはゆっくり銃口を下げた。完全には下ろさない。地面へ向ける。それで十分だった。
メイは髪を買った男を見る。
「私は金を戻せない」
「信じられねえ」
「じゃあ何を言っても同じでしょう」
「証明しろ」
「どうやって」
男の目がメイの髪へ向く。
「一本くれ」
「それは証明じゃない」
「川へ持って行く」
「嫌」
「金が出なきゃ信じる」
「出たら?」
男は答えない。
メイは小さく息を吐く。
「出たら、もっと欲しくなるだけ」
若い男が視線を落とした。髭の男も何も言わない。髪を買った男だけが、メイを見ている。
「一本で済ませる」
「前もそうだった」
「何が」
「みんな最初は少しでいいって言った」
メイは続けた。
「金も」
「……」
「少しだけ」
「……」
「必要な分だけ」
「……」
「それが、どんどん増えた」
髪を買った男の顔から笑いが消えた。メイは言う。
「一本で終わる人の顔じゃないよ」
*
風が吹いた。木の枝から雪が落ちる。誰かがびくりと肩を動かした。それだけで全員の視線が動いた。銃。手。足。距離。
メイには流れが見えた。今ここにいる人間たちの注意が、細い糸のように交差している。誰かが動けば。全員が動く。そんな形だった。
「もういい」
若い男が言った。
髪を買った男が振り返る。
「何が」
「帰ろう」
「またそれか」
「本人が知らねえって言ってる」
「信じるのか」
「少なくとも、山で凍えるよりましだ」
「金は」
「もういい」
髪を買った男の顔が変わった。
「お前、ここまで何しに来た」
若い男が答える。
「最初は金だった」
少し間を置く。
「今は帰りてえ」
髭の男も若い方を見る。
「道は?」
「ベンに聞けばいい」
ベンが眉を寄せる。
「俺が案内する。下までなら」
髪を買った男がベンを睨む。
「勝手に決めるな」
「お前のためでもある」
「俺はまだ終わってねえ」
「何を終わらせるんだ」
髪を買った男は答えられなかった。それでも帰ろうとはしなかった。
「髪一本だ」
また言う。
メイは首を振った。
「駄目」
「一本」
「嫌」
男が一歩踏み出した。イーライの銃が上がる。ベンも動く。髭の男が髪を買った男の腕を掴んだ。
「やめろ」
「離せ」
「話は終わりだ」
「終わってねえ」
腕を振り払う。その拍子に、男の外套が開いた。胸元の革袋が見えた。中から金色の髪が少し覗いている。
メイの髪。自分から切り離されたもの。それを見た瞬間。胸の奥で何かが冷えた。髪を買った男も、メイの視線に気づいた。革袋を握る。
「これは俺が買った」
「私からじゃない」
「金は払った」
「私にじゃない」
「関係あるか」
「あるよ」
「買ったものは俺のだ」
メイの声が低くなる。
「それ、私だったものだよ」
一瞬。誰も動かなかった。髪を買った男の表情だけが、わずかに揺れた。
その隙に。若い男が言った。
「返せよ」
髪を買った男が振り返る。
「何?」
「髪」
「お前まで何言ってる」
「もういいだろ」
「金になる」
「だから何だ」
髪を買った男の顔が赤くなる。
「黙れ」
「帰ろう」
「黙れ!」
怒鳴り声が山へ響いた。その瞬間。鳥が一斉に飛び立った。羽音。全員の視線が上へ向く。ほんの一瞬。メイが髪を買った男へ目を戻した時。男はもう近くまで来ていた。
「返して」
メイが言う。
「嫌だ」
「それだけでいい」
「だから嫌だ」
メイは手を伸ばした。右手。革袋へ。男が腕を掴む。強い。
「離して」
イーライが動いた。
「触るな!」
男がメイを引いた。ベンも飛び込む。髭の男が止めようとする。若い男が一歩退く。全部が一度に起きた。
メイには流れが見えた。腕。肩。銃。足。誰かの手が誰かの手を押す。イーライが男を突き飛ばす。革袋が雪へ落ちる。金色の髪が零れる。男がイーライへ殴りかかる。ベンが間へ入る。髭の男が叫ぶ。
「やめろ!」
若い男が腰へ手を伸ばした。銃。その流れだけが。メイには、はっきり見えた。
「イーライ!」
彼も気づいた。若い男が銃を抜く。イーライの猟銃が上がる。
その瞬間。猟銃に左手で触れた時の光景が、メイの中に蘇った。まだ少年だったイーライ。その手に銃を持たせる、大きな手。父親の声。
――銃口は、人に向けるな。
若い男の銃口が上がる。イーライの指が引き金へかかる。メイは口を開いた。間に合わなかった。
パンッ。山が鳴った。
*
若い男は、その場で止まった。何が起きたのか分からない顔をしていた。銃はまだ右手にある。けれど、もう持っているだけだった。胸の辺りへ目を落とす。外套に、小さな黒い穴が開いている。その周りが、ゆっくり濃くなる。赤。
男の膝が折れた。雪へ落ちる。
「おい!」
髭の男が駆け寄った。髪を買った男も動く。イーライは銃を構えたまま立っていた。撃った姿勢から、ほとんど動いていない。白い煙だけが銃口から流れている。
「イーライ」
メイが呼ぶ。返事がない。
「イーライ!」
ようやく彼が息をした。銃口が少し下がる。
髭の男が雪へ膝をつき、若い男の身体を起こそうとする。
「しっかりしろ」
返事はない。
「おい」
胸を押さえる。指の間から血が出る。
「くそっ」
髪を買った男がイーライを見る。顔から、さっきまでの欲が消えていた。
「撃ちやがった」
イーライは何も言わない。
「お前……」
男が腰へ手を伸ばす。
「やめろ!」
ベンが銃を向けた。
「次に抜いたら俺が撃つ」
「こいつが先に撃った!」
「そいつも銃を抜いた」
「まだ撃ってねえ!」
「銃口が上がってた!」
ベンの声が山へ響いた。髪を買った男の手が止まる。全員の息が荒い。誰も引き金へ触れない。けれど、一度鳴った銃声が、まだそこに残っているようだった。
メイは雪を見る。金色の髪。自分の髪。その少し先。血。白い雪の上で、両方が妙に鮮やかだった。
*
「メイ」
ベンが言った。
「来るな」
メイはすでに動いていた。倒れた若い男へ近づく。髭の男が睨む。
「触るな」
「助けたいだけ」
「もう遅い」
「分からないでしょう」
メイは男の顔を見る。目は半分開いている。呼吸は浅い。まだ生きている。
「布」
髭の男は動かない。メイが振り返る。
「何かないの?」
ベンが外套の内側から布を出す。メイへ渡す。右手で受け取る。傷へ当てる。血がすぐに染みる。
「押さえて」
髭の男へ言う。男は一瞬迷い、手を重ねた。
「強く」
「分かってる」
メイは若い男の顔を見る。唇が動いた。
「……さむ」
聞き取れるかどうかの声だった。
「寒い?」
返事はない。
「小屋へ入れよう」
イーライが動いた。髪を買った男が立ちはだかる。
「触るな」
イーライが止まる。
「中なら暖かい」
「お前が撃ったんだろ」
「だからだ」
「だから?」
イーライの顔が歪む。何も言えなくなる。
ベンが間へ入る。
「今はどけ」
髪を買った男は動かない。ベンが低く言う。
「死なせたいのか」
その言葉で、男は横へ退いた。
*
四人で若い男を小屋へ運んだ。寝台へ寝かせる。そこは、昨夜までメイとイーライが眠っていた場所だった。メイは布を重ねる。血が止まらない。呼吸が弱くなる。
「名前」
メイが聞く。
髭の男が顔を上げる。
「何」
「この人の名前」
一瞬。それまで誰も、彼を名前で呼んでいなかったことに気づく。髭の男が答えた。
「ネッド」
メイは若い男を見る。
「ネッド」
反応はない。
「ネッド、聞こえる?」
瞼が少し動いた。
「帰りたいんでしょう」
その言葉に。ほんのわずか。喉が動いた。
「帰れるから」
自分でも嘘だと分かった。それでも言った。
「帰ろう」
ネッドの右手が動いた。何かを探すように。メイは反射的に手を伸ばした。左手。指が触れた。世界が変わった。
*
火。濡れた薪。煙。寒い。指が痛い。
「もう戻ろう」
ネッドの声。目の前には、髪を買った男がいる。
「嫌だ」
「聞いてるのか」
「聞いてる」
「なら帰ろう」
「ここまで来た」
苛立ち。寒さ。どうでもいい。金なんて。本当はもう、どうでもよかった。
家。低い天井。煮込みの匂い。誰かが笑っている。女の声。暖かい。景色が切れる。
川。冷たい水。指先に小さな粒。金。本当に出た。だから少しだけ、期待した。もう一度。もう少し。それだけだった。
山。雪。足が重い。帰りたい。ここまで来た。帰りたい。でも道が分からない。ついて行くしかない。
火。二つ。夜。眠れない。朝。
そして。小屋。金色の髪。メイ。思っていたより若い。魔女なんかじゃない。ただの娘に見える。
帰ろう。そう言った。もういい。本当に、もうよかった。
怒鳴り声。鳥。羽音。人が動く。誰かが掴む。誰かが押す。怖い。銃。銃を抜く。撃つためだったのか。自分でも分からない。ただ。向こうにも銃がある。怖い。死にたくない。銃口を上げる。その先。イーライ。
パンッ。胸が熱い。次の瞬間には。寒い。ただ寒い。帰りたい。それだけだった。
*
メイは手を離した。息ができなかった。小屋。炉。人。血。全部戻る。ネッドの手はもう動いていない。
「……メイ?」
ベンの声。メイはネッドを見る。胸へ当てた布。血。呼吸。待つ。もう一度。待つ。何もない。
髭の男が首元へ指を当てた。しばらくして、手を下ろした。誰も聞かなかった。顔を見れば分かった。
*
イーライは小屋の入口に立っていた。中へ入れないようだった。メイは彼を見る。さっき見た最後の景色が重なる。ネッドの目から見たイーライ。銃。白い煙。
「死んだ?」
イーライが聞いた。誰も答えなかった。ベンが目を閉じる。それで十分だった。
イーライは猟銃を見る。手が震えていた。ほんの少し。
「俺が」
言葉が止まる。
髪を買った男が立ち上がった。
「そうだ」
髭の男が振り返る。
「やめろ」
「こいつが殺した」
「ネッドも銃を抜いた」
「撃ってない」
「でも抜いた」
「だから殺していいのか?」
髭の男は答えられない。イーライも。ベンも。メイも。
髪を買った男の顔が変わっていく。金を探していた男の顔ではなかった。怒っている。震えている。
「こいつは帰ろうって言ってた」
メイが言った。全員が見る。髪を買った男の眉が動く。
「何で知ってる」
メイは答えない。
「昨日も」
言葉が続く。
「一昨日も」
自分のものではない記憶がまだ残っている。
「寒いって」
「黙れ」
男の声が低くなる。
「金なんて、もうどうでもいいって思ってた」
「黙れ」
「帰りたかっただけ」
「黙れ!」
男が怒鳴った。メイは止まった。男の目に涙があった。それを見て、何も言えなくなった。
髪を買った男はネッドを見る。
「帰るぞ」
髭の男が聞く。
「どこへ」
「町だ」
「こいつは?」
二人の視線がネッドへ落ちた。髪を買った男は歯を食いしばる。
「連れて帰る」
それからイーライを見る。
「お前のことも全部話す」
イーライは視線を逸らさなかった。
「そうしろ」
「イーライ」
ベンが止める。
「本当のことだ」
髪を買った男が乾いた声で笑った。
「本当のこと?」
「俺が撃った」
「そうだ」
「ネッドが銃を抜いた」
「撃ってねえ」
「それも話せ」
「じゃあ話は簡単だ」
男はネッドへ毛布を掛けた。
「人殺しだ」
その言葉だけが、小屋に残った。
*
二人はネッドを運ぶ準備を始めた。ベンが縄を貸す。手伝おうとすると、髪を買った男は払いのけた。
「触るな」
「その身体を二人で山から下ろす気か」
「俺たちでやる」
髭の男は何も言わなかった。二本の枝へ毛布を渡し、簡単な担架を作る。雪の上なら引くこともできる。それでも、人一人は重い。
髪を買った男が入口へ落ちた金色の髪に気づいた。拾おうとして。やめた。革袋だけを拾う。もう金色の髪には目を向けなかった。
二人が外へ出る。ネッドを載せた担架が雪を擦った。ざっ。ざっ。重い音。
髪を買った男が振り返る。
「逃げるなよ」
イーライを見る。
「逃げたら、今度は追う」
イーライは答えた。
「逃げない」
二人は山を下り始めた。来た時には三人だった。帰る時も三人だった。けれど。一人だけ、自分では歩いていなかった。
*
姿が木々の向こうへ消える。しばらく誰も喋らなかった。ベンだけが窓へ残り、二人の進む方角を見ていた。
「表道へ行った」
イーライが顔を上げる。
「分かるのか」
「あの担架じゃ、あそこしか下れねえ」
ベンは外を見たまま答えた。
「沢沿いを回って、馬の通れる道へ出る。遠回りだ」
イーライは黙る。ベンが続ける。
「しかも、この時間からじゃ町まで着かねえ。どこかで一晩越す」
メイがベンを見る。
「じゃあ……」
「あいつらより先に町へ入れる」
イーライの目が動いた。ベンは山の別の方角を指した。
「尾根を真っ直ぐ切る古い道がある。荷物を背負った人間なら通れる。担架じゃ無理だ」
「どれくらい違う」
「明け方に出れば、昼過ぎにはミダスへ着く」
「向こうは?」
「早くても夕方だ」
小屋が静かになった。意味は全員に分かった。ネッドの遺体を持った二人が町へ入る。人が集まる。そこで最初に語られる。黄金の魔女を追って山へ行った。ネッドが撃ち殺された。誰に。なぜ。どちらが先に銃を向けたのか。その場にいなかった人間には分からない。
ベンが言う。
「町じゃ、先に広まった話が本当になる」
イーライは猟銃を見る。
「……だから先に行く」
メイが顔を上げた。
「何?」
「町へ戻る」
「待って」
「逃げない」
「そうじゃなくて」
イーライはメイを見る。
「俺が撃った」
「私を守るためでしょう」
「それでも撃ったのは俺だ」
「向こうも銃を抜いた」
「だから、それも話す」
イーライは言った。
「俺が先に町へ行く」
静かな声だった。
「この銃を持って、自分から行く」
ベンが頷く。
「俺も行く。俺は全部見てた」
メイは言う。
「捕まるかもしれない」
「ああ」
「だったら――」
「メイ」
イーライが遮った。
「俺が逃げて、あいつらだけが町に戻ったら」
少し間を置く。
「その時点で、俺は逃げた人殺しになる」
メイは黙った。
「俺が撃ったことも」
「……」
「ネッドが銃を抜いたことも」
「……」
「お前の髪を掴んだことも」
全部。自分の口で話す。
「そのために戻る」
罪を認めに行く。それだけではなかった。何が起きたのか。誰かが一つの話にしてしまう前に。そこへ自分自身で立つ。そのためだった。
メイの胸の奥に、あの異質な感覚があった。戦う。けれど今度は。銃を向けることではなかった。逃げない。自分のしたことの前に立つ。それも。戦うことなのかもしれなかった。
*
その夜。誰も火を大きくしなかった。明け方には出る。それなら早く眠った方がいい。けれどメイは眠れなかった。
ベンは床へ毛布を敷き、壁にもたれている。すでに寝息を立てていた。イーライは隣にいる。いつもの寝台。同じ毛布。けれど、少し離れている。明日の朝には。ここから別々になる。
「海」
メイが言った。
「ん?」
「行くんでしょう」
少し間があった。
「行きたい」
「二人で行くって言った」
「ああ」
「約束した」
「した」
炉で小さな火が揺れている。
「約束って、途中で変わる?」
イーライは天井を見た。
「変わることもあるだろ」
「なくなる?」
「それは違う」
メイが見る。
「どう違うの」
「俺が町へ戻っても、海がなくなるわけじゃない」
「そういう話じゃない」
「分かってる」
それ以上、言葉は続かなかった。
しばらくして。イーライの呼吸がゆっくりになる。メイは目を閉じた。眠る時には、ときどき自分の身体の流れを追う癖がついていた。息を吸う。吐く。胸。首。腕。指先。腹。そこで。意識が止まった。
ごく小さな場所。下腹部の奥。そこだけ。以前にはなかった流れがある。流れているというより。集まっている。水が、小さな窪みを見つけたように。
メイは目を開けた。もう一度探す。ある。痛みではない。身体が悪い感じでもない。ただ。知らない。いつから。そう思った瞬間。吹雪の夜が浮かんだ。大きな火。一つの毛布。イーライ。メイの胸が強く鳴った。
「……まさか」
まだ分からない。そう思う。身体なんて毎日変わる。メルクの力だって、すべてを教えてくれるわけではない。それでも。一度浮かんだ考えは消えなかった。
隣を見る。イーライは眠っている。左手を見る。赤い蹄。人には触れない。そう決めた。けれど。メイは迷った末に、指先だけイーライの手へ触れた。
*
大きな火。吹雪。暖かい小屋。イーライから見たメイ。金色の髪。青い目。笑っている。手。唇。毛布。近づく身体。その夜。
そして。嬉しい。ここにいてほしい。明日も。春も。その先も。一緒に海へ行く。
メイは手を離した。
*
暗い小屋。小さな炉。イーライの寝息。何も証明されていない。ただ、あの夜があった。それだけ。
メイはもう一度。身体の中を探した。小さな流れ。まだある。胸が速くなる。違う。まだ決めつけるな。自分に言い聞かせる。それでも。一つだけ試してみたくなった。もし。これが。自分の思っているものなら。もし。子どもなら。
右手が腹へ乗った。当然。何も触れない。何も膨らんでいない。メイは考えた。この小さなものを。守る。
甘い匂いがした。メイは動きを止めた。ほんの僅か。気のせいだと思えるほど薄い。これまでの甘さとは違った。鼻へまとわりつかない。何かを欲しがる甘さでもない。暖めた水へ、蜂蜜を一滴落としたような。すぐに消える。
もう一度。守る。また甘い。同じだった。
吹雪の夜。今ここにある、知らない流れ。守ると決めた先の甘さ。過去。今。これから。三つが重なった。
「……もしかして」
声にはならなかった。まだ確かではない。それでも。もう「何でもない」とは思えなかった。
「メイ」
隣でイーライが動いた。
「起きてる?」
「……うん」
「どうした」
言葉が喉まで来る。もしかしたら。子どもが。でも。止まった。
明日。イーライは自分で町へ戻る。自分のしたことから逃げずに。今これを言えば。その選択に、自分が別の重さを乗せる。
メイは腹から手を離した。
「……眠れないだけ」
「俺も」
「寝てたでしょう」
「今起きた」
それきり。二人は話さなかった。炉の火が少しずつ小さくなっていった。
*
朝。三人は暗いうちに起きた。ベンが先に荷物を背負う。
「日が上がる前に尾根へ入る」
イーライも準備をする。メイの荷物も並んでいた。干した肉。毛布。火打石。小さな鍋。水筒。薬袋。必要なものだけ。
「これで足りるか」
イーライが聞く。
「うん」
メイは答えた。それだけ。
出る前。ベンが炉を見る。
「火」
白い灰の下に。僅かな赤が残っている。
二か月。この火を守ってきた。消さないように。大きくしすぎないように。煙を出さないように。凍える夜には少しだけ多く。吹雪の夜だけ。二人で大きくした。
メイは水を持った。炉の前へしゃがむ。
「消すね」
イーライが少し黙る。
「ああ」
水を注ぐ。じゅっ。白い蒸気。もう一度。じゅうっ。赤が消える。灰が黒く濡れる。最後まで。火はなくなった。煙が細く上がる。やがて。それも消えた。
二か月守ったものは。驚くほど静かになくなった。
「行こう」
イーライが言った。メイは立ち上がった。小屋を出る。一度だけ振り返る。もう火はなかった。
*
三人は山を下りた。吹雪の後の道は形が変わっている。倒木は雪に埋もれ。岩も低く見える。メイは流れを見ながら進んだ。雪解けの水。風。動物。そして。ネッドを運んで下った二人の跡。深い。人一人分の重さが加わっている。
やがてその跡は沢沿いへ曲がった。ベンは一度だけ確認し、
「やっぱり表道だ」
と言った。三人はそちらへ行かなかった。尾根へ上がる。狭い。急な道。担架では通れない。
しばらく進むと。朝の光が山へ差し始めた。
*
途中。あの樫の木が見えた。二か月。何度もここへ来た。食料。薬。塩。町から届いたものが、幹の割れ目に入っていた。今日は空だった。
メイが木へ近づく。触れなかった。左手で触れれば。ここへ何度も荷物を置いた人たちの過去を見るかもしれない。エヴァンス夫人。サラ。ベン。知らなくてもいいと思った。自分はもう、十分知っている。
「エヴァンスさんたちに」
メイが言った。
ベンが見る。
「ありがとうって伝えて」
「自分で言わないのか」
メイは町の方角を見る。首を振る。
「戻らない」
イーライが顔を上げた。
「決めたのか」
「うん」
「どこへ行く」
メイは彼を見る。
「海」
それだけで十分だった。
イーライはすぐには答えなかった。ベンが少し離れる。メイは続けた。
「約束したから」
「ああ」
「一人で行くことになるけど」
「ああ」
「それでも行く」
イーライはゆっくり頷いた。
「分かった」
メイは彼の顔を見る。
「止めないの?」
「止めない」
迷いのない答えだった。
「お前が決めたんだろ」
メイは黙った。
「うん」
「なら行け」
声は静かだった。突き放すようではない。それが余計に苦しかった。
「二人で見るはずだった」
メイが言う。
イーライは目を逸らさない。
「ああ」
「海」
「ああ」
しばらく。風の音だけ。
「先に見てこい」
イーライが言った。メイは答えなかった。約束が変わった。なくなったわけではない。でも。同じものではなくなった。
*
樫を離れた。しばらくは同じ道を進んだ。やがて。ベンが足を止める。道が分かれている。東へ切り上がる細い道。尾根を越え、ミダスへ真っ直ぐ下る古い道。西へ続く道。
「ここだ」
ベンが言った。イーライは東を見る。メイは西を見る。ベンが二人から少し離れた。
「先で待ってる」
東の道へ入る。二人だけになった。
メイは杖を握る。白。枯れた金。炭の黒。イーライは猟銃を背負っている。昨日。その銃で人を撃った。今日。その銃を持って、自分から町へ行く。ネッドを運ぶ二人より先に。誰かに自分のしたことを決められる前に。自分の口で話すために。
「イーライ」
メイが呼ぶ。
「何だ」
言葉が出ない。昨夜。身体の中に見つけた、小さな流れ。吹雪の夜。甘い匂い。言うなら。今だった。
メイの右手が。わずかに腹へ動く。止まった。イーライは待っている。急かさない。今これを伝えれば。町へ戻るという彼の決意は変わるかもしれない。変わらないかもしれない。それすら分からない。でも。彼が自分で選んだことだった。
メイは手を杖へ戻した。
「……気をつけて」
それだけ言った。
イーライはしばらくメイを見た。
「ああ」
少し間を置いて。
「お前も」
メイは頷いた。
「海」
イーライが言う。
「うん」
「先に見てこい」
メイは少し俯いた。
「二人で見る約束だった」
「ああ」
「忘れないで」
「忘れない」
それ以上は言わなかった。二人は別れた。イーライは東へ。メイは西へ。
数歩。メイは振り返った。イーライも振り返っていた。互いに何も言わない。それが最後だった。
*
西へ向かう道は、すぐに細くなった。雪はまだ残っている。けれど山を下るほど、土の色が増えた。メイは一人で歩いた。杖をつく。一歩。また一歩。しばらくは。遠くに二人分の足音が聞こえていた。イーライ。ベン。やがて。それも消えた。
メイは止まった。風。枝。雪解けの水。遠くの鳥。それだけ。振り返る。もう。イーライも。ベンも。見えない。さらに向こう。小屋も見えない。
それでも。メイは山を見た。昨日まで。あそこには火があった。朝も。夜も。小さく。消えないように。誰かに見つからないように。二人で守っていた。今は。煙も。光も。何もない。
「……終わったんだ」
静かな声だった。泣かなかった。胸の中の何かが。なくなるというより。少しずつ薄くなっていく。
メイは杖を持ち直す。白い石。枯れた金。黒い石。どれも。手に入れたものではなく。何かが終わったあとに残ったもののように見えた。
左手には。赤い蹄。そして。自分の中には。まだ名前のつけられない、小さな流れがある。
メイはそれ以上考えなかった。道の先。木々の隙間に西の空がある。まだ海は見えない。二人で見るはずだった海。メイは前を向いた。足元の雪が切れる。湿った土へ。杖の先が沈む。一歩。また一歩。
山には。もう火が見えなかった。




