↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/19

カガリビ 急

カガリビ 急


朝。山は、昨夜より明るかった。雲が切れ、雪の斜面へ薄い光が落ちている。遠くに見えていた二つの火は消えていた。煙もない。それが余計に嫌だった。


メイは窓の隙間から山を見ていた。


「もういないかな」

「いる」

背後でイーライが言った。

「見えるの?」

「見えないからいるんだよ」

「何それ」

「火を消したってことは動いてる」


イーライは床に荷物を並べていた。毛布。火打石。残った豆。干したビッグホーンの肉。火薬。弾。


メイが振り返る。

「本当に出るの?」

イーライの手が止まった。

「昨日の続きをする?」

「途中だったでしょう」

「なら聞く」

イーライは荷物から手を離した。

「ここに残りたいか?」


メイは小屋を見た。寝台。炉。椅子。壁に立て掛けられた杖。白。枯れた金。炭の黒。


二か月前。ここはただの逃げ場所だった。今は違う。ここで朝を迎えた。豆の数で言い合った。薪を何本入れるかで揉めた。雪に閉じ込められた。大きな火を囲んだ。海へ行く約束をした。


残りたい。そう思った。でも。


「残れるの?」

イーライは答えなかった。それが答えだった。


メイは外を見る。

「じゃあ、出る」

「いいのか」

「今、私が決めた」

イーライが少しだけ笑った。

「分かった」

「どこへ行く?」

「まず山を下りる」

「その後」

「西」

メイが彼を見る。

「海?」

「ああ」


一瞬だけ。胸の奥が軽くなった。吹雪の夜。あの火。約束。まだ残っている。


「本当に?」

「ああ」


メイは荷物を取りに行った。左手を使わないよう、無意識に右手ばかり伸ばしていることに気づく。赤い蹄の痣はもう痛まない。けれど消えてもいない。


「メイ」

「何?」

「それ」

イーライが左手を見る。

「隠す?」

「何で」

「町を通るなら目立つ」

メイは痣を見る。

「髪より?」

イーライは何も言えなかった。


メイは外套の袖を下ろした。赤い痣が隠れる。金色の髪は隠れない。切られた右側だけ短く、不揃いなまま。メイは鏡を見なかった。


*


荷物を半分まとめたところで。イーライが顔を上げた。

「待て」

メイも動きを止める。外。雪を踏む音。一歩。止まる。また一歩。イーライが猟銃を取った。メイの身体が固くなる。


「昨日の人?」

「分からない」


イーライが扉の横へ立つ。メイも杖を取る。耳を澄ます。音は一つ。複数ではない。足取りが重い。時々止まる。まっすぐこちらへ来ている。


メルクの力を意識する。流れ。雪。風。そして人。一人。


「一人」

メイが囁いた。

「分かる?」

「うん」

「誰だ」

「そこまでは」


扉の向こうで何かが崩れた。雪。次に、

「……イーライ」

声。二人が顔を見合わせる。

「ベン?」


メイが扉へ行こうとする。イーライが腕を伸ばした。

「待て」

外からもう一度。

「いるんだろ!」

荒い息。

「開けろ!」


イーライが扉を少しだけ開ける。雪と冷気が入る。隙間から外を見る。すぐに扉を大きく開けた。ベン・クロウが立っていた。帽子にも肩にも雪。髭は凍り、頬は赤黒い。


「遅え」

そう言って一歩入った途端、膝をついた。

「ベン!」

メイが支える。左手を出しかける。止める。右手で腕を掴んだ。イーライも反対側から支え、小屋へ入れる。


「何日山にいた」

「忘れた」

「馬は?」

「下」

「一人か?」

「今は」

イーライの顔が変わった。


ベンを椅子へ座らせる。炉は昨夜消したままだ。イーライが火を起こそうとする。ベンが首を振った。

「煙」

「凍えるぞ」

「まだ死なねえ」

「そういう顔じゃない」

「後でいい」


ベンは息を整える。メイが水を渡す。一口。二口。ベンは器を膝へ置いた。


「三人いる」

イーライが聞く。

「昨日の火か」

「ああ」

「誰だ」

ベンはメイを見る。少し迷った。

「髪を買った男」

メイの顔から表情が消える。

「まだ持ってる?」

「持ってる」

「私の髪」

「ああ」

ベンは視線を落とした。

「悪かった」

「何が」

「あの時、止めきれなかった」

メイは答えなかった。


ベンが続ける。

「町じゃ話が増えてる」

「どんな」

「聞かない方がいい」

「聞く」

ベンが小さく息を吐いた。

「お前が金を隠した」

メイは黙る。

「髪に金が宿ってる」

黙る。

「切れば金が出る」

イーライの手が強く握られる。

「誰が言った」

「誰が最初かなんて分からねえ」

ベンは言った。

「昨日まで笑ってた奴が、今日には本当みたいに話す」


メイは杖を握った。

「他には?」

「ミダスから金が消えたのは、お前が吸い上げたからだって」

「馬鹿みたい」

「そうだな」

「なのに信じるの?」

ベンが顔を上げる。

「信じたい奴には理由がある」

それ以上、メイは聞かなかった。


*


「エヴァンスさんたちは?」

「無事だ」

メイの肩が少し下がる。

「サラも?」

「ああ」

「じゃあ、どうして食べ物が」

「見張られてた」

ベンが言った。

「樫へ持っていけば、道を教えることになる」


メイは三日間空だった木を思い出す。

「だから来なかったんだ」

「ああ」

「何もなかったわけじゃないんだ」

その言葉は、自分に向けたものだった。


ベンは水をもう一口飲んだ。

「髪を買った奴が川で砂金を見つけた」

イーライが顔を上げる。

「どれくらい」

「三粒」

「それだけ?」

「それで十分だった」


メイは分かった。偶然。あるいは川に残っていたもの。そんなことは関係ない。欲しい答えが出た。だから。


「私の髪のおかげだって?」

ベンが頷く。

「そういうことになった」


因果の匂いがなくても分かる。人は理由を欲しがる。一度理由を見つけたら、その後の出来事を全部そこへ繋げてしまう。髪。砂金。金が消えた町。逃げたメイ。全部が一つの話になる。


「三人はどこ」

イーライが聞く。

「昨日までは一つ向こうの尾根」

「今は?」

ベンが黙る。イーライも理解した。

「こっちへ来てる」

「俺が出た時には動き始めてた」

「どれくらい先行した」

「半日あるかないか」


イーライが立ち上がる。

「出るぞ」

メイも杖を掴む。今度は反論しなかった。


ベンが言う。

「西へ行け」

イーライが振り返る。

「町じゃなく?」

「今、町へ戻ったら囲まれる」

「でも道具が」

「後でどうにかしろ」

ベンがメイを見る。

「とにかく今は離れろ」

メイは頷いた。


三人で荷物をまとめる。火はつけない。食べ物。水。毛布。銃。薬袋。杖。必要なものだけ。この小屋を出る。そのことが急に現実になった。


メイは寝台を見る。もう戻らないかもしれない。椅子。炉。窓。左手を伸ばせば、それぞれに残った過去を見ることができる。ここで暮らした二か月。でも触らなかった。自分で覚えていればいい。


*


荷物を背負った時だった。ベンが窓へ寄った。

「待て」

全員が止まる。ベンは答えず、外を見た。イーライも隣へ行く。メイは二人の間から覗く。木々の向こう。白い斜面。何かが動いた。一つ。二つ。三つ。人影。ゆっくりこちらへ上がってくる。


イーライが低く言った。

「間に合わなかった」

ベンが猟銃を取る。

「俺が話す」

「三人相手に?」

「町の人間だ。俺の顔は知ってる」

イーライも銃を持つ。

「俺も行く」


メイが二人を見る。

「私も」

イーライが反射的に、

「お前は――」

と言いかけた。止まった。メイが待つ。数秒。イーライは言い直した。

「どうする」


メイは人影を見る。逃げる。裏から山へ出る。そう考える。酸っぱい。さらに先。追われる。焦げ臭い。ここに残る。話す。甘さはない。焦げ臭さもある。どちらにも嫌なものがあった。メイは鼻を押さえる。


「どうだ」

ベンが聞く。

「いい方はない」

「そうか」


メイは杖を握り直す。

「話す」

イーライが見る。

「いいのか」

「逃げても来る」

「だからって」

「私を探して来たんでしょう」


窓の向こう。三人が止まった。もう小屋を見つけている。メイは言った。

「なら、私が話す」

イーライは何も言わなかった。ただ銃を下ろした。完全には手放さない。メイは扉へ向かった。


その時。左手の甲。袖の下で。赤い蹄の痣が、ほんの少し熱を持った。胸の奥にも。あの感情がある。戦う。なぜ戦わない。言葉ではない。ただ、そこにある。


メイは扉の前で一度だけ息を吐いた。それから開けた。雪の上に。三人の男が立っていた。


*


一番前にいるのは、髪を買った男だった。外套の裾は泥と雪で重くなっている。頬はこけ、目の下が黒い。町で見た時より、ずっと疲れて見えた。その後ろに二人。若い男。もう一人は、髭の濃い男。全員が銃を持っている。構えてはいない。だが、手から離してもいない。


ベンが先に外へ出た。

「そこで止まれ」

髪を買った男が鼻で笑う。

「お前か」

「帰れ」

「お前に用はねえ」

「俺にはある」

「何だ」

「三人とも、山を下りろ」


男はベンの向こうを見る。メイ。その瞬間だけ、顔つきが変わった。疲れより。寒さより。欲しいものを見つけた顔だった。


「いた」

若い男が小さく言った。


髪を買った男は一歩進む。イーライの猟銃が上がった。

「止まれ」

男も止まった。視線だけをイーライへ向ける。

「撃つのか?」

「近づけばな」

「話しに来ただけだ」

「その距離で話せ」

「聞こえるよ」


メイが言った。イーライが横を見る。メイは彼より一歩前へ出た。

「私に用があるんでしょう」

髪を買った男が頷く。

「そうだ」

「何」

「金だ」

メイは黙った。

「ミダスの金」

「ないよ」

「どこへやった」

「知らない」

「お前が見つけてた」

「場所を教えただけ」

「それで全部なくなった」

「私がなくしたわけじゃない」

男の口元が歪む。

「都合がいいな」

「本当だから」

「山から出る場所も知ってた」

「見えてただけ」

「何が」

メイは答えなかった。


説明しても、信じない。水。菌糸。匂い。青い目。金色の髪。何から話しても、話は余計におかしくなる。


髪を買った男は続けた。

「川で金が出た」

「聞いた」

「お前の髪を持って行った場所でだ」

「三粒でしょう」

男の眉が動いた。ベンを見る。

「喋ったのか」

ベンは答えない。


メイが言う。

「たった三粒」

「三粒でも金は金だ」

「川に残ってただけかもしれない」

「じゃあ何で、あの場所だった」

「知らないよ」

「またそれか」

「知らないものは知らない」


髪を買った男の声が少し大きくなる。

「金を見つけたのもお前だろ」

「そう」

「金がなくなった時に逃げたのもお前だ」

「逃げたんじゃない」

「じゃあ何だ」


メイは一瞬、言葉に詰まった。ミダス。群衆。髪を掴む手。鋏。絶叫。

「……追い出された」

男は笑わなかった。

「それでも、お前が消えたあと金も消えた」

「順番が違う」

「同じだ」

「違う」

「俺たちには同じだ」

その言葉に、メイは何も返せなかった。


*


若い男が足を動かした。雪を踏む。イーライが銃口を向ける。

「止まれ」

若い男は両手を少し上げた。

「俺は何もしねえ」

「ならそのままいろ」

「寒いんだよ」

「こっちもだ」

「火くらい――」

「ない」

イーライが言った。若い男は小屋を見る。煙は出ていない。

「本当に消したのか」

「お前らが来たからな」


髪を買った男が口を挟む。

「俺たちが来なきゃ、まだぬくぬくしてたってわけか」

ベンが睨む。

「お前らも火を焚いてただろ」

「凍えるからだ」

「同じだ」

男の顔が固まる。誰も何も言わなかった。一瞬だけ。山にいる全員が、同じ寒さの中にいることだけが残った。


*


髭の男が先に口を開いた。

「金の場所を教えろ」

メイを見る。

「それだけでいい」

「分からない」

「前は分かった」

「今は分からない」

「どうして」

「もう見えないから」

「何が」

「……道みたいなもの」


髪を買った男が食いつく。

「やっぱり見えるんじゃねえか」

「だから、今は見えないって」

「どうすれば見える」

「分からない」

「何が要る」

「分からない」

「金か?」

「違う」

「血か?」

メイの顔が歪む。

「何でそうなるの」

「じゃあ髪か」


その言葉で、イーライの指が動いた。撃鉄。小さな音。髪を買った男が笑う。

「やっぱりそこは嫌がるんだな」

「当たり前だろ」

イーライが言う。

「お前には聞いてない」

「俺が答えてる」

メイがイーライを見る。

「私が話してる」

「でも」

「私が」

イーライの口が閉じる。銃は下げない。


メイは男へ向き直った。

「髪が欲しいの?」

「少しだ」

「嫌」

「一本」

「嫌」

「金は払う」

「嫌」

「四ドル」

「いらない」

「十ドル」

「いらない」

「なら二十」

メイは首を振った。

「何でだ」

「私のだから」

「髪一本だぞ」

「一本でも私の」

「切ればまた伸びる」


その瞬間。右側の短い髪が風で頬に触れた。シャキン。音だけが戻ってくる。メイの呼吸が浅くなる。髪を買った男はそれに気づいた。

「前に切られたんだろ」

「……そうだよ」

「なら同じだ」


イーライが一歩出た。

「同じじゃない」

「一本だ」

「帰れ」

「お前は黙ってろ」

「帰れ」

声が低くなった。髪を買った男もイーライを見る。二人の間だけ、空気が変わった。


メイは胸の奥に、あの異質な感情を感じた。戦う。押し返す。奪われる前に。それはまだ、完全に自分のものではない。メイは左手を握った。袖の下で、赤い蹄の痣が熱を持つ。


「イーライ」

彼が振り返る。

「下げて」

「何を」

「銃」

「無理だ」

「まだ何もされてない」

「されてからじゃ遅い」


その言葉を聞いた瞬間。ミダスの群衆の中で見た、イーライの記憶が蘇った。人の肩。押し合う身体。掴まれる金色の髪。鋏。間に合わない。守れない。あの時、イーライの中にあった恐怖。メイはそれを知ってしまっている。だから、今の彼が何を怖がっているのかも分かってしまう。それが余計に苦しかった。


「私を守るため?」

イーライは答えない。

「だったら、私に話させて」

「話してる」

「銃を向けたままじゃ、話してないのと同じだよ」

沈黙。イーライはゆっくり銃口を下げた。完全には下ろさない。地面へ向ける。それで十分だった。


メイは髪を買った男を見る。

「私は金を戻せない」

「信じられねえ」

「じゃあ何を言っても同じでしょう」

「証明しろ」

「どうやって」

男の目がメイの髪へ向く。

「一本くれ」

「それは証明じゃない」

「川へ持って行く」

「嫌」

「金が出なきゃ信じる」

「出たら?」

男は答えない。


メイは小さく息を吐く。

「出たら、もっと欲しくなるだけ」

若い男が視線を落とした。髭の男も何も言わない。髪を買った男だけが、メイを見ている。

「一本で済ませる」

「前もそうだった」

「何が」

「みんな最初は少しでいいって言った」

メイは続けた。

「金も」

「……」

「少しだけ」

「……」

「必要な分だけ」

「……」

「それが、どんどん増えた」

髪を買った男の顔から笑いが消えた。メイは言う。

「一本で終わる人の顔じゃないよ」


*


風が吹いた。木の枝から雪が落ちる。誰かがびくりと肩を動かした。それだけで全員の視線が動いた。銃。手。足。距離。


メイには流れが見えた。今ここにいる人間たちの注意が、細い糸のように交差している。誰かが動けば。全員が動く。そんな形だった。


「もういい」

若い男が言った。

髪を買った男が振り返る。

「何が」

「帰ろう」

「またそれか」

「本人が知らねえって言ってる」

「信じるのか」

「少なくとも、山で凍えるよりましだ」

「金は」

「もういい」


髪を買った男の顔が変わった。

「お前、ここまで何しに来た」

若い男が答える。

「最初は金だった」

少し間を置く。

「今は帰りてえ」


髭の男も若い方を見る。

「道は?」

「ベンに聞けばいい」

ベンが眉を寄せる。

「俺が案内する。下までなら」

髪を買った男がベンを睨む。

「勝手に決めるな」

「お前のためでもある」

「俺はまだ終わってねえ」

「何を終わらせるんだ」

髪を買った男は答えられなかった。それでも帰ろうとはしなかった。


「髪一本だ」

また言う。

メイは首を振った。

「駄目」

「一本」

「嫌」


男が一歩踏み出した。イーライの銃が上がる。ベンも動く。髭の男が髪を買った男の腕を掴んだ。

「やめろ」

「離せ」

「話は終わりだ」

「終わってねえ」

腕を振り払う。その拍子に、男の外套が開いた。胸元の革袋が見えた。中から金色の髪が少し覗いている。


メイの髪。自分から切り離されたもの。それを見た瞬間。胸の奥で何かが冷えた。髪を買った男も、メイの視線に気づいた。革袋を握る。

「これは俺が買った」

「私からじゃない」

「金は払った」

「私にじゃない」

「関係あるか」

「あるよ」

「買ったものは俺のだ」

メイの声が低くなる。

「それ、私だったものだよ」


一瞬。誰も動かなかった。髪を買った男の表情だけが、わずかに揺れた。


その隙に。若い男が言った。

「返せよ」

髪を買った男が振り返る。

「何?」

「髪」

「お前まで何言ってる」

「もういいだろ」

「金になる」

「だから何だ」

髪を買った男の顔が赤くなる。

「黙れ」

「帰ろう」

「黙れ!」


怒鳴り声が山へ響いた。その瞬間。鳥が一斉に飛び立った。羽音。全員の視線が上へ向く。ほんの一瞬。メイが髪を買った男へ目を戻した時。男はもう近くまで来ていた。


「返して」

メイが言う。

「嫌だ」

「それだけでいい」

「だから嫌だ」


メイは手を伸ばした。右手。革袋へ。男が腕を掴む。強い。

「離して」

イーライが動いた。

「触るな!」

男がメイを引いた。ベンも飛び込む。髭の男が止めようとする。若い男が一歩退く。全部が一度に起きた。


メイには流れが見えた。腕。肩。銃。足。誰かの手が誰かの手を押す。イーライが男を突き飛ばす。革袋が雪へ落ちる。金色の髪が零れる。男がイーライへ殴りかかる。ベンが間へ入る。髭の男が叫ぶ。

「やめろ!」

若い男が腰へ手を伸ばした。銃。その流れだけが。メイには、はっきり見えた。


「イーライ!」

彼も気づいた。若い男が銃を抜く。イーライの猟銃が上がる。


その瞬間。猟銃に左手で触れた時の光景が、メイの中に蘇った。まだ少年だったイーライ。その手に銃を持たせる、大きな手。父親の声。

――銃口は、人に向けるな。


若い男の銃口が上がる。イーライの指が引き金へかかる。メイは口を開いた。間に合わなかった。


パンッ。山が鳴った。


*


若い男は、その場で止まった。何が起きたのか分からない顔をしていた。銃はまだ右手にある。けれど、もう持っているだけだった。胸の辺りへ目を落とす。外套に、小さな黒い穴が開いている。その周りが、ゆっくり濃くなる。赤。


男の膝が折れた。雪へ落ちる。

「おい!」

髭の男が駆け寄った。髪を買った男も動く。イーライは銃を構えたまま立っていた。撃った姿勢から、ほとんど動いていない。白い煙だけが銃口から流れている。


「イーライ」

メイが呼ぶ。返事がない。

「イーライ!」

ようやく彼が息をした。銃口が少し下がる。


髭の男が雪へ膝をつき、若い男の身体を起こそうとする。

「しっかりしろ」

返事はない。

「おい」

胸を押さえる。指の間から血が出る。

「くそっ」


髪を買った男がイーライを見る。顔から、さっきまでの欲が消えていた。

「撃ちやがった」

イーライは何も言わない。

「お前……」

男が腰へ手を伸ばす。

「やめろ!」

ベンが銃を向けた。

「次に抜いたら俺が撃つ」

「こいつが先に撃った!」

「そいつも銃を抜いた」

「まだ撃ってねえ!」

「銃口が上がってた!」


ベンの声が山へ響いた。髪を買った男の手が止まる。全員の息が荒い。誰も引き金へ触れない。けれど、一度鳴った銃声が、まだそこに残っているようだった。


メイは雪を見る。金色の髪。自分の髪。その少し先。血。白い雪の上で、両方が妙に鮮やかだった。


*


「メイ」

ベンが言った。

「来るな」

メイはすでに動いていた。倒れた若い男へ近づく。髭の男が睨む。

「触るな」

「助けたいだけ」

「もう遅い」

「分からないでしょう」


メイは男の顔を見る。目は半分開いている。呼吸は浅い。まだ生きている。

「布」

髭の男は動かない。メイが振り返る。

「何かないの?」

ベンが外套の内側から布を出す。メイへ渡す。右手で受け取る。傷へ当てる。血がすぐに染みる。

「押さえて」

髭の男へ言う。男は一瞬迷い、手を重ねた。

「強く」

「分かってる」


メイは若い男の顔を見る。唇が動いた。

「……さむ」

聞き取れるかどうかの声だった。

「寒い?」

返事はない。


「小屋へ入れよう」

イーライが動いた。髪を買った男が立ちはだかる。

「触るな」

イーライが止まる。

「中なら暖かい」

「お前が撃ったんだろ」

「だからだ」

「だから?」

イーライの顔が歪む。何も言えなくなる。


ベンが間へ入る。

「今はどけ」

髪を買った男は動かない。ベンが低く言う。

「死なせたいのか」

その言葉で、男は横へ退いた。


*


四人で若い男を小屋へ運んだ。寝台へ寝かせる。そこは、昨夜までメイとイーライが眠っていた場所だった。メイは布を重ねる。血が止まらない。呼吸が弱くなる。


「名前」

メイが聞く。

髭の男が顔を上げる。

「何」

「この人の名前」


一瞬。それまで誰も、彼を名前で呼んでいなかったことに気づく。髭の男が答えた。

「ネッド」


メイは若い男を見る。

「ネッド」

反応はない。

「ネッド、聞こえる?」

瞼が少し動いた。

「帰りたいんでしょう」

その言葉に。ほんのわずか。喉が動いた。

「帰れるから」

自分でも嘘だと分かった。それでも言った。

「帰ろう」


ネッドの右手が動いた。何かを探すように。メイは反射的に手を伸ばした。左手。指が触れた。世界が変わった。


*


火。濡れた薪。煙。寒い。指が痛い。


「もう戻ろう」

ネッドの声。目の前には、髪を買った男がいる。

「嫌だ」

「聞いてるのか」

「聞いてる」

「なら帰ろう」

「ここまで来た」


苛立ち。寒さ。どうでもいい。金なんて。本当はもう、どうでもよかった。


家。低い天井。煮込みの匂い。誰かが笑っている。女の声。暖かい。景色が切れる。


川。冷たい水。指先に小さな粒。金。本当に出た。だから少しだけ、期待した。もう一度。もう少し。それだけだった。


山。雪。足が重い。帰りたい。ここまで来た。帰りたい。でも道が分からない。ついて行くしかない。


火。二つ。夜。眠れない。朝。


そして。小屋。金色の髪。メイ。思っていたより若い。魔女なんかじゃない。ただの娘に見える。


帰ろう。そう言った。もういい。本当に、もうよかった。


怒鳴り声。鳥。羽音。人が動く。誰かが掴む。誰かが押す。怖い。銃。銃を抜く。撃つためだったのか。自分でも分からない。ただ。向こうにも銃がある。怖い。死にたくない。銃口を上げる。その先。イーライ。


パンッ。胸が熱い。次の瞬間には。寒い。ただ寒い。帰りたい。それだけだった。


*


メイは手を離した。息ができなかった。小屋。炉。人。血。全部戻る。ネッドの手はもう動いていない。


「……メイ?」

ベンの声。メイはネッドを見る。胸へ当てた布。血。呼吸。待つ。もう一度。待つ。何もない。


髭の男が首元へ指を当てた。しばらくして、手を下ろした。誰も聞かなかった。顔を見れば分かった。


*


イーライは小屋の入口に立っていた。中へ入れないようだった。メイは彼を見る。さっき見た最後の景色が重なる。ネッドの目から見たイーライ。銃。白い煙。


「死んだ?」

イーライが聞いた。誰も答えなかった。ベンが目を閉じる。それで十分だった。


イーライは猟銃を見る。手が震えていた。ほんの少し。

「俺が」

言葉が止まる。


髪を買った男が立ち上がった。

「そうだ」

髭の男が振り返る。

「やめろ」

「こいつが殺した」

「ネッドも銃を抜いた」

「撃ってない」

「でも抜いた」

「だから殺していいのか?」

髭の男は答えられない。イーライも。ベンも。メイも。


髪を買った男の顔が変わっていく。金を探していた男の顔ではなかった。怒っている。震えている。

「こいつは帰ろうって言ってた」

メイが言った。全員が見る。髪を買った男の眉が動く。

「何で知ってる」

メイは答えない。

「昨日も」

言葉が続く。

「一昨日も」

自分のものではない記憶がまだ残っている。

「寒いって」

「黙れ」

男の声が低くなる。

「金なんて、もうどうでもいいって思ってた」

「黙れ」

「帰りたかっただけ」

「黙れ!」

男が怒鳴った。メイは止まった。男の目に涙があった。それを見て、何も言えなくなった。


髪を買った男はネッドを見る。

「帰るぞ」

髭の男が聞く。

「どこへ」

「町だ」

「こいつは?」

二人の視線がネッドへ落ちた。髪を買った男は歯を食いしばる。

「連れて帰る」


それからイーライを見る。

「お前のことも全部話す」

イーライは視線を逸らさなかった。

「そうしろ」

「イーライ」

ベンが止める。

「本当のことだ」


髪を買った男が乾いた声で笑った。

「本当のこと?」

「俺が撃った」

「そうだ」

「ネッドが銃を抜いた」

「撃ってねえ」

「それも話せ」

「じゃあ話は簡単だ」

男はネッドへ毛布を掛けた。

「人殺しだ」

その言葉だけが、小屋に残った。


*


二人はネッドを運ぶ準備を始めた。ベンが縄を貸す。手伝おうとすると、髪を買った男は払いのけた。

「触るな」

「その身体を二人で山から下ろす気か」

「俺たちでやる」

髭の男は何も言わなかった。二本の枝へ毛布を渡し、簡単な担架を作る。雪の上なら引くこともできる。それでも、人一人は重い。


髪を買った男が入口へ落ちた金色の髪に気づいた。拾おうとして。やめた。革袋だけを拾う。もう金色の髪には目を向けなかった。


二人が外へ出る。ネッドを載せた担架が雪を擦った。ざっ。ざっ。重い音。


髪を買った男が振り返る。

「逃げるなよ」

イーライを見る。

「逃げたら、今度は追う」

イーライは答えた。

「逃げない」


二人は山を下り始めた。来た時には三人だった。帰る時も三人だった。けれど。一人だけ、自分では歩いていなかった。


*


姿が木々の向こうへ消える。しばらく誰も喋らなかった。ベンだけが窓へ残り、二人の進む方角を見ていた。

「表道へ行った」

イーライが顔を上げる。

「分かるのか」

「あの担架じゃ、あそこしか下れねえ」

ベンは外を見たまま答えた。

「沢沿いを回って、馬の通れる道へ出る。遠回りだ」

イーライは黙る。ベンが続ける。

「しかも、この時間からじゃ町まで着かねえ。どこかで一晩越す」


メイがベンを見る。

「じゃあ……」

「あいつらより先に町へ入れる」

イーライの目が動いた。ベンは山の別の方角を指した。

「尾根を真っ直ぐ切る古い道がある。荷物を背負った人間なら通れる。担架じゃ無理だ」

「どれくらい違う」

「明け方に出れば、昼過ぎにはミダスへ着く」

「向こうは?」

「早くても夕方だ」


小屋が静かになった。意味は全員に分かった。ネッドの遺体を持った二人が町へ入る。人が集まる。そこで最初に語られる。黄金の魔女を追って山へ行った。ネッドが撃ち殺された。誰に。なぜ。どちらが先に銃を向けたのか。その場にいなかった人間には分からない。


ベンが言う。

「町じゃ、先に広まった話が本当になる」

イーライは猟銃を見る。

「……だから先に行く」

メイが顔を上げた。

「何?」

「町へ戻る」

「待って」

「逃げない」

「そうじゃなくて」

イーライはメイを見る。

「俺が撃った」

「私を守るためでしょう」

「それでも撃ったのは俺だ」

「向こうも銃を抜いた」

「だから、それも話す」


イーライは言った。

「俺が先に町へ行く」

静かな声だった。

「この銃を持って、自分から行く」

ベンが頷く。

「俺も行く。俺は全部見てた」


メイは言う。

「捕まるかもしれない」

「ああ」

「だったら――」

「メイ」

イーライが遮った。

「俺が逃げて、あいつらだけが町に戻ったら」

少し間を置く。

「その時点で、俺は逃げた人殺しになる」

メイは黙った。

「俺が撃ったことも」

「……」

「ネッドが銃を抜いたことも」

「……」

「お前の髪を掴んだことも」

全部。自分の口で話す。

「そのために戻る」


罪を認めに行く。それだけではなかった。何が起きたのか。誰かが一つの話にしてしまう前に。そこへ自分自身で立つ。そのためだった。


メイの胸の奥に、あの異質な感覚があった。戦う。けれど今度は。銃を向けることではなかった。逃げない。自分のしたことの前に立つ。それも。戦うことなのかもしれなかった。


*


その夜。誰も火を大きくしなかった。明け方には出る。それなら早く眠った方がいい。けれどメイは眠れなかった。


ベンは床へ毛布を敷き、壁にもたれている。すでに寝息を立てていた。イーライは隣にいる。いつもの寝台。同じ毛布。けれど、少し離れている。明日の朝には。ここから別々になる。


「海」

メイが言った。

「ん?」

「行くんでしょう」

少し間があった。

「行きたい」

「二人で行くって言った」

「ああ」

「約束した」

「した」


炉で小さな火が揺れている。

「約束って、途中で変わる?」

イーライは天井を見た。

「変わることもあるだろ」

「なくなる?」

「それは違う」

メイが見る。

「どう違うの」

「俺が町へ戻っても、海がなくなるわけじゃない」

「そういう話じゃない」

「分かってる」

それ以上、言葉は続かなかった。


しばらくして。イーライの呼吸がゆっくりになる。メイは目を閉じた。眠る時には、ときどき自分の身体の流れを追う癖がついていた。息を吸う。吐く。胸。首。腕。指先。腹。そこで。意識が止まった。


ごく小さな場所。下腹部の奥。そこだけ。以前にはなかった流れがある。流れているというより。集まっている。水が、小さな窪みを見つけたように。


メイは目を開けた。もう一度探す。ある。痛みではない。身体が悪い感じでもない。ただ。知らない。いつから。そう思った瞬間。吹雪の夜が浮かんだ。大きな火。一つの毛布。イーライ。メイの胸が強く鳴った。


「……まさか」

まだ分からない。そう思う。身体なんて毎日変わる。メルクの力だって、すべてを教えてくれるわけではない。それでも。一度浮かんだ考えは消えなかった。


隣を見る。イーライは眠っている。左手を見る。赤い蹄。人には触れない。そう決めた。けれど。メイは迷った末に、指先だけイーライの手へ触れた。


*


大きな火。吹雪。暖かい小屋。イーライから見たメイ。金色の髪。青い目。笑っている。手。唇。毛布。近づく身体。その夜。


そして。嬉しい。ここにいてほしい。明日も。春も。その先も。一緒に海へ行く。


メイは手を離した。


*


暗い小屋。小さな炉。イーライの寝息。何も証明されていない。ただ、あの夜があった。それだけ。


メイはもう一度。身体の中を探した。小さな流れ。まだある。胸が速くなる。違う。まだ決めつけるな。自分に言い聞かせる。それでも。一つだけ試してみたくなった。もし。これが。自分の思っているものなら。もし。子どもなら。


右手が腹へ乗った。当然。何も触れない。何も膨らんでいない。メイは考えた。この小さなものを。守る。


甘い匂いがした。メイは動きを止めた。ほんの僅か。気のせいだと思えるほど薄い。これまでの甘さとは違った。鼻へまとわりつかない。何かを欲しがる甘さでもない。暖めた水へ、蜂蜜を一滴落としたような。すぐに消える。


もう一度。守る。また甘い。同じだった。


吹雪の夜。今ここにある、知らない流れ。守ると決めた先の甘さ。過去。今。これから。三つが重なった。


「……もしかして」

声にはならなかった。まだ確かではない。それでも。もう「何でもない」とは思えなかった。


「メイ」

隣でイーライが動いた。

「起きてる?」

「……うん」

「どうした」

言葉が喉まで来る。もしかしたら。子どもが。でも。止まった。


明日。イーライは自分で町へ戻る。自分のしたことから逃げずに。今これを言えば。その選択に、自分が別の重さを乗せる。


メイは腹から手を離した。

「……眠れないだけ」

「俺も」

「寝てたでしょう」

「今起きた」

それきり。二人は話さなかった。炉の火が少しずつ小さくなっていった。


*


朝。三人は暗いうちに起きた。ベンが先に荷物を背負う。

「日が上がる前に尾根へ入る」

イーライも準備をする。メイの荷物も並んでいた。干した肉。毛布。火打石。小さな鍋。水筒。薬袋。必要なものだけ。


「これで足りるか」

イーライが聞く。

「うん」

メイは答えた。それだけ。


出る前。ベンが炉を見る。

「火」

白い灰の下に。僅かな赤が残っている。


二か月。この火を守ってきた。消さないように。大きくしすぎないように。煙を出さないように。凍える夜には少しだけ多く。吹雪の夜だけ。二人で大きくした。


メイは水を持った。炉の前へしゃがむ。

「消すね」

イーライが少し黙る。

「ああ」

水を注ぐ。じゅっ。白い蒸気。もう一度。じゅうっ。赤が消える。灰が黒く濡れる。最後まで。火はなくなった。煙が細く上がる。やがて。それも消えた。


二か月守ったものは。驚くほど静かになくなった。


「行こう」

イーライが言った。メイは立ち上がった。小屋を出る。一度だけ振り返る。もう火はなかった。


*


三人は山を下りた。吹雪の後の道は形が変わっている。倒木は雪に埋もれ。岩も低く見える。メイは流れを見ながら進んだ。雪解けの水。風。動物。そして。ネッドを運んで下った二人の跡。深い。人一人分の重さが加わっている。


やがてその跡は沢沿いへ曲がった。ベンは一度だけ確認し、

「やっぱり表道だ」

と言った。三人はそちらへ行かなかった。尾根へ上がる。狭い。急な道。担架では通れない。


しばらく進むと。朝の光が山へ差し始めた。


*


途中。あの樫の木が見えた。二か月。何度もここへ来た。食料。薬。塩。町から届いたものが、幹の割れ目に入っていた。今日は空だった。


メイが木へ近づく。触れなかった。左手で触れれば。ここへ何度も荷物を置いた人たちの過去を見るかもしれない。エヴァンス夫人。サラ。ベン。知らなくてもいいと思った。自分はもう、十分知っている。


「エヴァンスさんたちに」

メイが言った。

ベンが見る。

「ありがとうって伝えて」

「自分で言わないのか」

メイは町の方角を見る。首を振る。

「戻らない」

イーライが顔を上げた。

「決めたのか」

「うん」

「どこへ行く」

メイは彼を見る。

「海」

それだけで十分だった。


イーライはすぐには答えなかった。ベンが少し離れる。メイは続けた。

「約束したから」

「ああ」

「一人で行くことになるけど」

「ああ」

「それでも行く」

イーライはゆっくり頷いた。

「分かった」

メイは彼の顔を見る。

「止めないの?」

「止めない」

迷いのない答えだった。

「お前が決めたんだろ」

メイは黙った。

「うん」

「なら行け」

声は静かだった。突き放すようではない。それが余計に苦しかった。


「二人で見るはずだった」

メイが言う。

イーライは目を逸らさない。

「ああ」

「海」

「ああ」

しばらく。風の音だけ。

「先に見てこい」

イーライが言った。メイは答えなかった。約束が変わった。なくなったわけではない。でも。同じものではなくなった。


*


樫を離れた。しばらくは同じ道を進んだ。やがて。ベンが足を止める。道が分かれている。東へ切り上がる細い道。尾根を越え、ミダスへ真っ直ぐ下る古い道。西へ続く道。


「ここだ」

ベンが言った。イーライは東を見る。メイは西を見る。ベンが二人から少し離れた。

「先で待ってる」

東の道へ入る。二人だけになった。


メイは杖を握る。白。枯れた金。炭の黒。イーライは猟銃を背負っている。昨日。その銃で人を撃った。今日。その銃を持って、自分から町へ行く。ネッドを運ぶ二人より先に。誰かに自分のしたことを決められる前に。自分の口で話すために。


「イーライ」

メイが呼ぶ。

「何だ」

言葉が出ない。昨夜。身体の中に見つけた、小さな流れ。吹雪の夜。甘い匂い。言うなら。今だった。


メイの右手が。わずかに腹へ動く。止まった。イーライは待っている。急かさない。今これを伝えれば。町へ戻るという彼の決意は変わるかもしれない。変わらないかもしれない。それすら分からない。でも。彼が自分で選んだことだった。


メイは手を杖へ戻した。

「……気をつけて」

それだけ言った。


イーライはしばらくメイを見た。

「ああ」

少し間を置いて。

「お前も」

メイは頷いた。

「海」

イーライが言う。

「うん」

「先に見てこい」

メイは少し俯いた。

「二人で見る約束だった」

「ああ」

「忘れないで」

「忘れない」

それ以上は言わなかった。二人は別れた。イーライは東へ。メイは西へ。


数歩。メイは振り返った。イーライも振り返っていた。互いに何も言わない。それが最後だった。


*


西へ向かう道は、すぐに細くなった。雪はまだ残っている。けれど山を下るほど、土の色が増えた。メイは一人で歩いた。杖をつく。一歩。また一歩。しばらくは。遠くに二人分の足音が聞こえていた。イーライ。ベン。やがて。それも消えた。


メイは止まった。風。枝。雪解けの水。遠くの鳥。それだけ。振り返る。もう。イーライも。ベンも。見えない。さらに向こう。小屋も見えない。


それでも。メイは山を見た。昨日まで。あそこには火があった。朝も。夜も。小さく。消えないように。誰かに見つからないように。二人で守っていた。今は。煙も。光も。何もない。


「……終わったんだ」

静かな声だった。泣かなかった。胸の中の何かが。なくなるというより。少しずつ薄くなっていく。


メイは杖を持ち直す。白い石。枯れた金。黒い石。どれも。手に入れたものではなく。何かが終わったあとに残ったもののように見えた。


左手には。赤い蹄。そして。自分の中には。まだ名前のつけられない、小さな流れがある。


メイはそれ以上考えなかった。道の先。木々の隙間に西の空がある。まだ海は見えない。二人で見るはずだった海。メイは前を向いた。足元の雪が切れる。湿った土へ。杖の先が沈む。一歩。また一歩。


山には。もう火が見えなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。