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モクズ 序

モクズ 序


山を出てから、メイはずっと西へ向かった。


初めの数日は歩いた。山道を下り、小さな町をいくつか抜けた。荷馬車に乗せてもらえる時は乗せてもらい、そうでなければ杖をついて歩いた。


道は少しずつ平らになった。雪はなくなり、岩ばかりだった景色に草が増えた。


ソノラを過ぎ、さらに西へ進む。


何日か歩いたあと、ストックトンに着いた。


そこでメイは船に乗った。大きな外輪を回して進む蒸気船だった。


船は川を下った。


初めは両岸が近かった。木があり、湿地があり、ときどき小舟とすれ違った。


朝と昼が過ぎ、景色が変わった。


川はいくつもの水路と交わり、どちらが岸なのか分かりにくくなった。水が広くなる。空も広くなる。


それまでメイは、海へ行くというのは、ただ西へ歩き続けることだと思っていた。


けれど最後は、水に運ばれることになった。


船は川を下り、広い湾へ出た。


その向こうに建物が見えた。


屋根。煙突。帆柱。丘。


サンフランシスコだった。


*


船を降りると、風が違った。


冷たく、湿っていて、塩の匂いがした。


メイは桟橋の端で立ち止まった。人が次々と横を抜けていく。箱を担ぐ男。樽を転がす男。荷車を引く馬。船から荷を降ろす声。鐘。金槌。怒鳴り声。


何もかもが動いていた。


ミダスとは比べものにならない。


人が多い。建物が多い。船も多い。


水の上まで町が続いているように見えた。


ここまで来た。


メイは帽子を深くかぶった。


でも、まだ終わりではない。


目の前にあるのは大きな湾だった。


見たかったものは、その向こうではなく、もっと西にある。


イーライと約束した海。


メイは町へ入った。


*


港の近くは、しばらく騒がしかった。


店。酒場。倉庫。宿。荷車。馬。板張りの道。泥。知らない言葉。知らない顔。


メイは人に道を尋ねながら、西へ歩いた。


「太平洋なら?」


そう聞けば、大抵は同じ方を指された。


西だ。


それで十分だった。


金色の髪を見て振り返る者もいた。けれど誰も追ってこない。


誰も、


黄金の魔女、


とは呼ばなかった。


メイは帽子を押さえて歩いた。


それだけでよかった。


腹が減り、途中でパンを一つ買った。半分食べ、残りは鞄へしまった。


さらに西へ進む。


しばらくすると建物の間が広くなった。人通りも減った。道らしい道も頼りなくなる。


土が増え、やがて砂になった。


町が後ろへ遠ざかっていく。


風だけが強くなった。


帽子の下から金色の髪が飛び出す。何度しまっても、また出た。


そのうち、町の音が聞こえなくなった。


代わりに低い音がした。


どお。


メイは足を止めた。


しばらくして、また。


どお。


風ではない。


水だった。


顔を上げた。


足が速くなる。砂に靴を取られた。杖を突く。登る。また砂に沈む。


それでも進んだ。


最後の砂地を越えた。


その向こうに、


海があった。


メイは止まった。


右を見た。左を見た。


どちらにも終わりがない。


水がずっと続いている。


空と海の境だけが、遠く一本につながっていた。


波が盛り上がる。崩れる。白く砕ける。砂へ伸びる。引いていく。


また来る。


メイは何度かそれを見た。


それからようやく、


「……着いた」


と言った。


声は風に消えた。


隣を見る。


誰もいない。


分かっていた。


それでも見た。


イーライはいなかった。


メイは海へ向き直った。


もっと嬉しいと思っていた。


山にいた頃、何度も想像した。


どれほど大きいのだろう。


どんな色をしているのだろう。


本当に向こう側が見えないのだろうか。


イーライも知らなかった。


だから二人で見ようと言った。


最後には、


先に見てこい、


と言われた。


だから来た。


見た。


それだけだった。


何も変わらなかった。


胸の中には、まだ山があった。


小屋があった。


濡れた薪の匂いがした。


イーライがいた。


ネッドが倒れていた。


銃声が山に響いた。


最後の朝には、自分で火を消した。


じゅっ。


じゅうっ。


白い湯気が立って、火はなくなった。


あの火も。


二人で囲んだ夜も。


ここからでは何一つ見えない。


メイは砂の上に座った。杖を横へ置く。


膝を抱こうとして、途中でやめた。


少し腹が邪魔になった。


手を置く。


服の上からでは、まだ誰にも分からないだろう。


自分でも確かなことは何も言えない。


けれど目を凝らすと、腹の奥に、ごく細い力の流れが見えた。


自分の身体を巡っているものとは少し違う。


小さい。


弱い。


それでも、前にはなかった。


メイはしばらく腹へ手を置いたまま海を見た。


「……見えたよ」


誰に言ったのかは、自分でも分からなかった。


「すごく、大きい」


波が寄せた。


返事はない。


メイは待った。


何を待っているのかも分からないまま。


また波。


また波。


「……それだけ?」


海は何も答えない。


ここまで来た。


家を出た。


兄を失った。


水の中で不思議なものに出会った。


金を見つけた。


人に追われた。


髪を切られた。


山へ逃げた。


人が死んだ。


イーライとも別れた。


それでも歩いた。


川を下った。


とうとう海まで来た。


だから、


何かくらいあると思っていた。


終わった、とか。


よく来た、とか。


これから大丈夫だ、とか。


そんなものは何もなかった。


波が来る。


引く。


「……ばかみたい」


メイは顔を伏せた。


しばらくそうしていた。


涙は出なかった。


風が冷たい。


頬が痛い。


鼻の奥が少しつんとした。


それだけだった。


ぐう。


腹が鳴った。


メイは顔を上げた。


もう一度。


ぐう。


「……何よ」


少しだけ笑った。


鞄を開ける。


残していたパンを出した。


もう冷えていた。少し固い。


噛む。


美味しくはない。


それでも二口目を食べた。


三口目。


腹へ入っていく。


悲しくても腹は減る。


人が死んでも腹は減る。


好きな人と別れても腹は減る。


海まで来たって、腹は減る。


メイは最後まで食べた。


指についたパン屑を舐めた。


その時だった。


波の引いた砂の上に、長い黒褐色のものが残っているのに気づいた。


何本も絡まっている。


太い茎。


長い葉。


濡れて、光っていた。


メイは立ち上がった。


近づく。


杖の先で触れた。


重い。


ぬるりと動いた。


途中で千切れている。裂けているものもある。


「……草?」


海から流されてきたらしい。


波が来た。


一部を持っていった。


残ったものは砂の上で形を変えた。


次の波が来る。


また少し動く。


それでも残る。


メイはしばらく見ていた。


千切れていた。


傷だらけだった。


それでも海の中には、同じものがまだいくらでもあるのだろう。


そんなことを、なんとなく思った。


日が傾いていた。


風も冷たくなってきた。


メイは町の方を見た。


今夜寝る場所すら、まだない。


仕事もない。


知っている人もいない。


メイは帽子をかぶり直した。


もう一度だけ海を見る。


海は何もくれなかった。


何も教えなかった。


慰めもしなかった。


ただそこにあった。


「……寝るところ、探さなきゃ」


杖を取った。


海に背を向ける。


自分がつけた足跡を辿り、町へ向かって歩き始めた。


後ろでは波が来て、千切れた海藻を少しだけ動かした。


町へ戻る頃には、空が暗くなり始めていた。


来た時とは違い、今度は急がなければならない。


港へ近づくほど人が増えた。


店先には灯りがつき、酒場から笑い声が漏れている。道端では男たちが何かを売り、荷車はまだ走っていた。


メイは歩きながら看板を見た。


宿。


また宿。


酒場。


さらに宿。


一軒目で値段を聞き、すぐに出た。


二軒目も高かった。


三軒目では、帽子から覗く金色の髪を主人にじろじろ見られた。


「一人か」


「うん」


「男は?」


「いない」


「家族は」


「いない」


主人は少し考えた。


「先払いだ」


告げられた金額に、メイは鞄の中の財布を握った。


払えないわけではない。


だが何日も泊まれば、すぐになくなる。


「……考える」


外へ出ると風が冷たかった。


昼間より冷え込んでいる。


メイは歩き続けた。


どこへ行けばいいのか分からない。


海を見つけるのは簡単だった。


西へ行けばよかった。


だが寝る場所には方角がない。


*


すっかり暗くなった。


足が痛み、朝からまともに食べたのはパン一つだけだった。


港へ戻れば夜でも人がいる。


安全か危険かは分からない。それでも、誰もいない道よりはましだった。


一軒の店先で立ち止まると、肉の匂いがした。


腹が鳴る。


財布を出しかけたが、今夜の宿も決まっていないことを思い出し、手を引っ込めた。


そのまま歩き出す。


「ねえ」


後ろから女の声がした。


振り返ると、四十を過ぎたくらいの女が立っていた。


黒っぽい服に厚い肩掛けをまとい、買い物籠を持っている。


メイは身構えた。


「何?」


女はメイの顔から靴まで眺めた。


「さっきから三回見たよ」


「……何を?」


「あんたをさ」


メイは周りを見た。


「私、何かした?」


「同じところを三回歩いてる。迷ってるなら、そう言いな」


メイは黙った。


女は籠を持ち直した。


「泊まるところを探してるのかい」


「……うん」


「金はあるのかい」


メイは答えなかった。


女は鼻を鳴らした。


「ないわけじゃない。でも使い切るのが怖い。そんな顔だね」


「顔で分かるの?」


「長く人を見てりゃ、そのくらいはね」


女はメイをまっすぐ見た。


「名前は?」


「メイ」


「それだけかい」


「ステラ・メイ・ホロウェイ」


「ずいぶん長いね。呼ぶのに息が切れそうだ」


「そっちは?」


「マギー・オドネル」


名乗ると、マギーは歩き始めた。


数歩進んでから振り返る。


「来るかい」


「どこに?」


「寝る場所さ」


メイは動かなかった。


マギーは眉を上げた。


「嫌なら、そこで立ってな」


「……いくら?」


「今夜は取らない」


かえって怪しい。


メイはそう思った。


「どうして?」


「私がそう決めたからさ」


「何のために?」


「困ってる女を拾うために決まってるだろ」


「そんな仕事あるの?」


「仕事にしちゃ、ずいぶん儲からないけどね」


マギーは肩をすくめ、再び歩き出した。


メイは迷った。


この女について行く。


そう考えた瞬間、鼻の奥へ意識を向ければ、その先に何かを感じ取れるかもしれないと思った。


甘いのか。


臭うのか。


けれど、やめた。


マギーの背中を見ながら、少し離れてついて行った。


*


建物は大きくなかった。


教会でも病院でもなく、二階建ての古い家だった。


入口の横に小さな札が掛かっている。


メイは読んだ。


「セント・マーサ……」


「婦人救護会」


マギーが扉を開けた。


「名前だけは立派だろ」


「うん」


「中身は見ての通りさ」


中へ入ると暖かさが身を包んだ。


火と料理、石鹸、濡れた布の匂いがする。


奥からは小さな子どもの泣き声が聞こえた。


メイの足が止まる。


炉には火があった。


大きくはないが、消えていない。


マギーが振り返った。


「どうしたんだい」


「……別に」


「なら、こっちへおいで」


聞かないことがありがたかった。


部屋には何人かの女がいた。


若い女。


年を取った女。


子どもを抱く女。


机で何かを書いている女。


一斉に視線を向けられ、メイは帽子を深くした。


マギーが机の女へ声をかけた。


「新入りが一人だよ」


机にいた女が顔を上げた。


「名前を」


「ステラ・メイ・ホロウェイ」


「年齢は?」


「十八」


「家族はいるの?」


メイは一瞬ためらった。


「セントルイスにいる」


「夫は?」


「いない」


「仕事は?」


「ない」


「病気は?」


「ない」


「怪我は?」


「ない」


女は紙に目を落とし、淡々と続けた。


「今夜、寝る場所は必要?」


「上に空きが一つあるよ」


「では、そこへ」


話が勝手に進んでいく。


メイが口を挟んだ。


「待って」


マギーが振り向く。


「何だい」


「私、お金なら少しある」


「見れば分かるよ」


「払える」


「払う必要はない」


「でも」


マギーは言葉を遮らず、顎を引いた。


「でも、何だい」


メイは言葉に詰まった。


施しを受けに来たわけではない。


そう言いたかった。


だが、ついさっきまで寝る場所すらなかった。


マギーは急かさずに待った。


「明日から働けばいい」


「仕事あるの?」


「探すさ」


「何ができるか知らないでしょう」


「なら今ここで聞けばいい。何ができるんだい」


メイは考えた。


宿の仕事。


掃除。


料理。


馬の世話。


どれも経験がある。


けれど、ここへ来てまた宿で働くのは嫌だった。


セントルイスの家を思い出すからかもしれない。


客室の並ぶ廊下。


台所。


馬小屋。


家族の声。


あそこへ戻れるわけでもないのに、同じような場所で働く気にはなれなかった。


「……縫える」


「何を?」


「服」


マギーがメイの袖を見る。


旅の途中で何度も自分で補修した跡がある。


「腕は?」


「破れたままよりは、まし」


マギーが初めて少し笑った。


「それで十分さ」


奥へ向かって声を上げる。


「クララ!」


返事がない。


マギーは声を張った。


「クララ、聞こえてるんだろ!」


「聞こえてるわよ!」


しばらくして、針を指に刺したままの女が出てきた。


三十くらい。髪を雑にまとめ、首から糸を何本も下げている。


「何よ、今度は」


マギーがメイを指した。


「縫えるそうだよ」


クララはメイを見てから、袖に目を移した。


近づいてくる。


「これ、自分で直したの?」


「うん」


クララは袖口を摘んだ。


「縫い目が曲がってる」


「着られる」


「糸の色も合ってない」


「ほどけてない」


クララは手を離し、短く息を吐いた。


「明日の朝、針を持ってきな。使えるか見てあげる」


「決まりだね」


マギーが言った。


メイは二人を交互に見た。


「もう決めるの?」


クララが肩をすくめる。


「嫌なら帰ればいいけど」


マギーがクララを見る。


「帰す気はないだろ」


「ないわよ。人手が足りないもの」


メイは目を瞬いた。


マギーが頷く。


「そういうことさ」


マギーは奥へ行き、しばらくして深い皿を持って戻ってきた。


煮込みだった。


豆。


芋。


少し肉。


パンも一切れ添えられている。


メイは皿を見た。


「これも?」


「食べな」


「明日働くから?」


マギーは皿をメイの手に押しつけた。


「働く話は明日だ。今夜は腹を満たしな」


皿は温かかった。


メイは両手で受け取った。


「……ありがとう」


「礼は皿を空にしてからでいいよ」


マギーはもう別の方を見ていた。


メイは炉の近くに座った。


匙を入れると湯気が立った。


一口食べる。


熱くて舌を少し火傷した。


それでもすぐ二口目、三口目を運んだ。


腹の中が温まっていく。


昼間、海を見ながら食べた冷たいパンとは違った。


向かいでは若い女が赤ん坊を抱いていた。


赤ん坊は泣き、女も疲れた顔をしている。


それでも身体を揺らし続けていた。


少し離れたところでは、別の女が破れた靴下を縫っている。


誰かが薪を足すと、火が少し大きくなった。


メイは匙を止め、炉を見つめた。


山の火ではない。


イーライはいない。


誰も銃を持っていない。


誰も追ってこない。


ただ暖かい。


それだけの火だった。


メイは再び匙を動かし、皿を空にした。


*


寝台は本当に狭かった。


屋根裏に近い二階の部屋で、壁際に三つ並んでいる。


二つはすでに使われていた。


メイは一番端に荷物を置き、靴を脱いだ。


足の裏が痛む。


横になると、天井が近かった。


知らない家。


知らない町。


隣には知らない女が寝ている。


それなのに、山小屋で一人だった最後の夜より静かだった。


メイは横を向き、腹へ手を置いた。


目を閉じる。


身体の内側を巡る力の流れが見える。


その中に、ひどく小さな流れが一つだけあった。


昼間、海辺で見たものと同じだった。


まだ何なのかは言えない。


「……今日、海見たよ」


小声で言う。


返事はない。


「明日は仕事だって」


また沈黙が返る。


「勝手に決められた」


口元が少し動いた。


階下から薪の爆ぜる音がした。


ぱち。


メイは目を閉じた。


火は見えない。


それでも、まだ燃えていた。


その夜、メイは久しぶりに朝まで一度も目を覚まさなかった。


朝、目を覚ました時には、隣の寝台が一つ空になっていた。


もう一人の女も服を着ている。


メイは慌てて身体を起こした。


「何時?」


女は髪をまとめながら答えた。


「まだ鐘は鳴ってないよ」


「みんな早いの?」


「ここじゃね」


メイは寝台から降りた。


身体が重い。


昨日一日歩いたせいだろう。


靴を履き、髪をまとめる。


帽子をかぶろうとしてやめた。


室内でまで隠すのも変だった。


金色の髪を後ろで束ね、階段を下りた。


階下ではすでに火が入っていた。


大きな鍋から湯気が上がっている。


昨夜メイをここへ連れてきた、救護会の世話役マギー・オドネルが炉へ薪を一本押し込んでいた。


メイを見る。


「起きたね」


「寝坊した?」


「してないよ」


奥から声が飛んだ。


「でも遅い!」


昨日、メイの袖の縫い目を散々けなした裁縫師、クララ・ベルだった。


救護会に持ち込まれる衣服の修繕を引き受け、その仕事を何人かの女たちへ振り分けている。


長い机の上に布を広げていた。


メイはそちらへ行った。


「おはよう」


「挨拶は後。座って」


「朝ごはんは?」


マギーが言った。


クララが顔を上げた。


「食べてないの?」


「今起きたんだから食べてないでしょう」


「じゃあ食べてから」


メイは二人を見た。


「どっち?」


「食べる」


二人同時だった。


メイは黙って鍋の方へ向かった。


*


朝食は粥とパンだった。


食べ終えるとクララの向かいへ座った。


机には男物のシャツが一枚置いてある。袖が裂けていた。


クララが針と糸を置く。


「直して」


メイは裂け目を見る。


「これだけ?」


「これだけ」


「いつまで?」


「終わるまで」


メイは針を取った。


糸を通す。


裂け方を見る。


縫い合わせるだけでも着られる。


だが、そのままではまた同じところから裂けそうだった。


裏から布を一枚当てる。


クララが見ている。


メイは気にせず縫った。


しばらくして、


「細かすぎ」


と言われた。


メイは手を止めた。


「悪い?」


「悪くない。でも遅い」


「ほどけにくいよ」


「一日に一枚しか直せないなら、ほどける前にあんたが飢える」


メイは縫い目を見る。


少し考え、間隔を広げた。


クララが頷く。


「そう」


「雑になった」


「仕事になったの」


メイはむっとした。


「雑じゃない方がいいでしょう」


「金を払う人が、シャツ一枚に一週間待ってくれるならね」


「一週間もかからない」


「たとえばよ」


クララは隣の椅子へ座った。


「上手に縫うのと、縫って食べるのは違うの」


メイは返事をせず、続きを縫った。


少ししてクララが言った。


「旅の途中、自分の服を直してた?」


「うん」


「誰かに習った?」


「母さん」


「なら基本はできてる」


「最初からそう言えばいいのに」


「まだ終わってないでしょう」


メイは口を閉じた。


最後に糸を切り、裏を見る。表を見る。


クララへ渡した。


クララは袖を引っ張った。


縫い目を見る。


裏返す。


「使える」


「それだけ?」


「褒めてほしいの?」


「別に」


「なら、それだけ」


クララはシャツを畳み、机の下からズボンを三本出した。


メイの前へ置く。


「膝二つ。裾一つ」


「試験終わったんじゃないの?」


「終わったよ」


「これは?」


「仕事」


メイは三本のズボンを見た。


「採用?」


「今日だけね」


「明日は?」


「今日、遅かったらない」


メイは針を取った。


「じゃあ早く終わらせる」


クララが少し笑った。


「そうしなさい」


*


昼まで縫った。


男物のズボン。


子どものシャツ。


女物のスカート。


破れ方は全部違った。


擦れて薄くなったもの。


釘でも引っ掛けたように真っすぐ裂けたもの。


糸が切れただけのもの。


布そのものが駄目になっているもの。


直せるものもあった。


直せないものもあった。


メイが古いシャツを広げる。


脇から背中まで布が薄くなっている。


「これ、無理じゃない?」


クララが見た。


「そのままじゃね」


「どうするの」


「切る」


「もっと壊すの?」


「駄目なところを残したら、そこからまた裂ける」


クララは鋏を渡した。


メイは薄くなった部分を見る。


鋏を見る。


一瞬、指が止まった。


シャキン。


金色の髪が落ちた時の音が蘇った。


メイは鋏を机へ置いた。


クララが見る。


「どうしたの?」


「……何でもない」


「切り方が分からない?」


「分かる」


もう一度持つ。


今度は切った。


薄くなった布を四角く取り除く。


そこへ別の布を当てた。


同じ色ではない。


少し濃い。


縫い終われば、直した場所はすぐ分かる。


「これでいいの?」


「いい」


「目立つよ」


「穴が開いてるよりまし」


クララは別の服を畳みながら言った。


「着るために直すんだから」


メイは四角い継ぎ布を指でなぞった。


新しい布。


古い布。


縫い目。


全部見える。


それでも、もう穴は開いていない。


「……そっか」


また針を持った。


*


三日働いた。


四日目も呼ばれた。


一週間経った頃には、クララはもう「明日来る?」とは聞かなかった。


朝になるとメイの分の仕事が机に置いてあった。


メイも聞かなかった。


座って縫った。


終われば次を取った。


少し金が入った。


多くはない。


でも減るだけだった財布の中身が、初めて増えた。


その夜、メイは硬貨を寝台の上に並べた。


一枚。


二枚。


三枚。


食事。


宿。


洗濯。


糸。


計算する。


まだ救護会を出て、一人で暮らせるほどではない。


硬貨を袋へ戻した。


隣の寝台にいた女が尋ねた。


「貯めてるの?」


「うん」


「何買うの?」


メイは少し考えた。


「部屋」


女が笑った。


「部屋は買えないよ」


「借りるの」


「同じようなものよ。毎月なくなる」


「でも、自分の場所になるでしょう」


女は答えなかった。


メイは袋の口を結んだ。


*


さらに何日か経った。


クララから渡されたスカートの裾を直していると、マギーがやって来た。


机へ手をつく。


「メイ」


「何?」


「部屋を探してるそうだね」


針が止まった。


「誰から聞いたの?」


「ここに秘密なんてあると思ってるのかい」


メイは周りを見た。


女たちは知らない顔で仕事をしている。


「まだ探してない」


「金を貯めてるんだろ」


「もう少し」


「いくらある」


「言わない」


「賢くなったね」


マギーは紙切れを一枚、机へ置いた。


「明日の夕方、ここへ行きな」


メイは紙を見る。


住所らしいものが書いてある。


「何?」


「知り合いの家で、部屋が一つ空いてる」


「いくら?」


マギーが金額を言った。


メイは頭の中で計算した。


払える。


ぎりぎりではない。


でも楽でもない。


「安い」


「狭いからね」


「何で空いてるの?」


「前に借りてた女が結婚した」


「ちゃんとした部屋?」


「屋根はある」


「それだけ?」


「窓もある」


「他には?」


「階段」


メイはマギーを見る。


「階段は部屋じゃないでしょう」


「二階なんだから必要だろ」


クララが吹き出した。


マギーは続けた。


「家主はミセス・ハーパー。夫を亡くして、一階で一人暮らしをしてる。空いた二階の一部屋を貸して、生活の足しにしてるのさ。台所と水場は一緒だ」


「知らない人?」


「私には知り合い。あんたには知らない人」


「大丈夫なの?」


「だから紹介するんだよ」


メイは紙を持った。


「どうして私に?」


「出ていきたい顔してるからさ」


「嫌だからじゃないよ」


「分かってる」


マギーはすぐに答えた。


メイは黙った。


「ここにいたっていい。でも、あんたはいつまでも『置いてもらってる』と思うだろ」


図星だった。


マギーは机から手を離した。


「自分で払えるようになったなら、自分で払えばいい」


「……うん」


「その代わり」


「何?」


「飯まで削るんじゃないよ」


「削らない」


「昨日の昼は?」


メイは黙った。


「一昨日は?」


「……パン食べた」


「パンだけだろ」


「見てたの?」


「見なくても分かる」


マギーはメイの頬を指した。


「痩せた」


メイは頬を触った。


「前より?」


「山から来た時より」


「それならいいんじゃない?」


「よくない」


マギーは言い切った。


「働くために食べるんだ。食べないために働くんじゃないよ」


メイは紙へ目を落とした。


「……分かった」


「本当に?」


「多分」


「信用できないね」


マギーは行ってしまった。


クララが小声で言った。


「諦めなさい」


「何を?」


「あの人に勝つの」


メイは少し笑った。


*


翌日の夕方、紙に書かれた住所へ行った。


小さな木造の家だった。


新しくはない。


板壁の色もところどころ違っている。


一階の扉を叩くと、白髪の混じった女が出てきた。


「ミセス・ハーパー?」


「そうだけど」


「マギー・オドネルに聞いて」


「ああ。あんたがメイね」


それだけで中へ通された。


マギーから話は届いていたらしい。


ミセス・ハーパーは階段を指した。


「貸すのは上」


狭い階段だった。


上る。


ぎい。


一段鳴った。


また上る。


ぎい。


二階には扉が二つ。


奥の扉を開ける。


部屋は小さかった。


本当に小さい。


寝台が一つ。


椅子が一つ。


壁際に小さな台。


窓。


それだけ。


メイは中へ入った。


窓を開ける。


海は見えなかった。


向かいの屋根。


煙突。


洗濯物。


その向こうにも家。


それでも光は入った。


窓の横を見る。


「ここに机置いていい?」


ミセス・ハーパーが肩をすくめた。


「床が抜けないものなら」


「小さいのでいい」


「台所は下。水も下。使ったものは自分で片づけること」


「分かった」


「夜遅く帰るなら静かに。私は早く寝る」


「うん」


「家賃は先に」


「今払う」


財布を出した。


最初の分を払う。


硬貨がミセス・ハーパーの手へ移った。


少し惜しかった。


それでも渡した。


「じゃあ今日から使っていい」


ミセス・ハーパーはそう言って階段を下りていった。


一人になった。


メイは部屋の真ん中に立った。


狭い。


何もない。


暖かくもない。


山小屋よりずっと小さい。


でも、


誰の部屋でもなかった。


まだ。


メイはもう一度部屋を見回した。


「……私のだ」


言ってみた。


返事はない。


それでよかった。


窓から風が入った。


金色の髪が頬へかかる。


メイはそれを耳へかけた。


翌日、クララに教えてもらった古物屋から、小さな中古の机を一つ買った。


窓際へ置いた。


針。


糸。


鋏。


布。


仕事道具を並べる。


寝台の横には杖を立てた。


荷物をほどく。


最後に、小さな布袋を取り出した。


赤い星の刺繍。


セントルイスを出る時、幼なじみのアビー・ウォーカーが薬を入れて持たせてくれた袋だった。


手の中で少しだけ眺めた。


開けなかった。


引き出しにしまった。


窓際の椅子へ座る。


向かいの屋根から煙が上がっていた。


人の声。


荷車の音。


どこかで犬が吠えた。


海の音は聞こえない。


メイは針へ糸を通した。


その日から、そこで暮らし始めた。


部屋を借りてから、メイの一日は少しずつ形を持つようになった。


朝は階段を下り、ミセス・ハーパーに挨拶をして、簡単に食べる。


それからセント・マーサへ行き、クララから仕事を受け取った。その場で縫う日もあれば、部屋へ持ち帰る日もあった。


夕方になると、仕上がったものを届け、金を受け取り、食べ物を買って部屋へ戻る。


夜は窓際の机で針を動かした。


次の日も。


その次の日も。


同じことを繰り返した。


誰にも追われなかった。


夜中に物音がしても、飛び起きる必要はなかった。


それでも最初のうちは目が覚めた。


床板が鳴る。


風で窓が揺れる。


階下でミセス・ハーパーが咳をする。


そのたび身体が先に固くなった。


しばらくしてから、ここは山ではない、と思い出す。


猟銃もない。


あの銃はイーライが持って町へ戻った。


自分がネッドを撃った銃として、保安官へ差し出すために。


メイの手元に残っているのは杖だけだった。


眠り直す前には左手を握った。


何も触れていないことを確かめるためだった。


昼間も、なるべく左手では人に触れなかった。


服を受け取る時も右手。


金を受け取る時も右手。


左手は布を押さえる時だけ使う。


それで困ることはなかった。


未来の匂いも嗅がなかった。


明日の仕事はあるのか。


この部屋を来月も借りられるのか。


ここに住み続けて大丈夫なのか。


考えれば、確かめたくなることはいくらでもあった。


でも、嗅がなかった。


分からないなら、


分からないまま明日を待った。


そうして二週間ほどが過ぎた。


*


その夜、メイは机の上に紙を二枚並べた。


一枚目の宛先はセントルイス。


父と母とルーシーへ。


何を書けばいいのか迷い、短い手紙にした。


サンフランシスコまで来たこと。


海を見たこと。


仕事を見つけたこと。


部屋を借りたこと。


元気でいること。


何度か読み返す。


嘘は書いていない。


ただ、書いていないことが多かった。


ミダスのこと。


山のこと。


ネッドのこと。


イーライのこと。


そして、腹の奥に見える小さな力の流れのこと。


メイは紙を折り、二枚目を前へ出した。


こちらはさらに書き出せなかった。


宛先はミダス。


ミセス・エヴァンスへ。


山を出た日の古い樫の木を思い出した。


ベン。


エヴァンス夫人。


町の人たち。


そして、


イーライ。


メイはペンを握った。


しばらく、何も書けなかった。


やがて、


サンフランシスコに着きました。


と書いた。


その下に、


海も見ました。


と続ける。


少し考えてから、


イーライはどうしていますか。


と書いた。


聞きたいことが次々に浮かんだ。


無事なのか。


ベンは町へ着いたのか。


三人の男たちはどうしたのか。


町では何と言われているのか。


保安官は。


裁判は。


イーライは今どこにいるのか。


全部書こうとして、やめた。


エヴァンス夫人だって、すべてを知っているとは限らない。


最後に、


何か分かったら教えてください。


と書いた。


二通を折り、机の上へ並べた。


片方は家。


片方は山。


どちらも、ここからは遠かった。


*


翌朝、仕事へ行く前に郵便局へ寄った。


中は混んでいた。


壁際に人が並び、窓口の向こうでは男たちが手紙や紙束を仕分けている。


メイは列の最後についた。


少しずつ進んだ。


前の男は大きな包みを出し、その前の女は、届いている手紙がないか何度も自分の名前を言い直していた。


やがてメイの番になる。


窓口の向こうにいたのは若い男だった。


メイより少し年上に見える。


茶色い髪を短く整え、袖を肘近くまでまくっていた。


机の横には、名前を書いた紙束がいくつも積んである。


男が手を出した。


「出す方?」


「うん」


メイは二通を渡した。


男は宛先を見る。


「セントルイス」


次を見る。


「ミダス」


そこで初めてメイを見た。


「ずいぶん離れてるね」


「私が動いたから」


「なるほど」


それ以上は聞かなかった。


料金を告げる。


メイは硬貨を出し、男が受け取った。


「名前は?」


「何で?」


「返事をここで受け取るなら必要になる」


「あ」


メイは少し考えた。


「ステラ・メイ・ホロウェイ」


男の手が止まった。


「もう一回」


「ステラ・メイ・ホロウェイ」


「長いな」


「よく言われる」


男は紙へ書きつけた。


「ステラ……メイ……ホロウェイ」


「メイでいいよ」


「郵便物はそうはいかない」


「面倒ね」


「俺に言われても困る」


メイは少し笑った。


男は書き終えた紙を横へ置いた。


「返事を待ってる?」


「うん」


「なら、時々見に来るといい」


「届いたら持ってきてくれないの?」


男が顔を上げた。


「どこへ?」


「私の部屋」


「知らないよ」


「あ、そっか」


男の口元がわずかに緩んだ。


「ここへ来て。届いてたら渡す」


「毎日?」


「毎日来ても、手紙が早くなるわけじゃない」


「じゃあ三日に一回」


「好きにして」


後ろから咳払いが聞こえた。


まだ列が続いている。


メイは横へ退きかけ、振り返った。


「あ」


「名前は?」


男は次の客へ手を出しながら答えた。


「ノア」


「それだけ?」


今度は男の手が止まった。


メイは言った。


「私は全部言った」


「ノア・リード」


「分かった」


「何が?」


「次に来た時、違う人だったらノアを出してって言う」


「やめてくれ。俺は手紙じゃない」


後ろから、また咳払い。


メイは今度こそ窓口を離れた。


*


三日後、郵便局へ行った。


ノアはいなかった。


別の男に名前を告げる。


手紙はなかった。


さらに三日後。


また行った。


今度はノアがいた。


メイを見るなり、


「まだない」


と言った。


「まだ名前言ってない」


「覚えてる」


「長いのに?」


「長いからだよ」


「じゃあ明後日来る」


「三日に一回じゃなかった?」


「待ってる方が決めるの」


ノアは肩をすくめた。


メイは帰った。


その二日後。


また郵便局へ行く。


ノアは別の客を相手にしていた。


メイは列に並んだ。


順番が来る。


何も言わず窓口の前へ立つ。


ノアも何も言わなかった。


後ろの棚へ行き、束を一つ取る。


何枚かめくり、戻ってくる。


そして一通の封筒を差し出した。


「ホロウェイさん」


メイの胸が跳ねた。


封筒を受け取り、宛名を見る。


ミセス・エヴァンスの字だった。


イーライではない。


胸の奥が少し落ちた。


それでも、すぐに封を切ろうとした。


「ここで読む?」


ノアが言った。


メイは手を止め、後ろを見る。


人が並んでいる。


「駄目?」


「駄目じゃないけど、押されるよ」


メイは封筒を胸元へ入れた。


「じゃあ帰る」


「そうした方がいい」


「ありがとう」


「仕事だから」


メイは郵便局を出た。


歩きながら何度も胸元へ触れた。


部屋まで待てなかった。


二つ角を曲がったところで立ち止まり、壁際へ寄る。


封を切った。


短い手紙だった。


ベンは無事に町へ戻ったこと。


イーライも一緒だったこと。


ネッドを運ぶ男たちより先にミダスへ着き、自分から保安官のところへ行ったこと。


何があったのかを話したこと。


そして持っていた猟銃をその場で渡したこと。


今は町の留置場所にいること。


裁判までは、まだ少しかかるだろう。


そう書かれていた。


メイはそこを二度読んだ。


生きている。


まず、それだけで息が抜けた。


その下に、


イーライから伝言を預かっています。


とあった。


メイは次を読む。


海は見えたか。


たった、それだけだった。


メイは道の端で笑った。


笑ったあと、少し泣いた。


手紙を畳み、胸へ戻した。


それから歩き出した。


*


その晩、机に向かうとすぐに返事を書いた。


見えたよ。


から始めた。


大きかった。


寒かった。


思っていたより色が暗かった。


一人で見た。


そこまで書いて、ペンが止まった。


一人で見た。


書かなければよかったと思った。


でも消せない。


少し考え、そのまま続けた。


あなたにも見せたい。


書き終える。


紙を折ろうとした時だった。


腹の奥に、かすかな違和感があった。


痛くはない。


メイは手を置いた。


目を閉じる。


身体を巡る力の流れが見えた。


その内側に、もう一つ。


海辺で見た時よりも少しだけはっきりした、小さな流れがある。


自分のものと重なりながら、それでも別に存在していた。


「……何なの」


返事はない。


指先で腹を押す。


何も起こらない。


ふと、机の日付に目が止まった。


メイは数えた。


前の月。


その前。


もう一度。


ゆっくり。


指が止まった。


「……あれ」


今度は違う意味で腹を見た。


しばらく動けなかった。


立ち上がる。


壁際の上着を取り、階段を下りた。


一階ではミセス・ハーパーが鍋を洗っていた。


メイは途中の段で止まった。


「あの」


ミセス・ハーパーが振り返る。


「何?」


「……」


聞けばいい。


女なら分かるかもしれない。


そう思った。


でも口から出なかった。


「何でもない」


「なら、そこに立ってないでおくれ」


「うん」


メイはまた階段を上った。


部屋へ戻る。


机の前に座る。


日付を見る。


もう一度数えた。


今度は間違えないように。


一つずつ。


最後まで。


手が腹へ戻った。


目を閉じれば、


やはりそこに小さな力の流れが見えた。


海へ着いた時には、


まだ、


もしかして、


だった。


でも、もうそれだけでは済まない。


メイは机の上のイーライへの手紙を見た。


しばらく見つめた。


そして新しい紙を一枚出した。


新しい紙を前にしても、結局その夜は何も書けなかった。


書こうとした言葉は決まっている。


子ども。


それだけだった。


けれど、まだ自分で日を数えただけだ。


腹の奥には小さな力の流れが見える。


確かに、自分とは別のもののように見える。


それでも、それが何なのかをメイ自身が決めつけることはできなかった。


もし違ったら。


そう思うと、イーライへ書くことはできなかった。


メイは紙を伏せた。


翌朝、いつもより早くセント・マーサへ向かった。


*


マギーはメイの顔を見るなり言った。


「どうしたんだい」


「まだ何も言ってない」


「言ってないから聞いてるんだよ」


メイは黙った。


マギーは籠を机へ置いた。


「腹でも痛い?」


「痛くない」


「なら、何だい」


「……聞きたいことがある」


「私に?」


メイは少し迷った。


「女の人に」


「エスターが来るまで待ちな」


「誰?」


「産婆さ」


メイが顔を上げる。


「それまでは働くよ」


「今から?」


「病気じゃないんだろ」


「多分」


「なら働きな」


いつも通りの言い方だった。


それが少しありがたかった。


*


昼前に、エスター・ハウが来た。


五十を越えた小柄な女で、セント・マーサに出入りする産婆だった。


町の女たちの出産を手伝い、金のない者から呼ばれれば救護会にも顔を出す。


マギーが呼び止めた。


「エスター。この子を見てやって」


エスターはメイを奥の小さな部屋へ連れていった。


扉が閉まる。


「最後に月のものが来たのは?」


メイは答えた。


「いつも同じ頃?」


「だいたい」


「今まで遅れたことは?」


「旅の途中で少し」


「吐き気は?」


「ない」


「胸は痛む?」


「……前より」


「眠い?」


「仕事してるからかも」


「食欲は?」


「ある」


「それは見れば分かる」


メイはむっとした。


「マギーと同じこと言う」


「長く女を見てると、似たことを言うようになるのさ」


エスターはメイの手首を取り、脈をみた。


それからいくつか質問を重ねた。


「心当たりはあるんだね」


「うん」


「いつ頃?」


メイは山の夜を思い出した。


雪。


火。


イーライ。


答えを聞いたエスターは、指を折って数えた。


「間違いないと思うよ」


「思う?」


「腹を割って見るわけにはいかないからね。でも、あんたの話を合わせれば、まず間違いない」


メイの手が腹へ移った。


昨日までと同じ腹だった。


それでも、もう同じには見えなかった。


目を閉じれば、


自分の中に小さな力の流れがある。


ずっと見えていた。


でも今、


初めてそれに意味がついた。


「……いるの?」


「いるんだろうね」


胸の奥が沈んだ。


怖いのか。


嬉しいのか。


分からない。


ただ重かった。


重いのに、少し暖かかった。


エスターが尋ねた。


「父親は?」


「いる」


「夫?」


「違う」


「近くに?」


「ミダス。今は留置されてる」


エスターが一度だけ瞬いた。


「ずいぶん話がありそうだね」


「ある」


「聞かないでおくよ」


「助かる」


「産むつもりは?」


今度は迷わなかった。


「産む」


エスターは頷いた。


「なら、食べること。休むこと。重い物は持たない。血が出たり、強く腹が痛んだらすぐ呼ぶ」


「仕事は?」


「縫い物ならできる」


「よかった」


エスターは扉へ向かったが、そこで振り返った。


「一人で抱え込まないこと」


メイは答えなかった。


「それが一番できなさそうな顔をしてる」


「顔で何でも分かるの?」


「この救護会には、そういう女ばかりいるんだよ」


*


外にはマギーがいた。


エスターが短く言う。


「食べさせて、少し休ませな」


「やっぱりかい」


メイが眉を寄せた。


「何で分かってたの?」


「十八の娘が腹のことで産婆を待ってりゃ、大体分かるよ」


「みんな分かりすぎ」


クララが机の向こうから言った。


「メイ。座るならこっち」


いつも通りだった。


それがありがたかった。


*


その日は、針を持つ手が何度も止まった。


メイは無意識に腹へ目を落とした。


クララがすぐに言った。


「穴は腹じゃなくて服に開いてるわよ」


「分かってる」


「なら縫いな」


メイは針を動かした。


少ししてクララが尋ねた。


「子どもいる?」


「いない」


「そっか」


「役に立たなくて悪かったわね」


「別に」


また縫う。


しばらくして、クララが言った。


「怖い?」


メイの手が止まった。


「……分からない」


「じゃあ、まだそれでいいんじゃない」


クララは自分の仕事へ戻った。


メイも布へ目を戻した。


一針。


もう一針。


破れた布は、少しずつ閉じていった。


*


仕事が終わると、メイは郵便局へ向かった。


今日は手紙を受け取りに来たのではない。


ノアの窓口には三人並んでいた。


メイも最後についた。


順番が来ると、ノアが顔を上げた。


「今日は早いね」


「出したい」


「手紙?」


「郵便局で他に何出すの」


「たまに変なもの持ってくる人がいるから」


ノアが手を出した。


メイはそこで止まった。


まだ書いていない。


「……紙ある?」


ノアが眉を上げた。


「書いてないの?」


「今から書く」


「家で書けばよかっただろ」


「今、書きたいの」


後ろを見る。


人が並んでいる。


ノアはため息をつき、窓口の端を指した。


「そこ。邪魔にならないところで」


紙を一枚渡された。


「ペンは?」


「それも」


「インクも?」


「うん」


「次は自分で持ってきて」


「分かった」


メイは端の台へ移った。


紙を広げ、ペンを持つ。


今度は迷わなかった。


イーライへ。


そう書いた。


その下に、


子どもができます。


と書いた。


手が止まる。


読み返す。


あまりに短い。


今日、産婆に見てもらいました。


間違いないそうです。


私は産みます。


そこまで書いた。


最後の一行で、また止まった。


私は産みます。


違う気がした。


紙を見つめる。


自分だけの話ではない。


だから、その下へ書いた。


あなたにも、知っていてほしい。


少し考えて、別の紙をもらった。


「また?」


ノアが言った。


「書き直す」


「紙だってただじゃない」


「払う」


「そういう問題じゃない」


それでも一枚くれた。


メイは最初から書き直した。


イーライへ。


子どもができます。


今日、産婆に見てもらいました。


間違いないそうです。


私は産むつもりです。


でも、


これは私だけの子どもじゃないから、


あなたにも知らせます。


そこまで書いた。


まだ足りない。


ペンを置きかけて、最後に一行足した。


怖いけど、


少し嬉しい。


今度は書き直さなかった。


紙を折る。


封をする。


ノアのところへ戻った。


「できた?」


「うん」


「宛先は?」


メイは答えようとして止まった。


イーライは留置されている。


直接どこへ送ればいいのか分からない。


「……ミダスのミセス・エヴァンス」


「その人宛て?」


「違う。そこから渡してもらう」


ノアは封筒を見た。


「中の人に?」


「うん」


「じゃあ、外側はエヴァンスさん。中に誰へ渡すか分かるよう書いておいた方がいい」


「書く」


メイは封筒に書き足した。


イーライ・ハートへ。


ノアが料金を告げる。


メイは払った。


手紙を渡す。


ノアはいつものように、他の郵便物と一緒に置いた。


それだけだった。


メイはそこから動かなかった。


「何?」


「……行っちゃった」


「手紙だからね」


「分かってる」


「戻す?」


メイは首を振った。


「ううん」


ノアは少しだけメイを見る。


何が書かれているのかは聞かなかった。


「なら届くのを待つしかない」


メイは頷いた。


未来の匂いを嗅ごうとは思わなかった。


イーライが喜ぶのか。


困るのか。


怒るのか。


何を選ぶのか。


それは、メイが先に知っていいものではない気がした。


郵便局を出た。


外はまだ明るかった。


人が行き交っている。


馬車が通った。


誰かが笑った。


町は何も変わっていない。


メイは歩き出した。


途中で店へ寄った。


パン。


豆。


卵。


それから少し迷って、肉も買った。


いつもならやめる値段だった。


財布の中の硬貨が減る。


メイは少し嫌な顔をした。


それでも肉を包んでもらった。


部屋へ戻る。


階段を上る。


ぎい。


ぎい。


まだ息は切れない。


扉を開けた。


買ったものを机へ置いた。


腹へ手を当てる。


目を閉じると、


小さな力の流れが見えた。


もう、


何なのか分からない流れではなかった。


「……食べろって」


誰に言うでもなく呟いた。


少し考えてから、


「二人分ってこと?」


首を傾げる。


「いや、二倍は無理」


自分で言って、


少し笑った。


その夜、メイは久しぶりに、食べ物を残さなかった。

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