モクズ 破
モクズ 破
腹のことが分かってからも、暮らしは急には変わらなかった。
朝になれば起きる。食べる。階段を下りる。セント・マーサへ行き、針を持つ。ただ一つ変わったのは、マギーに食事を見張られるようになったことだった。
「昼は?」
「食べた」
「何を?」
「パン」
「それだけ?」
「……卵も」
「本当かい」
「本当」
「昨日は?」
「昨日の話までいる?」
「いるね」
メイは答える代わりに、クララの机へ逃げた。
「助けて」
「嫌よ」
「まだ何も言ってない」
「マギーからでしょ」
「うん」
「なら無理」
メイは諦めて椅子に座った。
腹はまだ、服の上から見て分かるほどではない。それでも自分では以前と違うのが分かった。胴回りが少しきつくなった。階段を上りきったあと、息を吐くことが増えた。
何より、食べたものが自分だけに入っている気がしなくなった。
目を閉じれば、身体を巡る力の流れが見える。その中に、自分とは別の小さな流れがある。以前より少し太くなった気がした。食べたあとに見ると、それがわずかに強くなっているようにも思えた。
本当にそうなのかは分からない。
だから確かめようとはしなかった。
ただ、前より食べるようになった。
*
午後、一人の女がセント・マーサへやって来た。
四十くらいで、十歳ほどの男の子を連れている。胸には大きな包みを抱えていた。マギーと短く話したあと、クララのところへ来る。
「これを直してもらいたいんです」
包みから出てきたのは、古い男物の上着だった。
肩は擦れ、袖口も傷んでいる。片方の肘には穴が開きかけていた。布そのものも何度も洗われ、柔らかく薄くなっていた。
クララが上着を広げる。
「誰が着るの?」
女は隣の男の子を見た。
「この子に」
クララも見る。
どう考えても大きい。
「詰める?」
「いいえ」
女は首を振った。
「今はまだ、着られなくていいんです」
そこで一度、上着へ目を落とした。
「父親のものなんです」
メイの針が止まった。
女は続けた。
「夫が亡くなって三年になります。この子も少し大きくなったから、いつか着られるようにしておきたくて」
クララは肘の穴を確かめた。
「傷んだところを直すだけでいい?」
「はい」
「同じ布はないから、継ぎは残るわよ」
女はしばらく上着を見ていたが、やがて頷いた。
「構いません」
「じゃあ預かります」
女は男の子の肩へ手を添え、帰っていった。
扉が閉まると、メイは上着を見た。
「私がやる?」
「やってみる?」
「うん」
クララが渡した。メイは右手で受け取り、机へ広げる。
「急がなくていいわ」
「分かってる」
「人に返すものだから、今度はちゃんと丁寧にね」
「いつも丁寧」
「自分ではね」
メイは睨んだ。
クララは小さく笑い、別の仕事へ戻った。
*
メイはまず袖口を裏返した。
擦り切れた部分へ細い布を当てる。次に肘。肩。何度か裏返しているうち、内側に古い縫い目を見つけた。
今使っている糸とは色が違う。
縫い目も少し曲がっている。
けれど、きちんと布を押さえていた。
メイは右手の指先で触れた。
「前にも直してる」
クララが顔を上げる。
「そうみたいね」
「奥さんかな」
「かもしれない」
メイは縫い目を眺めた。
誰かが破れたところを見つけ、糸を通し、また着られるようにした。
それから男は、何度この上着を着たのだろう。
考えながら新しい糸を取った。
その時、机の端に置いていた糸巻きが落ちた。
ころころと床を転がる。
メイは反射的に左手を伸ばした。
届かなかった。
糸巻きは机の脚へ当たって止まり、行き場を失った左手が上着へ触れた。
手の甲には、赤い痣がある。
二つに割れた蹄のような形をした痣。
触れた瞬間、その周りの皮膚が冷たくなった。
メイは手を引こうとした。
遅かった。
机の木目が薄れる。
クララの姿も消える。
上着の布だけが一瞬近くなり、それから視界そのものが変わった。
*
朝だった。
知らない部屋。
窓から薄い光が差している。炉には火が残っていた。
あの女がいる。
今より若かった。
髪を後ろで束ね、炉の前で何かをかき混ぜている。
床には小さな男の子が座っていた。さっき来た子だ。けれど、ずっと幼い。木片を二つ持ち、床の上でぶつけて遊んでいる。
男が立っていた。
上着へ腕を通す。
今、メイが触れているものと同じ上着だった。
肩へ布が落ちる。
男が袖を引く。
左の袖口を一度折る。
ひどく普通の動作だった。
男の子が顔を上げた。
男はしゃがみ、子どもの頭を撫でた。
何か言った。
聞こえない。
声そのものはある。
けれど水の向こうから聞くように輪郭がぼやけていた。
女が振り返る。
「今日は遅くなる?」
「分からない」
「夕飯は?」
「残しといてくれ」
男は立ち上がった。
扉へ向かう。
途中で一度戻り、女の頬へ口づけた。
「行ってくる」
扉が開く。
外の光が差す。
閉じる。
それだけだった。
メイは追おうとした。
足が動かない。
そもそも床を踏んでいる感覚すらなかった。
扉へ手を伸ばしても届かない。
そのうち部屋が薄くなっていった。
炉の火。
女。
幼い子ども。
最後まで残ったのは男の上着だった。
擦れた袖口。
肩の皺。
少し曲がった古い縫い目。
それも暗い水の中へ沈むように遠ざかっていった。
*
メイは左手を引いた。
椅子が軋んだ。
息を吸う。
うまく入らない。
もう一度。
今度は布と糸、石鹸と古い木の匂いがした。
セント・マーサだった。
机の上には上着がある。
男はいない。
メイは扉の方を見た。
もちろん、何もない。
ただ家を出ただけだった。
「行ってくる」
それだけ。
あの女も、男の子も、その時には最後になるなど知らなかった。
どうして死んだのかは見えなかった。
どこで死んだのかも。
いつだったのかも。
ただ、あの朝、男は家を出た。
そして三年後、上着だけがここにある。
「メイ?」
クララの声がした。
メイは左手を胸へ引いた。
「何?」
「顔、真っ白よ」
「……平気」
「平気な顔じゃないけど」
「針、刺した」
クララがメイの指を見る。
「血、出てないわよ」
「もう止まった」
「刺したばかりでしょう」
メイは答えなかった。
左手を膝の下へ隠す。
クララはしばらく見ていた。
「話したくないなら、話さなくていいけど」
メイが顔を上げる。
「聞かないの?」
「聞いてほしい顔してる?」
「してない」
「じゃあ聞かない」
クララは自分の布へ目を戻した。
メイは上着を見る。
もう触れたくなかった。
けれど仕事は残っている。
男が着ていた服。
妻が一度直した服。
これから息子が着る服。
メイは右手で持ち上げた。
左手は使わなかった。
*
二日かけて直した。
肘には継ぎ布を当てた。同じ色は見つからなかったので、少し濃い布を使った。擦り切れた袖口も補強した。肩の弱った部分には裏から布を当てた。
内側にあった古い縫い目は、ほどかなかった。
その隣へ新しい糸を通した。
古い線と新しい線が並んだ。
一つは妻が縫ったもの。
もう一つはメイが縫ったもの。
縫い終えると、上着は確かに丈夫になっていた。
けれど、新品には見えなかった。
メイはクララへ渡した。
クララが広げる。
表。
裏。
袖。
肩。
肘。
何度か引っ張ってから頷いた。
「いいんじゃない」
メイは上着を見た。
「違うね」
「何が?」
「前とは」
クララが顔を上げた。
「当たり前でしょう」
「直したのに」
「直したからよ」
クララは肘の継ぎ布を指で叩いた。
「ここが破れてたんだから、何か足さなきゃ塞がらないでしょう」
「でも、跡が残る」
「残るわよ」
「消せないの?」
「消せるなら消すこともあるけど」
クララは古い縫い目と新しい縫い目を指でなぞった。
「破れたところを塞ぐ。弱くなったところを補う。また着られるようにする。それが直すってこと」
「元通りには?」
「ならない」
クララは何でもないことのように言った。
「元通りにする仕事じゃないもの」
メイは上着を見た。
「消えないものまで、消えたふりする必要ないでしょう」
古い縫い目が残っている。
その隣に新しい縫い目もある。
どちらも消えていなかった。
*
翌日、女が息子を連れて取りに来た。
クララが上着を広げる。
女は袖を見た。
肘。
肩。
継ぎ布のところで指が止まる。
メイは少し身構えた。
「色が違って――」
「いいんです」
女が言った。
新しい縫い目を指でなぞり、その隣にある古い縫い目を見つけた。
「あ」
「知ってる?」
メイが尋ねる。
女は笑った。
「これ、私が縫ったんです」
「やっぱり」
「夫が釘に引っ掛けて」
古い縫い目を指でなぞる。
「下手でしょう」
メイは少し考えた。
「……曲がってる」
「でしょうね」
女が笑った。
「縫い物、嫌いだったから」
その声には、泣きそうな響きもなかった。
ただ昔のことを話している声だった。
男の子が上着を見上げる。
「着ていい?」
「まだ大きいわよ」
「ちょっとだけ」
母親がクララを見る。
クララが頷いた。
「どうぞ」
男の子が腕を通した。
袖が長い。
指先まで全部隠れる。
肩も大きく落ちた。
前を閉じれば、上着の中へ身体がすっぽり入りそうだった。
男の子が笑う。
「でかい」
「だから言ったでしょう」
母親も笑った。
メイは、あの部屋を思い出した。
床で木片を持っていた、小さな子ども。
父親が頭を撫でた。
今、目の前にいる子は、もうあの時よりずっと大きい。
それでも父親の上着にはまだ届かない。
「いつ着られる?」
男の子が聞いた。
母親が袖を折りながら言った。
「もっと大きくなったら」
「いつ?」
「知らないわよ」
「来年?」
「まだ無理ね」
「再来年?」
「どうでしょうね」
男の子は不満そうだった。
メイは少し笑った。
父親はもう大きくならない。
母親も、あの朝のままではない。
男の子だけが、あの上着へ近づいていく。
少しずつ。
毎日。
本人が気づかないくらいの速さで。
女が代金を払った。
「ありがとうございます」
メイは右手で受け取った。
男の子は上着を脱がされながら言った。
「また破れたら直してくれる?」
クララが答えた。
「持ってくればね」
「メイが?」
メイは目を瞬いた。
「私?」
「うん」
「何で私なの」
「この人が縫ったんでしょう?」
母親が肘の継ぎ布を指した。
男の子はそこを見る。
「じゃあ、またお願い」
メイは少しだけ迷った。
「……破らない方がいいよ」
「破れたら?」
「その時は直す」
「分かった」
分かっている顔には見えなかった。
二人は帰っていった。
扉が閉まる。
机の上から上着がなくなった。
メイは自分の左手を見る。
手の甲には赤い痣がある。
二つに割れた蹄のような形。
触れれば、そこに残った過去を拾う。
あの上着には男の最後の朝が残っていた。
けれど、過去だけが残るわけではない。
布の擦れ。
妻の曲がった糸。
メイが足した継ぎ布。
息子にはまだ長すぎる袖。
そういうものも、全部そこに残っている。
そして少しずつ増えていく。
*
その日の帰り、メイは店へ寄った。
薄い手袋を一組買った。
高いものではない。
部屋へ戻るまで待たず、店を出るとすぐ左手にはめた。
右手はそのまま。
左右で違うので、少し変だった。
それでも、その方がよかった。
これなら不用意に何かへ触れても、すぐにあの場所へ引きずり込まれずに済むかもしれない。
部屋へ戻る。
階段を上る。
ぎい。
ぎい。
以前より少しだけ腹が邪魔になった。
扉を開ける。
窓際の机へ座った。
膝の上に左手を置く。
薄い布の下には、赤い痣がある。
その上へ右手を重ねた。
「行ってくる」
あの男の声が、まだ耳の奥に残っていた。
ただの言葉だった。
毎朝、どこかの家で誰かが言っているような言葉。
それが最後になる日もある。
メイは腹へ目を落とした。
目を閉じると、小さな力の流れが見えた。
以前より、ほんの少し太い。
この流れも、これから大きくなる。
身体も大きくなる。
いつか歩く。
服を着る。
破るかもしれない。
メイは少しだけ笑った。
窓の外では、向かいの家の洗濯物が風に揺れていた。
海は見えない。
メイは針を取った。
布へ通す。
引く。
裂けたところが少し閉じる。
もう一針。
前と同じにはならない。
それでも、また使える。
メイは次の針を刺した。
手袋を買ってから、メイは左手を気にすることが少し減った。なくなったわけではない。人から服を受け取る時も、知らない物へ触れる時も、最初に左手を見る癖は残った。ただ、薄い布が一枚あるだけで、前より身体が固くならなくなった。
朝になれば階段を下りた。ぎい。ぎい。食べる。セント・マーサへ行く。縫う。夕方になれば、郵便局へ寄る日もあった。
イーライへ妊娠を知らせてから、返事はなかなか来なかった。三日。さらに三日。その次は四日空けた。毎日行ったところで手紙が早く届くわけではない。それはもう分かっていた。それでも郵便局の前を通ると、中を見た。ノアが窓口にいる。目が合う。ノアが首を振る。メイも何も言わず、そのまま通り過ぎる。そんな日が何度か続いた。
*
その日も仕事帰りだった。郵便局へ入ると、珍しく人が少なかった。ノアは机の上で紙束を揃えていた。
メイが窓口へ近づく。まだ何も言っていないのに、ノアが後ろを向いた。棚へ行き、一つの束を取り出す。メイの胸が早くなる。
ノアが戻ってきた。手には一通あった。
「あるよ」
メイは手を出した。
「誰から?」
「先に見れば?」
受け取る。封筒の表を見る。知らない字ではなかった。何度も見たことがあるわけでもない。それでも分かった。イーライだった。
メイは封筒を裏返した。また表を見る。
「本人?」
ノアが尋ねる。
「うん」
「よかったね」
メイは答えなかった。すぐに封を切ろうとして、ノアを見る。
「ここで読むなって言う?」
「今日は空いてるから好きにすれば」
メイは窓口の端へ移動した。手袋をした左手で封筒を押さえ、右手で封を切る。
紙が二枚入っていた。思っていたより多かった。メイは最初の行を読む。
メイへ。
それだけで、しばらく次へ進めなかった。
*
子どものことを聞いた。
最初の一文だった。その次に、驚いた、と書いてある。
メイは少し笑った。イーライらしいと思った。
さらに読む。
何を書けばいいのか、まだよく分からない。俺が父親になるっていうのも、正直まだ分からない。でも、俺の子でもある。
そこまで読んだところで、メイの指が止まった。もう一度読む。
俺の子でもある。
腹へ手が動きかけた。郵便局の中だったことを思い出し、止める。
続きを読んだ。
そばにいられなくて悪い。生まれる時にも、たぶんいない。それが一番嫌だ。でも、出たら会いに行く。お前にも。子どもにも。海にも。
メイは唇を噛んだ。最後の一つが余計だった。だから少しだけ笑えた。
そのあとに、裁判が終わった、とあった。笑いが消えた。メイは二枚目を開いた。
*
ネッドが先に銃を抜いたことは認められた。メイが男に掴まれていたことも。ベンも話してくれた。自分から町へ戻ったことも、逃げなかったことも、考えてもらえたらしい。
そこまでは、何度も読み返さなくても理解できた。次のところで、読む速さが落ちた。
それでも、撃って殺すしかなかったとは認められなかった。正当防衛にはならなかった。
メイは紙を握った。周囲の音が少し遠くなる。郵便物を積む音。扉の開く音。誰かが咳をする音。全部聞こえている。けれど、意味が入ってこない。
その下を読む。
ただ、最初から殺すつもりで追いかけたわけでもないことは分かってもらえた。刑は十八か月だった。
メイは止まった。
十八か月。
もう一度読む。
十八か月。
紙の上の文字は変わらない。一と八。か月。
メイは指で数えた。一年。それから半年。長い。
腹の子を見る。いや。まだ見えない。でも、そこにいる。
生まれるまで十八か月はかからない。イーライが出てくる頃には、この子はもう生まれている。泣く。乳を飲む。もしかしたら、座る。立つところまで行くかもしれない。
そこまで考えて、メイはやめた。
分からない。十八か月後の子どもがどうなっているのか。自分がどうなっているのか。イーライがどうなっているのか。分からない。
でも一つだけ分かった。
十八か月には、終わりがある。
*
手紙には続きがあった。近いうちに、湾の向こうへ送られる。サン・クエンティンというところらしい。そこで刑を終えるまで働くことになる。
メイは顔を上げた。
「湾の向こう?」
思わず声に出した。ノアが窓口の向こうから見る。
「何?」
「サン・クエンティンってどこ?」
「刑務所?」
「うん」
ノアが少し表情を変えた。だが、誰が入るのかは聞かなかった。
「湾の北の方。船で渡る」
メイは郵便局へ来た日のことを思い出した。ストックトンから川を下り、船で入った大きな湾。
「近い?」
「歩いて行ける距離ではない」
「見える?」
「場所によるけど、町から見て分かるようなもんじゃない」
「そっか」
メイはまた手紙へ目を落とした。セントルイスより近い。ミダスより近いかもしれない。同じ湾の向こう。なのに会えない。その距離が、かえって変だった。
手紙の最後にはこう書いてあった。
十八か月は長い。でも終わる。だから、待ってろとは言わない。お前がどうするかは、お前が決めてくれ。ただ、俺は出たら会いに行く。子どもが俺に会ってくれるなら、会いたい。それから、海も見たい。
メイは目を閉じた。
「……ほんと、海ばっかり」
声が少し震えた。
*
「読み終わった?」
ノアが言った。メイは顔を上げた。いつの間にか、さっきより人が増えていた。
「うん」
「なら、そろそろそこ空けてもらえる?」
「邪魔だった?」
「少し」
「先に言えばいいのに」
「読んでる人に話しかけにくいんだよ」
メイは手紙を畳んだ。いつもより丁寧に。封筒へ戻す。胸元へしまった。
「ノア」
「何?」
「十八か月って長い?」
ノアが手を止めた。
「何と比べるかによる」
「そういう答え嫌い」
「じゃあ長い」
「やっぱり?」
「でも十八年より短い」
メイは眉を寄せた。
「当たり前でしょう」
「聞いたのそっちだろ」
少しだけ笑った。それから、また胸元の手紙へ触れた。
「十八か月か」
ノアは何も言わなかった。
*
その夜、メイは机へ向かった。イーライの手紙を広げ、隣に新しい紙を置いた。
返事を書く。
裁判のことを読みました。
最初にそう書いた。少し考える。
よかった、と書こうとした。やめた。十八か月の刑を受けることを、よかったとは書けない。
ひどい、と書こうとした。それも違った。ネッドは死んでいる。
だから、読みました、だけにした。
その下へ、十八か月、数えました、と書く。書いてから、自分でも変な文章だと思った。でも消さなかった。
次に、子どものことを書く。
まだ大きくはありません。服の上から見ても、多分分かりません。でも、私には中に小さな力の流れが見えます。前より少し太くなりました。
メイはペンを止めた。イーライに、それで通じるかは分からない。それでも他に書きようがなかった。
続ける。
まだ動いたりはしません。名前も決めていません。男か女かも分かりません。
少し考えてから、あなたに似ていたら困ります、と書いた。そこまで書いて、自分で笑った。
さらに、私に似ても困るけど、と足した。
しばらく紙を見る。
最後に書いた。
待ってろとは言わない、と書いてあったけど。私は今のところ、どこにも行く予定はありません。サンフランシスコにいます。仕事もあります。部屋もあります。
だから、出てきたら来ればいいです。
そこで一度ペンを置いた。違う。少し強すぎる気がした。でも、そのままにした。
最後に、海はまだあります、と書いた。
*
手紙を折ったあとも、すぐには寝なかった。机の横に置いてある暦を見る。
十八か月。今日からではない。刑が始まった日から数えるのか。留置されていた日数も入るのか。分からない。今度聞こうと思った。
それでも指で月を追った。一つ。二つ。三つ。六つ。十二。そこからさらに六つ。
暦の端を越える。まだ先だった。
メイは腹へ手を置いた。目を閉じる。身体を巡る流れ。その中に、小さな別の流れ。
「お父さん、遅いって」
言ってみた。何も起きなかった。
「聞こえてないか」
静かだった。
階下でミセス・ハーパーが歩く音がした。ぎし。そのうち止まった。
メイはイーライの手紙をもう一度読んだ。
俺の子でもある。
そこだけ、また読む。そして引き出しには入れなかった。枕元へ置いた。
*
翌日、返事を出しに郵便局へ行った。ノアは手紙を受け取り、宛先を確認した。
「またミダス?」
「今度はサン・クエンティンになるかも」
「もう移ったの?」
「まだだと思う」
「なら今は前と同じ方がいい」
メイは頷いた。
「届く?」
「届くように出すのが俺たちの仕事」
「絶対?」
「絶対って言うと怒られるから言わない」
「誰に?」
「届かなかった人に」
メイは少し笑った。料金を払う。ノアが手紙を仕分ける方へ置いた。
「じゃあね」
メイは帰ろうとした。
「メイ」
初めて、ノアの方から呼び止めた。振り返る。
「何?」
ノアは少し迷ったようだった。
「昨日からちゃんと食べてる?」
メイは眉を寄せた。
「何でみんな私にそれ聞くの?」
「みんな?」
「マギーも」
「じゃあ聞く必要なかったな」
ノアは紙束へ目を戻した。メイはその場に残った。
「食べてるよ」
「そう」
「昨日は肉も食べた」
「偉いね」
「馬鹿にしてる?」
「してない」
しているように聞こえた。メイは睨んだ。ノアは仕事を続けている。
「……ノア」
「何?」
「十八か月後も、ここで働いてる?」
ノアが今度こそ顔を上げた。
「知らないよ」
「そっか」
「でも、明日は多分いる」
メイは少し考えた。
「じゃあ、それでいい」
郵便局を出た。外はいつもと同じだった。人。馬車。荷物。声。
十八か月先のことは何も見えない。明日のことだって分からない。
でも、明日なら少し近かった。
メイは腹へ手を置かず、そのまま歩いた。
翌日、ノアは本当に郵便局にいた。だからといって、メイに用事があるわけではなかった。仕事を終え、帰り道に郵便局の前まで来たところで中を覗くと、ノアは窓口で年嵩の男と話していた。男は同じことを何度も聞いているらしく、ノアは同じ答えを何度も返している。メイは少し見て、そのまま通り過ぎた。昨日、自分で言った。明日なら少し近い。本当に明日が来た。それだけでよかった。
*
数日後、メイはまた郵便局へ寄った。手紙はなかった。「まだ来ない?」「この前出したばかりだろ」「聞いただけ」「聞かれたから答えた」「怒ってる?」「怒ってない」。ノアは机の上の紙を揃えた。
「いつもそんな顔なの?」「どんな顔?」「面倒そうな顔」「仕事中だからね」
メイは窓口へ肘をついた。「仕事じゃない時は?」ノアが顔を上げる。「何?」「違う顔するの?」「するんじゃない?」「見たことない」「そりゃ仕事中にしか会ってないから」「そっか」。メイは納得した。
そのまま立っていると、後ろから人が来た。メイは横へ退く。「じゃあ帰る」「メイ」。また呼び止められた。「何?」「今日、何時に仕事終わる?」「もう終わった」「そう」。ノアは少し考えた。「俺もあと少しで終わる」「うん」「腹減ってる?」
メイは眉を寄せた。「またそれ?」「今日は食べてるか確認してるんじゃない」「じゃあ何?」ノアが一度だけ視線を逸らした。「何か食べない?」メイは黙った。今度はノアが眉を寄せる。「嫌ならいいけど」「何で?」「腹減ったから」「一人で食べれば?」「一人でも食べられる」「じゃあ何で私?」ノアは少し困った顔をした。「そこまで理由いる?」メイは考えた。「……いらないかも」「じゃあ、ちょっと待ってて」「ここで?」「外でもいい」「中は邪魔?」「邪魔」「分かった」。メイは外へ出た。
*
ノアが出てきたのは、それほど後ではなかった。いつも腕まくりしている袖を下ろし、上着を着ている。それだけなのに、少し違う人に見えた。
メイが言った。「本当に違う」「何が?」「仕事じゃない顔」「そんなに違う?」「分からない。今見たところ」「じゃあ何で言ったんだよ」
二人で歩き始めた。ノアが連れていったのは、港から少し離れた食堂だった。大きくはない。中には仕事帰りらしい男たちが何人かいて、皿と匙の音がしていた。豪華な店ではなかった。それがよかった。
席へ座る。ノアが言った。「何食べる?」「安いの」「それは俺も」「奢らないの?」ノアがメイを見る。「奢ってほしい?」「別に」「じゃあ自分で払って」「うん」。話は早かった。
メイは肉と豆の煮込みを頼んだ。ノアは別の煮込みとパンを頼んだ。料理が来るまで、少し沈黙した。郵便局では、いつも窓口が間にある。今はない。それが妙だった。
ノアが先に言った。「何?」「何が?」「さっきから見てる」「窓口がないなと思って」「食堂だからね」「知ってる」「ならいいけど」
料理が来た。メイは匙を入れ、一口食べた。温かい。二口目を食べる。ノアが見ている。「何?」「ちゃんと食べるんだな」「失礼ね」「いつもマギーって人に怒られてるって言うから」「今日はお金払ってるから食べる」「払わない時も食べなよ」「最近みんな同じこと言う」
ノアが笑った。初めて見た。郵便局で口元が緩むことはあった。でも、声を出して笑うのは初めてだった。「何?」「いや」「何よ」「本当に周りから心配されてるんだなと思って」「余計なお世話」。そう言いながら、メイも少し笑った。
*
食べながら、たいしたことのない話をした。郵便局には、一日に何度も同じ手紙が届いていないか聞きに来る人がいること。「私じゃない」「君とは言ってない」「でも見た」「心当たりがあるんだろ」。
ほかにも、宛先を書き忘れて手紙を出そうとする人。自分の名前を書かず、返事が来ないと怒る人。封筒の中に金を入れすぎて、途中でなくなったと騒ぐ人。
「郵便局って大変ね」「今さら?」「手紙渡してるだけだと思ってた」「その手紙を渡すのが大変なんだよ」
今度はメイがセントルイスのことを話した。実家が宿屋だったこと。客の食事を運んだこと。馬の世話もしたこと。妹のルーシーが、何でも聞きたがること。
「何歳?」「九つ」「じゃあ、君よりしっかりしてそう」「何で?」「姉がこんなだから」
メイはパンを投げようとしてやめた。食べ物だった。「今、投げようとした?」「してない」「しただろ」「パンがもったいないからやめた」「やっぱりしたんじゃないか」
メイは笑った。今度は、声が出た。笑ってから、自分で少し驚いた。山を出てから笑わなかったわけではない。マギーにも、クララにも、ノアにも、何度か笑った。けれど、何も考えずに笑ったのは久しぶりだった。
笑ったあとで、胸の奥に何かが引っかかった。イーライは、今どこにいるのだろう。もうサン・クエンティンへ送られたのか。冷たい部屋なのか。何を食べているのか。自分はその間、別の男と暖かい食事をして笑っている。
匙が少し止まった。ノアが気づいた。「どうした?」「……別に」「急に静かになった」
メイは煮込みを見る。「笑ってていいのかなって思った」。ノアはすぐには答えなかった。「何で?」メイは顔を上げる。「大事な人が、今あんまりいいところにいないから」
ノアは少し考えた。「笑ったら、その人がもっと悪いところに行くの?」「行かない」「じゃあいいんじゃない」
あまりに簡単だった。メイは眉を寄せる。「それだけ?」「他に何かある?」「もっと、何か言うでしょう」「例えば?」「知らない」「俺も知らない」
メイはまた少し笑った。「適当」「聞かれたから答えただけ」。いつもの言い方だった。それがよかった。
*
食事を終え、それぞれ自分の分を払った。外へ出ると、もう暗くなり始めていた。二人で少しだけ同じ道を歩いた。
夜のサンフランシスコは、昼とは違う音がした。酒場から音楽。馬車の車輪。誰かの笑い声。遠くで犬。窓から漏れる灯り。
メイは歩きながら言った。「ノアは、ずっとここにいるの?」「サンフランシスコ?」「うん」「分からない」「またそれ」「未来のことなんだから分からないだろ」
その言葉で、メイは少し黙った。ノアは続ける。「別の町へ行くかもしれないし、郵便局辞めるかもしれないし、そのままかもしれない」「決めてないの?」「決めなくても明日は来るから」
メイは横を見る。「それ、いいね」「何が?」「決めなくても明日は来る」「普通のことだろ」「そうかも」
しばらく歩いた。ノアと一緒にいると、変なことが起きなかった。水の中へ引き込まれない。金色の何かも見えない。銃声もない。誰も追ってこない。飯を食べて、話して、歩くだけだった。
ふと、こんな日が続くこともあるのかもしれない、と思った。朝起きる。働く。夕方、誰かと食べる。帰る。また翌日。子どもが生まれる。大きくなる。自分も年を取る。
ノアがいるかもしれない。いないかもしれない。イーライかもしれない。一人かもしれない。その中の一つとして、ノアと並んで歩く未来も、確かに想像できた。
その瞬間、鼻の奥へ意識を向ければいい、と思った。簡単だった。この先を考える。ノアといる未来。そこに甘い匂いがあるのか。腐った匂いがあるのか。何もないのか。確かめられる。
メイは歩きながら、息を吸った。冷たい夜の空気が入る。馬の匂い。煙。焼いた肉。湿った木。それだけだった。それ以上は、探さなかった。
ノアが言った。「どうした?」「何が?」「急に鼻押さえて」
メイはいつの間にか指を鼻の下へ置いていた。手を下ろす。「何でもない」「変なの」「うん」
少し考えてから言った。「分からないままでいいや」「何の話?」「こっちの話」。ノアは追及しなかった。
*
道が分かれるところで止まった。「じゃあ俺こっち」「私はこっち」「分かってる?」「何が?」「家までの道」
メイはむっとした。「もう住んで何週間になると思ってるの」「最初、海まで行ってから寝る場所なくしてた人だから」「何で知ってるの?」「前に話した」「言ったっけ」「言った」「忘れた」「じゃあ気をつけて帰って」
ノアは歩き出した。メイも反対へ向かう。数歩進んでから振り返った。ノアはもうこちらを見ていなかった。普通に歩いている。メイも前へ向き直った。
鼻の奥には、何の匂いも残っていなかった。自分で確かめなかったからだ。それでよかった。
*
部屋へ戻る。階段を上る。ぎい。ぎい。扉を閉める。
机の上には、イーライから届いた手紙が置いてあった。枕元から移したものだった。メイは椅子へ座り、封筒を手に取る。
俺の子でもある。
また、その一文を読む。
今夜、別の男と食事をした。
そう書くべきだろうか。少し考えた。書く必要はない気がした。隠したいわけではない。ただ、食事をした。笑った。それだけだった。
メイは手紙を戻した。腹へ手を置く。目を閉じる。小さな力の流れが見える。
「今日、いっぱい食べたよ」
しばらく待つ。何も起きない。
「肉も」
やはり何もない。
メイは笑った。「聞いてないね」
窓の外では、向かいの家の灯りが一つ消えた。
十八か月先は分からない。ノアとどうなるのかも。イーライとどうなるのかも。子どもがどんな顔で生まれるのかも。分からない。
メイはそれを確かめなかった。机の上の針を取り、続きを縫い始めた。
明日になれば、また分かることが一つくらい増える。それで十分だった。
サンフランシスコへ来てから、二か月ほどが過ぎた。海を見たあの日には、腹の中にある小さな力の流れが何なのかさえ分からなかった。エスターに子どもだと確かめてもらってからも、もうひと月以上になる。
その間に、季節も少し進んだ。朝の冷たさは残っていたが、日が沈むのは以前より遅くなった。窓際で針を使える時間も長くなった。
メイの暮らしも形を変えずに続いていた。朝起きる。階段を下りる。食べる。セント・マーサへ行く。縫う。郵便局へ寄る。買い物をして帰る。同じことを繰り返しているうちに、身体だけがはっきり変わっていった。
最初に気づいたのは服だった。いつものスカートを履こうとして、腰のところで少し引っかかった。メイは息を吸い、腹を引っ込めようとした。
引っ込まない。
「……何で」
当然だった。腹を押さえる。前より丸い。
鏡の前へ横向きに立ってみる。服の上からでも、よく見れば分かる。メイは身体を反対へ向けた。やっぱり同じだった。
「増えた」
腹へ言った。返事はない。
目を閉じる。身体を巡る力の流れ。その内側にある、小さな流れ。最初に海辺で見た頃とはもう違う。細い糸のようだったものが、今ははっきり一つの流れとして見えた。
まだ小さい。けれど、そこにいる。
「そりゃ増えるか」
メイは諦めた。その日、スカートの留め方を少し変えた。
*
さらに二週間ほどすると、階段でも変化が出た。階段そのものは何も変わっていない。
一段目。
ぎい。
二段目。
ぎい。
以前なら、そのまま上まで行った。今は途中で一度止まる。
「……ふう」
手すりへ手を置く。息を整える。それからまた上る。
一階からミセス・ハーパーが言った。
「年寄りみたいだね」
メイが振り返る。
「誰が?」
「あんた」
「お腹に一人入れて上ってみれば」
「私はもうやったよ」
「何回?」
「三回」
メイは黙った。ミセス・ハーパーが勝った顔をした。
「早く上がりな。そこで止まってると邪魔だよ」
「今上がってる」
「止まってるじゃないか」
メイは手すりを握り直した。残りを上る。
ぎい。
ぎい。
部屋へ着いた頃には少し息が切れていた。前はそんなことはなかった。嫌だった。
だから次の日は一度も止まらず上った。部屋へ入ったところで、しばらく扉にもたれた。
もっと嫌だった。
それからは途中で止まることにした。
*
月が変わる頃には、セント・マーサの机でも座り方が変わっていた。腹が前へ出てきたので、以前と同じ位置まで椅子を寄せられない。
メイが椅子を引く。クララが見る。
「遠くない?」
「これでいい」
「腕疲れるわよ」
「腹が当たる」
クララが腹を見る。
「ああ」
「何、その顔」
「大きくなったなと思って」
メイも見る。
「毎日見てるから分からない」
「こっちも毎日見てるけど分かるわよ」
「じゃあ私より見てるんじゃない?」
「何をどうしたらそうなるのよ」
クララは呆れた。メイは布を引き寄せた。
この頃には、子どものことを隠す必要もなくなっていた。最初にエスターへ相談した頃なら、服を着てしまえば誰にも分からなかった。今は違う。
救護会へ出入りする女たちは、大抵一目で気づいた。誰かに腹を見られる。そのたび、メイは少し身構えた。
しかし誰も父親のことを聞かなかった。聞いてくる者がいても、マギーが近くにいると、
「他人の腹より自分の用事を見な」
と追い払った。
ありがたかった。同時に、少し困った。誰にも聞かれないと、自分から言う機会もなくなる。
セントルイスには、まだ何も知らせていなかった。サンフランシスコへ着いてから、すでに二度手紙を送っている。
仕事のこと。部屋のこと。海のこと。全部本当だった。ただ、一番大きなことだけを書いていなかった。
*
その夜、メイは机の前に紙を置いた。宛先は家だった。
父。母。ルーシー。
前にも何度か手紙を送っている。元気だと書いた。仕事をしていると書いた。一人で部屋を借りたと書いた。
今回も同じことなら、すぐに書ける。けれど、それではもう足りなかった。
メイはペンを持った。
母さんへ。
そこまで書いた。やめる。
新しい紙を出す。
父さん、母さん、ルーシーへ。
今度はそのまま続けた。
元気です。
仕事も続けています。
部屋も同じです。
また止まった。
腹へ手を置く。もう服の上からでも分かる。隠せるものではない。
紙へ戻る。
子どもができます。
書いた。
メイはそれを見た。急に文字だけが大きく見えた。
もう一度読む。
子どもができます。
間違っていない。消さなかった。
次の行へ移る。
父親は――
そこで手が止まった。インクの先が紙へ触れたまま、小さな点が広がった。
父親は、
イーライです。
それだけなら簡単だった。
けれど、その次は。
どこにいるの?
そう聞かれる。
サン・クエンティン。
なぜ?
人を撃ったから。
誰を?
メイを追ってきた男。
なぜ追われたの?
金を見つけたから。
どうして?
髪が金色になったから。
どうして?
そこから先は、もう何を書けばいいのか分からなかった。
水の中の少女。金色の菌糸。甘い匂い。山。赤い角。銃声。ネッド。
全部つながっている。一つだけ説明することができない。
メイはペンを置いた。
「無理」
腹へ言った。もちろん返事はない。
紙を見る。
子どもができます。
父親は――
そこで終わっている。
破ろうとした。端を持つ。少しだけ力を入れる。やめた。
折る。引き出しを開ける。赤い星の刺繍が見えた。アビーからもらった袋。
その横へ手紙を入れた。引き出しを閉じる。
「また今度」
誰に言ったのか分からなかった。
*
それからまた数週間が過ぎた。腹が大きくなるにつれて、メイは逆に仕事を増やした。
クララが渡す量では足りない時は、自分から聞いた。
「他にある?」
「あるけど」
「ちょうだい」
「今日の分終わってるでしょう」
「まだできる」
「明日にしなさい」
「明日もできる」
「じゃあ明日やればいいでしょう」
「今日もできる」
クララはメイを見る。
「何か買いたいものでもあるの?」
「別に」
本当は、あった。
赤ん坊のもの。何が必要なのかも、まだよく分かっていない。
布。毛布。服。寝る場所。食べ物。
それから、出産のあとしばらく働けないかもしれない。家賃は待ってくれない。食べ物も必要になる。
十八か月は長い。イーライが出てくるまで、自分で何とかしなければならない。だから金はあった方がいい。
「もう一本だけ」
メイが言った。
クララはズボンを一本出した。
「これで最後」
「分かった」
「本当に最後よ」
「うん」
「明日持ってきてもいいから」
「今日やる」
クララがため息をついた。
*
その日の昼は、パンを半分食べた。残りはあとで食べるつもりだった。
あとで。
そう思って、机の隅へ置いた。
仕事を一つ終える。次。その次。
気づけばパンはそのままだった。マギーが近くを通った時、布で隠した。
自分でも、なぜ隠したのか分からなかった。見つかったら怒られるからだろう。
夕方になった。立ち上がる。
その瞬間、床が傾いた。
「……あれ」
机へ手をつこうとした。手が届かなかった。
視界の端が黒くなる。誰かが名前を呼んだ。遠かった。
次に何が起きたのか、メイは覚えていなかった。
*
目を開けると、天井があった。見覚えがある。セント・マーサの奥の部屋。
寝台に横になっていた。
「起きたかい」
マギーの声。
顔を向ける。椅子に座っている。腕を組んでいた。
怒っている。すぐ分かった。
「……何?」
「何、じゃないよ」
メイは身体を起こそうとした。
「寝てな」
「平気」
「寝てな」
「でも仕事――」
「寝てな」
三回目だった。
メイは諦めて頭を戻した。腹へ手を置く。すぐに目を閉じる。
身体を巡る力の流れ。その中。小さな流れ。
ある。消えていない。
少し息を吐いた。
マギーが見ている。
「子どもは?」
「エスターに見てもらった。今のところおかしなところはないってさ」
その言葉で、身体から力が抜けた。
「そっか」
「そっか、じゃない」
また怒っている。
「ただ立ちくらみしただけでしょう」
「倒れたんだよ」
「同じようなもの」
「違う」
「頭も打ってないし」
「そういう話じゃない」
メイは顔を横へ向けた。
「ちゃんと食べてる」
マギーが黙る。嫌な沈黙だった。
「……何?」
「今日の昼は?」
メイは答えなかった。
「メイ」
「パン」
「どれだけ」
「半分」
「残りは?」
「あとで食べるつもりだった」
「朝は?」
「食べた」
「何を?」
「パン」
「それだけ?」
メイは黙った。
マギーが長く息を吐いた。
「何度言えば分かるんだい」
「分かってる」
「分かってない」
「分かってるよ」
「だったら何で食べない」
メイは少し腹が立った。
「お金がいるの」
「だから?」
「子どもが生まれたら働けないかもしれない。部屋代もいる。食べ物もいる。服もいる。何がいるか分からないけど、何かはいるでしょう」
声が大きくなった。
「イーライはいない。十八か月も。だったら今のうちに働かなきゃ――」
「それで倒れたら?」
メイは止まった。
「今日は倒れただけで済んだ」
マギーは腕を組んだままだった。
「階段で倒れたら?」
「……」
「道で倒れたら?」
「……」
「腹を打ったら?」
メイの手が腹へ動いた。
マギーの声が少し低くなった。
「平気だって言うんだろうね、あんたは」
「今は平気」
「そうじゃない」
マギーはメイの腹を見た。
「あんたが平気なら、それで済む身体じゃないんだよ」
メイは何も言えなかった。
「今のあんたは一人分じゃない」
部屋が静かになった。
廊下の向こうで誰かが歩いている。食器の触れる音。子どもの声。いつものセント・マーサだった。
メイは腹へ手を置いたまま目を閉じた。
小さな力の流れがある。自分の中に。でも、自分ではない。
知っていた。ずっと見えていた。産婆にも言われた。食べろとも、休めとも言われた。
それでも、どこかでまだ、自分が無理をするだけなら構わない、と思っていた。
セントルイスを出た時も。山を歩いた時も。銃を向けられた時も。
自分の身体なら、自分で使えばよかった。痛ければ自分が痛い。腹が減れば自分が減る。倒れれば自分が倒れる。
今は違う。
メイは腹を撫でた。
「……ごめん」
マギーが聞いた。
「私に?」
「違う」
「ならいい」
メイは少しだけ笑った。
*
エスターがもう一度来た。脈を見た。腹へ手を当てた。いくつか聞かれた。
出血はない。強い痛みもない。
「働くなとは言わない」
エスターは言った。
「でも、倒れるまで働くな」
「どこまでならいい?」
「倒れる手前」
「分からない」
「ならもっと手前でやめな」
メイは顔をしかめた。
「適当」
「身体ってのは、大抵そんなもんだよ」
エスターは立ち上がった。
「腹が空く前に食べる。疲れ切る前に休む。重い物は持たない」
「縫い物は?」
「やっていい」
「よかった」
「ただし」
メイが嫌な顔をする。
「何?」
「夜中までやらない」
「見てないでしょう」
「マギーに言っとく」
「何で」
「見てもらうため」
「部屋まで来ないよ」
「ならミセス・ハーパーに」
「やめて」
エスターが笑った。
「嫌なら自分で加減しな」
メイは黙った。それしかなかった。
*
その日の仕事は取り上げられた。本当に取り上げられた。
クララが、メイの机に残っていた服を全部別の女へ渡した。
「私の」
「違う。持ち主の」
「私が直す予定だった」
「予定が変わった」
「明日やる」
「明日来てから言って」
メイは不満だった。
だが、マギーが食事を持ってきた。
煮込み。パン。卵。
量が多い。
「これ全部?」
「食べな」
「多くない?」
「二倍食えとは言わない。でも半分で済ませるな」
メイは匙を取った。一口。二口。
途中で腹がいっぱいになった。皿を見る。まだ残っている。
マギーが遠くから見ていた。目が合う。
メイはまた匙を動かした。
「見張らないで」
「見てないよ」
「見てる」
「偶然そっちに目があるだけだ」
「ずっと?」
「ずっと」
メイはため息をついた。それでも食べた。
全部は無理だった。残った分は包んでもらった。今度は隠さなかった。
*
夕方、ゆっくり帰った。郵便局の前を通った。
中を見る。ノアがいた。目が合った。
手紙がないことを示すように、首を振る。メイも頷いた。
今日は入らなかった。
部屋へ戻る。
階段。
ぎい。
一段。
ぎい。
二段。
途中で止まった。
以前なら、無理にでもそのまま上った。今日は手すりを握り、呼吸が落ち着くまで待った。
「……別に負けじゃないし」
誰も聞いていない。
一階からミセス・ハーパーが言った。
「何が?」
「何でもない」
「なら早く上がりな」
「今休んでるの」
「珍しいね」
メイは少し笑った。
「私もそう思う」
息が戻った。それから残りを上った。
*
部屋へ入り、机の引き出しを開けた。昼間のこととは関係なく、そこに入れていた手紙が目に入った。
子どもができます。
父親は――
メイは取り出さなかった。今日はまだ書けない。
でも、いつかは書かなければならない。
腹へ手を置く。目を閉じる。
小さな力の流れがある。昼間と同じように動いている。
「今日はごめん」
少し待つ。返事はない。
「明日は食べる」
また待つ。
「多分」
言ってから、首を振った。
「……食べる」
今度は言い直した。
窓際の机に座る。針へ手を伸ばしかける。止める。
今日はやめた。
寝台へ横になる。まだ外は明るかった。
こんな時間に横になるのは、少し落ち着かなかった。
天井を見る。
仕事をしていない。金も増えない。何も進んでいないように思える。
それでも腹の奥では、小さな力の流れが動いている。
二か月前には、何なのかさえ分からなかったものだった。
今は、メイが休んでいる間にも大きくなっている。
何もしなくても、そちらは少しずつ先へ進んでいる。
メイは腹へ手を置いたまま目を閉じた。
初めて、休むことも、この子のためにすることの一つなのかもしれない、と思った。
メイがセント・マーサで倒れてから、さらにひと月ほどが過ぎた。サンフランシスコへ来てからなら、四か月近い。海辺で初めて腹の中の小さな力の流れに気づいた頃と比べれば、身体はもう明らかに違っていた。腹は、隠そうとしても隠れない。歩けば少し遅れる。椅子から立つ時には、机へ手をつくことが増えた。階段も途中で休む。ぎい、ぎい、と音を立てて止まり、息を整えてからまた上る。もう、それを負けだとは思わなくなった。少なくとも、口には出さなくなった。
食事も変わった。昼になると食べる。腹が減っていなくても、少し口へ入れる。仕事を持ち帰る日は減らした。夜遅くなれば針を置いた。全部、以前のメイなら嫌がったことだった。けれど倒れた日のことを思い出せば、仕方がなかった。自分が倒れるだけならよかった。今は違う。そのことだけは、もう忘れなかった。
*
その頃、セント・マーサへよく顔を出す親子がいた。母親はサラ・モリス。二十代半ばの細身の女で、洗濯や針仕事がある時に救護会から仕事を受けていた。夫は港の仕事で家を空けることが多く、働き口が途切れる時期には食事の世話になることもあるらしい。
息子はトミー。六つか七つ。メイには、最初どちらなのか分からなかった。本人に聞いた。
「何歳?」
「七つ」
サラがすぐ言った。
「まだ六つ」
トミーが母親を見る。
「もうすぐ七つ」
「まだ六つ」
「七つみたいなもの」
「違います」
メイは少し考えた。
「じゃあ六つ」
「ほら」
サラが言った。
トミーは不満そうだった。その数分後には、年齢のことなど忘れて走り回っていた。
じっとしていない子だった。机の下へ入る。椅子の間を通る。床へ落ちた糸巻きを拾う。拾うだけならいい。転がす。追いかける。また転がす。
クララが怒る。
「トミー!」
「拾ってる!」
「増やしてるでしょう!」
メイは笑いながら糸巻きを一つ捕まえた。
「これ、遊ぶものじゃないよ」
「何で?」
「仕事に使うから」
「遊んだあと使えばいいじゃん」
メイは一瞬考えた。
「……確かに」
「納得しないで」
クララが言った。
サラがトミーの襟首を掴んだ。
「こっち来なさい」
「苦しい」
「逃げるからでしょう」
引きずられていく。メイはそれを見ていた。
子どもというものは、もう少し静かなものだと思っていた。ルーシーも小さい頃は騒がしかったはずだ。けれど自分も子どもだったから、よく覚えていない。
腹へ手を置く。
これも、ああなるのだろうか。
少し不安になった。
*
数日後、トミーはメイの金色の髪を見ていた。ずっと見ている。気づいていたが、メイは無視した。まだ見ている。針を刺す。引く。まだ見ている。
「何?」
ついに聞いた。
トミーが言った。
「本物?」
「何が?」
「髪」
「生えてるから本物でしょう」
「触っていい?」
「駄目」
即答した。
「何で?」
「嫌だから」
「ちょっとだけ」
「駄目」
「一本」
「抜く気?」
「抜かない」
トミーが手を伸ばす。メイは身体を引いた。
サラの声が飛んだ。
「トミー!」
手が止まる。
「人の髪に勝手に触らない!」
「まだ触ってない」
「触ろうとしたでしょう」
「聞いた」
「駄目って言われたでしょう」
トミーは渋々手を下ろした。メイは髪を肩の後ろへ払った。
少しして、トミーが尋ねた。
「生まれた時から金色?」
メイは針を止めた。
「違う」
「前は何色?」
「赤っぽい茶色」
「何で金になったの?」
サラが困った顔をした。
「トミー」
メイは少し考えた。
「金を探しすぎたから」
トミーの目が大きくなった。
「金をいっぱい触ったらなるの?」
「なるかもね」
「ならないでしょう」
サラが言った。
「ならないの?」
トミーがメイを見る。
「多分」
「どっち?」
「自分で試したら?」
「メイ」
サラが苦笑した。
メイも笑った。トミーは本気で考えている。
こういう顔をするのか。子どもは。
腹の中にいるものが、急に少しだけ具体的になった。小さな手。質問。走る足。どうして。何で。何で。何で。
考えただけで、少し疲れた。
*
イーライからの手紙も続いていた。サン・クエンティンへ移ってから、届く間隔は以前より長くなった。手紙を出しても、返事が来るまで何週間もかかる。だから二人の話は、いつも少しずれていた。
メイが「腹が大きくなってきた」と書いた頃には、イーライから「まだ外からは分からないか」と書かれた手紙が届く。メイが「もう分かる」と返した頃には、「名前を考えたか」と聞かれる。
メイは「まだ」と書いた。次の紙で、「そっちは?」と聞いた。
返事が来たのは、それから二週間以上あとだった。
「考えたけど、どれも変だった」
と書いてあった。
メイは笑った。その下には、
「男でも女でもいい。元気ならいい」
とあった。
そこを読んでから、しばらく紙を見た。
元気ならいい。
簡単な言葉だった。それ以上、何がいるのだろう。メイもそう思った。
その時は。
*
さらに二週間ほど経った夜だった。腹の中で、何かが動いた。
メイは針を止めた。じっとする。何もない。
「……今の何?」
腹へ手を置く。しばらく待つ。動かない。
気のせいかと思い、針を持ち直した。その瞬間、内側から、とん、と動いた。
メイの身体が固まった。
「……え」
腹を見る。
もう一度。
とん。
今度は手の下だった。
「え?」
立ち上がった。立ってどうするのかは分からない。腹を両手で押さえる。
「今、動いた?」
誰もいない。
「動いたよね?」
当然、返事もない。
目を閉じる。身体を巡る力の流れ。その中に、もう一つ。以前よりずっと太く、はっきりしている。その流れが、動いた。
メイは笑った。
「いる」
知っていた。何か月も前から知っている。エスターにも言われた。腹も大きくなった。
それでも、動いた。
そのことだけで、今までとは違った。
「いるんだ」
もう一度言った。
次は動かなかった。
「今のもう一回」
待つ。何もない。
「ねえ」
腹を少し撫でる。
「もう一回」
動かない。
「さっきやったでしょう」
要求しても仕方がない。それでも待った。
結局、その夜はもう動かなかった。
*
メイはすぐに紙を出した。イーライへ。そう書く。その下に、「動いた」と書いた。
止まる。
それだけで十分な気がした。でも、もう少し書く。
「今日、初めて動きました。二回。そのあと何度待っても動きませんでした。呼んでも駄目でした」
ここまで書いて、自分でおかしくなった。まだ名前もないのに呼んだ。何と呼んだのかすら分からない。
さらに書いた。
「多分、言うことを聞かない子です。あなたに似たのかもしれません」
少し考え、
「私かもしれないけど」
と付け足した。
手紙を折る。明日、郵便局へ持っていこう。机の上へ置く。寝台へ入る。灯りを消す。
暗い中で腹へ手を置いた。
待つ。
何もない。
「寝たの?」
それも分からない。
メイも目を閉じた。
*
翌朝、郵便局へ行った。ノアへ手紙を差し出す。
「急ぎ?」
「すごく」
ノアが封筒を見る。
「普通の手紙だけど」
「急ぎなの」
「料金払っても、馬が速くなるわけじゃないよ」
「分かってる」
「何があった?」
メイは言いかけて止まった。ノアを見る。
「動いた」
「何が?」
メイは腹を指した。ノアの目がそこへ移る。
「ああ」
「ああ、だけ?」
「他に何て言えばいい?」
「すごい、とか」
「すごいね」
「今言っても遅い」
ノアが少し笑った。
「いつ?」
「昨日の夜」
「初めて?」
「うん」
「じゃあ、すごいね」
今度はメイも満足した。
ノアが手紙を仕分ける方へ置く。
「届けばいいね」
「届くよ」
「今日は自信あるな」
「届いてもらわないと困るから」
「それで届くなら仕事が楽なんだけど」
メイは腹を撫でた。昨日から、何度もそうしている。
ノアが気づいた。
「また動いた?」
「まだ」
「じゃあ何で触ってるの?」
メイは考えた。
「いるから」
答えてから、自分で少し驚いた。
ノアは何も言わなかった。
*
トミーと会う回数も増えた。サラが仕事をしている間、救護会の中にいることが多かったからだ。
ある日、メイが床へ落とした布を拾おうとすると、先にトミーが拾った。
「はい」
差し出す。
「ありがとう」
受け取る。
「もう拾えないの?」
「拾える」
「遅かった」
「お腹が邪魔なの」
トミーが腹を見る。
「いつ出る?」
「知らない」
「知らないの?」
「大体は分かる」
「いつ?」
メイは指を折った。
「あと、何か月か」
「長い」
「私もそう思う」
トミーは腹へ近づいた。
「聞こえる?」
「何が?」
「赤ちゃん」
「耳当てても多分聞こえないよ」
「動くんでしょう?」
「たまに」
「触っていい?」
今度はメイが少し迷った。髪の時とは違った。
「勝手に押さないなら」
トミーは頷いた。
メイが腹の横を指す。
「ここ」
小さな手が服の上へ乗った。左手ではない。ただの子どもの手。
待つ。
何もない。
トミーが言う。
「いない」
「いるよ」
「動かない」
「いつも動くわけじゃない」
「呼んで」
「何て?」
「名前」
「まだない」
トミーが呆れたようにメイを見る。
「名前ないの?」
「考えてる途中」
「遅い」
「じゃあ考えてよ」
「いいよ」
トミーは即答した。
サラが遠くから言った。
「やめなさい。変な名前つけるから」
「変じゃない!」
「この前、犬に『パン』ってつけようとしたでしょう」
「パン好きだから」
メイが吹き出した。
「パンでもいいかも」
「駄目です」
サラが強く言った。
その時、とん、と腹の中が動いた。トミーの手の下だった。
目が丸くなる。
「動いた!」
声が大きかった。部屋中が振り返る。
「動いた!」
もう一度言う。
メイも笑った。
「うん」
「今、蹴った?」
「多分」
「俺に?」
「知らない」
「もう一回!」
「私に言わないでよ」
トミーは腹へ向かって言った。
「もう一回!」
動かない。
「寝た?」
「多分」
「すぐ寝るね」
「子どもだからね」
言ってから、メイは少し止まった。
子ども。
腹の中のものを、初めて自然にそう呼んだ気がした。
*
その夜、イーライから届いた古い手紙を読み返した。
「生まれたら抱いてみたい」
そう書いてある。
次の行。
「俺が抱いたら泣くかもしれない」
その次。
「その時はお前に返す」
メイは笑った。
さらに読む。
「歩けるようになったら外へ連れていきたい。山はしばらくいい。できれば平らなところがいい。海も見たい」
また海だった。
メイは手紙を机へ置いた。腹へ手を置く。
今日は何度か動いた。
子どもが生まれる。イーライが出てくる。三人で海を見る。
そんな景色が頭へ浮かんだ。
鼻の奥へ意識を向ければ、その未来がどうなるのか確かめられる。甘いかもしれない。嫌な匂いかもしれない。
メイは何もしなかった。第八節の夜と同じだった。
未来は未来のままでいい。
今は、今日動いたことだけでよかった。
*
数日後、トミーがまたセント・マーサへ来た。入ってくるなりメイのところへ走ってくる。
「今日動く?」
「知らない」
「触っていい?」
「手、洗った?」
トミーが止まった。自分の手を見る。汚れている。
「洗ってくる」
走っていく。
サラが後ろから、
「走らない!」
と怒鳴った。
メイは笑った。腹を撫でる。
少し前まで、この子が無事に生まれることだけを考えていた。今は、その先が少し見える。
走るのだろうか。転ぶ。服を破る。質問する。飯を残す。怒られる。大きくなる。いつか、自分より背が高くなるかもしれない。
メイは窓の外を見た。日差しは、サンフランシスコへ来た頃より高くなっていた。季節は確実に進んでいた。腹の中の子どもも進んでいる。イーライの十八か月も、一日ずつ減っている。
止まっているものは何もなかった。
メイは針を持った。
そこへトミーが戻ってきた。両手を濡らしたまま。
「洗った!」
「拭いてきて」
「何で!」
「服が濡れるでしょう」
また走っていく。
「走るなって言ったでしょう!」
サラの声が飛んだ。
メイは声を出して笑った。
それから、さらにひと月半ほどが過ぎた。サンフランシスコへ来てから、五か月を越えていた。
エスターに言わせれば、子どもが生まれるまで、もうそれほど長くはない。
「あとひと月か、ふた月か」
そう言われた時、メイは顔をしかめた。
「ずいぶん幅あるね」
「子どもに暦を見せたって、その日に出てくるとは限らないよ」
「困る」
「何が?」
「予定が立たない」
エスターは笑った。
「出産ってのは、そういうものさ」
腹はもう大きかった。上から見れば、足元が少し隠れる。落とした物を拾う時には、一度考えるようになった。自分で拾うか。誰かを呼ぶか。前なら考えることすらなかった。
階段も、ぎい、ぎい、と上る途中で止まる。呼吸を整え、それからまた上る。初めは嫌だったその時間も、今では一日の中に組み込まれていた。
腹の子もよく動いた。朝。夜。食べたあと。縫い物をしている時。ときどき肋骨の下を押され、メイは顔をしかめた。
「そこ痛い」
言ってもやめない。
「聞いてる?」
また動く。
「絶対、私に似てない」
ミセス・ハーパーが階下から言った。
「誰に似たんだい?」
「聞いてたの?」
「声が大きいんだよ」
*
海へ行くことも増えていた。毎日ではない。仕事のない午後や、早く終わった日に、ゆっくり西へ歩いた。
以前なら町から海まで一気に歩いた。今は途中で休んだ。腰を下ろせる場所があれば座る。水を飲む。また歩く。時間はかかった。それでも行った。
最初に海を見た時には、イーライとの約束を果たすためだった。一人で見たことが悲しかった。何も答えてくれない海に腹を立てた。
今は違った。
メイは砂の上に座り、腹を撫でた。
「海」
波が来る。
「見えないでしょうけど」
引く。
「すごく大きいよ」
また来る。
「お父さんもまだ見てない」
腹の中が動いた。
メイは笑った。
「そこ反応する?」
波が白く崩れた。
以前と何も変わっていない。何もくれない。何も教えない。慰めもしない。ただ、そこにある。
それが前ほど嫌ではなくなっていた。
*
ある日、セント・マーサでトミーが尋ねた。
「今日も海行く?」
メイは顔を上げた。
「何で知ってるの?」
「前に言ってた」
「今日とは言ってない」
「行く?」
「多分」
「俺も行く」
サラがすぐに言った。
「駄目です」
「何で!」
「メイを困らせないの」
「困らないよ」
メイが言うと、サラがこちらを見る。
「本当に?」
「歩くの遅いけど」
「俺、待てる」
トミーが胸を張る。
サラは息子を見る。
「昨日も市場で勝手に先へ行ったでしょう」
「戻った」
「戻ればいいって話じゃないの」
「海では行かない」
「信用できません」
結局、サラも一緒に来ることになった。
その話を郵便局でしたところ、
「俺も行こうかな」
とノアが言った。
メイは窓口を見る。
「仕事は?」
「休みの日があるんだよ、俺にも」
「郵便局なのに?」
「郵便局員は人間じゃないと思ってる?」
「少し」
「失礼だな」
その数日後、四人で海へ向かった。
*
メイは途中で二度休んだ。一度目はトミーが文句を言った。
「まだ?」
サラが頭を叩いた。軽くだった。
「先に行きたいなら一人で帰りなさい」
「海なのに?」
「じゃあ待ちなさい」
二度目には、トミーも何も言わなかった。代わりに道端の石を蹴っていた。
ノアはメイの横へ立った。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「それ、信用していい方?」
「今日はいい方」
「違いが分からない」
「私には分かる」
息が戻る。メイは立ち上がった。
「行こう」
歩き出す。ノアは何も言わず、その速度に合わせた。
*
砂地を越えると、海が見えた。トミーが走った。
「海!」
サラがすぐ叫ぶ。
「走らない!」
トミーは止まらない。
「トミー!」
今度は止まった。振り返る。
「まだ水入ってない!」
「入る入らないの話じゃない!」
メイは笑った。
初めて海を見た日の自分を少し思い出した。自分も最後は走った。砂に足を取られながら。
ただ、あの時とは違う。
今日は一人ではなかった。サラがいる。トミーがいる。ノアがいる。腹の中にも一人いる。
五人なのかもしれない。
そう思った。
*
波打ち際まで行くと、トミーはすぐ靴を脱ごうとした。サラが止めた。
「今日は見るだけ」
「何で!」
「水が冷たいから」
「ちょっとだけ!」
「駄目」
「足だけ」
「駄目」
「指だけ」
「何の指を入れる気なの」
ノアが吹き出した。メイも笑う。
トミーは不満そうに砂を蹴った。その砂がメイの裾にかかった。
「ちょっと」
「あ」
「あ、じゃない」
「ごめん」
トミーは逃げた。
「逃げるな!」
メイは追おうとして、一歩でやめた。腹を見る。
「……無理」
ノアが言った。
「気づくの遅くない?」
「前なら捕まえた」
「今は無理だね」
「生まれたら捕まえる」
「覚えとくよ」
*
しばらくして、トミーは波の近くへ行った。水には入らない。でも、波が来ると逃げる。引くと追う。来る。逃げる。引く。追う。それを何度も繰り返した。
サラが言った。
「そこまで!」
トミーが振り返る。
「まだ何もしてない!」
「何かしてからじゃ遅いでしょう!」
メイは二人を見ながら、砂へ杖を立てた。
波を見る。目を凝らす。
水の中には流れがある。岸へ向かうもの。横へ走るもの。沖へ抜けるもの。一見同じように寄せてくる波の下で、いくつもの流れが重なっている。
昔より、はっきり分かる。
トミーのいる辺りを見る。
「そこ、もう少し右」
トミーが振り返る。
「何で?」
「そっちの方が流れが弱いから」
「流れ?」
「水が動いてる」
トミーは海を見る。
「全部動いてるよ」
「そうだけど」
説明しようとして、やめた。
「とにかく右」
トミーは素直に右へ動いた。珍しかった。
ノアが隣で言った。
「分かるの?」
「少し」
「海のこと?」
「水のこと」
ノアはそれ以上聞かなかった。
*
しばらくしてトミーが何かを引きずってきた。濡れた黒褐色の海藻だった。
「見て!」
「砂だらけじゃない」
サラが言った。
「長い!」
「長いね」
メイも答えた。
トミーは両手で持ち上げようとしたが、途中で砂へ落とした。
べた。
「重い」
「だから置いときなよ」
メイが言った。
「持って帰っていい?」
「何に使うの?」
トミーが止まった。考える。
「……縄?」
ノアが海藻を見る。
「途中で切れると思う」
「じゃあ鞭」
「やめなさい」
サラが即座に言った。
トミーは残念そうに海藻を置いた。次の波が伸びてきた。黒褐色の葉の先を持ち上げ、少しだけ引いていく。
トミーはもう別のものを見つけ、そちらへ走った。
メイもそれ以上見なかった。
浜には似たようなものがいくつも落ちていた。最初に海へ来た日にも見た。ここでは珍しくないのだろう。
それだけだった。
*
少し潮が引くと、岩がいくつか現れた。トミーはそちらへ行きたがったが、サラに止められた。
「今日はそこまで」
「何で?」
「滑るから」
「滑らない」
「滑ってから言っても遅いの」
「まだ滑ってない」
「だから滑る前に言ってるの」
同じやり取りをさっきも聞いた気がした。
メイは砂に座ったまま笑った。
沖を見る。波の合間に、ときどき水面の下へ黒い影が見えた。岩なのか、海藻なのか。波が来れば、すぐ見えなくなる。
メイは一度だけ目を細めた。
それからトミーの声に顔を向けた。
「メイ!」
「何?」
「貝!」
小さな貝殻を掲げている。
「きれい?」
「こっちからじゃ見えない」
トミーが走ってくる。
サラが言った。
「だから走らない!」
その声の方が、海より大きかった。
*
帰る頃、トミーは疲れていた。来る時あれだけ走っていたのに、今はサラの横を黙って歩いている。
「眠い?」
メイが聞く。
「眠くない」
あくびをした。
「眠いね」
「眠くない」
またあくび。
サラが笑った。
「帰ったら寝るわよ」
「寝ない」
「寝るね」
「寝ない」
メイは腹へ手を置いた。中でも小さく動いた。
「こっちも寝るかな」
ノアが言った。
「起きてるんじゃない?」
「何で?」
「今動いたんだろ」
「見えた?」
「触る回数で分かる」
メイは自分の手を見る。確かに、最近ずっと腹へ置いている。
「癖になった」
「いいんじゃない」
そのまま歩く。町が近づく。海の音が遠くなる。
*
数日後、メイは一人でもう一度海へ行った。
前よりゆっくり歩いた。砂へ座る。杖を横へ置く。腹へ手を置く。
波を見る。
トミーが走っていた辺り。サラが怒鳴っていた場所。ノアと座っていたところ。
何も残っていなかった。足跡も消えている。拾った貝殻も、トミーが引きずっていた海藻もない。波が全部ならしていた。
それでも寂しくはなかった。
また来ればいい。
そう思える場所になっていた。
沖を見る。水面が上下している。ときどき黒いものが浮かび、また消える。
メイは特に気に留めなかった。
腹が動く。
とん。
「何?」
もう一度。
とん。
メイは笑った。
「今日は元気だね」
波が来る。引く。また来る。その繰り返しをしばらく見ていた。
以前は、海へ来れば何か答えがあると思っていた。
今はもう、そうは思わない。
答えがなくても来る。何も起きなくても来る。ただ座って、波を見て、腹の子が動けば話しかける。
それでよかった。
メイは日が傾くまでそこにいた。
海はいつも通りだった。
何も起きなかった。
それでよかった。




