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12/19

モクズ 急

モクズ 急


それから、二週間ほどが過ぎた。サンフランシスコへ来て、もう半年近くになる。エスターの見立てでは、子どもが生まれるまで、まだひと月ほどはあるはずだった。


「はず?」


メイが聞き返すと、エスターは嫌そうな顔をした。


「そこに食いつくんじゃないよ」


「だって今、はずって言った」


「この前も言っただろ。子どもは暦を読まない」


「じゃあ、いつ?」


「だから分からないんだよ」


メイは腹を見た。


「ちゃんとしてほしい」


「誰に言ってるんだい」


「この子」


腹の中が動いた。


とん。


エスターが笑った。


「返事したじゃないか」


「何て?」


「知らないよ」


「役に立たないね」


「あんたにだけは言われたくないよ」


腹はさらに大きくなっていた。歩く速さも、ひと月前とは違う。朝、階段を下りる。ぎい。ぎい。以前は上りだけだったのに、今は下りる時にも手すりを握る。落とした糸巻きは、近くに誰かいれば拾ってもらう。クララの机では、腹が当たらないよう横向きに座ることも増えた。


それでも働いた。量は減った。時間も短くなった。それを以前ほど悔しいとは思わなくなっていた。できる分だけやる。食べる。休む。またやる。それが今の一日だった。


*


その日は、朝から空が明るかった。セント・マーサでは、何人かの女たちが昼から海へ行く話をしていた。洗濯物を干し終えた女。子どもを連れた母親。仕事が少なかった者。特別な理由はなかった。天気がよかったから。それだけだった。


マギーが言った。


「メイはどうする?」


「行く」


即答した。


「聞くんじゃなかったね」


「何で?」


「止めても行きそうだから」


「行かない方がいいの?」


「歩けるならね」


「歩ける」


「途中で休む」


「うん」


「重い物は持たない」


「うん」


「海には入らない」


メイは眉を寄せた。


「入らないよ」


「本当に?」


「こんなお腹で泳ぐと思ってるの?」


マギーは少し考えた。


「思ってないから確認してるんだよ」


「何それ」


「前科が多い」


メイは反論しようとして、やめた。思い当たることが多かった。


*


サラとトミーも来ることになった。トミーは朝から落ち着かなかった。


「まだ行かないの?」


「昼から」


「もう昼?」


「まだ」


少しして、


「もう昼?」


「まだ」


さらに少しして、


「今は?」


サラが顔を覆った。


「時計がなくても、あんたがいると一日が長いわ」


メイは笑った。


「あと十回聞いたら昼になるかも」


「本当?」


「嘘に決まってるでしょう」


サラが言った。


「メイ、余計なこと教えないで」


「何も教えてないよ」


トミーは指を折り始めた。一。二。三。途中で何を数えていたのか分からなくなったらしい。また最初から始めた。


*


昼を過ぎてから出た。人数が多いので、前に四人で行った時よりゆっくりだった。途中でメイが休む。ほかの女たちも座る。子どもたちはその周りを走る。


誰かがパンを出す。トミーが一つ欲しがる。サラが、


「海に着いてから」


と言う。


「今お腹減った」


「着いてから」


「海まで持たない」


「朝から三回食べたでしょう」


「それは朝」


メイは自分の袋から小さなパンを一つ出した。サラが見る。


「メイ」


「私の分じゃないよ」


「そういう問題じゃないでしょう」


トミーはもう受け取っていた。


「ありがとう!」


走っていく。


「走らない!」


いつもの声が飛んだ。


メイは笑った。腹の中も動いた。


「うるさいね」


自分の腹へ言う。


もう一度動いた。


「聞こえた?」


*


砂地へ出る。海が見えた。今日は前より風があった。メイは帽子を押さえた。沖では白い波頭が何本も立っていた。荒れているというほどではない。前にも見たことのある海だった。ただ、波が少し高かった。


トミーが走り出す。


「待ちなさい!」


サラが叫ぶ。


トミーは止まった。以前より早かった。少しは覚えたらしい。


「水には入らない!」


「分かってる!」


「靴も脱がない!」


「分かってる!」


「遠くに行かない!」


「分かってるって!」


返事だけは立派だった。


メイたちは砂の上へ荷物を置いた。布を敷く。パン。茹でた卵。少しの肉。果物。大したものではない。それでも子どもたちは喜んだ。


ノアは少し遅れて来た。仕事ではなかったが、朝に郵便局へ寄る用事があったらしい。砂地を歩いてくる姿をトミーが見つけた。


「ノア!」


ノアが手を上げる。


「何で君が一番に気づくんだよ」


「俺、目いいから」


「耳じゃない?」


「両方いい」


サラが言った。


「言うことを聞く方は悪いけどね」


トミーは聞こえなかったふりをした。


*


しばらくは、何も起きなかった。食べた。話した。子どもたちは砂を掘った。


トミーが穴を作り、


「ここに海入れる」


と言った。


波打ち際から手ですくった水を何度も運ぶ。着く頃には、ほとんど指の間からなくなっている。それでも繰り返す。


メイは見ていた。


「器使えば?」


「ない」


「貝殻は?」


トミーが止まった。前に拾ったものを思い出したらしい。


「今日ない」


「探せば?」


走ろうとする。


サラが、


「遠くには行かない!」


と先に言った。


トミーが足を止める。


「まだ行ってない!」


「行く顔してた」


「顔で分かるの?」


「母親だから分かります」


メイは少し笑った。マギーと同じだった。この町の女は、みんな顔で何でも分かるらしい。


腹へ手を置く。自分にも、そのうち分かるようになるのだろうか。この子が何か悪いことをする前に。想像すると、少し無理な気がした。


*


時間が経つにつれて、潮の流れが変わった。最初に気づいたのは、波の高さではなかった。引き方だった。


波が崩れる。白い水が砂の上へ広がる。そこまでは同じだった。けれど、戻っていく水が一様ではない。薄く広がって引く水の中に、横へ走る筋がある。左右から集まった水が一か所へ寄っていく。そして沖へ抜ける。


メイには、その流れが見えた。浜から沖へ向かって細長く伸びる一本。その周囲だけ、押し寄せる流れと戻る流れが噛み合わず、力が沖へ偏っている。白い泡まで、そこだけ岸へ戻らず沖へ運ばれていた。


メイは顔を海へ向けた。さっきより強い。すぐに危ないというほどではない。けれど、小さな身体が倒れたら厄介だった。


「トミー」


返事がない。探す。少し離れた波打ち際にいた。靴は履いている。まだ水には入っていない。波が来れば逃げ、引けば追いかけている。


「もうちょっとこっち」


トミーが振り返る。


「何で?」


メイは沖を指した。


「そっち、引く水が強くなってる」


トミーが自分の足元を見る。乾いた砂だった。


「ここ水ないよ」


「来たらあるでしょう」


「でも、すぐ逃げる」


「逃げる前に転ぶかもしれない」


トミーは納得していない顔をした。それでも数歩戻った。


「ここ?」


「もうちょっと」


「ここ?」


「そこならいい」


「分かった」


珍しく素直だった。メイはそれを確認してからサラへ向き直った。その時は、それで済んだ。


*


少しあと。誰かが笑った。何の話だったか、あとになってメイは思い出せなかった。ノアが何か言ったのか。マギーだったかもしれない。サラだったかもしれない。メイも笑った。


その時、沖から来た波の一つが、途中で大きく立ち上がった。


どお。


重い音。


白く崩れた水が、前の波よりずっと遠くまで砂の上を走った。


「わっ!」


トミーが笑いながら逃げる。足がもつれかける。それでも間に合った。


水は靴の先を濡らして止まり、今度は浜全体を薄い一枚の水にして戻っていく。


トミーが下を見る。


「速い!」


水と一緒に砂が動いている。靴の周囲が少し沈む。


「トミー、戻って!」


サラが立ち上がった。


「今行く!」


トミーがこちらへ身体を向ける。


けれど次の波が来た。さっきより小さい。高さもない。誰も、その波の方を怖いとは思わなかった。


白い水が膝よりずっと下まで来る。トミーが一歩下がる。その足を置いた場所には、もう固い砂がなかった。直前の戻り水が削っていた。


踵が沈む。


「あ」


身体が後ろへ傾いた。尻餅をつく。両手を砂につく。


「トミー!」


サラの声が変わった。


トミーはすぐ立とうとした。けれど座った身体の横を、戻り水が流れていた。立っていれば足首だった水が、倒れたトミーには腰まで当たる。


濡れた服が引かれる。手をついた砂が崩れる。指の間から砂が抜ける。


「母さん!」


サラが走る。


トミーが膝を立てる。一瞬、立てそうになる。


そこへ、戻り切る前の水の上を次の砕けた波が走ってきた。


ばしゃん。


胸へ当たる。


トミーの身体が横倒しになる。顔が水へ入る。


サラが叫ぶ。ノアが走った。メイも立ち上がった。腹の重さで身体が一瞬遅れた。


トミーが顔を上げる。咳をする。立とうとする。けれど足元がない。さっきまで立っていた場所より、身体一つ分ほど沖へ移っている。


波が引く。トミーも動く。砂の上を滑るように。


「手!」


サラが叫んで腕を伸ばす。


届かない。


あと一歩。


サラが水へ踏み込む。ノアが横から彼女の腰を掴んだ。


「待って!」


「離して!」


「一緒に持ってかれる!」


その間にもトミーは沖へ運ばれる。最初は身体一つ分。次は二つ分。


水深そのものが急に深くなったわけではない。ただ、倒れたまま立てない。波が来るたび身体が浮き、戻るたび沖へずれる。


そして、左右から浜を流れてきた水が集まる筋へ入った。


メイにはそれが見えた。流れが変わる。そこから先は、速かった。


トミーの身体が岸と平行ではなく、まっすぐ沖へ運ばれ始めた。


「トミー!」


サラが叫ぶ。


「母さん!」


トミーが手を伸ばす。次の波が顔へ当たる。声が消える。また浮く。もう足は底についていない。


*


メイは海へ向かっていた。


「待って!」


誰かが言った。


聞かなかった。


目を凝らす。水の中を、いくつもの力の流れが走っている。岸へ崩れてくる流れ。左右へ逃げる流れ。その水を集めて沖へ運ぶ流れ。


トミーは、その一番強い筋の中にいた。


真正面から追えば早い。でも、そのまま戻ろうとすれば流れとぶつかる。


メイにはその先も見えた。沖へ抜ける筋は、ずっと同じ幅ではない。少し先で広がる。その右側に、横へ抜ける流れがある。


そこまで行けば、沖へ引く力から外れられる。さらにその外側では、砕けた波が斜めに岸へ戻っている。


トミーまで行く。抱える。横へ抜ける。岸へ戻る流れへ入る。


一本につながった。


道だった。


「助けられる」


声に出ていた。


ノアが振り返る。


「何?」


「道がある」


メイは靴へ手を伸ばした。


その時、腹の中が強く動いた。


とん。


メイの手が止まる。腹へ置く。


その内側に、自分とは別の力の流れがある。はっきり見える。小さい。でも、以前とは比べものにならないほど強い。


一人ではない。


知っている。


自分が海へ入れば、この子も入る。自分の息がなくなれば、この子にも届かなくなる。


倒れた時、マギーに言われた。


あんたが平気なら、それで済む身体じゃないんだよ。


忘れていない。むしろ、今までで一番よく分かっていた。


トミーが浮いた。


「母さ――」


口へ水が入る。咳。腕を振る。何も掴めない。


サラが悲鳴のように名前を呼ぶ。


メイは片方の靴を脱いだ。もう片方。立ち上がる。


ノアが気づいた。メイの腕を掴む。


「行くな」


「離して」


「駄目だ」


「ノア」


「その身体で行けるわけないだろ」


メイは海を見る。トミーは沖へ運ばれている。しかし、まだ見えている。流れも見える。その外へ出る道も。


「行ける」


「泳ぐだけじゃないんだぞ」


「分かってる」


「子どももいる」


メイの視線が腹へ落ちた。


分かっている。だから怖い。怖いまま、海へ目を戻す。


トミーがまた沈んだ。


一。


二。


顔が出る。咳き込む。腕をばたつかせる。次はもっと長く沈むかもしれない。


メイはノアを見る。


「戻れる」


「何で分かる」


「見えるから」


「何が」


メイは沖を指した。


「あそこから右へ抜ける。抜けた先は岸に戻ってる」


ノアには何も見えない。ただ波があるだけだった。


「メイ」


「流れに逆らわなければ戻れる」


「でも――」


「戻る」


メイは言った。今度はノアではなく、自分に言った。腹の子にも。トミーにも。


どちらか一つではない。


どちらも連れて戻る。


ノアの手がまだ腕を掴んでいた。


メイはその手を見た。それから海を見た。


もう一度、はっきりと言った。


「戻れる」


ノアの手を振りほどくのに、力はいらなかった。


「メイ!」


「サラを見てて!」


それだけ言って、海へ向かった。


砂が足の裏へつく。冷たい。最初の波が足首へ当たる。次は脛。その次は膝。腹の重さが急に増したように感じた。水に入れば身体は軽くなると思っていた。逆だった。波が来るたび、腹を横から押される。足を取られる。踏ん張る。また進む。


真正面には行かなかった。トミーが流されている筋へ、岸から斜めに入る。沖へ引く流れの横をなぞる。目を凝らす。見える。足元を走る力。波が来る前に強くなる。引く前に向きが変わる。それに合わせる。一歩。二歩。次の波が腰まで来る。


メイは息を止めた。腹へ両手を当てたくなる。できない。腕が要る。


「大丈夫」


誰に言ったのか分からなかった。腹か。自分か。トミーか。全部かもしれない。


*


腰を越えると、歩けなくなった。足が底から離れる。身体が浮く。すぐに腹が前へ引かれた。姿勢が崩れる。


「っ」


水を飲みかける。腕を回す。身体を横へ向ける。泳ぐ。


山の川とは違う。ミシシッピとも違う。海の水は身体を持ち上げる。でも波が、その身体を好きな方向へ倒す。


メイは水そのものを見た。押してくる流れに逆らわない。来れば身体を浮かせる。引けば横へ逃がす。沖へ向かう一本だけには入らない。入ればトミーと同じになる。その縁を進む。


トミーが見えた。頭。消える。また出る。金色ではない濡れた髪が額へ張りついている。口を大きく開けている。声は波に消される。


「トミー!」


反応した。顔がこちらを向く。


「メ――」


波が間に入った。消えた。


メイは腕を動かした。一回。二回。息が切れるのが早い。分かっていた。身体が重い。何か月も走っていない。階段ですら途中で休む。


それでも流れがある。泳ぐ距離そのものは、長くしなくていい。水が運ぶ方向へ身体を合わせる。トミーへ近づく。あと少し。


*


トミーがまた沈んだ。


メイは潜った。水の中では音が変わった。ごう。全部の音が一つになる。


目を開ける。痛い。それでも見る。


トミーの腕。下へ伸びている。足は底を探している。届いていない。


メイは腕を伸ばした。指先。届かない。もう一度蹴る。腹が重い。身体が思ったほど前へ行かない。


右手を伸ばす。


今度は、手首を掴んだ。


トミーが反射的に振り向いた。次の瞬間、両腕がメイの首へ来た。


「っ!」


水面へ出る。トミーがしがみつく。頭を押される。メイの口が水へ入る。


「離して!」


聞こえていない。トミーは必死だった。爪が肩へ食い込む。身体を登ろうとする。その分、メイが沈む。


「トミー!」


顔を上げる。


「私を――」


波。口へ水。咳。


もう一度。


「掴まないで!」


「怖い!」


「分かってる!」


「離したら沈む!」


「私が掴むから!」


トミーの目が見えた。泣いているのか、海水なのか分からない。


「嫌!」


「沈みたい!?」


トミーが止まった。ほんの一瞬。その隙にメイは首へ回った腕を外した。


「私が持つ」


「嫌だ!」


「持つから!」


メイはトミーの後ろへ回る。胸の下へ腕を通す。頭を水から出す。


「動かないで」


「母さん!」


「岸にいる!」


「母さん!」


「いるから!」


トミーは泣いた。でも今度はしがみつかなかった。それだけで十分だった。


*


メイは岸を見る。遠い。来た時より、ずっと遠く見えた。


浜に人がいる。サラ。ノア。何人かの女。こちらを指している。声は届かない。


メイは流れを見る。今いる場所は、トミーを運んだ流れの中だった。沖へ向かっている。止まろうとしても無駄だ。岸へ泳げば真正面から逆らうことになる。体力が先に尽きる。


右。あそこ。水の力が横へ広がっている。そこまで行けば抜けられる。


メイはトミーを抱えたまま身体を傾けた。


「こっち」


「岸、あっち!」


「分かってる」


「違う!」


「分かってるって!」


トミーが暴れそうになる。


「動かないで!」


強く言う。トミーが固まる。


「今、岸に向かうと戻れない」


「何で?」


「海がそっちに行かせないから」


「じゃあどこ行くの!」


「横!」


「横ってどこ!」


「黙って!」


トミーが泣きながら口を閉じた。少しだけ静かになった。


メイは右へ泳いだ。


*


一度。二度。三度。


腕が重い。トミーの身体も重い。水の中では軽い。でも支え続ければ肩が焼ける。


腹が張った。硬くなる。


「……っ」


メイは一瞬止まった。痛い。腹全体が握られたようだった。


トミーが聞いた。


「どうしたの?」


「何でもない」


何でもなくはない。でも今はそれでいい。


腹の中へ意識を向ける。小さな力の流れ。ある。動いている。消えていない。


メイは息を吐いた。また泳ぐ。


一度。二度。


流れの向きが変わった。身体が横へ押される。


来た。ここ。


沖へ引く力が弱くなる。メイはさらに右へ抜けた。


突然、身体を後ろから押された。岸の方へ。


「……入った」


トミーが泣きながら言う。


「何?」


「戻るよ」


「本当?」


「本当」


さっきノアに言ったのと同じだった。


戻れる。


今度は、トミーにも言った。


*


そこからは岸へ斜めに進んだ。


泳ぐ。波が来れば乗る。押される。引けば無理に進まない。次を待つ。少しずつ。少しずつ。


浜の人影が大きくなる。サラが水際まで来ている。ノアが止めている。今度は止めるのが正しかった。サラまで入れば、また一人増える。


「母さん!」


トミーが叫ぶ。声が届いたらしい。サラが何か叫び返す。


トミーがまた暴れそうになる。


「まだ!」


メイが止める。


「もう近い!」


「だからまだ!」


「母さん!」


「あと少しだから!」


波が来る。持ち上がる。二人の身体が前へ運ばれる。


水が引く。足を下へ伸ばす。届かない。まだ。


次。また波。押される。足を伸ばす。


つま先に、砂。


「着く」


メイが言った。


トミーが下を見る。


「立てる?」


「まだ駄目」


もう一歩。波。砂。


今度は足裏がつく。でもすぐ水が引く。膝が崩れそうになる。メイはトミーを離さない。


「ノア!」


叫んだ。


ノアが水へ入る。腰まで。手を伸ばす。


「こっち!」


あと数歩。


メイには、ここからが一番遠く感じた。身体が動かない。腕が震える。腹がまた張る。今度はさっきより痛い。


「メイ!」


ノアが呼ぶ。


「トミー先!」


「分かった!」


ノアがさらに一歩入る。


メイはトミーの身体を前へ押した。


「行って!」


トミーが振り返る。


「メイは?」


「行って!」


波が押す。その力を使う。


メイは最後に両手でトミーを押した。トミーの腕がノアへ届く。ノアが掴む。引く。


サラも水へ入ってきた。今度は浅い。トミーを抱きしめる。


「母さん!」


サラが膝をつく。トミーへ何度も触れる。顔。肩。腕。生きていることを確かめるように。


メイはそれを見た。


助かった。


本当に。


助かった。


*


その瞬間だけ、力を抜いた。ほんの一瞬だった。


息を吐いた。肩が落ちた。


足元の砂が、ずる、と動いた。


メイは下を見る。さっきまで足裏にあった砂が流れている。次の戻り水が膝の裏へ当たる。身体が後ろへ引かれた。


「……あ」


踏ん張る。足が滑る。腹が重い。重心を戻せない。


尻餅をつくように水へ落ちた。


冷たい。


「メイ!」


ノアの声。


すぐ立とうとする。手をつく。砂がない。さっきトミーと同じだった。指の間から砂が抜ける。水が引く。身体も引かれる。


「メイ!」


ノアが手を伸ばしている。近い。


メイも手を伸ばした。指先が触れた。一度。滑った。


「もう一回!」


ノアがさらに入る。その後ろでサラがトミーを抱えている。


メイは腕を伸ばす。


今度はノアの指が手首にかかった。掴まれる。


「引いて!」


ノアが引く。メイも足を立てようとする。


その瞬間、波が来た。


横からではない。真正面。胸へ当たる。


身体が浮いた。


ノアの手から、腕が抜けた。


「メイ!」


水の中へ入る。一瞬、何も見えなくなる。上下が分からない。


腹を庇う。丸まる。


水面へ出る。息を吸う。岸を見る。


さっきより遠い。


「ノア!」


叫ぶ。返事が来る。でも波の音に消える。


メイは立とうとした。足がつかない。


*


違う。さっきとは違う。


メイはすぐに分かった。


トミーを助けるために入った時は、身体に力があった。今はない。腕が重い。脚が震える。呼吸が浅い。腹は硬いまま。


それでも、道は見える。


目を凝らす。岸へ戻る流れ。少し左。あそこへ行けばいい。さっき自分で使った道。間違っていない。


メイは泳ぎ出した。


一回。腕を動かす。進む。


もう一回。重い。


三回目。腕が水から上がらない。


「……何で」


蹴る。脚がつるように痛む。身体が前へ行かない。


波が来る。息を整える前に顔へ当たる。水を飲む。咳。また波。


メイは浮くことだけで精一杯になる。


流れは見えている。そこにある。ほんの少し横へ行けばいい。


頭では分かる。身体も、何をすればいいか分かっている。


それでも動かない。


メイは初めて、恐怖を感じた。


トミーを助けに入った時とは違う。あの時は、できると思っていた。


今は、できないかもしれない。


腹へ手を伸ばす。水の中では触れにくい。それでも押さえる。


小さな力の流れは、まだある。


「大丈夫」


息を切らしながら言う。


「大丈夫だから」


誰に言っているのか、もう分からなかった。


*


岸でノアが何か叫んでいる。水へ入ろうとして、誰かに止められている。


それでいい。来たら駄目だ。


今の自分を助けるために、また誰かが流されたら、何のためにトミーを戻したのか分からない。


メイは右腕を上げた。岸へ向かって振る。


来るな。


そう伝えたかった。


でもノアには、助けを求めているように見えたかもしれない。


「来ないで!」


叫ぶ。


波が口へ入る。咳き込む。


もう一度。


「来ないで!」


今度は声にならなかった。


身体が沖へ動く。少しずつ。


メイは流れを見る。


岸へ戻る道。まだ見える。消えていない。


自分がそこへ行けないだけだった。


腹の中が、小さく動いた。


とん。


メイは息を止めた。


「いるね」


笑おうとした。笑えなかった。


「分かってる」


波。


身体が沈む。浮く。


「両方だから」


誰にも聞こえない。


もう一度沈む。


水の下で、金色の髪が広がった。


水の下では、岸がどちらか分からなかった。


メイは目を開けた。


痛い。


塩が目に染みる。


青白い光が上にある。


なら、そちらが水面だ。


腕を動かす。身体が少し浮く。あと一度。もう一度。顔が水から出た。


「っ――」


息を吸おうとして、咳になった。海水を吐く。空気が入らない。


また波が来た。口を閉じる前に顔へかかる。身体が沈む。メイは腕を振り、水面へ戻った。今度は浅く息が入る。胸が痛い。


岸を見る。人がいる。遠い。ノアが水際を走っている。誰かが止めている。サラがトミーを抱いているのも見えた。トミーは立っていた。生きている。それだけで、少し安心した。


すぐに腹へ意識を向ける。小さな力の流れもある。まだ動いている。


「よし」


声にはならなかった。喉が痛い。


メイはもう一度、流れを見た。岸へ戻る道はまだある。左。ほんの少し。あそこまで行けばいい。頭では分かっていた。


*


腕を動かす。一度。ほとんど進まない。もう一度。肘から先だけが水を掻く。肩が上がらない。


脚を蹴る。左脚が攣った。メイの身体が傾いた。


「っ……!」


痛みで息を吐く。海水が喉へ入り、身体が沈む。頭を上げ、流れを見る。まだある。道は消えていない。


「行けばいいだけ」


自分に言う。


腕を動かす。動く。でも弱い。一度泳ぐたび、次の一度までが長くなる。


岸へ戻る流れは、すぐそこだった。


そのすぐそこへ、行けない。


メイは初めて、それを理解した。


見えている。分かっている。でも、身体がついてこない。


山で道を見つけるのとは違う。金を探すのとも違う。正しい場所を知っただけでは、そこへ辿り着けない。


*


次の波が来た。身体を持ち上げる。一瞬、岸がよく見えた。ノアが何か叫んでいる。


メイは右手を上げた。来ないで。そう伝えるつもりだった。腕は胸の高さまでしか上がらなかった。


波が落ちる。メイも落ちる。水面が頭の上へ行った。


蹴る。浮かぶ。浅く息を取り込んだが、半分しか入らない。胸の奥で何かが鳴った。咳き込み、また沈む。


「だい……じょうぶ」


腹へ言った。声は水へ消えた。


小さな流れがある。それだけを確認する。もう一度。ある。まだいる。


メイは笑おうとした。口へ海水が入った。


*


足に何かが触れた。


冷たい。柔らかい。


びくりとして蹴る。絡んだ。


「なに……」


足を引く。ほどけない。手を伸ばす。指先に、ぬるりとしたものが触れた。太い。縄のようだった。


トミーが浜で引きずっていた海藻を思い出した。


メイは掴んで引き離そうとした。葉が手へ巻きつく。逆だった。身体がさらに沈む。


「やだ」


初めて声に出た。


水面が遠くなる。金色の髪が上へ広がった。


メイは海藻を掴んで引く。千切れない。もう片方の脚にも触れる。長い葉が身体の横を通り、腹を庇うように丸まった。


肺が苦しい。胸が焼ける。


上へ行かなければ。分かっている。でも、上へ行く力がない。


*


メイは目を開けた。


光が揺れている。その下に、黒いものがあった。


一本。


違う。


二本。三本。


もっと。


太い茎が、暗い下の方から伸びている。その先から長い葉が何枚も広がっていた。


波が来るたび、全部が同じ方向へ倒れる。


戻る。


また倒れる。


水の中で、何十本もの影が揺れていた。


メイは一瞬、何を見ているのか分からなかった。


浜へ打ち上げられていたもの。


トミーが持ち上げたもの。


波の間から、ときどき黒く見えていたもの。


一本ずつしか見ていなかった。


ここでは違った。


ずっと奥まで続いている。


海の中に、


こんなものがあった。


森。


そう思った。


声にはならなかった。


*


綺麗な森ではなかった。


葉は裂けていた。端がなくなっているものもある。穴が開いている。途中から千切れている茎もある。何かに齧られた跡。岩へ擦れた白い傷。


その間を魚が通る。小さな生き物が葉へ張りついている。


一本が大きく倒れた。折れると思った。折れなかった。流れが変わる。ゆっくり戻る。


別の一本は途中で切れていた。それでも残った部分が揺れている。


傷ついている。


食われている。


千切れている。


それでも、生きている。


そのことに意味があるようには見えなかった。


頑張っているわけでもない。


耐えているわけでもない。


何かを守ろうとしているわけでもない。


ただ、まだ死んでいない。


だから、生きている。


その時だった。


葉の動きが変わった。


ほんの一瞬。


波はまだ同じ方向へ流れている。


砂も小さな泡も、その流れに運ばれている。


なのに、


メイのすぐ近くにあった一枚だけが、


流れとは逆へ動いた。


ゆっくりと。


こちらへ。


頬に触れる。


メイは目を見開いた。


次の一枚も動いた。


その奥も。


さらにその奥。


一本ではなかった。


何十本もの長い葉が、


波とは違う動きをした。


全部がメイへ向いたわけではない。


けれど、


森のどこかを何かが通った。


そう見えた。


暗い底から、


一本の茎へ。


そこから隣へ。


さらに奥へ。


形はない。


光でもない。


それでも確かに、


何かが移っている。


海藻の一本一本を渡りながら、


巨大な一つのものが、


ゆっくり身体を起こすようだった。


メイは息を止めた。


もう息など残っていないのに。


見られている。


そう思った。


目など、


どこにもない。


顔もない。


声もない。


それでも、


海の中の森全体が、


自分を見ている。


*


胸が限界になった。


苦しい。身体が勝手に痙攣した。口が開き、海水が入る。喉と胸が焼けた。


息を吸ったつもりなのに、何も入ってこない。身体が暴れる。腕が動く。脚が動く。でも、もうどちらが上かも分からない。


腹へ手を当てようとした。


届いた。


小さな流れ。


まだある。


でも、


弱くなった気がした。


「……いや」


声にならない。


嫌だ。


ここで死ぬのは嫌だ。


この子も。


自分も。


トミーを助けたのに。


両方だと言ったのに。


ここで片方になるのは嫌だった。


身体がさらに沈む。


光が遠くなる。


海藻の葉が頬を撫でた。


今度は偶然とは思えなかった。


一本。


もう一本。


葉が身体の周りを通る。


締めつけない。


引き上げもしない。


ただ触れていく。


指で確かめるように。


メイの腕。


肩。


金色の髪。


腹。


最後に、


右の頬。


その向こうで、


森全体が大きく揺れた。


波とは逆に。


一度だけ。


*


何かを聞いたわけではなかった。


声はない。


名前もない。


問いかけもない。


でも、


そこに誰かがいない、


とはもう思えなかった。


人ではない。


少女でもない。


獣でもない。


一本の海藻でもない。


目の前に広がるもの全部。


千切れた葉。


傷ついた茎。


岩へしがみつく根元。


そこへ住む魚。


揺れる水。


それらの奥に、


ひどく大きな何かがいた。


そして、


その何かから、


身体の奥へ一つだけ流れ込んできた。


生きる。


言葉ではなかった。


意味だけだった。


どうして。


何のために。


誰のために。


そういうものが一つもない。


傷ついても。


食われても。


千切れても。


残ったところが生きているなら、


そこからまた続く。


海藻は死に方を選ばない。


生き方も選ばない。


残れば伸びる。


千切れれば、


残った方がまた伸びる。


それだけだった。


メイが選んだのではなかった。


身体が先に選んだ。


*


森の奥で、


何かが動いた。


見えるはずのないものだった。


黒い海藻の影が幾重にも重なり、


一瞬だけ、


巨大な一つの輪郭に見えた。


底から水面へ届きそうなほど長い身体。


腕も脚もない。


頭もない。


ただ無数の葉を広げた、


途方もなく大きな何か。


次の瞬間には、


ただの海藻へ戻った。


その一枚が、


メイの右目を覆った。


暗くなる。


緑だけが残った。


*


胸の奥が、


どくん、


と鳴った。


一度。


強く。


止まりかけていた身体を殴るようだった。


もう一度。


どくん。


メイの背中が反った。肺が焼ける。痛みが走る。喉の奥が勝手に閉じ、腹筋が縮んだ。


水の中なのに、身体が咳をしようとする。


肩が動いた。腕が上がる。さっきまで力の入らなかった指が、海藻の茎を掴んだ。


皮膚にできていた擦り傷が熱を持つ。冷え切っていた手足の奥が熱い。左脚の攣りが、無理やりほどけるように消えていく。


肩。


腕。


背中。


傷んだところが次々と痛み、そのあと、動く。


治る。


というより、


戻されている。


メイは何もしていなかった。


止めることもできなかった。


身体が勝手に、壊れたところを塞いでいく。


死ぬ準備をしていたものを、


生きる方へ引き戻していく。


海藻の葉が右目から離れた。


*


メイの目が開いた。


一瞬、海の色が違って見えた。


左には、


これまでと同じ青。


右には、


深い緑。


葉。


茎。


水。


全部が近く見える。


森の奥にいた何かは、


もう見えなかった。


ただ海藻が揺れている。


波に倒され、


戻り、


また倒されている。


何事もなかったように。


メイは海藻から脚を抜いた。


今度は動いた。


蹴る。


身体が上へ向かう。


光が近づく。


腕を掻く。


もう一度。


肺はまだ苦しい。


でも身体は動く。


さらに蹴る。


光が大きくなる。


金色の髪が後ろへ流れる。


水面が割れた。


「――っ!」


顔が出る。


空気を取り込もうとしたが、身体が先に咳き込んだ。一度、二度。海水を吐く。胸が痛む。それでも、ようやく息が入った。


メイは水面に浮いたまま、しばらく咳を続けた。


*


「メイ!」


声がした。近い。岸ではない。


見る。ノアではなかった。別の男が二人、海へ入ってきていた。浜にいた男たちだ。


一人は長い木の棒を持っている。もう一人は腰へ縄を巻いていた。岸側から何人かがその縄を持っている。


「掴め!」


棒が来る。


メイは手を伸ばした。一度外す。もう一度。掴む。


「離すな!」


引かれる。メイは身体を預けた。


もう泳がなくていい。


そのことに気づいた途端、全身の力が抜けた。でも沈まなかった。


男が腕を掴んだ。もう一人も来る。岸へ向かって引かれる。波が来る。身体が回る。


それでも今度は、誰かが持っている。


*


砂が手に触れた。膝。足。何人もの手。引かれる。身体が水から出る。


「メイ!」


ノアだった。すぐ近くにいる。顔がひどかった。


「大丈夫?」


メイは答えようとしたが、また咳になった。横を向き、水を吐く。


「息してる」


誰かが言った。


「毛布!」


「何か持ってきて!」


人の声。足音。


サラがいた。濡れたトミーを抱いている。トミーの唇は青い。でも、泣いていた。


「メイ」


トミーが言う。声が震えている。


「メイ」


メイは手を上げた。


「……生きてるね」


トミーが泣きながら頷いた。サラも泣いていた。何度も、「ありがとう」と言った。


メイは首を振った。礼を言われると困った。


腹へ手を置く。目を閉じる。


小さな力の流れ。


ある。


「こっちも」


息を吐く。


「いる」


その瞬間、やっと安心した。


トミー。


腹の子。


両方。


本当に。


両方だった。


*


毛布を掛けられた。誰かがメイの肩を擦る。


「冷たい」


ノアが言った。


メイは自分の手を見る。さっきまで感覚がなかったのに、今は指が動く。


寒いはずだった。


でも、寒さが引いていく。


妙だった。


身体の奥から熱が戻っている。


「メイ?」


ノアが顔を覗き込む。


「何?」


ノアは少し黙った。


「目……」


「何?」


「右」


メイは自分では見られない。


「何なの」


「緑だ」


「何が?」


「目」


メイは瞬きをした。


左と右で、


海の色が少し違って見えた。


さっき、


森の奥で見た色だった。


「あとで鏡見せて」


ノアが呆れたような顔をした。


「今それ気にする?」


「言ったのそっちでしょう」


起き上がろうとする。


ノアが肩を押さえた。


「寝てろ」


「平気」


「今日はその言葉、信用しない」


「本当に――」


腹の奥が、


ぎゅう、


と縮んだ。


メイの声が止まった。


「……っ」


身体を丸める。ノアの顔が変わる。


「どうした?」


「待って」


腹を押さえる。


硬い。


さっき海の中でも何度かあった。


でも、


今のは違った。


下腹から腰まで、


強く締められる。


しばらくすると、


ふっと消えた。


「何だった?」


ノアが聞く。


メイは答えなかった。


嫌な感じがした。


少し待つ。


何もない。


「大丈夫」


言った直後だった。


もう一度。


今度はさっきより強い。


「……っ!」


メイが砂を掴んだ。


「メイ?」


サラが近づく。腹を押さえているメイを見る。顔色が変わった。


「まさか」


「何?」


ノアが聞く。


サラは答えず、メイの横へ膝をついた。


「どこが痛い?」


「お腹」


「ずっと?」


メイは首を振った。


「来て……消える」


サラが息を呑んだ。


「何?」


メイが聞く。


サラは腹を見る。


「間隔は?」


「分からない」


「さっきもあった?」


「海の中で……少し」


サラが立ち上がった。


「誰か、エスターを呼んで!」


メイがサラを見る。


「何で?」


サラは答えなかった。


次の痛みが来た。


今度は、


はっきり分かった。


波とは違う。


海とは関係ない。


身体の内側から来ている。


メイは腹を抱えた。


「……まだ早い」


「……まだ早い」


メイがそう言った直後、腹の奥がもう一度縮んだ。さっきより長く、腰まで痛む。息が止まりそうになる。


「息をして」


サラが言った。


「してる」


「止まってる」


「痛いんだから……」


言い返している間に、痛みが少し遠のいた。メイは砂の上で息を吐いた。


ノアが周囲を見回す。


「エスターは?」


「町へ戻る。ここでは待てない」


サラが答え、メイを見る。


「歩ける?」


「歩ける」


即答だった。


ノアが眉を寄せる。


「さっき溺れてただろ」


「もう平気」


「平気な顔じゃない」


「歩ける」


メイは起き上がった。立てた。自分でも驚いた。脚に力が入る。さっきまで攣っていた左脚も痛くない。肩も動く。胸はまだ少し苦しい。それでも、海から引き上げられた直後とは思えないほど、身体は戻っていた。


ノアがそれを見ていた。


「……本当に立てるのか」


「見れば分かるでしょう」


一歩。二歩。歩ける。


その時、また腹が収縮した。メイは身体を折った。


「……っ」


ノアがすぐに腕を掴む。


「掴まって」


「これは別」


「別でも危ない」


「だから別なの!」


サラが二人の間に入った。


「歩けるなら歩く。無理なら運ぶ。今はそれだけ」


二人とも黙った。


*


町へ戻るのに、いつもの倍近くかかった。メイは歩き、立ち止まり、波のように押し寄せる痛みをやり過ごして、また進んだ。途中からノアが腕を貸した。最初は拒んだが、三度目の収縮のあと、何も言わずに掴まった。


間隔は少しずつ短くなっていた。最初はずいぶん空いていた。次、その次。気づけば、休んでいる時間より歩いている時間の方が短い。


サラが何度も時間を確かめた。


「また?」


「うん」


「間が短い」


「分かってる」


「強くなってる?」


「見れば分かるでしょう」


「見ても分からない」


メイは息を荒くした。


「強い」


サラの顔が硬くなる。メイはそれを見て、少しだけ怖くなった。


「本当に早いの?」


サラはすぐには答えなかった。それが答えだった。


*


セント・マーサへ着く頃には、エスターが呼ばれていた。マギーもいた。クララもいた。


メイが扉を開けるなり、エスターが声を荒らげた。


「何で海なんか行った!」


「今それを聞くの?」


「見れば分かる!」


「海に行っただけ!」


「その格好で言うんじゃないよ!」


服は濡れていた。髪も濡れている。砂もついている。


エスターが腹へ手を当てる。表情が変わった。


「上へ」


「自分で歩ける」


「今日は意地を張る日じゃない」


「張ってない」


「ノア!」


呼ばれたノアが振り向く。


「はい」


「手を貸して」


「分かりました」


ノアがメイの腕を取る。メイは黙ってそれに身を預けた。


*


部屋へ上がる。ぎい。ぎい。何度も上った階段だった。今日は一段ごとに長い。


途中で腹が強く縮んだ。メイは手すりを握った。身体が止まる。


「来たかい?」


エスターが下から聞く。


メイは頷いた。声が出ない。腹が硬い。腰が割れるように痛む。


しばらくして、ようやく力が抜けた。


「……行ける」


また上る。ぎい。ぎい。あと少し。


部屋へ入る。寝台へ座る。


エスターがすぐに指示を出した。


「濡れたものを脱がせる。乾いた布。湯。炉を強くして」


マギーが動く。クララも動く。誰かが階下へ走る。


炉へ薪が足される。ぱち、と乾いた木が弾けた。


その音を聞いて、メイは山を思い出した。火を消した朝。冷えた灰。イーライの背中。


次の収縮が来て、記憶は途切れた。


「痛い!」


「分かってる」


エスターが言う。


「分かってない!」


「分かってる。だから力を抜きな」


メイは歯を食いしばった。その間にも、身体の中では勝手に何かが進んでいた。


*


濡れた服を脱がされ、乾いた布を巻かれる。髪を拭かれる。


メイは寒くなかった。むしろ熱かった。


「寒くない?」


マギーが聞く。


「大丈夫」


「震えてないね」


エスターがメイの腕を見る。


海で擦ったはずの皮膚。赤くなっていた場所が、もうほとんど分からない。肩の傷もない。ノアに掴まれた跡だけが薄く残っている。


「……何だい、これは」


エスターが呟く。


「何?」


「さっき海から上がったんだろ」


「うん」


「怪我は?」


「したと思う」


「思う?」


メイも自分の腕を見る。確かに、傷はない。


海の中で熱くなったことを思い出す。葉。深い緑。海の中の森。右目。


そこまで考えたところで、腹がまた締まった。今度は長い。メイは寝台の端を掴んだ。


「……っ!」


エスターが顔を上げる。


「もういい。そっちはあとだ」


*


時間が分からなくなった。収縮が来る。遠のく。水を飲む。汗を拭かれる。炉へ薪が足される。その繰り返しだった。


窓の外の明るさが少しずつ変わっていく。


ノアは途中で部屋から出された。


「男は外にいて」


エスターが言った。


「何かできることは?」


「湯でも運んでな」


「分かりました」


ノアはすぐに出ていった。メイはその背中を見ていた。


「ノア」


振り返る。


「何?」


「トミーは?」


「サラといる。大丈夫」


それだけ聞いて、メイは頷いた。


ノアが出ていく。扉が閉まる。間を置かず、次の収縮が来た。


*


「まだ?」


メイが聞いた。


「まだだ」


「さっきから、そればかり」


「産まれてないからね」


「いつ?」


「もうすぐだ」


「本当に?」


エスターは答えず、メイの腹へ手を当てた。


メイは目を閉じる。腹の中を見る。


小さな流れ。ある。でも、いつもより弱い。動いてはいる。消えてはいない。ただ、細い。


「エスター」


「何だい」


「この子、弱くなってる」


エスターの顔が変わる。


「何が分かる」


「分かるの」


「どんなふうに」


「流れが」


それ以上は説明できなかった。


エスターは腹へ手を当てたまま、しばらく黙った。


「急ぐよ」


メイの喉が乾いた。


「危ない?」


「今は産ませることだけ考えな」


「危ないの?」


「メイ」


「答えて」


エスターがメイを見る。


「早い」


それだけ言った。


メイには十分だった。


*


収縮の質が変わった。ただ締めつけるだけではない。下へ押される。身体が勝手に力を入れようとする。


「待って」


エスターが言う。


「待てない!」


「まだだ!」


「身体が勝手に!」


「分かってる!」


マギーがメイの手を握る。


「こっちを掴みな」


メイは握った。本気で。


マギーの顔が歪む。


「強くていい。離さないから」


「ごめん」


「謝るな。今は握ってな」


次の波が押し寄せる。メイは声を上げた。


炉の中で薪が弾ける。湯気が立つ。布が擦れる。人の手が背中を支える。誰かが額を拭く。


一人ではなかった。それだけは分かった。


*


「今度はいい」


エスターが言った。


「何が」


「力を入れな」


メイは息を吸った。押す。身体が裂けるようだった。


「無理!」


「無理でもやる!」


「できない!」


「できる。私を見な!」


エスターの声が飛ぶ。


「息を吸って。力を下へ」


メイは頷いた。次の波が来る。押す。息が切れる。


「もう一回」


「今やった!」


「次が来たら、もう一回だ!」


「無理!」


「無理でも、もう一度!」


メイは身体を起こした。押す。


*


急に、何かが変わった。


腹の重さが下へ抜ける。誰かが息を呑む。エスターの手が動く。


そして、軽くなる。


メイは寝台へ倒れた。


「……出た?」


誰もすぐには答えなかった。その沈黙で、メイの身体が冷えた。


「エスター」


返事がない。


「エスター?」


起き上がろうとする。マギーが止める。


「動かないで」


「何で泣かないの」


誰も答えない。


「ねえ」


エスターの背中が見える。小さな身体を抱えている。あまりにも小さい。赤い。細い。動かないように見えた。


「エスター」


声が震えた。


「何で泣かないの」


エスターが赤ん坊の背を擦る。布で包む。口元を拭う。小さな身体を傾ける。


「息をして」


誰に言っているのか分からない。


「頼むから」


もう一度、背を擦る。


「息をして」


メイは腹へ手を置いた。そこにはもう、あの小さな流れがない。


当たり前だった。外にいる。自分とは別の場所にいる。その事実が、急に恐ろしくなった。


「返して」


メイが言った。


「まだ」


「私に返して」


「まだだ」


「触らせて」


「待って」


「エスター!」


メイが起き上がる。身体が動く。驚くほど普通に。産んだ直後なのに。


マギーが止めようとする。


「メイ!」


「触らせて!」


その時だった。


赤ん坊の胸が、ほんの少し動いた。次に、細い音が漏れた。


「……ぁ」


誰も動かなかった。


もう一度。


「……あ」


小さな声。泣き声だった。


あまりに弱い。それでも、泣いた。


メイの身体から力が抜けた。


「……泣いた」


マギーが頷く。


「泣いたよ」


メイは涙を流した。


「よかった」


その言葉を言った瞬間、エスターがこちらを見た。


「まだだ」


メイの表情が止まる。


「何?」


「まだ喜ぶのは早い」


エスターは小さな身体を布で包みながら言った。


「小さすぎる」


赤ん坊の声は、もう聞こえなかった。胸だけが、かすかに動いている。


「炉を絶やすな」


エスターが言った。


「もっと布を温めて」


マギーが立つ。クララが火のところへ行く。薪がまた弾けた。


メイは赤ん坊を見た。


自分の腕はもう痛くない。肩も。脚も。海で傷ついたところも。身体は、勝手に戻っている。


でも、あの小さな身体は、何も戻っていなかった。


「……何で」


誰にも聞こえない声だった。


エスターが赤ん坊をメイの胸へ置いた。


軽い。怖いほど。


メイは両腕で包んだ。


「温めな」


言われた通り、抱く。自分の胸の熱を渡す。それしかできない。


赤ん坊の頬へ触れる。冷たい。


「ここにいるよ」


返事はない。


「聞こえる?」


胸が小さく動く。一度。また一度。


メイはその動きを見続けた。


炉の中で、薪がひとつ弾けた。誰かが新しい薪を足す。


メイは赤ん坊を抱いたまま、一度も目を離さなかった。


夜が深くなる頃には、メイの身体から痛みがほとんど消えていた。それがおかしいことに、最初に気づいたのはエスターだった。


「痛くないのかい」


赤ん坊を胸へ抱いたまま、メイは顔を上げた。


「何が?」


「下腹」


「少し」


「少し?」


「うん」


エスターは眉を寄せた。


「腰は」


「平気」


「頭は」


「平気」


「寒気」


「ない」


「気分悪くない?」


「お腹減った」


エスターが黙った。メイは首を傾げる。


「何?」


「普通はね」


「うん」


「今あんたみたいな顔で腹減ったなんて言わないんだよ」


「じゃあ言わない」


「そういう意味じゃない」


マギーが持ってきた煮込みを机へ置いた。


「食べられるなら食べな」


メイは片手で匙を取ろうとした。エスターが止める。


「待ちな」


「何で?」


「血を見たい」


「私の?」


「他に誰がいる」


布を確かめる。エスターの顔がまた変わった。


「少ない」


「何が?」


「血だよ」


メイは自分でも見る。出産のあとだから血が出る。それは聞いていた。けれどエスターが予想していたほどではないらしい。


「いいことじゃないの?」


「少ない方がいい」


「じゃあ何?」


「少なすぎるのが気に入らない」


メイは少し考えた。


「難しいね」


「そうだね」


エスターは答えながら、メイの腹へ手を当てた。しばらく押す。


「痛い?」


「そこは少し」


「少しなんだね」


また嫌そうな顔になった。


*


赤ん坊は泣かなかった。眠っているのかと思った。でもエスターは、「寝てるんじゃない」と言った。呼吸するだけで疲れている。


胸が上がる。下がる。少し止まる。メイが息を止める。また上がる。


小さい。あまりに小さい。布で包んでも、抱いている感じがしなかった。軽すぎる。


怖くなって少し強く抱くと、エスターがすぐ言った。


「押さない」


メイは腕を緩めた。


「落としそう」


「落とさない」


「軽いから分からない」


「だから見てな」


見ている。ずっと。


胸が動くたび、一。止まる。また動く。二。数えた。十まで行く。また一から数える。


けれど、十まで数え終わる前に、次の動きが来ないことがあった。そのたびに、メイは数を忘れた。


胸が上がる。下がる。止まる。今度は、さっきより長い。メイの指が、布の上で固まった。


「エスター」


「まだ」


「でも」


「まだ息をしてる」


言われて、メイはまた見る。胸がわずかに動く。次の息を待つ。今度は、止まったまま戻ってこないように見えた。


メイは息を吸えなかった。やがて、ほんのわずかに胸が動いた。メイもようやく息を吐いた。


*


「飲ませるよ」


エスターが言った。メイは赤ん坊を見る。


「どうやって?」


「まずやってみる」


胸へ寄せる。頬へ触れる。口元へ近づける。赤ん坊は口を少し動かした。でも、吸わない。


「ほら」


メイが言った。


「ここ」


口へ含ませる。一度。弱く動く。それだけだった。


「飲んだ?」


エスターが首を振る。


「もう一回」


メイはもう一度試した。赤ん坊の口が開く。閉じる。吸う力がない。


「何で?」


「早く生まれたから」


「お腹減ってないの?」


「減ってても、飲む力が足りないことがある」


「じゃあどうするの」


エスターは小さな匙を持ってきた。メイから少し乳を絞る。ほんのわずか。匙の先につける。赤ん坊の唇へ触れさせる。


一滴。口へ入る。しばらく待つ。


「飲んだ?」


「待ちな」


喉が小さく動いた。メイが息を吐く。


「飲んだ」


「もう少し」


もう一滴。今度は口の端から流れた。メイが慌てて拭う。


「出た」


「急がない」


「でも飲まないと」


「急いだらもっと飲めない」


「どれくらい?」


「少しずつ」


「いつまで?」


エスターは答えなかった。メイが見る。


「いつまでやればいいの」


「この子が自分で飲めるまで」


それが明日なのか、何日後なのか、誰にも分からなかった。


*


メイは食べた。煮込みを全部。パンも。水も飲んだ。


少し眠れと言われた。眠れなかった。


赤ん坊を胸へ置く。布。その上からさらに毛布。炉では火が燃えている。ぱち、ぱち。火が弱くなるたび、誰かが薪を足した。


マギー。クララ。夜中にはサラも来た。誰か一人は必ず起きていた。


部屋を暖かくする。布を温める。赤ん坊の口へ少しずつ飲ませる。身体が冷えていないか触る。呼吸を見る。それだけだった。


何か特別な薬があるわけではない。医者が奇跡を持ってくるわけでもない。一度にできることは、ほんの少しだった。


一滴飲ませる。温める。息をしているか見る。次の息を待つ。また一滴。また待つ。


朝まで、それを繰り返した。


*


夜が明けた。メイは立った。エスターが止めるより早かった。


「何してる」


「水」


「言えば持ってくる」


「そこにある」


机まで歩く。普通に歩けた。足元もふらつかない。水差しを持つ。飲む。戻る。


エスターが見ている。


「何?」


「座りな」


「平気」


「分かってる」


言い方が違った。メイは座った。


エスターが近づく。昨日まで海水で赤くなっていた目。咳き込み続けていた胸。擦り傷。出産。一晩しか経っていない。


それなのに、メイの顔色は良くなっていた。頬に血の気がある。唇も赤い。呼吸も普通。


昨日まで大きく膨らんでいた腹も、当然まだ完全には戻っていない。それでも、昨日より明らかに小さい。


エスターが腹へ手を触れる。


「痛い?」


「もうほとんど」


「歩いて?」


「平気」


「立って?」


「平気」


「座って?」


「それも聞くの?」


「聞く」


「平気」


エスターは何も言わなかった。


「おかしい?」


メイが聞く。少し間があった。


「ああ」


初めて、はっきり言った。


「おかしいよ」


*


その横で、赤ん坊の身体は冷たくなり始めていた。最初に気づいたのはメイだった。


頬へ触れる。


「エスター」


返事より先に、もう一度触る。


「冷たい」


エスターが来る。首。胸。手。足。


「布を」


マギーが温めていた布を持ってくる。包み直す。メイの胸へ戻す。


「もっと近く」


「これ以上?」


「肌に当てな」


メイは胸元を開いた。小さな身体を直接抱く。冷たい。自分の熱が吸われていく。


「私、熱いから」


メイが言った。


「ちょうどいい」


エスターが答える。


「全部あげる」


「全部はいらない」


「でも冷たい」


「ゆっくりでいい」


赤ん坊は動かなかった。昨日は弱くても声を出した。今は、それすらない。


メイが指を出す。小さな手へ触れる。握らない。


「ねえ」


反応がない。


「昨日、動いたでしょう」


腹の中にいた時は、とん、と蹴った。トミーが触った時も。食べたあとも。夜も。何度も。


「動いて」


小さな手を撫でる。動かない。


「ねえ」


エスターが言った。


「メイ」


「何?」


「呼吸を見て」


胸を見る。わずかに動く。長い間が空く。メイは数えようとした。


一。二。三。四。五。まだ動かない。


「エスター」


「待って」


六。七。


「まだ」


「エスター」


「待って」


八。九。


胸が、小さく上がった。メイの肩から力が抜ける。


でも、次の息はさらに遅れた。メイは数えることができなかった。ただ胸を見た。


動く。止まる。長い沈黙。ようやく、また動く。


*


昼になる頃には、メイは昨日より元気になっていた。赤ん坊は昨日より弱っていた。


そのことを、誰も口にしなかった。言わなくても分かった。


メイは自分で立って食事を取った。赤ん坊は自分で飲めない。


メイは水を一杯飲み干した。赤ん坊は一滴を飲み込むのにも時間がかかった。


メイの身体は熱を作る。赤ん坊の身体は熱を失う。


メイは眠らなくても目を開けていられる。赤ん坊は目を開ける力もない。


メイの擦り傷は消えた。赤ん坊には、治す傷すらない。ただ、生きる力そのものが足りなかった。


メイはその違いを見続けた。そして、見るたびに、呼吸を数えた。


一。止まる。二。次の数へ進めないまま、長い間が空く。


*


昼過ぎ、クララがメイの左腕を見た。


「ここは残ってる」


「何?」


指された場所を見る。左手の甲。赤い、二つに割れた蹄のような痣。マズと触れ合ったあとからあるもの。


海で擦った傷はなくなった。細かな切り傷も。針仕事で作った小さな古傷まで薄くなっていた。


でも、その痣だけは消えていない。


メイは右目を鏡で見た。深い緑。左は青い。髪は金色。


自分の身体には、残るものと、消えるものがある。その理由は分からない。


でも今は、どうでもよかった。


鏡を伏せた。赤ん坊を見る。こちらには、何も起きていない。


「何で私だけなの」


今度は、はっきり声に出た。誰も答えなかった。


赤ん坊の胸が動いた。止まった。メイは鏡から目を離し、次の息を待った。


*


夕方、トミーが来た。サラと一緒だった。


部屋へ入る前から、いつもの足音が聞こえた。走っている。すぐに、「走らない!」というサラの声。


メイは思わず笑った。


扉が開く。トミーは入ってきて、いつもの勢いでメイのところへ来ようとした。途中で止まった。赤ん坊を見たからだった。


「赤ちゃん?」


声まで小さくなる。


「うん」


トミーが近づく。


「小さい」


「うん」


「寝てる?」


メイは少し迷った。


「疲れてる」


トミーはしばらく見ていた。


「触っていい?」


前にも聞かれた。腹の中にいた時。メイは頷いた。


「手、洗った?」


トミーが自分の手を見る。汚れている。


何も言わずに走り出した。


「だから走らない!」


サラの声。


少しして戻ってきた。今度は、両手を濡らしたままではなかった。布で拭いている。


「拭いた」


メイは笑った。


「覚えたね」


トミーは一本の指で、赤ん坊の手へ触れた。ほんの少し。


「動かない」


「うん」


「俺の時は動いた」


メイは答えなかった。


トミーがさらに近づく。


「起きて」


小さな声だった。


「俺だよ」


返事はない。トミーの指の下で、赤ん坊の手は動かなかった。


その間にも、胸が一度動いた。トミーは指を引っ込めた。


*


サラがトミーを連れて帰ったあと、メイは一度だけ考えた。


あの時、海へ入らなければ。トミーはどうなっていた。自分はどうなっていた。この子は、今も腹の中にいたのかもしれない。


鼻の奥へ意識を向ければ、もしかすると何か分かる。甘い匂い。嫌な匂い。自分が選ばなかった道。


そちらの方が良かったのか。悪かったのか。知ることができるかもしれない。


メイは息を吸った。乳の匂い。薪の煙。煮込み。温めた布。それだけだった。


それ以上、探さなかった。


トミーは生きている。この子も、今は生きている。それだけを見た。


選ばなかった方の道に、答えをもらうつもりはなかった。


けれど、腕の中の呼吸が途切れるたび、メイは数えた。


一。二。三。長い沈黙。戻ってくる。


また、一。二。今度は、三まで届かなかった。


*


二日目の夜。メイはもう、ほとんど普通に歩いていた。


階段も下りられた。ぎい。ぎい。


以前は途中で休んだ階段を、止まらず下まで行けた。


水を汲む。戻る。上る。


途中で、自分が立ち止まっていないことに気づいた。


振り返る。階段を見る。


数日前まで、腹を抱えてここで息を整えていた。今は、息すら切れていない。


奇妙だった。


怖いと思うより先に、上の部屋から声がした。


「メイ!」


エスターだった。


水差しを持ったまま、メイは駆け上がった。駆けた。自分でも気づかなかった。


*


赤ん坊の呼吸が、また浅くなっていた。


メイは水差しを置く。抱き上げる。


「冷たい」


「胸へ」


エスターが言う。もう何度目か分からない。


胸へ抱く。包む。火を強くする。少し飲ませる。


口へ一滴。飲み込まない。待つ。


「お願い」


喉が動いた。メイが息を吐く。


もう一滴。今度は口の端から流れた。


「飲んで」


メイが拭う。


「飲んでよ」


もう一度。


赤ん坊は口を開かなかった。


メイは自分の手を見る。傷がない。震えてもいない。力もある。身体は温かい。肺も痛くない。


海に沈んだのは、ほんの数日前だ。子どもを産んだのも。


なのに、自分だけが何もなかったように戻っていく。


腕の中では、その逆のことが起きている。一息ごとに、赤ん坊の身体から何かが少しずつ減っていく。


メイは胸へ強く抱き寄せそうになって、止めた。壊してしまいそうだった。


力を緩める。


「私の方は、もういいのに」


誰に言ったのか分からなかった。


「こんなに治らなくていいのに」


赤ん坊の胸が、小さく動いた。長い沈黙。


メイは待った。


一。二。三。四。五。


「こっちを治してよ」


返事はない。


六。七。


海の中の森も。深い緑の目も。身体の奥を走る熱も。何も答えなかった。


八。九。


赤ん坊の胸が、かすかに動いた。


メイは赤ん坊の呼吸を見た。一度。長く待つ。もう一度。また待つ。


次の息が来るまでの間が、さっきより長い。


自分の心臓だけが、嫌になるほど強く鳴っていた。


その夜は、誰も眠らなかった。赤ん坊の呼吸が止まるたび、メイも息を止めた。一、二、三、四。胸が動く。メイが息を吐く。また止まる。一、二、三。今度は早く動く。それを何度繰り返したか分からない。エスターも数えていた。声には出さない。ただ小さな胸を見ている。マギーは炉の前にいた。火が弱くなれば薪を足す。クララは温めた布を取り替える。ノアは階下と部屋を何度も往復した。湯、薪、水。必要だと言われたものを持ってくる。誰も大きなことはできなかった。一滴飲ませる。温める。待つ。息をしたら、また待つ。それだけだった。


*


夜中を過ぎた頃、赤ん坊の呼吸が一度、長く止まった。一、二、三、四、五。メイは胸を見る。動かない。六。「エスター」「待って」七、八。「エスター」「まだ」九。メイの指が震えた。十。「ねえ」返事を待たず、赤ん坊の身体を少し起こした。エスターが背へ手を添える。「強くするんじゃない」「分かってる」十一、十二。メイには、自分の心臓しか聞こえなかった。どくん。どくん。どくん。こんなに強く動かなくていい。自分の方は、もういい。十三。「息して」赤ん坊へ言う。「お願い」十四。小さな胸が、ぴく、と動いた。メイの身体が固まる。もう一度。浅い。でも、息だった。エスターが背を撫でる。「そう」静かな声だった。「それでいい」もう一度、胸が上がる。メイは顔を伏せた。涙が落ちそうになり、手で拭った。「よかった」今度はエスターも否定しなかった。ただ、「次を見な」と言った。メイは顔を上げた。次の息を待った。


*


朝になった。赤ん坊は生きていた。元気ではない。泣きもしない。自分ではまだほとんど飲めない。それでも昨夜より、呼吸の間は少し短くなっていた。三つ数える前に、次の息が来ることが増えた。一、二。胸が動く。一。胸が動く。ときには数える前に次が来る。そのたび、メイは少しだけ安心した。


「寝てもいいよ」とマギーが言った。「まだ」「昨日から寝てないだろ」「眠くない」「身体は?」「平気」マギーが嫌な顔をした。最近、みんな同じ顔をする。「それが怖いんだよ」メイは答えなかった。自分でも分かっていた。平気すぎる。腹も減る。立てる。歩ける。階段も上れる。海へ沈んだことも、子どもを産んだことも、身体だけがどんどん忘れていく。赤ん坊は、息をするだけで一日を使っている。メイには、自分の元気さを見せることさえ申し訳なく思えた。


*


昼。エスターがもう一度、メイの身体を調べた。腹、脈、呼吸、出血、海で傷ついたところ。最後に顔を見る。「こっち見な」「何?」「いいから」メイが顔を上げる。エスターは目を細めた。「やっぱり違うね」


メイは机の上の小さな鏡を取った。左。青。見慣れた色だった。セントルイスを出る前にはなかった色。メルクが自分の中へ入ってから、ずっとそこにある。右。深い緑。海の中で見た葉と同じだった。メイはしばらく鏡を見た。驚きはしなかった。「……やっぱり」


エスターが聞く。「何が?」「何でもない」「そう」メイは右目へ触れた。「海にいたもの」エスターには意味が分からない顔だった。メイも説明しなかった。説明できるほど分かっているわけではない。でも、初めてではなかった。水の中でメルクが入ったあと、目が青くなった。金の茸のあと、髪が金色になった。赤い角の獣のあと、左手へ蹄形の痣が残った。だから、この深い緑も、傷つけばすぐ塞がる身体も、たぶん同じだった。


海の底で見た、あのケルプの森。その奥にいた何か。名前は知らない。何を望んでいるのかも知らない。それでも、もう自分の中にいる。そう思えば、むしろ納得できた。


「嫌じゃないの?」エスターが聞いた。メイは赤ん坊を見る。「今は、どうでもいい」鏡を伏せた。小さな胸が動く。そちらの方が大事だった。


*


三日目。赤ん坊は初めて、ほんの少しだけ自分で乳を吸った。一度。弱い。止まる。もう一度。メイは動かなかった。声も出さなかった。三度目。小さく吸う。


「飲んでる?」小声で聞く。エスターも小声で答えた。「飲んでる」「本当に?」「静かに」


メイは黙った。赤ん坊の口が動く。少し。止まる。また少し。それだけだった。でも、匙ではない。自分で飲んだ。メイは笑った。しばらくして赤ん坊が疲れ、口を離した。


「もう終わり?」「今日はそれでいい」「少なすぎない?」「昨日まで一人じゃ何も飲めなかった」


メイは赤ん坊を見る。確かにそうだった。昨日より一つできた。それでいい。


*


四日目の午後、メイは久しぶりに針を持った。仕事へ戻るためではない。赤ん坊のためだった。クララが持ってきた柔らかい布を、小さな身体に合わせて縫い直していた。


「休んでてもいいのよ」「座ってる」「そういう意味じゃない」「これくらいできる」


針を通す。糸を引く。もう一針。赤ん坊を見る。胸が動いている。また手元へ目を戻す。ちく。「あ」


針先が左の人差し指へ刺さった。深くはない。針仕事をしていれば、何度もある程度の傷だった。メイは反射的に指を口へ持っていこうとした。途中で止める。針穴から、赤いものがほんの少し浮いた。血の玉になる。その前に、消えた。


メイは指を目の前へ持ってくる。穴もない。押してみる。何も出ない。


「どうしたの?」クララが聞く。「刺した」「見せて」


指を見せる。クララが眉を寄せる。「どこ?」「ここ」「何もないわよ」「うん」


メイは自分の指を見た。驚かなかった。むしろ、確認したような気持ちだった。「やっぱり」


「何が?」


メイは少し考えた。「海のやつ」「海?」「うん」


クララがさらに分からない顔をする。メイは笑った。「気にしないで」「気になるわよ」「私も全部は分かってないから」


もう一度、指を見る。傷つけば、戻る。海の底で感じたもの。生きる。理由もなく。ただ、残ったところから続いていく。どうやら、それが自分の身体にも残ったらしい。もう一度試そうとは思わなかった。必要もなかった。


メイは針を持ち直した。「今度は気をつける」クララが呆れた。「そういう話なの?」「多分」また縫い始めた。


*


午後。引き出しを開ける。紙が一枚入っていた。ずっと前に書いたもの。子どもができます。その下。父親は――そこで止まっている。


メイはしばらく眺めた。あの頃は、書けば全部が本当になってしまう気がして、送れなかった。今はもう、書かなくても本当だった。子どもはいる。すぐそばに。小さく息をしている。


古い紙を折る。捨てずに、引き出しの奥へ戻す。新しい紙を出した。セントルイスの家族へ。最初の一行を書く。子どもが生まれました。


少し考える。女の子です。とても小さいです。予定より早く生まれました。赤ん坊を見る。胸が動いている。元気です。そこまで書いて、止まった。


違う。その言葉を線で消した。少し迷って、書き直す。生きています。


メイはその言葉を見た。生きています。それで十分だった。今は。


*


手紙を乾かし、机の上を片づける。立ち上がる。壁へ立てかけた杖を手に取った。何気なく握っただけだった。そこで、指が止まった。


「……あ」


七つの窪みを見る。白。枯れた金。黒。その下。四つ目。石がある。


いつからそこにあったのか、分からなかった。海から戻った時か。子どもを産んだ時か。その夜か。もっと後か。ここ数日、杖を気にする余裕などなかった。だから、気づかなかっただけなのかもしれない。


褐色の石。黄土。濃い茶。灰色がかった茶。筋が重なり、木目や年輪のように見える。濡れた土にも似ていた。メイは親指で表面を撫でた。動かない。初めからそこにあったように収まっている。


メイは少しだけ笑った。「やっぱり」


右目。治る身体。そして石。これで十分だった。海の底の森にいたものは、メルクたちと同じだったのだろう。名前は知らない。声も聞いていない。でも、自分の中へ入った。それだけは、もう疑わなかった。


四つ。空いた窪みは、あと三つ。メイは杖を壁へ戻した。今はそれ以上、考えなかった。赤ん坊のところへ戻る。


*


その日の夕方、ノアが手紙を預かりに来た。


「セントルイス?」「うん」「やっと書いたんだ」「うん」


ノアは封筒を受け取った。赤ん坊を見る。「今日は?」「少し飲んだ」「自分で?」メイが頷く。「三回」「回数まで数えてるんだ」「当然でしょう」「呼吸も?」「数えてる」


ノアは少し黙った。「君も寝た方がいい」「みんなそれ言う」「みんな正しいんじゃない?」「私、元気だから」


言ってから、メイは顔をしかめた。ノアも気づいた。「……ごめん」「ノアが謝ることじゃない」


赤ん坊を見る。「本当に元気なんだよ」声が小さくなる。「それが嫌」


ノアは返事をしなかった。しばらくして、「手紙、出してくる」と言った。「うん」


いつものやり取りだった。それが少し嬉しかった。


*


五日目の夜。赤ん坊は昼よりよく飲んだ。ほんの少し。それでも昨日より多かった。メイは初めて、今夜は少し眠れるかもしれないと思った。エスターも、「交代で寝な」と言った。


炉には薪が入っている。部屋は暖かい。赤ん坊を胸へ抱く。呼吸を見る。一。胸が動く。すぐ次。また動く。メイは目を閉じた。ほんの少しだけ。


*


何かがおかしい。そう思って目を開けた。理由は分からなかった。赤ん坊の胸を見る。動かない。一、二、三。「……ねえ」四、五。頬へ触れる。六。冷たい。


「エスター」


返事がない。七。「エスター」エスターが起きた。こちらを見る。八。すぐに立つ。九。赤ん坊を覗き込む。


「いつから?」「分からない」「さっきまでしてた」「息してた」


エスターが赤ん坊へ手を伸ばす。メイは離さなかった。「メイ」「待って」


十二。胸が動いた。ほんの少し。でも、次が来ない。「……何で」


エスターが背を擦る。口元を見る。頬へ触れる。


メイには、別のものが見えていた。赤ん坊の中の、細い力の流れ。腹にいた時は、自分の中に一緒にあった。今は違う。完全に別の命だった。その流れが、細い。昨日より。今朝より。さっきより。消えそうなほど。


「嫌」「メイ」「嫌だ」


火はある。布もある。乳もある。人もいる。ここまで、みんなで生かしてきた。でも、足りない。


メイは自分の手を見る。傷一つない。昼に針を刺した指にも、跡すらない。自分の身体には、使い切れないほど生きる力があるように思えた。腕の中には、それが足りない。


「これ、あげられないの?」


エスターは答えられない。


「私の」


自分の胸へ手を置く。心臓が強く鳴っている。「こんなにあるのに」赤ん坊を見る。「何で、こっちにいかないの」


答えはなかった。


海の森から入ったものは、メイを治す。メルクは流れを見せる。金色のものは、先の匂いを残した。赤い角の獣は、過ぎたものを触れさせた。全部、自分の中にいる。


なら。


メイは目を閉じた。今までなら、向こうから来るのを待っていた。水の少女。金色の茸。赤い角の獣。海の底の森。いつも、気づけばそこにいた。


でも、今は待てなかった。待っていたら、この子がいなくなる。


メイは自分の中を探した。一番古いところから。金ではない。火でもない。海の緑でもない。もっと前。セントルイス。宿屋。ルーシー。トーマス。川。涙。水の底。小さな少女。あの声。


どうして。


メイは赤ん坊を胸へ抱いた。細い呼吸を待ちながら、初めて、こちらから呼んだ。


「……メルク」


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