ドドメ 序
ドドメ 序
「……メルク」
返事はなかった。
腕の中で、娘の胸が動かない。
メイは数えた。
一。二。三。
小さな唇がわずかに開いている。鼻の下へ指を寄せても、息が触れなかった。
四。五。六。
エスターが何か言っている。火のそばではマギーが布を替えている。階段を上ってくる足音も聞こえる。全部そこにあるのに、ひどく遠かった。
七。八。九。
「……メルク」
今度は声にした。
十。十一。
娘の喉が小さく引きつった。
ひっ、と、かすかな音がした。胸が持ち上がる。メイも息を吐いた。
けれど、次が来ない。
「お願い」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
「いるんでしょう」
左目の奥が冷えた。
部屋が消えたわけではない。火も、エスターも、腕の中の娘もいる。その向こうから、もう一つの景色が滲んできた。
暗い水だった。
岸も底もない。水の中なのに息苦しくはなく、細い光の筋だけが幾重にも流れている。どこから来て、どこへ行くのかは見えない。ただ、途切れずに進んでいた。
メイはその光を知っていた。
川で。
山で。
海で。
何度も見てきた流れ。
娘の中にも一本あった。
細い。
あまりにも細い。
胸の奥でかすかに揺れ、今にも消えそうだった。
「メルク」
水の上に、小さな裸足が見えた。
少女が座っていた。
十歳くらい。白っぽい簡素なワンピース。膝まである黒髪は濡れたように束になり、毛先から落ちた雫は水面へ戻る前に、光の流れへ吸い込まれていく。
青い瞳だけが、暗い水の中で妙に明るかった。
昔、ミシシッピで見た少女だった。
少女は水面へ指を入れたまま、メイを見る。
「やっと呼んだ」
声まで変わっていなかった。
「……やっぱり、いた」
「いたよ」
「ずっと?」
「ずっと」
メイは娘を抱き直した。
「じゃあ、助けて」
メルクは首を横に振った。
「わたしは流れを見つけるだけ。命を渡すことはできない」
「だったら、この子に足りないものを探して」
「それならできる」
「どこにあるの」
メルクは娘の中を走る細い流れを見た。
それから、少し考えて顔を上げる。
「ほかの子もいるよ」
「ほかの子?」
「うん」
「誰?」
メルクは水面を指先で叩いた。
「呼んでみる?」
一つ。
二つ。
三つ。
波紋の輪が重なり、暗い水の上へ人影が現れた。
最初の女は二十歳ほどに見えた。
金色の長い髪を片側へ流し、日に焼けた肌に薄い黄色のドレスをまとっている。細身だが、琥珀色の瞳には妙な強さがあった。
女の足元だけ、水面がかすかに揺れている。
近づいてもいないのに、甘い匂いがした。
あの匂い。
金を見つける前に漂っていたもの。そして、自分の髪を金色にしたもの。
メイは反射的に髪へ触れた。
女が笑う。
「やっと気づいた」
メイはメルクを見た。
「この人が?」
「ヴィナ。欲しいものの匂いを知ってる」
ヴィナは胸元へ指を当てた。
「わたしは、選んだ先で何を得て、何を失うかを知らせる」
「この子を助ける道は分かる?」
「道そのものは見えないよ。けれど、甘い匂いだけの道はない」
笑みが薄くなる。
「欲しいものには、必ず別の匂いがついてくる」
次の女は三十歳ほどだった。
背が高く、肩幅がある。赤黒い髪を短く切り、額から跳ねた二房が角のように見えた。日に焼けた頬には細い傷が走り、袖をまくった腕には筋肉が浮いている。
立ち方に隙がない。
その女を見た瞬間、メイの左手の甲が熱くなった。
赤い蹄形の痣。
「……あなた」
女は腕を組んだ。
「撃ったな」
メイの顔が引きつる。
「羊だったでしょう」
「羊だった」
「喋らなかったじゃない」
「喋る必要がなかった」
メルクが言った。
「マズ。過ぎたものを読む」
「それで、この子を助けられる?」
「助けた者の記憶に、方法が残っているならな」
「誰に触ればいいの」
「知らん」
「役に立たない」
「私は答えを作らない。残ったものを見せるだけだ」
最後の女は、四十歳くらいに見えた。
三人の中でもっとも静かだった。
背は高いが細く、深い緑がかった黒髪が腰まで伸びている。風もないのに髪はゆっくり揺れ、海の底の葉のようだった。
深緑と黒の布が幾重にも重なり、裾は水へ溶けている。そこから細い根のようなものが伸びていた。
女は何も言わず、メイを見た。
右目の奥が疼いた。
海。
沈む身体。
巨大な葉。
千切れ、食われ、それでも伸びていた森。
水の底で、死んだものが別の形へ変わっていく気配。
メイは息を呑んだ。
「……海にいたのは、あなた?」
女がゆっくり頷いた。
「ジユ」
メルクが名を告げる。
ジユは初めて口を開いた。
「わたしは、失われたものの行き先を知っている」
「死んだものの?」
「死んだものだけではない。食べられたもの、崩れたもの、捨てられたものも」
「それが、この子を助けるの?」
「別の形で戻ることはある」
「戻せる?」
「同じ形では」
メイは四人を見た。
「みんな、できないって言う」
ヴィナが笑った。
「わたしは、選択の代価を教えられる」
マズが続ける。
「私は、残った記憶を見せる」
ジユは娘を見た。
「わたしは、失われたものがどこへ行くかを知っている」
メルクが言った。
「わたしは、道を見つける」
「それで、誰がこの子を助けられるの?」
四人は答えなかった。
娘の中の細い流れだけが、かすかに揺れた。
ヴィナが先に口を開いた。
「あなた」
「私?」
「あなたが選ぶ。あなたが渡す。あなたが失う」
メイは娘を抱きしめた。
「この子が生きる道を探して」
「匂いを教えるだけ。選ぶのはあなた」
甘い香りが強くなった。
同時に、鼻の奥へ腐ったような臭いが入り込む。
甘い。
臭い。
甘い。
臭い。
水の流れが、どこかで二つに分かれたような気がした。
「何よ、これ」
「あなたが欲しい道」
ヴィナの声から、笑いが消えた。
「何かを得る。何かを失う」
「この子が助かる?」
甘い匂い。
「何かを失う?」
臭い。
メイはすぐに答えた。
「それでいい」
「何を失うか知らないのに?」
メイは娘を見る。
「この子より大事なものなんてない」
ヴィナは黙った。
「だから、それでいい」
その沈黙は、初めてメイの答えを値踏みしているようだった。
メイはマズへ向いた。
「あなたは?」
「過ぎたものを見る」
「助け方も?」
「助けた者の記憶に触れればな」
「誰に触ればいいの」
「知らん」
「やっぱり役に立たない」
「そうだな」
マズはあっさり認めた。
「だが、おまえは今までに随分触っている」
「何に?」
「人に。物に。死にかけた者にも」
メイは左手を見る。
マズが続けた。
「見たものを、全部覚えているわけじゃないだろう」
「……うん」
「おまえが忘れていても、残っているものはある」
「どこに?」
マズが自分の胸を指した。
「ここだ」
それから、メイの左手を見た。
「見てから決めろ」
痣が熱くなった。
新しい記憶ではなかった。
いつか誰かへ触れた時、一瞬だけ流れ込み、そのまま他の記憶に埋もれていたもの。
マズが、その奥から引きずり出してくる。
皺だらけの手。
土を掘っている。
深く。
ゆっくり。
黒く湿った土の間を、細い根が逃げていく。
穴の底へ、小さな白い布包みが置かれた。
泣いている女。
場面が変わる。
大きな木箱。男たちが縄で穴へ下ろしている。土が落ちる。
また変わる。
十字架。濡れた草。黒い服。鐘。
鐘の音が土の中まで沈んでいく。
また土。
また墓。
子ども。
老人。
知らない人々。
誰もが最後には土をかけられていた。
けれど、土の下で何かが終わることはなかった。根が伸び、虫が這い、見えないものが別の場所へ流れていく。
最後の記憶だけ、少し違った。
小さな教会。
誰もいない長椅子。
正面の十字架。
床板の下から、湿った土の匂いが上がっている。
その前で、黒い服の女が祈っている。
顔は見えない。
祈りは声にならず、教会の奥へ沈んでいった。
そこで記憶は切れた。
メイは目を開けた。
「今の女は誰?」
「知らん」
「誰の記憶?」
「それも分からん」
「そんなのあり?」
「おまえが今まで触れてきた誰かだ。人かもしれん。物かもしれん」
マズは肩をすくめた。
「その時のおまえは、大事だと思わなかった。それだけだ」
土の匂いが、まだ指先に残っていた。
「教会……」
メルクが水面へしゃがんだ。
「下だったよ」
「何が?」
「探してるもの」
少女は水の下を指した。
「みんな違うけど、ひとつだけ同じ」
「何が」
「最後は下へ行く」
土。
墓。
埋められるもの。
その上で生きるもの。
水の流れは、土の下にも続いている。
ジユが口を開いた。
「なくなるわけじゃない」
メイが振り返る。
「何が?」
「死んだもの」
ジユは自分の足元を見る。
「食べられる。崩れる。混ざる。別のものになる」
「それが、この子を助けるの?」
「知らない」
「でも、そこに誰かいる?」
ジユは答えなかった。
メルクが代わりに言う。
「いると思う」
「誰」
メルクは黙った。
「名前は?」
それでも、答えは返らなかった。
メイは四人を順に見た。
水の上に立つ四人の影は、どれも水面へ完全には映っていなかった。それぞれが別の方向を向いているのに、娘の中の細い流れだけが、四人の足元を通っていた。
「あなたたちでも知らないの?」
ヴィナが肩をすくめる。
「知り合いじゃないもの」
マズが鼻を鳴らした。
「会えば分かる」
ジユだけが、じっと娘を見ていた。
「早くした方がいい」
その言葉で、景色が崩れた。
暗い水。
金色。
赤。
緑。
土の匂い。
全部が一度に消えた。
メイは部屋へ戻った。
娘が腕の中にいる。
いや。
いつの間にかエスターが抱いていた。
「メイ!」
肩を揺さぶられていた。
「聞いてるのかい!」
「……聞いてる」
「何をだい!」
エスターの声は荒れていた。怒っているのではない。怒鳴らなければ、何かが崩れそうなのだ。
腕の中で、娘が小さく息をした。
間が長い。
次が浅い。
メイは手を伸ばした。
「返して」
「何をする気だい」
「教会へ行く」
「医者を呼ぶんじゃないのかい」
「教会へ行く」
「理由は?」
「分からない」
エスターは目を細めた。
「分からない場所へ、この子を連れていくのかい」
「置いていけない」
「置いていけとは言ってない。あんたが抱えて歩けば、この子の息が止まるかもしれないと言ってるんだよ」
「それでも連れていく」
「メイ」
「この子を助けてもらう。だから、この子が必要なの」
エスターはしばらく黙った。
やがて、娘をメイへ返す。
「なら、落とすんじゃないよ。あんたまで倒れたら、二人とも終わりだ」
「分かってる」
「分かっている顔じゃないね」
その言葉に、メイは答えなかった。
マギーが厚手の布を持ってきた。
「先に包みな。外は冷える」
「夏なのに?」
「赤ん坊には夏も冬も同じだよ。息が細いなら、冷やさない方がいい」
マギーは手早く布を広げた。
「頭をこっち。首を支えて。そう、きつくしすぎない」
メイは言われた通りに娘を包んだ。
「ありがとう」
「礼はあとでいい」
マギーは娘の顔を覗き込む。
「教会へ行くなら、裏道を使いな。表は荷車が多い」
「一人で行く」
「誰も聞いてないよ」
「エスターもマギーも、ついてこなくていい」
「ついていくとは言ってない」
マギーは布の端を整えた。
「ただ、帰り道まで考えているだけさ」
エスターがため息をつく。
「この子は、決めたら人の話を聞かない」
「聞いてる」
「聞いて、無視する」
「必要なら」
マギーが鼻で笑った。
「そこだけは元気だね」
メイは娘を胸へ抱いた。布で包み、自分の上着の前をできるだけ閉じる。
小さな身体は軽かった。
軽すぎた。
それが怖かった。
階段を下りる。
少し前まで、一段ずつ休みながら上っていた階段だった。
今は苦しくもない。足も震えない。身体のどこにも痛みがない。
それが腹立たしかった。
「私ばっかり」
娘の頭へ頬を寄せた。
「こんなに元気で、どうするのよ」
外へ出た。
夏の日差しが目に刺さった。荷車が通る。男たちが荷を運ぶ。どこかで金槌が鳴る。パン屋から焼けた小麦の匂いがする。
娘が死にかけていても、サンフランシスコはいつも通りだった。
メイは娘を抱き直した。
「行こう」
返事はない。
それでも、腕の中にはまだ流れがある。
細い。
消えそうなほど細い。
けれど、ある。
なら、まだ間に合う。
メイは教会へ向かった。
教会までは、普段なら大した距離ではなかった。その日は遠かった。腕の中の娘が息をするたび、メイは立ち止まりそうになった。吸う。止まる。吐く。また止まる。歩きながら何度も顔を覗き込む。布から出た額は小さく、唇にはほとんど色がなかった。
「いるよね」
返事はない。
「まだいるよね」
目には見えている。細い流れ。弱く、頼りなく、それでも胸の奥を通っている。だから歩いた。
裏道を選んだ。表通りほど荷車は多くない。それでも男たちが木箱を運び、女が洗濯物を抱え、子どもが二人、棒切れを振り回して走っていた。メイはその横を通り過ぎる。世界は今日も忙しい。誰も、自分の腕の中にいる命があと何度息をできるのか知らない。
教会が見えた。白い壁。尖った屋根。小さな鐘楼。特別大きな教会ではなかった。何度か前を通ったことはある。中へ入ったことはなかった。
入口の扉を押す。重かった。蝶番が鳴る。
中は薄暗かった。外の夏とは違い、空気が冷えている。木の長椅子が左右に並び、その先に十字架がある。
何人か人がいた。前の方で頭を垂れている老婆。帽子を膝に置いた男。端の席には若い女が座り、その隣で子どもが退屈そうに靴を揺らしている。
メイは入口で立ち止まった。何をすればいいのか分からなかった。祈り方なら知っている。でも今、自分が誰に祈ろうとしているのかが分からない。神なのか。精霊なのか。それとも、土の下にいるという何かなのか。
娘が小さく息をした。それで十分だった。
メイは前へ進んだ。一番端の長椅子へ座る。娘を膝の上へ寝かせる。その頭を左腕で支え、右手で胸を包んだ。
弱い。でも動いている。
メイは十字架を見る。
「……お願い」
声が小さすぎた。
もう一度。
「お願い」
何を言えばいいのか分からない。だから、そのまま言った。
「この子を助けて」
誰も振り返らなかった。
「私はどうなってもいいから」
言葉にしてから、ヴィナの匂いを思い出した。甘い。臭い。得る。失う。それでも構わない。
「何を持っていってもいい」
娘の胸が止まった。
メイは息を呑む。一。二。三。
「お願い」
四。五。
娘が、ひ、と息を吸った。
メイは目を閉じた。
「これじゃ足りない」
自分でも、誰に言っているのか分からない。
「私にはあるのに」
身体は温かい。傷もない。疲れてもいない。心臓は強く動いている。いらないほど。
「こっちにあげたいの」
静かだった。
「できるなら、教えて」
返事はない。
「会って話せるなら、出てきて」
その時だった。
鐘が鳴った。一度。低い音が教会の中へ落ちてきた。
ご――ん。
その途中で、止まった。
メイは顔を上げた。音が消えたのではなかった。終わっていない。鳴った鐘の余韻だけが、途中で切り取られたように消えている。
隣の列で子どもが片足を上げていた。靴が床につかない。母親は子どもの肩へ手を伸ばした姿勢のまま動かない。前の男も。老婆も。誰も動かなかった。
メイは立ち上がった。
「……メルク?」
答えはない。
蝋燭を見る。炎が傾いていた。揺れない。窓から差した光の中で、小さな埃が浮いている。落ちない。
娘を見る。
胸が――動いていない。
「やだ」
メイの顔から血の気が引いた。
「違う、違う、これは――」
娘の口へ耳を寄せる。息がない。胸も動かない。
けれど、流れは消えていなかった。そこにある。細い光が、同じ場所で静止している。流れまで止まっている。消えたのではない。
メイはゆっくり息を吐いた。自分だけが動ける。
いや。
自分と――もう一人。
十字架の下。その影の中に、女が立っていた。さっきまでいなかった。
メイは娘を抱き上げた。
女は黒い服を着ていた。足首まで覆う長いドレス。袖も、襟元も黒い。頭には黒いヴェールが掛かり、顔の半分ほどを隠している。
五十代半ばほどに見えた。若さを失ったというより、長い年月をそのまま身にまとっているようだった。髪には白いものが混じっている。頬は痩せ、目尻には深い皺が刻まれていた。それでも、その顔には衰えとは違う静けさがあった。
肌は青白く、唇にはほとんど色がない。ただし死人には見えない。むしろ逆だった。立っているだけなのに、妙に重い。根を下ろしているように見える。
十字架の影が女の足元へ落ちている。
いや。
女が影から生えているようにも見えた。
「あなた?」
女は答えなかった。
「この子を助けられる?」
女がわずかに首を傾けた。黒いヴェールの奥で、目が見えた。褐色だった。土の色。
「随分、急いだのね」
声は低くなかった。むしろ柔らかい。ただ、その声には妙な古さがあった。
「時間がないの」
「今はあるでしょう」
メイは周囲を見る。止まった人々。止まった火。止まった娘の呼吸。
「これ、あなたが?」
「そう」
「戻して」
「話が終わったら」
「先に戻して」
「戻したら、この子の時間も動く」
メイは口を閉じた。
女が娘を見る。
「それでいいの?」
答えられなかった。
女は少し笑った。優しい笑いではない。馬鹿にした笑いでもない。ただ、知っている者の顔だった。
「あなた、誰」
「サタン」
メイは動かなかった。
「……それって――」
言い切る前に、サタンは一歩近づき、人差し指をメイの唇へそっと当てた。
「しっ」
土の中へ手を入れた時のような、湿ったぬくもりがあった。
サタンは指を離す。
「名前は名前よ」
それだけ言って、娘へ視線を落とした。
「あなたが聞きたいのは、一つだけでしょう」
メイも娘を見る。
「助けられる?」
「ええ」
返事はあまりにも簡単だった。
メイは顔を上げた。
「本当に?」
「その子を生かすことはできる」
胸の奥が痛んだ。
「じゃあ、お願い」
「まだ」
「何が」
「話が終わってない」
サタンは一歩、近づいた。メイは下がらなかった。
「あなたは、その子に何をあげるつもり?」
「何でも」
「何でも、というものはないの」
「命」
サタンが止まった。
「私の命をあげる」
「全部?」
メイは娘を見る。小さな顔。止まった呼吸。止まった時間の中でさえ、消えそうに見える。
「必要なら」
「死ぬわよ」
「それでこの子が生きるなら――」
「言い切らなくていいわ」
サタンの声は静かだった。
メイは顔を上げる。
「死ぬことを、簡単に約束してはいけない」
「簡単じゃない」
「そうでしょうね」
サタンは少しだけ目を細めた。
「だから、言葉にしなくていいの」
メイは何も言わなかった。
「あなたは、命を一つしか持っていないと思っているのね」
「一つでしょう」
「いいえ」
サタンはメイの胸へ指を向けた。
「人は、たくさん持っている」
「何を」
「自分を作っているものを」
メイは黙った。
サタンが続ける。
「顔。声。匂い。触れた手。呼ばれた名前。嬉しかったこと。腹が立ったこと。帰りたい場所」
一つずつ数えるように言う。
「そういうものを、人は抱えて生きている」
「それが命なの?」
「あなたにとってはね」
メイは娘を抱き直した。
「それをあげれば、この子は助かる?」
「減らせば、その分だけ渡せる」
「なら、あげる」
即答だった。
サタンは何も言わなかった。
「何?」
「早いのね」
「時間がないから」
「今は止まってる」
「じゃあ、なおさら早く決められる」
サタンが初めて、はっきり笑った。
「面白い子」
「それ、メルクにも言われた気がする」
「でしょうね」
「知ってるの?」
「知らない」
「じゃあ何で」
「そういう顔をしてるもの」
メイは少しだけ眉を寄せた。
「で、どうすればいいの」
サタンの笑みが消えた。
「本当に渡す?」
「渡す」
「戻らないものもある」
「いい」
「忘れるわよ」
メイの顔から、初めて表情が消えた。
「……何を」
サタンは答えなかった。代わりに問い返した。
「それを知ったら、やめる?」
メイは娘を見る。
長い沈黙だった。止まった時間の中では、どれだけ考えても娘の息は途切れない。だから初めて、考えることができた。
父。母。ルーシー。トーマス。イーライ。故郷。山。川。海。全部。
メイは娘の額へ唇をつけた。
「……やめない」
サタンは静かに頷いた。
「そう」
そして、右手を差し出した。
「なら、続きをしましょう」
サタンの右手は、差し出されたままだった。メイはその手を見る。
「握ればいいの?」
「ええ」
「そうしたら、この子を助けられる?」
「助けるのは、あなたよ」
メイは娘を左腕へ抱き直した。
「やり方を知らない」
「だから教えるの」
迷っている時間はなかった。メイは右手を伸ばし、サタンの手を握った。
冷たいと思った。違った。湿った土の奥へ手を差し入れた時のような、重いぬくもりがあった。
その瞬間、足の裏から感覚が消えた。
「――っ」
沈む。
メイは反射的に娘を抱きしめた。教会の床はそこにある。それなのに身体だけが、深い場所へ引かれていく。
床板。その下の土。細い根。虫。腐った木。骨。もっと古い骨。
何年も、何十年も、何百年も重なったものが、一度に身体の中を通り過ぎた。
死んだものが崩れている。食べられている。混ざっている。そこから根が伸びる。草が生える。虫が食べる。また何かが死ぬ。どこにも終わりがなかった。
「サタン……」
声を出したはずなのに、土へ吸われた。サタンは手を離さない。
「怖い?」
「この子が死ぬ方が怖い」
「そう」
黒い喪服の裾が崩れた。土になった。靴が消える。脚が消える。身体が、細かな黒い粒になっていく。
「何してるの」
「あなたが望んだこと」
腰。胸。肩。最後に、ヴェールの下の顔だけが残った。
「待って」
「もう待ったでしょう」
褐色の目がメイを見る。
「今度は、あなたが持つ番」
顔も崩れた。土が舞った。風はない。それでも黒い粒はメイの右手へ集まり、皮膚の中へ沈んでいく。
「痛っ……」
掌が熱い。指。手首。腕。肩。胸。重いものが身体の中へ入り込んでくる。
けれど苦しくはない。むしろ逆だった。自分の身体が、急に地面へつながったような感覚がした。
倒れても、その下にまだ何かがある。その下にも。さらにその下にも。
サタンの姿はもうない。声だけがした。
「右手で触れて」
メイは娘を見る。
「この子に?」
「ええ」
娘の時間は止まったままだった。胸も動かない。流れだけが、細い光のまま静止している。
メイは右手を娘の背中へ回した。小さすぎる。掌一つで、身体のほとんどを包めてしまう。
「それから?」
「口づけて」
メイは一瞬だけ黙った。
「どこに?」
「どこでもいい」
娘の額へ顔を寄せる。
「それで?」
「渡したいと願って」
「何を」
返事が少し遅れた。
「あなたが持っているものを」
メイは娘の額へ唇をつけた。右手で身体を支える。
「この子にあげる」
何も起こらない。
「お願い」
右手に力を入れる。
「この子に、私のをあげる」
掌が熱くなった。息を呑む。胸の奥で、何かが動いた。
心臓ではない。肺でもない。もっと奥。身体の内側に張られていた細い糸が、一本だけ引き抜かれる。
「あ――」
光景が浮かんだ。
セントルイス。朝。宿の台所。まだ外は薄暗い。
母がいる。エレン。髪を後ろでまとめ、火の前に立っている。
鍋。焼けたパンの匂い。母の背中。何かを切る音。
トントン。トントン。
メイはまだ眠くて、椅子へ頬杖をついている。
『起きなさい』
『起きてる』
『それは起きてる人の顔じゃないわ』
母が振り返る。笑っている。
いつもの朝だった。特別なことは何もない。だからこそ、何度もあった朝だった。
「……お母さん」
その景色が揺れた。台所の色が薄くなる。
鍋。火。パン。母の背中。全部がほどけていく。
「待って」
メイは唇を離そうとした。
「待って、これ――」
サタンの声が聞こえた。
「止める?」
娘の胸は動かない。メイは目を閉じた。母の声が遠ざかる。
『起きなさい』
その言葉まで消えていく。
「……止めない」
右手から何かが抜けた。掌を通る。娘へ。
メイには、それが何なのか分からなかった。熱なのか。命なのか。さっきの朝なのか。全部なのか。
ただ、自分から何かが減ったことだけは分かった。
右手の親指の付け根が焼けるように熱くなる。
「もういい」
サタンの声がした。
「離して」
メイは口を離した。娘を抱く右手はそのまま。
「これで?」
「時間を戻すわ」
「待って」
「何?」
「本当に助かるの」
「それを決めるのは、もう私じゃない」
メイは娘を見る。
「じゃあ誰なの」
「その子よ」
鐘が鳴った。
ご――ん。
止まっていた音が続いた。蝋燭の炎が揺れる。光の中の埃が落ちる。隣の子どもの靴が床へついた。男が咳をした。老婆が息を吐いた。
世界が動き出す。
娘の胸は――動かない。
「お願い」
一。二。
「お願い」
三。
喉が、小さく引きつった。
ひっ。
息を吸った。
メイの身体が震えた。
「もう一回」
娘の胸が下がる。また上がる。
「もう一回」
吸う。吐く。また吸う。
「そう」
メイは娘の額へ頬をつけた。
「そのまま」
娘の口が動いた。小さな音が漏れる。弱い。掠れている。それでも泣き声だった。
「……よかった」
メイは腕の力を緩めない。
次の呼吸。その次。まだ浅い。けれど続いている。
そこで初めて、サタンを探した。
十字架の下には誰もいなかった。
「サタン?」
返事はない。時間の止まっていた痕跡もない。ただ、自分の右手だけが熱かった。
メイは娘を抱いたまま掌を見る。何か小さなものがあるように見えたが、目を凝らす余裕はなかった。
娘がまた息をする。それだけを見る。
「帰ろう」
立ち上がる。
数歩進んだところで、ふと足が止まった。
何かがおかしい。何だった。
メイは眉を寄せた。
セントルイス。家。母。エレン。
顔は分かる。声も分かる。母だということも分かる。
けれど。
朝。
母は、朝になると何をしていた?
台所に立っていたはずだ。何を作っていた。どんなふうに自分を起こした。
思い出そうとする。何も出てこない。
「……あれ」
もう一度。
駄目だった。そこだけが、きれいにない。
胸の奥が冷えた。
サタンの言葉を思い出す。
忘れるわよ。
娘が腕の中で息をした。
メイは顔を下げる。
吸う。吐く。また吸う。
母の朝は戻らない。娘の呼吸は続いている。
メイはしばらく動かなかった。
やがて娘を抱き直す。
「……帰ろう」
今度は、歩き出した。
教会から戻るまで、娘は一度も呼吸を止めなかった。それだけで、行きより道が短く感じた。
メイは何度も腕の中を覗いた。息を吸う。吐く。また吸う。まだ浅い。まだ弱い。それでも、間に十も十一も数えることはない。
「いる」
歩きながら何度も言った。
「まだいる」
娘は答えなかった。
セント・マーサへ戻ると、入口にいたマギーがメイを見るなり駆け寄った。
「どうだった」
「息が続いてる」
「止まってないのかい」
「教会を出てから、一度も」
マギーの顔が強張った。
声を聞きつけて、エスターが階段を下りてくる。
「貸して」
娘を受け取ると、その場で胸へ耳を当て、口元へ頬を寄せた。
「上へ」
「大丈夫?」
「まだ分からない。早く」
メイもついて上がった。少し前まで、あれほど長かった階段だった。今は何でもない。
部屋では火がまだ燃えていた。エスターは娘を寝かせ、胸の上下を見、背中へ手を当て、口の中を確かめた。
娘が嫌がるように、小さく顔を背ける。エスターの手が止まった。
「動いた」
「うん」
「自分で嫌がった」
「それなら――」
「まだ」
エスターが遮った。
「まだ安心するんじゃない」
マギーが詰めていた息を吐く。
「泣いたかい?」
「教会で一度。小さかったけど」
「声が出たんだね」
「うん」
それ以上、誰も何も言わなかった。
娘はまだ弱い。呼吸が続いているからといって、助かったわけではない。エスターの指が胸の動きを追うたび、メイの視線もそこへ吸い寄せられた。
「湯を。もう一度温かい布も」
「分かった」
マギーがすぐに階段を下りていく。
メイは椅子へ座った。そこで初めて、右手に違和感があることに気づいた。
掌を返す。
「……何これ」
親指の付け根より少し内側に、小さな点があった。ほくろに見える。けれど黒ではない。赤とも紫とも茶ともつかない、熟しすぎた桑の実のような、黒に近い紫色だった。
針の先ほどの小さな点を擦ってみる。消えない。爪で軽く掻いても同じだった。
左手の甲を見る。赤い蹄形の痣。右手には、小さなほくろ。青い左目。深緑の右目。金色の髪。身体中に、出会ってきたものが残っている。
また一つ増えた。
「何かあったのかい」
エスターが振り返った。
「右手に、ほくろみたいなのができた」
「痛む?」
「少し熱い」
「見せて」
メイが掌を向ける。エスターは一瞬見ただけで娘へ視線を戻した。
「あとで見る。今はこの子だ」
「うん」
メイも手を閉じた。今は、それ以外に大事なことはなかった。
*
その日の夕方、娘は初めて自分から乳を吸った。二度。三度。途中で疲れて口を離したが、それでも昨日までとは違った。
「飲んだ」
「ほんの少しだ」
「でも、自分で」
「そうだよ。だから次まで持たせる」
エスターは娘の口元を拭い、胸の動きを確かめた。
「吸えたからって、もう安心していいわけじゃない。体力が戻ったわけじゃないんだ。次に息が止まったら、今度は戻らないかもしれない」
メイの指が強く縮こまった。
「見てる」
「眠くても見るんだよ」
「眠らない」
「倒れたら見られない。交代するときは呼ぶ」
「……分かった」
娘を抱きながら、メイは頷いた。
夜になっても呼吸は続いた。浅い。時々、間が空く。そのたびにメイの身体が強張る。それでも、娘は戻ってくる。
メイは眠らなかった。娘の胸を見ながら、時々右手を開く。
黒に近い紫色の点。大きさは変わらない。あれがサタンとの融合で残ったものなのだろう。
名前を聞いた時のことを思い出す。唇へ触れた指。湿った土のぬくもり。
人はたくさん命を持っている。顔。声。匂い。触れた手。呼ばれた名前。帰りたい場所。
メイは目を伏せた。
母が朝、台所で何をしていたのか。まだ思い出せない。考えれば戻る気がして、何度も試した。
駄目だった。
エレンの顔は分かる。母だということも分かる。笑い方も。怒った時に眉間へ皺が寄ることも。
でも、朝の台所だけが抜け落ちている。そこだけ、紙を切り取ったようにない。
思い出せないことが怖かった。
娘の命を救うために、何かを失った。それが分かっているのに、失ったものをもう確かめることができない。
「本当に戻らないんだ」
娘が動いた。
メイはすぐに顔を覗き込む。
「いる。大丈夫。ここにいる」
誰に言い聞かせたのか分からなかった。
*
夜半を過ぎた頃だった。
娘の呼吸が、また遅くなった。
メイは目を開けた。
一。二。三。胸が動く。四。五。次。六。七。
来ない。
「息して」
娘の頬へ触れる。冷たい。
「お願い。息して」
八。九。
小さく息をした。
しかし弱かった。
次の呼吸が来るまでの間が、また伸びる。
「エスター」
声を出しかけて、止めた。
呼ばなければ。
そう分かっている。
それでも右手のほくろが、微かに熱を持っていた。
メイは掌を見る。
教会では、サタンがいた。自分から何かが抜け、娘へ渡った。今はサタンはいない。
「どうすればいいの」
答えは返らない。
娘の胸が、またわずかに上下した。
次が来る保証はない。
メイは右手を娘の胸へ置いた。小さな鼓動が掌へ触れる。
「お願い」
何も起こらない。
「この子にあげたいの」
それでも何もない。
娘の唇から色が失われていく。
「何が足りないの」
サタンの言葉を思い出す。
顔。声。匂い。触れた手。
そして、教会で唇へ触れた指。
メイは娘を抱き上げた。
右手で背中を支える。
額へ顔を寄せた。
「お願い」
それしか言えなかった。
「生きて」
そっと口づけた。
その瞬間だった。
右の掌が熱くなった。
「――っ」
教会で感じたものと同じだった。身体の奥から、一本の糸が引かれる。ただ、今度は行き先が分かった。
胸から。
肩を通り。
右腕へ。
掌へ。
娘へ。
命だけではなかった。
光景。声。匂い。そして、記憶。
最初に浮かんだのは、セントルイスの宿の裏口だった。
雨上がりの石畳。濡れた木材の匂い。軒先から落ちる雫。
トーマスが薪を抱えている。
『手伝え』
『嫌』
『じゃあ扉だけ開けろ』
『それも手伝いじゃない』
『いいから開けろ』
メイが笑う。
トーマスも笑う。
なんでもない日の、なんでもない会話。
それが右腕へ流れ込んでいく。
「待って」
メイは息を呑んだ。
今まで自分の中にあったものが、ほどけていく。
雨の匂い。
濡れた石畳。
薪を抱えたトーマス。
あの日の声。
「待って……」
右手を離そうとした。
娘の胸が止まりかけた。
次の呼吸が来ない。
メイの指先に、トーマスの声が残っている。
『いいから開けろ』
それまで渡っていく。
「嫌……」
怖かった。
記憶がなくなることより、何がなくなるのかを自分で選べないことが怖かった。
母かもしれない。
ルーシーかもしれない。
イーライかもしれない。
次はもっと大きな何かかもしれない。
娘の胸は動かない。
メイは右手を離せなかった。
「持っていっていい」
声が震えた。
「だから、生きて」
雨上がりの宿の裏口が遠ざかった。
トーマスが何か言っている。
自分が笑っている。
その光景が右の掌へ吸い込まれ、見えなくなった。
娘の胸が大きく持ち上がる。
息を吸った。
苦しそうに喉が鳴る。
もう一度。
今度は間を置かずに。
メイは口を離した。
「もう一回」
呼吸する。
「もう一回」
吸う。
吐く。
「もう一回」
十回。二十回。三十回。
ようやく、胸の上下がわずかに揃った。
メイは右手を見る。
ほくろが少し濃くなっていた。紫の奥へ、黒が混じっている。
そして、さっきまでのことを思い出そうとした。
雨。
宿の裏。
誰かがいた。
「……トーマス」
名前はすぐに出た。
顔も分かる。
兄だ。
死んだ。
笑う時の声も、まだ思い出せる。
けれど、今さっき見ていたはずの雨の日だけがない。
薪を抱えていた。
そのはずだ。
何か言われた。
自分も何か返した。
そこから先が、ない。
「何を話したんだっけ」
答えは出なかった。
メイは何度も探した。
トーマスとの他の記憶はある。
セントルイス。
ルーシー。
家族。
兄の死。
全部ある。
なのに、雨上がりの一日だけが、きれいに抜け落ちていた。
胸の奥が冷えた。
「……これを持っていったの?」
娘へ尋ねる。
当然、返事はない。
娘は目を閉じたまま、小さく息をしている。
メイには分からなかった。
あの記憶が消えたのか。
どこかへ行ったのか。
ただ、自分の中にはもうない。
「それでいい」
言ってみる。
声が震えた。
「今は、それでいい」
良いはずはなかった。
それでも、娘は息をしている。
メイは胸の上下を数え続けた。
一。二。三。
娘は生きている。
トーマスとの一日が、一つなくなったまま。
朝方、ようやく娘が深く眠った。
メイは眠らなかった。
杖が壁へ立てかけてある。
何気なく見て、目が止まった。
三つではない。
四つでもない。
五つ。
新しい石が入っている。
「いつの間に……」
起き上がり、杖を取った。
五つ目の窪みに、丸い石がきれいに収まっている。
右手のほくろと同じ、黒に近い紫色。
光の当たり方によっては、ほとんど黒にも見える。表面は滑らかだった。
昨日まで、ここは空だった。
教会で入ったのか。
帰る途中か。
娘へ口づけた時か。
分からない。
「……やっぱり」
メイは右手を開いた。
石。
ほくろ。
同じ色。
ただ、石の方がほんの少しだけ暗い。
娘が小さく身じろぎした。
メイはすぐに杖を置いた。
抱き上げる。
「ここにいるよ」
娘の胸が、腕の中で上下している。
「大丈夫。見てるから」
その動きを確かめながら、メイは目を閉じなかった。
娘は、その日を越えた。
次の日も。
その次の日も。
呼吸はまだ浅かった。眠っている時間も長い。乳を吸ってもすぐに疲れ、口を離す。エスターは少量ずつ飲ませ、温かさを逃がさないように布を替え、夜は何度も胸の動きを確かめた。
メイも同じことをした。
一。二。三。
息をする。
四。五。
次が来る。
そのたびに、胸の奥へ溜めていたものを少しだけ吐いた。
三日目の夜、また呼吸が弱くなった。
右手を背中へ当てる。
口づける。
少しだけ。
身体の奥から何かが抜けた。
娘の呼吸が戻る。
そのあと、メイは父との記憶を一つ失っていることに気づいた。
セントルイスへ向かう途中、父が一度だけ買ってくれた焼き菓子。
買ってもらったことは覚えている。
甘かったことも。
でも、どんな味だったのかだけがない。
父の顔は分かる。
声も分かる。
その日のことも、おおよそ分かる。
味だけが抜け落ちていた。
「今度は、これか」
娘は眠っている。
翌朝、右手のほくろはまた僅かに濃くなっていた。
杖の五つ目の石も同じだった。
紫の奥へ、また少し黒が沈んでいる。
メイは長く見なかった。
*
四日目。
娘は乳を飲んだ。
昨日より長く。
途中で止まり、また吸った。
エスターは何も言わずに見ていた。
「どう?」
メイが聞く。
「まだ弱い」
「昨日よりは?」
「昨日よりはいい」
それだけで十分だった。
娘は飲み終えると、メイの胸元へ顔を押しつけた。
眠った。
メイは動かなかった。
その重さを逃したくなかった。
軽い。
まだあまりにも軽い。
でも、ここにいる。
*
六日目の朝。
エスターが娘の胸へ耳を当てた。
長かった。
メイは黙って待った。
娘が小さく鼻を鳴らす。
エスターが顔を上げた。
「今夜死ぬ子の顔じゃない」
メイはすぐに意味が分からなかった。
「……何?」
「油断するなとは言うよ」
エスターは布を掛け直した。
「まだ小さい。まだ弱い。明日どうなるかも分からない」
「うん」
「でも、今夜死ぬ子の顔じゃない」
メイは娘を見る。
胸が動いている。
吸う。
吐く。
また吸う。
急に力が抜けた。
椅子へ座る。
「……よかった」
声が出なかった。
もう一度言う。
「よかった」
今度は聞こえた。
娘が眠ったまま口を動かした。
メイはその頬へ指を伸ばしかけて、右手を止めた。
左手も使わなかった。
ただ、指の背でそっと触れる。
今は何も渡したくなかった。
何も受け取りたくなかった。
ただ、この子がここにいることだけでよかった。
*
その日の午後。
メイは引き出しを開けた。
手紙の束を出す。
家族からのもの。
イーライからのもの。
書きかけのもの。
その中に、妊娠中にやり取りした手紙があった。
娘がまだ腹の中で動いていた頃。
イーライが、男でも女でも元気ならいいと書いたあと、名前の話を始めた。
候補はいくつかあった。
どれも決まらなかった。
メイは手紙をめくる。
自分の返事も残してある。
字は自分のものだった。
けれど、書いていた時の自分が少し遠く感じた。
読めば分かる。
からかっていたらしい。
イーライの案を一つ、ひどいと言っている。
その理由までは思い出せない。
メイはそこで手を止めた。
「……嫌だな」
手紙に書かれていることは読める。
誰が何を言ったかも分かる。
けれど、紙の外側にあったものが少しずつ抜け始めている。
その時どんな顔をしていたのか。
どんな声で読み返したのか。
何が可笑しかったのか。
文字には残らないものから、なくなっていく。
メイは次の手紙を開いた。
そこに、一つの名前が何度も出てくる。
Stella.
ステラ。
自分と同じ名前。
イーライは、それを残したいと書いている。
その下にはメイの返事。
『私と同じじゃない』
さらに次の手紙。
『全部同じじゃない。星だけだ』
メイはその一文を、何度も読んだ。
胸の奥で何かが動く。
読んだから分かっただけではない。
まだ、そこには温かいものが残っていた。
メイは娘を見る。
眠っている。
「ステラ」
声にすると、不思議だった。
自分の名前を呼んでいるようで、違う。
もう一度。
「ステラ」
今度は娘の名前に聞こえた。
メイは次の手紙を開く。
もう一つ、候補として残っていた名前。
Mary.
メアリー。
イーライの筆跡で、短く理由が書いてある。
『ステラだけじゃ、お前そのものみたいだろ。少し違う名前もあった方がいい』
その下に、メイが、
『メアリーなら嫌じゃない』
と返している。
メイは何度も読み返した。
ステラ。
メアリー。
娘を見る。
「ステラ・メアリー」
胸が上下する。
「ステラ・メアリー・ホロウェイ」
小さな指が動いた。
偶然だと思う。
それでも、もう一度呼んだ。
「ステラ」
返事はない。
でも息は返ってくる。
吸う。
吐く。
また吸う。
「ステラ・メアリー」
今度は少し強く呼ぶ。
「あなたの名前」
メイは娘の頬へ唇を寄せた。
右手は使わなかった。
手を触れず、ただ口づける。
何も渡さない。
ただの口づけだった。
「生きてね」
口にしてから、少しだけ違うと思った。
娘だけに命令するように聞こえた。
メイは言い直した。
「……生きようね」
娘は眠っている。
それでも胸は動いている。
メイは手紙を畳んだ。
父。
母。
ルーシー。
トーマス。
イーライ。
まだ覚えている。
失ったのは、今のところ小さなところだけだ。
母の朝。
トーマスとの雨の日。
父が買ってくれた焼き菓子の味。
それでも、なくなったものは戻ってこない。
これから何を失うのかも分からない。
メイは娘を見る。
今、腕の中には一人いる。
名前がある。
ステラ・メアリー。
メイは少しずつ失った。
その代わりに、娘は今日も息をしている。
そして、名前を得た。
ステラ・メアリー。
メイはもう一度、声に出した。
忘れないようにするためではなかった。
この子が、ここにいると確かめるためだった。




