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ドドメ 破

ドドメ 破


三週間が過ぎた。


メアリーはまだ小さかった。同じ頃に生まれた子と比べれば、腕も脚も細い。泣き声も弱い。それでも、生まれたばかりの頃のように、息をするたび皆が黙り込むことはなくなった。


乳を飲む時間が少しずつ長くなった。眠っているだけだった顔が、時々動くようになった。眉を寄せる。口を尖らせる。嫌な時には、ちゃんと嫌そうな顔をする。それだけで、メイには十分だった。


「今日はよく飲んだ」


エスターが言った。


「昨日より?」


「昨日より」


「一昨日より?」


「それも」


「じゃあ明日は?」


「知らないよ」


メイはそれ以上聞かなかった。明日のことを聞くのは、まだ少し怖かった。今日飲んだ。今日息をしている。それでいい。


メアリーを胸へ抱く。頭はまだ片手に収まりそうだったが、以前よりわずかに重くなっている。その重さを、メイは毎日確かめた。


*


裁縫も少しずつ再開した。最初は自分たちのものだけだった。ほつれた裾。外れたボタン。メアリーを包む布の端。小さな肌着。


針を持つのは久しぶりだった。布を押さえながら、右手が目に入る。親指の付け根にある、黒に近い紫色のほくろ。


触れただけでは何も起こらない。分かっている。それでも、メアリーへ右手を伸ばす時には、まだ一瞬ためらった。


メイは針を進めた。針先が指へ触れる。


「痛っ」


赤い点が浮かぶ。血になる前に消えた。穴も残らない。


メイは指を見る。深緑の右目。傷を残さない身体。左手の赤い蹄形の痣。右手のほくろ。金色の髪。


身体のあちこちに、旅の途中で得たものが残っている。助けられたこともある。失ったものもある。


メアリーが小さく声を出した。メイはすぐに針を置く。


「起きた?」


返事の代わりに、口が開いた。


「お腹?」


抱き上げる。メアリーは眉を寄せている。胸へ寄せると、すぐに探すように口を動かした。


メイはその頭を支えた。金色の髪が赤ん坊の頬へ少しかかる。小さな指が動いた。髪を掴んだ。


「痛い」


離さない。


「メアリー」


握る。


「それ、私の」


さらに握る。


メイはしばらくその小さな手を見た。無理に外すのをやめた。


「……いいよ」


メアリーはそのまま眠った。金色の髪を握ったまま。メイも動かなかった。


*


午後、ノアが来た。仕事の帰りだった。


扉を叩く音で、メイは顔を上げる。


「開いてる」


ノアが入ってきた。片手に封筒を持っている。


「手紙」


メイの視線がすぐに封筒へ移った。


「誰から?」


「見れば分かるだろ」


「そうだけど」


受け取る。宛名。字。すぐに分かった。イーライ。


胸の奥が少し軽くなる。まだ、その感覚はあった。


メイは封を切った。


「読まないの?」


ノアが聞く。


「読む」


「じゃあ俺は帰る」


「いていいよ」


ノアが一瞬止まった。


「いいのか」


「何で?」


「いや」


メイは手紙を開いた。イーライの字が並んでいる。


体調を気にすること。子どもはどうか。仕事はしているか。無理をしていないか。外へ出られるようになったのか。質問ばかりだった。


最後の方に、娘の名前について一行あった。


『名前は決めたか。』


メイは小さく息を吐いた。


「遅い」


「何が?」


「名前」


ノアが首を傾げる。


「決めたんだろ」


「うん」


メイはベッドを見る。メアリーは眠っている。


「ステラ・メアリー」


「ステラ?」


「私と同じ」


「じゃあ、普段は?」


「メアリー」


ノアは頷いた。


「そっちなら間違えないな」


メイは手紙へ視線を戻した。返事を書こうと思った。


紙を出す。ペンを取る。


『名前を決めました。ステラ・メアリーです。』


そこまで書いて、止まった。


次に何を書くかは分かっている。生きている。前より乳を飲む。少し重くなった。今日、髪を掴まれた。書きたいことはたくさんある。


なのに、手が止まった。


少し前から、昔のことを思い出そうとする時に、穴がある。


母との朝。トーマスとの雨の日。父と食べた焼き菓子。


それぞれの人は覚えている。出来事も、おおよそ分かる。でも、その中の一部分だけがない。


メイはペン先を紙から離した。


「どうした」


ノアが聞く。


「最近、忘れる」


「何を?」


「昔のこと」


それだけ答えた。


「どのくらい」


「少し」


「例えば?」


メイは右手を膝の下へ隠した。


「ほんの小さいこと」


「小さい?」


「味とか。話したこととか。一日の一部とか」


ノアはしばらく黙った。


「疲れてるんじゃないのか」


「そうかも」


メイはそれ以上言わなかった。


教会のことも。サタンのことも。何かを渡せることも。口づけるたび何かを失うことも。言葉にする気にはならなかった。


ノアはメイの顔を見ていた。


「前にもあった?」


「……たぶん」


「たぶん?」


メイは眉を寄せる。


「忘れたことって、思い出せないから」


口にして、自分で怖くなった。ノアも同じことに気づいたらしい。視線を机へ落とす。


「書いておいた方がいい」


「何を」


「覚えてること」


「日記?」


「そんな立派なものじゃなくていい」


ノアは紙を指した。


「名前とか。誰なのかとか。忘れたくないこと」


「そんなの忘れないよ」


言ってから、メイは止まった。


ノアは何も言わなかった。その沈黙が嫌だった。自分で言った言葉の方が、もっと嫌だった。


メイは新しい紙を一枚出した。一番上に書く。


『パトリック――父。』


次。


『エレン――母。』


『ルーシー――妹。』


少し止まる。


『トーマス――兄。死んだ。』


文字が滲んだ。メイは目を擦った。


次を書く。


『イーライ・ハート――』


手が止まった。


メアリーの父。それだけではない。


山。雪。小屋。火。一緒に歩いた道。まだ残っている。胸の奥にあるものも、まだ分かる。


メイはゆっくり書いた。


『イーライ・ハート――メアリーの父。私の大切な人。』


ノアは紙を覗かなかった。窓の外を見ている。


最後に、一番下へ書く。


『ステラ・メアリー・ホロウェイ――娘。メアリー。』


その文字だけ、少し大きくなった。


メイは紙をしばらく眺めた。


「変なの」


「何が」


「家族なのに、書かないといけない」


「書かなくてもいい」


「どっちなの」


「書いて困ることはない」


メイは紙を見る。


「紙には残るね」


「ああ」


「私に残らなくても?」


ノアはすぐには答えなかった。


「残った紙を読める」


「それって、同じかな」


「分からない」


即答だった。


メイはノアを見る。


「分からないんだ」


「分からないことを、分かったみたいに言う方が嫌だろ」


「うん」


ベッドから、小さな声が聞こえた。二人とも同時に振り向く。


メアリーが起きていた。泣いてはいない。ただ目を開けている。


メイは立ち上がった。


「どうしたの」


抱き上げる。


メアリーの目がどこを見ているのかは分からない。それでも、メイの顔の方を向いているように見えた。


「私、分かる?」


答えはない。


小さな手が上がる。頬へ触れた。


メイは動かなかった。指が頬をなぞる。


「……分かるか」


メアリーの口元が、ほんの少し動いた。


笑ったのかどうかは分からない。それでも、メイにはそう見えた。


「ノア」


「見てる」


「今、笑った」


「そう見えた」


「笑ったよ」


「じゃあ笑った」


メイはメアリーを抱いた。強くしすぎないように。壊さないように。


右手は背中へ添えただけだった。何も願わない。口づけもしない。ただ抱く。


メアリーは生きている。少し重くなった。乳を飲む。髪を掴む。顔へ触れる。笑う。


メイの過去から、いくつかのものがなくなった。その代わりではない。交換ではない。そう思いたかった。


メアリーが増やしているのは、この子自身の時間だ。今日という一日。


メイはその頬へ、自分の頬を寄せた。この一日だけは忘れたくないと思った。


けれど、その願いを右手には聞かせなかった。


それから五日ほど、メアリーは大きく崩れなかった。乳を飲み、眠り、泣き、時々、意味もなく手を動かす。メイはその全部を見ていた。呼吸を数える回数も、少し減った。少しだけ。


その日の午後、メアリーが乳を途中で吐いた。ほんの少しだった。口の端から白いものが流れ、顎を濡らした。メイの手が止まる。


「……何で?」


メアリーは泣かなかった。ただ眉を寄せ、口を閉じている。


「もう一回飲む?」


胸へ寄せる。顔を背けた。


「メアリー」


もう一度。やはり飲まない。メイは立ち上がった。


「エスター」


声が思ったより大きくなった。隣の部屋から足音がする。


「どうした」


「飲まない」


「いつから?」


「今」


エスターがメアリーを見る。


「さっき吐いた」


「どのくらい」


「これくらい」


メイが布を見せる。エスターは触り、匂いを確かめた。


「よくあるよ」


「でも飲まない」


「今吐いたばかりだろう」


「昨日は飲んだ」


「昨日と今日が同じなわけじゃない」


メイは黙った。エスターはメアリーの胸へ手を当てる。呼吸、額、口の中、腹。一つずつ確かめる。


「熱もない」


「顔色は?」


「悪くない」


「息は?」


「してる」


「浅くない?」


エスターがメイを見る。


「赤ん坊の息は大人より速いし、時々ばらつく」


「でも、この子は――」


「分かってる」


声が少し強くなった。


「この子が弱かったのは分かってる」


メイは口を閉じた。


「だから見てる。でも、今は息をしてる。腹も張ってない。熱もない。吐いたのも一度だ」


「また止まったら?」


「その時は呼びな」


「止まってから?」


「メイ」


名前を呼ばれただけで、胸が痛んだ。


メアリーが小さく口を開いた。あくびだった。そのまま眠る。


「眠った」


「赤ん坊は眠るよ」


「さっき飲まなかったのに」


「眠る」


エスターは布を掛け直した。


「少し休ませな」


「どのくらい?」


「起きるまで」


「起きなかったら?」


エスターの手が止まった。


「起きるよ」


「分からないじゃない」


「何だって分からないよ」


メイはメアリーを見る。胸は動いている。吸う。吐く。また吸う。それでも、足りなかった。


あの日も、息は戻った。戻って。また止まった。だから今動いていることが、次も動く証明にはならない。


「少し寝な」


エスターが言った。


「私が見てる」


「いい」


「三日まともに眠ってない顔してる」


「眠れるわけない」


「だから私が――」


「いい」


メイはメアリーを抱き上げた。強くならないように。胸へ寄せる。


「ここにいる」


誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


*


夜。メアリーは眠っていた。夕方には少し乳を飲んだ。吐かなかった。エスターはもう心配するなと言った。マギーも、今日はよく眠る日なんだろうと言った。それでもメイは起きていた。


一。二。三。胸が動く。四。五。次。六。動いた。


また数える。一。二。三。メアリーが鼻を鳴らした。メイの肩から少し力が抜ける。その直後、呼吸の間が長くなった。


一。二。三。四。五。六。


「メアリー」


胸が動いた。メイは息を吐く。でも手は震えていた。


「……もう嫌」


小さく呟いた。右手を見る。ほくろは、最初より明らかに濃くなっている。


使えばいい。ほんの少し。大きく渡す必要はない。前にも少しだけで済んだ。それで明日の朝まで楽になるなら。


メイはメアリーを抱き上げた。


「少しだけね」


返事はない。


「ちょっとだけ」


右手を背へ当てる。唇を額へ寄せる。そこで止まった。


エスターの声が浮かぶ。今は息をしてる。


メイは目を開ける。メアリーの胸を見る。動いている。今は。


「……今は」


その言葉が嫌だった。次は分からない。その次も。朝までなんて、もっと分からない。


メイは目を閉じた。


「少しだけ」


額へ口づけた。右手が熱くなる。胸の奥から、細い糸が一本抜けた。それは痛みではなかった。むしろ、何かが軽くなる感覚だった。だからこそ、メイは息を詰めた。軽くなった分だけ、何かが消えている。そのことが、遅れて分かった。


光景が浮かぶ。ルーシー。まだ病気になる前。家の前に座っている。髪を左右に分けて結んでいる。片方の紐だけが赤い。もう片方は何色だった。


青。違う。白。たぶん。


ルーシーが何か言っている。メイが結び直してやる。


『動かないで』


『引っぱってるのメイでしょ』


『動くから引っぱるの』


ルーシーが頬を膨らませる。その顔を、メイは知っている。知っているはずだった。頬の丸みも、目の細まり方も、声の高さも。なのに、輪郭の端から少しずつ白くなっていく。


赤い紐がほどける。指の間から滑り落ちる。ルーシーの口が動く。何かを言っている。聞こえない。メイが結び直してやったはずなのに、指先の感触が消える。


「待って」


反射的に口を離しかける。右手から熱が抜けていく。メアリーへ流れ込む熱と引き換えに、ルーシーの記憶が遠ざかっていく。


メアリーの胸が動く。吸う。吐く。そのたびに、ルーシーの顔が薄くなる。


助けたい。メアリーを助けたい。この子の息を、明日の朝までつなぎたい。その衝動だけが、熱を持って右手から伸びていく。


けれど、その熱が進むほど、ルーシーの声が消える。


助けたい。忘れたくない。どちらも本当だった。どちらも、もう手遅れになりかけていた。


「そこまで」


誰も答えない。


「もういい」


自分で止めるしかない。


メイは右手を離した。口づけも終える。胸が苦しい。


メアリーを見る。呼吸は変わらない。いや、少し深くなったように見える。そう見えただけかもしれない。


それでも、メイはメアリーの胸から目を離せなかった。動いている。今は動いている。その事実だけが、消えかけた記憶より強く、メイをそこに縫い止めていた。


メイはしばらく待った。


一。二。三。吸う。吐く。また吸う。


「……よし」


何がよしなのか、自分でも分からない。メアリーが生きていることか。それとも、これ以上失わずに済んだことか。


右手を見る。ほくろがまた少し黒くなっていた。翌朝になれば、杖の石も同じように変わっているだろう。


メイはルーシーを思い出す。妹。九歳。病気になった。自分は助けようとした。そこまでは分かる。顔も。声も。そう思った。


けれど、声を思い出そうとすると、頭の中には空白しかなかった。髪を結んでやった日のこともない。赤い紐。そこまでは分かる。もう片方の色が分からない。何を言い合ったのかも。頬を膨らませた顔が、どんな顔だったのかも。


「……また」


メイは唇を噛んだ。


自分で使った。メアリーの呼吸は止まっていなかった。熱もなかった。乳も夕方には飲んだ。それでも使った。メアリーを失うかもしれない恐怖が、ルーシーを失う痛みより先に手を動かした。


「でも」


メアリーを見る。眠っている。


「もし、使わなくて止まったら」


その先は言えなかった。後悔する。一生。いや。自分には、その一生すらどんなものになるのか分からない。


右手を握る。


「だったら、いい」


声にしてみる。


「これくらいなら」


ルーシーの髪紐の色。あの日の言葉。頬の形。それだけ。


妹そのものを忘れたわけじゃない。まだ名前を覚えている。顔も、声も、覚えているはずだ。だから大丈夫。そう思うことにした。


けれど、そう思おうとするたび、胸の奥に空いた場所がはっきりした。そこに何があったのかさえ、もう分からない。


*


翌朝。メアリーはよく飲んだ。昨日吐いたことなどなかったように。


エスターが見る。


「だから言ったろ」


メイは頷いた。


「うん」


「今日は顔色もいい」


「うん」


「少しは寝た?」


「少し」


嘘だった。エスターは気づかなかった。あるいは、気づいて何も言わなかった。


メイはメアリーの口元を拭った。満足したように目を閉じている。


「よかったね」


小さな頬を撫でる。右手ではなかった。


その日の午後、ノアが持ってきた家族からの手紙に、ルーシーのことが書いてあった。


『最近は髪を自分で結べるようになりました。相変わらず左右で違うリボンを使いたがります。』


メイはそこで読むのを止めた。


左右で違う。


そうだった。ルーシーは昔からそうだった。知っている。知っているはずなのに、胸の中からは何も出てこない。


文章をもう一度読む。


『相変わらず』


その一語が、妙に重かった。


昔から。何度も。自分も見ていた。でも、その「何度も」の一つが、もうない。


メイは紙を畳んだ。


「どうした」


ノアが聞く。


「なんでもない」


それだけ答えた。右手は膝の下へ隠した。


メアリーが眠っている。息をしている。それを見て、メイは手紙をもう一度開いた。


読めば分かる。書いてあれば分かる。だから大丈夫。まだ大丈夫。


そう思った。


それから二週間で、メイは何度使ったのか分からなくなった。一度目は、メアリーが咳き込んだから。二度目は、夜になっても乳をほとんど飲まなかったから。三度目は、眠っているメアリーの顔が白く見えたから。熱はなかった。呼吸も止まっていなかった。それでも使った。四度目があったのかは、分からない。


右手のほくろを見る。もう熟した桑の実の色ではなかった。紫はさらに沈み、その中心には小さな黒がある。杖の五つ目の石も同じだった。黒が増えている。だから、使ったのだと思う。けれど、その時に何を失ったのかは分からない。失ったものを数えることはできなかった。なくなったものは、なくなった瞬間を見ていなければ、最初からなかったものと区別がつかない。


*


「今日は大丈夫だよ」


エスターが言った。メアリーの腹へ手を当てている。


「本当に?」


「本当だ」


「少し熱くない?」


「赤ん坊は温かい」


「昨日より熱い気がする」


「気のせいだ」


「でも――」


「メイ」


エスターが顔を上げた。


「この子を見な」


メイは見る。メアリーは起きていた。口を動かしている。手も動く。エスターの指を掴もうとして、届かない。


「病気の子に見えるかい」


「分からない」


「なら、私を信じな」


メイは黙った。


「今は具合が悪くない」


「今は」


「またそれかい」


「今、大丈夫でも夜は分からない」


「夜になったら見る」


「その時じゃ遅いかもしれない」


エスターの顔が険しくなった。


「何があったんだい」


メイの右手がわずかに動いた。


「何も」


「その顔で?」


「この子が死にかけた。それだけ」


「私も見た」


「じゃあ分かるでしょう」


「分かるよ」


「分かってない」


メイは口を閉じた。エスターも黙った。メアリーだけが指を動かしている。


やがてエスターが言った。


「この子が死なないなんて、私には約束できない」


メイの顔が強張る。


「誰にもできないよ」


「……そんなこと言わないで」


「なら、今は生きてる。それを見な」


メイはメアリーを見る。


「見てる」


「息ばっかりね」


「息をしなきゃ死ぬ」


「そうだよ。でも、この子は息をするためだけに生きてるんじゃない」


メイは答えなかった。メアリーが声を出した。


「あぅ」


二人とも見る。もう一度。


「あ」


エスターが少し笑った。


「ほら」


メイは笑えなかった。けれど、メアリーを抱き上げた。


「何?」


「あぅ」


「分からない」


小さな口が開く。今度は声にならなかった。メイはしばらく、その口元を見ていた。呼吸ではなく。


*


夜になると、やはり数えた。


一。二。三。


吸う。


四。五。


吐く。


大丈夫。


六。


次。


メアリーが寝返りかけるように身体を動かした。メイは手を伸ばす。右手だった。途中で止める。左手に替えた。


「大丈夫」


背中へ触れる。


「今日は使わない」


自分へ言った。


「大丈夫って言われたから」


メアリーは眠っている。メイも横になった。目を閉じる。すぐに開く。胸を見る。動いている。また目を閉じる。


しばらくして、小さな咳がした。メイは起き上がった。


「メアリー?」


咳は一度だけだった。次はない。胸も動いている。


エスターの言葉を思い出す。生きている時まで死ぬ心配だけしていたら。


メイは右手を握った。


「一回だけなら」


呟いてから、自分で驚いた。何が一回だけなのか。今日一回。明日はまた別の一回になる。


メイは右手を膝の下へ押し込んだ。


「今日は使わない」


メアリーを見た。


「今日は」


朝まで、その言葉を何度も繰り返した。


*


翌日の午後、ノアが手紙を持ってきた。二通だった。一通は家から。もう一通はイーライ。


「どっちから読む?」


ノアが机へ置く。


「家」


答えてから、メイは少し不思議に思った。以前なら、どちらを先に読んだだろう。分からない。


封を切った。母の字だった。父は元気。ルーシーも元気。宿の屋根の一部を直した。近所の誰それが結婚した。ミシシッピの水が今年は少し高い。


普通のことばかりだった。その普通が遠かった。読めば場所は浮かぶ。宿。台所。階段。家族。けれど、その中へ自分を置こうとすると、ところどころ穴があった。


母との朝。父と食べた焼き菓子。ルーシーの髪。トーマスとの雨の日。一つ一つは小さい。なのに、家全体が少し知らない場所になったような気がした。


「メイ?」


ノアの声で顔を上げる。


「何?」


「同じところ、ずっと見てる」


「そう?」


「ああ」


メイは手紙を見る。どこを読んでいたのか分からなかった。


「……最近、こういうの増えた?」


ノアが聞く。


「何が」


「読んだところを忘れるとか」


「これは考えてただけ」


「そうか」


追及しなかった。それがありがたかった。


メイはイーライの手紙へ手を伸ばす。封筒を裏返した。見覚えのある字。名前。イーライ・ハート。


胸は動いた。まだ大丈夫。そう思った。


封を切る。紙を開く。途中まで読んで、メイの手が止まった。


『お前が海を見た時、どんな顔をしたのか見たかった。』


メイはその一文を何度も読んだ。


海。イーライ。何かあった。イーライは海を見たことがなかった。それは覚えている。いつ話した。山。たぶん山だ。どこで。何をしていた時に。分からない。


メイは左手で手紙を押さえた。赤い蹄形の痣が紙へ触れる。


瞬間、景色が変わった。


冷たい壁。狭い机。粗い紙。太い指。ペン先。イーライの手だった。


メイは息を呑む。自分が見ているのではない。誰かの記憶。紙に残っているもの。イーライがこの手紙を書いている。


少し痩せた指。爪の間に黒い汚れ。遠くで男の咳。鉄の鳴る音。紙へ文字を書く。


『お前が海を見た時、どんな顔をしたのか見たかった。』


そこで手が止まる。イーライが何かを思い出している。


山小屋。火。メイ。


『海って、本当に端がないのかな』


イーライの声。若い。すぐ近くにいる。


メイが何か答える。けれど、その声ははっきりしない。これはイーライの記憶だからだ。彼が覚えているメイしか見えない。


火の向こうで、金色の髪の少女が笑っている。イーライがその顔を見ている。温かい。胸が痛くなるほど、温かい。


そこで景色が切れた。


メイは左手を離した。


「……何?」


ノアがこちらを見ている。


「何でもない」


反射的に答えた。


「顔色悪いぞ」


「大丈夫」


手紙を見る。イーライの文字。


今見たものは分かった。この人は自分を見ていた。自分のことを好きだった。海の話をした。山小屋にいた。全部分かる。


なのに、メイ自身の側から、その夜を思い出そうとすると、景色はところどころ欠けていた。


イーライの記憶では、自分が笑っていた。なぜ笑ったのかは分からない。何を言ったのかも。それが、自分の記憶ではなかったからだ。


「……変なの」


「何が?」


「人に教えてもらった自分って、自分なのかな」


ノアが眉を寄せた。


「何の話だ」


「なんでもない」


メイは手紙を畳んだ。左手を見る。赤い蹄形の痣。


読むことはできる。失ったことまで、別の場所に残っていれば知ることができる。そのことに、少しだけ安堵した。


すぐに、その安堵が嫌になった。


知ることができる。でも、それは思い出すこととは違う。誰かが語った話を聞くのと同じだ。


紙の中でイーライはメイを見ていた。でもメイは、その時のイーライを見ていない。


自分の過去なのに。


「メイ」


「何?」


「返事、書かないのか」


「あ」


忘れていた。


メイは紙を出した。ペンを持つ。


『メアリーは元気です。』


書いて、止まる。


本当に元気なのか。エスターはそう言った。昨日は乳も飲んだ。熱もない。今日は声も出した。それなら元気だ。そう書けばいい。


そのはずなのに。


『メアリーは元気です。』


その一文が、嘘のように見えた。


メイは線を引いて消した。


『メアリーは今日も生きています。』


書き直した。


ノアは何も言わなかった。


*


その夜、メアリーはよく眠った。咳もしなかった。乳も飲んだ。顔色も悪くない。


メイは右手を使わなかった。一日。使わなかった。それだけのことなのに、何かに勝ったような気がした。


夜半、メアリーが急に泣いた。


最初は、夢の中で身じろぎしただけのように聞こえた。小さな声だった。けれど、次の瞬間には、喉の奥から引き裂くような泣き声になった。


メイは飛び起きる。


「どうしたの」


抱き上げる。泣く。顔が赤い。身体を反らせる。


「痛いの?」


泣く。


「どこ?」


分からない。


「お腹?」


泣く。


「息?」


泣いている。なら息はしている。頭では分かる。


けれど、泣き声が大きすぎた。胸が上下するたび、次の声が来る。声が途切れない。途切れないことが、かえって怖かった。息をしているのか、息をするために泣いているのか、もう見分けがつかない。


メアリーの身体が腕の中で跳ねる。


「メアリー、見て。ここにいるから」


声が届かない。


「大丈夫。大丈夫だから」


言葉が薄い。何度言っても、泣き声に押し流される。


「エスター」


呼ぼうとした。


けれど、声がうまく出なかった。喉が塞がる。メアリーの泣き声だけが部屋を満たしていく。


メイは一歩、扉の方へ踏み出した。


その時、メアリーが息を詰まらせたように見えた。


ほんの一瞬だった。


胸が止まったように見えた。


メイの右手が熱くなった。


まだ触れてもいないのに、掌の奥で何かが目を覚ます。指先が勝手に開く。赤い蹄形の痣が脈打つ。


使えばいい。


そう思った。


使えば、この泣き声を止められる。何が起きているのか分かる。メアリーを元に戻せる。いつものように、何かを渡して、代わりに何かを失えばいい。


その考えが、あまりにも自然に浮かんだ。


メイは右手をメアリーの背中へ回した。


触れる直前で止める。


何を失う。


また何かを忘れる。


母の顔かもしれない。イーライの声かもしれない。メアリーを抱いている、この瞬間かもしれない。


それでも、使えば助かる。


そう思った。


その瞬間、扉が開いた。


「どうした!」


エスターが入ってきた。


「泣き止まない」


「貸して」


「でも――」


「貸しな!」


メイの右手は、まだメアリーの背中のすぐそばにあった。


あと少しだった。


あと少しで触れていた。


メイは手を引き、メアリーを渡す。


エスターは腹を触り、背を撫でた。メアリーはなおも泣き続けた。エスターが身体を起こし、背中を少し強く叩く。


しばらくして、メアリーが大きくげっぷをした。


泣き声が止まった。


あまりに急に静かになったので、メイの耳にはまだ泣き声が残っていた。


部屋が静かになる。


メイは動けなかった。


「空気だよ」


エスターが言った。


「飲んだ時に入ったんだろう」


「……それだけ?」


「それだけだ」


メアリーはエスターの腕の中で、小さく鼻を鳴らしている。


「死なない?」


エスターがメイを見る。


「死なない」


「本当に?」


「今これで死ぬ子じゃない」


メイは右手を見る。


指がまだ開きかけている。


あと少し遅かったら。エスターが来るのがあと少し遅かったら。自分は使っていた。


空気を飲んで泣いただけのメアリーに。


何かを渡していた。


代わりに何かを失っていた。


そして、たぶん、失うことを恐れながらも、使えたことに安心していた。


メイは右手を握った。


「……怖い」


声が漏れた。


エスターには聞こえなかった。あるいは、聞こえても何も言わなかった。


メアリーが戻される。メイは受け取った。今度は右手を背中へ添えなかった。添えれば、また使える気がした。触れれば、泣き声の理由を知れる気がした。何かを失えば、この子を守れる気がした。


だから、右手を胸元へ引き寄せた。


両腕の中へ置くように抱く。


メアリーはもう泣いていない。目を閉じている。


メイはその顔を見つめた。この子が弱いのか。自分が怖がりすぎているのか。もう分からなかった。


分からない時、右手を使えば安心できる。

そのことだけは、分かっていた。


自分を自分にしている思い出を、少しずつ差し出せばいい。


そう考えられてしまうことが、一番怖かった。


メアリーが生まれて、二か月が過ぎた。


 身体はまだ小さい。


 けれど、抱いた時の重さは明らかに変わった。


 首の辺りにも少し肉がついた。頬も丸くなった。泣き声も前より大きい。


 エスターは、それを良いことだと言った。


 だからメイも、良いことだと思うようにした。


 思うようにした、ということに気づくたび、少し嫌な気持ちになった。


 *


 ある朝、メアリーの額が熱かった。


「エスター」


「何度目だい」


「何が」


「今日、私を呼ぶの」


「そんなに呼んでない」


「朝から三度目だよ」


 メイは黙った。


 エスターがメアリーの額へ手を当てる。


 首。


 胸。


 腹。


 いつものように見る。


「少し熱いね」


 メイの顔が変わった。


「熱あるの?」


「少しだよ」


「病気?」


「まだ分からない」


「何したらいい?」


「今は飲ませて、休ませる」


「それだけ?」


「それだけ」


「薬は?」


「この程度で薬なんか使わない」


「でも――」


「メイ」


 エスターはメアリーを抱き直した。


「赤ん坊は熱を出す」


「この子は普通の赤ん坊じゃない」


 言ってから、部屋が静かになった。


 エスターがメイを見る。


「どういう意味だい」


「……小さく生まれたって意味」


「そうだね」


「何度も息が止まった」


「そうだね」


「だから普通じゃない」


 エスターはしばらく黙っていた。


「でも、今はあの時のメアリーじゃない」


 メイは眉を寄せた。


「同じ子でしょう」


「同じ子だよ」


 エスターは言った。


「でも、あの時より重い。飲める。泣ける。自分で手を動かす。あの時より生きるのが上手くなってる」


 メイはメアリーを見る。


 言われてみれば、そうだった。


 あの頃は、何をするにも力が足りなかった。


 今は泣く。


 嫌なら顔を背ける。


 腹が減れば怒る。


 抱き方が悪いと身体をよじる。


 それでも、額は熱い。


「下がらなかったら?」


「その時考える」


「いつまで?」


「夕方まで」


「長い」


「長くない」


「その間に悪くなったら」


「私がいる」


「ずっと?」


「ずっと見てるわけじゃないよ」


 メイの表情が固まった。


 エスターがため息をつく。


「そういう意味じゃない」


「じゃあどういう意味」


「この子が一人で生きる時間もあるってことだよ」


 メイは答えなかった。


 そんな時間はいらないと思った。


 自分が見ていないところで、悪くなるかもしれない。


 その考えが頭から離れなかった。


 *


 昼。


 メアリーの熱は下がらなかった。


 上がってもいない。


 乳は飲んだ。


 少し少なかった。


 それだけだった。


 エスターは様子を見ると言った。


 メイは部屋へ戻った。


 メアリーを寝かせる。


 額へ触れる。


「まだ熱い」


 返事はない。


 メアリーは眠そうに目を閉じている。


 呼吸は普通。


 胸も動く。


 顔色も悪くない。


「夕方まで」


 メイは呟いた。


「待つだけ」


 右手を見る。


 ほくろはもう、中心だけではなかった。


 黒が少しずつ外へ広がっている。


 杖の石も同じ。


 使わなければいい。


 今は必要ない。


 メアリーの額へ左手を置いた。


 熱い。


「……少しだけなら」


 口にして、やめた。


 右手を握る。


 部屋を歩く。


 窓を見る。


 机を見る。


 またメアリーを見る。


 熱は変わらない。


「夕方まで」


 もう一度。


 時計はない。


 外の光で見るしかない。


 まだ昼を少し過ぎたくらいだった。


「長い」


 メイは椅子へ座った。


 一分も経たないうちに立った。


 メアリーが咳をした。


 一度。


 メイの身体が動く。


 抱き上げる。


「大丈夫?」


 咳は続かない。


 目も開けない。


「メアリー」


 頬へ触れる。


「起きて」


 眉が少し動いた。


「メアリー」


 目を開けた。


 メイを見る。


 それだけ。


「……よかった」


 胸へ抱く。


 右手が背中へ回る。


 止める。


 まだ使っていない。


 まだ。


 メアリーがまた目を閉じた。


 メイは唇を噛んだ。


「少しだけ」


 その言葉は、もう何度目か分からなかった。


 額へ口づける。


 右手が熱くなる。


 今度は迷わなかった。


 胸の奥から何かが抜ける。


 光景が浮かんだ。


 母。


 夜。


 セントルイス。


 薄暗い部屋。


 メイは子どもだった。


 何歳か分からない。


 熱を出している。


 エレンが枕元に座っている。


 濡らした布を額へ置く。


『冷たい』


『だから置くの』


『嫌』


『我慢しなさい』


 母の手。


 額。


 髪。


 優しく撫でる。


 メイは目を閉じる。


 母が何か歌っている。


 小さな声。


 聞いたことのある歌。


 何度も聞いた。


 眠るまで、いつも。


「あ」


 メイの目が開く。


 駄目。


 それは駄目だと思った。


 何の歌だった。


 まだ聞こえる。


 今なら止められる。


 でも、メアリーの額は熱い。


 母の歌が遠ざかる。


「待って」


 声が震える。


 旋律が一つ消える。


 次。


 言葉。


 母の声。


「そこは――」


 メアリーが息をする。


 メイは右手を離せなかった。


「もう少し」


 誰に言ったのか分からない。


 母の歌が短くなる。


 最初の一節。


 次の一節。


 それでも、エレンが自分を看病したことは覚えている。


 額へ布を置いた。


 髪を撫でた。


 それは残っている。


 歌だけ。


 歌くらいなら。


「……いい」


 メイは目を閉じた。


「歌くらい」


 最後の音が消えた。


 右手を離す。


 メアリーの額へ、自分の額を当てた。


「下がって」


 熱はまだある。


 すぐには分からない。


 それでも、少し安心した。


 それが嫌だった。


 *


 夕方には、メアリーの熱は下がった。


 エスターが額へ触れる。


「ほら」


 メイは黙った。


「下がっただろ」


「うん」


「赤ん坊はこういうこともある」


「うん」


「今日はよく頑張ったね」


 どちらに言ったのか分からなかった。


 メアリーか。


 メイか。


 メイは笑えなかった。


「寝ていい?」


「寝な」


「メアリーは?」


「私が見る」


「何かあったら」


「呼ぶ」


「すぐ?」


「すぐ」


 メイは何度も念を押した。


 ようやく横になる。


 眠れなかった。


 でも、目は閉じた。


 *


 夜。


 メアリーが泣いた。


 メイはすぐに起きた。


「どうしたの」


 抱き上げる。


 熱はない。


 乳も飲んだ。


 腹も張っていない。


 ただ眠れないらしい。


 メアリーは泣き続けた。


「大丈夫」


 背を撫でる。


「何もないよ」


 泣く。


「ここにいるから」


 泣く。


 メイは部屋を歩いた。


 ゆっくり。


 左右に揺れる。


「眠ろう」


 何か歌おうと思った。


 母が歌ってくれた歌。


 あれなら。


 口を開いた。


「……」


 何も出なかった。


 メイは立ち止まった。


 何の歌だった。


 旋律。


 言葉。


 一つもない。


 母が歌っていた。


 それだけは分かる。


 自分は好きだった。


 たぶん。


 眠れない夜。


 熱がある時。


 怖い時。


 母が歌った。


 でも、歌がない。


「……なんだっけ」


 メアリーは泣いている。


 メイは何度も探した。


 最初の音だけでも。


 駄目だった。


「お母さん」


 呼んでみた。


 返事はない。


 当たり前だった。


 遠い。


 セントルイスより遠い場所にいるような気がした。


 メアリーが泣く。


「ごめん」


 メイはその頭を撫でた。


「歌えない」


 それでも歩いた。


「何か歌えばいいんだよね」


 知っている歌を探す。


 酒場で聞いた歌。


 船乗りの歌。


 教会の歌。


 どれも、赤ん坊へ歌うものには思えなかった。


 結局、適当に音を並べた。


「んー……」


 自分でも知らない旋律。


 低く。


 ゆっくり。


 メアリーの泣き声が少し小さくなる。


 メイは続けた。


 同じ音を繰り返す。


「んー……んー……」


 メアリーがしゃくり上げる。


 また少し静かになる。


「これでいい?」


 目を閉じる。


「お母さんのじゃないけど」


 また歌う。


 何も思い出さない。


 ただ、今作った音だけがある。


 しばらくすると、メアリーは眠った。


 メイは歩くのを止めなかった。


 完全に寝たと分かるまで、同じ旋律を繰り返す。


 やがてベッドへ寝かせる。


 メアリーは起きない。


 メイは机へ向かった。


 紙を出す。


 書く。


『母は、私が病気の時に歌を歌ってくれた。』


 止まる。


 次。


『どんな歌だったかは、もう分からない。』


 さらに下へ書く。


『今日、メアリーに別の歌を歌った。』


 少し考える。


 旋律を文字にはできない。


 書けない。


 メイはペンを止めた。


 急に怖くなった。


 今作った歌も、いつかなくなる。


 メアリーを抱いて歩いたことも。


 この夜も。


 右手が必要になれば。


 何が選ばれるか分からない。


 メイは新しい一行を書いた。


『今夜、メアリーは私の歌で眠った。』


 紙を見つめる。


 事実。


 それだけ。


 その時どんな気持ちだったのかは、紙には残らない。


 メイはペンを置いた。


 振り返る。


 メアリーは眠っている。


 胸が動く。


 吸う。


 吐く。


 また吸う。


 メイは数えなかった。


 代わりに、さっき作ったばかりの歌を小さく口ずさんだ。


 忘れないうちに。


メアリーは、少しずつ赤ん坊らしくなっていった。生まれたばかりの頃は、ただ小さく、軽く、息をしているだけだった。今は違う。抱けば身体を反らす。気に入らなければ声を上げる。乳が遅ければ泣く。眠いのに眠れなければ怒る。メイの髪を掴む力も強くなった。


「痛い」


 離さない。


「前より痛いよ」


「あぅ」


「褒めてない」


 メアリーが笑う。メイも笑った。こういう時だけは、何も考えなかった。呼吸も数えない。右手も見ない。ただ、この子が少しずつ重くなっていくことが嬉しかった。


 四か月を過ぎた頃には、うつ伏せにすると少しだけ顔を上げるようになった。数秒。落ちる。また上げる。


「頑張れ」


 メアリーの顔が赤くなる。


「もうちょっと」


 頭が落ちる。メイは笑った。


「今日はそこまで」


 抱き上げる。エスターが横から見ていた。


「十分だよ」


「昨日より長かった」


「毎日測ってるのかい」


「だって分かるから」


「息以外も見るようになったね」


 メイは一瞬止まった。それからメアリーを見る。


「……うん」


 嬉しかった。そう言われたことが。


 *


 けれど、怖さがなくなったわけではなかった。メアリーが二度続けて咳をすれば、右手を見る。乳を残せば、右手を見る。いつもより眠れば、右手を見る。使わずに済む日も増えた。その代わり、一度使い始めると止めるのが難しかった。


 ある週、メアリーが少し鼻を詰まらせた。一日目は使わなかった。二日目の夜に使った。三日目の朝、まだ鼻が鳴っていたので、もう一度使った。その夜、乳の飲みが悪くて、また使った。


 四日目、エスターは言った。


「もう治りかけてる」


 それでもメイには、昨日より少し顔色が悪く見えた。使った。


 五日目。メアリーは元気だった。メイは朝から、自分の中に何がなくなったのかを探した。分からなかった。それが一番増えていた。失ったと分かる記憶より、失ったことにも気づけない空白。机の上の紙だけが増えていく。


『父――パトリック。』


『母――エレン。』


『妹――ルーシー。九歳。』


『兄――トーマス。死んだ。』


『イーライ・ハート――メアリーの父。私の大切な人。』


『ステラ・メアリー・ホロウェイ――娘。普段はメアリーと呼ぶ。』


 その下には、後から足されたものが並んでいた。


『母は、病気の時に歌を歌ってくれた。歌は思い出せない。』


『父の笑い方を思い出せない。』


『ルーシーは左右で違う色のリボンを使う。』


『トーマスが死んだ時、私は悲しかった。』


 メイは最後の一文を見るたびに、少し嫌な気持ちになった。なぜ、そんなことまで書いた。兄が死んで悲しいのは当たり前だ。書かなくても分かる。そう思う。それなのに、紙を捨てることはできなかった。


 *


 その日、ノアが古い紐と厚めの紙を持ってきた。


「何それ」


「穴を開けてまとめる」


「何を?」


 ノアは机を見る。


「増えてるだろ」


 メイも見る。紙が十枚近くになっていた。


「勝手に見た?」


「見てない」


「本当に?」


「見なくても増えたくらい分かる」


 ノアは紙の端を揃えた。


「ばらばらに置いたら無くす」


「無くさないよ」


「そう言うと思った」


「じゃあ聞かないで」


 メイは紙を取り上げようとして、やめた。


「どうやるの」


 ノアが紙の端へ二つ穴を開ける。紐を通す。


「これだけ」


「本みたい」


「本ほど立派じゃない」


「私のことが書いてあるんだから、本でいいじゃない」


「じゃあ本」


 メイは紐で綴じられた紙を受け取った。表紙代わりの厚紙を見る。


「何か書く?」


「好きにしろ」


 メイは少し考えた。ペンを取る。


『忘れた時に読むもの』


 書いてから、嫌になった。線を引く。新しく書いた。


『覚えておくもの』


 ノアが見る。


「そっちの方がいいのか」


「分からない」


「ならいいんじゃないか」


「適当」


「お前が決めたんだろ」


 メイは本を閉じた。


「ノア」


「何」


「もし私が、ここに書いてある人のことを分からなくなったら」


 ノアは黙った。


「教えてくれる?」


「書いてあることなら」


「書いてないことは?」


「知らない」


「会ったことないもんね」


「ああ」


「じゃあ、私がお兄ちゃんのこと好きだったか聞いても?」


「分からないって言う」


 メイは少し笑った。


「冷たい」


「会ったことない人間の気持ちを勝手に決める方が嫌だ」


 メイは本の表紙を指で撫でた。


「そうだね」


 その答えで良かった。知らないなら、知らないと言ってくれる。自分が忘れたからといって、誰かに作ってもらいたくはなかった。


 *


 数日後、メアリーが寝返りをした。偶然だった。仰向けで手を動かしていたと思ったら、身体が横へ傾いた。そのまま勢いで転がった。うつ伏せになる。


 メイは息を呑んだ。


「……メアリー?」


 本人も驚いたらしい。しばらく固まっている。それから顔を上げようとして、うまくいかず、怒った。


「あぁ!」


「今、自分でやったよ」


「あぁ!」


「怒らないで」


 抱き上げようとして、止める。


「もう一回できる?」


 仰向けへ戻す。


「やってみて」


 メアリーは動かない。


「さっきやったでしょう」


 口を動かすだけ。


「もう一回」


 やらない。


「ノア呼んでくるまで待ってくれればよかったのに」


 言ってから笑った。誰かに見せたいと思った。エスター。マギー。ノア。イーライにも。


 イーライ。その名前で、少し胸が動いた。メイは机を見る。届いた手紙が置いてある。まだ返事を書いていなかった。


 メアリーを抱いたまま座る。紙を出した。


『今日、メアリーが初めて寝返りをしました。』


 そこまで書いた。次。


『あなたにも見せたかった。』


 ペンが止まった。


 あなた。イーライ。顔を思い浮かべる。出てくる。山で見た顔。火のそば。少し伸びた髪。笑っている。たぶん。いや。その笑い方が分からない。


 父と同じだ。メイは眉を寄せた。


 イーライの声。名前を呼ばれた時。思い出せる。


『メイ』


 聞こえる。安心した。


「大丈夫」


 メアリーが手を動かす。


「まだ大丈夫」


 書き続ける。


『前よりずっと重くなりました。よく泣きます。よく怒ります。私の髪を引っ張ります。』


 少し考えて、


『笑います。』


 と書いた。


 最後に、


『早く会わせたいです。』


 そう書いて、読み返した。胸の奥が温かかった。まだ。ちゃんと。メイは手紙を畳んだ。


 *


 その夜、メアリーが咳をした。一度。メイは見た。二度。身体を起こす。三度。右手を見る。


「……やめよう」


 声にした。メアリーは咳をしながらも、泣かなかった。呼吸もある。熱もない。


「今日は使わない」


 メイは右手を左手で押さえた。


 四度目。胸が苦しくなる。


「大丈夫」


 五度目。


「大丈夫」


 六度目。メイは立ち上がった。扉へ向かう。エスターを呼べばいい。右手を使う前に。それでいい。


 扉へ手を掛ける。背後で、メアリーが激しく咳き込んだ。振り返る。顔が赤い。身体を丸める。


「メアリー」


 駆け寄る。咳が続く。一度。二度。三度。


「息して」


 咳の間に空気を吸っている。分かっている。でも。


「メアリー」


 右手が背中へ触れた。そこまでだった。唇を寄せる。


「少しだけ」


 口づけた。熱が通る。何かが引かれる。


 浮かんだのはトーマスだった。顔。真正面から見ている。兄が何か言っている。何を言っている。聞こえない。


 メイは息を呑んだ。


「待って」


 トーマスの顔が薄くなる。目。鼻。口。知っている。兄だ。絶対に知っている。


「そこは駄目」


 離そうとする。メアリーが咳をする。右手に力が入る。


「……嫌」


 トーマスの顔が崩れていく。完全には消えない。黒い髪。背が高い。自分より大きい。それは分かる。でも、顔の細かなところがない。


「止まって」


 誰に言っているのか分からない。


「もういいから」


 メアリーの咳が弱くなる。メイは右手を離した。唇も離す。すぐに目を閉じた。


 トーマス。思い出す。兄。名前。二十二歳。働いた。ルーシーの薬代。船。火。死んだ。全部分かる。


 顔。顔は。


「……どんな顔だった?」


 胸が冷えた。目の色。鼻の形。笑った時。怒った時。浮かばない。人の形だけがある。それがトーマスだということだけ分かる。


「嘘」


 メイは立ち上がった。机へ行く。


『覚えておくもの』


 開く。


『トーマス――兄。死んだ。』


『トーマスが死んだ時、私は悲しかった。』


 それだけ。


「顔」


 ページをめくる。


「顔、書いてない」


 当たり前だった。顔なんて忘れると思っていなかった。


「何で」


 紙をめくる。何度見てもない。


「何で書かなかったの」


 メアリーが小さく咳をした。メイは振り返る。呼吸している。落ち着いている。


 メイは本へ戻る。左手を見る。できる。何か残っていれば。トーマスが触ったもの。トーマスを覚えている人。母。父。ルーシー。触れれば、見られる。いつか帰れば。


 そう思った。胸の苦しさが少しだけ減る。


「見ればいい」


 呟いた。


「忘れても、見れば――」


 そこで止まった。


 イーライから届いた手紙へ左手で触れた時のことが浮かんだ。紙に残っていた、イーライの記憶。火の向こうにいた自分。イーライが見ていた自分。そこにいたのは確かにメイだった。けれど、自分の側から見たあの夜ではなかった。


 トーマスも同じだ。母が覚えているトーマス。父が覚えているトーマス。ルーシーが覚えているトーマス。それを見ることはできる。


 でも。


「私のお兄ちゃんじゃない」


 声が震えた。誰かの兄。誰かの息子。誰かが見ていた男。情報は戻る。顔も見られる。声も聞けるかもしれない。でも、自分が見ていたトーマスは戻らない。


 メイは椅子へ座った。泣こうとした。涙は出た。でも、その顔が浮かばない。誰のために泣いているのか、名前でしか確かめられなかった。


 メアリーが声を出した。


「あ」


 メイは顔を上げる。こちらを見ている。小さな手を伸ばしている。


 メイは涙を拭った。抱き上げる。


「大丈夫」


 今度は、自分へ言った。


「まだ大丈夫」


 メアリーの額へ頬を寄せる。


「お兄ちゃんは、いたから」


 顔を思い出せなくても。


「いたの」


 メアリーがメイの服を掴んだ。その感触は、今ここにあった。


 メイは目を閉じる。忘れた人を思い出すことはできなかった。だから、腕の中にいる人だけは、今のうちに覚えておこうと思った。


 そう思った瞬間、右手のほくろが、ひどく黒く見えた。


それから一か月ほど、メアリーは大きな病気をしなかった。少し咳をする。鼻が詰まる。乳を残す。夜中に何度も起きる。そのたびにメイは右手を見た。使った日もある。使わなかった日もある。何度使ったかは、もう数えていなかった。数えない方が楽だった。


杖の五つ目の石は、ほとんど黒くなっていた。右手のほくろも同じだった。最初にあった紫は、縁にわずかに残るだけになっている。メイはそれを見ても、以前ほど驚かなくなった。それも怖かった。


*


メアリーは座ろうとするようになった。背中へ丸めた布を置く。両脇を支える。手を離す。


「いくよ」


メアリーが前へ傾く。


「待って」


手を出す。持ち直す。


「そう」


また傾く。


「頑張って」


今度は横へ倒れた。布の上なので痛くはない。メアリーは驚いた顔をしたあと、怒った。


「あー!」


「私のせいじゃない」


「あー!」


「自分で倒れたでしょう」


抱き上げる。すぐに機嫌が直った。


「ずるい」


メアリーはメイの襟を掴んだ。


「怒ってたんじゃないの」


指を外そうとする。離さない。


「強くなったね」


その言葉だけは、素直に嬉しかった。


強くなっている。確かに。生まれた頃とは違う。


それでも、メイの中にはあの日のメアリーがいた。胸の動かない赤ん坊。十まで数えても息をしない。十一まで。十二まで。あの小さな身体は、今のメアリーの奥にまだ隠れているような気がした。いつ出てくるか分からない。だから、完全には安心できなかった。


*


その夜、メアリーが熱を出した。今までより高かった。エスターの顔も、いつもとは違った。


「布を替えて」


メイがすぐに濡らす。


「乳は?」


「今は無理に飲ませなくていい。起きたら少しずつ」


「息は?」


「速い」


「悪いの?」


「熱があるから速い」


「大丈夫?」


「今すぐどうこうじゃない」


今すぐ。メイはその言葉を嫌った。


「じゃあ、後で悪くなる?」


「分からない」


「またそれ」


「分からないものは分からない」


エスターも疲れていた。それでもメアリーの胸から手を離さない。


「今日は私も見る。あんた一人にしない」


メイは頷いた。少しだけ安心した。


それからしばらく、二人は交代でメアリーを看た。布を替える。身体を拭く。目を覚ませば、少しずつ乳を飲ませる。メアリーは苦しそうだったが、泣く力はあり、時折目も開いた。それでも熱は下がらなかった。


夜が深くなるにつれ、エスターの動きも鈍くなった。メイは何度も時計を見た。どれくらい経ったのか、もう分からない。エスターが湯を取りに部屋を出たのは、空が白み始める少し前だった。


その時、メアリーが身体を震わせた。


「メアリー?」


腕が小さく跳ねる。もう一度。


「どうしたの」


抱き上げる。熱い。息が速い。目が開かない。


「メアリー」


頬を軽く叩く。


「起きて」


反応がない。


右手が動いた。迷わなかった。背中へ置く。額へ口づける。


「持っていって」


それまで使っていた言葉と違った。少しだけ、ではなかった。


「何でもいいから」


掌が焼ける。


「この子にあげて」


身体の奥が強く引かれた。今までより太い。


「――っ」


光景が一気に溢れた。山。雪。火。イーライ。メイは目を見開いた。


「待って」


止まらない。山小屋。イーライが火へ薪を入れている。振り返る。何か言う。声がある。低くも高くもない、聞き慣れた声。


『メイ』


「待って」


その声が薄くなる。


「そこは駄目」


イーライが笑う。顔がある。眉。目。鼻。口。知っている。何度も見た。怒った顔。困った顔。金を見つけた時の顔。山で自分を見る顔。


「やだ」


メアリーの身体が熱い。右手を離せない。イーライが近づく。雪の夜。手が触れる。唇。胸の奥が締めつけられる。


「やめて」


次々に流れていく。一緒に歩いた山道。金色の菌糸。宿。逃げた夜。火。銃声。離れる前の背中。名前。イーライ。名前だけは消えない。


「イーライ」


呼ぶ。返事がない。記憶の中のイーライが何か言っている。口は動いている。もう声が聞こえない。


「イーライ!」


メアリーが息を吸った。深く。身体の震えが止まる。


メイはそこでようやく右手を離した。額から唇を離す。息が上がっていた。


「メアリー」


胸を見る。速い。でも動いている。目が薄く開く。


「いる?」


小さな声が漏れた。メイはメアリーを抱いた。


「いるね」


熱はまだある。それでも反応は戻った。


その時、扉が開いた。


「どうした」


エスターが戻ってくる。


「震えた」


「どのくらい」


「分からない。少し」


エスターがすぐにメアリーを診る。メイは一歩下がった。右手を見る。ほくろは、ほとんど真っ黒だった。


*


やがて空が明るくなった。メアリーの熱は、夜明け前より少し下がっていた。エスターは椅子に座ったまま眠っている。メイは眠れなかった。


メアリーのそばを離れ、机へ向かう。


『覚えておくもの』


開く。ページをめくる。


『イーライ・ハート――メアリーの父。私の大切な人。』


読む。


イーライ・ハート。知っている。メアリーの父。一緒に山にいた。金を探した。人を撃った。自首した。刑務所にいる。手紙をくれる。全部分かる。


顔を思い出す。人影が浮かぶ。男。自分と同じくらいの年。髪。肩。そこまでは出てくる。


目は。何色だった。


「……何色?」


答えがない。鼻。口。笑った顔。ない。


声。


「メイ」


自分で言ってみた。違う。イーライはどんな声で自分を呼んだ。思い出せない。


メイは手紙の束を探した。一通開く。文字を読む。


『無理をするな。』


イーライらしい。そう思った。こういうことを言う人だったから。たぶん。


次。


『メアリーは元気か。』


胸が動かない。メイは何度も読んだ。以前、この字を見ただけで少し嬉しかった。それは覚えている。


いや。覚えているのではない。そうだったと知っている。自分で書いたものがある。ノアと話したこともある。イーライから手紙が来ると嬉しかった。その事実だけは残っている。


でも今、手紙を持っていても、何も起きなかった。


「……嘘」


もう一通。読む。その次。刑務所から届いた字。全部同じ男が書いたもの。知っている。なのに、知らない人の手紙を読んでいるようだった。


メイは左手を紙へ置こうとした。止める。触れれば見える。イーライが書いた時の記憶。自分を思っていたこと。自分を好きだったこと。知ることはできる。


でも、それはイーライの側のものだ。


メイは左手を引いた。


「違う」


紙を閉じる。自分の中を探す。山。火。雪。イーライ。名前を置けば、その場所に誰かがいたと分かる。でも、その誰かへ手を伸ばしても届かない。


「私の大切な人」


紙に書いてある。読む。


「私の大切な人」


もう一度。


言葉としては分かる。意味も分かる。大切。失いたくない人。会いたい人。触れたい人。声を聞きたい人。そういうもの。


メイは目を閉じた。イーライに会いたいか。考える。答えが、すぐに出なかった。


目を開く。


「……会いたい」


言ってみる。何も起きない。


紙へ書かれているからではない。そう思いたいからでもない。本当に、自分は。


「……会いたい、よね」


最後が問いかけになった。


メイは口を閉じた。怖かった。トーマスの顔を失った時より。母の歌を失った時より。父の笑い方を失った時より。


今は、何かがなくなっただけではない。なくなった場所へ、気持ちまで届かなくなっている。


メイは『覚えておくもの』を開く。


『イーライ・ハート――メアリーの父。私の大切な人。』


その下へ書こうとした。何を書く。好き。愛している。会いたい。手が動かない。以前の自分なら、何と書いた。分からない。


メイは長い間ペンを持っていた。やがて、一行だけ足した。


『私は、この人を忘れたくなかった。』


そこで手を止めた。


*


朝になった。


メアリーの熱はさらに下がっていた。目を開けている。エスターはまだ眠っていた。


メイが抱くと、メアリーは弱いながらも服を掴んだ。


「よかった」


今度は自然に声が出た。胸が温かくなる。頬へ口づける。右手は使わない。


メアリーを見れば分かる。大切。好き。生きていてほしい。全部すぐに出てくる。メイはそのことに安堵した。


そして、すぐに別のことへ気づいた。イーライのことを考えた時には、それが出てこなかった。


机の上には手紙がある。その男との間に生まれた娘を、メイは抱いている。メアリーの顔を見た。どこかがイーライに似ているのかもしれない。以前なら分かったのだろうか。今は分からない。


「ごめんね」


誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


メアリーがメイの指を掴んだ。強かった。メイは握り返す。


忘れたくなかった人がいる。その人を忘れたくなかったことだけが、まだ残っていた。


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