ドドメ 急
ドドメ 急
季節が一つ進んだ。
メアリーは、もう寝たままの赤ん坊ではなかった。座る。まだ少し危なっかしいが、自分で身体を支える。気になるものがあれば手を伸ばし、取れなければ怒り、取れれば口へ入れる。
「駄目」
メイが木片を取り上げる。
「あー!」
「それは食べ物じゃない」
「あー!」
「怒っても駄目」
メアリーは両手を伸ばす。
「駄目」
さらに伸ばす。
「駄目だって」
泣きそうな顔になる。メイは少し迷ってから、代わりに小さく切った柔らかいパンを渡した。メアリーはすぐに口へ入れた。
「それならいい」
機嫌が直る。
「分かりやすいね」
メイは笑った。
少し前までは、乳を一口多く飲んだだけで喜んでいた。今はパンを欲しがり、自分で掴み、口へ運ぶ。噛むような真似までしている。頬も丸くなった。腕にも肉がついた。抱けば、ちゃんと重い。メイはその重さが好きだった。
*
メアリーが丈夫になるにつれ、メイは右手に頼らなくなった。咳をしても、そのまま眠る。少し熱が出ても、朝には下がる。乳を残しても、次には飲む。以前なら、そのたび右手を見ていた。今はまず待つ。
「もう少しだけ」
ある夜、メアリーが二度咳をした。メイは起きた。三度目で右手を見る。ほくろはほとんど黒い。しばらく待つ。四度目は来なかった。
「……よし」
横になる。少しして、また目を開ける。胸は動いている。
「大丈夫」
朝、メアリーは元気だった。それだけのことが、メイには大きかった。
*
『覚えておくもの』は厚くなっていた。最初は家族の名前が数行あるだけだった。今は、メアリーの記録が何枚も増えている。
『初めて声を出して笑った。私が椅子に頭をぶつけた時。』
『初めて寝返りをした。本人は驚いて怒った。』
『髪を引っ張る。かなり痛い。』
『眠い時は左の頬を私の胸へ押しつける。』
『柔らかいパンが好き。』
『今日は座ったまま三十まで倒れなかった。』
メイは時々、それを読み返した。読めば、その日のメアリーが浮かぶ。笑った口。怒った顔。湿った手。重さ。声。そこにはまだ、自分の記憶があった。
けれど、最初の方のページは違った。
『父――パトリック。』
『母――エレン。』
『妹――ルーシー。九歳。』
『兄――トーマス。死んだ。』
名前と関係は分かる。けれど、文字の向こう側が薄い。父の顔は分かる。笑い方は分からない。母の顔も分かる。歌はない。ルーシーの顔は、以前より曖昧になっていた。
トーマスはもっとひどい。顔がない。背丈。黒い髪。自分より大きかったこと。それだけ。
ページをめくる。
『トーマスが死んだ時、私は悲しかった。』
読む。胸は少し痛む。でも、その痛みが本当にトーマスのためなのか、それとも文章を読んで「悲しまなければ」と思ったからなのか、分からない時があった。そのことは書かなかった。書けば、本当になりそうだった。
*
ノアは以前より頻繁に来るようになった。手紙がある日も、ない日も。その日は何も持っていなかった。
「今日はないよ」
「何が」
「手紙」
「聞いてない」
「顔に書いてある」
「どんな顔」
「またそれか」
メイは少し笑った。
「私、最近どんな顔してる?」
ノアはすぐには答えなかった。メアリーの方へ目をやり、それからメイを見る。
「普通」
「普通って便利な言葉だね」
「説明しなくていいからな」
「説明してほしい時もあるよ」
「そうか?」
「うん。自分じゃ分からないから」
ノアは少し黙った。メイはその沈黙が嫌ではなかった。彼が考えているのが分かるからだ。
「……疲れてる顔はしてる」
「それはいつもでしょう」
「前より、考え込んでる」
「考えてるだけ?」
「違うのか」
メイは膝の上で指を組んだ。
「分からない。何かを忘れてる気がする時がある」
ノアの表情がわずかに変わった。
「家族のこと?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
言葉にしようとして、うまくまとまらない。
「覚えてるはずなのに、遠いの。名前も顔も分かる。でも、そこにいた時の感じがない」
ノアは急かさなかった。
「……怖い?」
「怖いよ」
答えが早すぎて、メイは自分で驚いた。
「でも、怖いって言うと、本当に何かがなくなりそうで」
「もうなくなってるものを、言葉にしたせいで失うわけじゃない」
「そうかな」
「そうだ」
「ノアは、簡単に言うね」
「簡単じゃない。お前が一人で抱えてるから、そう見えるだけだ」
メイは顔を上げた。
ノアはいつものようにぶっきらぼうだった。けれど、目は逸らさなかった。
「……私、最近どんな顔してる?」
「さっき言っただろ」
「もう一度」
ノアは息を吐いた。
「不安そうな顔」
メイは笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「やっぱり普通じゃないんだ」
「普通だよ」
「どっち」
「不安になるのも普通だって言ってる」
メイはしばらく黙った。ノアが隣に座る。肩が触れそうで触れない距離だった。
「メアリーを見ると、少し安心するの」
「うん」
「この子のことは分かる。今、何をしてるかも、何が好きかも。抱けば重さが分かる」
「うん」
「でも、安心すると同時に怖くなる。私がこの子のことだけ覚えて、他を全部忘れたらどうしようって」
ノアはすぐには答えなかった。
「全部は忘れない」
「どうして分かるの」
「分からない」
「じゃあ、言わないで」
「でも、忘れたとしても、お前が今まで大事にしたものまで嘘になるわけじゃない」
メイは彼を見た。
「……それ、慰めてる?」
「たぶん」
「下手」
「知ってる」
メイは今度こそ笑った。ほんの少しだけだったが、ノアも口元を緩めた。
ノアはメアリーを見る。床に敷いた布の上で、木の匙を握っている。
「大きくなったな」
「うん」
「最初に見た時と全然違う」
メイは嬉しくなった。
「そうでしょう」
「もう弱そうには見えない」
その言葉だけ、少し引っかかった。
「弱くない?」
「俺には」
「本当に?」
「ああ」
「咳はするよ」
「俺もする」
「鼻も詰まる」
「俺もある」
「熱も出す」
「それは俺も出る」
「吐くこともある」
「俺だって吐く」
メイは思わずノアを見た。
「ノアも?」
「昔の話だ」
「いつ?」
「覚えてない」
「都合がいいね」
「お前だって、忘れた方がいいことはあるだろ」
冗談のつもりだったのかもしれない。けれど、メイの胸がわずかに強張ったのを、ノアは見逃さなかった。
「……悪い」
「ううん」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
分かっている。分かっているのに、怖さは消えなかった。
ノアが肩をすくめる。
「生きてりゃ、咳もする。熱も出す。吐く。泣く。それだけで死にかけてるわけじゃない」
その言葉を、メイは少し長く考えた。
「生きていれば、そういうこともある?」
「ああ」
「それだけ?」
「それだけだ」
「……本当に?」
ノアはメイを見る。
「本当に。少なくとも、メアリーはそう見える」
メアリーが匙を床へ落とした。拾おうとして手を伸ばす。届かない。
「あー」
怒る。メイが拾って渡す。
「はい」
すぐに機嫌が直った。
ノアが言った。
「弱い子は、そんなに偉そうに怒らないだろ」
「それ、関係ある?」
「知らない」
「適当」
「でも元気には見える」
メイはメアリーを見る。匙を振っている。床へ打ちつける。何度も。
「うるさい」
さらに叩く。
「聞いてる?」
叩く。
メイは笑った。
「……そうだね」
ノアの肩が、メイの肩に軽く触れた。
「少しは信じられそうか」
メイはその温かさを感じながら、すぐには答えなかった。
「……少しだけ」
「それでいい」
「ノアは、いつもそうやって少しだけで済ませるね」
「全部は無理だからな」
「私も、全部は無理」
「知ってる」
その返事が、メイには嬉しかった。
*
その夜から、メイは右手を使わずに過ごした。五日。七日。十日。ほくろの色は変わらない。杖の石も黒いままだった。代償だけが残っているように見えた。
十一日目、メアリーが少し熱を出した。メイは右手を見たが、すぐには使わなかった。エスターを呼んだ。
「少し熱いね」
「どうする?」
「飲ませて、寝かせる」
「それだけ?」
言ってから、メイは自分で笑った。
「前も言ったね」
エスターも少し笑った。
「何度もね」
「今日は待つ」
「そうしな」
夜、メアリーの熱は少し上がった。メイは不安になった。右手を開く。閉じる。それでも使わない。
「……まだ」
朝、熱は下がっていた。メイはメアリーを抱き上げた。
「自分で治したね」
何度も頬へ口づける。右手は背中を支えるだけだった。何も渡さない。何も減らない。
「すごいね」
胸の奥が温かくなった。
「私が何もしなくても、生きられるんだ」
言ってから、少し寂しかった。すぐに、その寂しさを恥ずかしく思った。
「違う」
メアリーの額へ頬をつける。
「その方がいい」
その方がいいに決まっている。
*
家族から手紙が来た。母からだった。メイはすぐに開いた。
父は元気。ルーシーも元気。宿も変わらない。トーマスの墓へ花を置いたことが書いてあった。
メイはそこで手を止めた。墓。花。兄。悲しい。そう思う。でも、どんな花を好んだのか分からない。そもそもトーマスが花を好んだのかも分からない。
手紙の続きを読む。
『ルーシーは最近、あなたに手紙を書きたがっています。何を書けばいいのか分からないらしく、毎日違うことを聞いてきます。』
メイは少し笑った。ルーシーらしい。そう思った。すぐに、何がルーシーらしいのか分からなくなった。笑みが消える。
『あなたが帰ってきたら、また四人で食卓を囲めるのを楽しみにしています。』
四人。父。母。ルーシー。自分。トーマスはいない。
理解するのに少し時間がかかった。昔は五人だった。その事実を、頭の中で数え直す。
パトリック。エレン。トーマス。メイ。ルーシー。
五人。
今は四人。
「……そうだった」
声に出した。胸が痛んだ。でも、その痛みも少し遠かった。
メイは『覚えておくもの』を開く。家族の頁へ、母の手紙から一つ書き足した。
『母は、私が帰るのを待っている。』
少し考える。
『父も。ルーシーも。』
書いた。それから止まった。
自分は帰りたいか。セントルイス。宿。家族。以前なら、きっと帰りたいと思った。今は。
「分からない」
口にした。
怖くなった。場所を忘れたわけではない。家族を忘れたわけでもない。帰る理由も分かる。なのに、帰りたいという気持ちが前より弱い。なくなった記憶の数だけ、故郷までの距離が伸びている。
メイは手紙を畳んだ。メアリーを見る。こちらは近い。触れなくても分かる。自分の娘。抱きたい。笑ってほしい。泣けば困る。死んでほしくない。好き。全部ある。
メイはメアリーを抱いた。過去が薄くなるほど、腕の中だけが濃くなっている。それでいいと思いかけた。すぐにやめた。
良いはずがない。
*
その晩、『覚えておくもの』を開いた。新しい頁。メイは書いた。
『帰りたい場所――セントルイス。』
少し考えて、続ける。
『父と母とルーシーがいる。トーマスの墓もある。』
その下へ、
『私は、そこを故郷と思っていた。』
書いた。過去形になった。
メイは長い間その文字を見た。線を引こうとした。やめた。今、そう感じたのなら、それも残しておくべきだと思った。
次の頁には、すでに何枚もメアリーのことが書いてある。めくる。
笑った。寝返り。座った。パン。髪を掴む。眠る時の癖。
メイは指で文字をなぞった。過去が減っている。それでも毎日、新しいことは増えている。失うだけではなかった。そのことに、少し救われた。
机の向こうでメアリーが眠っている。胸は静かに動いていた。メイは数えなかった。
もう一度、本を見る。家族の頁は短い。メアリーの頁は長い。その差が、少し怖かった。
それでもメイは、次の白い頁を破らなかった。明日も何か書くことがあると思ったからだ。
メアリーは這うようになった。
最初は、這うというより進んでいるだけだった。腹を床へつけ、両腕で身体を引く。脚はほとんど役に立っていない。それでも、欲しいものがあれば少しずつ近づいていく。
メイの裁縫籠へ。椅子の脚へ。落ちている糸へ。
「駄目」
拾う。
「あー」
「何でも口に入れない」
別の場所へ置く。メアリーは追う。
「だから駄目」
また拾う。メアリーが怒る。
「あぁ!」
「怒っても糸は食べられません」
「あー!」
「パンじゃないの」
メアリーは床を叩いた。メイは笑った。
「誰に似たんだろうね」
言ってから、少し止まる。
誰に。自分か。イーライか。分からない。以前なら、分かったのだろうか。
メアリーがまた糸へ手を伸ばす。
「駄目」
今度は考えず、抱き上げた。メアリーは嫌がって身体を反らす。
「はいはい」
それでよかった。似ている相手を知らなくても、この子が怒りっぽいことは知っている。
今、知っている。
*
メイは仕事を増やした。
以前ほどではない。メアリーが眠っている間や、エスターやマギーが見てくれている間に、簡単な繕い、裾上げ、破れた袖、ボタン付けをする。大きな仕事は受けなかった。
右手はもう普通に使えた。布を押さえ、針を持ち、糸を引く。黒くなったほくろが目に入ることはある。けれど、触れただけでは何も起こらない。それも身体で分かるようになっていた。
メアリーが咳をしても、すぐに右手を伸ばさなくなった。まず見る。次を待つ。エスターを呼ぶ。水を飲ませる。抱く。それから考える。
順番が変わった。それだけで、失うものは増えなくなった。
たぶん。そう思える程度には、長い間使っていなかった。
*
「これ、昨日も直してなかった?」
クララが上着を持ってきた時、メイが聞いた。
「昨日?」
「袖」
「これは別のだよ」
メイは布を見る。
「そう?」
「昨日のは茶色。これは灰色」
「ああ」
言われれば違う。
「ごめん」
「眠いんじゃない?」
「たぶん」
クララは深く考えずに行った。
メイは二着の上着を見比べた。昨日直した茶色の上着。針を通した。破れを閉じた。クララと話した。何を話したかは思い出せない。
でも、それは普通の忘れ方かもしれない。誰だって昨日の会話を全部は覚えていない。
メイはそう考え、それから『覚えておくもの』へ書くのをやめた。
何でも書けばいいわけではない。昨日の昼に何を食べたか、誰と何を話したか、何時にメアリーが眠ったか。すべてを残そうとすれば、紙を見るだけで一日が終わる。
残すものを選ばなければならない。
それも少し怖かった。何が大事だったのか、その判断自体を後から失うかもしれない。
*
ある日、メアリーが初めて立ち上がった。
椅子につかまっていた。
メイが裁縫をしている横で、メアリーは床を這っていた。椅子の脚へ手を掛け、膝をつき、身体を持ち上げる。
メイは最初、見ていなかった。糸を噛み切り、次の針目を確認する。
「あ」
小さな声がした。顔を上げる。
メアリーが立っていた。両手で椅子の座面を掴み、脚を震わせている。膝も少し曲がっている。それでも立っている。
「……待って」
メイは針を置いた。
「動かないで」
メアリーが振り返ろうとする。
「動かないで!」
身体がぐらつく。メイが手を伸ばす。間に合う。
メアリーは尻から床へ落ちた。
どすん。
目を丸くしたあと、泣き出す。
「ごめん、ごめん」
抱き上げる。
「見てた。見てたから」
泣き声が続く。
「立ったね」
メアリーには、それどころではないらしい。
「痛かった?」
尻を見る。何ともない。
「大丈夫」
抱いて揺らす。
「でも立ったよ」
胸が熱くなる。
「すごい」
泣き声が小さくなる。
「もう一回やる?」
また泣いた。
「今日はやめよう」
メイは笑った。
*
すぐに『覚えておくもの』を開いた。
『今日、メアリーが初めて立った。椅子につかまって。』
書く。
『そのあと尻もちをついて泣いた。』
そこで止まった。何か足りない。
メイはメアリーを見る。もう機嫌を直し、床で布切れを掴んでいる。
もう一行、書き足した。
『私は、とても嬉しかった。』
以前は、出来事ばかりを書いていた。笑った。寝返り。座った。パンを食べた。
今日は違った。自分がどう思ったのかも残したかった。
『怖くもあった。倒れて頭を打つと思った。』
さらに書く。
『でも、嬉しい方が大きかった。』
読み返す。
これなら、もし忘れても、この日の自分が何を感じたのか分かる。事実だけではなく、気持ちも残せる。
メイはペンを置いた。
全部ではない。それでも、何もないよりはいい。
*
その夜、ノアが来た。手紙はなかった。
「今日、立った」
扉を開けるなりメイが言った。
「誰が」
「誰だと思うの」
「お前」
「私は立てるよ」
ノアが部屋へ入る。
「メアリー」
「もう?」
「椅子に掴まって」
メイは床へメアリーを下ろした。
「ほら」
「今やるのか」
「やるよね」
メアリーは座ったままだった。
「メアリー」
椅子を指す。
「立って」
動かない。
「さっきやったでしょう」
メアリーは木の匙へ手を伸ばす。
「それじゃなくて」
ノアが笑う。
「無理だろ」
「できるもん」
「本人がやる気ない」
「メアリー」
「あー」
「ほら、返事した」
「立つとは言ってない」
メイは口を尖らせた。
「見せたかったのに」
「またやるだろ」
「次がいつか分からない」
「明日かもしれない」
「今日のは今日だけ」
ノアは黙った。メイも、自分で言ってから黙る。
今日のは今日だけ。
それはメアリーの成長だけの話ではなかった。ノアも分かったらしい。
「書いた?」
「うん」
メイは『覚えておくもの』を持ってきて開いた。
「見て」
初めて、自分から見せた。ノアは少し驚く。
「いいのか」
「今日のところだけ」
メイが指で示す。ノアは読む。
『今日、メアリーが初めて立った。椅子につかまって。』
『そのあと尻もちをついて泣いた。』
『私は、とても嬉しかった。』
『怖くもあった。倒れて頭を打つと思った。』
『でも、嬉しい方が大きかった。』
ノアは読み終え、本を返した。
「いいんじゃないか」
「何が」
「ちゃんと残ってる」
「何が?」
「お前も」
メイは本を見る。
メアリーのことではない。自分。嬉しかった自分。怖かった自分。それも書いてある。
「……そうか」
「名前だけよりはな」
メイは少し考えた。
「じゃあ、もっと書いた方がいいかな」
「全部書こうとするなよ」
「何で」
「寝る時間なくなるぞ」
メイは笑った。
「それは困る」
「あと、メアリーが紙を食う」
二人が見る。ちょうどメアリーが床に落ちた紙切れを口へ持っていこうとしていた。
「駄目!」
メイが取り上げる。メアリーが怒る。
「あー!」
「これは本当に駄目」
ノアが笑った。メイも笑った。
その夜のことも、後で一行だけ書いた。
『ノアに、私のことも残っていると言われた。』
*
それから、メイは少し書き方を変えた。
『メアリーがパンを全部落とした。腹が立った。でも笑った。』
『夜中に三度起こされた。眠くて泣きそうになった。』
『今日はずっと機嫌が悪かった。私も機嫌が悪くなった。』
『メアリーが私の鼻を掴んだ。痛かった。嬉しかった。理由は分からない。』
綺麗なことばかりではなかった。母親らしいことばかりでもない。腹が立つ。疲れる。眠い。一人になりたいと思う日もある。
それも書いた。
メアリーを愛していることと、疲れることは両方本当だった。書いてみると、それが少し分かった。
以前の家族についても書こうとした。
『父と一緒にいると――』
止まる。
何を感じた。安心した? 緊張した? 楽しかった? 分からない。
『母のことを――』
止まる。
『ルーシーといる時――』
続かない。
『トーマスは――』
何も出ない。
メイは空白のままページを閉じた。
過去については、もう事実しか書けないところが増えていた。現在については、感情まで書ける。
その差は日ごとに大きくなっていた。
*
メアリーが「ま」と言った。
最初は偶然だった。
パンを食べながら、
「ま」
と声を出した。
メイは手を止めた。
「今、何て?」
「ま」
もう一度。メイの胸が跳ねる。
「ママ?」
メアリーはパンを叩く。
「ま」
「私?」
返事はない。
「もう一回」
「あ」
「違う」
「だ」
「違う」
メアリーは笑った。
「まって言って」
「あー」
「さっき言ったでしょう」
何度試しても、もう言わなかった。
その日の夕方、エスターに話した。
「『ま』って言った」
「赤ん坊はいろんな音を出すよ」
「私を見てた」
「パンを見てたんじゃないのかい」
「私」
「そう思いたいなら、そうしな」
「冷たい」
「そのうち嫌になるほど呼ばれるよ」
メイは笑った。
「なら早く呼んでほしい」
*
数日後、メイが部屋から出ようとした時だった。
メアリーは床で遊んでいた。マギーに少し見てもらうだけだった。メイが階段を下りようとした時、背後から声がした。
「ま」
メイは止まって振り返る。メアリーがこちらへ手を伸ばしている。
「……もう一回」
「ま」
メイは戻り、膝をついた。
「私?」
メアリーが両手を伸ばす。
「ま」
抱き上げる。
「そうなの?」
胸が熱くなる。
「私なの?」
メアリーがメイの頬へ手を置く。
「ママ?」
「ま」
メイは笑った。涙も出た。
「うん」
強く抱きすぎないようにする。
「そう」
頬へ口づける。
「私がママ」
右手も普通に背中へ回した。何も起きない。何も渡さない。ただ抱く。
「覚えたの?」
メアリーが金色の髪を掴む。
「痛い」
涙を拭いながら笑った。
「それも覚えてるんだ」
しばらく、そのまま抱いていた。
*
夜。『覚えておくもの』を開いた。
大きく書く。
『今日、メアリーが私を「ま」と呼んだ。』
その下へ、
『たぶん、ママの「ま」。』
少し考えて、
『私は嬉しくて泣いた。』
さらに一行。
『私はメアリーの母親。』
ペンが止まった。
そんなことは書く必要がないと思った。ページの最初から何度も書いてある。メアリーは娘。自分は母。当たり前だ。
それでも消さなかった。
父。母。妹。兄。大切だった人。帰りたかった場所。そういうものまで、紙で確かめるようになった。
なら、これも残していい。
『私はメアリーの母親。』
その文字だけは、読まなくても分かる。
今は。
メイは眠っているメアリーを見る。
娘。好き。大切。守りたい。触れたい。全部ある。
本を閉じる。
過去の自分を作っていたものは、ずいぶん遠くなった。それでも、今の自分を作っているものはここにある。
その夜、メイは久しぶりに『覚えておくもの』を枕元へ置かなかった。
読まなくても、自分が誰なのか分かる気がしたからだ。
イーライから手紙が届いたのは、それから五日後だった。
ノアが差し出した封筒を見て、メイはすぐに名前を読めた。
イーライ・ハート。
「来たよ」
「うん」
受け取る。
それだけだった。
ノアが少し待っている。
「何?」
「いや」
「何」
「前は、もう少し嬉しそうだった」
メイは封筒を見る。
「そうだった?」
「ああ」
「どんなふうに?」
「それは知らない」
「見てたんでしょう」
「顔なんかいちいち覚えてない」
「役に立たないね」
「悪かったな」
いつものやり取りだった。
メイは笑った。けれど、封筒を受け取った時の自分については、ノアの方が正しいのだろうと思った。
以前は嬉しかった。それは『覚えておくもの』にも書いてある。
今は。
嫌ではない。
怖くもない。
ただ、手紙が来た。
それだけだった。
*
メアリーが眠ってから封を切った。
文字は見慣れていた。見慣れているということも分かる。何通も読んだからだ。
『メアリーは元気か。』
最初にそう書いてあった。
メイは少し笑った。そこは分かる。この人はいつもメアリーを気にしている。
『前の手紙に、立ったと書いてあった。まだ信じられない。俺が見た時には、まだ腹の中にもいなかったのに。』
メイの手が止まる。
俺が見た時。
腹の中。
山にいた頃。
その頃にはもうメアリーがいた。自分たちは知らなかった。それも事実として知っている。
けれど、その時のイーライの顔はない。
『お前が、あいつは怒りっぽいと書いていたけど、そこはたぶんお前に似たんだと思う。』
「私?」
思わず声が出た。少し腹が立った。すぐに、そのことが可笑しくなった。
「何でよ」
紙へ言う。
メアリーが眠りながら少し動いた。メイは声を落とす。
「私、そんなに怒ってた?」
返事はない。
続きを読む。
『言ったら怒るだろうと思ったから、今まで書かなかった。』
「ほら」
メイは小さく笑った。その瞬間だけ、この手紙を書いた男が少し近くなった。
自分が怒ると知っている。
自分より、自分の昔を知っている男。
続きを読む。
『こっちは変わらない。仕事をして、寝て、また仕事をする。前より外の空気が近くなった気はする。出る日も前より近い。』
メイの指が止まる。
出る日。
イーライは刑務所にいる。
刑期は十八か月。
いつから。
数える。
分からなくなり、『覚えておくもの』を開いた。
日付。
手紙。
自分で書いた記録。
指で追う。
「……もうそんなに」
思っていたより近かった。
胸が少し速くなる。
嬉しい。
そう思おうとした。
でも、その速さが喜びなのか不安なのか分からなかった。
続きを読む。
『出たら、そっちへ行く。』
短かった。
メイは何度も読んだ。
『出たら、そっちへ行く。』
来る。
サンフランシスコへ。
ここへ。
イーライが来る。
メイは手紙から顔を上げた。
部屋を見る。
ベッド。
椅子。
机。
杖。
眠っているメアリー。
ここへ男が来る。
メアリーの父親。
自分の大切だった人。
自分が忘れたくなかった人。
「……どうしよう」
言ってから、自分で驚いた。
会いたかった人が来る。
なら、喜べばいい。
そう書いてある。
自分はこの人を大切にしていた。
なのに最初に出た言葉は、どうしよう、だった。
*
翌日、ノアが来ると、メイは手紙を差し出した。
「読んで」
ノアが受け取らない。
「いいのか」
「うん」
「全部?」
「そこだけ」
メイが指で示す。
『出たら、そっちへ行く。』
ノアが読む。
「来るのか」
「みたい」
「良かったな」
メイは黙った。
ノアが顔を上げる。
「良くないのか」
「分からない」
「会いたくない?」
「それも分からない」
ノアは手紙を返した。メイは膝の上へ置く。
「ねえ」
「何」
「私、この人のこと好きだったんだって」
ノアは黙った。
「ここに書いてあるの」
『覚えておくもの』を開く。見せるつもりはなかったが、イーライの頁だけをノアへ向けた。
『イーライ・ハート――メアリーの父。私の大切な人。』
『私は、この人を忘れたくなかった。』
ノアは読む。
メイが言った。
「だから、好きだったんだと思う」
「そうなんだろうな」
「……それだけ?」
「何が」
「もっと何かないの」
「俺に聞くなよ」
「でも」
「俺はそいつに会ったこともない」
「うん」
「お前とそいつが一緒にいたところも見てない」
「うん」
「なら、それ以上は分からない」
分かっていた。そう答えてほしかったはずだった。それでも、少し寂しかった。
「今も好きだと思う?」
ノアはすぐに答えなかった。
「分からない」
「やっぱり」
「それは俺が決めることじゃないだろ」
「じゃあ誰が決めるの」
「お前」
「私が分からないの」
声が少し強くなった。
ノアは怒らなかった。
「なら、分からないままでいいんじゃないか」
「よくないよ」
「何で」
「来るから」
メイは手紙を握った。
「向こうは私のことを知ってる」
「うん」
「私の顔も、声も、怒り方も知ってる。この手紙だって、私が読んだら怒るって分かって書いてる」
「うん」
「でも私は知らない」
ノアが黙る。
「顔も分からない。声も分からない。どういうふうに笑うのかも分からない。何を言えば喜ぶかも、何を言ったら怒るかも分からない」
言葉が止まらなくなった。
「なのに向こうは知ってるの」
怖かった。
初めて会う人なら、それでいい。お互い何も知らない。そこから始めればいい。
イーライは違う。
自分だけが知らない。
「ずるい」
メイは呟いた。
「何が?」
「この人だけ、私を覚えてる」
ノアはしばらく黙っていた。
「そうだな」
「否定してよ」
「できない」
「本当に役に立たない」
「知ってる」
メイは手紙を見た。
「会わない方がいいかな」
ノアは首を横に振らなかった。頷きもしなかった。
「それも俺が決めることじゃない」
「じゃあ、何なら決めてくれるの」
「郵便を持ってくる日」
メイは顔を上げた。
「それは仕事でしょう」
「そうだ」
「馬鹿」
少し笑った。
ノアも笑った。
それで、胸の固さが少しだけほどけた。
*
「ま」
床から声がした。
二人が見る。
メアリーがメイへ手を伸ばしている。
「はい」
抱き上げる。
「何?」
「ま」
「いるよ」
メアリーが手紙を掴もうとする。
「これは駄目」
「あー」
「お父さんからだから」
言ってから止まった。
メアリーは意味など分からず、まだ紙へ手を伸ばしている。
メイは手紙を見る。
「これ、あなたのお父さんだって」
文字を見せる。
「イーライ・ハート」
口にする。
何も起きない。
「あなたのお父さん」
メアリーが手紙を叩いた。
「会ったら分かるかな」
ノアが聞く。
「何が?」
「その人のこと」
メイは考えた。
「分からない」
「そうか」
「でも」
メアリーを見る。
「この子には会わせたい」
それはすぐに言えた。
イーライを自分が好きかどうかは分からない。
会いたいかも分からない。
でも、メアリーの父親なら。
「会わせる」
メイはもう一度言った。
「それは決められる」
ノアが頷いた。
*
夜、メイは『覚えておくもの』を開いた。
イーライの頁。
『イーライ・ハート――メアリーの父。私の大切な人。』
『私は、この人を忘れたくなかった。』
その下に空白がある。
ペンを持つ。
しばらく考えた。
そして書いた。
『私は、この人を好きだったらしい。』
読み返す。
嫌だった。
らしい。
自分のことなのに。
誰かから聞いた話のようだった。
線を引こうとする。
でも、他に書きようがない。
『私は、この人を好きだった。』
それなら断定できる。
記録がある。
メアリーがいる。
手紙もある。
でも、それは事実だ。
今の気持ちではない。
メイは「らしい」を残した。
次の行へ書く。
『もうすぐ、ここへ来る。』
そこで手が止まる。
最後に何を書く。
楽しみ。
怖い。
会いたい。
会いたくない。
どれも少しずつ違う。
長く迷って、
『会う。』
とだけ書いた。
それなら、自分で決められた。
*
眠る前、久しぶりにイーライの手紙をすべて出した。
一通ずつ並べる。
山から離れた後。
裁判。
刑務所。
妊娠を知らせた時。
メアリーが生まれた時。
名前を決めた時。
少しずつ増えた紙。
メイは左手を膝の下へ入れた。
触れなかった。
そこに残っているイーライの記憶を読むことはできる。
でも、今は読まなかった。
会うなら、本人を見る。
知らない顔を。
知らない声を。
知らない人として。
それから何を思うのかは、その時の自分に任せる。
手紙を束ね直した。
最後の一通だけ、上に置く。
『出たら、そっちへ行く。』
メイは灯りを消した。
隣ではメアリーが眠っている。
胸の動きを確かめる。
一度だけ。
それ以上は数えなかった。
来る男の顔を思い出そうともしなかった。
もう、思い出せないことを知っていたからだ。
メアリーが一人で三歩歩いた。
一歩目で、メイは息を止めた。
二歩目で、両手を広げた。
三歩目で、メアリーは前へ倒れた。
「わっ」
メイが受け止める。胸へ飛び込むような形になった。メアリーは驚いた顔をしていた。泣くかと思った。泣かなかった。
「……歩いた」
メイが言う。メアリーは意味も分からず、メイの襟を掴んだ。
「歩いたよ」
抱き上げる。
「三つ」
「ま」
「見てた?」
「ま」
「見てたの私か」
笑った。もう一度床へ下ろす。
「もう一回やる?」
メアリーはその場へ座った。
「やらないの?」
両手を伸ばしてくる。
「そっち?」
抱き上げる。
以前なら、立てたことより転んだことを気にしたかもしれない。頭を打たなかったか。息は乱れていないか。何か悪いことが起きないか。
今は違った。
メイはただ嬉しかった。
「三歩」
メアリーの頬へ口づける。
「次は四歩ね」
右手は背中を支えていた。ほくろは黒いままだった。もう長いこと、使っていない。杖の五つ目の石も黒い。色は戻らない。失ったものも戻らない。
それでも、メアリーは歩いた。
*
『今日、メアリーが三歩歩いた。』
その日の夜、『覚えておくもの』へ書いた。
『私のところまで来た。』
少し考える。
『嬉しかった。』
そこでペンを止める。
以前なら、もっと書いただろうか。
怖かった。転ぶと思った。怪我をすると思った。
今は、そうでもなかった。
メイはもう一行足した。
『転んだけれど、大丈夫だった。』
読み返す。
大丈夫だった。
それで終わることができるようになった。
昔は、それができなかった。大丈夫な今の向こうに、悪くなる次を探していた。
メイは眠っているメアリーを見た。胸が動いている。数えない。咳もしない。顔色も見ない。ただ眠っている。
本を閉じようとして、前の頁が目に入った。
『イーライ・ハート――メアリーの父。私の大切な人。』
『この人を、手放したくなかった。』
『私は、この人を好きだったらしい。』
『もうすぐ、ここへ来る。』
『会う。』
メイはそこをしばらく見ていた。
最後の手紙が来てから、何週間か経っている。出る日が近いとは書いてあった。正確な日は分からない。次の手紙を待っていた。
いや。
待っている、というのだろうか。
郵便が届けば確認する。ノアが来れば、一瞬手元を見る。それは待つということなのかもしれない。
でも、胸が弾むことはなかった。怖くて眠れない夜もなくなった。
顔のない人が来る。
そう考えると、少し楽だった。
メイは本を閉じた。
*
数日後。
ノアが来た。
「手紙?」
メイが聞いた。
「今日はない」
「そう」
ノアはいつものように部屋へ入った。メアリーが床から見上げる。
「ま」
「俺じゃない」
「分かってるよ」
メイが笑う。
ノアはメアリーの前へしゃがんだ。
「歩くんだって?」
「三歩」
「それ歩いたって言うのか」
「言うよ」
「途中で落ちただろ」
「私が受け止めた」
「じゃあ二歩半じゃないか」
「三歩」
「半分は落下だろ」
「三歩です」
メアリーが立ち上がった。椅子に掴まる。二人とも黙った。
「ほら」
メイが小声で言う。
「今からやるよ」
メアリーが手を離す。
一歩。
二歩。
尻もち。
「二歩」
ノアが言った。
「今日はね」
メイはすぐ抱き上げた。
「昨日は三歩だったもんね」
「ま」
「証人が本人だけだな」
「私は?」
「母親は数に入らない」
「何でよ」
そんな話をしている時だった。
階下で扉が開く音がした。誰かの声。男だった。聞き取れない。マギーの声が返る。少しして、足音が階段の下まで来て止まった。
「メイ!」
マギーが呼んだ。
「何?」
「お客だよ」
「誰?」
返事が少し遅れた。
「……あんたに会いに来たって」
メイの身体が固まった。ノアを見る。ノアもこちらを見ている。
「郵便じゃないの?」
「違う」
メイはメアリーを抱いたまま立った。
誰。
考える。
すぐに一人しか浮かばなかった。
机を見る。
『覚えておくもの』。
取りに行こうとした。足が止まる。
必要だろうか。
名前は分かる。
メアリーの父親。
自分が大切にしていた人。
手放したくなかった人。
好きだったらしい人。
会うと書いた。
それだけ分かればいい。
メイは本を取らなかった。
「行くのか」
ノアが聞いた。
「うん」
答えられた。
「怖い?」
少し考える。
「うん」
メアリーを抱き直した。
「でも会うって決めたから」
扉へ向かう。
ノアはついてこなかった。
それがありがたかった。
*
階段を下りる。
一段。
また一段。
昔は、この階段を上るだけで息が切れた。腹が大きかった。メアリーが中にいた。
その頃のことは、まだ覚えている。
手すりを握る。右手だった。黒いほくろ。何も起きない。
下まで降りる。
マギーが玄関の近くにいた。その向こうに、男が立っていた。
若い。思っていたより痩せている。擦れた上着。荷物は一つ。日に焼けた顔。髪は少し伸びている。
メイは男を見た。
何も浮かばなかった。
山。雪。火。
そこに誰かがいたことは分かる。
けれど、この顔には結びつかなかった。
男はメイを見た。動かなかった。その視線が、金色の髪へ行く。左の青い目。右の深緑の目。そして、腕の中のメアリー。
男の顔が変わった。笑ったようにも見えた。泣きそうにも見えた。
「メイ」
名前を呼ばれた。
その声にも、記憶は戻らなかった。
胸の奥を探す。
何も出てこない。
男が一歩近づいた。メイは反射的に半歩下がった。男が止まった。その顔から、何かが消えた。
メイは悪いことをした気がした。でも、何をすれば正しいのか分からなかった。
メアリーがメイの服を掴む。
「ま」
「大丈夫」
そう言ってから、男を見る。
名前なら、知っている。
何度も読んだ。何度も書いた。
記憶の代わりに、紙の上へ残した名前。
「……イーライ・ハート?」
男はしばらく答えなかった。やがて、小さく頷いた。
「ああ」
メイは腕の中のメアリーを見る。もう一度、男を見る。
「この子の……お父さん?」
今度は、答えるまでにもっと時間がかかった。
「……ああ」
メイはメアリーを少しだけ抱き直した。
イーライ・ハート。
その名前は、確かに残っていた。
メアリーの父親。
かつて自分が大切にした人。
けれど、目の前にいる男は、名前の中にしかいなかった。
メイは、その顔を知らなかった。




