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15/19

ドドメ 急

ドドメ 急


季節が一つ進んだ。


メアリーは、もう寝たままの赤ん坊ではなかった。座る。まだ少し危なっかしいが、自分で身体を支える。気になるものがあれば手を伸ばし、取れなければ怒り、取れれば口へ入れる。


「駄目」


メイが木片を取り上げる。


「あー!」


「それは食べ物じゃない」


「あー!」


「怒っても駄目」


メアリーは両手を伸ばす。


「駄目」


さらに伸ばす。


「駄目だって」


泣きそうな顔になる。メイは少し迷ってから、代わりに小さく切った柔らかいパンを渡した。メアリーはすぐに口へ入れた。


「それならいい」


機嫌が直る。


「分かりやすいね」


メイは笑った。


少し前までは、乳を一口多く飲んだだけで喜んでいた。今はパンを欲しがり、自分で掴み、口へ運ぶ。噛むような真似までしている。頬も丸くなった。腕にも肉がついた。抱けば、ちゃんと重い。メイはその重さが好きだった。


*


メアリーが丈夫になるにつれ、メイは右手に頼らなくなった。咳をしても、そのまま眠る。少し熱が出ても、朝には下がる。乳を残しても、次には飲む。以前なら、そのたび右手を見ていた。今はまず待つ。


「もう少しだけ」


ある夜、メアリーが二度咳をした。メイは起きた。三度目で右手を見る。ほくろはほとんど黒い。しばらく待つ。四度目は来なかった。


「……よし」


横になる。少しして、また目を開ける。胸は動いている。


「大丈夫」


朝、メアリーは元気だった。それだけのことが、メイには大きかった。


*


『覚えておくもの』は厚くなっていた。最初は家族の名前が数行あるだけだった。今は、メアリーの記録が何枚も増えている。


『初めて声を出して笑った。私が椅子に頭をぶつけた時。』


『初めて寝返りをした。本人は驚いて怒った。』


『髪を引っ張る。かなり痛い。』


『眠い時は左の頬を私の胸へ押しつける。』


『柔らかいパンが好き。』


『今日は座ったまま三十まで倒れなかった。』


メイは時々、それを読み返した。読めば、その日のメアリーが浮かぶ。笑った口。怒った顔。湿った手。重さ。声。そこにはまだ、自分の記憶があった。


けれど、最初の方のページは違った。


『父――パトリック。』


『母――エレン。』


『妹――ルーシー。九歳。』


『兄――トーマス。死んだ。』


名前と関係は分かる。けれど、文字の向こう側が薄い。父の顔は分かる。笑い方は分からない。母の顔も分かる。歌はない。ルーシーの顔は、以前より曖昧になっていた。


トーマスはもっとひどい。顔がない。背丈。黒い髪。自分より大きかったこと。それだけ。


ページをめくる。


『トーマスが死んだ時、私は悲しかった。』


読む。胸は少し痛む。でも、その痛みが本当にトーマスのためなのか、それとも文章を読んで「悲しまなければ」と思ったからなのか、分からない時があった。そのことは書かなかった。書けば、本当になりそうだった。


*


ノアは以前より頻繁に来るようになった。手紙がある日も、ない日も。その日は何も持っていなかった。


「今日はないよ」


「何が」


「手紙」


「聞いてない」


「顔に書いてある」


「どんな顔」


「またそれか」


メイは少し笑った。


「私、最近どんな顔してる?」


ノアはすぐには答えなかった。メアリーの方へ目をやり、それからメイを見る。


「普通」


「普通って便利な言葉だね」


「説明しなくていいからな」


「説明してほしい時もあるよ」


「そうか?」


「うん。自分じゃ分からないから」


ノアは少し黙った。メイはその沈黙が嫌ではなかった。彼が考えているのが分かるからだ。


「……疲れてる顔はしてる」


「それはいつもでしょう」


「前より、考え込んでる」


「考えてるだけ?」


「違うのか」


メイは膝の上で指を組んだ。


「分からない。何かを忘れてる気がする時がある」


ノアの表情がわずかに変わった。


「家族のこと?」


「それもある。でも、それだけじゃない」


言葉にしようとして、うまくまとまらない。


「覚えてるはずなのに、遠いの。名前も顔も分かる。でも、そこにいた時の感じがない」


ノアは急かさなかった。


「……怖い?」


「怖いよ」


答えが早すぎて、メイは自分で驚いた。


「でも、怖いって言うと、本当に何かがなくなりそうで」


「もうなくなってるものを、言葉にしたせいで失うわけじゃない」


「そうかな」


「そうだ」


「ノアは、簡単に言うね」


「簡単じゃない。お前が一人で抱えてるから、そう見えるだけだ」


メイは顔を上げた。


ノアはいつものようにぶっきらぼうだった。けれど、目は逸らさなかった。


「……私、最近どんな顔してる?」


「さっき言っただろ」


「もう一度」


ノアは息を吐いた。


「不安そうな顔」


メイは笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「やっぱり普通じゃないんだ」


「普通だよ」


「どっち」


「不安になるのも普通だって言ってる」


メイはしばらく黙った。ノアが隣に座る。肩が触れそうで触れない距離だった。


「メアリーを見ると、少し安心するの」


「うん」


「この子のことは分かる。今、何をしてるかも、何が好きかも。抱けば重さが分かる」


「うん」


「でも、安心すると同時に怖くなる。私がこの子のことだけ覚えて、他を全部忘れたらどうしようって」


ノアはすぐには答えなかった。


「全部は忘れない」


「どうして分かるの」


「分からない」


「じゃあ、言わないで」


「でも、忘れたとしても、お前が今まで大事にしたものまで嘘になるわけじゃない」


メイは彼を見た。


「……それ、慰めてる?」


「たぶん」


「下手」


「知ってる」


メイは今度こそ笑った。ほんの少しだけだったが、ノアも口元を緩めた。


ノアはメアリーを見る。床に敷いた布の上で、木の匙を握っている。


「大きくなったな」


「うん」


「最初に見た時と全然違う」


メイは嬉しくなった。


「そうでしょう」


「もう弱そうには見えない」


その言葉だけ、少し引っかかった。


「弱くない?」


「俺には」


「本当に?」


「ああ」


「咳はするよ」


「俺もする」


「鼻も詰まる」


「俺もある」


「熱も出す」


「それは俺も出る」


「吐くこともある」


「俺だって吐く」


メイは思わずノアを見た。


「ノアも?」


「昔の話だ」


「いつ?」


「覚えてない」


「都合がいいね」


「お前だって、忘れた方がいいことはあるだろ」


冗談のつもりだったのかもしれない。けれど、メイの胸がわずかに強張ったのを、ノアは見逃さなかった。


「……悪い」


「ううん」


「そういう意味じゃない」


「分かってる」


分かっている。分かっているのに、怖さは消えなかった。


ノアが肩をすくめる。


「生きてりゃ、咳もする。熱も出す。吐く。泣く。それだけで死にかけてるわけじゃない」


その言葉を、メイは少し長く考えた。


「生きていれば、そういうこともある?」


「ああ」


「それだけ?」


「それだけだ」


「……本当に?」


ノアはメイを見る。


「本当に。少なくとも、メアリーはそう見える」


メアリーが匙を床へ落とした。拾おうとして手を伸ばす。届かない。


「あー」


怒る。メイが拾って渡す。


「はい」


すぐに機嫌が直った。


ノアが言った。


「弱い子は、そんなに偉そうに怒らないだろ」


「それ、関係ある?」


「知らない」


「適当」


「でも元気には見える」


メイはメアリーを見る。匙を振っている。床へ打ちつける。何度も。


「うるさい」


さらに叩く。


「聞いてる?」


叩く。


メイは笑った。


「……そうだね」


ノアの肩が、メイの肩に軽く触れた。


「少しは信じられそうか」


メイはその温かさを感じながら、すぐには答えなかった。


「……少しだけ」


「それでいい」


「ノアは、いつもそうやって少しだけで済ませるね」


「全部は無理だからな」


「私も、全部は無理」


「知ってる」


その返事が、メイには嬉しかった。


*


その夜から、メイは右手を使わずに過ごした。五日。七日。十日。ほくろの色は変わらない。杖の石も黒いままだった。代償だけが残っているように見えた。


十一日目、メアリーが少し熱を出した。メイは右手を見たが、すぐには使わなかった。エスターを呼んだ。


「少し熱いね」


「どうする?」


「飲ませて、寝かせる」


「それだけ?」


言ってから、メイは自分で笑った。


「前も言ったね」


エスターも少し笑った。


「何度もね」


「今日は待つ」


「そうしな」


夜、メアリーの熱は少し上がった。メイは不安になった。右手を開く。閉じる。それでも使わない。


「……まだ」


朝、熱は下がっていた。メイはメアリーを抱き上げた。


「自分で治したね」


何度も頬へ口づける。右手は背中を支えるだけだった。何も渡さない。何も減らない。


「すごいね」


胸の奥が温かくなった。


「私が何もしなくても、生きられるんだ」


言ってから、少し寂しかった。すぐに、その寂しさを恥ずかしく思った。


「違う」


メアリーの額へ頬をつける。


「その方がいい」


その方がいいに決まっている。


*


家族から手紙が来た。母からだった。メイはすぐに開いた。


父は元気。ルーシーも元気。宿も変わらない。トーマスの墓へ花を置いたことが書いてあった。


メイはそこで手を止めた。墓。花。兄。悲しい。そう思う。でも、どんな花を好んだのか分からない。そもそもトーマスが花を好んだのかも分からない。


手紙の続きを読む。


『ルーシーは最近、あなたに手紙を書きたがっています。何を書けばいいのか分からないらしく、毎日違うことを聞いてきます。』


メイは少し笑った。ルーシーらしい。そう思った。すぐに、何がルーシーらしいのか分からなくなった。笑みが消える。


『あなたが帰ってきたら、また四人で食卓を囲めるのを楽しみにしています。』


四人。父。母。ルーシー。自分。トーマスはいない。


理解するのに少し時間がかかった。昔は五人だった。その事実を、頭の中で数え直す。


パトリック。エレン。トーマス。メイ。ルーシー。


五人。


今は四人。


「……そうだった」


声に出した。胸が痛んだ。でも、その痛みも少し遠かった。


メイは『覚えておくもの』を開く。家族の頁へ、母の手紙から一つ書き足した。


『母は、私が帰るのを待っている。』


少し考える。


『父も。ルーシーも。』


書いた。それから止まった。


自分は帰りたいか。セントルイス。宿。家族。以前なら、きっと帰りたいと思った。今は。


「分からない」


口にした。


怖くなった。場所を忘れたわけではない。家族を忘れたわけでもない。帰る理由も分かる。なのに、帰りたいという気持ちが前より弱い。なくなった記憶の数だけ、故郷までの距離が伸びている。


メイは手紙を畳んだ。メアリーを見る。こちらは近い。触れなくても分かる。自分の娘。抱きたい。笑ってほしい。泣けば困る。死んでほしくない。好き。全部ある。


メイはメアリーを抱いた。過去が薄くなるほど、腕の中だけが濃くなっている。それでいいと思いかけた。すぐにやめた。


良いはずがない。


*


その晩、『覚えておくもの』を開いた。新しい頁。メイは書いた。


『帰りたい場所――セントルイス。』


少し考えて、続ける。


『父と母とルーシーがいる。トーマスの墓もある。』


その下へ、


『私は、そこを故郷と思っていた。』


書いた。過去形になった。


メイは長い間その文字を見た。線を引こうとした。やめた。今、そう感じたのなら、それも残しておくべきだと思った。


次の頁には、すでに何枚もメアリーのことが書いてある。めくる。


笑った。寝返り。座った。パン。髪を掴む。眠る時の癖。


メイは指で文字をなぞった。過去が減っている。それでも毎日、新しいことは増えている。失うだけではなかった。そのことに、少し救われた。


机の向こうでメアリーが眠っている。胸は静かに動いていた。メイは数えなかった。


もう一度、本を見る。家族の頁は短い。メアリーの頁は長い。その差が、少し怖かった。


それでもメイは、次の白い頁を破らなかった。明日も何か書くことがあると思ったからだ。


メアリーは這うようになった。


最初は、這うというより進んでいるだけだった。腹を床へつけ、両腕で身体を引く。脚はほとんど役に立っていない。それでも、欲しいものがあれば少しずつ近づいていく。


メイの裁縫籠へ。椅子の脚へ。落ちている糸へ。


「駄目」


拾う。


「あー」


「何でも口に入れない」


別の場所へ置く。メアリーは追う。


「だから駄目」


また拾う。メアリーが怒る。


「あぁ!」


「怒っても糸は食べられません」


「あー!」


「パンじゃないの」


メアリーは床を叩いた。メイは笑った。


「誰に似たんだろうね」


言ってから、少し止まる。


誰に。自分か。イーライか。分からない。以前なら、分かったのだろうか。


メアリーがまた糸へ手を伸ばす。


「駄目」


今度は考えず、抱き上げた。メアリーは嫌がって身体を反らす。


「はいはい」


それでよかった。似ている相手を知らなくても、この子が怒りっぽいことは知っている。


今、知っている。


*


メイは仕事を増やした。


以前ほどではない。メアリーが眠っている間や、エスターやマギーが見てくれている間に、簡単な繕い、裾上げ、破れた袖、ボタン付けをする。大きな仕事は受けなかった。


右手はもう普通に使えた。布を押さえ、針を持ち、糸を引く。黒くなったほくろが目に入ることはある。けれど、触れただけでは何も起こらない。それも身体で分かるようになっていた。


メアリーが咳をしても、すぐに右手を伸ばさなくなった。まず見る。次を待つ。エスターを呼ぶ。水を飲ませる。抱く。それから考える。


順番が変わった。それだけで、失うものは増えなくなった。


たぶん。そう思える程度には、長い間使っていなかった。


*


「これ、昨日も直してなかった?」


クララが上着を持ってきた時、メイが聞いた。


「昨日?」


「袖」


「これは別のだよ」


メイは布を見る。


「そう?」


「昨日のは茶色。これは灰色」


「ああ」


言われれば違う。


「ごめん」


「眠いんじゃない?」


「たぶん」


クララは深く考えずに行った。


メイは二着の上着を見比べた。昨日直した茶色の上着。針を通した。破れを閉じた。クララと話した。何を話したかは思い出せない。


でも、それは普通の忘れ方かもしれない。誰だって昨日の会話を全部は覚えていない。


メイはそう考え、それから『覚えておくもの』へ書くのをやめた。


何でも書けばいいわけではない。昨日の昼に何を食べたか、誰と何を話したか、何時にメアリーが眠ったか。すべてを残そうとすれば、紙を見るだけで一日が終わる。


残すものを選ばなければならない。


それも少し怖かった。何が大事だったのか、その判断自体を後から失うかもしれない。


*


ある日、メアリーが初めて立ち上がった。


椅子につかまっていた。


メイが裁縫をしている横で、メアリーは床を這っていた。椅子の脚へ手を掛け、膝をつき、身体を持ち上げる。


メイは最初、見ていなかった。糸を噛み切り、次の針目を確認する。


「あ」


小さな声がした。顔を上げる。


メアリーが立っていた。両手で椅子の座面を掴み、脚を震わせている。膝も少し曲がっている。それでも立っている。


「……待って」


メイは針を置いた。


「動かないで」


メアリーが振り返ろうとする。


「動かないで!」


身体がぐらつく。メイが手を伸ばす。間に合う。


メアリーは尻から床へ落ちた。


どすん。


目を丸くしたあと、泣き出す。


「ごめん、ごめん」


抱き上げる。


「見てた。見てたから」


泣き声が続く。


「立ったね」


メアリーには、それどころではないらしい。


「痛かった?」


尻を見る。何ともない。


「大丈夫」


抱いて揺らす。


「でも立ったよ」


胸が熱くなる。


「すごい」


泣き声が小さくなる。


「もう一回やる?」


また泣いた。


「今日はやめよう」


メイは笑った。


*


すぐに『覚えておくもの』を開いた。


『今日、メアリーが初めて立った。椅子につかまって。』


書く。


『そのあと尻もちをついて泣いた。』


そこで止まった。何か足りない。


メイはメアリーを見る。もう機嫌を直し、床で布切れを掴んでいる。


もう一行、書き足した。


『私は、とても嬉しかった。』


以前は、出来事ばかりを書いていた。笑った。寝返り。座った。パンを食べた。


今日は違った。自分がどう思ったのかも残したかった。


『怖くもあった。倒れて頭を打つと思った。』


さらに書く。


『でも、嬉しい方が大きかった。』


読み返す。


これなら、もし忘れても、この日の自分が何を感じたのか分かる。事実だけではなく、気持ちも残せる。


メイはペンを置いた。


全部ではない。それでも、何もないよりはいい。


*


その夜、ノアが来た。手紙はなかった。


「今日、立った」


扉を開けるなりメイが言った。


「誰が」


「誰だと思うの」


「お前」


「私は立てるよ」


ノアが部屋へ入る。


「メアリー」


「もう?」


「椅子に掴まって」


メイは床へメアリーを下ろした。


「ほら」


「今やるのか」


「やるよね」


メアリーは座ったままだった。


「メアリー」


椅子を指す。


「立って」


動かない。


「さっきやったでしょう」


メアリーは木の匙へ手を伸ばす。


「それじゃなくて」


ノアが笑う。


「無理だろ」


「できるもん」


「本人がやる気ない」


「メアリー」


「あー」


「ほら、返事した」


「立つとは言ってない」


メイは口を尖らせた。


「見せたかったのに」


「またやるだろ」


「次がいつか分からない」


「明日かもしれない」


「今日のは今日だけ」


ノアは黙った。メイも、自分で言ってから黙る。


今日のは今日だけ。


それはメアリーの成長だけの話ではなかった。ノアも分かったらしい。


「書いた?」


「うん」


メイは『覚えておくもの』を持ってきて開いた。


「見て」


初めて、自分から見せた。ノアは少し驚く。


「いいのか」


「今日のところだけ」


メイが指で示す。ノアは読む。


『今日、メアリーが初めて立った。椅子につかまって。』


『そのあと尻もちをついて泣いた。』


『私は、とても嬉しかった。』


『怖くもあった。倒れて頭を打つと思った。』


『でも、嬉しい方が大きかった。』


ノアは読み終え、本を返した。


「いいんじゃないか」


「何が」


「ちゃんと残ってる」


「何が?」


「お前も」


メイは本を見る。


メアリーのことではない。自分。嬉しかった自分。怖かった自分。それも書いてある。


「……そうか」


「名前だけよりはな」


メイは少し考えた。


「じゃあ、もっと書いた方がいいかな」


「全部書こうとするなよ」


「何で」


「寝る時間なくなるぞ」


メイは笑った。


「それは困る」


「あと、メアリーが紙を食う」


二人が見る。ちょうどメアリーが床に落ちた紙切れを口へ持っていこうとしていた。


「駄目!」


メイが取り上げる。メアリーが怒る。


「あー!」


「これは本当に駄目」


ノアが笑った。メイも笑った。


その夜のことも、後で一行だけ書いた。


『ノアに、私のことも残っていると言われた。』


*


それから、メイは少し書き方を変えた。


『メアリーがパンを全部落とした。腹が立った。でも笑った。』


『夜中に三度起こされた。眠くて泣きそうになった。』


『今日はずっと機嫌が悪かった。私も機嫌が悪くなった。』


『メアリーが私の鼻を掴んだ。痛かった。嬉しかった。理由は分からない。』


綺麗なことばかりではなかった。母親らしいことばかりでもない。腹が立つ。疲れる。眠い。一人になりたいと思う日もある。


それも書いた。


メアリーを愛していることと、疲れることは両方本当だった。書いてみると、それが少し分かった。


以前の家族についても書こうとした。


『父と一緒にいると――』


止まる。


何を感じた。安心した? 緊張した? 楽しかった? 分からない。


『母のことを――』


止まる。


『ルーシーといる時――』


続かない。


『トーマスは――』


何も出ない。


メイは空白のままページを閉じた。


過去については、もう事実しか書けないところが増えていた。現在については、感情まで書ける。


その差は日ごとに大きくなっていた。


*


メアリーが「ま」と言った。


最初は偶然だった。


パンを食べながら、


「ま」


と声を出した。


メイは手を止めた。


「今、何て?」


「ま」


もう一度。メイの胸が跳ねる。


「ママ?」


メアリーはパンを叩く。


「ま」


「私?」


返事はない。


「もう一回」


「あ」


「違う」


「だ」


「違う」


メアリーは笑った。


「まって言って」


「あー」


「さっき言ったでしょう」


何度試しても、もう言わなかった。


その日の夕方、エスターに話した。


「『ま』って言った」


「赤ん坊はいろんな音を出すよ」


「私を見てた」


「パンを見てたんじゃないのかい」


「私」


「そう思いたいなら、そうしな」


「冷たい」


「そのうち嫌になるほど呼ばれるよ」


メイは笑った。


「なら早く呼んでほしい」


*


数日後、メイが部屋から出ようとした時だった。


メアリーは床で遊んでいた。マギーに少し見てもらうだけだった。メイが階段を下りようとした時、背後から声がした。


「ま」


メイは止まって振り返る。メアリーがこちらへ手を伸ばしている。


「……もう一回」


「ま」


メイは戻り、膝をついた。


「私?」


メアリーが両手を伸ばす。


「ま」


抱き上げる。


「そうなの?」


胸が熱くなる。


「私なの?」


メアリーがメイの頬へ手を置く。


「ママ?」


「ま」


メイは笑った。涙も出た。


「うん」


強く抱きすぎないようにする。


「そう」


頬へ口づける。


「私がママ」


右手も普通に背中へ回した。何も起きない。何も渡さない。ただ抱く。


「覚えたの?」


メアリーが金色の髪を掴む。


「痛い」


涙を拭いながら笑った。


「それも覚えてるんだ」


しばらく、そのまま抱いていた。


*


夜。『覚えておくもの』を開いた。


大きく書く。


『今日、メアリーが私を「ま」と呼んだ。』


その下へ、


『たぶん、ママの「ま」。』


少し考えて、


『私は嬉しくて泣いた。』


さらに一行。


『私はメアリーの母親。』


ペンが止まった。


そんなことは書く必要がないと思った。ページの最初から何度も書いてある。メアリーは娘。自分は母。当たり前だ。


それでも消さなかった。


父。母。妹。兄。大切だった人。帰りたかった場所。そういうものまで、紙で確かめるようになった。


なら、これも残していい。


『私はメアリーの母親。』


その文字だけは、読まなくても分かる。


今は。


メイは眠っているメアリーを見る。


娘。好き。大切。守りたい。触れたい。全部ある。


本を閉じる。


過去の自分を作っていたものは、ずいぶん遠くなった。それでも、今の自分を作っているものはここにある。


その夜、メイは久しぶりに『覚えておくもの』を枕元へ置かなかった。


読まなくても、自分が誰なのか分かる気がしたからだ。


イーライから手紙が届いたのは、それから五日後だった。

 ノアが差し出した封筒を見て、メイはすぐに名前を読めた。

 イーライ・ハート。

「来たよ」

「うん」

 受け取る。

 それだけだった。

 ノアが少し待っている。

「何?」

「いや」

「何」

「前は、もう少し嬉しそうだった」

 メイは封筒を見る。

「そうだった?」

「ああ」

「どんなふうに?」

「それは知らない」

「見てたんでしょう」

「顔なんかいちいち覚えてない」

「役に立たないね」

「悪かったな」

 いつものやり取りだった。

 メイは笑った。けれど、封筒を受け取った時の自分については、ノアの方が正しいのだろうと思った。

 以前は嬉しかった。それは『覚えておくもの』にも書いてある。

 今は。

 嫌ではない。

 怖くもない。

 ただ、手紙が来た。

 それだけだった。


 *


 メアリーが眠ってから封を切った。

 文字は見慣れていた。見慣れているということも分かる。何通も読んだからだ。

『メアリーは元気か。』

 最初にそう書いてあった。

 メイは少し笑った。そこは分かる。この人はいつもメアリーを気にしている。

『前の手紙に、立ったと書いてあった。まだ信じられない。俺が見た時には、まだ腹の中にもいなかったのに。』

 メイの手が止まる。

 俺が見た時。

 腹の中。

 山にいた頃。

 その頃にはもうメアリーがいた。自分たちは知らなかった。それも事実として知っている。

 けれど、その時のイーライの顔はない。

『お前が、あいつは怒りっぽいと書いていたけど、そこはたぶんお前に似たんだと思う。』

「私?」

 思わず声が出た。少し腹が立った。すぐに、そのことが可笑しくなった。

「何でよ」

 紙へ言う。

 メアリーが眠りながら少し動いた。メイは声を落とす。

「私、そんなに怒ってた?」

 返事はない。

 続きを読む。

『言ったら怒るだろうと思ったから、今まで書かなかった。』

「ほら」

 メイは小さく笑った。その瞬間だけ、この手紙を書いた男が少し近くなった。

 自分が怒ると知っている。

 自分より、自分の昔を知っている男。

 続きを読む。

『こっちは変わらない。仕事をして、寝て、また仕事をする。前より外の空気が近くなった気はする。出る日も前より近い。』

 メイの指が止まる。

 出る日。

 イーライは刑務所にいる。

 刑期は十八か月。

 いつから。

 数える。

 分からなくなり、『覚えておくもの』を開いた。

 日付。

 手紙。

 自分で書いた記録。

 指で追う。

「……もうそんなに」

 思っていたより近かった。

 胸が少し速くなる。

 嬉しい。

 そう思おうとした。

 でも、その速さが喜びなのか不安なのか分からなかった。

 続きを読む。

『出たら、そっちへ行く。』

 短かった。

 メイは何度も読んだ。

『出たら、そっちへ行く。』

 来る。

 サンフランシスコへ。

 ここへ。

 イーライが来る。

 メイは手紙から顔を上げた。

 部屋を見る。

 ベッド。

 椅子。

 机。

 杖。

 眠っているメアリー。

 ここへ男が来る。

 メアリーの父親。

 自分の大切だった人。

 自分が忘れたくなかった人。

「……どうしよう」

 言ってから、自分で驚いた。

 会いたかった人が来る。

 なら、喜べばいい。

 そう書いてある。

 自分はこの人を大切にしていた。

 なのに最初に出た言葉は、どうしよう、だった。


 *


 翌日、ノアが来ると、メイは手紙を差し出した。

「読んで」

 ノアが受け取らない。

「いいのか」

「うん」

「全部?」

「そこだけ」

 メイが指で示す。

『出たら、そっちへ行く。』

 ノアが読む。

「来るのか」

「みたい」

「良かったな」

 メイは黙った。

 ノアが顔を上げる。

「良くないのか」

「分からない」

「会いたくない?」

「それも分からない」

 ノアは手紙を返した。メイは膝の上へ置く。

「ねえ」

「何」

「私、この人のこと好きだったんだって」

 ノアは黙った。

「ここに書いてあるの」

 『覚えておくもの』を開く。見せるつもりはなかったが、イーライの頁だけをノアへ向けた。

『イーライ・ハート――メアリーの父。私の大切な人。』

『私は、この人を忘れたくなかった。』

 ノアは読む。

 メイが言った。

「だから、好きだったんだと思う」

「そうなんだろうな」

「……それだけ?」

「何が」

「もっと何かないの」

「俺に聞くなよ」

「でも」

「俺はそいつに会ったこともない」

「うん」

「お前とそいつが一緒にいたところも見てない」

「うん」

「なら、それ以上は分からない」

 分かっていた。そう答えてほしかったはずだった。それでも、少し寂しかった。

「今も好きだと思う?」

 ノアはすぐに答えなかった。

「分からない」

「やっぱり」

「それは俺が決めることじゃないだろ」

「じゃあ誰が決めるの」

「お前」

「私が分からないの」

 声が少し強くなった。

 ノアは怒らなかった。

「なら、分からないままでいいんじゃないか」

「よくないよ」

「何で」

「来るから」

 メイは手紙を握った。

「向こうは私のことを知ってる」

「うん」

「私の顔も、声も、怒り方も知ってる。この手紙だって、私が読んだら怒るって分かって書いてる」

「うん」

「でも私は知らない」

 ノアが黙る。

「顔も分からない。声も分からない。どういうふうに笑うのかも分からない。何を言えば喜ぶかも、何を言ったら怒るかも分からない」

 言葉が止まらなくなった。

「なのに向こうは知ってるの」

 怖かった。

 初めて会う人なら、それでいい。お互い何も知らない。そこから始めればいい。

 イーライは違う。

 自分だけが知らない。

「ずるい」

 メイは呟いた。

「何が?」

「この人だけ、私を覚えてる」

 ノアはしばらく黙っていた。

「そうだな」

「否定してよ」

「できない」

「本当に役に立たない」

「知ってる」

 メイは手紙を見た。

「会わない方がいいかな」

 ノアは首を横に振らなかった。頷きもしなかった。

「それも俺が決めることじゃない」

「じゃあ、何なら決めてくれるの」

「郵便を持ってくる日」

 メイは顔を上げた。

「それは仕事でしょう」

「そうだ」

「馬鹿」

 少し笑った。

 ノアも笑った。

 それで、胸の固さが少しだけほどけた。


 *


「ま」

 床から声がした。

 二人が見る。

 メアリーがメイへ手を伸ばしている。

「はい」

 抱き上げる。

「何?」

「ま」

「いるよ」

 メアリーが手紙を掴もうとする。

「これは駄目」

「あー」

「お父さんからだから」

 言ってから止まった。

 メアリーは意味など分からず、まだ紙へ手を伸ばしている。

 メイは手紙を見る。

「これ、あなたのお父さんだって」

 文字を見せる。

「イーライ・ハート」

 口にする。

 何も起きない。

「あなたのお父さん」

 メアリーが手紙を叩いた。

「会ったら分かるかな」

 ノアが聞く。

「何が?」

「その人のこと」

 メイは考えた。

「分からない」

「そうか」

「でも」

 メアリーを見る。

「この子には会わせたい」

 それはすぐに言えた。

 イーライを自分が好きかどうかは分からない。

 会いたいかも分からない。

 でも、メアリーの父親なら。

「会わせる」

 メイはもう一度言った。

「それは決められる」

 ノアが頷いた。


 *


 夜、メイは『覚えておくもの』を開いた。

 イーライの頁。

『イーライ・ハート――メアリーの父。私の大切な人。』

『私は、この人を忘れたくなかった。』

 その下に空白がある。

 ペンを持つ。

 しばらく考えた。

 そして書いた。

『私は、この人を好きだったらしい。』

 読み返す。

 嫌だった。

 らしい。

 自分のことなのに。

 誰かから聞いた話のようだった。

 線を引こうとする。

 でも、他に書きようがない。

『私は、この人を好きだった。』

 それなら断定できる。

 記録がある。

 メアリーがいる。

 手紙もある。

 でも、それは事実だ。

 今の気持ちではない。

 メイは「らしい」を残した。

 次の行へ書く。

『もうすぐ、ここへ来る。』

 そこで手が止まる。

 最後に何を書く。

 楽しみ。

 怖い。

 会いたい。

 会いたくない。

 どれも少しずつ違う。

 長く迷って、

『会う。』

 とだけ書いた。

 それなら、自分で決められた。


 *


 眠る前、久しぶりにイーライの手紙をすべて出した。

 一通ずつ並べる。

 山から離れた後。

 裁判。

 刑務所。

 妊娠を知らせた時。

 メアリーが生まれた時。

 名前を決めた時。

 少しずつ増えた紙。

 メイは左手を膝の下へ入れた。

 触れなかった。

 そこに残っているイーライの記憶を読むことはできる。

 でも、今は読まなかった。

 会うなら、本人を見る。

 知らない顔を。

 知らない声を。

 知らない人として。

 それから何を思うのかは、その時の自分に任せる。

 手紙を束ね直した。

 最後の一通だけ、上に置く。

『出たら、そっちへ行く。』

 メイは灯りを消した。

 隣ではメアリーが眠っている。

 胸の動きを確かめる。

 一度だけ。

 それ以上は数えなかった。

 来る男の顔を思い出そうともしなかった。

 もう、思い出せないことを知っていたからだ。


メアリーが一人で三歩歩いた。


一歩目で、メイは息を止めた。


二歩目で、両手を広げた。


三歩目で、メアリーは前へ倒れた。


「わっ」


メイが受け止める。胸へ飛び込むような形になった。メアリーは驚いた顔をしていた。泣くかと思った。泣かなかった。


「……歩いた」


メイが言う。メアリーは意味も分からず、メイの襟を掴んだ。


「歩いたよ」


抱き上げる。


「三つ」


「ま」


「見てた?」


「ま」


「見てたの私か」


笑った。もう一度床へ下ろす。


「もう一回やる?」


メアリーはその場へ座った。


「やらないの?」


両手を伸ばしてくる。


「そっち?」


抱き上げる。


以前なら、立てたことより転んだことを気にしたかもしれない。頭を打たなかったか。息は乱れていないか。何か悪いことが起きないか。


今は違った。


メイはただ嬉しかった。


「三歩」


メアリーの頬へ口づける。


「次は四歩ね」


右手は背中を支えていた。ほくろは黒いままだった。もう長いこと、使っていない。杖の五つ目の石も黒い。色は戻らない。失ったものも戻らない。


それでも、メアリーは歩いた。


*


『今日、メアリーが三歩歩いた。』


その日の夜、『覚えておくもの』へ書いた。


『私のところまで来た。』


少し考える。


『嬉しかった。』


そこでペンを止める。


以前なら、もっと書いただろうか。


怖かった。転ぶと思った。怪我をすると思った。


今は、そうでもなかった。


メイはもう一行足した。


『転んだけれど、大丈夫だった。』


読み返す。


大丈夫だった。


それで終わることができるようになった。


昔は、それができなかった。大丈夫な今の向こうに、悪くなる次を探していた。


メイは眠っているメアリーを見た。胸が動いている。数えない。咳もしない。顔色も見ない。ただ眠っている。


本を閉じようとして、前の頁が目に入った。


『イーライ・ハート――メアリーの父。私の大切な人。』


『この人を、手放したくなかった。』


『私は、この人を好きだったらしい。』


『もうすぐ、ここへ来る。』


『会う。』


メイはそこをしばらく見ていた。


最後の手紙が来てから、何週間か経っている。出る日が近いとは書いてあった。正確な日は分からない。次の手紙を待っていた。


いや。


待っている、というのだろうか。


郵便が届けば確認する。ノアが来れば、一瞬手元を見る。それは待つということなのかもしれない。


でも、胸が弾むことはなかった。怖くて眠れない夜もなくなった。


顔のない人が来る。


そう考えると、少し楽だった。


メイは本を閉じた。


*


数日後。


ノアが来た。


「手紙?」


メイが聞いた。


「今日はない」


「そう」


ノアはいつものように部屋へ入った。メアリーが床から見上げる。


「ま」


「俺じゃない」


「分かってるよ」


メイが笑う。


ノアはメアリーの前へしゃがんだ。


「歩くんだって?」


「三歩」


「それ歩いたって言うのか」


「言うよ」


「途中で落ちただろ」


「私が受け止めた」


「じゃあ二歩半じゃないか」


「三歩」


「半分は落下だろ」


「三歩です」


メアリーが立ち上がった。椅子に掴まる。二人とも黙った。


「ほら」


メイが小声で言う。


「今からやるよ」


メアリーが手を離す。


一歩。


二歩。


尻もち。


「二歩」


ノアが言った。


「今日はね」


メイはすぐ抱き上げた。


「昨日は三歩だったもんね」


「ま」


「証人が本人だけだな」


「私は?」


「母親は数に入らない」


「何でよ」


そんな話をしている時だった。


階下で扉が開く音がした。誰かの声。男だった。聞き取れない。マギーの声が返る。少しして、足音が階段の下まで来て止まった。


「メイ!」


マギーが呼んだ。


「何?」


「お客だよ」


「誰?」


返事が少し遅れた。


「……あんたに会いに来たって」


メイの身体が固まった。ノアを見る。ノアもこちらを見ている。


「郵便じゃないの?」


「違う」


メイはメアリーを抱いたまま立った。


誰。


考える。


すぐに一人しか浮かばなかった。


机を見る。


『覚えておくもの』。


取りに行こうとした。足が止まる。


必要だろうか。


名前は分かる。


メアリーの父親。


自分が大切にしていた人。


手放したくなかった人。


好きだったらしい人。


会うと書いた。


それだけ分かればいい。


メイは本を取らなかった。


「行くのか」


ノアが聞いた。


「うん」


答えられた。


「怖い?」


少し考える。


「うん」


メアリーを抱き直した。


「でも会うって決めたから」


扉へ向かう。


ノアはついてこなかった。


それがありがたかった。


*


階段を下りる。


一段。


また一段。


昔は、この階段を上るだけで息が切れた。腹が大きかった。メアリーが中にいた。


その頃のことは、まだ覚えている。


手すりを握る。右手だった。黒いほくろ。何も起きない。


下まで降りる。


マギーが玄関の近くにいた。その向こうに、男が立っていた。


若い。思っていたより痩せている。擦れた上着。荷物は一つ。日に焼けた顔。髪は少し伸びている。


メイは男を見た。


何も浮かばなかった。


山。雪。火。


そこに誰かがいたことは分かる。


けれど、この顔には結びつかなかった。


男はメイを見た。動かなかった。その視線が、金色の髪へ行く。左の青い目。右の深緑の目。そして、腕の中のメアリー。


男の顔が変わった。笑ったようにも見えた。泣きそうにも見えた。


「メイ」


名前を呼ばれた。


その声にも、記憶は戻らなかった。


胸の奥を探す。


何も出てこない。


男が一歩近づいた。メイは反射的に半歩下がった。男が止まった。その顔から、何かが消えた。


メイは悪いことをした気がした。でも、何をすれば正しいのか分からなかった。


メアリーがメイの服を掴む。


「ま」


「大丈夫」


そう言ってから、男を見る。


名前なら、知っている。


何度も読んだ。何度も書いた。


記憶の代わりに、紙の上へ残した名前。


「……イーライ・ハート?」


男はしばらく答えなかった。やがて、小さく頷いた。


「ああ」


メイは腕の中のメアリーを見る。もう一度、男を見る。


「この子の……お父さん?」


今度は、答えるまでにもっと時間がかかった。


「……ああ」


メイはメアリーを少しだけ抱き直した。


イーライ・ハート。


その名前は、確かに残っていた。


メアリーの父親。


かつて自分が大切にした人。


けれど、目の前にいる男は、名前の中にしかいなかった。


メイは、その顔を知らなかった。

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