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テンガイ 序

テンガイ 序


イーライ・ハートが最初に好きになった石は、金でも銀でもなかった。灰色だった。


五歳の時、父が掌へ載せてくれた。子どもの両手で持たなければならないほど重い。


「重い」


「そうだな」


父のエイベルは笑った。


「どうしてだと思う?」


イーライは石を見る。灰色。角張っている。ところどころ黒っぽく光っている。


「大きいから」


「それもある」


父はすぐに否定しなかった。


「じゃあ、同じくらい大きい石と比べたら?」


隣にあった白い石を持たされる。軽い。もう一度、灰色。重い。


「こっちの方が中身が多い?」


エイベルの眉が少し上がった。


「いい考えだ」


「当たり?」


「惜しい」


「じゃあ違うじゃん」


「違っても、考え方が悪いとは限らないだろ」


イーライには、その違いがまだよく分からなかった。


父はしゃがみ、石の黒く光る部分を指でなぞった。


「ここ、どう見える?」


「光ってる」


「何みたいだ?」


「鉄」


「どうして?」


「鍋も光るから」


「じゃあ、中に石じゃないものがあるかもしれないな」


イーライはもう一度持ち上げた。急に、ただの灰色の塊ではなくなった。


「金属?」


「そう」


「何?」


「方鉛鉱」


「ほうえんこう」


「鉛の元になる」


「鉛って何?」


「重い金属だ」


「だから重いの?」


「そういうこと」


イーライは笑った。自分で見つけたわけではない。それでも、自分で答えまで歩いたような気がした。


エイベルは、そういう教え方をした。答えを知っていても、すぐには言わない。「お前はどう思う」と最初に聞く。イーライが外しても笑わない。なぜそう考えたのか聞く。それから一緒に石を見る。


だからイーライは、答えを教えてもらうより、知らないものを渡される方が好きになった。


*


ハート家は、イリノイ州北西部の鉛鉱山で栄えた町から少し離れた場所にあった。


父エイベルは坑道の奥で一日中つるはしを振るう男ではなかった。山を歩き、川を見、崖を見て、露出した岩を割る。採掘した石を見て、どこに何があるかを考える。鉱山主に呼ばれて山へ入り、鉱脈の見立てをすることもあった。


当たる時もあれば、外れる時もあった。


「父さん、石見ただけで下が分かるの?」


イーライが聞いたことがある。


「分からんよ」


エイベルは普通に答えた。


「分からないの?」


「地面の下なんか見えないからな」


「じゃあ適当?」


「それじゃ金をもらえない」


エイベルは笑った。


「見えないから、見えるものを集めるんだ」


「何を?」


「石。土。水。木。坂の形。昔掘った穴。人の話」


「人も?」


「人が掘ったならな」


「全部見るの?」


「見られるだけ見る」


イーライは少し考えた。


「それでも外れる?」


「外れる」


「じゃあ意味ないじゃん」


「外れたら、何を見落としたか考える」


「それで?」


「次は少しマシになる」


エイベルは息子の頭を撫でた。


「何でもそんなもんだ」


この頃のイーライは、父が石の話をしていると思っていた。


*


母のマーサは、夫とはまるで違った。


エイベルが考えてから話す人なら、マーサは考えながら話す人だった。


「エイベル、また持って帰ったでしょう」


夕食の最中、母が言った。


「何を?」


「その何をって顔をやめなさい」


エイベルがイーライを見る。イーライも父を見る。


「何?」


「俺じゃないぞ」


「僕も違う」


マーサが二人の後ろを指した。窓際に石が三つ並んでいる。


父と子が同時に黙った。


「どっち?」


「……二つは俺」


エイベルが言う。


「一つは僕」


イーライが続ける。


「外へ出して」


「でもこれは――」


父子の声が重なった。


マーサが額を押さえる。


「似なくていいところだけ似るんだから」


三つ年上の姉レイチェルが笑った。


「全部捨てたら?」


「駄目」


イーライが言う。


「何で?」


「まだ何か分かってない」


「分かってないならいらないでしょう」


「分かってないからいるの」


レイチェルには理解されなかった。母にもたぶん理解されていなかった。


ただ、翌朝になると石は窓際からイーライの寝床の横へ移されていた。捨てられてはいなかった。


「母さんが置いた?」


「邪魔だっただけ」


それ以上は言わない。


けれど、マーサはイーライが拾った石を一度も勝手に捨てなかった。


*


レイチェルは弟よりずっと人付き合いがうまかった。近所の子どもとすぐ仲良くなり、大人にもよく話しかける。知らない人間が家へ来ても平気だった。


イーライは少し違った。知らない人間が来ると、まず見た。靴。服。手。声。どこから来たのか。何をしに来たのか。


「また見てる」


レイチェルに言われる。


「何が」


「人のこと」


「見てない」


「見てる」


「普通に」


「普通の人は靴から見ない」


「泥ついてたから」


「だから何?」


「どこ歩いたのかなって」


レイチェルが変な顔をする。


「本人に聞けば?」


その発想がイーライにはなかった。


「……聞いていいの?」


「いいんじゃない?」


その日から、少しずつ人にも聞くようになった。どこから来た。何を見た。なぜここへ来た。


答えてくれる人もいる。面倒そうな顔をする人もいる。嘘をつく人もいた。


石より難しいと思った。石は黙っているが、嘘はつかない。人は喋るのに、本当のことを言うとは限らない。


それでもイーライは、人を見るのも嫌いではなかった。


*


八歳になると、父の仕事について山へ入ることを許された。坑道の深いところには行かせてもらえない。それでも十分だった。


土の色が変わる。岩の割れ方が変わる。水の味まで場所によって違う。


父は何でも見せた。


「これは?」


石を渡される。


「石英」


「そうだ」


次。


「石英」


「そう」


次。


「……石英」


エイベルが笑った。


「嫌になった?」


「全部同じじゃん」


「同じなら、何で三つ持ってきたと思う?」


イーライは見比べた。一つは真っ白。一つは半分透けている。一つには赤茶色の筋が走っている。


「違う石が混じってる?」


「そうかもしれない」


「何?」


「見てみろ」


「またそれ」


「嫌なら教えるぞ」


「嫌じゃない」


すぐ答えた。


エイベルが笑う。


その日、昼飯を食べるのを忘れて三つの石を割った。帰る頃には、マーサに叱られるくらい腹を空かせていた。


「この人、子どもにご飯食べさせるのも忘れるの?」


「本人が食わなかった」


「八歳よ」


「腹減ったら言うと思って」


マーサが夫を見る。


「あなた本当に子ども育てたことある?」


「今育ててる途中だ」


「私もよ」


エイベルは少し考えて、


「じゃあ次から昼になったら食わせる」


と言った。


「当たり前です」


イーライとレイチェルが笑った。エイベルも笑った。


そういう家だった。


*


十一歳の春、エイベルが妙な話を持ち帰った。西へ行く話だった。


「どのくらい西?」


イーライが聞く。


「ずっと」


「どこまで?」


「カリフォルニア」


聞いたことはあった。遠い。それくらいしか知らない。


「海?」


「海まで行けばある」


「父さん海見たことないでしょう」


「ない」


「じゃあ分からないじゃん」


エイベルが笑った。


「だから見に行けるな」


マーサは笑わなかった。


「遊びに行くみたいに言わないで」


「遊びじゃないよ」


エイベルは食卓の上へ何枚かの紙を置いた。


鉱山や土地の見立てをする人間を探している一団が、西へ向かう。まだ金の話で大勢が押し寄せる前だった。


石炭。銅。鉛。鉄。使える鉱物がある土地を探す。


道中は長い。危険もある。成功する保証もない。


マーサが聞く。


「行きたいの?」


エイベルはすぐには答えなかった。


「行ってみたい」


正直だった。


「仕事だからじゃなくて?」


「仕事でもある」


「でも行きたい?」


「うん」


マーサは腕を組んだ。


「困った人」


「知ってる」


「私は嫌よ」


「うん」


「レイチェルは?」


「嫌」


姉が即答した。


「イーライは?」


母に聞かれた。


すぐには答えられなかった。


家を見る。寝床。窓。石。食卓。何度も歩いた道。町。友人。姉の友人。母が買い物をする店。父と入った山。全部ここにある。


でも、西には見たことのない土地がある。


「……見たい」


レイチェルが呆れた。


「ほら、父さんの子」


マーサが長く息を吐いた。


「三対一じゃない」


「お前が嫌なら行かない」


エイベルが言った。


マーサが夫を見る。


「本当に?」


「ああ」


イーライは父を見る。驚いた。あれほど行きたいと言ったのに。


「何で?」


イーライが聞いた。


「家族で行く話だから」


「父さんだけ行けば?」


「それじゃ家族で行く話じゃない」


「仕事なのに?」


「仕事より先に決めたものがある」


マーサの顔が少しだけ変わった。


「そういうことを急に言うの、ずるくない?」


「急じゃない。結婚した時に決めた」


「覚えてたの?」


「覚えてるよ」


マーサが笑った。


「じゃあ、考える」


その日、話は終わった。


*


決まるまで一か月かかった。


マーサは道中について調べた。エイベルの話だけでは信用しなかった。実際に西へ行った人間を探した。


何が必要か。何人死んだか。どの季節に出ればいいか。どこで川を渡るか。何を持っていけないか。


レイチェルは最後まで嫌がった。友人と離れたくなかった。


イーライも、姉が泣いているのを見て初めて、自分が「見たい」と言った先に、置いていくものがあることを知った。


ある夜、レイチェルと二人になった。


「行きたくない?」


イーライが聞く。


「行きたくない」


「じゃあ母さんに言えば」


「言ってる」


「もっと」


「言ってるって」


レイチェルは少し泣いていた。


イーライは困った。石なら、割って中を見ればいい。人はそうはいかない。


「僕も、ちょっと嫌になった」


「何で」


「姉ちゃんが嫌そうだから」


レイチェルが鼻をすすった。


「馬鹿じゃないの」


「何が」


「それで自分まで嫌になる必要ないでしょう」


「でも」


「イーライは行きたいんでしょう」


「うん」


「なら行きたいでいいじゃん」


「姉ちゃん嫌なのに?」


「私は私」


レイチェルが言った。


「イーライはイーライでしょう」


その言葉も、長く残った。


*


出発の日。


家の中は空になった。持っていけないものの方が多かった。


家具。道具。石。特に石。


「全部は無理」


マーサに言われた。


イーライは箱の前で悩んだ。何年も集めたもの。一つずつ覚えている。どこで拾った。誰といた。何だと思った。父に何と教えられた。


全部持っていきたかった。


でも、馬車に載せられる量には限りがある。


「決まった?」


エイベルが来た。


「決まらない」


「じゃあ置いていくか」


「嫌」


「なら選ぶしかないな」


父は手伝わなかった。イーライが自分で選ぶのを待った。


白い石を戻す。黒い石も。川で拾った丸いもの。赤い筋の入ったもの。一つずつ箱から出した。


最後に残ったのは、灰色の石だった。


五歳の時、父から渡された方鉛鉱。珍しくもない。高価でもない。もっと綺麗な石はいくらでもあった。


それでも残した。


エイベルが見る。


「それか」


「うん」


「どうして?」


イーライは考えた。


重かった。金属を初めて知った。父が教えてくれた。


でも、それだけではない気がした。


「……これを持った時のこと、覚えてるから」


エイベルが少し笑った。


「なら持っていけ」


小さな袋へ入れる。


たった一つ。


イーライは空になった箱を見る。


全部は持っていけない。でも、一つなら持っていける。その一つを見れば、他の石のことまで少し思い出せる気がした。


外でマーサが呼んだ。


「行くよ!」


「今行く!」


袋を持って立ち上がる。


エイベルが先に外へ出た。


イーライは最後に家の中を見た。


二度と戻らないとは思っていなかった。戻れるかどうかも考えていなかった。


ただ、覚えておこうと思った。


窓。食卓のあった場所。雨漏りを直した天井。レイチェルの寝床。母が料理をした炉。父が石を並べた窓際。


全部。


一度、目を閉じた。


それから外へ出た。


十一歳のイーライ・ハートは、西へ向かった。


手の中には、たった一つの石だけが残っていた。


*


西へ行く道は、イーライが思っていたより長かった。長いということを、日数では覚えていない。車輪の音で覚えている。朝、動き始める。昼も鳴っている。夕方、止まる。眠る。また鳴る。


最初のうちは、知らない景色が現れるたび馬車から降りた。石を拾い、父へ持っていく。


「これは?」


「あとで見よう」


「今」


「馬車が行くぞ」


「ちょっとだけ」


「置いていかれても知らないぞ」


仕方なく走った。一週間もすると、全部拾っていては西へ着かないことが分かった。それからは選ぶようになった。見たことのない色。妙に重いもの。岩の中だけ違って見える筋。父に教えられなくても、自分で持って帰る価値があると思ったもの。


それでもマーサには、すぐに見つかった。


「増えてる」


「増えてない」


「袋が膨らんでる」


「服」


「石の形をした服?」


「……石も少し」


レイチェルが笑った。


「西へ着く頃には、馬車一台分、石になってるんじゃない?」


「そんなに拾わない」


「昨日いくつ拾った?」


イーライは黙った。


「ほら」


「……七つ」


「七つも?」


「三つ捨てた」


「それで偉いと思ってるでしょう」


少し思っていた。


*


平らな土地が、いつまでも続いた。イーライは途中から、遠くを見る癖がついた。丘もない。山もない。なのに前へ進んでも景色がなかなか変わらない。


「本当に西に行ってる?」


ある朝、父に聞いた。


「行ってるよ」


「同じところ歩いてない?」


「不安になった?」


「ちょっと」


エイベルが前を指す。


「昨日、あの川はなかっただろ」


「うん」


「草も違う」


イーライは見る。


「同じに見える」


「じゃあ、昨日の草を覚えてないんだ」


「覚えてるよ」


「なら比べてみろ」


まただった。父は「大丈夫だ」と言うより、確かめる方法を教える。


イーライは馬車を降りた。草を見る。土を見る。川を見る。確かに違う。


「……進んでる」


「だろ」


エイベルが笑った。


「人間は、動いてるかどうか不安になると、前ばっかり見る」


「前を見るの駄目なの?」


「悪くない」


父は振り返った。


「でも、たまには後ろも見ろ。どれだけ来たか分かる」


イーライも振り返った。道があった。馬車の轍。遠くまで。自分たちがつけたものなのか、先に行った誰かのものなのかは分からない。それでも道は東へ続いていた。


*


旅の途中で、馬が一頭死んだ。病気だった。朝になっても立たなかった。男たちがしばらく相談して、その場へ置いていくことになった。


イーライは馬の横にしゃがんでいた。昨日まで荷を引いていた。鼻を鳴らしていた。水を飲んでいた。今日は動かない。


「埋めないの?」


「無理だ」


エイベルが言った。


「何で」


「時間も人手も足りない」


「置いていくの?」


「そうなる」


イーライは嫌だった。死んだものを道端へ置いていくことが。


「かわいそうじゃない?」


父はすぐには答えなかった。


「かわいそうだな」


「じゃあ埋めようよ」


「埋めてやりたいな」


「なら――」


「でも、それをやって一日遅れたら、今度は誰かが水のない場所で困るかもしれない」


イーライは馬を見る。


「じゃあ、どっちが正しいの」


エイベルが息子の横へしゃがんだ。


「そういうふうに決められないこともある」


「嫌だ」


「俺も嫌だ」


それだけだった。父は答えを作らなかった。


イーライは近くから小さな石を拾い、馬の足元へ置いた。何の意味もない。墓にもならない。それでも何もしないよりよかった。


馬車へ戻る。しばらくして振り返った。もう馬は小さくなっていた。さらに進むと見えなくなった。


西へ行くということは、前へ進むことだけではなかった。後ろへ置いていくことでもあった。


*


山が見えた時、イーライは嬉しかった。遠く、空の下に、青黒い線があった。


「山?」


「山だ」


エイベルが答える。


「やっと?」


「やっとだな」


「近い?」


「見えるだけ」


「何日?」


「お前はどう思う?」


「もういいよ、それ」


父が笑った。レイチェルまで笑った。


近く見えた山には、なかなか着かなかった。やっと山の中へ入ると、今度は平らな土地が恋しくなった。道が悪い。車輪が取られる。荷を下ろす。また積む。坂では男たちも押した。イーライも押した。


「お前は横にいろ」


エイベルに言われた。


「押せる」


「轢かれるぞ」


「押せるって」


「それと轢かれるのは別の話だ」


結局、後ろではなく横から押した。腕も脚も痛くなった。夜になるとすぐ眠った。石を見る余裕もなかった。


*


シエラネバダを越え、西側へ下り始めた時だった。父が急に足を止めた。


「イーライ」


「何?」


「こっち来い」


崖の一部が露出している。エイベルが石を一つ取った。


「見てみろ」


「今?」


「今」


旅の途中で「今」と言ったのは珍しかった。


イーライは受け取った。白っぽい石。筋が走っている。重さは普通。


「石英?」


「そう」


「それだけ?」


「割ってみろ」


小さな槌を借りる。割る。中を見る。きらりとしたものがあった。イーライの胸が跳ねた。


「金?」


エイベルは答えない。


イーライは角度を変えた。黄色い。光る。けれど、父に何度も騙されたものに似ている。爪で触る。硬い。


「……違う」


「何だと思う?」


「黄鉄鉱」


「たぶんな」


イーライは肩を落とした。


「金かと思った」


「西へ来た途端にな」


エイベルが笑った。


「父さんも?」


「一瞬な」


「父さんでも間違えるの?」


「当然」


「じゃあ僕、まだ大丈夫だ」


「何が」


「父さんも間違えるから」


「随分な安心の仕方だな」


二人で笑った。それが、イーライがカリフォルニアで最初に金と間違えた石だった。


*


ハート家が落ち着いたのは、サッター砦から何日か内陸へ入った土地だった。当初、エイベルに約束されていた仕事は長く続かなかった。話に聞いていた鉱床は、思ったほど大きくなかった。雇い主は資金を減らした。一緒に西へ来た者の中には、別の土地へ向かう者もいた。


マーサが聞いた。


「帰る?」


エイベルは家族を見た。小さな借家。荷物。長い道を越えて持ってきた道具。


「帰りたい?」


今度はマーサに聞いた。母は少し考えた。


「今すぐ同じ道を戻るのは嫌」


レイチェルが頷く。


「私も」


「イーライは?」


「ここ見たい」


「でしょうね」


マーサが笑った。


結局、残った。エイベルは仕事を選ばなかった。土地を見る。採石場を見る。井戸を掘る場所の相談を受ける。鉱山へ呼ばれる。時には測量の手伝い。石を割るだけで飯が食えるほど世の中は単純ではなかった。


「何でもするね」


十二歳になったイーライが言った。


「食わないと死ぬからな」


「鉱物の仕事だけじゃない」


「俺が鉱物しか知らなかったら困ってたな」


父は縄を巻きながら答えた。


「一つ知ってりゃ十分ってことは、あんまりないんだよ」


イーライはそれも覚えた。


*


十三歳になった頃、妙な話が流れ始めた。川で金が出た。最初は、それだけだった。誰かが見つけた。どこかで採れた。あそこへ行けばある。聞くたび場所が変わった。量も増えた。一日に一人で何十ドル。拳ほどの塊。川底が全部金。


「嘘だ」


イーライは言った。


「全部はな」


エイベルが答えた。


「でも金は出たの?」


「出たらしい」


「見た?」


「まだ」


「じゃあ分からない」


父が笑った。


「そうだな」


数週間後。エイベルは実物を持ち帰った。小さかった。イーライの小指の爪より小さい。黄色。重い。叩くと潰れた。


「……金だ」


「金だな」


イーライは何度も見た。昔、黄鉄鉱を金だと思った時とは違う。派手に光るわけではない。それでも妙に目が離せなかった。


「どこにあったの?」


「アメリカン川の方だ」


「いっぱい?」


「そこそこ」


「取りに行く?」


エイベルは金粒を見る。


「仕事ならな」


「自分たちで掘れば?」


十三歳のイーライは、素直にそう思った。金がある。場所も分かる。掘れば金になる。


「そう考えてる奴が、今ものすごい数いる」


「じゃあ早く行かないとなくなる」


エイベルは少し笑った。


「そう思うだろ」


「違うの?」


「違わない」


「じゃあ行こうよ」


父は金を布へ包んだ。


「少し様子を見る」


「何で?」


「金そのものより、人が動く方が大きそうだから」


意味が分からなかった。


*


父の言った通りになった。町から人が消えた。店員。大工。農夫。船員。料理人。仕事の途中でいなくなる者もいた。理由は全部同じだった。金。


反対に、外から人が来た。馬車。船。徒歩。知らない言葉。知らない服。知らない顔。昨日まで静かだった道に人が増えた。値段が上がった。家賃が上がった。道具がなくなった。食べ物まで高くなった。


「金が出たのに、パンまで高くなるの?」


イーライが聞いた。


「金を掘る奴ばっかりになったら、パンを焼く奴が減る」


マーサが答えた。


「なら、パン焼いた方が儲かる?」


エイベルが笑う。


「母さんの子でもあるな」


マーサは実際、焼いた。旅人へ食事を出した。洗濯を請けた。レイチェルも手伝った。金を掘りに行った男より、マーサの方が安定して金を稼ぐ月すらあった。


「変なの」


イーライが言う。


「何が?」


「みんな金を掘りに行ってるのに、母さんが金持ってる」


「だから言っただろ」


エイベルが答えた。


「金が出た時は、金だけ見たら駄目だ」


*


十四歳。イーライは父と採掘場へ行くようになった。川底をさらう男。土を掘る男。岩を割る男。一日で大金を得る者もいた。何週間掘っても何も出ない者もいた。金を見つけた男は笑った。次の日にはもっと欲しがった。出なかった男は別の川へ行った。誰かが「あそこに出た」と言えば、何十人も動いた。


イーライには不思議だった。金がある場所を探しているようで、実際には人が人を追っている。


ある日、父が聞いた。


「どこ掘る?」


斜面の下だった。すでに何人も試した跡がある。イーライは周囲を歩いた。石。土。水。斜面。上流。父から教えられた通り見る。少し離れたところを指した。


「あそこ」


「どうして?」


「上の岩が違う」


「それだけ?」


「水が通った跡もある」


「他は?」


イーライは考えた。


「人が少ない」


エイベルが笑った。


「最後のは鉱物と関係ないだろ」


「でも、人が多いところはもう掘られてる」


「それも見るようになったか」


二人で試した。金は少し出た。大当たりではない。それでもエイベルは満足そうだった。


「当たった」


イーライが言う。


「半分な」


「出たでしょう」


「量まで当てて初めて威張れ」


「そんなの無理」


「なら威張るな」


でも父は笑っていた。


*


十五歳になった年、レイチェルが結婚した。相手は鍛冶屋の青年だった。金を掘りには行かなかった。採掘者の道具を直していた。


「姉ちゃん、金持ちになれないよ」


イーライが言う。


「私が金掘るわけじゃないもの」


「旦那も」


「金掘る人がいる限り仕事あるって」


母と同じことを言う。


「みんな僕より賢い気がする」


「気づくの遅い」


レイチェルに頭を叩かれた。


式の後、姉は近くの町へ移った。今度の別れは、イリノイを離れた時ほど悲しくなかった。会おうと思えば会える。だからだと思っていた。後になって、距離だけが別れを決めるわけではないと知ることになる。


*


十六歳。イーライは一人で山へ入るようになった。父から仕事を任されることも増えた。石を見る。土地を見る。人の話を聞く。そして、その人が本当に見たものと、見たいと思っているものを分ける。


「川一面だった」と言う男に、「どのくらいの幅?」と聞く。「いくらでも採れた」と言う男に、「何日掘った?」と聞く。「絶対出る」と言われれば、「何を見てそう思った?」と聞く。


嫌われることもあった。それでも聞いた。父がそうしたからだった。


*


十七歳になった頃には、イーライは金そのものに興奮しなくなっていた。見つければ嬉しい。価値も分かる。それでも、金色だからというだけで飛びつくことはなくなった。


金は石の中にある。川にもある。人の頭の中にもある。最後のものが一番面倒だった。


「お前、山師には向いてるけど、金持ちには向いてないな」


エイベルが言った。


「何で?」


「大当たりを狙わない」


「外したくないだけ」


「ほらな」


「悪い?」


「いや」


父は笑った。


「お前らしい」


その言葉が、イーライは好きだった。


*


十八歳になる少し前、家を出ることにした。喧嘩したわけではない。仕事もある。家にもいられる。それでも、自分だけで歩いてみたかった。


夕食の後に話した。


「しばらく山を回りたい」


マーサが眉を上げる。


「どのくらい?」


「分からない」


「それ、一番母親が嫌いな答え」


「手紙は出す」


「どこから?」


「町があれば」


「町がなかったら?」


「町があるところから」


「答えになってない」


エイベルが笑った。マーサが睨む。


「あなたは黙ってて」


「はい」


レイチェルにも知らせた。翌週、姉がやって来た。


「本当に行くの?」


「うん」


「金?」


「仕事」


「父さんと同じこと言う」


「父さんから覚えたから」


レイチェルは弟を見る。もう子どもではなかった。背も姉を越えている。


「帰ってくる?」


「たぶん」


「たぶん?」


「帰りたくなったら」


「前より嫌な答えするようになったね」


「姉ちゃんが言ったんだよ」


「何を」


「私は私。イーライはイーライって」


レイチェルは少し考え、それから笑った。


「そんな昔のこと覚えてるの?」


「覚えてるよ」


イーライは普通に答えた。


*


出発の朝。持ち物は少なかった。着替え。毛布。食料。道具。紙。鉛筆。小さな袋。袋の中には、十一歳の時に西へ持ってきた方鉛鉱が入っていた。


エイベルが気づいた。


「まだ持ってたのか」


「うん」


「邪魔じゃない?」


「ちょっと重い」


「置いてけばいいのに」


「嫌だ」


父は笑った。


「なら持ってけ」


マーサは食料を増やそうとした。


「多い」


「足りないよりいい」


「重い」


「石は持てるのに?」


何も言えなかった。


レイチェルは来なかった。前日に顔を出していた。別れ際、「変な女に引っかからないでね」と言われた。イーライは、「何それ」と笑った。


家の前。エイベルが手を差し出した。イーライは握る。


「何か言う?」


イーライが聞いた。


「言ってほしい?」


「別に」


「じゃあない」


「本当に?」


「気をつけろ、くらいだな」


「普通」


「大事なことは普通なんだよ」


イーライは笑った。


マーサを抱く。


「手紙」


「出す」


「ちゃんと食べる」


「食べる」


「人を信用しすぎない」


「うん」


「疑いすぎない」


「どっち」


「自分で考えなさい」


最後まで母だった。


イーライは荷を背負った。歩き出す。少し行って振り返る。父と母がいる。家。窓。レイチェルはいない。でも姉の家がどこにあるかは分かる。帰る場所も分かる。


だから今回は、十一歳の時ほど怖くなかった。前を向く。山がある。その向こうにも山がある。どこまで行くかは決めていない。何があるかも分からない。それでよかった。


見ないと分からない。父から何度も教わったことだった。


十八歳のイーライ・ハートは、一人で山へ入った。


*


イーライがメイを初めて見た時、髪はまだ赤みのある茶色だった。山道の脇でしゃがみ、指で土を掻いている。


「何してる?」


少女が振り返った。青い目だった。髪の色より、そちらを先に覚えた。


「見てる」


「何を?」


「下」


イーライも地面を見る。土、枯れ草、小石。それだけだった。


「何がある?」


「分からない」


「分からないものを見てるの?」


「分からないから見てるの」


その言い方が、少し父に似ていた。


「何を探してる?」


「金」


「この辺で?」


「ある?」


「あるところには」


「ここは?」


「見ただけじゃ分からない」


「じゃあ、どうするの?」


「もっと見る」


土、石、水、地形。それから上へ目を向ける。


「下にあるものは、上にも少し出る」


父から聞いた言葉だった。少女は考え、


「それ、好き」


と言った。


「何が?」


「考え方」


名前を聞くと、ステラ・メイ・ホロウェイと名乗った。


「メイでいい」


「イーライ・ハート」


「ハート? 変な名前」


「お前に言われたくない」


メイは初めて笑った。


*


メイは金を探しながら、山や草、人の表情を眺めていた。ある時、唐突に尋ねる。


「海って見たことある?」


「ない」


「私も。見たいから聞いたの」


「端が見えないらしい」


「本当に?」


「らしい」


「じゃあ、見ないと分からないね」


また父と同じことを言う。


*


最初に金を見つけたのはメイだった。彼女が場所を示し、イーライが掘り出した。


「そこ」


示された場所には、土と岩、斜面、水の跡しかない。


「何でここ?」


「分からない。でも、そこ」


掘ると金が出た。次も、その次も。


イーライは金よりメイを観察するようになった。彼女は立ち止まり、鼻を動かし、時には嫌そうに進路を変える。


「何か匂う?」


「普通に息をしただけ」


嘘だった。それでも、嘘をついた理由まで悪いとは限らない。イーライは追及しなかった。


*


金は人を呼び寄せた。村に見知らぬ顔が増え、宿は埋まり、食べ物や道具の値段が上がった。


メイの周囲にも人が集まる。


「どこだ」


「次はどこに出る」


「教えてくれ」


初めは頼み、次に金を差し出し、やがて当然のように問いただした。メイが当て続けるほど、皆は彼女を所有物のように扱い始めた。


「今日はやめろ」


ある夕方、イーライは言った。


「何で?」


「人が多すぎる」


「私なら見つけられる」


「だからだよ。終わらない」


メイは黙った。断りたいのに断れない顔をしていた。


「……分かってる」


「本当に?」


「分かってるけど、頼まれると、探しちゃう」


イーライは、それ以上何も言えなかった。


その頃には、メイの髪は赤茶から黄色へ変わり、やがて金属のような色になっていた。


「染めた?」


「どうやって」


「知らない」


「なら聞かないで」


青い目、金色の髪、金の場所を当てる力。普通ではない。それでもイーライにとっては、山で土を掻いていた少女の続きだった。


*


やがて村から金が減り始めた。同じ場所を掘っても出ず、別の場所も空振りになる。


「メイなら知ってる」


「隠してるんだ」


人は、当たれば自分の運だと言い、外れれば誰かの責任にする。


ある男がメイの髪を掴んだ。


「離せ」


イーライが腕を掴む。


「こいつが金を隠してる」


「だったら自分で掘れ。掴むな」


押され、押し返す。周囲が騒ぎ、メイが叫ぶ。


その後は、声と足音、何かが倒れる音だけが鮮明に残った。金色の髪が男の手に残った。


その日から、イーライは金の色を少し嫌うようになった。


*


二人は冬の山へ逃げ、人のいない小屋で火を起こした。メイは切られた髪を何度も撫でていた。


「変?」


「髪?」


「そうじゃなくて」


イーライは見る。左右は揃わず、乱暴に切られている。それでも金色だった。


「……直した方がいい」


「そういうことじゃない」


「じゃあ何を言えばいいんだよ」


「知らない」


「俺も知らない」


少しして、メイが笑った。


*


雪の夜、火が小さくなった。メイが肩に寄りかかる。


「海って、本当に端がないのかな」


「まだそれ言ってるのか」


「見てないから」


「俺も見てない」


「じゃあ一緒に見ればいい」


「どこで」


「西」


「行こうよ」


明日のことさえ分からない。それでもイーライは頷いた。


「いいよ」


「本当に?」


「見ないと分からないんだろ」


その夜、二人の距離は縮まった。火、雪、メイの髪、触れた手、唇。それだけが記憶に残った。


*


翌朝、遠くに見えていた追手の火が二つ消えていた。メイは何度も山を振り返る。


「どうした?」


「何でもない」


「困ってる顔だ」


メイは笑ったが、実際に困っていた。その頃、左手の甲に割れた蹄のような赤い痣が浮かんでいた。


尋ねても答えない。イーライは、メイには説明できないことがあると知っていた。説明できないからといって、嘘だとは思わなかった。


*


ベンが追手三人を連れて来た。山で最初に声をかけてきた、あの男だった。


メイを渡せと言われ、イーライは断った。


「金の場所を吐かせるだけだ」


「信用できない」


男の一人、ネッドが苛立つ。


「退け」


「嫌だ」


「撃つぞ」


「やめろ」


誰かが一歩動き、メイが掴まれた。ネッドの手が銃へ伸びる。イーライも銃を抜いた。


どちらが早かったのか、後になって何度も考えた。自分だった。


銃声が山に響き、ネッドが倒れた。


「……さむ」


それが最後の言葉だった。


*


撃った瞬間は正しいと思った。メイが掴まれ、ネッドが銃を抜いた。撃たなければ、自分かメイが撃たれていたかもしれない。


だが、倒れた男を見下ろすと、それだけでは足りなかった。


メイがネッドに触れる。左手の痣が見えた。


「何が見える」


しばらくして、彼女は言った。


「この人も怖かった」


イーライはネッドを見る。彼も怖かった。自分も怖かった。それでも引き金を引いたのは自分だった。


*


ベンが言った。


「逃げろ」


「逃げない。町へ戻る」


「自首するの?」


メイが顔を上げる。


「嫌」


「俺が撃った」


「私のせいでしょう」


「違う。それでも引き金を引いたのは俺だ」


「だったら私も行く」


「お前は西へ行け」


「一緒に行くって言ったでしょう」


海の約束を、イーライも覚えていた。


「あとで行く」


「いつ?」


「分からない」


「嫌」


「俺も嫌だ。でも、逃げたまま一緒に行っても、きっと……」


言いかけて、父の言葉を思い出した。


前ばかり見るな。どれだけ来たか分からなくなる。


「終わらせてから行く」


「絶対?」


「行く」


「海?」


「見る」


「一緒に?」


イーライは頷いた。


「一緒に」


*


ベンと町へ戻り、銃を渡して事情を話した。ネッドが先に銃を抜いた。メイを掴んでいた。自分は止めようとした。撃った。逃げなかった。


その夜、狭い場所へ入れられ、扉が閉まった。初めて一人になり、イーライは壁に背を預けた。そこでようやく手が震えた。


メイの名を口にしそうになったが、やめた。代わりに袋から方鉛鉱を取り出す。五歳の時から持っている石を掌に載せる。重さは変わっていなかった。


父、母、レイチェル、家、山、そしてメイ。まだすべて思い出せた。


明日どうなるかは分からない。裁判も、刑務所も、メイの行方も、彼女の中に子どもがいることも知らない。


ただ一つ、決めていた。


すべて終わったら、西へ行く。海を見る。あの金色の髪の少女と。


その夜のイーライは、まだそれを疑っていなかった。


*


朝になっても、ネッドを撃った感触は消えなかった。眠ったのかどうかも分からない。扉が開き、男に呼ばれる。同じことを聞かれた。誰が先に銃を抜いた。どこに立っていた。メイはどこにいた。何発撃った。ネッドは何と言った。昨日答えたことを、また答える。


「向こうが先に抜いたんだな?」


「はい」


「お前はそれを見た?」


「見ました」


「女は掴まれていた?」


「はい」


「逃げられなかった?」


イーライは止まった。逃げられたか。分からなかった。あの時には、そんなことを考えていない。


「分かりません」


「撃たなければ死んでいた?」


それも分からない。


「分かりません」


男が顔を上げる。


「分からないことが多いな」


「起きなかったことは分からないです」


自分でも父に似た答えだと思った。男は何も言わず、紙へ書いた。


*


ベンは証言した。ネッドが先に銃へ手を伸ばしたこと。メイを仲間が掴んでいたこと。追手たちが金の場所を聞き出そうとしていたこと。イーライが逃げず、自分から町へ戻ったこと。それでも、何もなかったことにはならなかった。


人を一人撃ち殺した。その事実だけは、どこから見ても変わらない。裁判でイーライは何度もネッドの名前を聞いた。


ネッド。ネッド。ネッド。


山で会うまで知らなかった男の名前が、自分の人生へ入り込んだ。相手が先に銃を抜いたことは認められた。メイが危険な状況にいたことも。けれど、撃ち殺す以外に本当に方法がなかったのか。そこまでは認められなかった。


判決が出た。十八か月。短いと言う者もいた。長いと言う者もいた。イーライには比べるものがなかった。十八か月は十八か月だった。


*


サン・クエンティンへ送られる前、持ち物を預けた。銃は戻らない。小銭。紙。道具。そして、小さな袋。


係の男が中を見る。


「石?」


「はい」


「何だこれ」


「方鉛鉱」


男は変な顔をした。


「金じゃないのか」


「違います」


「じゃあ何で持ってる」


イーライは少し考えた。五歳。父の手。灰色の石。西へ出た十一歳。十八歳で家を出た朝。全部説明する気にはならなかった。


「俺のだから」


男は肩をすくめ、袋へ戻した。それで十分だった。石は持って入れなかった。預けられた箱の中へ消えた。五歳からずっと持っていたものが、初めて手元から離れた。


*


刑務所では、朝が来る時間が決まっていた。起きる。数えられる。働く。食べる。また働く。戻る。眠る。翌日も同じだった。


山では天気で一日が変わる。石で変わる。人で変わる。ここでは昨日と今日が似すぎていた。だからイーライは、頭の中で山を歩いた。


家から父と入った山。西へ越えた山。メイと歩いた山。場所を一つ選ぶ。どんな土だった。水はどちらへ流れていた。何の木が生えていた。石は何色だった。思い出せるだけ思い出す。次の日は別の場所。


それが終わると、人を思い出した。父の顔。母の声。レイチェルの笑い方。メイの青い目。金色の髪。短く切られた髪。雪。火。唇。


忘れないために思い出した。誰に言われたわけでもない。ただ、何もしなければ少しずつ薄くなる気がした。


*


最初の手紙は父からだった。短かった。母はもっと書けと言ったらしい。そのことまで書いてあった。


『無事なら返事をしろ。母さんがお前はちゃんと食っているかとうるさい。俺もそこは気になる。レイチェルも怒っている。帰ってきたら話を聞く。父』


読み終わって、少し笑った。次の紙には母の字が詰まっていた。食べているか。眠れているか。怪我はないか。父は平気な顔をしているが心配している。レイチェルは夫と一緒に怒っている。


最後に、こうあった。


『撃ったことが正しかったかどうかを、今ここで母さんが決めてあげることはできません。でも、帰ってきた時にあなたが私の息子であることは変わりません。』


その一文だけ、何度も読んだ。


*


メイから来たのは、その後だった。封筒を見ただけでは分からなかった。差出人の名前を見る。


ステラ・メイ・ホロウェイ。


それだけで胸が速くなる。開く。無事だった。西へ進んでいる。それから、イーライに伝えなければならないことがあると書いてあった。


文字を追う速度が遅くなった。何度か読み直した。


子ども。


最初は意味だけが頭に入り、実感が来なかった。もう一度読む。メイの腹に子どもがいる。自分の子ども。


雪の夜を思い出した。火。メイの肩。触れた手。唇。その先。


イーライは紙を膝へ置いた。しばらく動かなかった。隣にいた男が聞いた。


「悪い知らせか」


「……分からない」


「分からない?」


イーライはもう一度手紙を見る。悪い知らせではなかった。でも、喜んでいいだけの知らせにも思えなかった。


自分はここにいる。メイは一人で西へ行っている。その腹に自分の子がいる。嬉しい。怖い。申し訳ない。会いたい。全部一緒に来た。


「子どもができた」


男が目を丸くした。


「そりゃいい知らせだろ」


「俺、ここにいる」


「そうだな」


「何もできない」


男は少し考え、


「手紙は書ける」


と言った。


その夜、イーライは何枚も書き損じた。最初に謝った。消した。また謝った。それも消した。最後には、こう書いた。


『教えてくれてありがとう。俺は嬉しい。ここにいて何もできないのが嫌だ。でも、出たら行く。西へ行く。海の約束も覚えてる。だから、待ってくれとは言わない。ただ、俺が行くことだけは覚えていてほしい。』


最後に、『体を大事にしてくれ。二人とも。』と足した。少し考えて、『三人で海を見たい。』と書いた。


*


それから手紙が、外の時間になった。メイの腹が大きくなった。イーライは見ていない。手紙で知った。サンフランシスコに着いた。手紙で知った。部屋を借りた。手紙で知った。仕事を手伝ってくれる人たちがいる。手紙で知った。階段がきつくなった。それも手紙で知った。


会ったことのない人間の名前が増えた。マギー。エスター。クララ。ノア。誰なのか分からない。でも、メイの周りに人がいることには安心した。


ノアという名前は何度か出てきた。郵便局の男。手紙を受け取る時に世話になっているらしい。そこまで読んで、どんな男だろう、とは思った。それだけだった。


*


子どもが生まれた知らせは、予定より早く届いた。イーライは封を切る前から嫌な感じがした。字がいつものメイより乱れている。


生まれた。女の子。小さい。早かった。呼吸が弱い。何度も止まりかけた。


文章が途中で何度も切れていた。名前が書いてあった。


ステラ・メアリー・ホロウェイ。


イーライは、そこだけ二度読んだ。三度読んだ。


ステラ。メイの最初の名前。メアリー。知らない名前だった。


手紙の後ろの方に、『普段はメアリーと呼ぶことにした。』とあった。


「メアリー」


声に出した。自分の娘の名前だった。顔は知らない。重さも知らない。声も知らない。それでも娘だった。


*


返事を書いた。


『メアリーへ。まだ字は読めないと思う。たぶん俺が出る頃にも読めない。だからこれは、お前の母さんに読ませる。生まれてきてくれてありがとう。会いに行く。』


そこまで書いて止まった。父親らしいことを書こうとした。何も思いつかなかった。父親になったことがなかった。当然だった。


『何をしたらいい父親なのか、まだ分からない。俺の父さんに聞けば、たぶん自分で考えろと言う。だから考える。会うまでにも考える。』


書きながら、少し笑った。エイベルなら本当にそう言うだろう。


最後に、『母さんを困らせすぎるな。でも、生きていればそれでいい。』と書いた。出した後で、最後の一文だけは父親らしかった気がした。


*


次の手紙では、メアリーはまだ弱かった。その次では、少し飲めるようになった。また次では、夜に何度も起きた。体重が増えた。熱を出した。下がった。泣いた。眠った。息をした。


イーライは一度も見ていない娘の一日を、紙の上で追った。


同時に、メイの手紙にも変化が出た。最初は気づかなかった。同じことを二度書く。前に伝えたことを、初めて伝えるように書く。逆に、前なら書いたはずのことを書かない。


イーライが山の話を返事に書いても、それへの返事がなくなる。海のことを書いても、触れない時が増えた。


忙しいのだと思った。子どもが生まれた。眠れていない。それなら当然だと思った。


ある手紙に、『イーライ、あなたの声がうまく思い出せない。』と書いてあった。


冗談だと思えなかった。イーライは紙を持ったまま長く座っていた。


返事に、『俺も毎日同じところにいるから、声なんか変わってない。』と書いた。少し考えて、『忘れても、会えば分かる。』と足した。


その時は、本当にそう思っていた。


*


ある時期から、返事が途切れた。イーライは書き続けた。


何かあったのか。メアリーは無事か。メイは無事か。返事はいらないから、誰かに一言だけ書いてもらえないか。


手紙を出す。待つ。何も来ない。また出す。何も来ない。


事情は分からなかった。郵便の問題かもしれない。メイに何か起きたのかもしれない。単に書けないだけかもしれない。


分からないものを、勝手に一つの答えにするな。父ならそう言う。だからイーライは、一番悪い想像だけを信じることもしなかった。


ただ、出たら行く。それだけは変えなかった。


*


十八か月の最後の日。名前を呼ばれた。持ち物が返された。小銭。道具。紙。そして、小さな袋。


開ける。灰色の石。方鉛鉱。掌に載せる。重い。五歳の時と同じだった。


イーライは少し笑った。十八か月ぶりに触れたのに、手が覚えている気がした。


父の顔が浮かぶ。母。レイチェル。メイ。まだ思い出せた。メイの声。笑った顔。雪の夜。金色の髪。全部。


「よし」


誰に言うでもなく呟いた。荷を背負った。


*


家には帰らなかった。先に手紙を出した。父と母へ。釈放されたこと。無事なこと。まずサンフランシスコへ行くこと。


マーサなら怒るだろう。エイベルなら、たぶん分かったと言う。レイチェルはもっと怒る。


それでも行った。西へ。十八か月前、メイに約束した方角へ。


*


初めて海を見たのは、サンフランシスコへ向かう途中だった。思っていたより大きかった。端がなかった。正確には、向こう側が見えなかった。空と水の境目だけが遠くにある。


イーライはしばらく立ち止まった。メイと一緒ではなかった。それだけが残念だった。


「……本当に見ないと分からないな」


呟いた。父にも見せたかった。母にも。メイにも。メアリーにも。


今度は四人で見ればいい。そう思った。


*


サンフランシスコで、メイの居場所を探すのには少し時間がかかった。古い手紙に書かれた住所。郵便局。人に聞く。何度か場所を間違えた。


最後に教えられた家の前で、イーライは立ち止まった。急に緊張した。刑務所を出る時より、裁判の時より、山で銃を抜いた時より変な感じがした。


十八か月。メイは変わっただろうか。自分も変わった。メアリーはどれくらい大きくなった。抱いて泣かれたらどうする。メイには何から言う。


謝る。ただいま。会いたかった。海を見た。


全部違う気がした。結局、決めないまま扉を叩いた。


足音。しばらくして扉が開く。


金色の髪。青と、深い緑の目。知らない色が一つ増えていた。顔はメイだった。十八か月前より少し大人びて見える。けれど、間違えようがない。


胸の奥がほどけた。


「メイ」


名前が自然に出た。


メイは動かなかった。イーライを見る。顔。服。荷物。目。まるで初めて会った人間を見るように。


一歩、近づこうとした。メイが半歩下がった。イーライの足が止まる。


何かがおかしい。


メイの後ろから、小さな物音がした。子ども。メアリー。


そう思った瞬間、メイが口を開いた。


「……イーライ・ハート?」

 

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