テンガイ 破
テンガイ 破
「ああ」
イーライはもう一度答えた。メアリーの父親。それは間違っていなかった。ほかにも言いたいことはあったが、腕の中の子どもがこちらを見ている。目が合うと、メアリーはメイの肩へ顔を埋めた。
「人見知りするの」
メイが言った。知らない男に、娘のことを説明する声だった。
「そうか」
「嫌ってるわけじゃないよ」
自分にも言っているのかと思った。たぶん違う。そう思いたいだけだった。
マギーが戸を閉めた。外の音が遠くなり、部屋に湯の沸く音が残った。
「立ったままじゃ、話もできないだろう。座りな」
椅子を引かれ、イーライはようやく荷を下ろした。メイは向かいへ座った。間に食卓がある。娘は膝の上で身体を捩り、匙へ手を伸ばしている。あまりに小さな指を、イーライは見続けた。
「触ってもいいか」
メイが少し迷った。娘を見てから頷いた。
「手なら」
指を一本差し出す。メアリーは一度引っ込めた手を、また伸ばした。イーライの指を握り、すぐ放す。もう一度握る。温かかった。手紙のどこにも、この温かさは書いていなかった。
「大きくなったな」
言ってから、初めて見るのに変だと思った。メイは変だと言わなかった。
「重いよ」
「ああ」
「まだ持ってないでしょう」
「そうだな」
少し笑った。メイも口元を緩めた。十八か月前へ戻りかけたが、彼女が次に口を開くまで、その笑いは続かなかった。
「私、あなたのことを覚えてないの」
イーライは頷こうとして、できなかった。
「手紙はある。名前も分かる。山で一緒にいたことも、知ってる。でも、知ってるだけなの」
娘が匙を落とした。拾いながら、メイが続けた。
「会えば分かるかと思った。少しは」
「……分からなかった?」
「うん」
言い終えたメイの顔が強張った。叱られるのを待つような顔だった。イーライは食卓の木目を見た。節の周りだけ色が濃い。そこへ指を置いた。震えているのを見られたくなかった。会えば分かると、手紙に書いた。あの時は本当にそう思っていた。自分はずっと覚えていたから、メイも同じ場所で待っていると思っていた。
「ごめん」
メイが言った。
「……まだ、謝らないでくれ」
声がうまく出なかった。水を飲む。マギーは炉の方を向いていた。
「俺、今、何て言えばいいか分からない」
「うん」
「だから、ちょっと待ってくれ」
メイが頷いた。二人の間で、メアリーが匙を振った。イーライはその手を見た。ここまで育った娘と、育てた女がいる。知らない時間が、目の前に座っていた。
最初にノアを見たのは、その日の帰りだった。泊まる場所を聞かれ、まだ決めていないと答えると、マギーが安い宿を教えてくれた。メイは引き留めなかった。ただ、イーライが荷を持つと、娘を抱き直した。
「明日も来る?」
「ああ。来ていいなら」
「午後ならいる」
それを確かめてから外へ出た。階段を下りてきた男が、少し遅れて追いついた。イーライより幾つか年上に見える。袖口にインクの染みがあった。
「ノア・リード」
差し出された手を見て、イーライは握った。
「手紙の」
「ああ」
「世話になった」
ノアは肩をすくめた。礼を受け取るのが下手な男らしかった。
「その宿、今は少し高い。別のところを知ってる」
「遠いか」
「ここからは。仕事を探すなら、そっちの方が近い」
仕事という言葉を聞いて、イーライは懐の金を思い出した。会った後のことを、ろくに考えていなかった。
二人で歩いた。ノアはメイのことを聞かなかった。イーライも聞けなかった。やがて宿の前へ着き、ノアが戸口を指した。
「朝の粥は薄い。寝床は乾いてる」
「詳しいな」
「前に住んでた」
少し力が抜けた。この男にも、メイに会う前の暮らしがある。
「何か聞きたいんじゃないのか」
イーライが尋ねると、ノアは通りへ目をやった。
「ある。でも、今日は疲れてるだろ」
「ああ」
「俺も、仕事の途中で抜けてきた」
「戻れよ」
「今から戻る」
ノアは片手を上げて去った。イーライは宿へ入り、狭い寝床へ腰を下ろした。袋から灰色の石を出す。父がくれた方鉛鉱。重さは変わらなかった。石を握ったまま、しばらく俯いた。メイが無事でよかった。メアリーが生きていてよかった。それは本当だった。それだけでは済まない自分が、ひどく小さく思えた。
翌日、イーライは何も買わずに行った。娘への贈り物を思いつかず、途中で仕事の口を一つ聞いて、約束した午後に戸を叩いた。
昨日と同じ椅子へ座ると、少し離れてノアもいた。メイがいてほしいと言ったらしい。イーライは構わないと答えた。二人きりで何かを話せると思っていた自分を、椅子ごと引っ込めるような気持ちだった。
メイは右手を食卓へ置いた。親指の付け根の黒いほくろを、左の指で示す。娘が早く生まれたこと。息が止まりかけたこと。助けるために、命を分ける力を受け取ったことを話した。
「触って、口づけて、渡したいと思うの。それで渡る」
イーライはその手を見た。今も娘の背中を支え、頬に触れる手だった。
「使うたびに、忘れた?」
「少しずつ。最初は気づかなかった」
メイはノアを見る。彼は口を挟まなかった。
「もう大丈夫な時にも使った。怖くて。何もしないで死んだら、嫌だったから」
「今は」
「ずっと使ってない。メアリーは、自分で元気になるから」
床では娘が椅子の脚を掴んでいた。立とうとして、片膝をつく。メイの手が少し動いたが、伸びなかった。メアリーは諦めず、もう一度身体を持ち上げた。イーライは、その僅かな間を見ていた。
「俺が忘れられたのは、この子を助けたからなんだな」
メイが唇を結んだ。すぐ、イーライは首を振った。
「責めてない。……そう聞こえたら、悪かった」
「うん」
「いなかった俺が、何も言えることじゃない」
ノアが初めてこちらを見たが、何も言わなかった。メイは膝へ手を戻した。
「左手で、あなたの持っているものを読めば、見られることはあると思う。でも、それを見ても、私が思い出すのとは違う」
「読まなくていい」
早すぎる返事になった。メイが顔を上げる。
「俺も、何をしてほしいのか分からない。だけど、今すぐ何かを取り戻そうとしなくていい」
部屋が静かになった。メアリーが座面へ手を伸ばし、椅子に載っていた布を引き落とした。針仕事の途中だったメイが慌てて取り上げる。
「それは駄目」
娘は怒った。イーライにも、怒ったことは分かった。
仕事は採石場の荷運びから始まった。石を見る仕事はすぐにはなかった。手と背中を使う方なら、人が要った。朝に働き、夕方にメイのところへ寄った。毎日は行かなかったが、行けない日は伝えた。メイが待つかどうかを決められるようにしたかった。
メアリーを初めて抱いた時は、泣かれた。泣きやむ気配がなく、背中を叩く手までぎこちなくなった。
「揺らしすぎ」
ノアが言った。休日で、窓の留め金を直していた。
「こうか」
「もう少し身体へ寄せろ。落としそうな顔で持つな」
「顔は関係ないだろ」
「俺なら嫌だ」
イーライが睨むと、ノアは笑わずに腕の位置を示した。真似をすると、娘の体重が胸へ寄った。泣き声が一度途切れ、また始まったが、さっきより低かった。
「腹が減ってるかもしれない」
ノアが言う。
「さっき食べた」
「じゃあ眠い」
「どっちだよ」
「聞いてみろ」
イーライは腕の中を見た。涙のついた顔が見返してくる。
「眠いのか」
返事はなかった。やがて娘の頬が服へ押しつけられ、指が襟を掴んだ。ノアはもう窓へ戻っていた。
台所から出てきたメイが足を止めた。イーライは動かずに待った。
「寝た?」
「たぶん」
メイが覗き込み、小さく頷いた。
「うん。寝てる」
その時だけ、三人とも声がひどく小さくなった。
ひと月ほど経った頃、イーライはメイを怒らせた。繕いの済んだ服を届けるついでに、三人で海へ行かないかと誘った。メイは仕事が残っていると言った。明日は、と聞くと、明日の分もあると答えた。
「少しくらい、休めるだろ」
「あなたが決めないで」
声が変わった。イーライは慌てた。
「そういう意味じゃない。前に一緒に行くって――」
「前の私が言ったら、今の私も行かなきゃいけない?」
針を持った手が止まっていた。イーライは口を閉じる。海を見れば、何かが戻るかもしれない。戻らなくても、約束を果たせる。そう考えた。その約束を、メイは知らない。
「……悪かった」
「謝ってほしいわけじゃない」
「うん」
「私だって、行きたくないわけじゃないの。今日は、仕事があるの」
イーライは積まれた上着を見た。袖の破れ。外れたボタン。暮らしの金になる仕事だった。
翌週、メイの方から声をかけた。
「日曜日、空いてる?」
「空ける」
「無理ならいいよ」
「空いてる」
メイが少し笑った。
「海へ行こう。今度は私が誘ってる」
風が強かった。メアリーは砂へ下ろされるのを嫌がり、ずっとイーライの腕にいた。水際で足を濡らすどころではなかった。持ってきたパンには砂がついた。メイの髪が頬へ張りつき、結び直してもすぐに解けた。
「こんな日じゃなくてもよかった」
メイが言った。
「次は風を調べてからにする」
「どうやって?」
「来てみる」
「もう来てるでしょう」
二人で笑った。娘がイーライの頬を叩く。自分だけ話から外されるのが不満らしい。彼は娘の手を掴んで、海の方へ向けた。
「ほら。端がない」
メアリーは海より父の指を見ていた。メイが隣へ来て、娘の靴を履かせ直した。
帰り道、メイが言った。
「また来てもいいね」
「ああ」
「次は砂の入ってないパンが食べたい」
イーライは頷いた。帰ってから、この日のことを覚えていられる。自分だけではない。そのことを嬉しいと思った。
家を借りる相談をしたのは、娘が二歳になる少し前だった。イーライは荷運びをしながら石の選り分けを任されるようになり、仕事のある日が増えていた。ノアに空き家の話を聞き、見に行った。小さな二間で、窓は明るく、炉は古い。雨が降れば戸口に水が溜まりそうだった。
メイは窓のそばへ椅子を置く真似をした。針仕事にはよさそうだと言った。その後、部屋の間の戸を何度か開け閉めした。
「寝るところは、分けられるね」
「ああ」
「私、まだ分からないことがある」
「分かってる」
メイがこちらを向いた。
「分かってるって、先に言わないで。まだ話してない」
イーライは口を閉じた。メイは少し困ったように笑った。
「あなたが来ない日は、来ないんだなって思うの。来る日は、少し早く片づける。でも、それが前と同じかは分からない」
「前と比べなくていい」
「私もそう思う。だから、一緒に住んでみたい。今の私が」
その返事を用意していなかった。イーライは窓枠へ手を置いた。剥がれかけた塗料が、指に少しついた。
「俺も住みたい」
どうにか、それだけ言えた。
家を借りる前に、イーライは自分の両親へ手紙を書いた。会いに来ると返事があった。メイは驚いたが、嫌だとは言わなかった。母が何を言うか、イーライには少し分かった。父が何を言うかは分からなかった。
来た二人は、まず息子を抱いた。マーサは背中を二度叩き、それから、痩せたねと言った。エイベルは長く手を握っていた。娘を見せると、二人とも息子を見なくなった。
「手紙よりずっと大きい」
マーサが言った。
「紙に収まる大きさじゃないから」
イーライが答えると、母は笑いながら目を拭いた。
メイは緊張していた。記憶のことは、本人に確かめてから手紙へ書いた。マーサは昔のメイを知らない。だから初めましてと言い、娘を抱いていいか聞いた。それがありがたかった。
引っ越しの日、エイベルとイーライは傾いた棚を直した。ノアも手伝いに来た。男三人が狭い部屋へ入っただけで、誰かが動くたびに誰かの足を踏んだ。
「一人、外へ出た方が早いんじゃないか」
ノアが言う。
「言った奴が出ろ」
イーライが答えた。
「釘を持ってるの、俺だぞ」
「じゃあ俺が出よう」
エイベルが道具を置きかけると、二人が同時に止めた。父が笑った。その笑い声を聞きながら、イーライは棚の端を押さえ直した。
戸口には、メイの杖が立てかけてあった。五つの石と、まだ空いている窪み。メアリーが触ろうとすると、メイが静かに遠ざけた。その隣へイーライの古い靴が置かれた。
同じ家へ帰るようになっても、分からないことは減らなかった。イーライは早く目を覚ました。しばらく、誰かに起こされる前に起きる癖が抜けなかった。暗いうちに立ち、薪を割ろうとしてメイに止められた。隣の家も眠っていると言われた。それで水を汲みに出たが、戻る時に桶を戸へぶつけ、結局メアリーを起こした。
「何もしないで座ってるのは?」
眠そうなメイに言われた。
「目が覚めたから」
「目が覚めたら、必ず働かないと駄目?」
イーライは考えた。駄目ではなかった。ただ、手を動かしている方が楽だった。
翌朝は座った。窓の外が明るくなり、娘の声がして、メイが起きた。何も悪いことは起こらなかった。湯を沸かしておくと、メイはありがとうと言った。
メイが仕事にかかりきりで、イーライが鍋を任されると、食事を焦がす日もあった。底だけ黒くなり、上だけ取り分けようとして全部混ぜてしまった。
「石なら、焦げた方をよけられるんだけどな」
「次から鍋を見て」
メイが言った。娘は二人の顔を順に見て、少し遅れて笑った。
夜、別の寝床に入ってからも、隣の部屋の音が聞こえた。咳。布の擦れる音。娘を宥める声。最初のうち、イーライは泣き声のたびに起きた。起きても、メイが先に抱いている。戻って寝ると、次の日には起きられなかった。そんな日を重ねた。
ある夜、メアリーが泣き、先にイーライが抱いた。メイは戸口まで来て、壁へ肩を預けた。
「代わる?」
「大丈夫。寝てていい」
メイはすぐには戻らなかった。しばらく娘を見ていたが、やがて頷いた。
「じゃあ、お願い」
戸が閉まった。イーライは娘を抱いて、狭い部屋を歩いた。何周しても同じところへ戻った。やがて泣き声が小さくなり、隣からも音がしなくなった。
朝、メイは何時に寝たのかと聞いた。イーライは時計を見ておらず、覚えていなかった。
「歩いてたら寝た」
「あなたが?」
「メアリーが」
「あなたも、立ったまま寝そうだったよ」
「見てたのか」
メイは笑った。娘を任せて眠った朝の顔を、イーライは長く覚えていた。
ノアが食事をしに来る日は、決まっていなかった。余分に作った日に呼ぶこともあれば、何もない日に来ることもある。そういう時はパンを薄く切った。メイは本人の前で薄くするので、ノアは文句を言った。
「来るって言えば、買っておくよ」
「顔を見に来ただけなんだが」
「じゃあ、食べなくていい?」
「食べる」
メアリーは食べ物をもらいたくて、ノアの膝へ座りたがった。ノアは小さくちぎって渡し、その間に自分の皿から大きい方を取られた。
ある晩、イーライとノアだけが食卓に残った。メイは娘を寝かせていた。イーライは皿を重ねながら、ずっと聞けなかったことを聞いた。
「俺が来る前、よく来てたのか」
「ああ」
「これからも、来てくれ」
ノアが顔を上げた。
「俺が言うことじゃないけど。……急に来なくなられたら、メイが困る」
「メイが?」
イーライは皿を置いた。ノアは返事を待った。
「俺も、困る」
「なら、そう言えよ」
そう言ってノアは、残っていたパンを取った。
その頃には、イーライも彼の仕事の愚痴を聞くようになっていた。読めない字で住所を書く者。間違いを人のせいにする者。名前だけ書けば届くと思っている者。ノアは腹を立てながら、届かなかった手紙を気にしていた。
「返せばいいんじゃないか」
「返す先も、まともに書いてないんだよ」
「石より難しいな」
「石は、自分が悪いくせに怒鳴らないだろ」
「たまに頭へ落ちてくる」
「それは怒ってるな」
笑い声が大きくなり、隣からメイに叱られた。二人とも黙った。その後は、皿を運ぶ音まで小さくなった。
結婚の話は、娘が三歳になった年にした。特別な日ではなかった。イーライの上着の肘をメイが直していた。買い替えようと言うと、まだ着られると返された。家賃と食費と、娘の靴。その後に自分の上着が来るのは、二人とも同じだった。
「メイ」
「動かないで。長さを見てる」
腕を伸ばしたまま、イーライは待った。針が布へ戻ってから言った。
「結婚してほしい」
メイの手が止まった。長い沈黙になった。イーライは腕を下ろしていいか分からず、そのままでいた。
「腕、下ろしていいよ」
言われて下ろす。メイは針を布に留めた。
「メアリーのため?」
「それもある。でも、お前と暮らしたい。これからも」
「今も暮らしてる」
「ああ。だから、分かった」
メイは上着を膝へ置いた。イーライの袖には、石の粉が少し残っていた。彼女はそれを指で払った。
「私、もうあなたがいない暮らしは嫌だよ」
小さな声を、聞き間違えなかった。
「でも、昔の私と結婚したいなら、それはできない」
「今、袖を直してるお前に言ってる」
「袖が直らなくなるから?」
「それも困る」
メイが笑った。笑いながら、少し泣いた。
「そういう時は、違うって言って」
イーライは彼女の手へ自分の手を重ねた。もう身を引かれなかった。しばらくして、指が握り返された。
小さな式にノアを呼んだ。マギーたちも来た。両親とレイチェルから手紙が届いた。メイは母と妹へ、今の自分が結婚したいと思ったことを書いた。何度か書き直したが、最後は自分で封をした。
娘は式の最中に靴を脱いだ。ノアが拾った。履かせようとすると逃げ、イーライの脚に抱きついた。誓いの言葉の途中で、父親は娘を抱き上げることになった。
「重い?」
メイが小さく聞いた。
「ああ」
「今度は分かるね」
イーライは頷いた。メイの顔がすぐそばにあった。
メアリーは、自分の名前を書く時、ハートのところだけ字が大きくなった。父と同じ名前だからだと言った。メイが自分も同じだと指摘すると、知ってると言い返した。
五歳になると、家の中に石が増えた。拾ってくるのは娘だった。イーライが名前を教えると、翌日は違う形のものを持ってきた。知らないものを見つけると得意になった。
「父さんも知らないの?」
「知らない」
「じゃあ、私が名前をつけてもいい?」
「調べてからだ」
「調べたら、もう名前あるでしょう」
困った。父ならどう答えるだろうと思ったが、分からなかった。
「家で呼ぶ名前なら、つけてもいい」
そう言うと、娘は一番丸い石をノアと名づけた。似ているところはなかった。本人に見せたら、なぜだと聞かれた。忘れたと答えられた。
ノアはしばらくその石を見ていたが、帰る時、窓から落ちそうだったのを奥へ戻した。次の週、娘は別の石をノアと呼んでいた。イーライが指摘すると、こっちは仕事の時のノアだと言った。
「俺が二人いたら、もう少し楽なんだけどな」
ノアはそう言い、一つを掌へ載せた。
イーライの方鉛鉱だけは、娘の箱へ入れなかった。一度貸してやると、両手で持ち、重いと言った。
「何で重いと思う?」
尋ねてから、父と同じことを言ったと気づいた。メアリーは考えた。
「大切だから?」
「それもあるな」
鉛の話は後にした。メイが窓のそばから二人を見ていた。
娘が七歳になった頃、ノアが足を痛めた。雨の日、濡れた階段で滑ったのだと聞いた。本人は大したことがないと言ったが、歩くと顔が変わった。イーライが部屋へ行くと、水差しが空だった。食べかけの固いパンが皿に残っていた。
「これで大したことないのか」
「足だけだ。手は動く」
「その手で水を汲んでこいよ」
ノアが黙った。イーライは水差しを持って出た。戻ってから鍋を火へかけた。料理は以前よりできるようになっていた。それでもノアは焦げた匂いがすると言った。
「まだ何も入れてない」
「先に言っておいた」
「帰るぞ」
「悪かった」
足を動かすと笑顔が歪んだ。イーライは見なかったふりをした。
次の日から、仕事の帰りに寄った。メイが煮たものを運ぶ日も、自分で何か作る日もあった。メアリーは手紙を書いた。早く治って、とは書かず、返事を書いて、と書いた。暇だろうと母に聞いたらしい。
ノアの返事には、知らない人にそんなことを言うな、とあった。娘は知っている人だからいいと言った。
十日ほどして、ノアが給金のことを口にした。休みが長引くと困る。席へ座る仕事ならできる。だが、そこまで行けない。
イーライは翌朝、少し早く家を出た。ノアの部屋へ寄り、肩を貸した。
「お前の仕事は」
「朝だけ遅らせてもらった。帰りは別の奴に頼め」
何でも引き受ければ、自分の家が困る。ノアも分かったらしく、頷いた。
郵便局へ着く前に、二度休んだ。歩けば僅かな坂が、二人には長かった。ノアは汗を拭き、借りが増えたなと言った。
「数えてたのか」
「お前は数えてないのか」
「途中で分からなくなった」
ノアが笑った。イーライは肩を入れ直した。立ち上がる時だけは、二人とも笑わなかった。
家へ帰ると、娘が食卓で書き取りをしていた。メイは隣で仕事をしている。窓の留め金は、引っ越した時にノアがつけたもののままだった。イーライは靴を脱ぎ、椅子へ座った。
「ノア、歩けた?」
娘が聞く。
「歩いたよ。遅かったけど」
「私が持っていってあげればよかった」
「重いぞ」
「父さんと半分ずつ」
メイが針を止めて笑った。娘は本気だった。
その夜、イーライはメイの髪に顔を寄せた。同じ寝床で眠り始めた正確な日は覚えていなかった。初めて口づけた夜は覚えている。メイの方から顔を上げた。ただ、触れたいと思ってくれた。それが分かった。
「今日、何かあった?」
メイが聞いた。
「何も」
「なら、重い」
肩を押され、少し離れた。メイは笑って、今度は自分から寄ってきた。部屋の向こうでは、娘が寝返りを打った。
父のエイベルが亡くなったのは、娘が九歳の年だった。イーライは一人で先に向かい、後からメイとメアリーが来た。母は息子を見ると、荷物を下ろしなさいと言った。昔と同じ声だった。それで余計に、家に父がいないことが分かった。
窓際には石が残っていた。名前をつけた札も、ついていないものもある。レイチェルは処分を急がなくていいと言った。マーサは、邪魔だけどね、と答えた。誰も動かさなかった。
帰る前に、イーライは娘へ石を一つ選ばせた。メアリーは長く迷い、小さな白い石を取った。祖父が座っていた椅子のそばにあったものだった。
「何の石?」
「石英」
「持って帰っていい?」
マーサが頷いた。娘は両手で包んだ。イーライは自分の袋を握った。二つの石は、重さも色も違った。
サンフランシスコへ戻った夜、ノアが来た。何を言うでもなく、パンと煮豆を置いた。イーライは食べる気がしなかったが、娘が皿を出すので座った。
食後、外で二人になった時、ようやく父の話ができた。石のこと。西へ来た時のこと。母に叱られたこと。順番は滅茶苦茶だった。ノアは聞いていた。
「もっと聞けばよかった」
イーライが言った。
「何を」
「何でも。あれだけ話したのに、聞いてないことばっかり出てくる」
ノアはしばらく通りを見ていた。
「今日、一つ教えてくれ」
「何を?」
「お前の父さんが教えたこと。俺が知らないやつ」
イーライは考えた。考えているうちに涙が出た。ノアは顔を覗き込まなかった。
しばらくして、イーライは足元の石を拾った。街灯の明かりの届くところへ持っていき、割れ目を見せた。ノアは隣へ来た。説明は途中で何度も止まったが、急かされなかった。
十年目の冬、イーライは戸口の柱に娘の背丈を刻んだ。印は毎年増えていた。最初の頃は腰より下だったのが、胸へ近づいている。メアリーは踵を上げ、母に見つかった。
「それじゃ、来年縮むよ」
「来年も上げればいい」
「いつまで?」
娘は少し考え、踵を下ろした。イーライが印をつける。終わると娘はメイを隣へ立たせた。
「もうすぐ追いつく」
そう言って笑った。イーライも笑ったが、二人の顔を見比べて、手が止まった。
髪の結い方も服も違い、笑う時の癖も以前より知っている。それでもメイの顔そのものは、再会した頃とほとんど同じだった。
自分の手には節が出ていた。石を扱う仕事で爪の形も変わった。寒い日には指を伸ばすと痛んだ。目の下にも線が増えた。メイには、それがなかった。
夜、娘が眠ってから、本人が言った。
「今日、見てたね」
否定する気にはならなかった。
「前から気づいてた」
「私も」
メイは手鏡を食卓へ置いた。小さな鏡だった。イーライが顔を映すと、一人分しか入らなかった。
「どうしてなのか、はっきりとは分からない。身体の中に、私だけじゃないものがいるからかもしれない。でも、年を取らない約束をした覚えはないの」
覚えという言葉の後で、少し声が止まった。イーライは鏡を伏せた。
「痛いところは?」
「ない」
「眠れるか」
「あなたがいびきをかかなければ」
「かいてる?」
「最近」
笑おうとした。メイも笑った。長くは続かなかった。
「このままなのかな」
メイが聞いた。
「分からない」
その返事しかなかった。彼女は頷き、伏せた鏡を引き出しへしまった。イーライはその手へ触れた。皺のない指が、荒れた自分の指の間へ入った。
メアリーが十三歳になった時、メイの背を越えた。柱の前で、娘は一度だけ母を見下ろした。得意そうな顔をした後、困ったように笑った。メイは素直に喜び、届かなかった棚の布を取らせた。
「これから便利だね」
「そのために大きくなったんじゃないよ」
娘が言うと、メイは分かっていると笑った。
その頃から、初めて来た客が二人を姉妹だと思うようになった。メイは娘ですと答えた。客は驚き、若く見えると言った。何度か続くうちに、娘が先回りして母ですと言うようになった。
ある夕方、メアリーは仕事の届け物へ一人で行くと言った。メイが一緒に行く支度をすると、来なくていいと声を強くした。
「遠いでしょう」
「一人で行ける」
それだけ言って出ていった。戸が少し大きな音を立てた。メイは上着を脱ぎ、何も言わずに針仕事へ戻った。
帰ってきた娘に、イーライは外へ出る用事を頼んだ。二人で薪を運び、最後の束を下ろしたところで、メアリーが先に口を開いた。
「母さんが嫌なんじゃないよ」
「うん」
「でも、また妹さんって言われるの、嫌なの。私の方が大きいから」
イーライは黙って聞いた。
「違うって言ったら、変な顔をされる。何か隠してるみたいに。それが嫌なだけ」
「母さんには、そう言ったか」
娘は首を振った。
「言ったら、悲しむでしょう」
「今も、たぶん悲しんでる」
メアリーは薪のささくれを指で剥いた。小さな棘が立ち、引っ張るのをやめた。
「父さんは嫌じゃない?」
答えるまでに時間がかかった。娘はその間、顔を上げなかった。
「嫌なことはある。母さんが悪いと思うわけじゃない。でも、何とも思わないわけじゃない」
メアリーがようやくこちらを見た。
「母さんも、きっとある」
イーライが言うと、娘は頷いた。
その晩、二人が何を話したのかは聞かなかった。メアリーは次の届け物にも一人で行った。帰ってくると、渡した相手のことを母に話した。笑い声が聞こえたので、イーライは割りかけの薪へ斧を下ろした。
ノアは四十が近づいて、仕事を変えるか迷っていた。郵便の仕事を辞めるわけではなかった。別の場所で、人をまとめる役を任せたいと言われたらしい。給金は増える。住む場所も変わる。イーライは食卓で話を聞いた。
「行きたいのか」
「少し」
「じゃあ、行けばいい」
ノアが不満そうな顔をした。
「簡単に言うな」
「難しく言った方がいいか」
「そうじゃない」
娘が茶を置き、二人を見た。
「父さん、寂しいって言えば?」
イーライは娘を睨んだ。メアリーは笑って母の方へ行った。
ノアに続いてイーライも茶を飲んだ。熱くて、すぐに下ろした。
「寂しいよ」
イーライは言った。
「でも、それで残れとは言えない」
「分かってる」
「何が嫌なんだ。新しい仕事」
ノアは長く考えた。人に指示するのが嫌なのではないらしい。知らない場所も怖くはない。ただ、自分が手を動かすより、誰がどれだけ働いたかを確かめる時間が増える。それを聞いてから迷っていると言った。
「その分、困ってる奴を助けられるかもしれない」
イーライが言うと、ノアは頷いた。
「そうも思うんだよ」
その晩も、次に会った時も話は決まらなかった。イーライは結論を聞くのをやめた。ノアはその後、今の場所に残ることにした。断った翌週は少し機嫌が悪く、ひと月経つと給金の愚痴を言った。
「増える方へ行けばよかったのに」
メアリーに言われ、ノアは、お前は容赦がないなと答えた。
何年か後にも、時々その話をした。行っていたらどうなったかとノアが言い、分からないとイーライが返した。
メアリーが十五歳の春、イーライは三日ほど寝込んだ。熱が下がってからも、身体が重かった。起きるとメイが戻れと言い、娘まで同じことを言った。仕事を休むのが気になったが、立ち上がると目の奥が痛んだ。
夜中に目を覚ますと、メイが寝床の端へ座っていた。額から濡れ布を取り、替えようとしている。イーライはその右手を見た。
「使ってないよ」
見ただけで分かったらしい。メイが言った。
「分かってる」
「分かってない顔」
彼女は布を畳み、額へ置いた。冷たかった。
「熱は下がった。水も飲んだ。さっき、私に腹が減ったって文句まで言った。待てるから」
イーライは少し笑った。
「文句じゃない」
「ひどい顔で言ったよ」
メイが立とうとしたので、手首へ触れた。細さも肌の温かさも、長く知っているものだった。
「メイ。俺が年を取るのを、治そうとするなよ」
彼女の動きが止まった。
「今は熱の話でしょう」
「ああ。でも、言っておきたい」
「私は、まだそんなこと言ってない」
声が硬くなった。イーライは手を放した。メイは立たなかった。
「あなたが嫌がることはしたくない。でも、何があっても何もしないって、今は約束できない」
イーライも、逆の立場なら約束できるか分からなかった。
「俺は、今のお前までなくしたくない」
メイは濡れ布の端を直した。
「私だって、そうだよ」
どちらを失いたくないと言ったのか、聞かなかった。彼女はそばに座り、イーライが眠るまで水差しを片づけなかった。
元気になって初めての休みに、ノアと海へ出た。釣りをするつもりだった。道具は借りた。餌も買った。魚は一匹も釣れなかった。
「場所が悪い」
ノアが言った。
「さっきも変えた」
「変えた先も悪い」
イーライは笑った。風の当たらない場所へ腰を下ろすと、立ち上がるのが億劫になった。ノアは足を伸ばし、昔痛めたところを擦っていた。
「また痛むのか」
「冷えると」
「俺も、指が駄目だ」
二人で手を見た。どちらも若い頃より太く、爪には細い筋があった。ノアの髪には白いものが混じり、イーライのこめかみにも幾らかあった。
「俺、時々ひどいことを考える」
イーライが言った。海を見たままだった。
「メイにも、皺ができればいいと思う。一本でいいから。そうしたら、たぶん安心する」
ノアは何も言わなかった。波が石へ当たり、引いていく。
「自分だけ変わってるみたいなんだ。あいつの顔を見ると」
「俺の顔も見ろよ」
イーライが横を向くと、ノアは眉を上げた。額に深い線が寄った。
「十分だろ」
笑った。笑うつもりではなかったので、少し苦しくなった。ノアはそのまま海へ顔を戻した。
「お前がいなくなった後のこと、メイも考えるんじゃないか」
「ああ」
「お前の顔が変わるのを、毎日見てるんだから」
イーライは頷いた。分かっていた。分かっていても、時々自分の方だけが寂しくなった。
帰りに魚を買った。ノアが二匹を選び、イーライが包みを持った。
「釣ったって言うか」
「メアリーに聞かれたら、お前が説明しろよ」
無理だった。娘は、どこで、何を使って、どうやって釣ったか、何でも聞く。魚は買ったものとして食卓へ並び、二人は何度も笑われた。
十七になった娘は、繕い物を届けるだけではなく、注文を聞いて帰るようになった。母より計算が早かった。相手が曖昧に言ったことをそのまま持ち帰らず、袖をどこまで短くするのか、いつまでに要るのかを確かめた。メイに似て、分からないままにしておくのが嫌いだった。
だが、同じ仕事を続けたいとは限らない。ある晩、娘は服地を扱う店で働きたいと言った。帳面をつけ、客から注文を取る仕事だった。メイは店主を知っていた。イーライは知らなかった。
「会ってから決めたい」
父が言うと、娘は眉を寄せた。
「決めるのは私」
「分かってる。どんな男か、俺も知りたい」
「店までついてこないでよ」
メイが口元を押さえた。笑っていた。
結局、イーライは布を買いに行った。何を作るのかと聞かれ、答えられなかった。店主は彼の顔を見てから、メアリーのお父さんですかと尋ねた。帰って話すと、娘は食卓へ額をつけた。
「もう。絶対来ると思った」
「ちゃんと買ったぞ」
「だから余計に恥ずかしいの」
メイは買ってきた布を広げた。使い道はあると言った。イーライはそれで少し救われたが、娘は数日間、父の顔を見ると笑った。
その布は、翌年の春にメアリーの上着になった。仕事へ着ていくから丈夫に、と娘が頼んだ。ボタンは本人が選んだ。落ち着いた茶色の布に、同じ色の小さなボタンが並んだ。
娘は仕上がった上着で戸口に立った。子どもの頃の印が、腰より下に並んでいた。イーライはその背中を見送った。もう、道を渡るたびに手を引く必要はなかった。
家の中から、娘の声が減った。帰りが遅い日もある。知り合いと食事をすると言って出る日もある。メイは初めの頃、三人分を作って余らせた。二人分に慣れると、今度は娘が友人を連れてきた。足りないパンを薄く切りながら、ノアの時と同じだと笑った。
メアリーが初めて自分の給金で買ってきたものは、メイの糸と、イーライの手袋だった。父の方が高いと母が言うと、次は母さんのを高くすると返した。
「値段の話じゃないでしょう」
イーライが言うと、二人から同時に見られた。
「知ってる」
同じ声だった。彼は黙って手袋をはめた。少し大きかった。娘は替えてくると言ったが、イーライはこのままでいいと答えた。
次の冬も、それを使った。指の腹が薄くなるとメイが当て布をし、娘が見ると父は手を隠した。隠すから見つかった。
「もう新しいの買ってよ」
「まだ使える」
「母さんと同じこと言う」
そう言われて、イーライはメイを見た。彼女は針を持ったまま、当然のような顔をしていた。
再会から二十年ほどが過ぎた。柱に新しい印をつけることは、もうなくなっていた。メアリーは二十一になり、家へ入る時には母の肩に手を置いて、ただいまと言った。二人が並ぶと、初めて見る者には親子と分からなかった。娘はもう、毎回腹を立てたりしなかった。
イーライは重い石を一日中運ぶ仕事から離れ、選り分けや、運ばれてきた石を確かめる方へ回っていた。若い者に口を出しすぎた日には、帰ってから反省した。メイに話すと、明日謝ればと言われた。
「明日には、向こうが忘れてるかもしれない」
「あなたは覚えてるんでしょう」
それで翌朝、謝った。相手は覚えていた。
ノアは仕事の帰りに寄ると、以前より先に座るようになった。イーライも座っていた。メアリーは二人の間へ茶を置き、まだ父さんたちが若かった頃は、とわざと口にした。
「今も若い」
ノアが答える。
「じゃあ、そこの箱を上げて」
娘が床を指した。二人とも見なかった。メイが一人で持ち上げようとしたので、結局二人で運んだ。持ち方で揉め、娘に笑われた。
夕食が済み、ノアが帰り、娘も部屋へ入ると、家は静かになった。メイが古い本を出していた。背の糸を替えるらしい。『覚えておくもの』。何冊かになったうちの、最初の一冊だった。
「読んでたのか」
「少し。メアリーが三歩歩いたところ」
「俺が来る前だな」
メイが頷いた。イーライは隣へ座った。頁の端に折れ目があり、何度も開いたところだけ色が違う。
「その頃の俺は、名前しかいなかったんだよな」
メイは頁をめくりかけた手を止めた。
「今も、山にいたあなたは思い出せない」
「ああ」
「でも、あなたが鍋を焦がした日は覚えてる。初めてメアリーを寝かせてくれた夜も。海のパンも」
「失敗が多いな」
「覚えやすいから」
笑った後、メイは本を閉じた。
「あなたが好きだよ」
急だった。イーライは彼女を見た。若いままの顔には、二十年かけて知った表情があった。眠い時の眉。困ると少しだけ曲がる口。冗談を言う直前の目。
「知ってる」
答えると、メイは不満そうな顔をした。
「そこは、俺もだろう」
「俺も」
「言わせた」
「言う前に言うからだ」
彼女は肩へ頭を預けた。イーライは髪に触れた。窓の外で誰かの帰る足音がし、やがて遠ざかった。翌朝も同じように起きて、仕事へ行くつもりだった。
事故は、雨の上がった午後に起きた。イーライが帰ると、メイは娘の仕事用の上着を直していた。袖の内側が擦り切れている。娘は代わりの上着で出かけ、夕方には取りに帰ると言っていた。
「明るいうちに帰るって」
メイが言った。
「また頼まれ物か」
「店から布を預かってくるの。仕事をもらえるから、文句言わない」
イーライは頷き、薪を炉のそばへ置いた。メイがボタンを一つ外した。糸が弱っているから、つけ直すと言う。彼は椅子へ座り、手袋を脱いだ。
戸を叩く音がした。急いだ叩き方だった。立つ前に、もう一度鳴った。
開けるとノアがいた。息を切らしていた。帽子がない。
「来てくれ。メアリーが怪我をした」
名前を聞き間違えた気がして、イーライは聞き返した。ノアは言い直さず、腕を掴んだ。
「通りで。荷車の荷が崩れた。近くの店へ運んだ。医者を呼んでる」
後ろで椅子が倒れた。メイが立っていた。針のついた上着が床へ落ちたが、拾わなかった。
「生きてる?」
メイが聞いた。ノアが頷いた。
「生きてる。急げ」
イーライは外へ出た。メイが杖を取り、追ってきた。三人で走った。坂を曲がる時、イーライの脚がもつれた。手をつき、すぐ起きた。ノアが一瞬待ったが、行けと叫んだ。
通りに人が集まっていた。車輪の傾いた荷車。その横に長い材木が散っている。割れた木箱があり、道路の端へ布の包みが落ちていた。娘が持ち帰るはずだったものかどうか、確かめる余裕はなかった。
ノアが人を分け、店の戸を開けた。メイが先に入り、イーライが続く。奥では、並べた長椅子の上へ娘が寝かされ、誰かの上着が掛けてあった。顔の片側に血がついていた。髪が濡れている。目は閉じていた。
「メアリー」
呼んだ。返事はなかった。イーライは膝をつき、娘の手を取った。ひどく冷たかった。小さい頃は、眠る前の手がいつも温かかった。
「ここだ。父さんが来た」
手を握り返してほしかった。僅かでもいい。だが指は動かなかった。胸が浅く上がり、間が空いて、また動いた。
店の男が何か説明した。車輪が溝にはまり、荷が傾いたこと。道の端にいた娘が巻き込まれ、石段へ打ちつけられたこと。イーライは聞こえていたが、言葉を繋げられなかった。
医者が来た。二人は少し場所を空けた。呼吸を確かめ、服を緩め、傷を調べる手を、イーライは見ていた。娘の頭を支えた布に、また血が滲んだ。
ノアが水と布を運んだ。店の男に何か頼み、外の人を遠ざけた。イーライには、その仕事ができなかった。娘の足から靴が片方なくなっていることだけが、妙に気になった。
医者が顔を上げた。頭も、身体の中も強く打っていると言った。まだ分からないと言った。声を掛け続けて、と言った。その顔を見て、イーライは先を聞けなくなった。
メイが娘のそばへ戻った。右手を頬へ添える。その手の親指の付け根にある黒い点を、イーライは見た。彼女の唇が、娘の名を呼んだ。
「メアリー。母さんだよ」
娘の胸が動いた。次の息が来るまで、長かった。
メイはイーライを見た。説明はいらなかった。触れて、口づけて、渡したいと願う。それで娘へ命を渡せる。
同時に、別の家の玄関が浮かんだ。十八か月ぶりに呼んだ名前。半歩下がった足。自分を見る、知らない者の目。
娘を助けてほしかった。それ以外、望んではいけない気がした。それでも昨夜の声が聞こえた。あなたが好きだよ。本を閉じる音。肩に預けられた頭の重さ。
イーライはメイの右手へ触れかけた。止めることはできなかった。
「……また、忘れるかもしれない」
メイが言った。声は震えていた。覚悟を決めれば怖くなくなるわけではなかった。
「ああ」
「どこまでか、分からない」
イーライは頷いた。娘が小さく息を吸った。メイの指が頬の血を拭った。
「でも、今は覚えてる。あなたも、この子も」
彼女はそれ以上言わず、娘へ顔を戻した。
イーライは立ち上がった。膝がうまく伸びなかった。ノアが腕を支えた。友人の手も震えていた。ずっと動いていたから、気づかなかった。
「イーライ」
呼ばれたが、返事ができなかった。ノアの肩越しに、壁へ立てかけられた杖が見えた。五つの石が嵌まっている。その下にも、上にも、娘が育つ間ずっと家にあった木の傷がある。メアリーが小さい頃につけたものも、引っ越しの時についたものもあった。
イーライは手を伸ばした。杖を取る。思ったより軽かった。こんなものに、メイは何を預けてきたのだろう。自分の知らない山。兄の顔。帰りたかった家。そして、自分を愛した日々。
奥で娘の名を呼ぶ声がした。医者が誰かへ指示を出し、ノアが応じた。メイは娘の右頬へ手を添えたまま、身を屈めていた。
また彼女だけが渡すのか。
イーライは杖を握り直した。石のことなら幾らか分かる。だが、この石に何ができるかは知らない。知らないまま、それでも両手で握った。
「俺にも」
声は誰にも届かないほど小さかった。
「俺にも、渡せるものがあるだろう」
窓の高いところに、雨雲の切れ間が見えた。




