テンガイ 急
杖は何も答えなかった。
イーライの指が、黒ずんだ木へ食い込んでいる。握れば握るほど、石と木の硬さが分かった。窓の向こうには薄い青空が覗いていた。雨はもう降っていない。通りで誰かが荷車を動かし、車輪が石を擦る音がした。
娘をこんな目に遭わせたものが、まだ動いている。そのことに腹が立った。今すぐ外へ出て、あの車輪を壊してしまいたかった。けれど、壊しても娘の指は動かない。
奥で、メイが身を屈めた。
「メアリー」
呼んでから、頬へ口づける。右手は娘の顔に添えられたまま。その肩が一度、大きく震えた。
イーライは目を逸らせなかった。
娘の胸が上がる。前より深い。医者が顔を寄せ、脈へ指を置き直す。誰も喜ばなかった。次が来るのを待っていた。
メイの唇が離れた。娘を見て、それから自分の右手を見た。何かを確かめるように左の指で掌を擦る。
「メイ」
イーライが呼ぶと、すぐに顔を上げた。
それだけで安堵した。安堵した自分が嫌だった。娘がまだ横たわっているのに、妻が自分を分かるかどうかを、先に確かめてしまった。
「いるよ」
メイが言った。
何を聞きたかったのか、分かっていた。
イーライは頷いた。何か手伝おうと、杖を片手へ持ち替えた。医者から布を押さえるよう言われ、娘の頭の脇へ指を置く。血で濡れた布は温かかった。手を動かせば、まだできることがあった。
ノアが新しい水を運んでくる。器の縁へ水がぶつかり、少しこぼれた。友人は拭かずに置いた。
「ほかに要るものは」
医者が答える。ノアはまた立った。イーライは娘の手へ触れた。爪の脇に、細い糸がついていた。仕事の布から移ったのだろう。取ろうとして、取れなかった。指先がうまく動かない。
メイがもう一度、娘へ顔を寄せた。
「まだ足りないのか」
聞くと、頷いた。
「分からない。でも、まだ細い」
イーライには見えないものを見ていた。その目が濡れている。娘の血ではなかった。
「何を忘れた」
聞いてから、答えられない問いだと気づいた。
メイは一度目を閉じた。
「今朝、何を食べたっけ」
「パンと、昨日の煮込み」
「そう」
笑おうとした。できなかった。
「一緒に食べた?」
「ああ」
「それが、ない」
昨夜は隣にいた。今朝もいた。パンの端を娘へ渡し、自分は焦げたところを取った。いつもと同じことだった。あの食卓を、メイはもう持っていない。
娘の呼吸が途切れた。
医者が名を呼ぶ。メイの手が娘の背へ移った。イーライは布を押さえたまま、杖の持ち手を胸へ引き寄せた。
祈り方を思い出そうとした。子どもの頃、母に教えられたはずだった。食事の前。眠る前。口にしていた言葉。そのどれも、今の娘へ届く気がしなかった。
「助けてくれ」
誰に言うのか分からないまま、言った。
「娘を。メイも」
欲張っていると思った。それでも片方を消せなかった。
メイは娘へ口づけた。イーライはその横顔を見た。
「今までのことを、なくさないでくれ」
自分の知っている二十年だけではなかった。彼女が一人で生きた日々も、兄と働いた日も、妹と笑った日も。知らないから、返してほしいと願ってはいけないわけではない。
布を押さえる手の感触が遠くなった。
イーライは反射的に娘を見た。娘はそこにいた。メイも、医者も、ノアもいる。ただ、器へ注がれる水の音が聞こえない。窓に揺れていた光が、そのまま止まっている。
顔を上げると、店の奥の壁がなかった。
*
空が広がっていた。
足元には、店の板床が続いている。その先へ、雲の影が落ちていた。イーライは立ち上がろうとして、膝が曲がったままなのを知った。娘の脇に跪いていた姿勢だった。
杖をついて立つ。布を押さえていた方の指には、赤いものがついている。
少し離れて、女が座っていた。
白に近い薄い布を肩へ掛け、膝の上へ手を置いている。髪の色は、明るいところと暗いところで違って見えた。年齢を考えようとして、やめた。母より年上にも、メイと変わらないようにも見えた。
女はイーライの手を見た。
「娘の命と、妻の記憶」
聞いたことのない声だった。だが、誰のことかは分かった。
「ああ」
「私はウラ」
女はそう名乗り、彼の後ろを見た。振り返ると、メイが娘のそばにいる。口づける寸前の姿で止まっていた。右手の黒い点が見えた。
「娘へ渡しているものは、届いている。でも、今ある傷を越えるには、まだ足りない」
イーライは杖を握り直した。
「お前には、できるのか」
「あの子を、ここから生きる方へ戻せる」
「何を渡せばいい」
ウラが彼を見た。
「あなたが、死ねること」
分からなかった。
「娘は助かる。その代わり、あなたは死ねなくなる」
手の中で杖が滑った。握り直すまでに、少し時間がかかった。
長く生きると言われると思っていた。十年か、二十年か。あるいは、自分の残りを娘へ渡せと言われるのかもしれない。何かを差し出せる気で来た。その大きさを、自分で決めていた。
「老いもしない。あなたの身体は、衰えて終わる方へ進めなくなる」
「ずっとか」
「この呪いには、終わりがない」
ウラの声は変わらなかった。
イーライはメイを見た。昔から変わらない顔。自分の手に節が増え、こめかみに白いものが混じっても、彼女は同じ姿で隣にいた。
「メイは」
「妻の身体へ、この契約で何かを加える必要はない」
イーライは頷いた。妻まで自分の条件へ引き込む話ではなかった。
娘を見る。足が、上着の下から覗いている。片方だけ、靴がなかった。
二十一。まだ若い。いつか家を出るかもしれない。好きな男を連れてくるかもしれない。その男を気に入らず、メイに叱られる自分まで思い浮かんだ。
その先は、顔まで浮かばない。娘が老いる。手に節ができる。立ち上がる時に、誰かの肩を借りる。自分は、そのそばにいる。
「娘を、見送るのか」
「そうなることもある」
「ノアも」
ウラは頷いた。
食卓へ茶を置く友人の手を思った。昔痛めた脚。笑うと深くなる額の線。まだ、今なら追いつける気がしていた。二人で座っていれば、同じように疲れ、同じように年を取れた。
イーライは床を見た。足元の木に細かな傷があった。荷を引きずった跡だろう。何かを運んで生きている人の店だった。
「それでも、娘を返してほしい」
声にすると、胸が震えた。
「死ねなくなるのは、怖い。でも、今あの子が死ぬのを、見ていられない」
ウラは返事を受け取り、娘へ顔を向けた。
止まった店の中で、娘の胸だけが僅かに動いた。
イーライは身を乗り出した。次の息が来る。浅かったが、その次も続いた。何もかも元に戻ったわけではない。布には血がつき、顔は白い。それでも、呼吸が途切れずにいる。
膝から力が抜けた。杖をつき、立ったまま娘の顔を見ていた。
「妻の記憶は」
しばらくして、尋ねた。
ウラが彼を見る。
「それは、別に受け取るものがある」
「何を」
「あなたが、ここまで生きてきた記憶」
杖の持ち手へ、指が食い込んだ。
「妻が土へ渡した記憶を返す。あなたは、幼い頃まで戻る」
「メイと会う前?」
「もっと前」
娘の顔を見た。自分へ父さんと呼ぶ口。幼い頃、ただの棒で地面を叩いて、父さんもやって、と渡してきた小さな手。
「この子も、忘れる」
問いではなかった。ウラが頷いた。
メイの記憶を返すために、自分の記憶を手放す。山の小屋も、娘が歩いた家も。ノアと釣れなかった魚を買った日も。
「その後は、覚えられるのか」
「新しく生きる日々は、あなたのものになる」
安心できるほど小さなことではなかった。イーライは頷けずにいた。
「髪には、色が残らない」
ウラが彼の頭を見る。
「あなたが手放す時間とともに、白くなる」
髪を触ろうとして、やめた。娘が助かることは、もう受け入れた。記憶を渡さずに戻ることもできるのだろう。
メイを見た。娘のために右手を添える妻の顔。彼女はトーマスの顔を思い出せない。母の歌も、妹と笑った日も、自分が最初に彼女へ声を掛けた山道も。
「メイを、呼んでくれ」
イーライは言った。
「あいつのためだって、俺だけで決めたくない」
ウラがメイへ顔を向けた。金色の髪が揺れた。
*
メイは最初に娘を見た。
胸が動いている。待っても、次が来る。右手をそっと離した。娘の顔へ身を寄せ、呼吸を確かめる。
「メアリー」
呼んでから、イーライへ顔を向けた。
「何をしたの」
イーライは話した。ウラの名。娘の救命。自分が死ねなくなること。
メイは彼の手を取った。
「どうして、あなたが」
声が硬かった。
「そんなことを、あなたが」
言い終えられないまま、娘を見た。呼吸が続いている。彼を責めたいのではない。それでも、すぐにありがとうとは言えないのだと、イーライにも分かった。
「怖いよ」
彼が言った。
「受け入れたけど、まだ怖い」
メイは手を強く握った。
「怖がっていい」
それだけ言い、しばらく彼のそばに立っていた。
イーライはウラを見た。メイも、その視線を追う。
「まだ、何かあるの?」
ウラが記憶の交換を話した。メイは黙って聞き、途中でイーライの手を離した。
「トーマスも?」
「あなたが失った、兄との記憶も」
メイの口が開き、それから閉じた。
「お父さんも、お母さんも。ルーシーも」
ウラが頷く。
メイはイーライへ向き直った。
「あなたは、忘れるんだね」
「ああ」
「娘は、もう助かったのに」
彼は頷いた。メアリーのためには要らない。これは、自分が望んだ別のことだった。
「ここで戻れば、あなたは覚えてるでしょう。私も、今のあなたは覚えてる。二十年、一緒にいたことも」
「知ってる」
「だったら」
メイは娘を見た。
「三人で、帰れるよ」
イーライは彼女の横顔を見た。帰りたい。娘を連れて帰り、いつもの家の戸を開けたい。メイもそれを望んでいる。
「兄さんの顔は」
尋ねると、彼女の指が動いた。
「まだ、ない」
「戻ってほしいか」
メイは返せなかった。長く娘を見ていたが、やがて頷いた。
「会いたい」
小さな声だった。
「思い出したい。母さんの声も、ルーシーも。何でもない日も、あったはずだから」
目を伏せる。
「でも、そのために、あなたを」
イーライは手を差し出した。彼女は見ていたが、すぐには取らなかった。
「俺も、忘れたくない」
彼は言った。
「メアリーが俺を呼んだ時も、お前が一緒に住みたいと言った時も。なくしたくない」
自分の掌を見る。ここまで働き、娘を抱き、妻の手を握ってきた手だった。
「だけど、俺が覚えているものを全部、俺だけが持っている方がいいとは、思えない」
「忘れるの、どんなふうか知ってる?」
「聞いた」
「聞くのと、なるのは違う」
メイの声には怒りもあった。大丈夫なふりで、自分が失ったところへ来ようとしているのが、嫌なのだろう。
イーライは頷いた。
「分からない」
「私を見ても、何もないんだよ。娘を見ても」
声が途切れた。
「その時、教えてくれ」
メイが顔を上げる。
「お前のことも、メアリーのことも。俺が何をしてたかも」
「話せば、思い出すわけじゃない」
「うん」
イーライは妻を見た。
「今より、何も分からなくなるんだろ。だから、教えてほしい」
メイは長く黙った。
イーライは答えを待った。彼女に、自分を元へ戻す役目まで負わせるつもりはない。だが、そばにいてほしかった。忘れた後の自分が、誰も知らないところへ一人で放り出されるのは怖かった。
「昔と同じにしようとは、しないよ」
メイが言った。
「うん」
「あなたが嫌だと言ったら、聞く」
その声で、少し息ができた。
彼女が差し出された手を取る。温かかった。
「私は、たぶん寂しくなる」
「ああ」
「その時、寂しいって言ってもいい?」
イーライは頷いた。
メイは娘のそばへ戻り、胸の上下をもう一度確かめた。それから、彼を見た。
「ありがとうって、今は言えない」
「言わなくていい」
彼女が頷く。目の中に、涙が溜まっていた。
ウラが近づいてきた。
「今、妻が娘へ渡した記憶も返す。これから先、また土へ渡すものまで戻せるわけではない」
メイは右手を見る。それから彼の手を握り直した。
イーライは杖へ目を落とした。五つの石。空いた窪みは二つある。
「手放す」
言った。
ウラが杖へ触れた。イーライの掌に、木の冷たさが伝わった。
イーライは妻の顔を見ていた。
その顔を覚えていられる、最後かもしれなかった。
*
水の音が戻った。
器へ注がれた水が溢れ、床へ落ちる。ノアが器を置いた。医者が娘の脈を取り、何かを言った。
メイがその場へ膝をついた。イーライは腕を支えた。
彼女の唇が娘の頬から離れる。右手も離れた。口を押さえ、目を閉じる。その指の間へ、涙が落ちた。
「母さん」
娘が言ったのかと思った。メイの声だった。
何が戻っているのか、イーライには見えない。台所の炉か。知らない歌か。彼は聞かなかった。
「ルーシー」
名前が続いた。メイは笑いかけ、すぐ顔を歪めた。
「金の石、って」
その先が言えない。
イーライは床へ座り、彼女の背へ手を添えた。医者が娘の胸を見る。ノアが新しい布を渡した。
「トーマス」
メイが呼んだ。
今まで名前を言えなかったわけではない。だが、誰かが向こうから来たような声だった。
「顔が」
声が切れる。
「ちゃんと、ある」
イーライは背を撫でた。メイはその手を見もせずに掴んだ。強かった。
「帰ってくると思ってた」
兄のことだと分かった。
「船が燃えてても。どこかへ流されて、歩いて帰ってくるかもって」
息を吸おうとして、また吐く。
「そんなことまで、忘れてた」
彼女は泣いた。兄の顔と一緒に、帰らなかった夜も戻ってきている。
イーライは何か言おうとした。うまく見つからず、背へ置いた手をそのままにした。
娘の胸が上がる。下がり、また上がった。
医者の声が、少し変わった。脈を取り直し、布を替えるよう言った。ノアが動く。その背中を、イーライは見た。
友人が振り向いた。
「イーライ」
呼ばれた瞬間、胸の中がずれた。
その男が誰かは分かる。ノア。郵便局の。長く知っている。だが、昨日何を話したのか思い出そうとして、浮かばなかった。
娘が事故に遭う前、いつ最後に家へ来た。何を食べた。笑ったか。思い出す場所が、急に遠くなっている。
イーライはメイを見た。
メイも彼を見ていた。左の青。右の深緑。その目を知っている。
「海」
妻が言った。
「先に見てこいって」
「言った」
返事ができた。山の別れは、まだある。
「一緒に見るはずだったのに」
彼女の左手が頬へ触れる。
イーライはその手へ自分の手を重ねた。妻が何かを待っている。その後の海。砂のついたパン。腕に娘を抱いていたはずだ。
娘。
名前はメアリー。
そこで、名前と顔の間が切れた。
彼は寝かされた娘を見た。若い女だった。血のついた布が額に巻かれ、上着を掛けられている。
自分の娘だと分かっていた。ほんの今まで、分かっていた。
「メイ」
妻の名を呼ぶ。彼女が顔を上げる。
「始まった」
声がうまく出なかった。
メイが彼の手を握った。
「いるよ」
イーライは頷いた。妻の顔を見ていれば、まだ離れずにいられる気がした。
金色の髪。青い目。山の小屋。薪を入れると文句を言った。大きな火。毛布の下で触れた手。雪道を歩いた背中。
その背中を追おうとして、足元が変わった。
土。枯れ草。山道でしゃがむ少女がいる。まだ赤みのある茶色の髪だった。
何をしていると聞いた。見てる、と答えた。何を。下。
知らないものを見ている少女を、面白いと思った。
イーライは息を吸った。
「君は」
唇が動いた。
メイの手が、一度だけ強くなる。
その力に驚いて、彼は顔を上げた。
金色の髪をした女が、自分の手を握っていた。
もう、その名が浮かばなかった。
握っていた杖の中で、こつ、と音がした。
空いていた六つ目の窪みへ、小さな塊が沈んでいく。滑らかな石だった。色は、白くなる前のイーライの髪と同じだった。失われていく山も、家も、呼ばれた名前も、そこへ収まるように遠ざかった。
石の縁が木の窪みと重なり、ぴたりと嵌まった。
女はそれを見た。次に彼の髪を見て、口元を押さえた。白くなった髪の一房が、イーライの頬へ落ちた。
涙が頬に落ちている。どうして泣いているのか、分からなかった。
「痛い?」
尋ねた。
女は首を振る。口を開いたが、声が出ない。
その向こうで、灰色の石が割れる音を聞いた。
父がいる。どこを掘る、と聞く。上の岩が違う、と答える。父が笑う。そこから掘るなら、なぜそう思ったか覚えておけ。
次に、馬車が揺れた。
母が荷物を押さえている。姉が文句を言う。石ばかり増やすな、と。
家へ帰りたかった。進んでいるのか分からなくなって、父に聞いた。草を見ろ。土を見ろ。川を見ろ。同じか。
違っていた。
後ろを見れば、轍が続いていた。
その道も、ゆっくり遠ざかった。
窓際に石が三つある。母が片づけろと言う。姉が笑う。
父が掌へ灰色の石を載せる。
重い。
どうしてだと思う。
イーライは、その重さを両手で受けようとした。
*
目の前の女が、彼を支えていた。
床へ手をつく。手が大きかった。指に節があり、爪の脇に黒いものが残っている。自分の手だと分かるのに、こんな形だったかと思った。
知らない男がそばへ来た。女の代わりに腕を支え、椅子へ座らせてくれる。帽子をかぶっていない。息を切らしていた。
「水、飲めるか」
聞かれて、頷いた。器を受け取る。水が少しこぼれた。男は拭かず、彼が飲むのを待っていた。
何をしていたのか、分からない。
イーライは辺りを見た。店らしい。見知らぬものが並んでいる。奥には若い女が寝ていた。額に布が巻かれ、そのそばに医者らしい男がいる。
「父さん」
口から出た。
水をくれた男が動きを止めた。
「父さんは、どこ」
金色の髪の女が、顔を伏せた。その髪に、白いものが一本混じっているのかと思った。違った。自分の肩へ落ちていた髪だった。
指で取る。白い。
ほかにも何本か、袖についていた。頭へ触れる。髪はある。だが、腕を動かした拍子に落ちてきたものは、やはり白かった。
「俺、何歳?」
自分の声も、知らないほど低い。
女が顔を上げた。
「あなたは、イーライ・ハート」
「名前は、知ってる」
女は頷いた。急いで続きを言わなかった。
「四十を、いくつか過ぎてる」
イーライは手を見た。父より大きくなったのだろうか。父の手と比べてみたかった。だが、父はどこにもいない。
「あなたは、大きくなったんだよ」
女が言った。
「思い出せないだけ」
イーライは女を見る。青と深緑の目がある。金色の髪。泣いた跡の残る顔。
「あなたは誰」
聞くと、女の唇が震えた。
「メイ」
少しして、続けた。
「あなたと、一緒に暮らしてる」
返事を待つように黙った。イーライは答えを持っていなかった。メイ。口の中で名前を繰り返す。知らない。
男が彼の横へ座った。
「俺はノア。友人だ」
「俺の?」
「ああ」
近くに座るのを、嫌だとは思わなかった。水をくれた。声を荒らげなかった。それは分かる。
奥の若い女の胸が動いた。医者が布を替えている。
「あの人、怪我したのか」
メイが頷く。
「メアリー。私たちの娘」
娘という言葉が、遠かった。
自分が父親になった。そう言われても、どこを見れば分かるのか知らなかった。
ノアが懐から小さな袋を取り出した。どうやら、今の自分の上着から取ったらしい。彼の掌へ袋を載せる。
「これ、持ってたぞ」
口を開く。灰色の石があった。
イーライは両手で受けた。角張った形。黒く光るところ。重い。
「方鉛鉱」
言うと、メイが息を吸った。
「父さんがくれた」
「うん」
彼女は頷いた。何かを失わずに済んだような顔だった。
イーライは石を握った。両手で持つほどの大きさではない。自分の手が大きくなったのだ。
「帰りたい」
呟いた。
女はすぐ、帰れると言わなかった。何も言わず、膝の上へ手を置いている。
イーライはもう一度、石を見た。
これを持っている。父からもらったことを覚えている。家の窓も、母の声もある。それなのに、自分のいる場所だけが分からない。
*
その夜、イーライは娘のそばで眠った。
娘だと言われた若い女のそばで。寝床を貸すと言われたが、そこを離れるのが不安だった。メイとノアが、まだ近くにいたからだ。
何度か目が覚めた。医者が戻ってくる。水を飲ませる。灯りを替える。そのたび、メイが起きていた。
朝になり、メアリーが母を呼んだ。
小さな声だった。メイが顔を寄せ、返事をする。若い女は痛いと言った。どこがと聞かれると、全部、と答える。
イーライはその声を聞いていた。
少しして、彼女がこちらを見た。
「父さん」
返事をしようとして、止まった。自分に言っているのか分からなかった。
メアリーがもう一度呼ぶ。彼は椅子を近づけた。
「俺?」
その顔が変わった。額の布の下で、眉が寄る。母を見る。メイは娘の手を握り、何かを小さく話した。
イーライには聞こえなかった。娘がこちらを見ている。自分は何か間違えたのだろうか。
「悪い」
言うと、メアリーが首を振った。動かした途端に痛そうに顔をしかめる。
「動かない方がいい」
イーライは言った。
「知ってる」
娘が返した。
泣きそうな声だった。彼は黙り、椅子をそのままにした。離れてほしいとは言われなかった。
鏡を見たのは、顔を洗わせてもらった後だった。
白髪の男が映っている。頬に線があり、目の下にも皺がある。見ているうちに、その男がこちらの動きを真似することに慣れた。
自分だ。
メイが後ろへ立った。鏡の中で二人を見た。彼女は若い。何歳か、聞きたかったが、昨日自分の年を聞いた時の顔を思い出してやめた。
「髪、切ろうか」
彼女が言った。
「切っても、白いんだろ」
「うん」
イーライは髪へ触れた。昨日から白いのであれば、もう白い自分で暮らしていることになる。
「邪魔なところだけ」
メイが頷いた。鋏と布を持ってくる。椅子へ座り、肩へ布を掛けてもらった。
彼女の手は、迷わずに彼の髪を分けた。イーライは鏡を見ていた。知らない女が、自分の頭の形を知っている。
切った髪が布へ落ちた。白かった。
メアリーを家へ運べるようになるまで、何日もかかった。
その間に、イーライは医者の顔を覚え、店の男の名前を知った。メイは夜に何度も起きる。ノアは外へ出て戻ってくる。誰かが食べ物を差し入れる。
娘の眠っている間、彼も布を替えた。器を運び、湯を沸かした。できることと、知らないことが、身体の中で混じっている。
釘の緩んだ椅子を見て、直せると思った。道具を借りると手が動いた。いつ覚えたのかは、思い出せない。
「できるんだね」
メイが言った。
嬉しそうでも、寂しそうでもあった。
イーライは椅子の脚を押して確かめた。自分が何を持っているのかも、知らない。
帰る日、店の男が娘の靴を持ってきた。泥を落として乾かしてくれていた。
メアリーは靴を見て、目を閉じた。イーライは礼を言った。娘はまだ歩けない。それでも片方だけでは、いつか困る。
*
家の戸を開けると、見知らぬ部屋があった。
小さな二間。古い炉。窓のそばの机。布を畳んだ棚。イーライが立ち止まると、後ろのノアも止まった。
「ここが、お前の家」
言われて、靴を脱ぐ場所を探した。ノアが床を指す。置かれた古い靴は、自分のものらしい。
メアリーが中へ運ばれ、メイが寝床を整えた。イーライは戸口の柱を見る。細い印が幾つもある。
「何だ、これ」
「私の背」
娘が答えた。
「父さんがつけた」
イーライは一番低いところへ触れた。これほど小さな頃から、一緒にいたらしい。今の娘の顔へ結びつかなかった。
メアリーは彼を見ていたが、急に窓の方へ顔を向けた。
「ごめん」
イーライが言うと、娘が首を振った。
「そこにいて」
それ以上は言われなかった。彼は椅子を運び、寝床の脇へ置いた。
夜、メイが本を持ってきた。
背を糸で綴じ直した、古い本だった。『覚えておくもの』と書いてある。イーライはその文字を読めた。
「読める」
「うん」
「いつ、習ったんだろ」
メイは答えを知らなかった。知らないと言い、それから一枚ずつ頁をめくった。
父――パトリック。母――エレン。妹――ルーシー。兄――トーマス。
彼女の家族の名前だった。その後に、自分の名があった。イーライ・ハート。メアリーの父。山で一緒にいた。
彼は字を指でなぞる。
「前に、あなたを忘れた時、書いたの」
メイが言った。
「私が」
顔を上げた。女が自分を忘れた。今は自分が女を忘れている。二人の間で、同じ本が開かれていた。
「どうしたらいい」
聞くと、メイは本へ目を落とした。
「今夜は、何もしなくていい」
その声は、すぐ出てこなかった。
「眠れたら眠って。明日、何が食べたいか聞くから」
「俺は、ここにいていいのか」
メイがこちらを見た。
「いてほしい」
言ってから、小さく息を吐く。
「でも、嫌だったら言って」
イーライは部屋を見た。窓の外に、知らない町の灯りがある。自分の靴が床にあり、娘と呼ばれる人が隣で眠っている。
「今は、いたい」
メイは頷いた。本を閉じ、棚へ戻す。その後ろ姿を、イーライは見ていた。
父のことは、何度も聞いた。
メイは、もう亡くなっていると答えた。最初に聞いた日は、イーライは頷いた。二度目は信じられなかった。昨日、方鉛鉱を渡してくれた手を思い出せる。あんなに大きく、温かかった。
「俺、会ってる?」
「亡くなる前に、会ってるよ」
「何を話した」
メイは答えられることだけ話した。窓際の石を整理するのを急がなかったこと。娘が白い石を一つ選んだこと。イーライが父の道具を持って帰ったこと。
棚から、その道具を出してくれた。
使い込まれた柄へ触れる。覚えている父の手に似合う道具だった。イーライは膝へ置き、長い間動かなかった。
メイは隣に座った。父はもういないと、もう一度言う必要はなかった。
メアリーが寝床から起きられるようになった頃、三人で契約の話をした。
メイが話し、イーライは聞いた。自分が何を願い、何を受け入れたのか。彼にとっても、初めて知る話だった。
娘は匙を置いた。
「私には、聞いてくれなかった」
「聞けなかった」
メイが答えた。
「返事ができなかったから」
メアリーは母を見る。それから父を見た。
「父さん、それでよかったの」
イーライは手を膝へ置いた。今の自分に聞かれている。決めた時の自分はいない。
「分からない」
言うと、娘の顔が歪んだ。答えを間違えたのかと思い、続けようとした。メイが何も言わず、待っている。
「今朝、お前が起きてきたのは、嬉しかった」
イーライは言った。
「それは、分かる」
娘が下を向いた。
「死にたくなかった」
声が震える。
「でも、父さんがいなくなるなんて」
メイが娘の背へ触れた。
「私も、前の父さんに会いたい」
メアリーは母を見る。メイの目も濡れていた。二人はしばらく、何も言わなかった。
イーライは手を伸ばしかけた。自分はいる、と言えば済むことではない。娘が呼んでいる父は、自分の中に見つからなかった。
「いるよ」
それでも言った。
「前のことは、分からないけど」
メアリーは顔を上げなかった。彼はその手へ触れた。娘の指が強く握った。怖がっている人の手だった。
メイも、娘の背へ手を置いた。
食事は冷めた。三人とも食べ終わっていなかった。
*
メアリーが初めて一人で買い物へ出る日、メイは戸口に立っていた。
娘が靴紐を結び直し、母を見る。
「ついてきたい?」
メイが頷く。
「今日は、一人で行ってみたい」
母は唇を結び、それから頷いた。扉が閉まっても、窓へは行かなかった。食卓に戻り、針へ糸を通す。二度失敗した。
イーライが隣へ座る。
「待つの、難しいな」
「うん」
メイはもう一度、糸を寄せた。
彼は湯を沸かした。茶を飲む間、娘の分の器も出しておく。
メアリーは約束した頃に帰ってきた。買ったものを置き、母の顔を見る。
「少し、遠回りした」
「どこを?」
「別の通り。しばらく、あっちから行く」
メイが頷いた。娘も事故の場所を通るのが怖い。そのことに、今になって気づいたようだった。
「お帰り」
言うと、メアリーが母の肩へ手を置いた。
「ただいま」
それから、暮らしが少しずつ戻った。
メイが朝、湯を沸かす。イーライが起きる。娘が仕事へ行き、夕方に帰る。ノアが来る日は、パンを少し多く買った。
イーライは昔の仕事へ、すぐには戻れなかった。石の見方は分かる。だが、誰が自分に仕事をくれるのか知らない。ノアが連れていき、前に働いた場所へ話をしてくれた。
荷の札を読み、石を選り分ける。手が覚えている仕事はできた。知らない男が、前もそれを言ってた、と笑うことがある。イーライは笑い返した後、メイへ話した。
「俺は前に、何を言ったんだろ」
メイが答えを知っている時も、知らない時もあった。
石を割ると、見るべきところへ目が向いた。重さが違えば手が止まる。なぜそのやり方を知っているのか、思い出せない。
覚えている父は、方鉛鉱を渡してくれた父だった。その先にも、何度も一緒に石を見たのだろうか。教わった時間の代わりに、今も動く自分の手を見た。
ある夕方、娘が小さな白い石を持ってきた。
「おじいちゃんの」
イーライが受け取る。
「私がもらったんだけど。父さんに、見せようと思って」
石英だった。角が少し丸く、片側に細かな傷がある。父がどこで拾ったのかは分からない。
「返すよ」
言うと、メアリーが首を振った。
「しばらく、置いといて」
イーライは窓際へ置いた。灰色の方鉛鉱を、その隣へ並べる。
二つの石を見ていると、家の中へ父が来たような気がした。娘が祖父と会った日を、彼は知らない。それでも、娘が選んだ石がそこにある。
メイが、前と同じ寝床でなくてもいいと言ったのは、家へ帰った最初の夜だった。
イーライは別の部屋へ寝た。扉を少し開けておくと、隣の物音が聞こえた。メイが眠れず、何度も起きている夜もある。
ある時、水を飲みに出ると、彼女が食卓へ座っていた。『覚えておくもの』を開いている。
「何を読んでる」
「あなたが、メアリーを寝かせたところ」
イーライが椅子を引く。
「俺、うまかった?」
「最初は、泣かれた」
「そうか」
「ノアが教えてくれた」
イーライは頁を見た。知らない自分が、娘を抱いて歩いている。何周しても同じところへ戻る、小さな部屋。
「寂しいか」
聞くと、メイが手を止めた。
「寂しい」
正直な声だった。
「あなたが昨日のことを覚えてるのは分かる。でも、ここに書いてある人にも、会いたくなる」
イーライは頁へ指を置いた。今の自分が、そこの自分へ戻ることはできない。
「俺に、どうしてほしい」
メイが首を振る。
「今、何かしてほしいわけじゃない」
長く黙り、それから彼を見る。
「聞いてくれて、ありがとう」
二人で本を閉じた。イーライは湯を沸かした。茶を飲む間、メイはもう本を開かなかった。
ノアと初めて二人で海へ出た日、風は弱かった。
友人は釣り道具を持ってきた。イーライは教えてもらいながら糸を垂らす。魚は一匹も釣れなかった。
「場所が悪い」
ノアが言った。
「変えるか」
「変えても、同じかもしれない」
イーライは笑った。友人も笑い、それから海へ顔を向ける。
「前にも、こうやって来た」
「釣れた?」
「釣れなかった」
友人の声が少し沈んだ。イーライは道具を見る。
「残念だったな」
「ああ」
ノアはしばらく黙り、膝へ手を置いた。
「お前に話したこと、もう一度話していいか」
「いいよ」
「同じ話ばっかりになるかもしれない」
「俺には、初めてだ」
ノアが頷いた。その後、しばらく話し始めなかった。
イーライは待った。風で糸が動き、魚が来たのかと思ったが違った。友人へ見せると、俺も最初は間違えた、と言う。
それから、郵便局の話をした。宛先のない手紙。怒鳴る客。届いたかどうか分からないまま、気にしている封筒。
帰りに魚を二匹買った。ノアが選び、イーライが包みを持つ。
「釣ったと言ってみるか」
「すぐ、分かるぞ」
友人が答えた。
「メアリーは、何でも聞く」
イーライは頷いた。それはもう知っていた。
*
一年目の冬、隣の家の子が熱を出した。
メイは煮込みを届けた。母親は寝不足の顔で受け取り、器は後で返すと言った。春には子どもが外を走り、メアリーの帰りを追いかけた。
二年目、その子が窓へ石を見に来た。イーライは方鉛鉱を載せ、重いかと聞いた。子どもは頷き、何の石か尋ねた。
メイは二人へ茶を運んだ。子どもが彼女を見上げる。
「メアリーのお姉さん?」
「母さんだよ」
子どもは驚き、もう一度顔を見た。それから石へ戻った。その日には、それで済んだ。
メアリーは店で任される仕事が増えた。帳面を家へ持って帰る夜もあり、メイが覗くと、ここは私の方が分かる、と笑った。
指先の皮膚が固くなっていた。針を持つ手ではなく、何枚も布を広げ、包み、紐を引く手。イーライは食卓で、娘のその手を見た。
「何?」
「働いてる手だな」
メアリーは掌を返した。
「父さんも、そうでしょう」
イーライが自分の手を並べる。三年前とほとんど同じだった。娘は二つの手を見て、そっと引っ込めた。
「母さんの手は、もっと綺麗」
それだけ言った。
ノアの目が疲れやすくなった。
食卓で手紙を読んでいた時、灯りを少し寄せた。イーライが何気なく受け取ると、同じ字を読めた。
「お前、よく見えるな」
「灯りがあるから」
「俺も、あるんだが」
ノアが笑った。イーライも笑い、それから手紙を戻した。
友人は文字を少し遠くへ離した。前にはしなかった動きだった。
海へ行く日、ノアは昔痛めた脚を擦ることが増えた。歩く速さへ合わせればよかった。イーライは道具を持ち、友人が休めば一緒に座った。
友人は何も言わず、それを受け入れた。
メイへ仕事を持ってくる女の娘が、大きくなった。
初めは抱かれて来た。次には椅子に座り、自分の袖を破った理由を話した。やがて母の代わりに服を持ってきて、寸法まで伝えるようになった。
その娘が、ある日、縫い終わった服を受け取ってから足を止めた。
「母と同じくらいだって、聞いたんですけど」
メイは頷いた。
「少し下かな」
「そう、ですか」
娘は若い顔を見て、目を伏せた。代金を置き、いつもより早く帰った。
次に来た時は、戸口で待った。中の椅子へ座らず、服と金を取り替えて帰る。
仕事が下手になったわけではなかった。メイの針は同じ速さで動き、縫い目も揃っていた。
季節が八度、同じ寒さへ戻った。
隣の子どもは母より背が高くなり、メアリーの笑い方にも大人の女の落ち着きが混じった。ノアの髪には白いものが増え、椅子から立つ時に、一度腰へ手を置く。
イーライの髪は初めから全部白い。顔も、手も、それ以上は変わらなかった。仕事の疲れはあっても、年ごとにできないことが増えていく感じがない。
メイも同じだった。
彼女が娘と並んで市場へ行くと、初めて見た者は姉妹だと思った。長く知っている者は、二人の顔を交互に見た。
その視線を、メアリーが先に気づくこともあった。話しかけていた女が、母の顔を見た途端、娘へ返事をする。母はそばにいるのに、そこへ目を戻さない。
帰り道、メアリーが袋を持ち替えた。
「母さんにも、聞いてたのにね」
メイは頷いた。
「うん」
娘はもう、若く見える母を責めなかった。腕を組み、いつもより近くを歩いた。
ある朝、イーライが水を汲んでいると、向こうで男たちが話していた。
初めは聞くつもりがなかった。自分の名が出て、桶を置く。
「奥さんも、あの男も、ずっと同じだろ」
「髪は白い」
「そこから先が、変わらない」
イーライは桶の取っ手へ手を掛けた。
「ああいうの、気味が悪いよ」
水が、縁へぶつかった。
顔を上げると、男の一人と目が合った。知っている男だった。仕事で何度も荷を受け渡した。気まずそうに笑い、もう一人を連れて歩いていく。
イーライは呼び止めなかった。
家へ帰ると、メイが窓際で縫っていた。何かを言おうとし、やめた。彼女も、同じことを聞いた日があるのかもしれない。
桶を置き、隣へ座った。
「仕事は?」
メイが聞く。
「これから」
少しして、彼女が手を止めた。
「ここにいてもいいよ」
イーライは頷いた。何があったのか、まだ話せなかった。
初めは、誰も本人たちへ言わなかった。
会えば挨拶をする。頼んだ仕事には金を払う。ただ、前はついでに話していたことを、話さなくなった。家の中へ入らず、戸口で用を済ませる人が増える。
誰かの家の祝いへ、娘だけが呼ばれたこともあった。メアリーは行かなかった。その後、メイへそのことを話し、母が寂しそうな顔をすると、次は行く、と言い直した。
「あなたが行きたいなら、行って」
メイが答えた。
「私に合わせなくていい」
娘は頷いたが、その場を離れなかった。
魔女という言葉を、イーライも聞くようになった。
自分に向けられたことはなかった。あの女は、と言う声の後に続いた。死なない夫を連れている。娘だけが普通に年を取る。髪が白くなった日に、何かがあったのだ。
事故のことを、詳しく知っている者ばかりではない。知らないから、日々見ている二人の姿へ、言葉を当てている。
メイは働き、イーライも働いた。家へ帰れば食事を作り、針を持ち、娘の話を聞く。その暮らしのどこを見て、魔女と呼ぶのだろうと思った。
答えは分からなかった。
自分にも、なぜ死ねないかを、自分の記憶で説明することはできない。
*
ノアは、今までと同じように家へ来た。
食卓へ座り、仕事の話をする。娘の店の話も聞く。前より眼鏡を使うようになり、食事の後には背もたれへ身体を預けた。
ある晩、イーライが噂を話すと、友人は長く黙った。
「俺が、知ってる奴へ言ってみる」
「何を?」
「昔から、お前たちがここで暮らしてること。何も、悪いことをしてないって」
イーライは頷いた。それは本当だった。
それでも、メイがゆっくり首を振った。
「そう言ってくれる人も、いるよ」
ノアが彼女を見る。
「でも、年を取らないのは、変えられない」
その場の誰も、否定できなかった。
友人は眼鏡を外し、食卓へ置いた。
「俺は、寂しくなる」
何のことか、イーライにはすぐに分からなかった。メイは下を向いた。
「まだ、決めてない」
「ああ」
ノアが頷いた。
「でも、そういう話をするんだろうなとは、思ってた」
娘も母の顔を見た。メイは目を逸らさず、少しして頷いた。
町を出る話を、二人でした。
ノアが帰り、娘も部屋へ入った後だった。イーライは窓の留め金を直していた。何年も同じ場所へあり、緩めば締め、傷めば替えて使ってきた。
メイがそばへ来る。
「ここを、離れようか」
彼は道具を置いた。
「メアリーも?」
彼女は首を振った。
「私たちが」
イーライは部屋を見る。柱の印。窓際の二つの石。今の自分が目を覚ましてから知っている暮らしのほとんどが、ここにあった。
「俺が、ここで会った人も」
「ここにいる」
メイが答えた。
「私も、置いていきたくない」
食卓へ手をつく。
「でも、これから十年経っても、たぶん、私たちは同じなんだよね」
イーライは自分の手を見た。
「うん」
「ここで知ってる人が、もっと変わっていく。子どもが大人になって、娘が私より年上に見えるようになって。それを、みんなも毎日見る」
メイは窓へ顔を向けた。
「前は、普通に話せたのに。今は、私の顔を見てから、言うことを選ぶ」
イーライは水を汲んだ朝を思った。
「悪い人だとは思わない」
彼女が続けた。
「ずっと変わらないものが、そばにいたら、怖くなるのかもしれない。でも、私も、その顔を毎日見るのは寂しい」
彼は椅子を寄せた。
誰かに追い出せと言われたわけではない。それでも、少しずつ自分たちの入れる場所が狭くなっていた。
「どこへ行く」
メイが顔を上げた。
「まだ、決めてない」
「なら、考えよう」
隣へ座ると、彼女が肩を緩めた。
イーライは方鉛鉱を手に取った。灰色。重い。父の手を思い出せる。持っていけるものを、もう一度選ぶのだと思った。
メアリーは、黙って聞いた。
母の話が終わると、食卓の端を指で擦る。イーライもメイも、返事を待った。
「私が、一緒に歩くから?」
娘が聞いた。
「私が大きくならなかったら、そんなに分からなかったでしょう」
メイは娘を見る。
「あなたが大きくなるのを、嫌だと思ったことはないよ」
「うん」
「これからも、そう」
メアリーは頷いたが、すぐには顔を上げなかった。
「私も、行く」
言うと、母は少し待ってから聞いた。
「この町で、したいことは?」
娘が黙った。仕事がある。知り合いがいる。店では少しずつ、任されることが増えている。
メイはそれを、急いで数えなかった。
「私たちと来たいなら、一緒に考える。でも、ここにいたいのに、ついてきてほしくはない」
「二人で、平気なの」
「平気なことばかりじゃないと思う」
メイが答えた。
「でも、二人で行きたい」
娘の目が父へ移る。
イーライは頷いた。
「俺も、行く」
「母さんと?」
「メイと」
娘が目を伏せた。自分の父であり、母の夫である男が、今、母を選んでいる。その返事を聞いてから、肩の力が少し抜けた。
それでも、すぐには笑えなかった。
「考える」
「うん」
メイが答えた。
*
出発まで、ひと月ほどあった。
家のことを決め、仕事を引き継ぎ、旅費を数えた。メイは最後に預かった服を直し終えた。娘の裾を頼んだ女が受け取りに来て、代金を置いた。
出ていくと知ると、女は服を胸へ抱いた。
「困る人もいるのに」
メイは頷いた。
「私も、ここで助けてもらった」
女は何か言いかけたが、言わなかった。少しして、道中気をつけてと告げた。
メイは礼を言った。扉が閉まってから、机の上に何もなくなったことを確かめる。最後に糸屑を集め、掌へ載せた。
ノアは荷造りを手伝った。
持っていくものが多すぎると言い、メイに減らさせた。イーライの方は少なすぎると言って、食料を足した。
「どっちでも、文句を言うんだな」
「困らない方へ、言ってる」
友人は袋の口を結んだ。
その晩、四人で食事をした。メアリーが、パンを厚く切った。ノアが自分の皿を見て、今日は多いなと言う。
「来るって、分かってたから」
娘が答えた。
皆で食べた。昔の話ばかりにはしなかった。娘の店の客のこと。旅先で食べられそうなもの。ノアの給金が、相変わらず増えないこと。
イーライは笑った。笑ってから、これを覚えていられると思った。今夜の声。娘の切ったパン。メイが隣に座っている。
食事の後、ノアが外へ出た。彼もついていく。
「お前、前に俺へ、これからも来てくれって言ったんだ」
友人が言った。
「メイが困るから、って」
「そうか」
「後から、俺も困るって言った」
イーライは友人を見る。その時の自分は知らない。だが、その言い方は自分らしい気がした。
「今も、困る」
彼は言った。
「お前と、話せなくなるのは」
ノアは通りへ顔を向けた。
「手紙、出せよ」
「ああ」
「宛先を、ちゃんと書け」
イーライが笑うと、友人も笑った。
「俺も、寂しい」
ノアはそれだけ言い、家の中へ戻った。
メアリーは町に残ると決めた。
仕事を続けたいと言った。それから、膝の上で指を組んだ。
「でも、家へ帰って、誰もいないのは寂しいと思う」
ノアが食卓の向こうから顔を上げた。
「俺も来るよ」
「食べるために?」
「それも」
娘が少し笑った。母へ向き直り、だからって追い出すわけじゃないからね、と続けた。
「分かってる」
「分かってない顔」
メイが少し笑う。娘は母を見て、ようやく笑った。
家はしばらく娘が使うことになった。家具をすべて動かす必要はなかった。柱も、窓も、棚も残せる。
メアリーは鍵を二つ並べ、一つを母へ渡した。
「帰ってくる時、いちいち叩かなくていいから」
メイは受け取った。小さな鍵を、掌の中へ包む。
「うん」
杖をどうするか、メイは長く迷った。
六つの石。最後の一つは空いている。旅へ持って出た時には、白い石しかなかった。
娘が近づくと、彼女は杖を差し出した。
「預かってくれる?」
メアリーが両手で受け取る。
「要らないの?」
「要らないわけじゃない」
メイは持ち手へ指を残していた。
「でも、あなたのそばに置いておきたい」
娘が頷いた。母は手を離す。
イーライは六つ目の石を見た。今の自分の髪にはない色だった。
「あなたの髪、この色だったんだよ」
メイが言った。
イーライは石へ指を寄せた。触れると冷たい。これが嵌まるところを、彼女は見ている。その時の自分は、もうその記憶を持っていない。
メアリーが杖を椅子のそばへ置いた。
「なくさない」
母に言うと、メイが頷いた。
*
出発の朝、イーライは二つの石を袋へ入れようとした。
灰色の方鉛鉱と、娘が祖父からもらった白い石。途中で白い方を戻す。
「持っていっていいよ」
メアリーが言った。
「これは、お前が選んだんだろ」
「うん」
「なら、帰ってきた時に見せてくれ」
娘は白い石を受け取った。窓際へ戻す。その後ろで、メイが荷を肩へ掛けた。
外にはノアが待っていた。港まで送ると言う。メアリーは家の前で見送ると決めていた。そこから戻る方が、つらいと言った。
イーライは戸口の柱へ触れた。
何度も見た印がある。今の自分がつけたものではない。それでも、娘がここで大きくなったことを、もう知っている。
メアリーが彼の前へ立った。
「父さん」
彼は顔を上げた。
呼ばれることに、まだ少し驚く。だが、誰を呼んでいるのかは分かる。
「行ってくる」
言うと、娘が頷いた。
「ちゃんと、食べてね」
「お前も」
メアリーが彼の上着の襟を直した。必要なほど曲がってはいなかった。イーライはその手が下りるのを待った。
娘が腕を伸ばす。彼も伸ばした。
抱き合うと、娘の頬が肩へ触れた。少し湿っていた。彼は背を撫で、離れる時に顔を見た。
「手紙を書く」
「母さんの分も」
「俺も、自分で書く」
メアリーは頷き、片手で頬を拭いた。
母と娘は、長く抱き合った。
イーライは少し離れて待った。ノアも声を掛けない。
メイが何か言い、メアリーが頷く。娘は母の金色の髪へ触れた。以前は、自分より若く見えるのが嫌だったと聞いた。今、その指は髪を整え、肩へ戻った。
「行ってらっしゃい」
メアリーが言った。
「行ってきます」
メイが答える。
戸口の向こうに、六つの石のある杖が見えた。そのそばへ娘が立つ。
イーライは振り返り、家の形を見た。窓と戸。小さな階段。自分の帰る場所を、覚えておきたかった。
通りでは、何人かが二人を見た。
メイが挨拶をした。返した者も、返さなかった者もいる。白い髪へ目を向け、話をやめる男がいた。イーライは歩いた。止まって説明することは、もうしなかった。
曲がり角で、メイが足を止めた。
家の前に、娘がいる。両手を胸の前へ寄せ、こちらを見ていた。メイが手を振る。娘も振った。
角を曲がると見えなくなった。
イーライは妻の歩く速さへ合わせた。彼女が右手を握り、開く。彼はその手へ触れた。
「戻れるよ」
言うと、メイが頷いた。
「うん」
鍵を持っている。それでも、頷くまでに少し時間がかかった。
港で、ノアが荷を下ろした。
手伝ってもらったことに礼を言うと、友人は肩をすくめた。別れの言葉は用意していないようだった。イーライにもなかった。
「また、魚を買おう」
彼が言った。
「釣る方だろ」
「釣れなかったら」
ノアが笑う。その顔を、イーライは見た。今の自分が知っている友人の顔だった。
握手をする。手の硬さを確かめるように、少し長く握った。
メイはノアを抱いた。友人は戸惑い、しばらくして、その背へ手を置いた。
「ありがとう」
彼女が言った。
ノアは頷いた。声は出さなかった。
船へ乗る時、イーライは一度だけ、足を止めた。
父と西へ行ったことは覚えていない。だが、掌に載せられた灰色の石は覚えている。重いと言えば、父は理由を聞いた。考える間、答えを待ってくれた。
濡れた板。岸へ繋がれた綱。水の流れ。そばに立つ女。今、自分が見ているものを、一つずつ確かめた。
「メイ」
呼ぶと、彼女が振り向いた。
「何?」
「呼びたかっただけ」
メイは少し笑った。それから、彼の白い髪を見た。
「怖い?」
「少し」
「私も」
彼女が手を差し出した。イーライは握った。知らない場所へ行く。死ねない身体で。失った時間を持たないまま。
それでも、この女と過ごした昨日はある。娘と別れた今朝も、友人の手の硬さも、まだ彼の中にあった。
船が岸を離れる。ノアが帽子を上げた。イーライも手を上げ、姿が小さくなるまで見ていた。
隣で、メイが息を吐いた。
「あなたは、イーライ」
彼は彼女を見る。
忘れた後、彼女が何度も呼んでくれた名前だった。今も自分の名として、ここにある。
「そうだよ」
妻の指を握り返す。
「行こう、メイ」




