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テンガイ 急

 杖は何も答えなかった。

 イーライの指が、黒ずんだ木へ食い込んでいる。握れば握るほど、石と木の硬さが分かった。窓の向こうには薄い青空が覗いていた。雨はもう降っていない。通りで誰かが荷車を動かし、車輪が石を擦る音がした。

 娘をこんな目に遭わせたものが、まだ動いている。そのことに腹が立った。今すぐ外へ出て、あの車輪を壊してしまいたかった。けれど、壊しても娘の指は動かない。

 奥で、メイが身を屈めた。

「メアリー」

 呼んでから、頬へ口づける。右手は娘の顔に添えられたまま。その肩が一度、大きく震えた。

 イーライは目を逸らせなかった。

 娘の胸が上がる。前より深い。医者が顔を寄せ、脈へ指を置き直す。誰も喜ばなかった。次が来るのを待っていた。

 メイの唇が離れた。娘を見て、それから自分の右手を見た。何かを確かめるように左の指で掌を擦る。

「メイ」

 イーライが呼ぶと、すぐに顔を上げた。

 それだけで安堵した。安堵した自分が嫌だった。娘がまだ横たわっているのに、妻が自分を分かるかどうかを、先に確かめてしまった。

「いるよ」

 メイが言った。

 何を聞きたかったのか、分かっていた。

 イーライは頷いた。何か手伝おうと、杖を片手へ持ち替えた。医者から布を押さえるよう言われ、娘の頭の脇へ指を置く。血で濡れた布は温かかった。手を動かせば、まだできることがあった。

 ノアが新しい水を運んでくる。器の縁へ水がぶつかり、少しこぼれた。友人は拭かずに置いた。

「ほかに要るものは」

 医者が答える。ノアはまた立った。イーライは娘の手へ触れた。爪の脇に、細い糸がついていた。仕事の布から移ったのだろう。取ろうとして、取れなかった。指先がうまく動かない。

 メイがもう一度、娘へ顔を寄せた。

「まだ足りないのか」

 聞くと、頷いた。

「分からない。でも、まだ細い」

 イーライには見えないものを見ていた。その目が濡れている。娘の血ではなかった。

「何を忘れた」

 聞いてから、答えられない問いだと気づいた。

 メイは一度目を閉じた。

「今朝、何を食べたっけ」

「パンと、昨日の煮込み」

「そう」

 笑おうとした。できなかった。

「一緒に食べた?」

「ああ」

「それが、ない」

 昨夜は隣にいた。今朝もいた。パンの端を娘へ渡し、自分は焦げたところを取った。いつもと同じことだった。あの食卓を、メイはもう持っていない。

 娘の呼吸が途切れた。

 医者が名を呼ぶ。メイの手が娘の背へ移った。イーライは布を押さえたまま、杖の持ち手を胸へ引き寄せた。

 祈り方を思い出そうとした。子どもの頃、母に教えられたはずだった。食事の前。眠る前。口にしていた言葉。そのどれも、今の娘へ届く気がしなかった。

「助けてくれ」

 誰に言うのか分からないまま、言った。

「娘を。メイも」

 欲張っていると思った。それでも片方を消せなかった。

 メイは娘へ口づけた。イーライはその横顔を見た。

「今までのことを、なくさないでくれ」

 自分の知っている二十年だけではなかった。彼女が一人で生きた日々も、兄と働いた日も、妹と笑った日も。知らないから、返してほしいと願ってはいけないわけではない。

 布を押さえる手の感触が遠くなった。

 イーライは反射的に娘を見た。娘はそこにいた。メイも、医者も、ノアもいる。ただ、器へ注がれる水の音が聞こえない。窓に揺れていた光が、そのまま止まっている。

 顔を上げると、店の奥の壁がなかった。


     *


 空が広がっていた。

 足元には、店の板床が続いている。その先へ、雲の影が落ちていた。イーライは立ち上がろうとして、膝が曲がったままなのを知った。娘の脇に跪いていた姿勢だった。

 杖をついて立つ。布を押さえていた方の指には、赤いものがついている。

 少し離れて、女が座っていた。

 白に近い薄い布を肩へ掛け、膝の上へ手を置いている。髪の色は、明るいところと暗いところで違って見えた。年齢を考えようとして、やめた。母より年上にも、メイと変わらないようにも見えた。

 女はイーライの手を見た。

「娘の命と、妻の記憶」

 聞いたことのない声だった。だが、誰のことかは分かった。

「ああ」

「私はウラ」

 女はそう名乗り、彼の後ろを見た。振り返ると、メイが娘のそばにいる。口づける寸前の姿で止まっていた。右手の黒い点が見えた。

「娘へ渡しているものは、届いている。でも、今ある傷を越えるには、まだ足りない」

 イーライは杖を握り直した。

「お前には、できるのか」

「あの子を、ここから生きる方へ戻せる」

「何を渡せばいい」

 ウラが彼を見た。

「あなたが、死ねること」

 分からなかった。

「娘は助かる。その代わり、あなたは死ねなくなる」

 手の中で杖が滑った。握り直すまでに、少し時間がかかった。

 長く生きると言われると思っていた。十年か、二十年か。あるいは、自分の残りを娘へ渡せと言われるのかもしれない。何かを差し出せる気で来た。その大きさを、自分で決めていた。

「老いもしない。あなたの身体は、衰えて終わる方へ進めなくなる」

「ずっとか」

「この呪いには、終わりがない」

 ウラの声は変わらなかった。

 イーライはメイを見た。昔から変わらない顔。自分の手に節が増え、こめかみに白いものが混じっても、彼女は同じ姿で隣にいた。

「メイは」

「妻の身体へ、この契約で何かを加える必要はない」

 イーライは頷いた。妻まで自分の条件へ引き込む話ではなかった。

 娘を見る。足が、上着の下から覗いている。片方だけ、靴がなかった。

 二十一。まだ若い。いつか家を出るかもしれない。好きな男を連れてくるかもしれない。その男を気に入らず、メイに叱られる自分まで思い浮かんだ。

 その先は、顔まで浮かばない。娘が老いる。手に節ができる。立ち上がる時に、誰かの肩を借りる。自分は、そのそばにいる。

「娘を、見送るのか」

「そうなることもある」

「ノアも」

 ウラは頷いた。

 食卓へ茶を置く友人の手を思った。昔痛めた脚。笑うと深くなる額の線。まだ、今なら追いつける気がしていた。二人で座っていれば、同じように疲れ、同じように年を取れた。

 イーライは床を見た。足元の木に細かな傷があった。荷を引きずった跡だろう。何かを運んで生きている人の店だった。

「それでも、娘を返してほしい」

 声にすると、胸が震えた。

「死ねなくなるのは、怖い。でも、今あの子が死ぬのを、見ていられない」

 ウラは返事を受け取り、娘へ顔を向けた。

 止まった店の中で、娘の胸だけが僅かに動いた。

 イーライは身を乗り出した。次の息が来る。浅かったが、その次も続いた。何もかも元に戻ったわけではない。布には血がつき、顔は白い。それでも、呼吸が途切れずにいる。

 膝から力が抜けた。杖をつき、立ったまま娘の顔を見ていた。

「妻の記憶は」

 しばらくして、尋ねた。

 ウラが彼を見る。

「それは、別に受け取るものがある」

「何を」

「あなたが、ここまで生きてきた記憶」

 杖の持ち手へ、指が食い込んだ。

「妻が土へ渡した記憶を返す。あなたは、幼い頃まで戻る」

「メイと会う前?」

「もっと前」

 娘の顔を見た。自分へ父さんと呼ぶ口。幼い頃、ただの棒で地面を叩いて、父さんもやって、と渡してきた小さな手。

「この子も、忘れる」

 問いではなかった。ウラが頷いた。

 メイの記憶を返すために、自分の記憶を手放す。山の小屋も、娘が歩いた家も。ノアと釣れなかった魚を買った日も。

「その後は、覚えられるのか」

「新しく生きる日々は、あなたのものになる」

 安心できるほど小さなことではなかった。イーライは頷けずにいた。

「髪には、色が残らない」

 ウラが彼の頭を見る。

「あなたが手放す時間とともに、白くなる」

 髪を触ろうとして、やめた。娘が助かることは、もう受け入れた。記憶を渡さずに戻ることもできるのだろう。

 メイを見た。娘のために右手を添える妻の顔。彼女はトーマスの顔を思い出せない。母の歌も、妹と笑った日も、自分が最初に彼女へ声を掛けた山道も。

「メイを、呼んでくれ」

 イーライは言った。

「あいつのためだって、俺だけで決めたくない」

 ウラがメイへ顔を向けた。金色の髪が揺れた。


     *


 メイは最初に娘を見た。

 胸が動いている。待っても、次が来る。右手をそっと離した。娘の顔へ身を寄せ、呼吸を確かめる。

「メアリー」

 呼んでから、イーライへ顔を向けた。

「何をしたの」

 イーライは話した。ウラの名。娘の救命。自分が死ねなくなること。

 メイは彼の手を取った。

「どうして、あなたが」

 声が硬かった。

「そんなことを、あなたが」

 言い終えられないまま、娘を見た。呼吸が続いている。彼を責めたいのではない。それでも、すぐにありがとうとは言えないのだと、イーライにも分かった。

「怖いよ」

 彼が言った。

「受け入れたけど、まだ怖い」

 メイは手を強く握った。

「怖がっていい」

 それだけ言い、しばらく彼のそばに立っていた。

 イーライはウラを見た。メイも、その視線を追う。

「まだ、何かあるの?」

 ウラが記憶の交換を話した。メイは黙って聞き、途中でイーライの手を離した。

「トーマスも?」

「あなたが失った、兄との記憶も」

 メイの口が開き、それから閉じた。

「お父さんも、お母さんも。ルーシーも」

 ウラが頷く。

 メイはイーライへ向き直った。

「あなたは、忘れるんだね」

「ああ」

「娘は、もう助かったのに」

 彼は頷いた。メアリーのためには要らない。これは、自分が望んだ別のことだった。

「ここで戻れば、あなたは覚えてるでしょう。私も、今のあなたは覚えてる。二十年、一緒にいたことも」

「知ってる」

「だったら」

 メイは娘を見た。

「三人で、帰れるよ」

 イーライは彼女の横顔を見た。帰りたい。娘を連れて帰り、いつもの家の戸を開けたい。メイもそれを望んでいる。

「兄さんの顔は」

 尋ねると、彼女の指が動いた。

「まだ、ない」

「戻ってほしいか」

 メイは返せなかった。長く娘を見ていたが、やがて頷いた。

「会いたい」

 小さな声だった。

「思い出したい。母さんの声も、ルーシーも。何でもない日も、あったはずだから」

 目を伏せる。

「でも、そのために、あなたを」

 イーライは手を差し出した。彼女は見ていたが、すぐには取らなかった。

「俺も、忘れたくない」

 彼は言った。

「メアリーが俺を呼んだ時も、お前が一緒に住みたいと言った時も。なくしたくない」

 自分の掌を見る。ここまで働き、娘を抱き、妻の手を握ってきた手だった。

「だけど、俺が覚えているものを全部、俺だけが持っている方がいいとは、思えない」

「忘れるの、どんなふうか知ってる?」

「聞いた」

「聞くのと、なるのは違う」

 メイの声には怒りもあった。大丈夫なふりで、自分が失ったところへ来ようとしているのが、嫌なのだろう。

 イーライは頷いた。

「分からない」

「私を見ても、何もないんだよ。娘を見ても」

 声が途切れた。

「その時、教えてくれ」

 メイが顔を上げる。

「お前のことも、メアリーのことも。俺が何をしてたかも」

「話せば、思い出すわけじゃない」

「うん」

 イーライは妻を見た。

「今より、何も分からなくなるんだろ。だから、教えてほしい」

 メイは長く黙った。

 イーライは答えを待った。彼女に、自分を元へ戻す役目まで負わせるつもりはない。だが、そばにいてほしかった。忘れた後の自分が、誰も知らないところへ一人で放り出されるのは怖かった。

「昔と同じにしようとは、しないよ」

 メイが言った。

「うん」

「あなたが嫌だと言ったら、聞く」

 その声で、少し息ができた。

 彼女が差し出された手を取る。温かかった。

「私は、たぶん寂しくなる」

「ああ」

「その時、寂しいって言ってもいい?」

 イーライは頷いた。

 メイは娘のそばへ戻り、胸の上下をもう一度確かめた。それから、彼を見た。

「ありがとうって、今は言えない」

「言わなくていい」

 彼女が頷く。目の中に、涙が溜まっていた。

 ウラが近づいてきた。

「今、妻が娘へ渡した記憶も返す。これから先、また土へ渡すものまで戻せるわけではない」

 メイは右手を見る。それから彼の手を握り直した。

 イーライは杖へ目を落とした。五つの石。空いた窪みは二つある。

「手放す」

 言った。

 ウラが杖へ触れた。イーライの掌に、木の冷たさが伝わった。

 イーライは妻の顔を見ていた。

 その顔を覚えていられる、最後かもしれなかった。


     *


 水の音が戻った。

 器へ注がれた水が溢れ、床へ落ちる。ノアが器を置いた。医者が娘の脈を取り、何かを言った。

 メイがその場へ膝をついた。イーライは腕を支えた。

 彼女の唇が娘の頬から離れる。右手も離れた。口を押さえ、目を閉じる。その指の間へ、涙が落ちた。

「母さん」

 娘が言ったのかと思った。メイの声だった。

 何が戻っているのか、イーライには見えない。台所の炉か。知らない歌か。彼は聞かなかった。

「ルーシー」

 名前が続いた。メイは笑いかけ、すぐ顔を歪めた。

「金の石、って」

 その先が言えない。

 イーライは床へ座り、彼女の背へ手を添えた。医者が娘の胸を見る。ノアが新しい布を渡した。

「トーマス」

 メイが呼んだ。

 今まで名前を言えなかったわけではない。だが、誰かが向こうから来たような声だった。

「顔が」

 声が切れる。

「ちゃんと、ある」

 イーライは背を撫でた。メイはその手を見もせずに掴んだ。強かった。

「帰ってくると思ってた」

 兄のことだと分かった。

「船が燃えてても。どこかへ流されて、歩いて帰ってくるかもって」

 息を吸おうとして、また吐く。

「そんなことまで、忘れてた」

 彼女は泣いた。兄の顔と一緒に、帰らなかった夜も戻ってきている。

 イーライは何か言おうとした。うまく見つからず、背へ置いた手をそのままにした。

 娘の胸が上がる。下がり、また上がった。

 医者の声が、少し変わった。脈を取り直し、布を替えるよう言った。ノアが動く。その背中を、イーライは見た。

 友人が振り向いた。

「イーライ」

 呼ばれた瞬間、胸の中がずれた。

 その男が誰かは分かる。ノア。郵便局の。長く知っている。だが、昨日何を話したのか思い出そうとして、浮かばなかった。

 娘が事故に遭う前、いつ最後に家へ来た。何を食べた。笑ったか。思い出す場所が、急に遠くなっている。

 イーライはメイを見た。

 メイも彼を見ていた。左の青。右の深緑。その目を知っている。

「海」

 妻が言った。

「先に見てこいって」

「言った」

 返事ができた。山の別れは、まだある。

「一緒に見るはずだったのに」

 彼女の左手が頬へ触れる。

 イーライはその手へ自分の手を重ねた。妻が何かを待っている。その後の海。砂のついたパン。腕に娘を抱いていたはずだ。

 娘。

 名前はメアリー。

 そこで、名前と顔の間が切れた。

 彼は寝かされた娘を見た。若い女だった。血のついた布が額に巻かれ、上着を掛けられている。

 自分の娘だと分かっていた。ほんの今まで、分かっていた。

「メイ」

 妻の名を呼ぶ。彼女が顔を上げる。

「始まった」

 声がうまく出なかった。

 メイが彼の手を握った。

「いるよ」

 イーライは頷いた。妻の顔を見ていれば、まだ離れずにいられる気がした。

 金色の髪。青い目。山の小屋。薪を入れると文句を言った。大きな火。毛布の下で触れた手。雪道を歩いた背中。

 その背中を追おうとして、足元が変わった。

 土。枯れ草。山道でしゃがむ少女がいる。まだ赤みのある茶色の髪だった。

 何をしていると聞いた。見てる、と答えた。何を。下。

 知らないものを見ている少女を、面白いと思った。

 イーライは息を吸った。

「君は」

 唇が動いた。

 メイの手が、一度だけ強くなる。

 その力に驚いて、彼は顔を上げた。

 金色の髪をした女が、自分の手を握っていた。

 もう、その名が浮かばなかった。

 握っていた杖の中で、こつ、と音がした。

 空いていた六つ目の窪みへ、小さな塊が沈んでいく。滑らかな石だった。色は、白くなる前のイーライの髪と同じだった。失われていく山も、家も、呼ばれた名前も、そこへ収まるように遠ざかった。

 石の縁が木の窪みと重なり、ぴたりと嵌まった。

 女はそれを見た。次に彼の髪を見て、口元を押さえた。白くなった髪の一房が、イーライの頬へ落ちた。

 涙が頬に落ちている。どうして泣いているのか、分からなかった。

「痛い?」

 尋ねた。

 女は首を振る。口を開いたが、声が出ない。

 その向こうで、灰色の石が割れる音を聞いた。

 父がいる。どこを掘る、と聞く。上の岩が違う、と答える。父が笑う。そこから掘るなら、なぜそう思ったか覚えておけ。

 次に、馬車が揺れた。

 母が荷物を押さえている。姉が文句を言う。石ばかり増やすな、と。

 家へ帰りたかった。進んでいるのか分からなくなって、父に聞いた。草を見ろ。土を見ろ。川を見ろ。同じか。

 違っていた。

 後ろを見れば、轍が続いていた。

 その道も、ゆっくり遠ざかった。

 窓際に石が三つある。母が片づけろと言う。姉が笑う。

 父が掌へ灰色の石を載せる。

 重い。

 どうしてだと思う。

 イーライは、その重さを両手で受けようとした。


     *


 目の前の女が、彼を支えていた。

 床へ手をつく。手が大きかった。指に節があり、爪の脇に黒いものが残っている。自分の手だと分かるのに、こんな形だったかと思った。

 知らない男がそばへ来た。女の代わりに腕を支え、椅子へ座らせてくれる。帽子をかぶっていない。息を切らしていた。

「水、飲めるか」

 聞かれて、頷いた。器を受け取る。水が少しこぼれた。男は拭かず、彼が飲むのを待っていた。

 何をしていたのか、分からない。

 イーライは辺りを見た。店らしい。見知らぬものが並んでいる。奥には若い女が寝ていた。額に布が巻かれ、そのそばに医者らしい男がいる。

「父さん」

 口から出た。

 水をくれた男が動きを止めた。

「父さんは、どこ」

 金色の髪の女が、顔を伏せた。その髪に、白いものが一本混じっているのかと思った。違った。自分の肩へ落ちていた髪だった。

 指で取る。白い。

 ほかにも何本か、袖についていた。頭へ触れる。髪はある。だが、腕を動かした拍子に落ちてきたものは、やはり白かった。

「俺、何歳?」

 自分の声も、知らないほど低い。

 女が顔を上げた。

「あなたは、イーライ・ハート」

「名前は、知ってる」

 女は頷いた。急いで続きを言わなかった。

「四十を、いくつか過ぎてる」

 イーライは手を見た。父より大きくなったのだろうか。父の手と比べてみたかった。だが、父はどこにもいない。

「あなたは、大きくなったんだよ」

 女が言った。

「思い出せないだけ」

 イーライは女を見る。青と深緑の目がある。金色の髪。泣いた跡の残る顔。

「あなたは誰」

 聞くと、女の唇が震えた。

「メイ」

 少しして、続けた。

「あなたと、一緒に暮らしてる」

 返事を待つように黙った。イーライは答えを持っていなかった。メイ。口の中で名前を繰り返す。知らない。

 男が彼の横へ座った。

「俺はノア。友人だ」

「俺の?」

「ああ」

 近くに座るのを、嫌だとは思わなかった。水をくれた。声を荒らげなかった。それは分かる。

 奥の若い女の胸が動いた。医者が布を替えている。

「あの人、怪我したのか」

 メイが頷く。

「メアリー。私たちの娘」

 娘という言葉が、遠かった。

 自分が父親になった。そう言われても、どこを見れば分かるのか知らなかった。

 ノアが懐から小さな袋を取り出した。どうやら、今の自分の上着から取ったらしい。彼の掌へ袋を載せる。

「これ、持ってたぞ」

 口を開く。灰色の石があった。

 イーライは両手で受けた。角張った形。黒く光るところ。重い。

「方鉛鉱」

 言うと、メイが息を吸った。

「父さんがくれた」

「うん」

 彼女は頷いた。何かを失わずに済んだような顔だった。

 イーライは石を握った。両手で持つほどの大きさではない。自分の手が大きくなったのだ。

「帰りたい」

 呟いた。

 女はすぐ、帰れると言わなかった。何も言わず、膝の上へ手を置いている。

 イーライはもう一度、石を見た。

 これを持っている。父からもらったことを覚えている。家の窓も、母の声もある。それなのに、自分のいる場所だけが分からない。


     *


 その夜、イーライは娘のそばで眠った。

 娘だと言われた若い女のそばで。寝床を貸すと言われたが、そこを離れるのが不安だった。メイとノアが、まだ近くにいたからだ。

 何度か目が覚めた。医者が戻ってくる。水を飲ませる。灯りを替える。そのたび、メイが起きていた。

 朝になり、メアリーが母を呼んだ。

 小さな声だった。メイが顔を寄せ、返事をする。若い女は痛いと言った。どこがと聞かれると、全部、と答える。

 イーライはその声を聞いていた。

 少しして、彼女がこちらを見た。

「父さん」

 返事をしようとして、止まった。自分に言っているのか分からなかった。

 メアリーがもう一度呼ぶ。彼は椅子を近づけた。

「俺?」

 その顔が変わった。額の布の下で、眉が寄る。母を見る。メイは娘の手を握り、何かを小さく話した。

 イーライには聞こえなかった。娘がこちらを見ている。自分は何か間違えたのだろうか。

「悪い」

 言うと、メアリーが首を振った。動かした途端に痛そうに顔をしかめる。

「動かない方がいい」

 イーライは言った。

「知ってる」

 娘が返した。

 泣きそうな声だった。彼は黙り、椅子をそのままにした。離れてほしいとは言われなかった。


 鏡を見たのは、顔を洗わせてもらった後だった。

 白髪の男が映っている。頬に線があり、目の下にも皺がある。見ているうちに、その男がこちらの動きを真似することに慣れた。

 自分だ。

 メイが後ろへ立った。鏡の中で二人を見た。彼女は若い。何歳か、聞きたかったが、昨日自分の年を聞いた時の顔を思い出してやめた。

「髪、切ろうか」

 彼女が言った。

「切っても、白いんだろ」

「うん」

 イーライは髪へ触れた。昨日から白いのであれば、もう白い自分で暮らしていることになる。

「邪魔なところだけ」

 メイが頷いた。鋏と布を持ってくる。椅子へ座り、肩へ布を掛けてもらった。

 彼女の手は、迷わずに彼の髪を分けた。イーライは鏡を見ていた。知らない女が、自分の頭の形を知っている。

 切った髪が布へ落ちた。白かった。


 メアリーを家へ運べるようになるまで、何日もかかった。

 その間に、イーライは医者の顔を覚え、店の男の名前を知った。メイは夜に何度も起きる。ノアは外へ出て戻ってくる。誰かが食べ物を差し入れる。

 娘の眠っている間、彼も布を替えた。器を運び、湯を沸かした。できることと、知らないことが、身体の中で混じっている。

 釘の緩んだ椅子を見て、直せると思った。道具を借りると手が動いた。いつ覚えたのかは、思い出せない。

「できるんだね」

 メイが言った。

 嬉しそうでも、寂しそうでもあった。

 イーライは椅子の脚を押して確かめた。自分が何を持っているのかも、知らない。

 帰る日、店の男が娘の靴を持ってきた。泥を落として乾かしてくれていた。

 メアリーは靴を見て、目を閉じた。イーライは礼を言った。娘はまだ歩けない。それでも片方だけでは、いつか困る。


     *


 家の戸を開けると、見知らぬ部屋があった。

 小さな二間。古い炉。窓のそばの机。布を畳んだ棚。イーライが立ち止まると、後ろのノアも止まった。

「ここが、お前の家」

 言われて、靴を脱ぐ場所を探した。ノアが床を指す。置かれた古い靴は、自分のものらしい。

 メアリーが中へ運ばれ、メイが寝床を整えた。イーライは戸口の柱を見る。細い印が幾つもある。

「何だ、これ」

「私の背」

 娘が答えた。

「父さんがつけた」

 イーライは一番低いところへ触れた。これほど小さな頃から、一緒にいたらしい。今の娘の顔へ結びつかなかった。

 メアリーは彼を見ていたが、急に窓の方へ顔を向けた。

「ごめん」

 イーライが言うと、娘が首を振った。

「そこにいて」

 それ以上は言われなかった。彼は椅子を運び、寝床の脇へ置いた。


 夜、メイが本を持ってきた。

 背を糸で綴じ直した、古い本だった。『覚えておくもの』と書いてある。イーライはその文字を読めた。

「読める」

「うん」

「いつ、習ったんだろ」

 メイは答えを知らなかった。知らないと言い、それから一枚ずつ頁をめくった。

 父――パトリック。母――エレン。妹――ルーシー。兄――トーマス。

 彼女の家族の名前だった。その後に、自分の名があった。イーライ・ハート。メアリーの父。山で一緒にいた。

 彼は字を指でなぞる。

「前に、あなたを忘れた時、書いたの」

 メイが言った。

「私が」

 顔を上げた。女が自分を忘れた。今は自分が女を忘れている。二人の間で、同じ本が開かれていた。

「どうしたらいい」

 聞くと、メイは本へ目を落とした。

「今夜は、何もしなくていい」

 その声は、すぐ出てこなかった。

「眠れたら眠って。明日、何が食べたいか聞くから」

「俺は、ここにいていいのか」

 メイがこちらを見た。

「いてほしい」

 言ってから、小さく息を吐く。

「でも、嫌だったら言って」

 イーライは部屋を見た。窓の外に、知らない町の灯りがある。自分の靴が床にあり、娘と呼ばれる人が隣で眠っている。

「今は、いたい」

 メイは頷いた。本を閉じ、棚へ戻す。その後ろ姿を、イーライは見ていた。


 父のことは、何度も聞いた。

 メイは、もう亡くなっていると答えた。最初に聞いた日は、イーライは頷いた。二度目は信じられなかった。昨日、方鉛鉱を渡してくれた手を思い出せる。あんなに大きく、温かかった。

「俺、会ってる?」

「亡くなる前に、会ってるよ」

「何を話した」

 メイは答えられることだけ話した。窓際の石を整理するのを急がなかったこと。娘が白い石を一つ選んだこと。イーライが父の道具を持って帰ったこと。

 棚から、その道具を出してくれた。

 使い込まれた柄へ触れる。覚えている父の手に似合う道具だった。イーライは膝へ置き、長い間動かなかった。

 メイは隣に座った。父はもういないと、もう一度言う必要はなかった。


 メアリーが寝床から起きられるようになった頃、三人で契約の話をした。

 メイが話し、イーライは聞いた。自分が何を願い、何を受け入れたのか。彼にとっても、初めて知る話だった。

 娘は匙を置いた。

「私には、聞いてくれなかった」

「聞けなかった」

 メイが答えた。

「返事ができなかったから」

 メアリーは母を見る。それから父を見た。

「父さん、それでよかったの」

 イーライは手を膝へ置いた。今の自分に聞かれている。決めた時の自分はいない。

「分からない」

 言うと、娘の顔が歪んだ。答えを間違えたのかと思い、続けようとした。メイが何も言わず、待っている。

「今朝、お前が起きてきたのは、嬉しかった」

 イーライは言った。

「それは、分かる」

 娘が下を向いた。

「死にたくなかった」

 声が震える。

「でも、父さんがいなくなるなんて」

 メイが娘の背へ触れた。

「私も、前の父さんに会いたい」

 メアリーは母を見る。メイの目も濡れていた。二人はしばらく、何も言わなかった。

 イーライは手を伸ばしかけた。自分はいる、と言えば済むことではない。娘が呼んでいる父は、自分の中に見つからなかった。

「いるよ」

 それでも言った。

「前のことは、分からないけど」

 メアリーは顔を上げなかった。彼はその手へ触れた。娘の指が強く握った。怖がっている人の手だった。

 メイも、娘の背へ手を置いた。

 食事は冷めた。三人とも食べ終わっていなかった。


     *


 メアリーが初めて一人で買い物へ出る日、メイは戸口に立っていた。

 娘が靴紐を結び直し、母を見る。

「ついてきたい?」

 メイが頷く。

「今日は、一人で行ってみたい」

 母は唇を結び、それから頷いた。扉が閉まっても、窓へは行かなかった。食卓に戻り、針へ糸を通す。二度失敗した。

 イーライが隣へ座る。

「待つの、難しいな」

「うん」

 メイはもう一度、糸を寄せた。

 彼は湯を沸かした。茶を飲む間、娘の分の器も出しておく。

 メアリーは約束した頃に帰ってきた。買ったものを置き、母の顔を見る。

「少し、遠回りした」

「どこを?」

「別の通り。しばらく、あっちから行く」

 メイが頷いた。娘も事故の場所を通るのが怖い。そのことに、今になって気づいたようだった。

「お帰り」

 言うと、メアリーが母の肩へ手を置いた。

「ただいま」


 それから、暮らしが少しずつ戻った。

 メイが朝、湯を沸かす。イーライが起きる。娘が仕事へ行き、夕方に帰る。ノアが来る日は、パンを少し多く買った。

 イーライは昔の仕事へ、すぐには戻れなかった。石の見方は分かる。だが、誰が自分に仕事をくれるのか知らない。ノアが連れていき、前に働いた場所へ話をしてくれた。

 荷の札を読み、石を選り分ける。手が覚えている仕事はできた。知らない男が、前もそれを言ってた、と笑うことがある。イーライは笑い返した後、メイへ話した。

「俺は前に、何を言ったんだろ」

 メイが答えを知っている時も、知らない時もあった。

 石を割ると、見るべきところへ目が向いた。重さが違えば手が止まる。なぜそのやり方を知っているのか、思い出せない。

 覚えている父は、方鉛鉱を渡してくれた父だった。その先にも、何度も一緒に石を見たのだろうか。教わった時間の代わりに、今も動く自分の手を見た。


 ある夕方、娘が小さな白い石を持ってきた。

「おじいちゃんの」

 イーライが受け取る。

「私がもらったんだけど。父さんに、見せようと思って」

 石英だった。角が少し丸く、片側に細かな傷がある。父がどこで拾ったのかは分からない。

「返すよ」

 言うと、メアリーが首を振った。

「しばらく、置いといて」

 イーライは窓際へ置いた。灰色の方鉛鉱を、その隣へ並べる。

 二つの石を見ていると、家の中へ父が来たような気がした。娘が祖父と会った日を、彼は知らない。それでも、娘が選んだ石がそこにある。


 メイが、前と同じ寝床でなくてもいいと言ったのは、家へ帰った最初の夜だった。

 イーライは別の部屋へ寝た。扉を少し開けておくと、隣の物音が聞こえた。メイが眠れず、何度も起きている夜もある。

 ある時、水を飲みに出ると、彼女が食卓へ座っていた。『覚えておくもの』を開いている。

「何を読んでる」

「あなたが、メアリーを寝かせたところ」

 イーライが椅子を引く。

「俺、うまかった?」

「最初は、泣かれた」

「そうか」

「ノアが教えてくれた」

 イーライは頁を見た。知らない自分が、娘を抱いて歩いている。何周しても同じところへ戻る、小さな部屋。

「寂しいか」

 聞くと、メイが手を止めた。

「寂しい」

 正直な声だった。

「あなたが昨日のことを覚えてるのは分かる。でも、ここに書いてある人にも、会いたくなる」

 イーライは頁へ指を置いた。今の自分が、そこの自分へ戻ることはできない。

「俺に、どうしてほしい」

 メイが首を振る。

「今、何かしてほしいわけじゃない」

 長く黙り、それから彼を見る。

「聞いてくれて、ありがとう」

 二人で本を閉じた。イーライは湯を沸かした。茶を飲む間、メイはもう本を開かなかった。


 ノアと初めて二人で海へ出た日、風は弱かった。

 友人は釣り道具を持ってきた。イーライは教えてもらいながら糸を垂らす。魚は一匹も釣れなかった。

「場所が悪い」

 ノアが言った。

「変えるか」

「変えても、同じかもしれない」

 イーライは笑った。友人も笑い、それから海へ顔を向ける。

「前にも、こうやって来た」

「釣れた?」

「釣れなかった」

 友人の声が少し沈んだ。イーライは道具を見る。

「残念だったな」

「ああ」

 ノアはしばらく黙り、膝へ手を置いた。

「お前に話したこと、もう一度話していいか」

「いいよ」

「同じ話ばっかりになるかもしれない」

「俺には、初めてだ」

 ノアが頷いた。その後、しばらく話し始めなかった。

 イーライは待った。風で糸が動き、魚が来たのかと思ったが違った。友人へ見せると、俺も最初は間違えた、と言う。

 それから、郵便局の話をした。宛先のない手紙。怒鳴る客。届いたかどうか分からないまま、気にしている封筒。

 帰りに魚を二匹買った。ノアが選び、イーライが包みを持つ。

「釣ったと言ってみるか」

「すぐ、分かるぞ」

 友人が答えた。

「メアリーは、何でも聞く」

 イーライは頷いた。それはもう知っていた。


     *


 一年目の冬、隣の家の子が熱を出した。

 メイは煮込みを届けた。母親は寝不足の顔で受け取り、器は後で返すと言った。春には子どもが外を走り、メアリーの帰りを追いかけた。

 二年目、その子が窓へ石を見に来た。イーライは方鉛鉱を載せ、重いかと聞いた。子どもは頷き、何の石か尋ねた。

 メイは二人へ茶を運んだ。子どもが彼女を見上げる。

「メアリーのお姉さん?」

「母さんだよ」

 子どもは驚き、もう一度顔を見た。それから石へ戻った。その日には、それで済んだ。


 メアリーは店で任される仕事が増えた。帳面を家へ持って帰る夜もあり、メイが覗くと、ここは私の方が分かる、と笑った。

 指先の皮膚が固くなっていた。針を持つ手ではなく、何枚も布を広げ、包み、紐を引く手。イーライは食卓で、娘のその手を見た。

「何?」

「働いてる手だな」

 メアリーは掌を返した。

「父さんも、そうでしょう」

 イーライが自分の手を並べる。三年前とほとんど同じだった。娘は二つの手を見て、そっと引っ込めた。

「母さんの手は、もっと綺麗」

 それだけ言った。


 ノアの目が疲れやすくなった。

 食卓で手紙を読んでいた時、灯りを少し寄せた。イーライが何気なく受け取ると、同じ字を読めた。

「お前、よく見えるな」

「灯りがあるから」

「俺も、あるんだが」

 ノアが笑った。イーライも笑い、それから手紙を戻した。

 友人は文字を少し遠くへ離した。前にはしなかった動きだった。

 海へ行く日、ノアは昔痛めた脚を擦ることが増えた。歩く速さへ合わせればよかった。イーライは道具を持ち、友人が休めば一緒に座った。

 友人は何も言わず、それを受け入れた。


 メイへ仕事を持ってくる女の娘が、大きくなった。

 初めは抱かれて来た。次には椅子に座り、自分の袖を破った理由を話した。やがて母の代わりに服を持ってきて、寸法まで伝えるようになった。

 その娘が、ある日、縫い終わった服を受け取ってから足を止めた。

「母と同じくらいだって、聞いたんですけど」

 メイは頷いた。

「少し下かな」

「そう、ですか」

 娘は若い顔を見て、目を伏せた。代金を置き、いつもより早く帰った。

 次に来た時は、戸口で待った。中の椅子へ座らず、服と金を取り替えて帰る。

 仕事が下手になったわけではなかった。メイの針は同じ速さで動き、縫い目も揃っていた。


 季節が八度、同じ寒さへ戻った。

 隣の子どもは母より背が高くなり、メアリーの笑い方にも大人の女の落ち着きが混じった。ノアの髪には白いものが増え、椅子から立つ時に、一度腰へ手を置く。

 イーライの髪は初めから全部白い。顔も、手も、それ以上は変わらなかった。仕事の疲れはあっても、年ごとにできないことが増えていく感じがない。

 メイも同じだった。

 彼女が娘と並んで市場へ行くと、初めて見た者は姉妹だと思った。長く知っている者は、二人の顔を交互に見た。

 その視線を、メアリーが先に気づくこともあった。話しかけていた女が、母の顔を見た途端、娘へ返事をする。母はそばにいるのに、そこへ目を戻さない。

 帰り道、メアリーが袋を持ち替えた。

「母さんにも、聞いてたのにね」

 メイは頷いた。

「うん」

 娘はもう、若く見える母を責めなかった。腕を組み、いつもより近くを歩いた。


 ある朝、イーライが水を汲んでいると、向こうで男たちが話していた。

 初めは聞くつもりがなかった。自分の名が出て、桶を置く。

「奥さんも、あの男も、ずっと同じだろ」

「髪は白い」

「そこから先が、変わらない」

 イーライは桶の取っ手へ手を掛けた。

「ああいうの、気味が悪いよ」

 水が、縁へぶつかった。

 顔を上げると、男の一人と目が合った。知っている男だった。仕事で何度も荷を受け渡した。気まずそうに笑い、もう一人を連れて歩いていく。

 イーライは呼び止めなかった。

 家へ帰ると、メイが窓際で縫っていた。何かを言おうとし、やめた。彼女も、同じことを聞いた日があるのかもしれない。

 桶を置き、隣へ座った。

「仕事は?」

 メイが聞く。

「これから」

 少しして、彼女が手を止めた。

「ここにいてもいいよ」

 イーライは頷いた。何があったのか、まだ話せなかった。


 初めは、誰も本人たちへ言わなかった。

 会えば挨拶をする。頼んだ仕事には金を払う。ただ、前はついでに話していたことを、話さなくなった。家の中へ入らず、戸口で用を済ませる人が増える。

 誰かの家の祝いへ、娘だけが呼ばれたこともあった。メアリーは行かなかった。その後、メイへそのことを話し、母が寂しそうな顔をすると、次は行く、と言い直した。

「あなたが行きたいなら、行って」

 メイが答えた。

「私に合わせなくていい」

 娘は頷いたが、その場を離れなかった。


 魔女という言葉を、イーライも聞くようになった。

 自分に向けられたことはなかった。あの女は、と言う声の後に続いた。死なない夫を連れている。娘だけが普通に年を取る。髪が白くなった日に、何かがあったのだ。

 事故のことを、詳しく知っている者ばかりではない。知らないから、日々見ている二人の姿へ、言葉を当てている。

 メイは働き、イーライも働いた。家へ帰れば食事を作り、針を持ち、娘の話を聞く。その暮らしのどこを見て、魔女と呼ぶのだろうと思った。

 答えは分からなかった。

 自分にも、なぜ死ねないかを、自分の記憶で説明することはできない。


     *


 ノアは、今までと同じように家へ来た。

 食卓へ座り、仕事の話をする。娘の店の話も聞く。前より眼鏡を使うようになり、食事の後には背もたれへ身体を預けた。

 ある晩、イーライが噂を話すと、友人は長く黙った。

「俺が、知ってる奴へ言ってみる」

「何を?」

「昔から、お前たちがここで暮らしてること。何も、悪いことをしてないって」

 イーライは頷いた。それは本当だった。

 それでも、メイがゆっくり首を振った。

「そう言ってくれる人も、いるよ」

 ノアが彼女を見る。

「でも、年を取らないのは、変えられない」

 その場の誰も、否定できなかった。

 友人は眼鏡を外し、食卓へ置いた。

「俺は、寂しくなる」

 何のことか、イーライにはすぐに分からなかった。メイは下を向いた。

「まだ、決めてない」

「ああ」

 ノアが頷いた。

「でも、そういう話をするんだろうなとは、思ってた」

 娘も母の顔を見た。メイは目を逸らさず、少しして頷いた。


 町を出る話を、二人でした。

 ノアが帰り、娘も部屋へ入った後だった。イーライは窓の留め金を直していた。何年も同じ場所へあり、緩めば締め、傷めば替えて使ってきた。

 メイがそばへ来る。

「ここを、離れようか」

 彼は道具を置いた。

「メアリーも?」

 彼女は首を振った。

「私たちが」

 イーライは部屋を見る。柱の印。窓際の二つの石。今の自分が目を覚ましてから知っている暮らしのほとんどが、ここにあった。

「俺が、ここで会った人も」

「ここにいる」

 メイが答えた。

「私も、置いていきたくない」

 食卓へ手をつく。

「でも、これから十年経っても、たぶん、私たちは同じなんだよね」

 イーライは自分の手を見た。

「うん」

「ここで知ってる人が、もっと変わっていく。子どもが大人になって、娘が私より年上に見えるようになって。それを、みんなも毎日見る」

 メイは窓へ顔を向けた。

「前は、普通に話せたのに。今は、私の顔を見てから、言うことを選ぶ」

 イーライは水を汲んだ朝を思った。

「悪い人だとは思わない」

 彼女が続けた。

「ずっと変わらないものが、そばにいたら、怖くなるのかもしれない。でも、私も、その顔を毎日見るのは寂しい」

 彼は椅子を寄せた。

 誰かに追い出せと言われたわけではない。それでも、少しずつ自分たちの入れる場所が狭くなっていた。

「どこへ行く」

 メイが顔を上げた。

「まだ、決めてない」

「なら、考えよう」

 隣へ座ると、彼女が肩を緩めた。

 イーライは方鉛鉱を手に取った。灰色。重い。父の手を思い出せる。持っていけるものを、もう一度選ぶのだと思った。


 メアリーは、黙って聞いた。

 母の話が終わると、食卓の端を指で擦る。イーライもメイも、返事を待った。

「私が、一緒に歩くから?」

 娘が聞いた。

「私が大きくならなかったら、そんなに分からなかったでしょう」

 メイは娘を見る。

「あなたが大きくなるのを、嫌だと思ったことはないよ」

「うん」

「これからも、そう」

 メアリーは頷いたが、すぐには顔を上げなかった。

「私も、行く」

 言うと、母は少し待ってから聞いた。

「この町で、したいことは?」

 娘が黙った。仕事がある。知り合いがいる。店では少しずつ、任されることが増えている。

 メイはそれを、急いで数えなかった。

「私たちと来たいなら、一緒に考える。でも、ここにいたいのに、ついてきてほしくはない」

「二人で、平気なの」

「平気なことばかりじゃないと思う」

 メイが答えた。

「でも、二人で行きたい」

 娘の目が父へ移る。

 イーライは頷いた。

「俺も、行く」

「母さんと?」

「メイと」

 娘が目を伏せた。自分の父であり、母の夫である男が、今、母を選んでいる。その返事を聞いてから、肩の力が少し抜けた。

 それでも、すぐには笑えなかった。

「考える」

「うん」

 メイが答えた。


     *


 出発まで、ひと月ほどあった。

 家のことを決め、仕事を引き継ぎ、旅費を数えた。メイは最後に預かった服を直し終えた。娘の裾を頼んだ女が受け取りに来て、代金を置いた。

 出ていくと知ると、女は服を胸へ抱いた。

「困る人もいるのに」

 メイは頷いた。

「私も、ここで助けてもらった」

 女は何か言いかけたが、言わなかった。少しして、道中気をつけてと告げた。

 メイは礼を言った。扉が閉まってから、机の上に何もなくなったことを確かめる。最後に糸屑を集め、掌へ載せた。


 ノアは荷造りを手伝った。

 持っていくものが多すぎると言い、メイに減らさせた。イーライの方は少なすぎると言って、食料を足した。

「どっちでも、文句を言うんだな」

「困らない方へ、言ってる」

 友人は袋の口を結んだ。

 その晩、四人で食事をした。メアリーが、パンを厚く切った。ノアが自分の皿を見て、今日は多いなと言う。

「来るって、分かってたから」

 娘が答えた。

 皆で食べた。昔の話ばかりにはしなかった。娘の店の客のこと。旅先で食べられそうなもの。ノアの給金が、相変わらず増えないこと。

 イーライは笑った。笑ってから、これを覚えていられると思った。今夜の声。娘の切ったパン。メイが隣に座っている。

 食事の後、ノアが外へ出た。彼もついていく。

「お前、前に俺へ、これからも来てくれって言ったんだ」

 友人が言った。

「メイが困るから、って」

「そうか」

「後から、俺も困るって言った」

 イーライは友人を見る。その時の自分は知らない。だが、その言い方は自分らしい気がした。

「今も、困る」

 彼は言った。

「お前と、話せなくなるのは」

 ノアは通りへ顔を向けた。

「手紙、出せよ」

「ああ」

「宛先を、ちゃんと書け」

 イーライが笑うと、友人も笑った。

「俺も、寂しい」

 ノアはそれだけ言い、家の中へ戻った。


 メアリーは町に残ると決めた。

 仕事を続けたいと言った。それから、膝の上で指を組んだ。

「でも、家へ帰って、誰もいないのは寂しいと思う」

 ノアが食卓の向こうから顔を上げた。

「俺も来るよ」

「食べるために?」

「それも」

 娘が少し笑った。母へ向き直り、だからって追い出すわけじゃないからね、と続けた。

「分かってる」

「分かってない顔」

 メイが少し笑う。娘は母を見て、ようやく笑った。

 家はしばらく娘が使うことになった。家具をすべて動かす必要はなかった。柱も、窓も、棚も残せる。

 メアリーは鍵を二つ並べ、一つを母へ渡した。

「帰ってくる時、いちいち叩かなくていいから」

 メイは受け取った。小さな鍵を、掌の中へ包む。

「うん」


 杖をどうするか、メイは長く迷った。

 六つの石。最後の一つは空いている。旅へ持って出た時には、白い石しかなかった。

 娘が近づくと、彼女は杖を差し出した。

「預かってくれる?」

 メアリーが両手で受け取る。

「要らないの?」

「要らないわけじゃない」

 メイは持ち手へ指を残していた。

「でも、あなたのそばに置いておきたい」

 娘が頷いた。母は手を離す。

 イーライは六つ目の石を見た。今の自分の髪にはない色だった。

「あなたの髪、この色だったんだよ」

 メイが言った。

 イーライは石へ指を寄せた。触れると冷たい。これが嵌まるところを、彼女は見ている。その時の自分は、もうその記憶を持っていない。

 メアリーが杖を椅子のそばへ置いた。

「なくさない」

 母に言うと、メイが頷いた。


     *


 出発の朝、イーライは二つの石を袋へ入れようとした。

 灰色の方鉛鉱と、娘が祖父からもらった白い石。途中で白い方を戻す。

「持っていっていいよ」

 メアリーが言った。

「これは、お前が選んだんだろ」

「うん」

「なら、帰ってきた時に見せてくれ」

 娘は白い石を受け取った。窓際へ戻す。その後ろで、メイが荷を肩へ掛けた。

 外にはノアが待っていた。港まで送ると言う。メアリーは家の前で見送ると決めていた。そこから戻る方が、つらいと言った。

 イーライは戸口の柱へ触れた。

 何度も見た印がある。今の自分がつけたものではない。それでも、娘がここで大きくなったことを、もう知っている。

 メアリーが彼の前へ立った。

「父さん」

 彼は顔を上げた。

 呼ばれることに、まだ少し驚く。だが、誰を呼んでいるのかは分かる。

「行ってくる」

 言うと、娘が頷いた。

「ちゃんと、食べてね」

「お前も」

 メアリーが彼の上着の襟を直した。必要なほど曲がってはいなかった。イーライはその手が下りるのを待った。

 娘が腕を伸ばす。彼も伸ばした。

 抱き合うと、娘の頬が肩へ触れた。少し湿っていた。彼は背を撫で、離れる時に顔を見た。

「手紙を書く」

「母さんの分も」

「俺も、自分で書く」

 メアリーは頷き、片手で頬を拭いた。


 母と娘は、長く抱き合った。

 イーライは少し離れて待った。ノアも声を掛けない。

 メイが何か言い、メアリーが頷く。娘は母の金色の髪へ触れた。以前は、自分より若く見えるのが嫌だったと聞いた。今、その指は髪を整え、肩へ戻った。

「行ってらっしゃい」

 メアリーが言った。

「行ってきます」

 メイが答える。

 戸口の向こうに、六つの石のある杖が見えた。そのそばへ娘が立つ。

 イーライは振り返り、家の形を見た。窓と戸。小さな階段。自分の帰る場所を、覚えておきたかった。


 通りでは、何人かが二人を見た。

 メイが挨拶をした。返した者も、返さなかった者もいる。白い髪へ目を向け、話をやめる男がいた。イーライは歩いた。止まって説明することは、もうしなかった。

 曲がり角で、メイが足を止めた。

 家の前に、娘がいる。両手を胸の前へ寄せ、こちらを見ていた。メイが手を振る。娘も振った。

 角を曲がると見えなくなった。

 イーライは妻の歩く速さへ合わせた。彼女が右手を握り、開く。彼はその手へ触れた。

「戻れるよ」

 言うと、メイが頷いた。

「うん」

 鍵を持っている。それでも、頷くまでに少し時間がかかった。


 港で、ノアが荷を下ろした。

 手伝ってもらったことに礼を言うと、友人は肩をすくめた。別れの言葉は用意していないようだった。イーライにもなかった。

「また、魚を買おう」

 彼が言った。

「釣る方だろ」

「釣れなかったら」

 ノアが笑う。その顔を、イーライは見た。今の自分が知っている友人の顔だった。

 握手をする。手の硬さを確かめるように、少し長く握った。

 メイはノアを抱いた。友人は戸惑い、しばらくして、その背へ手を置いた。

「ありがとう」

 彼女が言った。

 ノアは頷いた。声は出さなかった。


 船へ乗る時、イーライは一度だけ、足を止めた。

 父と西へ行ったことは覚えていない。だが、掌に載せられた灰色の石は覚えている。重いと言えば、父は理由を聞いた。考える間、答えを待ってくれた。

 濡れた板。岸へ繋がれた綱。水の流れ。そばに立つ女。今、自分が見ているものを、一つずつ確かめた。

「メイ」

 呼ぶと、彼女が振り向いた。

「何?」

「呼びたかっただけ」

 メイは少し笑った。それから、彼の白い髪を見た。

「怖い?」

「少し」

「私も」

 彼女が手を差し出した。イーライは握った。知らない場所へ行く。死ねない身体で。失った時間を持たないまま。

 それでも、この女と過ごした昨日はある。娘と別れた今朝も、友人の手の硬さも、まだ彼の中にあった。

 船が岸を離れる。ノアが帽子を上げた。イーライも手を上げ、姿が小さくなるまで見ていた。

 隣で、メイが息を吐いた。

「あなたは、イーライ」

 彼は彼女を見る。

 忘れた後、彼女が何度も呼んでくれた名前だった。今も自分の名として、ここにある。

「そうだよ」

 妻の指を握り返す。

「行こう、メイ」

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