クレッシェンド
二人が旅立った日の夕方、メアリーは皿を三枚出した。
鍋の蓋を取ってから気づき、二枚を棚へ戻す。煮込みは明日も食べられる。パンは布で包めばいい。椅子まで片づけることはなかった。
向かいの空いた席へ、一度だけ目をやった。
食べ終えると、誰に急かされるでもなく皿を洗い、明日着る服の襟を整えた。戸締まりを確かめて灯りを消す。寝床に入ってから、窓の留め金が緩んでいることを思い出した。
明日、父さんに。
そこまで考え、目を開けた。
翌朝は少し寝坊をした。冷たいパンを齧りながら髪を結び、留め金を締める暇もなく家を出た。店には客が来た。注文の布が足りず、倉庫へ走った。帰りには玉ねぎを買った。
二十九歳の暮らしは、そうして続いた。
父からの最初の手紙は、母の手紙より短かった。海が荒れたこと。母は平気な顔で食事をしたこと。自分は食べられなかったこと。
最後に、ちゃんと食べているか、とあった。
メアリーは笑い、返事に同じことを書いた。
ノアは手紙を渡した後も帰らず、炉のそばへ座った。パンが硬いと言いながら、皿には残さない。彼の来る日には、一人では使い切れない鍋を出せた。
靴直しのサムと親しくなったのは、帰り道で踵が取れたせいだった。
店を閉めかけていた男は、靴と彼女の顔を順に見た。
「これで、ここまで?」
「途中までは踵もあったの」
サムは笑い、戸を開け直した。
直した靴は、しばらく片方だけよく鳴った。文句を言いに行くと、彼は台に腰掛けたまま手を出した。
「履いたまま?」
「脱いでくれると、助かる」
それから、帰りに店の前を通るようになった。用がない日にも通った。向こうが気づかないと、そのまま帰り、窓を叩けばよかったと、夕食を作りながら思った。
三十一歳の冬、二人は一緒に暮らし始めた。
サムは戸口の柱に残る細かな傷を見つけ、削って綺麗にしようかと言った。
「それ、私の背なの」
彼は刃物をしまい、一番上の印に手を当てた。
「もう少し伸びるかもしれないな」
「もう伸びません」
婚礼に間に合った両親は、小さな家で肩を寄せて眠った。母が花嫁の裾を直し、父はサムの仕事道具を見たがった。朝、メアリーが起きると、男二人で窓の留め金を外していた。
「式に遅れるよ」
言うと、二人が同じ顔で振り返った。
母が台所で吹き出した。
夫婦になって分かったのは、サムが物を捨てないことと、眠る時に足が冷たいことだった。壊れた靴型も、短い紐も、いつか使うと言って取っておく。冷たい足を寄せてくるくせに、こちらが寄せれば逃げた。
メアリーも、穏やかな妻ではいられなかった。仕事で疲れて帰れば、洗われていない皿に腹が立った。黙って片づける日も、黙っていられない日もある。
「言ってくれれば、やったのに」
「言うところから、私なの?」
サムは返事をしなかった。
翌晩、皿は洗ってあった。鍋の底に焦げが残っていたが、そこは自分で擦った。
最初の子は娘で、生まれた時から声が大きかった。
寝たと思って置けば泣く。抱き上げれば黙る。ようやく眠っても、メアリーの方が目を閉じられない。暗い中で小さな胸の動きを見ていた。
母へ書く手紙は、途中で何度も止まった。
眠らない。乳を吐いた。洗った物が乾かない。
そんなことばかり書き、読み返して泣きそうになった。会いたい、の一行を、最後に足した。
返事が届く前に、娘は初めて笑った。
メアリーは夫を呼んだ。サムが来る頃にはもう笑わず、二人が覗き込むと、大きなくしゃみをした。
それでも、来てもらってよかった。
二年後には、息子が生まれた。
食卓の下に匙が落ち、寝床には誰かの靴下が入り込んだ。洗濯物を畳んだそばから娘が広げる。弟のためだと言って、何枚も重ねた。
子どもを預けて店へ戻る朝、娘が裾を離さなかった。
「帰ったら遊ぼう」
「いつ帰るの」
「暗くなる前」
暗くなってから帰る日もあった。
娘は怒らず、もう寝ていた。卓に、見せたかったらしい木の実が並んでいる。メアリーは外套を脱ぐ前に、その数を数えた。
母が来ると、子どもたちはすぐに懐いた。父は椅子を直し、ついでに頼まれた隣家の椅子まで直した。
市場では、娘さんかと聞かれた。
メアリーが答えに詰まると、母は手にしていた籠を持ち替えた。
「家族です」
それだけ言い、買い物を続けた。
帰ってから、メアリーは母の髪を梳いた。金色の髪には、一本も白いものがない。自分のこめかみには、もう数本あった。
「痛い?」
「ううん」
母の声を聞いて、絡まっていたところを、指でゆっくりほどいた。
子どもの靴は、直す前に小さくなった。
柱の傷も増えた。踵を上げるな、と父親が言い、上げてない、と息子が言い張った。姉は横から足元を見て、上げてる、と告げ口した。
何度言っても食べるのが遅かった娘が、いつの間にか誰より早く食卓を離れる。学校の話を尋ねても、別に、としか答えなくなった。
ある朝、忘れた昼食を追いかけて渡すと、人前で大きな声を出さないでと言われた。
腹が立った。その日じゅう腹が立ち、夕方、娘の好きな煮込みを作った。
帰ってきた娘は、鍋を見て少しだけ顔を上げた。
「昼、ありがとう」
「食べたの」
「食べた」
それ以上は聞かなかった。
店では、若い娘へ仕事を教えるようになった。昔、自分が間違えた注文を、その娘も間違えた。叱りかけてやめ、布をほどいて一緒に数え直した。
初めて任された仕入れがうまくいった日は、帰りに甘いものを四つ買った。サムは一つ食べてから、何かあったのかと聞いた。
「先に聞いてよ」
文句を言いながら話すと、夫は残りをゆっくり食べた。子どもたちはもう食べ終え、外へ出ていった。
冷めたお茶を飲みながら、メアリーはその日あったことを、初めから話し直した。
ノアの眼鏡が、少し厚くなった。
やがて、彼が来るのを待つより、こちらが鍋を持って訪ねる方が多くなった。部屋はよく片づいていたが、炉の灰だけが溜まっていた。
「父さんに、何か伝える?」
「字が小さいって」
その晩、父にそう書いた。
次の手紙は、ひどく大きな字で届いた。ノアは笑ってから、読み終えるまで黙っていた。
彼が亡くなった後、手紙の束を両親へ渡した。父は一番上の封筒を開きかけ、膝へ戻した。母が、その手の上へ自分の手を重ねる。
メアリーはお茶を淹れた。
三人とも、冷めるまで飲まなかった。
娘が家を出る時、荷物を詰めたのはメアリーの方だった。
「これも持っていきなさい」
「向こうにも売ってる」
「でも、あるんだから」
包みを入れては出され、結局、小さな裁縫道具だけが残った。
戸口で抱こうとすると、娘は先に腕を回してきた。もう頭へ顎を載せられない。外套の肩越しに、柱の古い傷が見えた。
「ちゃんと食べるのよ」
娘は頷いた。
数年後、息子も出ていった。
急に広くなった家で、サムは夜中まで靴を直した。メアリーは仕事を増やした。煮込みを作りすぎる癖だけが、いつまでも抜けなかった。
「またこれか」
「作ってない人は、文句を言わない」
夫は笑い、パンで皿を拭った。
休みの日には、二人で少し遠くまで歩いた。サムが途中で腰を伸ばす。待っている間、メアリーも膝を休めた。
店先に綺麗な靴が並んでいた。若い頃なら欲しがっただろう。今は窓へ映る自分たちを見た。くたびれた上着の二人が、同じ方へ首を傾げている。
「何?」
「別に」
歩き出す時、自分から夫の腕へ手を掛けた。
六十歳になった年、娘が子どもを産んだ。
会いに行くと、髪を乱した娘が、静かにして、と唇へ指を当てた。寝床では、赤ん坊が口を開けて眠っていた。
そばに、書きかけの手紙がある。
『お母さん。全然、眠らなくて――』
メアリーは続きを読まず、外套を脱いだ。
「少し寝なさい」
「でも、すぐ起きる」
「起きたら、私が抱く」
娘は迷い、やがて頷いた。横になると、すぐに寝息が聞こえた。
抱き上げた孫は、記憶よりずっと軽かった。眠っている娘の額から髪を払い、その手で赤ん坊の背を撫でた。
孫は少しずつ増えた。
訪ねてくる日は、夫が朝から窓を拭いた。帰った後は、二人で長く椅子に座った。疲れたね、と言い合い、翌朝には、今度いつ来るだろう、と話した。
サムが、小さな靴を二足作った。大きさを確かめるために届いた紙には、子どもの足の輪郭が描かれている。夫は仕事台へ広げ、どうしてこんなに小さいんだ、と笑った。
その紙は、靴を送り終えても捨てなかった。
夫が倒れたのは、メアリーが六十三歳の秋だった。
店から戻ると、作りかけの靴が台に載っていた。いつものように、部屋の奥へ名前を呼んだ。
返事がなかった。
医者を呼びに走った。その後のことは、順番をうまく思い出せない。誰が子どもたちへ知らせたのか。最後に、何を話したのか。
前の晩、サムは靴下を裏返しに脱いでいた。
何度言えば分かるの、と、確かに自分は言った。
葬儀の後、それが洗濯籠の底から出てきた。裏返ったまま干そうとして、座り込んだ。
声が出た。
誰もいない台所で、片方ずつ、ゆっくり表へ返した。
子どもたちが帰ると、家はまた静かになった。
一人分の食事には、まだ慣れなかった。肉屋でいつもの量を頼み、包まれてから言い直した。人前では、そういう小さな間違いの方が困った。
半年経って、店の若い子の話に声を出して笑った。
帰宅して、夫の仕事台へ買ってきた花を置いた。
「今日ね」
話しかけてから、椅子へ座った。
その日あったことを、初めから話した。
母が訪ねてきた夜、メアリーは久しぶりに髪を梳いてもらった。
母の膝へ、白い髪が一本落ちた。
「随分、白くなったでしょう」
「うん」
母は指でそれを拾った。
手入れの話をするつもりだった。目も悪くなったと笑うつもりだった。けれど、母の手が頭へ戻ると、うまく口を開けなかった。
「お母さん」
「いるよ」
その返事を聞くと、背中を丸めて泣いた。
母は何も言わず、髪を梳く手を止めた。父は炉に薪を足し、少し離れたところに座っていた。
六十七歳で店の仕事を離れ、娘の暮らす山あいの町へ移った。
荷物を詰めると、夫の古い紐や革の切れ端が、あちこちから出てきた。あれほど捨てろと言ったのに、いざ自分で捨てるとなると、どれも使えそうに見えた。
最後に戸口の柱へ手を当てた。
低い傷は自分のもの。その隣に娘と息子の傷がある。指先で辿ってから、手を離した。
新しい住所は、両親へ何度も書いた。
引っ越しの日、娘が荷物を見て溜息をついた。
「これ、全部要るの?」
「いつか使うのよ」
答えてから笑った。娘は首を傾げた。
最初の冬、朝起きると窓の外が真っ白だった。
孫に手を引かれて外へ出たが、十歩ほどで戻った。寒かった。孫は少しも寒くないと言い、濡れた靴下で駆け回った。
暖炉の前で靴下を乾かす。黒ずんだ木の杖は、椅子へ立て掛ける。
母から預かった時には必要なかった杖が、立ち上がる時の助けになっていた。持ち手は、自分の掌にもよく馴染んでいる。
七十歳の冬、子どもたちが四人集まった。
背の高くなった子もいれば、まだ椅子によじ登る子もいる。娘と息子が台所で言い合っていた。食べる前に菓子をやるな。お前だってやってる。昔と同じ声だった。
メアリーは安楽椅子へ腰を下ろした。
膝には、古い杖がある。
六つの石を指で確かめ、最後の空いた窪みを撫でた。母が話してくれた川や、会ったことのない家族。杖を見ると、その話を聞いた夜のことまで思い出した。
台所から娘の声が聞こえる。子どもを叱り、すぐに笑う声。布を束ねる紐で切った傷が、自分の指にはまだ残っている。
子どもたちに石のことを尋ねられ、メアリーは白い石へ指を置いた。
ルーシーという、小さな女の子がいたことから話し始めた。
息子が暖炉へ薪を足した。娘も台所から椅子を持ってきた。
窓の外が暗くなり、子どもたちへ毛布が掛けられた。
長い話が終わっても、子どもたちはしばらく黙っていた。
杖を握り直すと、床に座っていた男の子が顔を上げた。
「おばあちゃん」
七つ目の窪みを指差している。
「そこだけ、石がないよ」
メアリーは膝の上を見た。
「そうね」
「なくしたの?」
「いいえ」
「じゃあ、割れちゃった?」
「それも違うわ」
「じゃあ、なんで?」
メアリーは少しだけ笑った。
暖炉の薪が弾けた。床に腹這いになった子が振り向き、毛布の中の子が顔を出す。椅子のそばへ女の子が寄ってきた。
窓の外では、雪が降っている。
空いた窪みを親指で撫でた。
「まだ、来ていないのよ」
男の子は窪みを覗き込み、それから六つの石を順番に数えた。女の子が、祖母の顔と杖を見比べている。
「じゃあ、お話のお母さんが、おばあちゃんのお母さんなの?」
「ええ」
「おばあちゃんじゃなくて?」
メアリーは頷いた。
女の子は眉を寄せた。膝へ載せた祖母の手に、自分の手を重ねてみる。小さな指が、浮いた血管をそっとなぞった。
「そのお母さん、今も若いの?」
「そうね。私より、ずっと」
「変なの」
メアリーは笑った。
「私も、そう思う時があるわ」
台所で食器の触れ合う音がした。娘が盆を持って入り、子どもたちの間へ腰を下ろした。カップを受け取る時、メアリーの指が少し震えた。娘は何も言わず、底へ手を添えた。
「熱いからね」
「分かってます」
娘が笑った。
自分が母へ言ったのと、同じ声だった。
床の男の子が、椅子の脇に置いた封筒を見つけた。
「それも、お母さんから?」
「お父さんと、二人から」
「どこにいるの?」
メアリーは封筒を取り、切手の方を子どもへ向けた。
「今度はイタリアですって」
「今度は?」
「少し前は、別のところにいたのよ」
女の子が身を乗り出した。
「船で行くの?」
「そう」
「遠い?」
「ええ。とても」
封筒の端は擦れていた。知らない国の消印に、幾つか別の印が重なっている。宛名には、父の大きな字でメアリーの名が書かれていた。
昔、ノアが小さいと文句を言った字は、今ではメアリーにも読みやすかった。
便箋を広げる。
港の近くに部屋を借りたこと。窓の留め金を直したら、隣の家からも頼まれたこと。母は仕立て屋を手伝っていること。
裾を直した服を受け取りに、小さな女の子が来たそうだ。店を出る時、母へ手を振ってくれたという。
その下に、少し違う筆跡で、父さんはまた船で何も食べられませんでした、と書いてある。
メアリーはそこへ指を置き、笑った。
「何て?」
子どもに聞かれ、初めから読んでやった。
父が何も食べられなかったところで、皆が笑った。母の縫った服を着た子の話では、女の子が自分の袖口を見た。
最後の二行は、声に出すまで少し間があった。
暖かくなったら、帰ります。
ちゃんと食べているか。
「食べてますよ」
メアリーは便箋へ答えた。
娘が、カップを持ったまま笑っていた。
*
港の町では、まだ雪を見なかった。
海からの風は冷たく、メイは襟を押さえて店を出た。紙に包んだパンを胸へ抱えている。
通りの向こうで、イーライが片手を上げた。白い髪が風に乱れ、もう一方の手には、修理を頼まれた椅子を提げていた。
「また?」
「座ると傾くらしい」
「持って帰るところ、見られたでしょう」
「見られた」
「明日は二つになるよ」
イーライは椅子を持ち直した。
メイが笑い、その隣へ並ぶ。
角を曲がると海が見えた。岸壁へ繋がれた船が、ゆっくり上下している。荷を運ぶ男たちの声に、メイにはまだ聞き取れない言葉が混じった。
パンの包みを少し開き、端をちぎる。
「夕食前だぞ」
「知ってる」
差し出すと、イーライも食べた。
歩きながら噛み、紙包みへ目をやる。メイはもう一度ちぎって渡した。
店先に掛かった服が風に揺れた。昨日、裾を直したものだった。メイは足を緩め、縫い目が引きつれていないのを確かめてから、また歩き出した。
「手紙、着いたかな」
「もう着いてるだろう」
「暖かくなる前に、船を調べよう」
「ああ」
「今度は、途中で食べられるといいね」
イーライは返事をせず、残りのパンへ手を伸ばした。
メイは包みを閉じた。
「これは明日の分」
「さっきはくれただろう」
「さっきはね」
部屋へ戻れば、縫いかけの服がある。椅子を置く場所も空けなければならない。
メイは紙包みを抱え直した。
隣で、椅子の脚が壁へ当たった。イーライが向きを変えるのを待ち、二人で狭い道を抜けていった。
*
「会える?」
メアリーは手紙から顔を上げた。
女の子が、まだ袖口を握っていた。
「暖かくなったらね」
「ほんとに来る?」
「来るわ」
「何て呼べばいいの?」
メアリーは少し考えた。
娘が隣で笑いを堪えている。
「会った時に、聞いてごらんなさい」
窓の外で自動車の警笛が鳴った。
息子が立ち上がり、カーテンの隙間から外を覗く。迎えではなかったらしく、また椅子へ戻ってきた。
誰かが菓子へ手を伸ばし、娘に止められた。小さな子が眠り始めている。床の男の子はまだ杖を見ていたが、やがて立ち上がり、メアリーの膝へ頬を寄せた。
手紙を畳み、封筒へ戻す。
男の子の髪を撫でると、眠いのではないと言った。そのまま動かなかった。
メアリーは背を椅子へ預けた。
台所で鍋の蓋が鳴った。夕食の匂いがしている。
「今日は、何人分?」
娘が指を折って数えた。
一人忘れ、息子に指摘されて、最初から数え直す。
メアリーも一緒に数えた。
皿は足りる。棚の上の、大きな皿も出せばいい。
膝の上で、杖が小さく震えた。
男の子が顔を上げた。
メアリーは髪を撫でる手を止める。
六つの石の隣で、空いていた窪みに光が集まっていた。
床に座っていた子が立ち、娘も口を閉じた。台所で、鍋の蓋がことりと鳴った。
かちん。
七つ目の窪みに、石が嵌まった。




