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カガリビ 破

カガリビ 破


翌朝、メイは樫の木へ行かなかった。


行こうとはした。


外套を着て、帽子へ髪を押し込み、杖まで持った。


そこでイーライに止められた。


「今日は俺も行く」


「昨日まで一人で行かせてたのに」


「昨日までとは違う」


「三日、来なかったから?」


「三日、来なかったからだ」


メイは黙った。


三日。


食べ物が来なかった日数。


それだけなら、まだ理由はいくらでも考えられる。


町で何かあった。


雪。


病気。


誰かが怪我をした。


でも二か月続いていたものが、急に三日途切れる。


イーライは猟銃を取った。


それを見て、メイも何も言わなくなった。


*


雪は夜のうちに少し降っていた。


足首まで沈むほどではない。


ただ古い跡はほとんど隠れていた。


二人は並ばずに歩いた。


イーライが前。


メイが後ろ。


「いつもこうだっけ」


「今日は俺が前だ」


「理由は?」


「何かあった時、先に気づける」


メイは少し考えた。


「私の方が、いろいろ見えるけど」


イーライは振り返らなかった。


「それでも、今日は俺が前だ」


その言い方に、メイは反論しなかった。


鼻の奥に、微かな臭いがした。


焦げ。


昨日の冷えた灰とは違う。


もう少し生々しい。


薪ではない。


火薬に似ている気もした。


メイは足を止めた。


イーライも止まる。


「匂った?」


「少し」


「どっちだ」


メイは鼻を澄ませる。


樫の方。


焦げ臭い。


では、小屋へ戻る方は。


振り返る。


そちらにも、薄い酸っぱさがあった。


「……両方」


イーライが眉を寄せる。


「甘い方は?」


「ない」


「じゃあ、帰るか」


「帰っても酸っぱい」


「樫は?」


「焦げ臭い」


イーライは短く息を吐いた。


「選びやすくはしてくれないんだな」


「そういう力じゃないから」


「分かってる」


「前に便利だって言ったの、取り消した?」


「取り消してない。頼りにしすぎないようにしてるだけだ」


メイは横目で彼を見た。


「それ、私にも言ってる?」


「お前が一番、頼りにしてるだろ」


「……少しだけ」


「知ってる」


イーライがわずかに笑った。


けれど、銃から手は離さなかった。


「行くだけ行く」


メイは頷いた。


未来の匂いは、正しい道を教えるものではない。


ただその先に、何かがあると知らせる。


今はどちらへ行っても何かがある。


それだけだった。


*


樫の木が見えてくる。


いつもの場所。


いつもの形。


遠くから見れば何も変わらない。


イーライが突然、片手を上げた。


メイは止まった。


「何?」


「足跡」


「見えないけど」


「近くまで行く」


二人はゆっくり進む。


樫の前。


雪は新しく積もっている。


それでもイーライはしゃがみ込んだ。


手袋を外し、雪の表面を払う。


その下。


少し硬くなった泥。


「これ」


メイも屈む。


「何?」


「踏まれてる」


「私じゃなくて?」


「違う」


イーライが指を当てる。


大きい。


メイの靴ではない。


エヴァンス夫人でも、サラでもない。


少し離れた場所にも同じ形が残っていた。


さらにもう一つ。


「何人?」


「分からない」


「一人じゃない?」


「たぶん」


メイは樫の割れ目を見る。


嫌な感じがした。


手を入れる。


空。


それ自体は昨日と同じだった。


しかし内側の土が、少し崩れている。


「ここも」


イーライが覗く。


「誰か触ったな」


メイは手を抜いた。


鼻の奥に焦げ臭さが強くなる。


「町の人?」


「食い物を持ってくる人間なら、こんな探し方はしない」


「じゃあ誰」


イーライは答えなかった。


少し離れた木へ向かう。


幹に傷があった。


縄を巻いたような擦れ跡。


その下の雪を蹴る。


蹄の跡が二つ現れた。


「馬」


メイが言った。


「ああ」


「ここまで来たの?」


「昨日か一昨日だ」


「分かるの?」


「新しくはない。でも雪の下に残ってる」


メイは周囲を見る。


誰もいない。


森は静かだった。


風も弱い。


それなのに、見られているような気がする。


杖を握る。


青い瞳で流れを見る。


枝。


空気。


雪。


小さな獣が走った跡。


鳥。


水。


それらの中に、人間の流れはもう残っていなかった。


「帰った?」


「町へ?」


「分からない」


「分からないこと、多いね」


「お互い様だ」


メイは鼻を鳴らした。


焦げ臭い。


まだある。


でもどこからか分からない。


「……小屋、見つかってるかな」


イーライはすぐには答えなかった。


「まだなら、時間の問題だ」


その言い方が嫌だった。


「じゃあ出る?」


「今すぐは無理だ」


「何で」


「食料が少ない。雪も増える」


「ここにいたら見つかる」


「山の中を何日も歩いたら、それより先に凍える」


メイは口を閉じた。


正しい。


だから腹が立つ。


イーライは樫の穴をもう一度確認した。


「今日は戻る」


「その後は?」


「考える」


「一人で?」


「二人でだ」


メイは彼を見る。


イーライは銃を持ち直した。


「お前を置いて考えるほど、俺は馬鹿じゃない」


メイは返事をしなかった。


ただ、少しだけ歩く速度を緩めた。


二人は小屋へ戻り始めた。


今度はメイが何度も振り返った。


樫の木。


誰もいない。


それでも、もう以前と同じ木には見えなかった。


二か月。


あの木は町と自分たちを繋ぐものだった。


パン。


塩。


豆。


石鹸。


言葉の代わりに届く、小さなもの。


それが今は、こちらへ来るための印になっていた。


*


途中で雪が降り始めた。


最初は細かかった。


すぐに粒が大きくなる。


イーライが空を見る。


「まずいな」


「雪?」


「ああ」


「昨日そんな予報じゃなかったけど」


「誰の予報だ」


「私」


「なら、外れることもある」


「慰めてる?」


「事実を言ってる」


メイは空気の流れを見る。


高いところで風が変わっていた。


西から雲が押し込んでくる。


「……結構降る」


「どれくらい」


「分かんない」


「それでも、俺よりは分かる」


メイは彼を見た。


「今のは褒めた?」


「急いだ方がいい、という意味だ」


「褒めてないね」


「歩けるなら十分だ」


二人は歩く速度を上げた。


雪はみるみる強くなる。


さっきまで見えていた足跡が、後ろから消えていく。


メイは立ち止まった。


「イーライ」


「何だ」


「見て」


自分たちの足跡。


少し前までくっきり残っていたものが、白く埋まっていく。


イーライも見る。


「……悪くない」


「何が?」


「向こうも追えない」


メイは鼻を澄ませた。


さっきまであった焦げ臭さが、少し薄くなっていた。


代わりに。


ほんのわずか。


甘い匂い。


「甘い」


イーライが振り向く。


「雪が?」


「違う。たぶん」


「なら、食べるなよ」


「食べないよ」


「前に食べただろ」


「一回だけ」


「一回で十分だ」


「子供じゃないんだから」


「雪を食べる奴に言われたくない」


メイは杖で彼の背中を小さく突いた。


「急いで」


「今のは痛い」


「歩けるなら平気」


「誰の真似だ」


「あなたの」


イーライは振り返り、ほんの一瞬だけ笑った。


「なら、責任を持って先に行け」


「最初からそのつもり」


二人は急いだ。


雪はさらに強くなった。


木々の向こうが白く霞む。


小屋が見えた時、メイは初めて安心した。


扉を開ける。


中へ飛び込む。


イーライが続いて入り、すぐに閉めた。


二人とも肩から雪を落とす。


「火」


メイが言った。


「分かってる」


イーライが炉へ向かう。


薪を一本。


もう一本。


手を止める。


いつもなら、そこで一本を戻す。


メイも見ていた。


鼻を澄ませる。


甘い。


まだ薄い。


焦げ臭さはない。


「もう一本」


イーライが振り返った。


「いいのか?」


メイはもう一度匂う。


外では風が鳴り始めている。


煙は雪に潰される。


足跡も消える。


今夜だけは。


「うん」


「明日の分が減る」


「分かってる」


「それでも?」


メイは炉を見た。


「今夜、二人で凍えずに済むなら」


イーライは彼女の顔を見た。


それから、三本目の薪を炉へ入れた。


火が大きくなる。


壁まで明るくなった。


メイはその前へ座り、両手を伸ばした。


「暖かい」


「さっきまで一本だったからな」


「二本は大きすぎるって言ってたの、誰だっけ」


「お前だ」


「今日は三本」


「お前が決めた」


「じゃあ、正しい」


「そういうことにしておく」


メイが睨む。


イーライは笑った。


その笑いは短かったが、張り詰めていたものを少しだけ緩めた。


外では雪が激しくなっていた。


小屋を隠すように。


道を消すように。


追う側と、追われる側のあいだを、白く塗り潰すように。


その夜だけは、山が二人の味方をしていた。


夜になっても、雪は止まなかった。


むしろ強くなった。


風が小屋の壁を叩き、時折、屋根の上を何かが滑る音がした。


メイはそのたびに天井を見る。


「潰れない?」


「たぶん」


炉の前でイーライが答えた。


「たぶん?」


「今まで潰れてない」


「安心できない答えね」


「俺が建てた小屋じゃない」


「責任逃れ」


「猟師に言え」


「どこにいるのよ」


「知らん」


メイは毛布へ潜った。


炉には三本の薪が燃えている。


いつもより大きい火。


部屋の隅まで明るかった。


二か月暮らして、初めて見る小屋の顔だった。


壁の傷。


棚の歪み。


天井から吊した乾燥肉。


伏せた小さな鏡。


普段なら暗がりに沈んでいるものまで、今日は全部見える。


「明るいね」


「嫌か?」


「ううん」


メイは炉へ手を伸ばした。


「家みたい」


言ってから、自分で少し驚いた。


イーライも何も言わなかった。


外では吹雪が鳴っている。


町から逃げてきた。


追われている。


食べ物も少ない。


明日どうするのかも決まっていない。


それなのに、火の前だけを見ると、普通の冬の夜だった。


*


夕食は兎の残りと豆だった。


いつもより少し多く入れた。


イーライは何も言わなかった。


メイが匙で鍋を掻き混ぜながら振り返る。


「今日、数えないの?」


「何を」


「豆」


「数えてほしいのか?」


「別に」


「じゃあ数えない」


メイはもう一掴み入れようとした。


「それは多い」


「見てるじゃない」


「見える位置でやるからだ」


「けち」


「明日の飯だ」


メイは掴んだ豆を一粒だけ鍋へ落とした。


「一個なら?」


「……いい」


「勝った」


「何にだ」


鍋が煮える。


二人で食べた。


温かいものが腹に入るだけで、身体の力が抜けていく。


メイは器を抱えたまま、炉の火を見ていた。


「春になったら」


イーライが言った。


「何?」


「ここを出る」


メイが顔を上げた。


「急ね」


「急じゃない。前から考えてた」


「私には言ってなかった」


「言ったら、お前が今すぐ出るって言いそうだった」


メイは反論しかけた。


少し考える。


「……言うかも」


「だろ」


「でも今は言わない」


「少し賢くなったな」


「失礼ね」


イーライは器を置いた。


「雪が解けたら西へ行く」


「西?」


「ああ」


「海?」


少し間があった。


「見たい」


メイは笑った。


以前から知っている。


イーライは海を見たことがない。


山の向こう。


さらに向こう。


地図の端にある青い場所。


「大きいよ」


「見たことあるみたいに言うな」


「ないけど」


「じゃあ何で分かる」


「海なんだから大きいでしょう」


「川だって大きい」


「海はもっと」


「どれくらい」


メイは両腕を広げた。


「これくらい」


イーライが真顔で見た。


「小さいな」


「例えよ」


「分かりにくい」


「じゃあ自分で見なさい」


「だから見に行くって話だ」


「一人で?」


口にしたあと、メイは器の中を見る。


何でもないように聞いたつもりだった。


イーライは答えた。


「お前は来ないのか?」


メイが顔を上げる。


「誘ってる?」


「来たいなら」


「誘うの下手ね」


「じゃあ来なくていい」


「行く」


「どっちだよ」


「行く」


今度ははっきり言った。


イーライが笑った。


「なら、一緒だ」


メイも笑った。


鼻先に、ごく薄い甘さが触れた。


すぐに意味を探そうとして、やめた。


未来がどうなるかなんて、今はどうでもよかった。


甘いから行くわけではない。


自分が行きたいから行く。


そう決めた。


*


薪が一本、崩れた。


火の粉が小さく舞う。


イーライが火掻き棒で戻す。


「もう寝るか」


「まだ眠くない」


「朝起きないぞ」


「明日はどこにも行けないでしょう」


外を見る。


窓は半分以上、雪で塞がれている。


「たぶんな」


「じゃあ夜更かししていい」


「子供みたいな理屈だな」


「雪食べてないから大人」


「基準そこなのか」


メイは笑った。


それから、少しだけ静かになった。


火の音。


風。


二人の呼吸。


イーライは炉の反対側に座っていた。


近い。


二か月、ずっと近くにいた。


同じ小屋。


同じ食事。


同じ朝。


一つしかない寝台を使う時も、いつからか窮屈だとは思わなくなった。


なのに今夜は、妙に距離を感じた。


メイは手を伸ばした。


途中で止める。


何かを選ぼうとすると、匂いがする。


それが急に嫌だった。


触れるか。


触れないか。


そんなことまで、先に答えを知りたくなかった。


けれど、伸ばした手を引く理由も、もう見つからなかった。


指先が炉の熱を越え、イーライの手の近くで止まる。


彼の手は、薪を扱っていたせいか、節が赤くなっていた。


いつもなら傷や汚れを見つけて、何か言うところだった。


今はただ、その手に触れてみたいと思った。


イーライが気づく。


「どうした?」


「何でもない」


声が少しだけ掠れた。


手を引こうとした。


その手を、イーライが掴んだ。


強くはなかった。


逃げようと思えば、すぐ抜けるくらい。


けれど、触れた瞬間、メイの指がわずかに震えた。


冷えていたはずの手のひらに、彼の体温がじわりと広がる。


胸の奥が、火に近づいた時とは違う速さで跳ねた。


イーライの指も、ほんの少し迷うように動いた。


握るのか、離すのか。


その迷いが伝わってきて、メイはかえって息をしやすくなった。


彼も同じように、答えを決めていない。


メイは彼を見る。


「何」


「何でもない」


「真似しないで」


「お前が先にやった」


「ずるい」


イーライは手を離そうとした。


その気配を感じた途端、メイの胸に小さな焦りが生まれた。


自分でも驚くほど素早く、指が彼の手を追う。


メイが今度は握り返した。


「離さなくていい」


言葉にした途端、頬が熱くなった。


炉のせいにするには、熱が近すぎた。


イーライの親指が、握られた指の節に触れる。


一度だけ、確かめるように。


動きが止まった。


しばらく何も言わなかった。


炉の火が、二人の間で揺れている。


メイは鼻を鳴らさなかった。


匂いを確かめなかった。


分かったとしても、従うつもりはなかった。


今、手のひらにある温度を、自分の意思で受け止めていたかった。


イーライが少し近づいた。


衣服が擦れる音がした。


メイの呼吸が浅くなる。


逃げるつもりはないのに、身体だけが先に身構えた。


彼の顔が近づく。


目を閉じるべきか迷って、結局、最後まで見ていた。


イーライの視線が一度、メイの目から唇へ落ちる。


その動きに気づいた瞬間、メイの心臓が大きく跳ねた。


それでも、手は離さなかった。


メイも逃げなかった。


唇が触れた。


一度。


思っていたより短く、けれど離れたあとも熱が残った。


二人とも黙っている。


メイは自分の唇に意識が集まるのを感じた。


何か言わなければ、今までと同じふりができなくなる気がした。


「……何か言って」


メイが言った。


「何を」


「知らない」


「じゃあ言えない」


「こういう時くらい何かあるでしょう」


「メイ」


「何」


「うるさい」


声はいつもと変わらなかった。


けれど、握った手は離れなかった。


もう一度、唇が触れた。


今度はメイが笑わなかった。


触れる前よりも、二人の間にある沈黙は近かった。


外で風が強く吹いた。


小屋が軋む。


それでも炉の火は消えなかった。


*


夜が深くなる頃、火は少し小さくなっていた。


毛布の中で、メイはイーライの胸へ額を寄せていた。


外はまだ白い嵐だった。


「暑い」


イーライが言った。


「寒いよりいいでしょう」


「毛布半分返せ」


「嫌」


「俺の方が出てる」


「大きいから」


「関係ない」


「ある」


イーライが毛布を引く。


メイも引いた。


「やめろ」


「そっちが離して」


「お前が全部持ってる」


「私の方が寒がりなの」


小さな争いの末、毛布はだいたい半分ずつになった。


メイは目を閉じる。


少しして、


「イーライ」


「何だ」


「海、行こうね」


返事が来るまで少し間があった。


「ああ」


「絶対?」


「春になったらな」


「約束?」


「約束」


メイはその言葉を聞いて、もう一度目を閉じた。


未来の匂いは確かめなかった。


約束が叶うかどうかを、今知る必要はなかった。


炉の中で薪が静かに崩れた。


大きな火は、もう小さくなっていた。


けれど二人には、それで十分だった。


外では吹雪が、昨日までの足跡をすべて消していた。


朝、目を覚ますと静かだった。


あまりに静かで、メイはしばらく目を開けなかった。


昨夜まで壁を叩いていた風の音がない。


屋根を滑る雪の音もしない。


代わりに、すぐ近くから規則正しい呼吸が聞こえた。


目を開ける。


イーライが眠っている。


メイは少しだけ顔を上げた。


近い。


昨夜より、朝の方が恥ずかしかった。


寝台から抜け出そうと身体を動かす。


「寒い」


目を閉じたまま、イーライが言った。


メイは止まった。


「起きてたの?」


「今起きた」


「じゃあ離して」


「毛布を持ってくな」


見ると、毛布はイーライの身体に半分巻きついていた。


「私のじゃないの?」


「二人のだ」


「いつから?」


「二か月前から」


「初耳」


「今、言った」


メイは毛布を少し返した。


イーライが目を開ける。


しばらく互いの顔を見る。


「……何」


「別に」


「朝からそれ?」


「昨日のお返し」


メイは枕代わりの布を投げた。


イーライが顔で受ける。


「痛え」


「嘘」


ようやく、いつもの調子に戻った。


それが少し嬉しかった。


*


扉は半分、雪に埋まっていた。


二人で押して開ける。


外は真っ白だった。


樫へ続いていた道も。


町の方角も。


昨日、二人が残した足跡も。


全部ない。


雪が山を作り直したようだった。


イーライが小屋の周りを一周する。


メイは入口で待った。


戻ってきた彼が首を振る。


「何もない」


「人の跡も?」


「ない」


「じゃあ、連中も?」


「少なくとも、ここにはいない」


メイは山を見る。


追手がどこにいるのか考える。


鼻を澄ませる。


何も匂わなかった。


選んでいないからだ。


メイは、今日ここに残ることを考えてみた。


薄い甘さ。


それから、わずかな酸っぱさ。


「どうだ?」


「今日は、ここにいても悪くないみたい」


「明日は?」


「明日は明日」


イーライが頷く。


「それでいい」


メイは彼を見る。


少し前なら、明日のことまで嗅ごうとしていたかもしれない。


今はしなかった。


*


吹雪のあと、数日は山へ出られなかった。


雪を掻き。


薪を割り。


屋根から雪を落とした。


食べ物は目に見えて減った。


兎の肉はなくなった。


パンもなくなった。


豆は、袋の底が見え始めた。


五日目の朝。


イーライが袋を逆さにして、掌へ豆を落とした。


メイが横から覗く。


「数えられる?」


「数えたくない」


「何粒?」


「聞くな」


「少ないんだ」


「多けりゃ見せてる」


メイは黙った。


イーライは豆を袋へ戻した。


「今日は行く」


壁から猟銃を取る。


メイも立ち上がった。


「私も」


「雪が深い」


「またそれ?」


「今回は本当に深い」


「二人の方が見つけやすい」


イーライは何か言おうとした。


メイが先に続ける。


「流れも見える。匂いもある。それに」


猟銃を見る。


「教えたでしょう」


イーライは短く息を吐いた。


「撃つかもしれないぞ」


「分かってる」


「持つだけじゃない」


「それも分かってる」


イーライは念を押すように言った。


「獲物がいたら、お前が撃つ」


少し怖かった。


それを隠して、


「分かった」


と答えた。


*


昼を過ぎても獲物は見つからなかった。


吹雪が古い足跡を消している。


新しい跡を見つけても、途中で雪に埋もれていた。


二人は少しずつ山を登った。


木が減る。


風が強くなる。


赤褐色の岩肌が、雪の間から見え始めた。


メイは足を止めた。


見覚えがある。


「ここ」


イーライも周囲を見る。


「前に羊を見たところか」


「もう少し上」


あの日。


雄同士が角をぶつけ合っていた。


ゴン、と山へ響いた重い音。


負けた雄は退き、勝った雄は追わなかった。


そして群れの中から、赤い角の一頭がメイを見ていた。


何も言わず。


ただ、何かを問うように。


メイは杖を握り直した。


「上まで行くか?」


イーライが聞く。


食料を探すために、上へ行く。


そう考える。


甘い匂いがした。


同時に、焦げ臭い。


メイは鼻を押さえた。


「また両方」


「戻るか?」


戻る。


酸っぱい。


メイは首を振った。


「上」


「分かった」


二人は登った。


*


岩陰を回ったところで、イーライが急にしゃがんだ。


メイの外套を引く。


「いた」


声を落とす。


少し先。


雪の薄い斜面に、一頭のビッグホーンがいた。


雄だった。


大きな身体。


巻いた角。


岩の隙間から出た草を食べている。


メイは息を止めた。


角が赤い。


乾いた血のような赤。


火から引き抜き、冷え始めた鉄のような色。


間違いない。


あの日の一頭だった。


メイは動けなかった。


「でかいな」


イーライが囁く。


彼は何もおかしいとは思っていない。


「ねえ」


「何だ」


「角」


「角?」


「何色に見える?」


イーライが訝しそうにメイを見る。


それからビッグホーンへ視線を戻した。


「茶色」


やはり。


「赤くない?」


「前も言ってたな」


「見えないの?」


「普通の角だ」


イーライには、本当にそう見えている。


ビッグホーンが顔を上げた。


こちらを見る。


メイと目が合った。


逃げない。


あの日と同じ黒い目だった。


イーライがゆっくり猟銃を外す。


メイは彼を見る。


差し出された。


「撃てるか」


メイはすぐには受け取らなかった。


「あれを?」


「十分な肉になる」


「でも」


「でも?」


メイは赤い角を見る。


普通の獣ではない。


そう言おうとして、やめた。


何が普通ではないのか説明できない。


赤い角は自分にしか見えない。


声を聞いたわけでもない。


危害を加えられたわけでもない。


ただ、二度目に会った。


それだけだ。


「……何でもない」


銃を受け取る。


重さが腕へかかる。


ビッグホーンはまだ逃げなかった。


「気づいてるよね」


メイが呟く。


「何が?」


「私たち」


「たぶんな」


「なのに逃げない」


「そういう時もある」


イーライには、それ以上の意味はない。


メイは銃床を肩へ当てた。


赤い角が照準の向こうへ入る。


撃つ。


そう考える。


甘い。


強い。


食べ物。


生き延びること。


空腹が満たされる未来。


そして。


焦げ臭い。


これまで嗅いだどの臭いより濃かった。


火そのものを鼻の奥へ押し込まれたようだった。


メイの目に涙が滲む。


「どうした」


「すごく臭う」


「悪い方か?」


「両方」


銃口が僅かに揺れる。


撃たない。


そう考えてみる。


酸っぱい。


胸の中に後悔のようなものが残る。


「……嫌」


「何が」


「どっちも嫌」


イーライはしばらく黙った。


「なら俺が撃つ」


手が伸びる。


メイは銃を引いた。


「待って」


イーライの手が止まる。


「私が撃つ」


「いいのか?」


答える前に、ビッグホーンと目が合った。


やはり逃げない。


メイには、それが自分を待っているように見えた。


腹が立った。


何を待っているのか。


何を見ているのか。


何が欲しいのか。


何一つ分からない。


それでも、ここで銃を下ろせば、きっと後悔する。


匂いではなく。


メイ自身がそう思った。


息を吐く。


銃を固定する。


「撃つ」


イーライが横で頷いた。


「ゆっくり引け」


メイは引き金へ指をかけた。


ビッグホーンの黒い目が、自分を見ている。


その奥に何かを探した。


何も分からなかった。


引いた。


パンッ。


肩へ衝撃が走った。


白い煙。


耳の奥で音が跳ね返る。


赤い角のビッグホーンが大きく身体を揺らした。


前脚が崩れる。


雪へ倒れた。


その瞬間。


メイの中へ、何かが入った。


熱ではなかった。


声でもなかった。


言葉もなかった。


胸の奥に、突然、自分のものではない感情が生まれた。


強い。


あまりに強く、息が詰まった。


怒りではない。


憎しみでもない。


殺したいという衝動でもなかった。


もっと単純だった。


戦う。


それが当たり前なのだという感覚。


傷つけられれば向かう。


奪われるなら取り返す。


遮るものがあれば押し返す。


それなのに。


どうして、戦わない。


意味だけが直接、胸の中にあった。


誰かに聞かれたのではない。


問いという形ですらなかった。


戦わないということが、理解できない。


そんな感情だった。


「……っ」


メイが胸を押さえる。


猟銃が下がった。


「メイ?」


イーライが支える。


「どうした」


答えられない。


知らない感情が、自分の中を走っている。


怖い。


だから逃げる。


それがメイには当たり前だった。


争う必要がなければ、争わない。


逃げられるなら、逃げる。


なのに今は、その考えへ別の何かがぶつかってくる。


どうして。


なぜ向かわない。


なぜ戦わない。


メイは強く目を閉じた。


「……私じゃない」


「何が?」


「分かんない」


イーライがメイの顔を見る。


「座れ」


「平気」


「平気な顔じゃない」


「大丈夫」


それでも膝が少し震えていた。


イーライが銃を受け取る。


「ここにいろ」


彼は倒れたビッグホーンへ向かった。


メイはその場に立ったまま、胸を押さえていた。


感情は少しずつ薄れていく。


消えはしない。


底へ沈んでいく。


もともとそこにあったもののように。


メイは怖くなった。


*


「メイ」


呼ばれて顔を上げる。


イーライが倒れたビッグホーンの横にいた。


「来い」


メイは近づいた。


雪の上に血が広がっている。


雄はもう動いていなかった。


イーライが身体を確認する。


「一発だ」


褒められたのだと思う。


メイは答えなかった。


視線は角へ向いていた。


「……赤くない」


「何が?」


メイはしゃがんだ。


角に触れないよう、顔を近づける。


茶色だった。


年輪のような筋が走る、ごく普通のビッグホーンの角。


赤い色はどこにもない。


「角」


イーライが怪訝そうな顔をする。


「最初からそうだろ」


メイは首を振った。


「赤かった」


「お前にはな」


その言葉で、メイは彼を見る。


「俺には最初から普通だった」


イーライはそう言って、獲物へ視線を戻した。


それだけだった。


彼にとっては、一頭のビッグホーンを狩っただけなのだ。


メイは角を見る。


赤は消えた。


胸の底には、さっきまで自分にはなかった感情が残っている。


メイはゆっくり左手を伸ばした。


角へ触れようとする。


指先が届く直前。


なぜか止まった。


今は触れてはいけない。


理由は分からない。


メイは手を引いた。


「持って帰れる?」


「全部は無理だ。ここで捌く」


「手伝う」


「できるか?」


メイは頷いた。


「私が撃ったんだから」


イーライは一度だけメイを見た。


「ああ」


二人は作業を始めた。


*


帰る前、イーライが猟銃を確認した。


撃鉄の辺りに残っていた潰れた雷管を外す。


そのまま雪へ落とそうとする。


「待って」


イーライの指が止まった。


「何だ」


「それ、ちょうだい」


「これ?」


小さな金属片。


撃つ前は丸みがあったものが、今は潰れている。


「うん」


「もう使えないぞ」


「分かってる」


「何に使う」


メイは雷管を見る。


あの一発。


赤い角。


倒れた身体。


そして、自分の中へ入ってきた知らない感情。


「持っていたい」


「撃った記念か?」


メイは顔をしかめた。


「そういう言い方しないで」


「じゃあ何だ」


「分かんない」


イーライはしばらく見ていたが、やがて雷管を渡した。


「なくすなよ」


「使えないんでしょう?」


「欲しいって言ったのはお前だ」


「そうだけど」


掌に乗せる。


冷たい。


ただの潰れた金属だった。


何も起こらない。


それでも、捨てる気にはなれなかった。


*


小屋へ戻った時には日が暮れていた。


持ち帰った肉をイーライが処理する。


メイも黙って手伝った。


今夜食べる分。


明日の分。


干す分。


それだけの肉がある。


数日前まで底の見えた食料棚が、少しだけ埋まった。


撃つことを選んだ先にあった甘い匂い。


これだったのかもしれない。


メイはそう思った。


では焦げ臭さは。


胸の奥に残る感情が答えなのか。


それとも、まだ先にあるのか。


分からなかった。


食事のあと、メイは外套のポケットへ手を入れた。


雷管を取り出す。


炉の火へかざす。


小さな金属片。


何の変哲もない。


それから荷物の底を探った。


小さな布袋を取り出す。


古びている。


表には赤い糸で星が一つ刺繍されていた。


セントルイスの友人。


アビーからもらった薬袋。


薬はほとんど残っていない。


それでも、ずっと持っていた。


メイは赤い星を親指でなぞった。


一瞬だけ、故郷を思い出す。


宿。


母。


ルーシー。


アビー。


ずいぶん遠くまで来た。


「それ、まだ持ってたんだな」


イーライが言った。


「当たり前でしょ」


「何入ってる?」


「いろいろ」


「何だよ、いろいろって」


「女の子の秘密」


「聞かなきゃよかった」


メイは少し笑った。


袋の口を開く。


右手に持った雷管を、その中へ落とした。


こつ。


小さな音がした。


メイの手が止まる。


胸の奥。


昼間に入ってきた感情が、ほんの一瞬だけ脈打った。


戦う。


意味だけが浮かび。


すぐに沈んだ。


「どうした?」


イーライが聞く。


メイは袋の口を閉じた。


「……何でもない」


炉の向こう。


壁には杖が立て掛けられていた。


白い石。


枯れた金。


その下には、まだ五つの窪みが空いている。


メイはしばらくそれを見ていた。


何も変わっていない。


少なくとも、今は。


赤い星の袋を胸元へしまう。


その中には、今日撃った一発の残りが入っていた。


そしてメイの中にも。


今日までなかったものが、一つ残っていた。


夜中に、メイは目を覚ました。


炉の火は小さくなっている。


イーライは隣で眠っていた。


外は静かだった。


吹雪の後に残った雪が、月明かりを薄く返している。


メイはしばらく目を閉じていた。


胸の奥に、昼間の感情がまだ残っている。


戦う。


その意味だけを持った、知らない感覚。


自分のものではない。


そう思うのに、もう身体のどこかへ馴染み始めている気もした。


眠れそうになかった。


メイはそっと寝台を抜け出した。


床が冷たい。


毛布を肩へ掛け、炉の前へ座る。


薪を一本足そうとして、やめた。


今夜はこのままでいい。


荷物の中から、赤い星の袋を取り出した。


昼間入れた雷管が、中にある。


メイは袋を膝へ置いた。


赤い糸の星を指でなぞる。


アビーの顔を思い出した。


セントルイスを出てから、どれくらい遠くへ来たのだろう。


距離ではなく。


自分自身が。


そんなことを考えながら、袋の口を開いた。


左手を入れる。


指先が薬草の欠片に触れる。


布。


小さな紙包み。


その奥。


硬いもの。


雷管。


指先が触れた。


パンッ。


メイの身体が跳ねた。


小屋が消えた。


雪。


岩。


銃床が肩へ食い込む。


火薬の臭い。


白い煙。


赤い角。


目の前で、ビッグホーンの身体が崩れる。


「――っ」


メイは息を呑んだ。


手を抜こうとした。


抜けない。


身体は小屋にいるはずなのに、感覚だけが昼へ引き戻されている。


引き金へかけた指。


撃つと決めた瞬間。


甘い匂い。


焦げた臭い。


黒い目。


そして。


あの感情。


戦う。


なぜ戦わない。


言葉ではない。


誰かの声でもない。


ただ意味だけが、胸の中へ流れ込む。


昼間より近い。


自分と、その感情の境目がなくなるほど近かった。


メイは雷管を握った。


すると、少しだけ前へ戻った。


イーライが銃を差し出す。


「撃てるか」


自分が受け取る。


さらに前。


雪を踏む。


岩場へ上がる。


赤い角。


もっと。


指に力を入れる。


今度は景色が乱れた。


火。


もっと古い火。


鉄を叩く音。


誰かの手。


火薬。


指。


銃。


知らない男の横顔。


一瞬だけ。


見たことのない場所。


知らない手が、この雷管を箱から取り出す。


その箱の蓋に、二つに割れた蹄の印が刻まれていた。


その前。


暗い。


何も分からない。


メイは怖くなった。


手を離した。


*


小屋へ戻った。


炉。


壁。


窓。


イーライの寝息。


全部ある。


メイは荒い呼吸を繰り返した。


左手には潰れた雷管が握られている。


「……今の、何」


声が震えた。


思い出したのではない。


自分が知らないものまで見えた。


雷管が見てきたもの。


触れられた手。


運ばれた場所。


一瞬だけ。


それが流れ込んできた。


メイは雷管を見る。


もう一度触れる。


指先だけ。


今度は、ほんの一瞬。


パンッ。


昼間の銃声。


すぐに消えた。


メイは息を止めた。


長く触れると、深くなる。


そういうことなのか。


試しに右手へ持ち替えた。


何も起きない。


左手へ戻す。


雪。


煙。


赤い角。


すぐに手を離した。


メイは自分の左手を見る。


その時だった。


「痛っ」


手の甲が熱くなった。


火の粉が落ちたような痛み。


メイは反射的に擦った。


熱い。


皮膚の下から焼けている。


「何……」


炉へ近づける。


左手の甲。


赤い線が浮かんでいた。


最初は細い傷に見えた。


けれど、ゆっくり形がはっきりしてくる。


二つに割れた跡。


丸みのある外側。


中央の裂け目。


メイは息を止めた。


雪の上で見た。


あの形。


ビッグホーンの蹄。


「……嘘」


擦る。


消えない。


唾で濡らしても。


布で拭いても。


赤いまま。


火傷のようなのに、皮膚は破れていない。


ただ、その形だけが手の甲へ焼きついている。


「メイ?」


後ろから声がした。


振り返る。


イーライが寝台から身体を起こしていた。


「何してる」


「起こした?」


「何か落としただろ」


メイは床を見る。


赤い星の袋が落ちていた。


「何だ、その手」


メイは反射的に左手を隠した。


「何でもない」


「それは何でもない手じゃない」


イーライが起きる。


メイは諦めて手を出した。


イーライの顔が変わった。


「火傷したのか?」


「してない」


「じゃあ何だ」


「分からない」


「またそれか」


「本当に分からないの」


イーライが左手を取ろうとする。


メイは一瞬だけ躊躇した。


けれど、まだ触れられても何も起きなかった。


イーライの指が赤い痣の周りを確かめる。


「痛い?」


「少し熱い」


「炉に触った?」


「触ってない」


「薬は?」


メイは床の袋を見る。


「あれに入ってる」


イーライが拾おうとした。


「待って」


声が強くなった。


イーライの手が止まる。


「何だ」


メイは雷管を握った。


「それ、私がやる」


イーライは不思議そうに見たが、袋へ触れなかった。


メイは左手を庇いながら袋を拾う。


中へ雷管を戻した。


こつ。


小さな音。


その直後。


今度は別の場所から音がした。


こつ。


二人とも振り向いた。


壁際。


杖。


メイは立ち上がった。


「今」


「聞こえた」


炉の明かりの中。


白い石。


枯れた金。


その下。


さっきまで空だった窪み。


何かが入っていた。


メイはゆっくり近づく。


炭のような黒い石。


艶がない。


光をほとんど返さない。


燃え尽きた薪を、そのまま丸く削ったようだった。


「……また増えた」


イーライも横へ来る。


「いつ入った?」


メイは首を振る。


「今」


「見てたのか?」


「音がした」


イーライが石へ手を伸ばそうとする。


「待って」


また強く言ってしまった。


彼が手を止める。


メイ自身も驚いた。


「どうした」


「私が触る」


左手を伸ばしかける。


痣を見る。


やめた。


右手で杖を取った。


黒い石は冷たかった。


白い石とも。


枯れた金とも違う。


何かが終わった色だった。


燃えた後。


残ったもの。


メイは炉へかざした。


黒の奥に、ごく細い赤があった。


火種のような。


消えきらない光。


その赤は、炉の火よりも、メイの左手に浮かんだ蹄の印に近い色をしていた。


メイが石を少し傾けると、白い石の表面にも、枯れた金の縁にも、同じ二つに割れた影が浮かんだ。


蹄の形。


雷管の記憶に残っていた印と同じだった。


メイの左手が、石の上で熱を持った。


雷管に触れた時と同じだった。


石が記憶を持っているのか。


それとも、雷管と石と、蹄の印が、同じ何かを別々の形で呼び起こしているのか。


その考えが浮かんだ瞬間、黒い石の奥で赤い光が一度だけ脈打った。


メイの脳裏に、雷管の記憶の最後の場面がよぎる。


知らない手。


箱。


暗い部屋。


そして、箱の蓋に刻まれた、二つに割れた蹄の印。


メイは石を落としかけた。


「イーライ」


「何だ」


「これ、雷管と同じものかもしれない」


「同じ?」


「印がある。あの手が見た箱に……この形があった」


メイは左手の痣を見た。


「この痣も、ただの傷じゃない。たぶん、記憶を開く鍵みたいなもの」


イーライは三つの石と雷管を見比べた。


「じゃあ、石が三つ揃うと何が起きる」


メイは答えられなかった。


黒い石の赤い光が、今度は雷管の中の金属へ反射した。


一瞬だけ。


三つの石の影が重なり、蹄の形になった。


「分からない」


メイは言った。


「でも、これは集まってるんじゃない。何かを完成させようとしてる」


イーライが眉を寄せる。


「何を」


メイは杖を握ったまま、黒い石を見つめた。


「雷管が見た場所。ビッグホーンの記憶。私の手に残ったもの。その三つを、同じ場所へ戻すこと」


言葉にした途端、左手の痣が強く熱を持った。


黒い石の赤い光が消える。


代わりに、遠くで何かが鳴った。


銃声ではない。


石を打ち合わせるような、乾いた音。


一度。


二度。


三度。


メイは窓の外を見た。


雪原の向こう。


吹雪に隠れて、何かがこちらを呼んでいる気がした。


イーライが低く言った。


「今のは、外か」


メイは頷いた。


「たぶん、次の石がある」


イーライは黙った。


メイは杖を壁へ戻す。


今度は三つの石が並んでいる。


白。


枯れた金。


炭の黒。


その並びは、偶然には見えなかった。


白から金へ。


金から黒へ。


そして黒から、まだ見えない何かへ。


雷管の記憶は過去を見せるだけではない。


石が増えるたび、蹄の印が反応し、記憶の奥にある場所へ近づいている。


左手の蹄は、その道を開く印なのだ。


その夜。


メイは赤い星の袋を枕元へ置かなかった。


少し離れた棚へ置いた。


雷管は中に入れたまま。


左手を胸の上へ置く。


赤い蹄の痣が、まだ微かに熱い。


目を閉じる。


それでも眠るまでの間。


メイは何度も、自分の左手を意識した。


触れれば、過去がある。


石が増えれば、その過去は一つの場所へつながっていく。


そして、その先には。


雷管を作った者と。


蹄の印を残したものと。


自分をここまで呼び寄せた何かがいる。


そのことを。


まだ誰にも説明できないまま。


朝になっても、痣は消えていなかった。


メイは左手の甲を炉の明かりへかざした。


赤い。


昨夜より色は落ち着いている。だが、二つに割れた蹄の形は消えていなかった。皮膚の下に押し込まれたような、鈍い赤。縁はわずかに紫がかり、中央だけが乾いた血のように濃い。


指を曲げる。


痛みはない。熱もほとんどない。


「見るの、何回目だ」


背後からイーライが言った。


「数えてたの?」


「起きてから五回」


「暇ね」


「お前が見せるからだ」


メイは手を下ろした。


壁には杖が立てかけてある。


白。


枯れた金。


炭の黒。


そして三つ目の石。黒曜石のように黒いのに、炉の光を受けると内部で赤い火が滲む。表面は滑らかではなく、細かなひびが網のように走っていた。ひびの奥には、溶けた鉄を閉じ込めたような鈍い赤が揺れている。触れていないのに、そこだけがかすかに脈打って見えた。


石は昨夜のままだった。


夢ではない。


もう、そう認めるしかなかった。


メイは棚の赤い星の袋を見る。中には雷管が入っている。触れれば、また何かが見える。


昨夜は怖くなって手を離した。


今朝は、別の気持ちが勝っていた。


確かめたい。


「何する気だ」


「何も」


「その顔で言うな」


「どんな顔よ」


「ろくでもないことを試す顔」


メイは黙った。


イーライが溜息をつく。


「当たりか」


*


最初に触ったのは木の匙だった。


左手を伸ばし、ほんの一瞬だけ触れる。


何も起きない。


「……あれ」


今度は少し長く。


温かい。


湯気。


豆。


鍋を掻き混ぜる手。


自分の手だった。


昨日の夕方。


映像はすぐに消えた。


メイは匙を置く。


「見えた」


「何が」


「昨日の私」


「今も見えてるだろ」


「そういう意味じゃない」


「分かりにくいな」


「黙ってて」


次は椅子だった。


座面へ左手を置く。


冷たい木の感触のあと、暗い小屋が浮かんだ。今より物が少ない。知らない男が炉の前に座り、濡れた外套のまま何かを削っている。


そこで途切れた。


「誰かいた」


「俺?」


「もっと前。知らない人」


もう一度触れる。


今度は長く。


同じ男。


冬。夏。


椅子を蹴る音。床に倒れる身体。笑い声。


映像が重なり、順番が崩れる。


「いっぱいある」


「椅子に?」


「たぶん」


「椅子が覚えてるのか?」


「そういう感じ」


イーライが椅子を見る。


「嫌だな」


「何で」


「座りにくくなった」


「今さら?」


メイは笑った。


だが、左手はもう椅子に触れなかった。


*


次に猟銃へ手を伸ばすと、イーライが止めた。


「それはやめとけ」


「どうして?」


「昨日ので十分だろ」


「だから確かめたいの。雷管だけなのか、ほかの物も同じなのか」


「匙と椅子で分かっただろ」


「銃はもっと長く使ってる」


イーライの顔が曇る。


「余計にやめろ」


「何かあるの?」


「何もない」


「じゃあいいでしょう」


「そういう問題じゃない」


メイは猟銃を見る。


「触るだけ」


「壊すなよ」


「触って壊れる銃なら、使わない方がいいよ」


イーライは言い返しかけたが、口を閉じた。


メイは猟銃を左手で持つ。


最初に来たのは、冷たい金属と木の重みだった。


少し力を込める。


パンッ。


銃声。


身体が揺れた。


だが、昨日ではない。


雪もない。


緑の季節。若いイーライが銃を撃っている。今より細く、笑っていた。


景色が切り替わる。


雨の日。銃を分解し、布で拭いている。


さらに古い記憶。


誰かの大きな手が、少年の手に銃を持たせている。


声が聞こえた。


「銃口は、人に向けるな」


メイは目を開き、手を離した。


「……どうした」


「誰に教わったの?」


「何を」


「銃」


イーライの表情が止まる。


「親父」


「最初に言われた?」


「何が」


メイは猟銃を見る。


「銃口を人に向けるなって」


沈黙。


イーライは銃を取り、壁へ戻した。さっきまでより、わずかに丁寧だった。


「そこまで見えるのか」


「長く触ったから」


「俺が言ってないことも?」


「うん」


「便利じゃないな」


メイは顔を上げる。


「前にも聞いた」


「今度は本気だ」


*


昼過ぎ、二人は肉を干し始めた。


細く切ったビッグホーンの肉を紐へ掛ける。


メイが一枚取る。


イーライも同じ肉へ手を伸ばした。


「それ私の」


「誰が決めた」


「今」


「じゃあ却下」


指が触れた。


メイの左手と、イーライの手の甲。


小屋が消える。


人。


人。


人。


ミダス。


声。


金色の髪。


メイ自身が見えた。だが、見ている場所が違う。人の肩越しに、押し合う群衆を見ている。


「どけ!」


自分の声ではない。


イーライだ。


向こうにメイがいる。誰かの手が金色の髪を掴む。


間に合わない。


押す。殴られる。殴り返す。


鋏が光る。


「やめろ!」


シャキン。


金色の髪が落ちた。


メイが叫ぶ。


流れ込んできたのは、景色ではなかった。


怖い。


奪われる。


守れない。


また間に合わない。


メイを連れて逃げる。


自分が守る。


自分が。


「――メイ!」


肩を掴まれ、小屋へ引き戻された。


肉。紐。炉。イーライ。


メイは息を吸い、左手を胸へ引く。


「何した」


イーライの顔が近い。


「……触った」


「それは分かってる」


答えられなかった。


心臓が速い。


さっきまでイーライの中にあった恐怖が、自分のもののように残っている。


「何を見た」


「ミダス」


イーライの顔から表情が消えた。


「どこまで」


「髪を切られた時」


沈黙。


メイは続けかけて、やめた。


あの恐怖まで。守れないと思ったことまで。


「それだけ?」


「……それだけじゃない」


イーライは視線を外した。


「そうか」


それだけだった。


怒りもしない。聞きもしない。


その方が苦しかった。


「ごめん」


「何が」


「勝手に見た」


「わざとじゃないだろ」


「でも見た」


「なら仕方ない」


「仕方なくないでしょ」


イーライがメイを見る。


「じゃあ、どうしろっていうんだ」


声は強くなかった。


「見られたものを戻せるのか?」


「できない」


「俺が忘れれば、お前も忘れる?」


「分かんない」


「なら仕方ない」


イーライは肉を一枚取り、紐へ掛けた。


メイも作業へ戻る。


しばらくして、彼女が言った。


「もう触らないから」


イーライの手が止まる。


「誰にも?」


「……できるだけ」


「俺にも?」


メイは答えに詰まった。


昨夜の寝台。握った手。唇。


あれが急に遠く感じられた。


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、どういう意味だ」


「分かんない」


イーライがかすかに笑う。


嬉しそうではなかった。


「そればっかりだな」


「本当に分かんないんだもの」


「分かってる」


二人は残りの肉を紐へ掛けた。


さっきまでなら、肩が触れる距離に立っていた。今は半歩離れている。


それだけなのに、小屋が広くなったようだった。


炉も、寝台も、椅子も、昨日までと同じ。


けれどメイは初めて、この小屋の中に触れてはいけない場所が増えたと感じた。


左手を見る。


赤い蹄の痣。


物に触れれば、過去がある。


人に触れれば、その人がいる。


同じ力ではない。


それを知った。


外で雪が屋根から崩れ落ちた。


二人は同時に顔を上げる。


それから、少し離れたまま、また手を動かした。


吹雪は、追う側の足跡も消していた。


三人の男は、倒木の陰に作った粗末な風除けで二晩を過ごした。


馬はもっと下へ置いてきた。


火は焚いた。


焚かなければ凍える。


だが薪は濡れ、煙ばかり出た。


「もう戻ろう」


若い男が言った。


返事はない。


髪を買った男は、火の前で濡れた手袋を乾かしている。


「聞いてるのか」


「聞いてる」


「なら帰ろう」


「嫌だ」


「理由は?」


男は顔を上げた。


髭には白い霜がついている。


「ここまで来た」


「それだけか」


「金は出た」


「三粒だ」


「出たことに変わりはない」


「四ドルの髪に釣られて、山で凍えてるだけだろ」


男の手が胸元へ動いた。


革袋。


その中に、金色の髪がある。


「川で砂金を拾った。まだ見つかる」


「指が動かねえ」


「なら動く奴が探せ」


若い男が立ち上がりかける。


三人目の男が薪を火へ押し込んだ。


じゅう、と煙が上がる。


「座れ。騒ぐと余計に冷える」


若い男は睨みつけた。


「俺は帰る」


髪を買った男が革袋を握る。


「金を置いていけ」


「先に払え」


「見つけたら払う」


「見つからなかったら?」


男は答えなかった。


若い男が鼻で笑う。


「それが本音か」


「何がだ」


「俺たちを帰す気がない」


「帰りたきゃ帰れ」


「帰る道も分からねえ」


その言葉で、三人とも黙った。


吹雪で消えたのは、メイたちの足跡だけではない。


自分たちが戻る道もだった。


髪を買った男は革袋を開いた。


金色の髪が火の光を受け、細く光る。


「本人を見つければ、話は早い」


「何も知らなかったら?」


「聞く」


「知らないと言ったら?」


男は髪を見つめた。


「知るまで聞く」


三人目の男が低く言った。


「殺すな」


「殺さない」


「脅しすぎるな。髪も切るな」


髪を買った男が薄く笑う。


「全部切れば、もっと高く売れるかもな」


誰も笑わなかった。


笑いはすぐに消えた。


*


昼前。


三人は再び樫の木へ戻った。


目印にしていた枝も、踏み固めた雪も消えている。


それでも木そのものは残っていた。


髪を買った男が幹の割れ目へ手を入れる。


空だった。


「やっぱりここだ」


若い男が周囲を見回す。


「ここからどうする」


「上へ行く」


「山はどっちも上だ」


髪を買った男は舌打ちした。


雪に残るものを探す。


足跡はない。


荷物を引きずった跡もない。


吹雪がすべて消している。


三人目の男が木の根元へしゃがんだ。


「これだ」


雪を払う。


小さな黒い欠片。


「炭か?」


「たぶんな」


「ここで火を焚いたのか」


「樫の根元で?」


「誰かが運んだんだろ」


髪を買った男が受け取る。


小さすぎて、いつのものかも分からない。


それでも捨てなかった。


「近い」


若い男が顔をしかめる。


「何で分かる」


「食い物を受け取る場所だ。住処が山の反対側ってことはない」


「半日歩くかもしれねえ」


「歩く」


「一日なら?」


「歩く」


「二日なら?」


男は答えなかった。


若い男が首を振る。


「本当に馬鹿だな」


「帰りたきゃ帰れ」


「だから道がねえんだよ」


三人目の男が立ち上がった。


「日が落ちる前に決めろ。進むか、戻るか」


髪を買った男は山の上を見た。


「進む」


若い男が吐き捨てる。


「戻れねえくせに」


*


少し離れた尾根に、ベン・クロウがいた。


三人より一日遅れて山へ入り、吹雪で動けなくなった。


追いついた時には、三人は樫の木を離れていた。


近づくことはできなかった。


三人。


自分は一人。


銃はある。


向こうにもある。


だから距離を取った。


木の陰から、三人が上へ進むのを見る。


「くそ」


小さく呟く。


止めるべきだった。


町を出る前に。


酒場で。


馬小屋で。


いくらでも機会はあった。


だが、そのたびに考えた。


殴り合いになったら。


銃が出たら。


誰か死んだら。


人が集まったら。


だから、まだ何も起きていない方を選んだ。


その結果がこれだった。


ベンは猟銃の革紐を握り直した。


三人の跡を追う。


雪が新しく柔らかい。


今度は消えない。


*


夕方。


髪を買った男が足を止めた。


「煙だ」


三人が顔を上げる。


山の斜面。


木々の向こう。


灰色の空へ、細いものが上がった気がした。


すぐに消える。


「雲だろ」


「違う」


男は歩き始めた。


若い男が腕を掴む。


「待て。もう暗くなる」


「見失う」


「夜の雪山を歩く気か」


男は腕を振りほどいた。


「ここで火を焚く」


「向こうから見えるぞ」


「見せる」


「何のために」


「いると知らせる」


三人目の男が煙の消えた斜面を見る。


「逃げるぞ」


髪を買った男は革袋を叩いた。


「逃げても跡は残る」


「吹雪で消える」


「今は止んでる」


若い男が黙った。


髪を買った男は荷物を下ろし、火を作り始めた。


一つ。


風を避けるため、岩陰に小さく。


少し離れた場所に、もう一つ。


若い男が眉をひそめる。


「二つも要るか」


「四人か五人いるように見せる」


「娘を怖がらせるのか」


「娘だろ」


「さっきまで魔女って呼んでたくせに」


髪を買った男は答えなかった。


二つの火が、暗い山の中で揺れた。


*


小屋では、メイとイーライが夕食を終えたところだった。


ビッグホーンの肉。


豆は入れなかった。


残り少ない豆は、もう少し取っておくことにした。


二人の会話は少なかった。


喧嘩をしたわけではない。


ただ、第五節から残った半歩がまだあった。


メイは器を洗う。


イーライは猟銃を手入れしている。


以前なら近くに座って覗いただろう。


今日はしなかった。


左手を使う時だけ、少し意識する。


痣は赤いまま。


「明日」


イーライが言った。


メイが振り向く。


「何?」


「ここを出る準備をする」


「急ね」


「急じゃない」


「昨日は言ってなかった」


「昨日より状況が悪い」


メイの眉が動く。


「何で?」


「補給場所を知られた。吹雪が止んだ。向こうが諦めた保証もない」


「二人で考えるって言ったよね」


イーライの手が止まった。


「考えてる」


「今、決めたじゃない」


「出る準備をするって言っただけだ」


「同じ」


「違う」


「私に聞いてない」


小さな沈黙。


イーライは銃を置いた。


「じゃあ聞く。ここに残りたいか?」


メイは答えようとした。


その時。


窓の外に何かが見えた。


橙色。


小さい。


遠い。


メイは立ち上がった。


「何だ?」


「火」


イーライも窓へ寄る。


メイは少し横へずれた。


肩が触れそうになり、反射的に左手を引く。


二人ともそれに気づいた。


何も言わなかった。


外を見る。


木々の隙間。


遠く。


火が一つ。


「……焚き火?」


「たぶん」


イーライの声が低くなった。


少しして。


別の場所にも光が見えた。


二つ目。


メイの喉が動く。


「二つ」


「ああ」


「町の人?」


「分からない」


「ベンたちかもしれない」


「かもしれない」


イーライは猟銃を取った。


メイはその動きを見る。


「何するの」


「火を消す」


「それだけ?」


「それだけだ」


「本当に?」


イーライが振り返る。


「何が言いたい」


メイは答えなかった。


ミダスの記憶。


イーライの中で見た恐怖。


守れない。


奪われる。


自分が守る。


それを知ってしまった。


だから今、彼が銃を取る意味まで勝手に読んでいる気がした。


それが嫌だった。


「……何でもない」


今度は自分が言った。


イーライは何か言いたそうにした。


結局、炉へ向かった。


燃えている薪を一本ずつ離す。


灰を被せる。


部屋が暗くなった。


メイは窓から外を見続けた。


遠い火。


一つ。


二つ。


ここには、もう自分たちの火しかないと思っていた。


二か月。


小さな火を守ってきた。


寒い夜に。


濡れた服を乾かすために。


食べるために。


一緒に暮らすために。


今、山には別の火がある。


イーライが最後の熾火へ灰を被せた。


小屋の中が暗くなる。


外の火だけが、はっきり見えた。


メイは鼻を澄ませなかった。


何を選ぶか、まだ決めていない。


だから未来も匂わない。


それでも分かった。


あの火は、暖まるためだけの火ではない。


山の中に、自分たち以外の誰かがいる。


そして、その誰かもまた。


自分たちなりの理由で、火を焚いていた。


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