カガリビ 序
カガリビ 序
火は、薪を二本くべると大きすぎた。
イーライは一本を火ばさみで引き抜き、石造りの炉の脇へ転がした。濡れた木がじゅう、と鳴って白い煙を吐く。メイは毛布を肩まで引き上げたまま、その一本を恨めしそうに見た。
「寒い」
「分かってる」
「分かってる人の火じゃない」
「煙が上がる」
イーライはそれだけ言って、炉の口を少し狭めた。
山へ逃げ込んで二か月。火を大きくしていい夜と、いけない夜の違いくらいはメイにも分かっていた。それでも寒いものは寒い。朝には水桶の表面へ薄い氷が張り、壁に掛けておいた靴は凍って革が曲がらなくなる。日中に雪を踏めば靴下まで濡れ、乾ききらないまま夜が来た。
小屋は昔の猟師が使っていたものらしかった。丸太を積んだ壁には隙間があり、強い風が吹くと細い雪が床まで入り込んだ。寝台は一つ。椅子は脚の長さが違うものが二脚。炉だけはまだ使えた。それだけで、最初に見つけた時は宮殿に思えた。
今では、メイは壁のどこから風が入るかまで知っている。
炉のそばには、昨日イーライが仕留めた兎の残りが吊られていた。肉はもう半分もない。豆が少し。固くなったパンが一つ。塩はある。
塩があるだけでも贅沢なのだと、ここへ来て知った。
「明日の朝、パン食べていい?」
「半分」
「一個ある」
「だから半分」
「残りは?」
「明後日」
メイは口を尖らせた。
「明後日の私は、明後日考えればいいのに」
「明後日のメイが怒るから、今日の俺が考えてる」
「余計なお世話」
そう言いながら、メイは少し笑った。
イーライも笑ったが、すぐ窓へ目をやった。
窓といっても、小さな板戸の隙間から外を見るだけだった。雪の向こうに針葉樹が黒く並び、そのさらに先は見えない。昼間なら尾根の向こうまで白く続いているのが分かる。
人影はなかった。
それでもイーライは一日に何度も確認した。
メイはその癖について何も言わなかった。
自分も同じことをしていたからだ。
火のそばに立て掛けた杖を取る。黒ずんだ古い木の杖には二つの石が嵌まっていた。乾いた白と、色の褪せた金。どちらも炉の明かりを受けても、宝石のようには輝かなかった。
メイは杖を持って外へ出た。
「どこ行く」
「水」
「俺が行く」
「昨日もあなたが行った」
「だから今日も俺が行く」
「意味分かんない」
イーライが立ち上がるより先に、メイは扉を開けた。
冷気が一気に入ってきた。
「閉めろ!」
「はいはい」
外は音が少なかった。雪が音を吸ってしまう。踏み出すたびに、きゅっ、きゅっと自分の足だけが鳴る。
メイは不揃いになった金色の髪を帽子の中へ押し込んだ。町で切られた右側だけが短く、どうしても耳の横からこぼれてくる。二か月経って少し伸びた。それでも鏡を見るたび、あの鋏の音を思い出した。
だから鏡は、もう布の下に伏せてある。
杖の先を雪へ突く。
目を閉じる必要はなかった。
青い瞳の奥で、地面の下を走るものを探す。雪解け水ではない。凍った地表のさらに下、岩の割れ目をゆっくり流れている水。細いが途切れてはいない。
「こっち」
誰に言うでもなく呟いて、斜面を少し下った。
倒木の脇に雪の薄いところがある。そこを掘ると、岩の間から水が滲んでいた。桶へ汲むほどではない。革袋へ少しずつ溜める。
最初の頃、イーライはこれを見るたび不思議そうな顔をした。
今では、メイが「こっち」と言えば黙ってついてくる。
それが少し嬉しかった。
帰り道、雪の上に小さな足跡を見つけた。
兎ではない。
メイはしゃがみ込んだ。
四つの指。細い爪痕。
「狐かな」
背後からイーライの声がした。
「だから何で来るの」
「遅いから」
「まだ五分」
「山の五分は長い」
「何それ」
イーライはメイの横にしゃがみ、足跡へ指を添えた。
「コヨーテだな。古い」
「食べられる?」
イーライが顔を上げた。
「何を」
「コヨーテ」
「食う気か?」
「お腹減った」
「明日は鹿を探す」
その言葉に、メイは足跡から顔を上げた。
「明日?」
「ああ。もう兎じゃ足りない」
イーライは立ち上がり、森の奥を見た。
「少し上まで行く」
メイも同じ方角を見る。
木々の向こうには山が続いている。ここから先へ二人で行ったことは、まだほとんどなかった。
「私も行く」
「駄目だ」
メイは即座に眉を寄せた。
「なんで」
「雪が深い」
「私にも足はある」
「銃を持って歩く」
「あなたが持つんでしょう?」
「だから危ないんだよ」
「ますます意味分かんない」
イーライは何か言い返そうとして、やめた。
少し考えてから、
「朝、起きられたらな」
と言った。
メイは目を細める。
「起きる」
「夜明け前」
「起きる」
「一回で?」
「……二回までなら」
「置いてくぞ」
「起きるってば」
二人で小屋へ戻った。
扉を開けると、さっき小さすぎると思った火が妙に暖かく感じた。
メイは革袋を置き、火の前へ手を伸ばす。イーライは濡れた外套を脱ぎながら、吊った兎肉を見た。
「今夜、全部食うなよ」
「食べない」
「信用してない」
「ひどい」
「昨日、豆を勝手に増やした」
「あれは勝手じゃない。鍋が増やしたの」
「鍋は豆を入れない」
メイは笑った。
笑い声が、小さな小屋の中に残った。
二か月前まで、ここはただ逃げ込んだ場所だった。
いつからか、帰ってくる場所になっていた。
その夜も火は小さかった。
けれど二人には、それで足りていた。
ミダスでは、昼間から酒場の椅子が空いていた。
少し前まで立って飲むしかなかった店だ。壁際には新しく増やした樽が二つ、そのまま封も切られずに置かれている。カウンターの端には、値札を付け直した採掘道具が積まれていた。
「半額でも売れねえ」
店主がぼやくと、隅で酒を飲んでいた男が笑った。
「もっと下げろ」
「お前が買え」
「要らねえよ」
笑いは続かなかった。
窓の外では、泥と雪の混じった道を荷馬車が一台通り過ぎた。以前なら新しく山へ入る男たちが乗っていた。今は逆だった。荷台には毛布と道具箱、それに家財らしい椅子まで積まれている。
町から出ていく荷馬車だった。
酒場の扉が開いた。
冷たい風と一緒に、見慣れない男が入ってきた。毛皮の襟のついた上着に泥の跳ねた長靴。年は三十を少し越えたくらいだった。
男は何も注文せず、カウンターの前へ立った。
「ここがミダスか?」
店主が目だけ向ける。
「だった場所ならな」
何人かが笑った。
男は気にせず、店内を見回した。
「金が出たって聞いた」
「遅かったな」
「どれくらい遅い?」
「墓掘りならまだ間に合う」
また笑いが起こる。
男は肩をすくめ、ようやく酒を頼んだ。
その時、奥の卓で一人の男が小さな布包みを開いた。
「そういや、これ見たか?」
中から出てきたのは、細い金色の束だった。
酒場の明かりを受けて、不自然なほど鮮やかに光った。
「それ、髪か?」
「見りゃ分かるだろ」
「誰のだよ」
男は得意そうに指でつまんだ。
「メイのだ」
何人かが顔を上げた。
見慣れない客が酒を口へ運ぶのを止める。
「メイ?」
「この町にいた娘だ」
「金髪の?」
「最初からじゃねえ」
別の男が口を挟んだ。
「赤っぽい髪だった」
「本当か?」
「俺は見てる」
「俺もだ」
金色の束を持った男が、それを指に巻きつける。
「いつの間にか、こうなった」
「いつの間にかじゃねえだろ」
誰かが言った。
「金が出始めてからだ」
少し間があった。
「……そうだったか?」
「少なくとも、俺が初めて見た時はまだ全部こんな色じゃなかった」
「で、今は?」
「全部金だ」
見知らぬ男が金色の髪を見る。
「面白いな」
「面白くねえよ」
店主が言った。
「金が出なくなったのも、その頃だろ」
今度は別の卓から声がした。
酒場が少し静かになった。
「関係ねえだろ」
「誰が分かる」
「娘の髪が金になって、山の金が消えた」
「馬鹿馬鹿しい」
「じゃあ、説明してみろよ」
誰も説明できなかった。
見知らぬ男が笑う。
「山の金を髪に移したんじゃないか?」
今度は何人かが笑った。
店主まで鼻で笑う。
「なんだそりゃ。黄金の魔女か?」
誰かが繰り返した。
「黄金の魔女」
「似合ってるじゃねえか」
また笑いが起きる。
ほんのしばらく前まで沈んでいた酒場に、少しだけ熱が戻った。
ただ、見知らぬ男だけは笑わなかった。
カウンターへ硬貨を置き、金色の髪を持つ男の前まで歩いていく。
「貸せ」
「嫌だね」
「見るだけだ」
「触ったら金取るぞ」
「いくらだ?」
男の笑いが止まった。
「……買うのか?」
「物による」
「髪だぞ」
「だからだ」
二人の間で、金色の束が揺れた。
店の隅からベン・クロウがその様子を見ていた。
以前より少し痩せていた。新しく買った上着はまだ着ているが、泥がついたままになっている。
ベンは黙って酒を飲んだ。
「その娘はどこにいる?」
見知らぬ男が尋ねた。
誰もすぐには答えなかった。
「もう町にはいねえよ」
やがて誰かが言った。
「男と一緒だ」
「どこへ?」
「知らねえ」
「山だろ」
別の声がした。
ベンが顔を上げた。
「誰が言った」
「みんな言ってる」
「みんなって誰だ」
「みんなだよ」
ベンは舌打ちして立ち上がった。
硬貨を一枚置き、外套を引っかける。
店主が、
「どこ行く」
と聞いた。
「仕事だ」
「仕事なんか残ってるか?」
ベンは答えず扉を開けた。
冷たい風が酒場へ入る。
外へ出る直前、もう一度だけ後ろを振り返った。
見知らぬ男はまだ金色の髪を見ていた。
「黄金の魔女」
誰かがまた口にした。
今度は、笑う者が少なかった。
夜明け前、メイは一度では起きなかった。
「二回までって言った」
肩を揺すられて毛布の中から顔を出すと、イーライが呆れた顔で立っていた。窓の隙間はまだ青黒く、炉には昨夜の熾火がわずかに残っている。
「まだ夜じゃない」
「朝だ」
「暗い」
「冬だからな」
「冬って不便」
「今さら?」
メイはしぶしぶ身体を起こした。寝台から足を下ろした途端、床の冷たさが靴下を通して上がってくる。昨夜炉の近くへ置いておいた靴は、完全には乾いていなかった。
イーライはすでに外套を着ていた。猟銃を壁から外し、火薬や小物を確かめている。
メイも身支度をし、炉のそばに立て掛けていた杖へ手を伸ばした。
そこで止まった。
白い石の隣に、もう一つ石があった。
「……え?」
杖を持ち上げる。
七つある窪みのうち、これまで埋まっていたのは一つだけだった。乾いた白い石。そのすぐ隣に、いつの間にか金色の石が嵌まっている。
金、と呼ぶには鈍かった。
土の中に長く埋まって色を失った金属のようで、光を当ててもほとんど輝かない。華やかな色だったはずなのに、どこか枯れて見えた。
メイは親指で撫でた。
冷たい。
「どうした?」
イーライが振り返る。
メイは杖を見たまま答えた。
「増えてる」
「何が」
杖を向ける。
イーライも近づき、二つの石を見比べた。
「前からじゃないのか?」
「違う」
「本当に?」
「自分の杖くらい分かる」
言ってから、少し自信がなくなった。
ミダスを出た夜のことは、ところどころ曖昧だった。怒鳴り声。伸びてくる手。切られた髪。走ったこと。エヴァンス夫人の顔。
杖を確認した覚えはない。
「いつ入ったんだろ」
イーライが金色の石へ触れようとしたので、メイは少し杖を引いた。
「何だよ」
「分かんないもの触らないで」
「お前は触ってたろ」
「私のだからいいの」
「ずるいな」
メイはもう一度石を見る。
白い石。
枯れた金色の石。
二つ。
増えた理由も、誰が入れたのかも分からない。
けれど、外は少しずつ明るくなっていた。
「帰ってから考える」
杖を手に取り、メイは扉へ向かった。
*
朝の山は、小屋の周りよりずっと白かった。
森を上がるにつれて雪は深くなり、足を下ろすたびに脛近くまで沈んだ。イーライが前を歩き、メイはその足跡を踏んで進んだ。
「これ、楽ね」
「俺が疲れる」
「二人分歩いてると思えばいいじゃない」
「何がいいんだ」
空気は冷たかったが、風は弱い。
針葉樹の枝から、ときどき雪の塊が落ちる。その音以外、ほとんど何も聞こえなかった。
しばらく歩いたところで、イーライが立ち止まった。
雪の上に跡がある。
細長い蹄。
メイもしゃがみ込んだ。
「鹿?」
「ああ。そんなに古くない」
イーライは周囲を見る。
メイも目を凝らした。
足跡を見るのとは少し違う。
その先に残ったものを探す。
踏み荒らされた雪。
折れた細い枝。
獣が通ったことで乱れ、まだ戻りきっていない空気。
流れ。
メイは森の奥を指した。
「向こう」
「見えたのか?」
「見えてない。でも行った」
イーライは少し考え、頷いた。
二人はさらに上った。
一時間ほどして、森が途切れた。
急に空が広くなる。
赤褐色の岩が露出した斜面だった。風が雪を吹き飛ばすためか、白い山肌の中でそこだけ土と岩の色が残っている。
イーライが片手を上げた。
メイも止まる。
岩の上に何かいた。
最初は鹿かと思った。
違う。
太い身体。
短い毛。
そして頭の両側から、大きな角が巻いている。
一頭ではない。
斜面の向こうに、何頭もの獣がいた。
「羊?」
メイが小声で聞く。
「ビッグホーン」
「羊にしては強そう」
「強いぞ」
雌らしい小さな個体と、若いもの。その少し離れたところに、大きな雄が何頭かいた。
そのうち二頭が向かい合っている。
一頭が後ろへ下がった。
次の瞬間、前へ走る。
ゴン――ッ。
鈍い音が山に響いた。
メイは肩を震わせた。
「撃った?」
「撃ってない」
イーライも少し笑っていた。
雄たちがまた離れる。
もう一度。
ゴン――ッ。
角と角がぶつかる。
銃声より低く、重い。
数度ぶつかったあと、一頭が顔を背けた。
そのまま数歩下がる。
もう一頭は追わなかった。
メイはしばらくその様子を見ていた。
「終わり?」
「たぶんな」
「もっとやらないの?」
「負けた方が退いたんだろ」
群れがゆっくり動き始める。
そこでメイは気づいた。
群れの奥。
一頭だけ、こちらを見ている雄がいた。
大きさは他とそれほど変わらない。
ただ、角の色が違った。
赤い。
鮮やかな赤ではない。乾いた血にも、熱を失いかけた鉄にも見える深い赤だった。
「ねえ」
メイが呟く。
「何だ」
「あの角」
イーライが目を凝らす。
「どれ?」
「赤いの」
「赤?」
メイは彼を見る。
「見えない?」
「茶色いのばっかりだろ」
もう一度、群れを見る。
赤い角の雄はまだこちらを見ていた。
目が合う。
不意に、声がした。
「何故逃げる?」
メイは振り返った。
誰もいない。
「どうした?」
イーライが聞く。
「今……」
もう一度。
「何故逃げる?」
今度ははっきり聞こえた。
男とも女とも分からない。
近くでも、遠くでもない。
メイは赤い角を見る。
雄は口を動かしていなかった。
それでも、その声がどこから来たのか分かった。
「何故戦わない?」
メイは眉を寄せた。
「……何よ」
「メイ?」
イーライが怪訝そうに見る。
「何でもない」
「何でもない顔じゃない」
赤い角の雄は動かない。
メイも目を逸らさなかった。
「逃げたんじゃない」
自分でも、なぜ答えているのか分からなかった。
「生きるために出てきただけ」
返事はない。
「戦う必要もないし」
赤い角の雄は、しばらくメイを見ていた。
それから首を巡らせる。
群れの後を追うように、岩場を上っていく。
赤い角が一度だけ朝日に光った。
そして見えなくなった。
「……変なの」
メイが呟く。
「何が?」
「羊」
「ビッグホーン」
「どっちでもいい」
イーライは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
メイは杖を握り直した。
掌の下には古い木の感触。
その少し上には、白い石と、いつの間にか増えていた枯れた金色の石がある。
山の上から風が降りてきた。
群れの蹄跡が、雪の上にいくつも残っていた。
その中に一つだけ、妙に深く刻まれた跡があった。
二つに割れた蹄の形。
メイは何となくそれを覚えておこうと思った。
その髪に最初に値段をつけたのは、三ドルだった。
高いのか安いのか、誰にも分からなかった。
「髪だぞ」
酒場の卓に置かれた金色の束を見ながら、持ち主の男が言った。
「だから三ドルだ」
先日ミダスへ来た余所者は、硬貨を三枚並べた。
「本物ならな」
「何が本物なんだよ」
「知らん」
男は笑った。
それでも硬貨を引っ込めなかった。
周りにいた者たちも、いつの間にか話をやめて見ている。髪の持ち主は束と三ドルを何度も見比べた末、首を振った。
「五ドル」
「三」
「四」
「三」
「けち」
「髪を買おうとしてる時点で十分馬鹿だ」
そこで笑いが起きた。
結局、四ドルで売れた。
ほんの一房だった。
その日のうちに、酒場では「あの髪が四ドルになった」という話になり、夕方には「黄金の魔女の髪が四ドルで売れた」に変わった。
翌朝には、五ドルになっていた。
*
町の外れで、男が小さな砂金を見つけたのは、その二日後だった。
大した量ではない。
爪の先ほどの粒が三つ。
以前なら誰も振り向かなかった。
だが見つけたのが、金色の髪を買った男だった。
「ほら」
酒場の卓へ皿を置く。
底に、小さな金色が三つ。
誰かが鼻で笑った。
「それだけ?」
「出たことが大事なんだよ」
「どこで」
「川上」
「まだ残ってたんだろ」
「俺がこれを持って行ったら出た」
男は胸元から布包みを取り出した。
金色の髪。
笑った者が黙った。
「偶然だ」
店主が言った。
「そうかもな」
男は髪を包み直した。
「でも、お前は持ってなかった」
それだけだった。
それだけで十分だった。
*
午後には、髪を見せてくれという人間が増えた。
「ちょっと触るだけだ」
「一ドル」
「見るだけだぞ」
「じゃあ半ドル」
馬鹿馬鹿しいと言いながら、硬貨を払う者がいた。
一人が髪を掌へ乗せ、目を閉じた。
「どうだ」
「何が」
「何か感じるか?」
「……髪だな」
笑いが起きる。
だが、その男は返す前にもう一度髪を見た。
店の隅でベンが黙って酒を飲んでいた。
「くだらねえ」
誰にともなく言った。
「じゃあ、お前は信じないのか」
「信じるも何もねえよ」
「でも髪は金になった」
ベンの手が止まった。
「だから何だ」
「山の金が消えた」
「だから何だって聞いてんだ」
声が少し大きくなった。
店内が静まる。
ベンは立ち上がった。
「メイが金を見つけた。それを俺たちが掘った。掘り尽くした。それだけだろ」
誰かが言った。
「全部か?」
「知らねえよ」
「じゃあ魔女じゃないって、どうして分かる」
ベンはその男を見た。
しばらくして、
「分からねえから、人を魔女にすんのか」
とだけ言った。
返事はなかった。
ベンは酒を残して店を出た。
*
その日の夕方、エヴァンス夫人の宿へ二人の男が来た。
一人はあの髪を買った余所者。
もう一人は見覚えのない若い男だった。
「泊まり?」
エヴァンス夫人が聞く。
「いや」
「じゃあ食事?」
「娘のことを聞きたい」
帳簿をめくっていた手が止まった。
「娘?」
「金髪の」
「そんな娘、この町には何人もいるよ」
「黄金の魔女」
エヴァンス夫人は顔を上げた。
二人を順番に見る。
「誰がそんな馬鹿な名前つけたんだい」
「町中でそう呼んでる」
「町中じゃない。馬鹿が数人だ」
余所者は笑った。
「どっちでもいい。どこへ行った?」
「知らないね」
「ここに泊まってたんだろ」
「だから?」
「行き先くらい聞いてるだろ」
エヴァンス夫人は帳簿を閉じた。
「客の行き先を他人に喋る宿なら、とっくに潰れてるよ」
「もう潰れかけてるじゃないか」
若い男が言った。
空気が変わった。
エヴァンス夫人はゆっくり顔を向ける。
男は目を逸らした。
「用が済んだなら帰りな」
二人はしばらく動かなかったが、やがて扉へ向かった。
余所者が最後に振り返る。
「あの娘が金を戻せるなら、町だって助かる」
エヴァンス夫人は答えなかった。
扉が閉まったあともしばらく、その場から動かなかった。
やがて奥へ入り、棚から紙袋を一つ取り出した。
パンを二つ入れる。
干し肉。
塩。
少し考えて、砂糖もひとつまみ加えた。
そこへサラが裏口から入ってきた。
エヴァンス夫人の手元を見る。
「また?」
「今日の分」
「最近、見られてる」
「分かってる」
「エイベルが、しばらくやめた方がいいって」
エヴァンス夫人は袋の口を閉じた。
「食べなきゃ死ぬよ」
「こっちが見つかっても?」
その手が止まる。
二人とも何も言わなかった。
外では、夕方の冷気が町へ降り始めていた。
少し離れた通りを、あの余所者が歩いていく。
胸元には、金色の髪。
その後ろを、さらに二人の男がついていた。
鹿は見つからなかった。
代わりに、イーライは兎を二羽仕留めた。
「二羽でも十分じゃない?」
帰り道、メイが言った。
「十分じゃない」
「またそれ」
「食べる量の話だ」
「分かってる」
「お前、最近よく食うし」
メイは振り返った。
「誰のせいよ」
「知らん」
「寒いからよ」
「じゃあ冬のせいだな」
二人は雪の積もった斜面を下りた。
小屋へ戻ると、メイが火を起こし、イーライが獲物を処理した。もう手順にも慣れていた。最初は目を逸らしていたメイも、今では黙って皮を押さえたり、桶を持ったりする。
兎肉を鍋へ入れ、豆を少し足す。
「入れすぎ」
背後からイーライが言った。
「三粒よ」
「三粒でも三粒だ」
「数えてたの?」
「お前が鍋の前に立つときはな」
メイは匙を持ったまま振り返った。
「信用ないなあ」
「ある。だから三粒で済んでる」
意味が分からず、メイはしばらく考えた。
「それ褒めてる?」
「たぶん」
「じゃあ許す」
湯気が上がった。
小さな炉の中で薪が爆ぜる。
雪山に隠れて暮らしていることを忘れる瞬間が、少しずつ増えていた。
壁には二人分の外套が掛かり、窓のそばにはメイが乾かした薬草が吊られている。イーライの猟銃はいつも同じ場所に置かれていた。
二つの石が並んでいるのを見るたび、メイはまだ妙な気持ちになった。
白。
枯れた金。
いつ増えたのか分からない。
けれど、もうそこにあることには慣れ始めていた。
それが少し怖かった。
*
翌日の午後、イーライが猟銃をメイへ差し出した。
「持ってみろ」
「今?」
「今」
小屋の外だった。
雪の薄い場所を選び、イーライは銃口を山の斜面へ向けていた。
メイは両手で受け取る。
「重い」
「昨日も言ってたな」
「持ったことないもの」
「だから教えてる」
イーライはメイの右肩を軽く押した。
「ここにつける」
「痛そう」
「ちゃんとやらない方が痛い」
「嫌な道具ね」
「獲物はもっと嫌だろうな」
メイは黙った。
イーライが少し笑う。
「今は撃たない」
「分かってる」
「銃口を人に向けるな」
「分かってるって」
「落とすな」
「それは今言わなくても――」
重さに負けて銃口が下がる。
イーライが慌てて支えた。
「だから言った」
「重いんだってば」
「俺に怒るな」
二人で笑った。
それからイーライは、火薬の量や弾の込め方、雷管の扱いを一つずつ教えた。
メイは最初こそ面倒そうに聞いていたが、途中から真剣になった。
「これ、間違えたら?」
「撃てないか、壊れるか、怪我する」
「急に怖くなった」
「だから覚える」
メイは銃を見た。
イーライが何度も山へ持っていき、二人の食べ物を持ち帰ってきた道具。
危険なものというより、今までは生活の一部に見えていた。
「あなた、最初から撃てたの?」
「まさか」
「誰に教わった?」
「親父。あと、山の連中」
「怖くなかった?」
イーライは少し考えた。
「最初はな」
「今は?」
「獲らないと食えない時は、怖いとか言ってられない」
メイはもう一度銃を構えた。
今度はさっきより少しだけ安定した。
「……こう?」
「そう」
「上手?」
「まだ持ってるだけだ」
「一回くらい褒めなさいよ」
「落とさなかった」
「それ褒めてない」
イーライが笑った。
メイもつられて笑った。
その笑い声の向こうに、遠い森が静かに広がっていた。
*
三日後、メイはいつもの場所へ向かった。
小屋から少し下ったところに、大きな樫の木がある。
幹の根元に割れ目があり、そこへ布袋が入るくらいの空間があった。
エヴァンス夫人たちは、そこに食べ物を置いた。
毎回同じものではない。
パンの日。
塩の日。
乾燥豆。
ときには石鹸。
一度だけ、新しい靴下が二組入っていた。
誰が入れたのか、名前はなかった。
でもメイは分かっていた。
その日、穴の中には何もなかった。
「まだ早かったかな」
メイは辺りを見回した。
足跡もない。
雪をかぶった枯れ葉が、風で揺れているだけだった。
そのまま小屋へ戻った。
翌日も行った。
何もない。
三日目。
メイは樫の前でしばらく立っていた。
穴の奥へ手を入れる。
空だった。
帰り道、何度も振り返った。
誰かが遅れて来るような気がした。
誰も来なかった。
小屋へ戻ると、イーライが兎の罠を直していた。
「今日で三日」
手を止めないまま聞く。
「何が?」
「誰も来てない」
そこで初めて、イーライが顔を上げた。
メイは扉の前に立ったまま、何も持っていない両手を見せた。
イーライはしばらく黙っていた。
「雪のせいかもな」
「昨日そんなに降ってない」
「町で何かあったかもしれない」
「何かって?」
イーライは答えなかった。
炉の火が小さく爆ぜた。
メイは外套を脱ぎ、壁へ掛けた。
それから何となく窓の隙間へ目を向ける。
いつもの山。
いつもの木々。
白い雪。
何も変わっていないように見えた。
それなのに、急に小屋の壁が薄くなった気がした。
エヴァンス夫人が最初にパンを置かなかった朝、宿の向かいに見慣れない男がいた。
客ではない。
軒下に寄りかかり、ときどき通りを眺めている。こちらを見張っているようには見えなかったが、見ていないふりが上手い人間ほど厄介だということを、エヴァンス夫人は知っていた。
焼いたパンを紙で包み、いつもの布袋へ入れかけたところで手を止めた。
「今日はやめとくよ」
裏口にいたサラが窓の外を覗く。
「気づいた?」
「朝からいる」
「昨日はいなかった」
「だから嫌なんだよ」
パンを棚へ戻した。
干し肉も、塩も、そのままにした。
一日くらいなら何とかする。イーライは狩りができる。
そう思うことにした。
*
翌朝も、男はいた。
今度は鍛冶屋の前だった。
午後には姿が消えたので、サラが布袋を持って裏口まで出た。
エヴァンス夫人が止めた。
「待ちな」
「もういないよ」
「見えてないだけかもしれない」
サラは少し迷ったあと、袋を戻した。
「二日になる」
「分かってる」
「メイ、お腹空かせてるだろうね」
「機嫌悪いだろうねえ」
二人とも少し笑った。
すぐに笑えなくなった。
*
三日目。
朝から男の姿はなかった。
それでもエヴァンス夫人はパンを包まなかった。
見張っている人間が見えなくなったからといって、いなくなったとは限らない。
その午後、酒場にはまた人が集まっていた。
以前のような活気ではない。金の話があるところにだけ、人間が寄ってくるようになっていた。
卓の上に地図が広げられている。
正確なものではなかった。川と尾根、古い道、採掘場。それらを誰かが鉛筆で書き足したものだった。
「北へ行ったって話もある」
「馬鹿。冬に北へ向かうかよ」
「西なら町道がある。誰か見てる」
「じゃあ東だ」
「山じゃねえか」
「だから山なんだろ」
金色の髪を買った男が、地図の上を指でなぞった。
「男も一緒なんだろ?」
「イーライ・ハート」
名前を知っている者が答えた。
「山を知ってる?」
「そこそこな」
「狩りは?」
「できる」
男は指を止めた。
「なら二か月くらい隠れててもおかしくねえ」
卓の端で酒を飲んでいた男が言った。
「二か月?」
「何だ」
「二か月も山で暮らしてるなら、食い物はどうしてる」
その場にいた何人かが顔を上げた。
「狩りだろ」
「全部?」
「鹿でも獲れば――」
「塩は?」
誰も答えなかった。
「火薬は?」
沈黙。
「パンは?」
金色の髪を持つ男が、ゆっくり地図から顔を上げた。
「誰かが運んでる」
酒場の空気が変わった。
「誰だ」
「知らん」
「町の奴だろ」
誰かがエヴァンス夫人の宿の方角を見た。
別の男が言った。
「カーターんとこも、あの娘と仲良かったな」
「ベンもだ」
その名前が出たところで、酒場の奥から椅子を引く音がした。
ベン・クロウが立っていた。
「俺が何だ」
誰もすぐには答えなかった。
「お前、あの娘が逃げた時にいたろ」
「ああ」
「どこへ行った?」
「知らねえ」
「本当に?」
ベンは男を見る。
「知ってたら、お前に言うと思うか?」
何人かが笑った。
笑わなかった者もいた。
金色の髪を持つ男が椅子へ深く座り直した。
「魔女を庇うのか」
ベンの顔から表情が消えた。
「もう一回言ってみろ」
「黄金の魔女」
男はわざとゆっくり言った。
「町の金を全部持って逃げた娘だ」
ベンが一歩出る。
店主がカウンターを叩いた。
「やめろ。椅子壊したら払わせるぞ」
「そっちかよ」
ベンは吐き捨てたが、それ以上近づかなかった。
男は笑った。
「じゃあ聞くだけだ。なんで庇う?」
「庇ってねえ」
「なら、どこにいる」
「知らねえって言ってんだろ」
「知らないのに魔女じゃないって分かるのか?」
ベンはしばらく黙った。
「……あいつが何だったかは知ってる」
「何だ」
「メイだよ」
男が鼻で笑った。
「それが今じゃ黄金の魔女だ」
ベンの拳が握られた。
それでも殴らなかった。
硬貨を卓へ置き、酒場を出た。
扉が閉まる。
誰かが呟いた。
「怪しいな」
*
その夕方、ベンはエヴァンス夫人の宿の裏口を叩いた。
一度。
間を置いて二度。
扉が細く開く。
「何だい」
「行ってないよな」
エヴァンス夫人の目つきが変わった。
「何の話」
「とぼけんな」
「客に向かって何だい、その口は」
「俺は泊まってねえ」
「なら帰んな」
扉を閉めようとした手を、ベンが押さえた。
「探ってる」
エヴァンス夫人の手が止まった。
「誰が」
「髪買った奴と、その周りだ。山へ誰かが食い物運んでるって気づいた」
奥にいたサラも顔を出した。
「場所まで?」
「まだだと思う」
「思う?」
「知ってたら、とっくに行ってる」
ベンは通りを振り返った。
「明日も行くな」
エヴァンス夫人は黙った。
「三日だよ」
「何が」
「あの子たちに何も届けてない。今日で三日目だ」
ベンの顔が曇った。
「……分かってる」
「分かってないよ。雪の中だ」
「今持ってったら、お前が道案内することになる」
エヴァンス夫人は唇を結んだ。
正しい。
それが腹立たしかった。
サラが小さく言った。
「明日は?」
ベンは答えるまで少しかかった。
「朝、様子を見る。連中が動かなきゃ俺が考える」
「考えるじゃ困るよ」
「じゃあ何て言えばいい」
誰も答えられなかった。
エヴァンス夫人はテーブルの上の布袋を見る。
パン。
干し肉。
塩。
渡す相手のいない食べ物が、そこに揃っていた。
*
翌朝。
町外れの馬小屋で、三頭の馬に鞍が置かれていた。
毛布。
乾燥肉。
酒。
火薬。
縄。
金色の髪を買った男が荷物を確かめている。
隣では若い男が猟銃へ雷管を収めていた。
「殺すなよ」
一人が言った。
「分かってる」
「髪も傷つけるな」
「分かってるって」
「本当にあの娘で金が出ると思うか?」
男は手を止めた。
胸元から布包みを出す。
開く。
金色の髪が朝の光を受けた。
「知らん」
「じゃあ何で行く」
男は髪を包み直した。
「何もしなきゃ、何も出ねえからだ」
馬小屋の扉が開いた。
冷たい空気が入り込む。
外には雪の残る道。その先に山が見えた。
一人が馬へ跨がる。
「どこから探す?」
金色の髪を持つ男は、東の山を見た。
「まず、誰かが通った道を探す」
三頭の馬が歩き出した。
蹄が泥を踏み、やがて雪へ入る。
町の看板を過ぎる頃には、誰も口をきかなかった。
その頃、山ではメイが四度目の朝を迎えていた。




