カナギリ 急
カナギリ 急
最初に聞こえたのは、歓声ではなかった。
「出ねえぞ!」
朝の山に怒鳴り声が響いた。メイが宿を出た時には、すでに何人かが北の斜面へ走っていた。昨日まで一番人が集まっていた場所だ。
後ろからイーライが来る。
「行くのか」
「見るだけ」
「教えるなよ」
メイは返事をしなかった。
山へ入ると、空気が違っていた。昨日までなら岩を割る音の間に笑い声が混じっていたのに、今日はつるはしの音が速く、土を放る音が荒い。
「もっと深く掘れ!」
「昨日ここで出たんだ!」
「そっちじゃない、こっちだ!」
人の声ばかりが大きかった。
メイは杖を地面についた。
こつ。
目を閉じ、地下を見る。
白い。
太かった金色の糸が、いくつも色を失っていた。乾いた根のように細くなり、途中で途切れている。少し離れた先にはまだ黄金が残っているが、昨日より明らかに少なかった。
「メイ!」
ベンが呼んだ。泥だらけだった。
「こっち、見てくれ」
「何を」
「あるんだろ。まだ」
メイは答えなかった。
「昨日は出たんだ。今日は急に止まった。次はどこだ」
イーライが間へ入った。
「やめろ」
「お前に聞いてねえ」
「今日は教えない」
メイが言った。
ベンの顔が止まる。
「何?」
「もう、場所は教えない」
「何でだよ」
「分からないから」
「何が」
メイは地面を見た。白くなった糸と、自分の髪。うまく説明できない。
「このまま掘っていいのか」
「昨日まで教えてたじゃねえか」
「だから」
「急に何だよ」
周りにいた人間も、少しずつこちらを見る。
「見えてるんだろ。金がある場所」
「隠す気か?」
メイは顔を上げた。
「隠してない」
「じゃあ教えろよ」
簡単な理屈だった。見えているなら、教えればいい。
昨日まではメイ自身もそう思っていた。
「教えない」
もう一度言った。
ベンは何か言いかけてやめた。その代わり、少し離れた男が言った。
「金がなくなってから急に口閉じるのか」
知らない顔だった。
「誰?」
「昨日来た」
「じゃあ私のこと知らないでしょう」
「金を見つける娘だってのは知ってる」
甘い匂いがした。以前と同じなのに、その奥に少し酸っぱいものが混じっている。
メイは鼻を押さえた。
「帰る」
イーライが言った。
メイは頷いた。
後ろから、
「明日は教えるんだろ!」
と声が飛んだ。
振り返らなかった。
*
その日の昼には別の坑道でも金が出なくなり、夕方には南側でも同じ話が出た。
全部ではない。まだ出る場所もある。
だから余計に、人は掘った。
「向こうで出たらしいぞ!」
その声が上がるたび、何十人も道具を抱えて移動する。昨日まで掘っていた穴を捨て、新しい場所へ集まり、さらに深く、さらに広く掘った。木を切り、土を崩し、水を流す。
そのたびに、金色の糸は細くなった。
白くなり、消えていく。
メイは見ないようにした。
*
宿も落ち着かなかった。
「山どうだった?」
エヴァンス夫人が聞いた。
「出てないところが増えてる」
皿を拭く手が止まる。
「増えてるって、どのくらい」
「分からない」
「ここまで人が来てるんだよ。宿も食料も、全部仕入れ増やしてる」
責める声ではなかった。
それでも、メイは少し息苦しくなった。
「私に言われても」
「分かってるよ」
夫人はすぐ答えたが、そのあとしばらく帳簿の数字を指で追っていた。
前なら客が減れば楽になるだけだった。
今は、減ると困る。
宿も変わっていた。
*
夕方、ジェイコブが土だらけで戻ってきた。
「どうだった?」
「駄目。何も出なかった」
「明日は?」
「東側に行く」
「まだ行くの?」
「行くよ」
「でも、もう二百四十六あるでしょう」
「今は二百三十八」
「減ってる」
「飯も宿も高いんだよ」
メイは黙った。
「それでも帰れるでしょう」
「帰れる」
「じゃあ」
「帰った後は?」
ジェイコブが顔を上げた。
「家直して、食料買って、子供に靴買って、冬越して。それで全部なくなったら?」
「……また働けば」
「ここに金があるのに?」
甘い匂いの中に、今度ははっきり酸っぱいものが混じった。
メイが眉をひそめると、ジェイコブが聞く。
「どうした」
「何でもない」
彼はまた硬貨を数え始めた。
前より速かった。
*
夜、メイは部屋で帽子を取った。
金色の髪は四分の一を越えていた。朝より増えている。
触れると、甘い匂いがした。
町の灯りはまだ明るい。だが笑い声は少なく、窓の外から聞こえるのは次の場所を探す声だった。
「明日はどこだ」
「北は駄目だ」
「南だ」
「誰が言った」
「メイに聞け」
その言葉だけがよく聞こえた。
メイは窓を閉めた。
*
翌朝、宿を出ると三人が待っていた。
ベン。
昨日の知らない男。
それから、ヴェイル。
「何」
メイが言った。
ベンが口を開く。
「今日だけでいい。場所を教えてくれ」
「教えないって言った」
「昨日は昨日だろ」
「今日も」
ヴェイルは黙っている。
知らない男が笑った。
「金がないから価値が上がったな」
「何の話」
「お前の場所だよ」
「私のじゃない」
「でもお前しか知らない」
その言葉に、ベンも何も言わなかった。
メイは杖を強く握った。
「知らない人に教えるつもりはない」
「じゃあ俺には?」
ベンだった。
少し迷った。
昨日までなら教えていた。村の人だから。知っている人だから。
でも今は、彼が何を欲しがっているのか分からない。
「教えない」
ベンの顔が変わった。
「俺にも?」
「うん」
「何でだ」
「もう十分でしょう」
言ってから、しまったと思った。
ベンは笑わなかった。
「誰が決めるんだ」
メイは何も言えない。
「十分かどうか、お前が決めるのか?」
甘い匂いが濃くなり、その奥に酸っぱさと、焦げたような臭いが混じる。
「違う」
「じゃあ教えろよ」
「それでも嫌」
短い沈黙のあと、ベンは目を逸らした。
「……そうか」
それだけ言った。
*
その日、メイは山へ行かなかった。
宿で働いていても、何度も名前を呼ばれた。
「メイ! 北が駄目だ!」
「東は?」
「昔の坑道は?」
知らない人間まで、当然のように聞いてくる。
メイは全部断った。
夕方には、
――教えなくなったらしい。
という話が、
――金の場所を隠している。
に変わった。
夜には、
――まだ出る場所を独り占めしている。
になっていた。
その話を宿の食堂で聞いたメイが、
「誰が独り占めしてるって?」
と言うと、男たちは黙った。
その沈黙が一番嫌だった。
イーライが隣へ来る。
「行こう」
「どこに」
「外」
二人は町の外れまで歩いた。
夜のミダスはまだ明るかった。店も人も変わらない。それなのに、以前とは違う場所に見えた。
「ねえ」
「何」
「私、間違えたかな」
「金を教えたこと?」
「うん」
イーライはすぐには答えなかった。
「分からない」
「またそれ」
「本当に分からない。でも、もう止めた方がいい」
「うん」
今度はメイも反論しなかった。
遠くから、夜なのにつるはしの音がする。
メイは地下を見た。黄金はまだ残っているが、白い場所の方が増えている。
「出ない」
「何が」
「金。明日はもっと出ないと思う」
「分かるのか」
「分かる」
初めて、たぶんではなく、はっきり言った。
金色の髪へ触れる。
「なくなってる」
甘い匂いの奥で、ほんの少し、腐ったものの臭いがした。
*
次の日の朝、メイは枕元に落ちていた一本の髪を拾った。
赤褐色だった。
それを見て胸の奥から小さく息が抜ける。一本残っていたからといって何が変わるわけでもない。それでも指先に触れた色が、昨日までの自分につながっているように思えた。
鏡の前へ座り、髪を分けていく。
昨日より金色が広がっている。まだ半分には届かないが、もう「混じっている」だけでは済まなかった。耳の近くやこめかみ、後ろにもまとまった黄金がある。
メイは赤褐色の一房を手に取った。
幼い頃から変わらなかった色。
母に梳かれた時も、ルーシーに引っ張られた時も、トーマスに「燃えてるみたいだ」とからかわれた時も。
ただの髪の色ではなかった。
家にいた頃の自分を、そこへつなぎ止めているものだった。
「まだある」
誰に言うでもなく呟いた。
口にすると、かえって心細くなった。
*
その日は宿から出なかった。
山から戻った人々は、食堂で新しい場所の噂を交わしていた。
「北は駄目だ」
「南も薄い」
「昔の沢沿いなら出るって話だ」
「誰が言った?」
「知らん」
話題が移るたび、メイの名前も混じった。
「娘に聞けば分かる」
「もう教えないらしい」
「まだいい場所を取ってるんじゃないか」
厨房にいても声は届いた。
エヴァンス夫人がパンを切りながら言う。
「気にするんじゃないよ」
「気にしてない」
「そういう顔じゃない」
「どんな顔」
「働け」
「逃げた」
「逃げてないよ」
言い返して、メイは少し笑った。夫人も口元だけで笑う。
それだけで胸のこわばりが少し緩んだ。
*
昼過ぎ、宿の裏で洗濯物を干していると、知らない子供がメイを指差した。
「金の人だ」
「指差しちゃ駄目よ」
母親が止める。
「でも金だよ」
「髪」
メイが言った。
「金じゃないの?」
「金じゃない」
「じゃあ何で金色なの?」
「私が知りたい」
苛立ちが声に出た。
母親は謝り、子供を連れていく。去り際に一度だけ振り返った母親の視線も、やはり髪へ止まった。
メイは洗濯物の陰へ身を寄せた。
見られたくない。
でも、隠れている自分も惨めだった。
*
夕方、イーライが来た。
「山行った?」
「行ってない。今は行きたくない」
彼はそれ以上聞かなかった。
「髪、見る?」
メイが先に言った。
「嫌なら見ない」
「見て」
二人は宿の裏の木箱に腰を下ろした。
帽子を取ると、イーライはしばらく黙った。
「増えた」
「どれくらい」
「かなり」
「半分?」
「まだそこまでは」
「じゃあ三分の一くらい?」
「ああ」
メイは赤褐色の一房を握った。
「明日には半分かも」
「分からない」
「朝起きるたび減ってる」
「痛くないんだろ」
「痛くない」
「具合は」
「普通」
「なら――」
「普通じゃないよ」
声が強くなった。
イーライは黙る。
「ごめん。でも、普通じゃない」
「うん」
否定されなかったことで、メイの苛立ちは行き場を失った。
「これ、なくなるのかな」
「……たぶん」
「言った」
「何が」
「たぶん」
「分からないんだ。だから、たぶんとしか言えない」
「分かってる。でも聞きたくなかった」
「今は仕方ないだろ」
メイは顔を上げる。
「仕方ないって言わないで」
「……悪い」
「そう言われると、私まで諦めなきゃいけないみたい」
イーライは何も言わなかった。
*
しばらくして、メイが言った。
「私、寝たくない」
「何で」
「寝たら朝になるでしょう。起きたら、また赤褐色が減ってる」
目が青くなった時は、一度で変わった。
今回は違う。
毎日、自分が変わっていくところを見せられる。
「お母さんも、この髪だった。少し明るかったけど」
「ルーシーは?」
「もっと赤い」
「トーマスは?」
「茶色」
メイは少し笑った。
「全然揃ってない」
「じゃあ、家族と同じじゃなくてもいいだろ」
「そういう問題?」
「違う?」
「分からない」
イーライは金色の一房を見た。
「何色でもメイだろ」
「赤でも?」
「メイ」
「青は?」
「メイ」
「緑」
「メイ」
「真っ白」
「しつこいな」
メイは今度は自然に笑った。
「確認してるの。色が変わっても、私が私かどうか」
「髪の色で決まるものじゃないだろ」
「でも、私も変わってるかもしれない」
「それでもメイだよ」
今度ははっきりと言った。
すぐ信じられたわけではない。
それでも、髪を握る手の力は少し弱くなった。
*
その夜、メイは眠れなかった。
髪から甘い匂いがする。そこへ酸っぱいものと、ときどき焦げたような臭いが混じっていた。
目を閉じると、セントルイスが浮かぶ。
トーマス。
ルーシー。
母。
父。
その記憶の中の自分は、いつも赤褐色の髪だった。
メイは残った一房を指へ巻きつけて眠った。
朝まで変わらないように。
*
目を覚ますと、指へ巻いた髪はまだ赤褐色だった。
ほんの一瞬、救われたような気がした。
だが鏡を見ると、耳の後ろから肩へ落ちる一帯が金色になっている。昨日より明らかに広がり、半分近くに達していた。
「……嫌」
櫛を取り、赤褐色を集める。
まだ残っている。
そう思った時、窓の外から歓声が上がった。
「出たぞ!」
甘い匂いが強くなる。
鏡の中で、一本の赤褐色がゆっくり黄金へ変わり始めた。
根元からでも先からでもない。色そのものが染み込むように広がり、赤褐色を飲み込んでいく。
数秒だった。
「……見ちゃった」
声が震えた。
見えなければ、まだ知らないふりができた。
でも、もうできない。
半分ほど黄金になった髪。青い瞳。見慣れた顔。
昔の自分だけが、少しずつ遠くなる。
怖いのに、朝の光を受けた金色は綺麗だった。
そのことまで、メイは否定できなかった。
残った赤褐色を手に取る。
まだある。
その事実に縋るように、メイは初めて、残った赤褐色の本数を数え始めた。
*
昼前、宿の食堂ではパンが足りなくなった。
焼き上がったそばから籠が空になる。
「一人一つ!」
エヴァンス夫人が怒鳴った。
「金払ってるだろ」
「払えば何個でも食えると思うんじゃないよ」
男は笑いながら、それでも二つ目へ手を伸ばす。
人が増えたのだから、パンが足りないのは不思議ではない。
けれど人々は以前より速く食べていた。
皿が空になる前から山の話をする。
「北の奥は?」
「駄目だ」
「じゃあ西だ」
「もっと深く掘れば出る」
腹を満たすために食べているようには見えなかった。
*
昼を過ぎると、酒場にも人が溢れた。
「もう一杯」
「さっき飲んだろ」
「だからもう一杯だ」
空の杯が差し出され、注がれ、また空になる。
メイはその手と口を見ながら歩いた。
甘い匂いが濃い。
昼食を食べたばかりなのに、酒場の前のパンを見た瞬間、食べたいと思った。
胃は重い。
満腹だ。
「……お腹じゃない」
何が欲しいのかは分からない。
ただ、何かを入れなければならない感覚だけが残る。
唇を噛むと鉄の味がした。
甘さが少し引いた。
*
町のあちこちで、人々は次の何かを求めていた。
ジェイコブは「あと十ドル」。
鉱夫は「もう一本坑道を」。
エヴァンス夫人まで、満室の宿帳を見ながら呟いた。
「あと二部屋あればねえ」
「今でもいっぱいなのに」
「だからだよ。客を断るのはもったいないだろ」
夫人は増築に必要な材木と人手を計算し始める。
困っているわけではない。
むしろ以前より儲かっている。
それでも、足りない。
*
午後、町の北側まで歩くと、山肌には黒い坑道の入口が増えていた。
以前は木や草の方が目についた場所だ。
「……口みたい」
「何が?」
隣にいたイーライが聞いた。
「坑道。町が山を食べてるみたい」
土を掘り、岩を砕き、中から金だけを取り出す。一つの穴で足りなければ次を掘る。
山肌に並ぶ黒い入口は、食べても閉じることのない口に見えた。
*
帰り道、メイは甘い匂いが一ヶ所からしているのではないと気づいた。
宿にも、酒場にも、坑道にもある。
人が何かを欲しがる時だけ、わずかに強くなる。
「あと少し」
「もう一本」
「次は俺だ」
言葉も意味も違うのに、その奥にあるものだけは同じに思えた。
――もっと。
メイの胸が冷えた。
*
夕方、ベンは新しい上着と靴を身につけ、買い替えた道具を腰に下げて肉を食べていた。
「明日、東へ行く」
「また?」
「西は駄目だった」
「金、何に使うの?」
ベンは少し考えた。
「……あるだろ」
「何が欲しいの?」
答えは出なかった。
それでも、
「金はある方がいい」
と言った。
まだ肉の残っている皿の横から、
「パン、もう一つ」
と声を上げる。
甘い匂いがした。
*
夜、メイは宿の前に立った。
ミダスには食べ物も酒もある。宿は満室で、金を持っている人間もいる。
誰も腹を空かせてはいない。
それでも、町全体が空腹だった。
空の杯。
開いた坑道。
広げられた麻袋。
硬貨を数える指。
客を待つ宿。
どれも何かを入れるために開いている。
メイは半分ほど黄金になった髪へ触れた。
通りの向こうにいた男が、こちらを見る。
顔ではない。
髪。
隣の男も気づいた。
遠くから「もっと奥を掘れ!」という声が聞こえた。
ジェイコブはまた硬貨を数えている。
別々だったものが、一つに重なって聞こえた。
――もっと。
町はこれほど満ちているのに、どこにも満たされた人間がいなかった。
*
翌朝から、空の袋を持って戻る人間が増えた。
昨日までなら小さな欠片くらいは持ち帰れた人々が、今日は土と石だけの袋を道端へ放り出している。
それでも誰も山を下りようとはしない。場所を変え、穴を深くし、「向こうで出た」と聞けば走っていく。
メイには地下が見えていた。
白い糸はさらに増え、残る金色は細く切れ切れになっている。
その黄金を見た時、胸の奥に妙な感覚が生まれた。
まだある。
見つけたい。
「違う」
思わず声に出した。
欲しいわけではない。
金なんていらない。
それでも金色の糸から目が離れない。
「私は欲しくない」
杖を強く握る。
腹ではない場所が、空いていた。
*
昼、宿の食堂で二人の男がメイを見ていた。
「あの娘、最初からあんなだったか?」
「知らねえ。俺が来た時にはもう金が混じってた」
「ベンなら知ってるだろ」
呼ばれたベンが答える。
「前は赤かった」
「全部?」
「ああ」
「いつから金になった?」
「金が出始めてからじゃねえか」
誰かが笑った。
「山に合わせて洒落たんだろ」
軽い冗談だった。
だが、空の杯を回していた男が言った。
「でも山の金は減ってるんだろ。こっちは増えてる」
メイの手が止まる。
「何が言いたいの」
「山の金、あんたが喰ってるんじゃないかって」
笑いが起きた。
ベンも一瞬笑った。
しかし全員ではなかった。
笑わずにメイを見る人間の方が嫌だった。
「そんなわけないでしょう」
「冗談だよ」
「面白くない」
「悪かったって」
そこで終わるはずだった。
*
一時間後、その冗談は向かいの道具屋へ移った。
「エヴァンスんとこの娘、前は赤毛だったんだと。金が出始めてから、ああなったらしい」
道具屋の店主は、釘を買いに来た鉱夫へ話した。
「あの青い目の娘、金が出るようになってから髪まで金になったらしいぞ」
「本当か?」
「ベンが言ったそうだ」
嘘ではない。
ただ、ベンが言っていない部分まで混じっていた。
鉱夫は山へ戻った。
*
午後には、沢で話がさらに変わった。
「メイが見つけた場所は最初だけよく出るんだってな」
「北も南もそうだったろ」
そこへ道具屋から戻った男が言う。
「しかも金が減るたび、あの娘の髪が金になってるらしいぞ」
「じゃあ見つけてるんじゃなくて、取ってるんじゃないか?」
「どうやって」
「知らねえよ。あの目だぞ」
笑う者はいた。
けれど、その笑いは短かった。
誰かが自分の空の袋を見た。
*
夕方、雑貨屋の前では女たちが話していた。
「メイが教えたところ、すぐ金がなくなるんですって」
「それで髪があんな色に?」
「さあ。でも前は赤かったんでしょう?」
メイに気づくと、会話が止まる。
北も南も金が薄くなっている。
メイが場所を教えた。
どちらも本当だった。
そこへ、誰かの推測だけが混ざっている。
*
日が暮れる頃には、酒場で、
「金を見つける娘がいるって聞いた」
という旅人に、
「見つけるっていうより、吸い上げてるって話だ」
と答える者がいた。
メイは足を止める。
朝は、
――喰ってるんじゃないか。
だった。
今は、
――吸い上げてる。
になっている。
「誰から聞いたの」
男たちは互いの顔を見る。
「沢の連中が」
「沢の誰?」
「そこまでは知らねえ」
もう辿れなかった。
「噂なら何言ってもいいの?」
「そういう意味じゃねえ」
「じゃあどういう意味」
周囲の視線が集まる。
また髪だった。
別の男が言った。
「なら、その髪は何なんだ?」
メイは答えられなかった。
自分でも分からない。
山の糸が消えるたび、髪が黄金になる。
それだけは知っている。
「……知らない」
「ほら」
「知らないからって、私が金を取ってることにはならない!」
甘い匂いが一気に濃くなる。
誰かの疑いと恐れ。
それに混じって、自分の中からも同じ甘さが湧いた。
メイはその場を離れた。
*
町の外れから山を見る。
地下に一本、まだ太い黄金が残っていた。
甘い。
欲しい。
そう思った瞬間、吐き気がした。
「違う。私はいらない」
嫌なはずなのに、胸の奥の空いた場所がそれを待っている。
杖を地面へ強く突く。
こつ。
白い石が冷えた。
その冷たさで、ようやく目を逸らした。
*
宿へ戻る頃には、噂はさらに短くなっていた。
「山の金がなくなるほど、あの娘の髪が金になるんだと」
もう「らしい」ですらない。
その隣にいた母親が、子供の手を引いて宿を出る。
「あの人、金を食べるの?」
「そんなこと言わないの」
母親は子供を連れて足早に去った。
朝、大人たちが笑った冗談は、夜には子供まで知っていた。
通りの向こうの人間と目が合う。
ほんの少し、道の端へ寄られた。
風が吹き、帽子から黄金の髪がこぼれる。
以前なら綺麗だと言われた色だった。
今は、その色に疑いがついていた。
*
翌朝、宿の食堂から笑い声が消えた。
客はいる。皿も並び、エヴァンス夫人も働いている。それでもメイが近くを通ると、会話がわずかに途切れた。
昨日までなら金の場所を聞かれた。
今日は、ただ髪を見られる。
昼前、ベンが宿へ来た。右手に汚れた布を巻いている。
「東も駄目だった」
「そう」
「まだある?」
「……ある」
「どこだ」
「教えない」
ベンは意外なほど簡単に引いた。
「分かった」
「昨日の話、信じてる?」
彼の動きが止まる。
「私が金を食べてるって話」
「分からねえ」
否定されなかった。
「私が取ってると思う?」
「思いたくはない」
「それ、違うでしょう」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
ベンはメイを見た。
視線が途中で髪へ落ちる。
「山の金はなくなってる。お前の髪は増えてる。俺には、それ以上分からねえ」
「私にも分からないよ」
「だから怖いんだろ」
ベンはそれだけ言って、宿を出た。
*
午後、イーライが来た。
二人で宿の裏へ回ると、彼はすぐ言った。
「出よう」
「どこへ?」
「ミダスから」
「いつ?」
「明日の朝」
「急じゃない?」
「遅いくらいだ」
メイは町を見る。屋根の向こうでは、まだ新しい建物を作る金槌の音がしている。
「みんな悪い人じゃないよ」
「知ってる」
イーライは即答した。
「悪い奴ばかりなら、もっと簡単だった。昨日まで笑ってた奴が、今日はお前を疑ってる。明日どうなるか分からない」
「どこ行くの」
「西」
「海?」
「最初からそうだっただろ」
海を先に見た方が勝ちだ。
そんな話をした場所には、今は坑道へ向かう荷車が通っている。
「まだ勝負続いてたんだ」
「俺は終わらせた覚えないぞ」
少しだけ、昔のイーライが戻った気がした。
「また戻ってこられるかな」
イーライは答えなかった。
その沈黙で十分だった。
*
エヴァンス夫人へ話したのは、夕食の片づけが終わってからだった。
「明日、出る」
夫人の手が止まる。
「そうかい」
驚かなかった。
それが少し寂しかった。
「西へ行く」
「なら冬が来る前に山を越えな」
「うん」
メイは皿を重ねながら、ようやく聞いた。
「また戻ってきてもいい?」
夫人の手が止まった。
ほんの一瞬。
でも、その間が分かった。
「……落ち着いたらね」
優しい声だった。
前ならきっと、「いつでも戻ってきな」と言った。
「うん」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
*
サラとエイベルの家の窓には、青いカーテンが掛かっていた。
「本当に行くの?」
「うん」
「手紙は?」
「書く」
「絶対?」
「九割」
「そこは十割」
「じゃあ十割」
エイベルは最後に一言だけ言った。
「気をつけろ。山じゃないぞ。人にな」
メイは頷いた。
帰り道に振り返ると、青いカーテンが灯りの中で揺れていた。
屋根は直った。
借りも返した。
二人はそこで止まった。
町の全部が間違っていたわけではない。
それだけは覚えていたかった。
*
夜、メイは荷物をまとめた。
服。櫛。家族からの手紙。ルーシーへ送るつもりだった小さな品。アビーからもらった赤い星の袋。
最後に杖をベッドへ置く。
七つの窪み。
一つには白い石。
その隣はまだ空いている。
ここで手に入れたものの多くは、鞄には入らなかった。
井戸。
雨の音。
食堂の笑い声。
山で飲んだ水。
青いカーテン。
ここにいてもいいと思った夜。
鞄の口を閉じた時、甘い匂いがした。
息が止まるほど濃い。
「……何?」
髪がふわりと持ち上がった。
窓は閉じている。
風ではない。
白い石が熱を持ち、その内部から灰色の線が隣の窪みへ伸びる。
こつ。
石の中で、小さな音がした。
同時に、地下で何かが動いた。
*
町の下。
山の奥。
坑道のさらに向こう。
残っていた金色の糸が一斉に震えた。
細いものも太いものも、すべてがゆっくり向きを変えていく。
メイへ。
「……やめて」
一本が白く枯れ、抜け出した黄金だけが地中を走った。
町の下を通り、宿の床まで来る。
「来ないで」
最初の糸が足元へ届いた。
熱い。
触れた瞬間に消え、肩へ落ちていた赤褐色の一房が黄金へ変わる。
「やめて!」
次。
また次。
遠くの山から黄金が流れ込み、そのたび地下には乾いた白い跡だけが残った。
甘い匂いが部屋を満たす。
その奥には、腐りかけたような臭いがあった。
*
「メイ!」
イーライが扉を開け、途中で止まった。
メイの髪は、もうほとんど黄金だった。
「止めて」
「どうやって」
「分からない!」
イーライが近づこうとする。
「来ないで! 触ったら、あなたまで――」
彼は止まった。
「分かった。ここにいる」
短い言葉だった。
黄金はまだ来ている。
やがて赤褐色は僅かになり、メイは震える手で探した。
「あった」
耳の後ろに、一本だけ残っている。
母と似た色。
ルーシーが知っている色。
トーマスが「燃えてるみたいだ」と笑った色。
セントルイスを出た日の自分の色。
地下にも、最後の一本だけ黄金が残っていた。
細く、今にも消えそうな糸。
それが動き始める。
「嫌」
メイは首を振った。
「これは嫌」
黄金が山を下る。
「お願い」
町へ入り、
「これだけは」
宿の下へ来る。
「残して」
最後の糸が足元へ届いた。
メイは赤褐色の一本を強く握った。
熱。
甘い香り。
そして、指の間で色が変わる。
「……あ」
最後の赤褐色が消えた。
同時に、メイの視界から地下の黄金も消えた。
山にも、町の下にも、もう一本も残っていなかった。
*
静かだった。
あれほど濃かった甘さが遠のき、代わりに別の匂いが流れ込んでくる。
イーライからは甘さと、別の何か。
戸口の向こうを走った人間からは酸っぱい匂い。
遠くの酒場からは焦げたような臭い。
「……何これ」
メイは鼻を押さえた。
匂いが、場所ではなく人についている。
「メイ?」
「匂いが……」
杖が震えた。
白い石の隣。
空いていた二つ目の窪みに、小さなものが落ちる。
カツン。
金色の石だった。
けれど山で見た黄金とは違う。
輝きは鈍く、乾いている。
色まで枯れたような金。
触れると冷たく、甘い匂いもしなかった。
メイは二つ並んだ石を見る。
白。
枯れた金。
それから窓へ映った自分を見た。
青い瞳。
すべて黄金になった髪。
そこにはもう、セントルイスを出た日の赤褐色は一本も残っていなかった。
*
朝になっても、山から歓声は聞こえなかった。
代わりに、ミダスのあちこちで同じ言葉が上がった。
「ない」
北にも南にも、沢沿いにも、昨夜まで掘っていた古い坑道にも。
金がない。
人々は空の袋を丸めて戻ってきた。
「もっと奥じゃないのか」
「掘った」
「横は?」
「掘ったよ」
「じゃあ下だ」
「岩盤だぞ」
それでも、もう一度山へ戻る者がいる。
別の場所なら。
昨日の残りがあるかもしれない。
けれどメイには分かっていた。
地下は白かった。
*
昼前には町の様子も変わった。
昨日買ったつるはしを売ろうとする男。
ツケを断られて怒鳴る客。
空室を見つめる新しい宿の主人。
エヴァンス夫人も帳簿の前で黙っていた。
「今日、三人出ていった。明日の予約も二つなくなった」
「増築は?」
返事はない。
机には材木の注文書が置かれている。
「もう頼んだの?」
「ああ」
「取り消せない?」
「向こうだって木を切ってる」
夫人は帳簿を閉じた。
「仕方ないよ」
客が来たから、部屋を増やそうとした。
それだけだった。
それでも支払いは残った。
*
ジェイコブは荷物をまとめていた。
「帰るの?」
「ああ」
「やっと」
「笑うなよ」
「少しだけ」
彼も苦笑したが、荷を縛る手は止まった。
「二百四十六あったんだよな。今は二百十一だ」
「帰れる?」
「帰れる。たぶんな」
「百ドルで十分だったんでしょう」
「ああ」
硬貨の袋を持ち上げる。
「百になった時に帰ってりゃ、もう家に着いてたかもしれない」
「でも、家族のためだったんでしょう」
「だから余計に厄介なんだよ」
欲しかったのは金ではない。
家族を安心させたかった。
安心するために、もう少し。
その「もう少し」の終わりを失った。
*
午後には、金がないという事実が町全体へ行き渡った。
そして噂も戻ってきた。
「昨夜までは出てた」
「朝になったら全部なくなった」
「全部一晩で?」
そこで視線が動いた。
昨日まで残っていた赤褐色が、一晩で消えている。
帽子の下から落ちる髪は、すべて黄金だった。
「昨日、あんなだったか?」
「いや。まだ赤いのが残ってた」
メイが宿へ戻ろうとすると、知らない男に呼び止められた。
「本当に金はないのか?」
「ない」
「お前には見えるんだろ」
「もう見えない」
「全部なくなるなんてあるか?」
「昨日まであったんだぞ」
人が集まり始める。
誰かがメイの髪を見た。
「昨日の夜に全部金になったんだろ」
「……そう」
「山の金も昨夜なくなった」
甘い匂いに、腐った臭いが混じる。
疑う者。
怖がる者。
困っている者。
メイを庇うイーライからも、甘さの奥に焦げた臭いがした。
「私も分からない。髪がどうしてこうなったのかも、金がどうしてなくなったのかも」
「でも同じ夜だ」
「そうだよ」
否定できなかった。
「じゃあ、その髪はなんだ」
メイは答えられなかった。
*
その夜、ほとんど眠らなかった。
夜明け前、イーライが馬を宿の裏へ回してくる。
メイは荷物を背負い、白と枯金の二つの石が入った杖を握った。
エヴァンス夫人が食べ物を渡す。
「三日は持つ」
「そんなに?」
「途中で誰かにやるんじゃないよ」
「九割守る」
「十割だ」
メイは笑った。
夫人も笑おうとして、うまくいかなかった。
宿を振り返る。
「じゃあ」
「ああ」
「行ってきます」
エヴァンス夫人の顔がわずかに歪んだ。
「……行っといで」
帰っておいで、ではなかった。
それでもメイは頷いた。
*
裏道から町を抜けようとした。
もう少しで、MIDASと書かれた看板だった。
その前に数人が立っている。
ベンもいた。
「どこ行く」
「西」
「今?」
「うん」
ベンは荷物を見る。
「金がなくなった日に?」
「前から決めてた」
後ろから声が上がる。
「逃げるのか?」
「逃げるんじゃない。旅を続けるの」
「都合がいいな」
人が足を止め、人数が増えていく。
酸っぱい。
焦げ臭い。
その間に、奇妙な甘さ。
「どいて」
メイが言った。
誰も動かなかった。
*
「本当にもう見えないのか」
ベンが聞いた。
「うん」
「一本も?」
「ない」
「じゃあ戻ってくることもない?」
「分からない」
後ろの男が吐き捨てる。
「何も分からねえじゃねえか」
「分からないものは分からないよ」
「こっちは金使って来てんだ!」
「私が呼んだんじゃない」
「金があるって話はお前から始まったんだろ!」
「違う! 私は村の人に教えただけ!」
「それで町になった」
否定できなかった。
メイが教えた。
村人が掘った。
噂が広がった。
人が来た。
ミダスになった。
誰か一人のせいではない。
でも、自分が何もしていないとも言えない。
「……ごめんなさい」
思わず出た。
「でも、私にも戻せない」
一瞬、甘い匂いが薄くなった。
その時だった。
「だったら、せめてそれ置いてけよ」
「何を」
男はメイの髪を指差した。
「それ」
冗談だと思った。
誰も笑わなかった。
*
「髪?」
「一本でいい。本当に金じゃないか確かめる」
「金なわけないでしょう」
「見りゃ金だ」
「色が金なだけ」
「じゃあ一本くらいいいだろ」
「嫌」
即答した。
「金にならなきゃ返す」
「どうやって髪を返すの」
小さな笑いが起きた。
でも、すぐ消えた。
「売らない」
「十ドル」
別の男が言った。
「一本。十ドル出す」
「二十」
「五十」
値段が上がる。
メイの手が腰の赤い星の袋へ触れた。
あの行商人。
五十セント。
もっと上等な袋が買えると言われた。
「やめて」
「いくらなら売る?」
「売らない」
「百なら?」
「そういう意味じゃない!」
声が響いた。
メイは髪を両手で押さえた。
「これは売り物じゃない」
あの日と同じ言葉だった。
でも、あの日の商人は諦めた。
今日は誰も動かなかった。
*
一人の男が前へ出る。
「髪だぞ」
「私の髪」
「また伸びる」
「だから何」
「こっちは全部なくしたんだ」
怒りより疲れた声だった。
泥だらけの服。擦り切れた靴。痩せた顔。
本当に、全部使ってここまで来たのかもしれない。
それでも。
「嫌」
メイは言った。
男の顔が歪んだ。
「金がないなら、それを寄越せ」
イーライがメイの前へ出る。
「下がれ」
「お前には関係ない」
「ある。メイが嫌だって言ってる」
男が一歩出る。
イーライも退かない。
焦げた臭いが急に強くなった。
「イーライ」
「大丈夫」
大丈夫ではない。
匂いが、そう言っている気がした。
*
最初に手を伸ばしたのが誰だったのか、メイには分からなかった。
横から伸びた手が、黄金の髪を掴んだ。
「っ!」
「一本だけ!」
「放して!」
身体を捻る。
髪が引かれ、頭皮が痛む。
イーライがその腕を掴み、別の人間がイーライを押した。
「やめろ!」
ベンの声がする。
止めようとする者。
見ようとして近づく者。
押された人間が別の人間へぶつかり、群れが崩れる。
それでも髪を握った手だけは離れなかった。
「痛い! 放して!」
「少しだって!」
男のもう一方の手に、小さな鋏があった。
「やめて」
「確かめるだけだ」
「やめて!」
イーライが腕を伸ばす。
誰かに押される。
男の手が揺れ、刃が黄金の一房を挟んだ。
メイは青い瞳で見た。
恐怖。
欲望。
迷い。
止めようとする意志。
奪おうとする意志。
すべての流れが絡まり合う。
次の瞬間。
シャキン。
頭が軽くなった。
黄金の一房が地面へ落ちる。
ほんの一瞬、誰も動かなかった。
メイは周囲を見る。
誰も、自分を見ていない。
全員が地面を見ていた。
切り落とされた黄金。
青い瞳には、自分へ向いていた人々の流れが一斉に離れていくのが見えた。
地面へ。
髪へ。
一本の手が伸びる。
その横から、もう一本。
「いやあああああああああああああああああ――ッ!!」
第二章 カナギリ 了




