カナギリ 破
カナギリ 破
翌朝、ベンは山へ行かなかった。
いつもなら鍛冶場にいる時間だった。
宿の前で薪を割りながら、何度も北の道を見ていた。
メイは二階の窓からそれを見ていた。
一度。
二度。
三度。
斧を振り下ろしては、山を見る。
誰かを待っているようだった。
「……何してるんだろ」
分かっていた。
イーライを見ている。
昨夜から、ベンの意識の流れは変わっていた。
以前なら人の視線はすぐに散った。
仕事。
食事。
馬。
天気。
次々と別のものへ流れていく。
今は違う。
一つの場所へ戻る。
山。
そしてイーライ。
メイは窓を閉めた。
甘い匂いがした。
ほんの少し。
*
三日後。
イーライはまた金を持ち帰った。
今度は隠さなかった。
隠せなかった。
村へ戻る途中でベンとジェイコブに会ったからだ。
「またか」
ベンが言った。
「ああ」
「運がいいな」
「そうだな」
それだけだった。
イーライは歩き出した。
「イーライ」
止まる。
「何だ」
「どこだ?」
イーライが振り返った。
「何が」
「金だよ」
ベンは笑っていた。
「俺にも教えてくれ」
「偶然見つけただけだ」
「何回目だ?」
イーライは答えなかった。
ジェイコブが間に入った。
「責めてるんじゃない。ただ、俺たちにも見つけられる場所なら知りたい」
「知らない」
イーライは言った。
「俺は場所なんて知らない」
メイは少し離れたところから三人を見ていた。
嘘だった。
金の場所を知っているのはメイだ。
だから正確には、イーライは知らない。
けれど、そんな理屈が通る空気ではなかった。
ベンの視線が、
イーライの靴へ落ちた。
泥。
岩の粉。
その跡を辿るように、
北の道へ向く。
「そうか」
ベンは言った。
それ以上は聞かなかった。
甘い匂いだけが残った。
*
「尾けられてる」
翌日。
山道を歩きながら、メイが言った。
イーライは振り返らなかった。
「誰?」
「二人」
「ベン?」
「たぶん一人は」
「戻るか」
「うん」
二人はそのまま山へ入らず、途中で道を変えた。
沢へ降りる。
少し歩き、
別の道から村へ戻った。
翌日は行かなかった。
その次の日も。
金を掘らなければ、
何も起こらない。
そう思った。
けれど三日目。
ベンが宿へ来た。
「イーライは?」
「知らない」
メイは洗った皿を拭いていた。
「本当に?」
「何で私に聞くの」
「いつも一緒だから」
「いつもじゃない」
ベンは少し黙った。
「お前、知ってる?」
メイの手が止まる。
「何を」
「金の場所」
「知らない」
今度は、
メイが嘘をついた。
ベンはしばらく彼女を見た。
それから笑った。
「そっか」
帰っていった。
戸が閉まる。
メイは息を吐いた。
皿を置く。
手が濡れていた。
甘い匂いがした。
*
その日の夕方、
イーライが戻ってこなかった。
日が沈んでも。
食事が始まっても。
「遅いね」
エヴァンス夫人が言った。
メイは窓を見る。
暗い。
雨は来ない。
風も弱い。
道に問題はない。
それなのに、
胸の奥が落ち着かなかった。
「ちょっと行ってくる」
「どこへ」
「イーライ探してくる」
「もう暗いよ」
「近くだけ」
杖を取った。
宿を出る。
そこで、
分かった。
流れ。
いくつもの意識が、
村の外れへ集まっている。
メイは走った。
*
古い納屋の脇に、
四人いた。
イーライ。
ベン。
それから村の男が二人。
「何してるの!」
全員が振り返った。
イーライの口元から血が出ていた。
メイの足が止まる。
「大したことじゃない」
ベンが言った。
「殴ったの?」
「先にこいつが押した」
「囲んだからだろ」
イーライが言った。
ベンの顔も赤く腫れていた。
喧嘩だった。
まだ、
それだけだった。
メイはそう思おうとした。
「場所を聞いただけだ」
男の一人が言った。
「教えないからだろ」
「だから知らないって言ってる」
「何度も金を見つけて?」
イーライは黙った。
「そんなわけないだろ」
ベンが言った。
「俺たちだって同じ山に何年も入ってる。なのにお前だけだ」
「運だよ」
「もう誰も信じねえよ」
その言葉だけで、
空気が変わった。
メイには見えた。
四人から伸びる流れが、
一斉にイーライへ向いている。
甘い。
喉が焼けるほど甘い。
「帰ろう」
メイはイーライの腕を取った。
「待て」
ベンが前へ出る。
「メイ、お前も知ってるんだろ」
「知らない」
「嘘だ」
「知らない!」
「じゃあ何でいつも一緒に山へ行く?」
メイは答えられなかった。
イーライが前へ出た。
「メイは関係ない」
「じゃあお前が話せ」
「嫌だ」
「何でだよ!」
ベンが胸を押した。
イーライが腕を払う。
もう一人が肩を掴む。
イーライが振り向きざまに殴った。
男が倒れた。
一瞬、
全員が止まった。
それからベンがイーライを殴った。
鈍い音。
メイの中で何かが切れた。
「やめて!」
誰も聞かない。
イーライがベンを突き飛ばす。
また誰かが掴む。
「場所を言え!」
「知らない!」
「嘘つけ!」
「やめて!」
メイは杖を地面へ叩きつけた。
こつん。
白い石が熱を持った。
全員が、
ほんの一瞬だけメイを見る。
イーライと目が合った。
彼から自分へ、
強い流れ。
言うな。
そう見えた。
メイには、
そう見えた。
イーライは首を横に振った。
「メイ」
言うな。
秘密にしておけ。
自分なら大丈夫だ。
たぶん、
そんな意味だった。
次の瞬間、
ベンがまたイーライの胸倉を掴んだ。
メイは叫んだ。
「イーライじゃない!」
動きが止まった。
甘い匂いだけが、
その場に満ちていた。
「……何?」
ベンが言った。
イーライの顔から血の気が引いた。
「メイ」
「違うの」
「言うな」
「イーライが見つけてるんじゃない」
「メイ!」
メイは、
全員を見た。
怖かった。
でも、
イーライが殴られる方が嫌だった。
「私なの」
誰も喋らない。
「私が教えてたの」
ベンの手が、
イーライの服から離れた。
「どういう意味だ」
メイは杖を握った。
白い石の隣。
空いた窪みが、
暗闇の中に見えた。
そして言った。
「私には――」
一度、
息を吸った。
甘い。
「金のある場所が分かる」
静かになった。
風もない。
誰も動かなかった。
ただ、
ベンたちの意識の流れだけが、
イーライから、
ゆっくりと、
メイへ向きを変えた。
誰も、すぐには口を開かなかった。暗い納屋の脇で、ベンたちの視線がイーライからメイへ移っている。さっきまで一人へ集まっていた流れが、今度は自分へ向かっていた。重い。メイは杖を握り直した。
「どうやって分かる」
ベンが聞いた。
「説明できない」
「でも分かるんだな」
「たぶん」
「たぶんで金を当ててたのか?」
「ほとんどは」
イーライが割って入った。
「もういい。帰るぞ」
メイの腕を取る。ベンは止めなかった。ただ、「明日、話を聞かせてくれ」と言った。命令ではなかった。お願いにも聞こえなかった。メイは答えなかった。
*
帰り道、イーライは一度も喋らなかった。宿が見えてから、ようやく口を開いた。
「何で言った」
「あなたが殴られてたから」
「大したことない」
「血が出てた」
「それでもだ」
メイは足を止めた。
「じゃあ、黙って見てろって?」
イーライも止まる。
「俺はそれでよかった」
「私は嫌だった」
短い沈黙。
「ごめん」
メイが言った。
イーライは首を振った。
「怒ってる」
「知ってる」
「お前にじゃない」
イーライは山の方を見た。
「こうなると思った」
メイも山を見た。暗闇の下に、金色のものが広がっている。
「でも、ずっと隠せた?」
「分からない」
「でしょう」
「それでも、もう少しは」
そこで言葉が切れた。メイにも分かっていた。もう少し。その言葉が、最近やけに多い。
*
翌朝、宿の前に人が集まった。ベン、ジェイコブ、エイベル。ほかにも数人いる。昨日の喧嘩を知らない者までいた。噂は一晩で広がっていた。
「本当なのか」
ジェイコブが聞いた。
メイは頷いた。
「金そのものが見えるわけじゃない」
「じゃあ何が見える」
「糸みたいなもの」
「それを追えば?」
「金があることが多い」
「多い?」
「外れる時もある」
ベンが聞いた。
「俺たちにも教えられるか?」
イーライが横から言った。
「やめとけ」
視線が集まる。
「何でだ」
「金を見つけた途端これだろ」
誰も返さなかった。イーライは続けた。
「昨日まで普通だった」
ベンの顔が硬くなる。
「お前が隠したからだ」
「ベン」
メイが止めた。
「もういい」
「よくない」
「私が決める」
イーライがメイを見る。その顔を見て、メイは少し迷った。
でも、村人たちも見た。ジェイコブは、百ドルあれば帰れると言っていた。エイベルとサラは、屋根を直したい、青いカーテンが欲しい、冬を越したいと言っていた。大金持ちになりたい人間ばかりではない。必要なものがある。メイはそう思った。
「教える」
イーライの表情が変わった。
「メイ」
「場所を教えるだけ」
「一度やったら終わらない」
「分からないでしょう」
「分かる」
「何で」
「昨日見ただろ」
メイは黙った。確かに見た。でも、昨日殴り合った男たちは、今は黙って立っている。ベンも、少し気まずそうだった。
「悪かった」
ベンが言った。イーライを見る。
「昨日は」
イーライは答えなかった。ベンはメイへ向き直った。
「俺は少しでいい」
その言葉に、メイは反応した。
「少し?」
「冬の分があればいい」
ジェイコブも言った。
「俺も百ドルだ。家に帰る分だけ」
エイベルは、「屋根を直せれば十分だ」と言った。
皆、大したことを言っていない。それがメイには、正しいように思えた。
「分かった」
メイは言った。
「今日、何箇所か見る」
イーライが離れていく。
「イーライ」
止まらない。
「待って」
「好きにしろ」
そのまま歩いていった。メイは追わなかった。追えなかった。
*
昼、メイは村人たちと山へ入った。いつもの道。でも今日は、後ろに人が多い。歩く音、シャベル、つるはし、袋、息遣い。金色の糸は、以前と変わらず地面の下にあった。
「ここ」
最初の場所を示した。ベンが掘る。岩を割る。何度か外した。やがて、小さな黄金が出た。
「……あった」
誰かが言った。
ベンは黙って見ていた。それから笑った。
「本当にあった」
その声には、怒りも疑いもなかった。ただ、嬉しさだけがあった。周りから歓声が上がる。メイも、つられて笑った。
次。また金。次は出ない。その次。小さな金。
外れた場所では、笑い声が少しずつ短くなった。誰かが、メイの示した地面を何度も見た。別の誰かは、掘り出された金を手のひらで量った。
「これだけか」
小さな声だった。
聞こえなかったふりをして、メイは次の糸を探した。金色の線は、地面の下でいくつにも分かれていた。そのたびに、村人たちの目も分かれていく。自分の袋。隣の袋。まだ掘っていない場所。誰がどれだけ取ったのか。誰も口にはしなかった。けれど、シャベルを置く音が、少しずつ荒くなった。
日が傾く頃には、いくつかの袋に、ほんの少しずつ金を含んだ岩が入っていた。ベンは自分の袋を閉じる前に、隣の袋を覗いた。覗かれた男は、すぐに口を結んだ。
「ありがとう」
ジェイコブが言った。
「本当に助かる」
エイベルも、何度も頭を下げた。
その一方で、少し離れたところでは、誰かが金の欠片を布で包んでいた。見られないように、何度も周囲を確かめながら。
メイは、少し安心した。昨日の喧嘩が、嘘のようだった。これなら、良かったのかもしれない。秘密にして、疑われて、殴り合うより、少しずつ分ければいい。必要な分だけ。皆が取れば、誰も羨ましがらない。そう思った。
けれど、帰り道にベンが言った。
「明日は、もっと奥を見られるか」
「分からない」
「見てくれ」
頼む声ではなかった。今日より多くを、当然のように求めていた。
別の男が、「奥に大きいのがあるって話だ」と言った。
「誰から聞いた」
「山がそう言ってる」
笑い声が起きた。でも、誰も笑っていなかった。
甘い匂いがした。今日は、少しだけ重かった。
*
夕方、村へ戻ると、イーライが宿の前にいた。メイを見る。
「どうだった」
「出た」
「そう」
「みんな喜んでた」
「そう」
「怒ってる?」
「まだ」
メイは杖を地面についた。
「でも、喧嘩にはならなかった」
「今日はな」
「何でそんな言い方するの」
イーライは少し黙った。
「俺が間違ってればいい」
それだけ言った。
宿へ入る。メイはその背中を見る。追いかけようとして、止まった。
後ろから、ベンの笑い声が聞こえた。今日見つけた金を、誰かに見せている。
「これで冬が楽になる」
そう言っていた。その声は本当に嬉しそうだった。
けれど、そのあとに続いた声は、もっと小さかった。
「明日は俺が先に掘る」
メイは聞かなかったことにした。イーライより、そちらを信じることにした。今は。
その夜、甘い匂いは、昨日より少しだけ濃かった。
それから数日、村の朝は早くなった。
日が昇る前から、山へ向かう足音がする。つるはし、シャベル、麻袋。昨日まで畑や鍛冶場へ向かっていた男たちが、今はまず北の道を見るようになった。
メイは毎日ついて行ったわけではない。頼まれた時だけ、金色の糸が濃く集まる場所をいくつか示した。外れることもあった。それでも、何日かに一度は誰かが金を持ち帰った。
最初に大きく変わったのは、ジェイコブだった。
「届いた」
宿の食卓で、彼は硬貨を並べた。
「百ドル?」
「ああ」
何度も数えている。途中で間違えて、また最初から数えた。
「これで帰れるね」
メイが言うと、ジェイコブは笑った。
「そうだな」
その顔を見て、メイも嬉しくなった。
妻と子供たちのところへ帰る。そのための金だった。誰かから奪ったわけでもない。山から掘り出しただけだ。
金は人を帰れる場所へ帰してくれる。
その時のメイには、そう見えた。
*
エイベルとサラの家では、屋根の修理が始まった。
古い板が外され、新しい木が並ぶ。傾いていた柵も直った。
「これで雨漏りしない」
屋根の上からエイベルが言った。
「前も同じこと言ってなかった?」
メイが聞く。
「あれは三か月持った」
「短い」
「今度はもっと持つ」
家の中では、サラが布を広げていた。
青だった。
少しくすんだ、深い青。
「買ったの?」
「買った」
サラは笑った。
「贅沢しちゃった」
メイは窓辺へ布を当てるのを手伝った。茶色い壁の中に青が入る。それだけで、部屋が少し明るく見えた。
「どう?」
「綺麗」
「今度はちゃんと感想ね」
「前も綺麗って言ったでしょう」
「最初は茶色じゃなくなったって言った」
「覚えてるの?」
「忘れないわよ」
二人で笑った。
夕方、外から見ると窓の内側に青い布が見えた。
メイはしばらく立ち止まった。
金が青いカーテンになった。
不思議だった。
山の中では冷たい岩だったものが、誰かの家へ来ると、こんな色になる。
*
ベンは冬用の靴を買った。
「見ろ」
「普通の靴」
「新品だぞ」
「だから?」
「分かってないな」
底を見せる。
「穴がない」
「靴って普通そうじゃない?」
「俺の前のはあった」
「捨てなさいよ」
「もう捨てた」
そう言いながら、ベンは嬉しそうだった。
鍛冶場にも新しい道具が一つ増えた。以前なら修理して使っていたものを、買い替えたらしい。
エヴァンス夫人は宿の窓を直した。
「冬になると風が入ってたからね」
「去年も?」
「去年も」
「何で直さなかったの」
「金がなかったんだよ」
新しいガラスが入ると、厨房の隙間風が減った。
夜、食堂に座る人たちの上着が一枚少なくなった。
それだけのことだった。
でも、皆が少し楽になった。
*
金を見つけた者は、メイへ何かを渡そうとした。
パン。肉。硬貨。干した果物。
メイはほとんど断った。
「場所を言っただけだから」
それでもジェイコブは、一枚だけ硬貨を押しつけた。
「取っとけ」
「いらない」
「俺が帰れるのはお前のおかげだ」
「まだ帰ってないでしょう」
「細かいな」
結局、メイは受け取った。
その硬貨で、ルーシーへ小さな櫛を買った。
赤い布を巻いて荷物へ入れる。
次の手紙と一緒に送るつもりだった。
兄が探したかった金で、妹へ何かを送る。
そのことが、少し嬉しかった。
*
「ほらな」
ある日の夕方、メイはイーライに言った。
二人は宿の裏で薪を運んでいた。
「何が」
「大丈夫だった」
イーライは返事をしなかった。
「ジェイコブは帰れる。サラはカーテン買った。ベンだって冬の靴ができた」
「見たよ」
「みんな喜んでる」
「そうだな」
薪を積む。
イーライはまだ納得していない顔だった。
「間違ってた?」
メイが聞いた。
「まだ分からない」
「またそれ」
「お前のがうつった」
メイは笑った。
イーライも少し笑った。
前ほど怒ってはいなかった。
*
その日の夜、サラとエイベルも宿へ来た。
食事が終わった頃、エイベルがメイを呼んだ。
「ありがとう」
「また?」
「ちゃんと言ってなかったから」
「屋根?」
「全部だよ」
サラも頷いた。
「これで冬は大丈夫」
メイは笑った。
その言葉を聞くのが好きだった。
大丈夫。
十分。
足りる。
金を教えてから、村ではそういう言葉が増えた気がしていた。
食卓には肉が少し多くなり、誰かが酒を一瓶開けた。エヴァンス夫人も今日は何も言わなかった。
皆が笑っていた。
誰かの金が多いとか、少ないとか、そんな話もした。でも冗談だった。
まだ笑える話だった。
メイは食卓を見回した。
これなら良かった。
そう思った。
秘密を抱えてイーライが殴られるより、ずっといい。
皆で分けた方がいい。
必要なものを買って、必要なだけ取ればいい。
甘い匂いがした。
でも今夜のそれは、焼いたパンの匂いとよく似ていた。
メイは気にしなかった。
まだ、
気にする理由がなかった。
エイベルとサラが、もう一度山へ行ったのは、それから二日後だった。メイが金色の糸を追い、村から少し離れた斜面で足を止めた。前より太い。岩の中へ、何本もまとまって入っている。
「ここ?」
エイベルが聞いた。
「たぶん」
「九割?」
「それくらい」
岩を割る。しばらくして、小さな歓声が上がった。
金だった。
前に見つけたものより多い。大きな塊ではないが、白い石英の中に細い黄金が何本も走っていた。エイベルはしばらく黙って見つめ、やがて笑った。
「これなら、残りの借りも返せる」
サラも隣で笑っていた。
「冬の食料も買えるわね」
「カーテンはもう買っただろ」
「別の話よ」
メイも笑った。
まだ掘れそうだった。金色の糸は、岩の奥へ続いている。
「もう少し割る?」
メイが聞いた。
エイベルは岩を見た。それからサラを見る。
二人は少しだけ話した。
「いや」
エイベルが言った。
「もういい」
「まだあるよ」
「うん。でも、もう十分だ」
メイは瞬きをした。
「本当に?」
「屋根も直した。借りも返せる。冬も越せる」
サラが頷いた。
「欲しかったもの、もうあるもの」
「青いカーテン?」
「それも」
サラは笑った。
「だから、もういい」
メイはもう一度、岩の中を見る。金色の糸はまだ続いている。掘れば、たぶん出る。
それでも二人は道具を片づけた。
メイには、少し不思議だった。
金があるのに掘らない。
昨日までなら、それだけのことだったはずなのに、今は妙に目についた。
帰り道、甘い匂いがほとんどしなかった。
*
その夕方、宿の食堂ではジェイコブが硬貨を数えていた。
「百十二」
メイが横から覗く。
「百ドル超えてる」
「ああ」
「じゃあ帰るんでしょう?」
ジェイコブの指が止まった。
「帰るよ」
「いつ?」
「……もう少ししたら」
メイは首を傾げた。
「百ドルあれば十分って言ってたじゃない」
「言ったな」
「あるよ」
「あるけど」
ジェイコブは硬貨をもう一度並べ直した。
「百二十くらいあった方が安心だ」
「十二ドルしか違わないじゃない」
「だからすぐだ」
それなら、とメイは思った。
十二ドル。
大した額ではない。
数日あれば届くかもしれない。
「じゃあ百二十ね」
「ああ」
ジェイコブは笑った。
その笑顔に、変なところはなかった。
メイも気にしなかった。
*
次の日、サラは山へ行かなかった。
その次の日も。
庭にいた。
新しいカーテンを窓へ掛け直している。エイベルは柵を直していた。
「行かないの?」
メイが聞いた。
「どこへ?」
「山」
サラは少し考えた。
「ああ」
それから、特に惜しそうでもなく首を振った。
「もういいわ」
「本当に?」
「また聞くの?」
「何となく」
サラは笑った。
「メイは行きたいの?」
逆に聞かれて、メイは黙った。
山を見る。
金色の糸は今日も見える。
昨日より増えているような気がする。
「……ちょっと」
「なら行けばいいじゃない」
「でも」
「欲しいなら行く。いらないなら行かない。それだけよ」
サラは窓を見た。
青い布が風で少し揺れている。
「私はもう、欲しいもの買ったから」
メイはその言葉を聞いて、何も言わなかった。
*
ジェイコブが百二十ドルに届いたのは、三日後だった。
今度はメイから聞いた。
「百二十になった?」
「なった」
「じゃあ今度こそ帰る?」
ジェイコブは笑った。
「冬が近いだろ」
「だから?」
「途中で何かあったら困る」
メイは少し嫌な予感がした。
「いくらなら帰るの」
「百五十」
答えは早かった。
「また増えた」
「三十ドルだぞ。大したことない」
「この前も十二ドルだった」
「家族がいるんだ。余裕はあった方がいい」
その言い方は、間違っていなかった。
妻がいる。
子供がいる。
帰り道も長い。
病気になるかもしれない。馬車が壊れるかもしれない。食料が高くなるかもしれない。
理由はいくらでもあった。
だからメイは、
「そっか」
としか言えなかった。
ジェイコブは山へ行った。
*
その頃から、山へ行く人間の数が少しずつ増えた。
最初は金を必要としていた者だけだった。やがて、まだ見つけていない者も行くようになった。人が掘っているのを見ると、自分も掘りたくなるらしい。
メイは毎回ついて行かなかった。
でも村へ戻ると、よく聞かれた。
「明日はどこを見る?」
「今日は見ないのか?」
「もっと太い糸はないのか?」
以前は水のことを聞かれていた。
雨は降るか。
井戸はどこか。
沢は涸れないか。
今は、金の話が多かった。
ある日の昼、ベンが言った。
「昨日の場所、もう少し奥も見てくれ」
「昨日出たでしょう」
「少しだけな」
「冬の分は?」
「まだ足りない」
メイはベンの新しい靴を見る。
穴のない靴。
「前はあれで十分って言ってなかった?」
ベンも自分の靴を見た。
「靴はな」
それだけ言って、山へ向かった。
甘い匂いが、後ろに残った。
*
夜。
宿の食堂で、メイは一人で水を飲んでいた。
イーライが入ってきた。
「まだ起きてたのか」
「うん」
椅子へ座る。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「サラたち、もう山行かないって」
メイが言った。
「知ってる」
「エイベルも」
「知ってる」
「もう十分なんだって」
イーライは頷いた。
「そうか」
「ジェイコブは百五十になった」
「前は百だったな」
「うん」
それだけで話は終わった。
メイは水を飲んだ。
「ねえ」
「何」
「何が違うんだろう」
イーライは少し考えた。
「知らない」
「私の真似?」
「今回は本当に分からない」
メイは笑わなかった。
窓の外には山がある。
暗くて見えない。
それでも、土の下に金色の糸があることだけは分かった。
「金は同じなのに」
メイが言った。
「人が違うんだろ」
イーライの答えは短かった。
甘い匂いがした。
サラの家を思い出した。青いカーテン。直った屋根。閉じた道具箱。
それからジェイコブを思い出した。
百ドル。
百二十ドル。
百五十ドル。
メイは空になったコップを見た。
水なら、空になれば足せばいい。
いっぱいになれば、それ以上は入らない。
人は違うのかもしれない。
メイには、まだ分からなかった。
ただその夜、初めて思った。
「十分」という言葉は、同じ意味で使っていても、人によって終わる場所が違う。
最初に増えたのは、馬だった。
街道脇の柵へ繋がれる馬が、一頭、二頭と増えた。エヴァンス夫人の宿には見たことのない鞍が並び、夕方になると知らない男が食堂の席に座っていることが多くなった。
「最近、客多くない?」
メイが皿を運びながら言った。
「秋だからだよ」
「去年も?」
「去年も秋だった」
「そういう意味じゃなくて」
「手を動かしな」
厨房からまた注文が飛ぶ。豆の煮込み。鹿肉。パン。酒。普段なら空いている席まで埋まっていた。
話題は、ほとんど金だった。
「この辺で出るって?」
「山の北側らしい」
「誰が見つけた?」
メイは皿を置く手を少しだけ早めた。誰も自分を見ていない。それでも、聞かれているような気がした。
イーライは食堂の端で黙って食べていた。目が合う。二人とも何も言わなかった。
*
三日後。
村の外れに、テントが二つ立った。
使われていなかった草地だった。翌朝には五つになり、その日の夕方には荷車が三台並んでいた。
つるはし、シャベル、ふるい、ロープ、ランタン。それまで雑貨屋には置いていなかったものが、道端で売られ始めた。
「これ、誰の店?」
メイが聞くと、箱の上へ座っていた男が笑った。
「今日から俺の店だ」
「建物ないけど」
「屋根はある」
帆布を指差す。
「壁は?」
「晴れてるうちはいらない」
「明後日、雨降るよ」
男の顔が変わった。
「本当か?」
「九割」
翌日には壁ができていた。
メイは少し感心した。
村では、何かを作るのに時間がかかる。木を切る。運ぶ。釘を打つ。でも外から来た人間たちは違った。
金が出ると聞けば来る。必要なら店を作る。売れれば、また物を持ってくる。
昨日なかったものが、今日にはある。
便利だった。
そのことを、メイは否定できなかった。
*
さらに四日。
最初のテントが立ってから、一週間ほど経った頃には、村の音そのものが変わっていた。
朝は斧。昼は金槌。夕方は馬。夜は笑い声。
それまで日が暮れれば静かになった村で、暗くなっても灯りが消れなくなった。
雑貨屋の裏では酒を飲む人間が増え、誰かが樽を持ち込んだ。その隣には粗末なテーブルが置かれ、カードをする男たちが集まった。
「酒場?」
メイが聞いた。
「まだ違う」
ベンが答えた。
「何が足りないの」
「屋根」
数日後には屋根がついた。
さらに看板までついた。
酒場になった。
村には教会も酒場もなかった。
今は、酒場だけが先にできた。
エヴァンス夫人はそれを見て鼻を鳴らした。
「ろくなもんじゃないよ」
「お客取られる?」
「うちには飯がある」
一週間後、その酒場でも煮込みを売り始めた。
エヴァンス夫人は値段を確認しに行った。
*
人が増えるにつれ、メイへ金の場所を聞く者も増えた。
村人なら、まだ顔と名前が一致した。外から来た人間は違う。
「お嬢さんが場所を知ってるって本当か?」
「知らない」
「でも――」
「知らない」
メイは断った。
村人に場所を教えたことと、知らない人間に教えることは違う。少なくとも、メイにはそう思えた。
しかし噂は勝手に形を変えた。
水脈を見つける娘がいる。
金の匂いが分かる娘がいる。
山の中が透けて見える娘がいる。
魔女がいる。
「最後のは誰よ」
メイが怒ると、ベンが笑った。
「魔女っぽいだろ」
「どこが」
「杖」
メイは杖を見た。
「これだけ?」
「目も」
「あなたの顔だって赤い時ある」
「酒飲んだ時だけだ」
「同じじゃない」
メイは笑った。
まだ笑えた。
ただ、以前より杖を見られることが増えた。青い目も。
村の人間にとって、それらは「メイ」だった。
外から来た人間には、そうではなかった。
*
十日ほど経つと、エヴァンス夫人の宿は毎晩満室になった。
床で寝てもいいと言う人間まで現れた。
「床なら半額?」
「寝る場所があるだけありがたいと思いな」
「前なら泊めてあげてたじゃない」
メイが言うと、エヴァンス夫人は眉を上げた。
「前は三部屋空いてたんだよ」
仕方のないことだった。
パンも肉も必要になる。薪も。洗濯も。人手も。
メイの仕事も増えた。
朝から晩まで動き回る日が続いた。
「春までいるつもりだったけど」
ある夜、メイが呟いた。
「何だい」
「春までいたら、働きすぎて死ぬかも」
「なら夏までいな」
「何で延びるの」
エヴァンス夫人は笑った。
メイも笑った。
それから宿帳を見る。
知らない名前が並んでいた。
最初にこの村へ来た頃の自分も、こんなふうだった。旅人。通り過ぎる人間。
でも今は、メイの方が彼らを迎える側だった。
そのことが少し嬉しかった。
同時に、少し落ち着かなかった。
*
二週間ほど経った頃には、森まで変わっていた。
最初は山道の近くに小さな穴が増えただけだった。それが、いつの間にか斜面全体へ広がった。
木が切られる。土が掘り返される。雨が降れば泥が沢へ流れ込む。
以前、メイとイーライが水を探した草地にも、人が入るようになった。
「ここまで来たの?」
メイは立ち止まった。
あの日、二人でパンを食べた場所だった。村を見下ろし、春までいるのかと聞かれた。海を先に見た方が勝ちだと言った。
今は草の上に麻袋が積まれ、男が三人、地面を掘っている。
「別の場所行くか」
イーライが言った。
「うん」
メイはそれだけ答えた。
誰の土地でもない。誰かが掘ってはいけない理由もない。
それでも、少し嫌だった。
*
同じ頃、村の中心には新しい二階建ての建物が建ち始めた。
下は店。上は部屋を貸すらしい。
「宿?」
「たぶんな」
「エヴァンス夫人怒るかな」
「もう怒ってる」
「聞いたの?」
「材木の値段が上がったって怒ってた」
通りの向こうで太い柱が立つ。
その向こうにもテント。
さらに向こうにも荷車。
メイは村を見回した。
「増えたね」
「ああ」
「何人いるんだろ」
「分からない」
「元は何人だった?」
イーライも少し考えた。
「数えたことないな」
二人とも、この村の人口を知らなかった。
知る必要がなかった。
全員の名前を知っていたからだ。
今はもう、知らない顔の方が多かった。
*
村へ人が流れ込み始めてから、三週間ほど経った頃。
名前が必要だと言い出した男がいた。
ヘンリー・ヴェイル。
自分では新聞屋だと言ったが、新聞を持っているところをメイは一度も見なかった。紙とインク、それから人の話を聞くのが好きな男だった。
「町の名前は?」
宿の食堂で彼が聞いた。
「町じゃないよ」
エヴァンス夫人が答えた。
「じゃあ村の名前」
誰も答えなかった。
ヴェイルは待った。
「……ないんですか?」
メイがベンを見る。
ベンがジェイコブを見る。
ジェイコブがエヴァンス夫人を見る。
「街道のこの辺」
ベンが言った。
「それ名前?」
「今まで困らなかった」
実際、困らなかった。
誰かの家を説明するなら、エヴァンスの宿の近く。鍛冶場の先。カーターの家の南。
それで通じた。
ヴェイルは面白そうに笑った。
「こんなに金が出るのに、名前がないのはもったいない」
「名前で金が増えるのかい」
エヴァンス夫人が言った。
「人は増えます」
「もう十分いるよ」
「もっと来ます」
エヴァンス夫人は嫌そうな顔をした。
メイはその横で、少しだけ甘い匂いを感じた。
*
翌朝。
村の入口に看板が立っていた。
粗い板。黒い文字。
大きく、
MIDAS
と書いてある。
「何これ」
メイは立ち止まった。
後ろからヴェイルが来た。
「私です」
「勝手につけたの?」
「仮です」
「看板まで作って?」
「名前は使われたら勝ちです」
「何と戦ってるの」
ヴェイルは看板を叩いた。
「ミダス王。触れたものを黄金に変えた王様です。今のここにぴったりでしょう」
「最後どうなったの?」
ヴェイルが少し黙る。
「そこは宣伝には向かない」
「駄目じゃない」
その日のうちに、
「ミダスへ行けば金がある」
と言う人間が現れた。
三日後には、
「ミダスで道具を売っている」
になった。
一週間もしないうちに、
「ミダスの北で新しい鉱脈が出た」
という話を、メイは自分の知らない人間から聞いた。
名前は、思ったより早く広がった。
*
エヴァンス夫人は、その間も、
「ここはミダスなんかじゃないよ」
と言い続けた。
宿へ泊まりに来た男が、
「ミダスで一番古い宿か?」
と聞けば、
「そんな町は知らないね」
と答えた。
メイはそれを見るたび笑った。
「そんなに嫌?」
「昨日までなかった名前だよ」
「名前なんてそんなもんじゃない?」
「ここには、金が出る前から人が暮らしてたんだ」
その言葉には、メイも少し納得した。
自分は後から来た人間だった。
でも、エヴァンス夫人たちは違う。
名前がなくても暮らしていた。
*
看板が立ってから、さらに一週間。
宿の入口にも、新しい板が掛かった。
メイはそれを見つけて、しばらく動かなかった。
EVANS HOUSE
MIDAS
「……何これ」
エヴァンス夫人が中から出てきた。
「看板」
「見れば分かる。ミダス嫌いじゃなかったの?」
「嫌いだよ」
「書いてある」
「客が迷うんだよ!」
エヴァンス夫人は看板を指差した。
「荷物も手紙もみんなミダスで来る。『名前なんかない』って言っても誰も聞きゃしない」
「だから書いたの?」
「仕方なくだ」
メイは看板を見る。
「エヴァンス・ハウス」
「今までは『エヴァンスの宿』だったろ。外の連中には分かりづらいんだとさ」
「変なの」
「まったくだ」
エヴァンス夫人は宿へ戻ろうとした。
そこで止まった。
「まあ」
振り返る。
「どうせなら、ミダスで一番の宿にするけどね」
メイは目を瞬いた。
「前と言ってること違わない?」
「町が変わったんだよ」
そう言って、エヴァンス夫人は中へ戻った。
メイは一人、看板の前に残った。
町。
今、確かにそう言った。
村ではなく。
最初の馬が増え始めてから、一月も経っていない。
それなのに、辺りはもう別の場所のようだった。
鍛冶場はまだある。
カーター家も。
井戸も。
宿も。
山も。
何もなくなってはいない。
それでも、自分が来た頃の村を探そうとすると、どこを見ればいいのか分からなかった。
知らない人間。新しい建物。馬車。店。酒場。夜まで続く音。
その全部を覆うように、新しい名前がついている。
ミダス。
メイは杖を地面についた。
こつ。
白い石は静かだった。
山の下には、金色の糸が広がっている。以前よりずっと多く、ずっと遠くまで見えた。
誰かが金を掘る音。
誰かが硬貨を数える音。
新しい建物へ釘を打つ音。
いくつもの音が混ざり合っている。
メイは看板をもう一度見上げた。
昨日まで、この村には名前がなかった。
名前がなくても、誰も困っていなかった。
今は、名前がなければ困るほど、人が増えた。
MIDAS.
最初の旅人が金の噂を聞いてやって来てから、まだ一月も経っていない。
その短い時間の中で、昔からあった小さな村は、新しい名前の向こうへ少しずつ見えなくなっていた。
ミダスという名前が定着してから、一週間ほど経った。
メイは朝から宿の食堂を走り回っていた。満席だった。泊まり客だけではない。朝食を食べに来る鉱夫、商人、馬車を待つ旅人までいる。
「パン、もうないよ!」
「焼いてる!」
厨房からエヴァンス夫人の声が飛ぶ。
「卵は?」
「あと十二!」
「足りない!」
「十二もあるのに?」
「今は足りないんだよ!」
メイは返事をせず、空いた皿を三枚まとめて抱えた。
以前なら十二個の卵があれば十分だった。今は朝の途中でなくなる。
そんなものが、この頃は増えていた。
*
昼を過ぎて、ようやく客が減った。
メイは宿の裏へ出て、大きく息を吐いた。静かな場所を探したつもりだったが、通りの向こうでは新しい建物を作っている。金槌の音が絶えない。
「疲れてるな」
声がして振り返ると、イーライがいた。
「誰のせいだと思う?」
「俺じゃないだろ」
「半分くらい町のせい」
「残り半分は?」
「エヴァンス夫人」
「聞かれたら殺されるぞ」
「本人にも言える」
「強いな」
イーライが笑った。
ここ数日は、二人で山へ行くことも減っていた。メイは宿が忙しく、イーライにも仕事がある。金の場所を教える時も、以前のように二人きりではない。
「今日、山行くの?」
「行かない」
「珍しい」
「お前もだろ」
「私は仕事」
「俺も仕事」
それだけ話して、メイは壁にもたれた。
「少し休む」
「そうしろ」
イーライが隣へ座った。
しばらく二人とも喋らなかった。
昔なら、この時間には風と鳥の声が聞こえた。今は遠くで斧が鳴り、馬車の車輪が軋み、誰かが金の値段を叫んでいる。
「海より先に、町が来たね」
メイが言った。
「町は向こうから来るもんじゃないだろ」
「ここに来たじゃない」
イーライは少し笑った。
そのあと、メイの顔を見た。
「何?」
「動くな」
メイは固まった。
「何」
「そのまま」
「虫?」
「違う」
「じゃあ何」
イーライが手を伸ばした。
指がメイの髪へ触れる。
メイの肩が小さく動いた。
「何してるの」
「髪」
「見れば分かる」
イーライは一本だけ摘まんだ。
赤褐色の髪の中で、それだけが陽を強く返している。
「……これ」
「何?」
「金色だ」
メイは笑った。
「何言ってるの」
「本当に」
イーライの顔は笑っていなかった。
メイは髪を手繰り寄せた。
見つからない。
「どれ?」
「ここ」
イーライがもう一度摘まむ。
一本だけだった。
根元から先まで、まっすぐ黄金色。
黄色ではない。陽に透けた赤毛でもない。あのキノコと同じような、金属を思わせる色だった。
メイの笑顔が消えた。
「……抜けた誰かの髪じゃない?」
「お前から生えてる」
「嫌な言い方しないで」
「事実だろ」
メイはその一本を引っ張った。
「痛っ」
「自分でやったんだろ」
「私のだ」
「だから言った」
メイは髪を離した。
胸の奥が、少し冷えた。
*
部屋へ戻ると、すぐ鏡の前に座った。
赤褐色の髪を分ける。右。左。後ろは見えないので、何度も鏡の角度を変えた。
一本。
本当に一本だけだった。
メイは金色の髪を指へ巻きつけた。
半年前、鏡の中に青い瞳を見た時のことを思い出した。
メルクと一つになったあと、自分の目は変わった。
なら、これは。
窓の外を見る。
山の下には金色の糸がある。
あのキノコ。
甘い香り。
――たりない。
メイは立ち上がり、杖を取った。
白い石は乾いている。その隣には、まだ何も入っていない窪みがある。
指で触れてみる。
何も起きなかった。
「……何なのよ」
返事はない。
*
翌朝、金色の髪はまだ一本だった。
メイは少し安心した。
その翌日。
「二本」
宿の裏でイーライが言った。
メイは振り返った。
「嘘」
「一本増えた」
「数えてたの?」
「目立つから分かる」
メイは髪を探した。確かに二本ある。
「昨日までは一本だった」
「知ってる」
「何で増えるの」
「俺に聞くなよ」
甘い匂いがした。
メイは山を見る。
ちょうど遠くで岩を砕く音が響いた。
かん。
かん。
かん。
そのたびに、土の中の金色の糸が細かく震えているように見えた。
「メイ?」
「何でもない」
メイは髪から手を離した。
*
三日後、五本になった。
さらに二日後。
「九本」
「もう数えないで」
「気になるだろ」
「気になるけど、言わないで」
イーライは黙った。
しばらくして、
「十本」
「イーライ」
「今増えた」
メイが振り返る。
「見たの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「赤いのが一本、光ったように見えた」
二人とも黙った。
メイは髪を手に取る。
自分では、どれが今変わったのか分からない。
「痛くない?」
イーライが聞いた。
「何も」
「気分は?」
「普通」
「匂いは?」
メイは鼻から息を吸った。
「する」
「甘い?」
「うん」
以前より、少し近い。
山から漂ってくるというより、自分のすぐそばにあるような匂いだった。
「怖い?」
イーライが聞いた。
メイは少し考えた。
「分からない」
本当だった。
青い目になった時は、トーマスが死んだ。
だから変わることが怖いのか。
それとも、知らないものが自分の中へ入ってくることが怖いのか。
でも今のところ、何も失っていない。
町では皆が笑っている。
サラの家には青いカーテンがある。
エイベルは山へ行くのをやめた。
ジェイコブは――まだ山へ行っている。
それだけだった。
*
さらに一週間が過ぎた。
「十二本」
イーライが言った。
「数えてるの?」
「十三」
メイが髪を押さえた。
「今増えた?」
「……たぶん」
「そのたぶん嫌い」
「お前がよく使うだろ」
メイは鏡を見る。
まだ、ほとんど赤褐色だった。
十三本程度なら、知らなければ気づかない。
外から見れば何も変わっていない。
それでもメイには、その十三本だけが異様に目についた。
「抜いたら?」
メイが言った。
イーライはすぐに首を振った。
「やめろ」
「何で」
「また生えたら怖い」
「生えなかったら?」
「それでも嫌だ」
「私の髪でしょう」
「そうだけど」
イーライは少し黙った。
「変わるところを見た方がいい」
メイは鏡の中から彼を見る。
「何で?」
「何が起きてるか分からなくなるから」
その答えには納得した。
「じゃあ数える?」
「嫌ならやめる」
メイは十三本の金髪を見る。
「……数えて」
イーライは頷いた。
その日の夕方、十四本になった。
*
変化はゆっくりだった。
一日増えないこともある。二本増える日もある。
ただ、奇妙なことが一つあった。
山で大きく金が出た日は、増える。
メイがそのことに気づいたのは、二十本を超えた頃だった。
朝、山の北側で歓声が上がった。
「出たぞ!」
町の人間が走っていく。
メイは宿の窓からその方向を見た。
地下にあった太い金色の糸が、一本だけ消えていた。
「……ない」
昼。
イーライが宿へ来た。
メイを見るなり言った。
「二十二」
「朝は?」
「二十一」
メイは山を見る。
消えた糸。
自分の髪。
一本。
偶然。
まだ、そう言える。
でも胸の奥では、もう別の答えが浮かんでいた。
山から何かが減る。
自分に何かが増える。
メイは金色になった一本を指でつまんだ。
その瞬間、甘い香りが鼻の奥へ広がった。
今までで一番、近かった。
山からではない。
地面からでもない。
メイは自分の手首へ鼻を近づける。
何も匂わない。
髪へ近づける。
甘い。
ほんの少しだけ。
メイは手を離した。
「どうした?」
イーライが聞いた。
メイは鏡の中の自分を見る。
青い瞳。
赤褐色の髪。
その中に混じった、二十二本の金。
「……私からする」
「何が」
メイは答えた。
「甘い匂い」
ミダスでは、値段が毎週変わった。
最初に上がったのは宿代だった。
「昨日より高くない?」
帳場の横で、メイが宿泊料金を書いた板を見上げた。
「高いよ」
エヴァンス夫人は平然と答えた。
「何で?」
「肉も薪も高くなった。洗濯を手伝わせる娘にも金を払ってる。全部上がってるんだよ」
理由を聞けば、納得できた。町へ来る人間が増えれば食べ物がいる。馬が増えれば飼料がいる。建物が増えれば木材がいる。金を掘る人間は畑を耕さない。それまで村の中で回っていたものが、外から運ばれてくるようになっていた。
「じゃあ仕方ないか」
「仕方ないんだよ」
数日後、宿代はまた上がった。
「また?」
「向かいも上げた」
「向こうが上げたから?」
「それでも満室なんだよ」
メイは少し黙った。
「前と理由違わない?」
「商売ってのはそういうもんだ」
エヴァンス夫人は笑った。実際、宿は毎晩埋まった。誰も払えないとは言わなかった。
だからメイも、それ以上は何も言わなかった。
*
パンの値段も上がった。酒も、シャベルも、釘も、馬も。
町の中心では、土地まで売られるようになった。
「土地って売れるの?」
メイがイーライに聞いた。
「普通は売れるだろ」
「ここ、前は誰も気にしてなかった」
「今は店が建つからな」
昨日まで馬が草を食べていた場所に杭が打たれている。小さな紙には金額が書かれていた。
「高い?」
「高い」
「誰が買うの」
「買う奴がいるから、その値段なんだろ」
それは宿代と同じだった。
払う人間がいる。だから上がる。
それだけのことだった。
けれどメイには、町のあちこちに数字が増えているように見えた。
一晩いくら。一食いくら。一頭いくら。一枚いくら。この土地はいくら。あの鉱区はいくら。
金が見つかる前には、値段を考えなかったものにまで値段がついていた。
*
ジェイコブは、まだ帰っていなかった。
「百五十、超えたんじゃないの?」
夕食の席でメイが聞いた。
「超えた」
「いくら?」
「百八十三」
「じゃあ帰れるでしょう」
「帰れるよ。でも二百まで行く」
「また?」
「あと十七だぞ」
前なら驚いた。今はメイも少し慣れていた。
「二百になったら?」
「帰る」
「絶対?」
ジェイコブが笑った。
「九割」
以前なら、そこで皆も笑った。
今はベンが横から言った。
「二百で帰るのか? もったいねえ」
「何が」
「ここまで来たなら五百狙えよ」
ジェイコブが少し考えた。
「考えないで」
メイが言う。
「何でだよ」
「帰るんでしょう」
「冗談だよ」
そう言った。
でも、すぐには否定しなかった。
甘い匂いがした。
*
ベンも変わっていた。
新しい靴の次は、新しい上着を買った。その次は鍛冶場の道具。それでも金を掘りに行った。
「冬の分はもうあるでしょう」
「あるよ」
「じゃあ何で行くの」
「金があるから」
簡単な答えだった。
「欲しいものある?」
「別に」
「じゃあ何に使うの」
「後で考える」
メイは返す言葉がなかった。
金が必要だから掘るのではなく、金があるから掘る。
そういう順番もあるらしい。
*
その頃には、メイの金色の髪は三十本を超えていた。
まだ遠目には分からない。赤褐色の中に、細い光が混じる程度だった。
けれど陽の下へ出ると、話は違った。
振り向くたび、数本だけが光を拾う。
最初に気づくのは、いつも知らない人間だった。
「おい」
通りですれ違った鉱夫が、連れの袖を引いた。
「見ろよ」
メイは聞こえないふりをした。
「髪か?」
「あれ、本物の色か?」
その日は、それだけだった。
翌日は、雑貨屋の女がメイを呼び止めた。
「ちょっと見せて」
「何を?」
「髪」
メイは一歩下がった。
「見るだけよ」
「ここから見えるでしょう」
女は笑った。
「綺麗ね。金糸を編み込んでるみたい」
「何も編んでない」
「生まれつき?」
「最近」
答えてから、言わなければよかったと思った。
女の目が変わった。
「最近?」
メイはそのまま歩き去った。
*
それから視線が増えた。
男だけではない。
店の女。
旅人。
鉱夫。
馬車から降りた家族。
子供まで見る。
青い瞳を見て、次に髪を見る者もいた。
杖を見て、白い石を見て、最後に髪を見る者もいた。
そして金の噂を知っている者ほど、長く見た。
「金を見つける娘だろ」
「髪まで金になってるぞ」
「山の金を触ったからじゃないか?」
「幸運の印だって聞いた」
噂は、また勝手に育った。
メイは帽子を被ることが増えた。
ところが、それも逆効果だった。
風で帽子が浮き、金色の一本が見えると、かえって人はそこを見る。
隠しているものほど、見たくなるらしい。
*
ある昼、メイが井戸から水を汲んでいると、小さな女の子が近づいてきた。
「お姉ちゃん」
「何?」
「金、生えてるの?」
メイは思わず笑った。
「生えてない」
女の子は髪を指差す。
「あるよ」
「これは髪」
「金じゃないの?」
「たぶん髪」
母親が慌てて子供を連れ戻した。
「ごめんなさい」
「大丈夫」
母親は頭を下げ、それからメイの髪を見た。
一瞬だけ。
けれどその目には、子供とは違うものがあった。
珍しいものを見るだけではない。
何かを量っているような目だった。
母親はすぐに視線を逸らした。
メイは笑えなくなった。
*
「見られてるぞ」
夕方、イーライが言った。
「知ってる」
二人で通りを歩いていた。
「帽子被れば?」
「被ってる」
「もっと深く」
「前見えなくなる」
イーライは周囲を見る。
少し離れた店先で、男二人がこちらを見ていた。メイと目が合うと、片方が先に逸らした。もう一人は逸らさなかった。
「前は目だった」
メイが言った。
「何が」
「みんな青い目を見るの。最近は髪」
イーライは何も言わなかった。
「そんなに変?」
「変だよ」
「酷い」
「そういう意味じゃない」
イーライは少し歩いてから、
「目は、お前を見れば見える」
と言った。
「髪は?」
「光る」
メイは自分の髪へ触れた。
「目立つってこと?」
「ああ」
それだけだった。
でもメイには、なぜかその違いが気になった。
青い目は、顔を見なければ気づかない。
金色の髪は、遠くからでも光る。
*
ある日の午後、宿へ行商人が来た。
布、針、薬、櫛、小さな鏡。馬車の荷台を開き、そのまま店にしている。
エヴァンス夫人に頼まれて、メイも石鹸を買いに行った。
商人はメイの顔を見たあと、髪を見た。
一度ではなかった。
話している間にも、何度か視線が上へ戻った。
「それ、面白いな」
「何が?」
メイは髪を押さえた。
商人は笑う。
「いや、そっちじゃない」
腰を指差した。
「その袋」
アビーにもらった、小さな薬袋。赤い星の刺繍。
「売り物?」
「違う」
「どこで買った?」
「もらったの」
商人は袋をよく見た。
「手仕事だな。十セント出す」
「売らないよ」
「二十」
「聞いてた?」
「三十」
メイの笑顔が消えた。
「売らない」
「五十なら?」
「だから売らないって」
商人は不思議そうな顔をした。
「袋だぞ」
「知ってる」
「五十セントあれば、もっと上等なのが買える」
メイは赤い星へ触れた。
セントルイス。
アビー。
家を出た朝。
「そういう意味じゃないの」
「何が?」
「値段の話じゃない」
商人は肩をすくめた。
メイが石鹸だけ買って離れようとすると、
「なあ」
呼び止められた。
「何?」
商人はまた髪を見ていた。
「それ、本当に何もつけてないのか?」
メイは帽子を深く被った。
「つけてない」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
ただ、メイが歩き出してからも視線だけは背中に残った。
*
帰る途中、イーライに会った。
「怒ってる?」
「何で分かるの」
「顔」
メイはアビーの袋を見せた。
「これ売れって言われた」
「いくら?」
「五十セント」
「高いな」
「でしょう」
「売らなかったんだろ」
「当たり前」
イーライは袋を見る。
「大事なのか」
「うん」
「じゃあそれでいい」
答えが早かった。
「五ドルでも?」
「売らないんだろ」
「売らない」
「じゃあ値段つけても意味ない」
メイはその言葉を考えながら歩いた。
値段がついても、売らなければいい。
簡単だった。
少なくとも今は。
*
数日後、エヴァンス夫人の宿で揉め事があった。
男が一人、宿代を払えなかった。
「昨日までこの値段じゃなかった」
「今日からこの値段だよ」
「一晩だけだ。明日払う」
男は疲れていた。服は泥だらけで、金も見つけていないらしい。
以前なら、エヴァンス夫人は泊めただろう。
夫人は少し迷った。
「駄目だよ」
男は外へ出ていった。
メイはその背中を見た。
「泊めてあげてもよかったんじゃない?」
「一人やったら、十人来る」
「でも前は」
「前とは違うんだよ」
また同じ言葉だった。
町が変わった。
前とは違う。
理由は、どれも間違っていない。
だから余計に、メイには何がおかしいのか分からなかった。
男を見送っていた別の宿泊客が、ふとメイへ顔を向けた。
視線が髪で止まる。
その目だけは、メイが振り返っても動かなかった。
*
その夜、メイは部屋で髪を梳いていた。
赤褐色。
金。
赤褐色。
金。
一本ずつなら、まだ数えられる。
けれど以前より明らかに増えている。
昼間に浴びた視線を思い出した。
綺麗だと言う人。
不気味そうに見る人。
幸運だと言う人。
何かの印だと言う人。
何も言わず、ただ長く見る人。
皆、同じ髪を見ている。
でも、
同じものを見てはいないような気がした。
窓の外では、夜になっても町の灯りが消えない。酒場から笑い声が聞こえ、誰かが金を見つけたらしく歓声が上がった。
甘い匂い。
髪からする。
窓の外からもする。
もう、どちらが強いのか分からない。
メイはアビーの袋を手に取った。
五十セント。
袋だけなら、そうなのかもしれない。
布。糸。刺繍。材料と手間。
それを計れば値段になる。
でも、そこにはアビーがいた。セントルイスがあった。家を出た朝があった。
そういうものには、値段をつけられない。
メイは袋を鞄へ戻した。
鏡を見る。
青い瞳。
赤褐色の髪。
その中で、黄金だけが灯りを拾っている。
昼間の人々の目が、また浮かんだ。
顔より先に髪を見る目。
髪を見てから、自分を見る目。
そして、
自分ではなく、髪だけを見ていた目。
メイは金色の一本を指で摘まんだ。
ふと考えた。
袋に五十セントの値段をつけたように、
この髪にも、
誰かは値段をつけるのだろうか。
「髪なのに」
馬鹿らしくて、小さく笑った。
けれど鏡の中では、
メイが笑うより先に、
黄金の髪だけが光って見えた。
坑道に水が溜まった、と呼ばれたのは朝だった。
メイが現場へ着くと、男たちが膝まで泥に浸かっていた。斜面に掘られた穴の奥から、濁った水が絶えず流れ込んでいる。
「止められるか?」
「止める?」
「どこから来てるか分かるんだろ」
メイは杖を地面についた。
目を閉じる。
水は、見えた。
岩の割れ目を通り、斜面の奥から細い流れが集まっている。そのうち一本が坑道へ入り込んでいた。
「あっち」
メイは少し離れた岩場を指差した。
「そこを掘ったら、水を外へ逃がせると思う」
「金は?」
「何が?」
「その先に金もあるか?」
メイは男を見た。
「今、水の話してるんだけど」
「分かってる。ついでだよ」
男は笑った。
メイはもう一度地面を見る。
水の流れのすぐ脇を、金色の糸が走っていた。
「……あるかもしれない」
その言葉だけで、男たちの動きが速くなった。
*
午後には別の場所へ呼ばれた。
今度は沢だった。
「こっちへ水を引きたい」
木で作られた長い樋が並んでいる。その先では男たちが土砂を洗っていた。
「畑?」
メイが聞いた。
「金だよ」
「また?」
「砂を洗う水が足りない」
メイは沢を見る。
少し上流へ行けば、流れを分けられる場所があった。
「ここに溝を作れば」
「どれくらい来る?」
「今の倍くらい」
「もっと取れないか?」
「これ以上やったら、下に水が行かなくなる」
「下に何かあるか?」
「家がある」
男は少し黙った。
「じゃあ倍でいい」
メイはため息をついた。
杖で地面を示す。
男たちはすぐ掘り始めた。
土が崩れ、水が流れる方向を変える。
透明だった沢が、土を巻き込んで茶色くなる。
その水を使って、また金を探す。
メイは流れていく泥水を見ていた。
「どうした?」
イーライが横に来た。
今日は荷物を運ぶ仕事で近くにいたらしい。
「何でもない」
「顔が何でもなくない」
メイは少し考えてから言った。
「前は、飲む水を探してたのに」
イーライも沢を見る。
「今は金を探すための水か」
「同じ水なのにね」
「水は変わってない」
その言葉に、メイは少しだけ笑った。
「そうだね」
変わったのは、水ではなかった。
*
その日の夕方、鉱山の奥で大きな金が出た。
歓声が山に響いた。
メイも呼ばれて岩場へ行った。
割れた石英の中に、太い金色が走っている。
本物の金。
その周囲には、メイにしか見えない金色の糸が絡みついていた。
以前より太い。
何本も重なり、一本の根のように岩へ入り込んでいる。
「すげえぞ!」
「もっと割れ!」
つるはしが振り下ろされた。
岩が砕ける。
金が現れる。
その瞬間だった。
メイには見えた。
金色の糸の一本から、色が抜けた。
「……え」
黄金だったものが、白くなる。
乾いた根のように細く縮んでいく。
男たちは気づかない。
次の岩を割る。
また金が出る。
また一本。
白くなる。
「待って」
メイが言った。
誰も聞いていなかった。
「待って!」
今度は何人か振り返った。
「どうした?」
「そこ、ちょっと……」
言葉にできない。
金色の糸が見える。
それが白くなっている。
だから掘るな。
そんな説明をして、誰が納得するだろう。
「危ないのか?」
「違う」
「じゃあ掘るぞ」
男はつるはしを振り上げた。
岩が割れる。
金が出る。
歓声。
その下で、また糸が枯れた。
*
メイは地面へ膝をついた。
白くなった糸へ手を伸ばす。
触れない。
指はそのまま通り抜ける。
「何してる?」
イーライが来た。
「これ」
「何?」
「見えないよね」
「金の糸か?」
メイは頷いた。
「白くなってる」
「白く?」
「金を取ったところだけ」
イーライの表情が変わった。
その時、まだ色を残していた一本が震えた。
メイは息を止める。
糸が岩から抜けた。
地面へ落ちない。
蛇のように空中を滑り、メイの方へ伸びてくる。
「メイ?」
逃げるより早かった。
金色の糸が手首へ触れた。
熱い。
「っ……!」
メイが腕を引く。
糸は消えた。
「どうした!」
「入った」
「何が」
「分からない」
手首を見る。
傷はない。
何も残っていない。
ただ、甘い匂いだけが強くなった。
*
宿へ戻った頃には、日が落ちていた。
メイが帽子を取る。
後ろにいたイーライが止まった。
「メイ」
「何?」
「鏡」
「何で」
「いいから」
嫌な予感がした。
部屋へ上がり、鏡を見る。
メイは言葉を失った。
朝まで赤褐色だった髪の一房が、金色になっていた。
一本や二本ではない。
指で取れるほどの束。
「……こんなに」
イーライが近づく。
「朝はなかった」
「うん」
メイは髪を持ち上げた。
黄金。
あの糸と同じ色。
甘い匂いもする。
「さっきのだ」
イーライが言った。
「たぶん」
「またたぶんか」
「じゃあ何て言えばいいの」
声が少し強くなった。
イーライは黙る。
メイも黙った。
「ごめん」
「俺も」
鏡の中に二人が映っている。
青い瞳。
赤褐色の髪。
その中へ入り込んだ、はっきりとした黄金。
もう、数えられるものではなかった。
*
その後、変化は速くなった。
三日後。
山の南側で金が出た。
メイの髪に、もう一房増えた。
二日後。
古い坑道の奥で大きな鉱脈が見つかった。
さらに増えた。
一週間もしないうちに、髪の四分の一ほどが金色になった。
帽子を被っても隠しきれない。
陽の下へ出れば、黄金がすぐ光った。
視線も増えた。
町を歩く。
誰かが見る。
顔を見る前に、髪を見る。
話をしていても、視線が上へ動く。
「また増えたな」
ベンが言った。
「そうみたい」
「本当に金みたいだ」
手を伸ばしかける。
メイは一歩下がった。
ベンの手が止まる。
「ああ、悪い」
「うん」
笑った。
でも前のようには笑えなかった。
*
山では逆のことが起きていた。
「昨日ここで出たんだ!」
男が怒鳴る。
掘り返された斜面。
石。
泥。
何もない。
「もっと奥だ!」
別の男が言う。
掘る。
さらに掘る。
以前なら金色だった糸が、そこでは白く細くなっていた。
それでも完全になくなったわけではない。
少し離れれば、まだ黄金が見える。
「こっちは?」
「ある」
メイが答える。
男たちはすぐ移動する。
掘る。
金が出る。
歓声。
また糸が白くなる。
また髪が増える。
繰り返すうちに、メイにも分かってきた。
偶然ではない。
何かが移っている。
山から。
自分へ。
*
ジェイコブはまだいた。
「二百いった?」
メイが聞いた。
「とっくに」
「いくら?」
「二百四十六」
メイは何も言わなかった。
「何だよ」
「帰らないんだ」
「もう少し」
それだけだった。
ベンも毎日山へ行った。
知らない人間はさらに増えた。
新しい宿。
新しい店。
新しい酒場。
坑道。
樋。
荷車。
金が以前より出にくくなっていることを、皆薄々知り始めていた。
だからこそ、
急いで掘った。
*
ある夜、イーライがメイの部屋へ来た。
「話がある」
メイは髪を梳いていた。
「怖い言い方しないで」
「山の金、減ってる」
櫛が止まった。
「……うん」
「お前も気づいてたんだな」
「少し」
「少しじゃないだろ」
メイは鏡を見る。
髪の四分の一が黄金。
もう隠せない。
「金が取られると、糸が白くなる」
「それがお前に入る?」
「たぶん」
「また」
「だって分からないんだもの」
イーライはそれ以上言わなかった。
窓の外を見る。
町は明るい。
「もう教えるな」
メイが振り返った。
「何?」
「金の場所」
「でも」
「やめろ」
「まだ必要としてる人がいる」
「誰が?」
メイは答えられなかった。
ジェイコブ。
二百四十六ドル。
ベン。
冬の分はもうある。
外から来た人々。
何を必要としているのか、メイは知らない。
「それでも」
「メイ」
イーライが髪を見る。
「お前が教えるたびに、お前が変わってる」
その言葉だけは、
否定できなかった。
*
その夜のミダスは、これまでで一番賑やかだった。
新しくできた酒場から音楽が聞こえる。
通りにはランタンが並ぶ。
馬車が入ってくる。
荷物が降ろされる。
料理の匂い。
酒。
煙。
笑い声。
硬貨の音。
誰かが女を抱き上げて回っている。
別の店では、今日一日の売上を数えている。
エヴァンス夫人の宿も満室だった。
「金が出たぞ!」
遠くで叫び声。
すぐに歓声が続く。
メイは宿の前に立った。
ミダスを見る。
豊かになった。
少なくとも、そう見える。
最初に来た頃より、ずっと。
明るい。
賑やか。
物もある。
金もある。
人もいる。
メイは杖を地面についた。
こつ。
白い石が、わずかに冷えた。
視線を下へ向ける。
町の地下。
山の下。
無数の金色の糸が広がっている。
けれど、
以前とは違った。
白い。
ところどころが、白く枯れている。
黄金の網に、
乾いた根のような跡が増えている。
一本の糸が震えた。
遠くで岩を割る音。
歓声。
糸から色が抜ける。
黄金が一本、メイへ向かってくる。
足元から上がる。
身体へ触れる。
消える。
熱。
甘い匂い。
「メイ」
隣にいたイーライが呼んだ。
メイは顔を上げる。
彼は髪を見ていた。
赤褐色だった一房が、
ゆっくり黄金へ変わっていく。
その向こうで、
また声が上がった。
「金だ!」
町中が沸いた。
メイは笑わなかった。
ミダスは、
今までで一番輝いていた。




