カナギリ 序
カナギリ 序
火は、薪を二本くべると大きすぎた。
イーライが二本目を炉へ押し込もうとした瞬間、メイの鼻先に甘い匂いがした。
焼いた林檎のような、わずかな甘さ。
それに重なるように、焦げた布の臭い。
「待って」
イーライの手が止まった。
「何だ」
メイは鼻を鳴らした。
甘い。火を大きくすれば暖かくなる。今夜はよく眠れるかもしれない。
けれど焦げ臭さも消えない。
「一本でいい」
「さっき寒いって言ってたろ」
「言ったけど」
「じゃあ何だよ」
「煙が上がる」
イーライは炉とメイを見比べた。
「匂ったのか?」
メイは頷いた。
「両方」
それで通じた。
イーライは二本目を引き抜き、石床へ転がした。濡れた薪が、じゅう、と白い煙を吐く。
山へ逃げ込んで二か月。メイ自身にもまだ、何がどこまで分かるのか説明できなかった。
ただ、ミダスを出た頃から、ときどき存在しない匂いを感じるようになっていた。
何かを選ぼうとすると、甘い匂いがすることがある。
反対に、酸っぱい臭い、腐った臭い、焦げた臭いが混じることもある。
甘い方を選べば必ず幸せになる、というほど単純ではなかった。
暖かい火は甘い。
その煙に見つかるかもしれない未来は焦げ臭い。
一つのことから、二つも三つも匂いがする。
だから役には立つ。
そして、あまり役には立たない。
「寒い」
メイは毛布を肩まで引き上げた。
「今、自分で一本にしただろ」
「それと寒いのは別」
「面倒だな」
「知ってる」
イーライが鼻で笑った。
小屋は、昔の猟師が使っていたものらしかった。丸太を積んだ壁には隙間があり、強い風が吹くと細かな雪が床まで入り込む。寝台は一つ。脚の長さが揃わない椅子が二つ。石を積んだ炉だけは、まだ十分使えた。
最初に見つけた時は宮殿に思えた。
今では、どこの壁から風が入るかまで知っている。
朝になると水桶へ薄い氷が張った。昼間に濡れた靴は夜までに乾かさなければ、翌朝には革が固くなる。薪は外側だけ乾いていて、中まで湿っているものが多い。
炉のそばには、昨日イーライが仕留めた兎の残りが吊られていた。
豆が少し。
固いパンが一つ。
塩はまだある。
塩があるだけでも贅沢なのだと、ここへ来て知った。
「明日の朝、パン食べていい?」
「半分」
「一個ある」
「だから半分」
「残りは?」
「明後日」
メイは口を尖らせた。
「明後日の私は、明後日考えればいいのに」
「明後日のメイが怒るから、今日の俺が考えてる」
「余計なお世話」
そう言いながら、メイは少し笑った。
炉の脇へ立て掛けていた杖を引き寄せる。
古びた黒い木。
七つの窪み。
そのうち二つが埋まっていた。
最初の白い石は、変わらず乾いている。
その隣に、金色の石。
初めて気づいたのは、ミダスを逃げて数日経った頃だった。いつ誰が嵌めたのか分からない。あの夜の混乱のどこかで入ったのか、それとも後から現れたのか。
金と呼ぶには、ひどく鈍い色だった。
光を返さない。
土の中で何年も眠り、輝くことを忘れた金属のようだった。
メイは勝手に、枯れた金だと思っている。
あの石に気づいた頃から、匂いも始まった。
偶然とは思えなかった。
けれど、誰かに説明したところでどうなるものでもない。
白い石の時だってそうだった。
「それ、また見てる」
イーライが言った。
「増えないかなって」
「増えてほしいのか?」
メイは答えず、残った五つの窪みを親指でなぞった。
増えるたびに、何かが起きている。
そう考えると、欲しいとは言えなかった。
杖を持って立ち上がる。
「水取ってくる」
「俺が行く」
「昨日もあなたが行った」
「だから今日も俺が行く」
「意味分かんない」
イーライが立ち上がるより先に、メイは扉を開けた。
冷気が一気に入る。
「閉めろ!」
「はいはい」
外は静かだった。
雪が音を吸っている。
金色の髪を帽子の中へ押し込み、杖をついて歩く。右側だけ短い髪が、どうしても耳の横から出てきた。
二か月経って少し伸びた。
それでも指がそこへ触れると、鋏の音を思い出した。
だから小屋にある小さな鏡は、今も伏せたままだった。
斜面を少し下り、メイは足を止めた。
水場へ行くには二つ道がある。
右は近い。
左は少し遠回り。
右へ足を向けた途端、鼻の奥に嫌な酸っぱさが走った。
「……そっちは駄目か」
左を見る。
わずかに甘い。
メイは左へ向かった。
十分ほど歩いたところで理由が分かった。
右手の斜面から、雪の塊が音を立てて崩れ落ちた。
大した雪崩ではない。
けれど、あの道を歩いていれば少なくとも腰まで埋まっただろう。
メイは遠くからそれを見た。
便利。
やはり便利だ。
けれど、なぜ雪が崩れるのかまでは匂いは教えてくれなかった。
いつ崩れるのかも。
ただ、選んだ先にあるものが匂うだけ。
杖の先を雪へ突く。
青い瞳の奥で、今度は地面の下にある流れを探す。
凍った地表のさらに下。
岩の割れ目を、水がゆっくり通っている。
「こっち」
誰に言うでもなく呟いた。
倒木の脇の雪を掘ると、岩の間から水が滲んでいた。
革袋へ少しずつ溜める。
最初の頃、イーライはこれを見るたび不思議そうな顔をした。
今ではメイが「こっち」と言えば、ほとんど疑わない。
それが少し嬉しかった。
帰り道、雪の上に足跡を見つけた。
四つの指。
細い爪。
メイがしゃがんでいると、後ろから声がした。
「コヨーテだな」
振り返る。
イーライがいた。
「だから何で来るの」
「遅いから」
「まだ十分くらい」
「山の十分は長い」
「何それ」
イーライもしゃがみ込み、足跡を確かめた。
「古いな」
「食べられる?」
「何を」
「コヨーテ」
イーライが顔を上げた。
「本気か?」
「お腹減った」
「明日は鹿を探す」
メイは立ち上がった。
「私も行く」
「雪深いぞ」
「知ってる」
「長く歩く」
「歩ける」
「銃も持つ」
「あなたがでしょう?」
「だから危ないんだよ」
メイは眉を寄せた。
「ますます意味分かんない」
イーライは何か言い返そうとして、やめた。
「朝、起きられたらな」
「起きる」
「夜明け前」
「起きる」
「一回で?」
メイは少し考えた。
「……二回までなら」
「置いてくぞ」
「起きるってば」
小屋へ戻る。
扉を開けると、さっき小さすぎると思った火が妙に暖かかった。
メイは手をかざした。
甘い匂いが、まだほんの少し残っている。
でも今度は焦げ臭くない。
イーライが引き抜いた二本目の薪は、炉の横で冷えていた。
その夜も火は小さかった。
二か月前まで、ここはただ逃げ込んだ場所だった。
いつからか、帰ってくる場所になっていた。
そして今のところ、それで足りていた。
ミダスでは、人より先に金が消えた。
それから人が消えた。
少し前まで朝から採掘道具の音がしていた通りには、空いた荷車が置かれたままになり、宿の前に並んでいた馬も減った。新しく建てた店には板が打たれ、酒場の壁際には封を切られていない樽が積まれている。
昼間から椅子が空いていた。
「半額でも売れねえ」
酒場の店主が、カウンターの端に積んだ採掘道具を見ながら言った。
「もっと下げろ」
隅で飲んでいた男が返す。
「お前が買え」
「要らねえよ」
少し笑いが起きた。
すぐに消えた。
窓の外を荷馬車が通った。荷台には毛布、道具箱、椅子まで積まれている。ミダスへ来る荷馬車ではない。
出ていく荷馬車だった。
扉が開いた。
冷たい風と一緒に、見慣れない男が入ってきた。毛皮の襟がついた上着に、泥の跳ねた長靴。三十を少し越えたくらいに見える。
男は店内を見回した。
「ここがミダスか?」
店主が目だけ向ける。
「だった場所ならな」
何人かが笑った。
男は気にせずカウンターへ硬貨を置いた。
「金が出たって聞いた」
「遅かったな」
「どれくらい」
「二か月」
「全部なくなったのか?」
店主が酒を注いだ。
「自分で掘ってみろ」
「だから聞いてる」
「出たら教えてくれ。俺も行く」
今度は少し大きな笑いになった。
男が酒を口へ運んだ時、奥の卓で布の擦れる音がした。
「そういや、これ見たか?」
一人の男が、小さな包みを開いていた。
中から出てきたのは、細い金色の束だった。
酒場の明かりを受けて、妙に鮮やかに光る。
見覚えのある者が何人か顔を上げた。
「まだ持ってたのか」
「捨てる理由あるか?」
見知らぬ男も振り返った。
「何だ、それ」
「髪だよ」
「誰の?」
持ち主は得意そうに指でつまんだ。
「メイのだ」
その名前だけで、空気が少し変わった。
「メイ?」
「ここにいた娘だ」
「金髪の?」
誰かが鼻で笑う。
「最初からじゃねえよ」
見知らぬ男が髪を見る。
「どういう意味だ」
「赤っぽい髪だったんだ」
「俺が来た時はまだ半分くらいだったな」
「いや、もっと少なかった」
「日に日に増えたんだよ」
話す者によって、もう少しずつ違っていた。
ただ、皆が覚えていることが一つある。
最後に見たメイの髪は、全部金色だった。
見知らぬ男が指先の髪へ目を細めた。
「染めたんじゃないのか?」
「何でだよ」
「知らん」
「染めたような色じゃねえ」
酒場の端から声がした。
「金が出なくなった頃だ」
誰かが振り向く。
「何が」
「髪だよ。全部金になったの」
店主が眉を寄せた。
「関係ねえだろ」
「誰が関係あるって言った」
「今言おうとしてただろ」
「言ってねえ」
「じゃあ何だ」
男は酒を飲んだ。
「変だってだけだ」
少しの沈黙。
その空白に、別の男が言葉を入れた。
「娘の髪が金になって、山の金がなくなった」
「馬鹿馬鹿しい」
「でも本当だろ?」
「起きた時期が同じってだけだ」
「じゃあ、何であいつはいなくなった」
店主が嫌そうな顔をした。
「追い回したからだろ」
「あれだけ騒ぎになったら逃げるだろうな」
「逃げた?」
見知らぬ男が聞いた。
「男と一緒に町を出た」
「どこへ?」
「知らねえ」
「山じゃねえのか」
「誰が言った」
「そういう話だ」
見知らぬ男は酒を飲みながら、もう一度金色の髪を見た。
「面白いな」
「何が」
「山の金が消えて、娘の髪が金になって、娘も消えた」
「だから?」
男は笑った。
「山の金を持って逃げたんじゃないのか」
今度は何人かが笑った。
「髪の中にか?」
「魔女ならできるだろ」
店主が鼻で笑う。
「何だそりゃ。黄金の魔女か」
誰かが繰り返した。
「黄金の魔女」
また一人。
「悪くないな」
笑い声が広がった。
ほんの一瞬だけ、二か月前のように酒場が賑やかになった。
店の隅で、ベン・クロウだけが笑わなかった。
新しく買った上着はまだ着ている。ただ、泥がついたままだった。
見知らぬ男が金色の髪を持つ男へ近づいた。
「見せろ」
「嫌だね」
「見るだけだ」
「触るなら金取るぞ」
「いくらだ?」
髪の持ち主の笑いが止まった。
「……買うのか?」
「値段による」
「髪だぞ」
「だから面白い」
二人の間で、金色の束が揺れた。
ベンが酒を置いた。
「くだらねえ」
見知らぬ男が振り返る。
「何が」
「全部だよ」
「お前、娘を知ってるのか?」
ベンは少し黙った。
「ああ」
「魔女だった?」
ベンの眉が動いた。
「もう一回言ってみろ」
男は笑った。
「黄金の魔女」
ベンは椅子を引いた。
店主がすぐに言う。
「殴るなら外でやれ」
「まだ殴ってねえ」
「殴る顔してる」
ベンは見知らぬ男を睨んだまま、外套を取った。
扉へ向かう。
背中へ声が飛んだ。
「その魔女、どこへ行った?」
ベンは足を止めた。
振り返らない。
「知らねえ」
「本当に?」
今度は振り返った。
「知ってたら、お前に言うと思うか?」
扉が閉まった。
冷たい風だけが残った。
見知らぬ男はしばらく入口を見ていたが、やがて卓へ戻った。
金色の髪を指差す。
「で、いくらだ?」
持ち主は少し考えた。
さっきまでは、ただ持っていただけのものだった。
「……五ドル」
「三」
「四」
「三」
「なら売らねえ」
男は硬貨を一枚増やした。
「四」
金色の髪が、別の人間の手へ渡った。
誰かが笑った。
「本当に買いやがった」
男は答えず、髪を布へ包んだ。
胸元へしまう。
二か月前まで、ミダスでは金の場所に値段がついた。
今度は、メイの髪に値段がついた。
メイは二回で起きた。
「ほら」
毛布の中から顔を出し、得意そうに言った。
イーライは猟銃へ火薬を詰めながら、
「一回目で起きてから言え」
と返した。
外はまだ薄暗い。炉の熾火を掻き起こし、残してあったパンを半分ずつ食べた。メイは自分の分をもう一口で食べ終えそうになり、途中で止めた。
「偉い?」
「何が」
「ゆっくり食べてる」
「誰も急げって言ってない」
「褒めるの下手ね」
残りを口へ入れた。
身支度を済ませる。
メイは杖を持ち、イーライは猟銃を肩へ掛けた。
二人が小屋を出る頃には、山の向こうがようやく白み始めていた。
*
雪は昨日より硬かった。
表面だけが凍り、踏むと薄い殻が割れる。
イーライが前を歩き、メイはその少し後ろをついていった。しばらくすると、雪の上に鹿の足跡が現れた。
イーライがしゃがむ。
「新しい」
メイも横へ寄った。
足跡は森の奥へ続いていた。
その先を見る。
空気の流れ。
枝の揺れ。
雪に残った熱のようなもの。
目では見えない獣が、どちらへ進んだのか。その痕跡だけが細く続いている。
「向こう」
メイが右を指した。
「確か?」
「たぶん」
「便利だな」
「昨日も言ってた」
「便利なものは何回でも便利だ」
二人は跡を追った。
やがて道が二つに分かれた。
鹿の流れは右へ続いている。
イーライもそちらを見る。
「行くぞ」
メイは一歩踏み出しかけて止まった。
甘い匂い。
左。
鼻を鳴らす。
右からは何も感じない。
左から、薄い甘さ。
その奥に、焦げたような臭いが混じっていた。
「待って」
「何だ」
メイは左を見る。
「こっちが匂う」
「鹿は右だろ」
「うん」
「じゃあ右だ」
「でも左が甘い」
「またそれか」
イーライは少し困った顔をした。
この二か月で、彼もメイの匂いについては知っている。
ただし、信じれば必ず良いことが起きるわけではないことも知っていた。
「焦げ臭くもある」
「余計駄目じゃないか」
「でも甘い」
「どっちだよ」
「私にも分かんない」
イーライは右の鹿の跡と、左の斜面を見比べた。
「鹿を獲りに来たんだぞ」
「分かってる」
「腹減ってるんだろ」
「減ってる」
「じゃあ鹿」
メイはもう一度左を見た。
甘さは消えない。
焦げた臭いも。
何かがある。
良いのか悪いのか、それすら分からない。
「少しだけ」
「何が」
「少しだけ左、見に行こう」
イーライが溜息をついた。
「鹿、逃げるぞ」
「逃げたら兎」
「昨日、兎じゃ足りないって話しただろ」
「三羽」
「増やすな」
それでもイーライは左へ向かった。
メイは少し笑って、その後を追った。
*
斜面を上るにつれ、木が減った。
雪も薄くなる。
風が強く、積もった雪を吹き飛ばしているらしい。赤褐色の岩肌があちこち露出していた。
甘い匂いは近くなっていた。
同時に焦げ臭さも濃くなる。
火などない。
煙もない。
メイは鼻の下を擦った。
「まだ?」
イーライが聞く。
「まだ」
「何があるんだ」
「知らない」
「便利じゃないな」
「さっき便利って言った」
「取り消す」
岩陰を回ったところで、イーライが急に腕を出した。
メイの胸元を止める。
「動くな」
小声だった。
メイも止まった。
少し先。
岩場に獣がいる。
一頭ではなかった。
灰褐色の身体がいくつも動いている。
雌。
若い個体。
そして、頭の両側に大きな角を巻いた雄。
「羊?」
メイが囁いた。
「ビッグホーン」
「大きい」
「だからビッグホーンだ」
「そのままね」
イーライが睨む。
「静かにしろ」
メイは口を閉じた。
群れはこちらに気づいていない。
岩の隙間に生えた草を食べ、ゆっくり斜面を移動している。
その少し離れた場所に、雄が二頭いた。
向かい合っている。
一頭が後ろへ下がった。
もう一頭も下がる。
そして同時に走った。
ゴン――ッ。
重い音が山へ響いた。
メイは肩を震わせた。
「撃った?」
「撃ってない」
イーライも目を離さない。
雄たちはまた離れた。
もう一度。
ゴン――ッ。
角と角がぶつかる。
銃声より低い。
でも、それより重かった。
三度目。
四度目。
やがて片方が顔を背けた。
数歩退く。
勝った方は追わなかった。
ただその場に残り、しばらく相手を見ていた。
「終わり?」
メイが聞く。
「みたいだな」
「殺さないの?」
「そこまでやる必要ないんだろ」
メイは退いた雄を見る。
負けたようには見えなかった。
ただ、もう戦っていないだけだった。
群れが少しずつ動き始める。
その時だった。
メイは一頭だけ、こちらを見ている雄に気づいた。
群れの中。
大きさは他と変わらない。
身体の色も同じ。
違うのは、角だった。
赤い。
鮮やかな赤ではない。
乾いた血。
あるいは、火から取り出して冷え始めた鉄。
そんな色。
メイは目を細めた。
「ねえ」
「何だ」
「あれ」
「どれ」
「赤い角」
イーライは群れを見る。
「赤?」
メイは彼の顔を見た。
「見えない?」
「茶色いのばっかりだろ」
メイはもう一度見る。
確かに赤い。
間違えようがない。
そして、あの甘い匂いはその一頭から漂っていた。
同時に、焦げ臭い。
胸の奥まで残るような臭い。
赤い角の雄と目が合った。
声はなかった。
ただ、獣の黒い目がこちらを見ていた。
メイはなぜか、逃げなければならないような気がした。
けれど、足は動かなかった。
赤い角の雄は口を開かない。
鳴きもしない。
それでも、その視線には何かを問われているような気配があった。
「……何よ」
イーライが見る。
「どうした」
「別に」
メイは目を逸らさなかった。
赤い角の雄は動かない。
群れが山の上へ移動している。
赤い角の雄も、その後を追った。
「待って」
メイが一歩出る。
その瞬間、甘い匂いが消えた。
焦げ臭さも。
あれほど強かったのに、何も残っていない。
「メイ」
イーライが腕を掴んだ。
「行くな」
「でも」
「崖だ」
足元を見る。
あと数歩進めば、雪に隠れた岩場が急に落ち込んでいた。
メイは足を止めた。
もう一度顔を上げる。
群れは遠ざかっていた。
赤い角だけが、一度こちらを向いたように見えた。
すぐに岩の向こうへ消えた。
「……変なの」
「何が」
「全部」
イーライは首を傾げる。
「鹿を逃がしたことなら同意する」
メイは彼を睨んだ。
「それ今言う?」
「腹減った」
「私も」
「帰るか?」
メイは群れが消えた場所を見る。
雪の上に蹄跡が残っていた。
いくつも重なっている。
その中に、一つだけ妙に深い跡がある。
二つに割れた形。
メイは何となく、それを杖の先でなぞった。
見覚えのない形なのに、覚えておかなければならない気がした。
「帰ろう」
二人は山を下り始めた。
しばらく歩いてから、メイはもう一度振り返った。
何もいない。
けれど、あの視線だけは残っていた。
問いかけられたような気がした。
何を問われたのかは、分からなかった。
四ドルで買った髪を、男は革袋の中に入れていた。
別に大事にしていたわけではない。
酒場で面白半分に買っただけだ。翌朝になれば、自分でも馬鹿な買い物をしたと思った。
それでも捨てなかった。
金色の髪は、陽の下で見ると酒場で見た時より明るかった。
「本当に髪かよ」
宿の窓際で一本つまみ、男は呟いた。
金ではない。
重さもない。
引っ張れば切れる。
匂いを嗅いでも、ただの髪だった。
男は鼻で笑い、布に包み直した。
その日の午後、暇を持て余して町の外へ出た。
採掘道具は持っていなかった。
金を探すつもりもなかった。
川沿いを歩き、雪の薄い場所で靴についた泥を落としていた時だった。
足元で何かが光った。
男はしゃがんだ。
小石を除ける。
川砂の中に、小さな黄色い粒があった。
一つ。
その横に、もう一つ。
指先で拾う。
見間違えようもなかった。
「……おい」
誰に言ったわけでもない。
掌には、砂金が三粒あった。
少し前のミダスなら、拾うのも面倒な量だった。
男はしばらくそれを見ていた。
そして、ゆっくり胸元へ手を入れた。
革袋。
その中の布包み。
金色の髪。
男は川を見る。
もう一度砂金を見る。
「まさかな」
笑った。
だが砂金は捨てなかった。
*
夕方、酒場の卓に小皿が置かれた。
三粒。
それだけだった。
「何だよ」
「金」
「見りゃ分かる」
「今日拾った」
周りにいた男たちが少しだけ身を乗り出した。
店主は一目見て鼻を鳴らす。
「三粒で飲み代にもならん」
「量の話じゃねえ」
男は胸元から布包みを出した。
開く。
金色の髪。
一人が笑った。
「まだ持ってたのかよ」
「これ持って川へ行った」
「だから?」
「出た」
少し間があった。
また笑いが起きる。
「馬鹿言え」
「川に残ってたんだろ」
「俺もそう思う」
男は素直に答えた。
笑っていた者が少し拍子抜けした。
「じゃあ何だよ」
「知らん」
男は砂金を指で転がした。
「ただ、俺がこれを買った次の日に出た。それだけだ」
「偶然だ」
「だからそうかもしれねえって」
「なら髪いらねえだろ。俺にくれ」
その言葉で、男の手が止まった。
「嫌だね」
また笑いが起きた。
今度は少し違う笑いだった。
一人の男が金色の髪を覗き込む。
「触っていいか?」
「一ドル」
「昨日四ドルで買っただろ」
「だから?」
「見るだけだぞ」
「見るのはただ。触るなら一ドル」
「阿呆」
そう言いながら、硬貨を出した。
金色の髪が掌へ乗る。
男はしばらく目を閉じていた。
「どうだ」
「何が」
「何か感じるか?」
「……髪だな」
酒場に笑いが戻る。
だが返す時、その男は妙に惜しそうに髪を見た。
「これ持って掘ったら出ると思うか?」
「知らん」
「貸せよ」
「嫌だ」
「一日だけ」
「十ドル」
「ふざけんな」
「なら自分で魔女探せ」
その言葉で、酒場が少し静かになった。
誰かが言った。
「本人ならもっと出るんじゃねえか」
今度は誰もすぐに笑わなかった。
店主がグラスを拭きながら、
「やめとけよ」
と言った。
「何を」
「馬鹿なこと考えるのをだ」
「まだ何も考えてねえ」
「その顔で言うな」
髪を買った男は小皿の砂金を見た。
三粒。
本当に、それだけ。
それでも二か月ぶりにこの町で見た金だった。
「本人はどこにいる?」
誰かが聞いた。
「知らん」
「山だって話だろ」
「誰が言った」
「ベンが変な反応してた」
「エヴァンスの宿にもいたんだろ?」
「カーター夫婦とも仲が良かった」
一つずつ名前が出始める。
店主がグラスを置いた。
「やめろって言ってるだろ」
「聞くだけだ」
「聞いてどうする」
返事はなかった。
その沈黙の方が、店主には嫌だった。
*
同じ頃、エヴァンス夫人の宿では、サラがパンを布へ包んでいた。
「多くない?」
エヴァンス夫人が言う。
「昨日少なかったから」
「メイなら全部一晩で食べるよ」
「そこまで食べないよ」
「食べる」
サラは笑った。
袋にはパンのほかに、乾燥豆と塩、それから小さな石鹸を入れた。
「明日の朝?」
「うん」
「エイベルに頼む?」
「私が行く」
エヴァンス夫人が顔を上げた。
「一人で?」
「いつもそうでしょう」
「最近、余所者が増えた」
「金がなくなったのに?」
「なくなったから来る奴もいるんだよ」
サラは袋の口を結んだ。
「変なの」
「人間なんてそんなもんさ」
その時、宿の扉が開いた。
二人とも反射的に口を閉じた。
入ってきたのは、昼間から酒場にいた男だった。
金色の髪を買った男ではない。
その卓にいた一人。
「部屋?」
エヴァンス夫人が聞く。
「いや」
「食事?」
「聞きたいことがある」
エヴァンス夫人の顔から笑みが消えた。
男は帽子についた雪を払いながら言った。
「メイって娘、ここに住んでたんだろ?」
サラの手が、袋の上で止まった。
「客だったよ」
エヴァンス夫人が答える。
「どこ行った?」
「知らないね」
「本当に?」
「うちは宿屋だよ。役所じゃない」
男は少し笑った。
「黄金の魔女の居場所を知りたいだけだ」
エヴァンス夫人は笑わなかった。
「その呼び方、二度とうちで使うんじゃないよ」
「怒ることか?」
「帰んな」
「まだ――」
「帰れ」
男はエヴァンス夫人を見た。
その後ろのサラ。
テーブル。
布袋。
視線が一瞬だけ止まった。
サラは何気ないふりをして、その上へ布巾を被せた。
男は何も言わなかった。
帽子を被り直す。
「また来る」
「来なくていい」
扉が閉まった。
しばらく二人とも動かなかった。
サラが小さな声で言った。
「見たかな」
エヴァンス夫人は布巾の下の袋を見る。
「分からない」
「明日、どうする?」
返事はすぐに出なかった。
窓の外では、男が通りを歩いていく。
少し離れたところに、もう一人立っていた。
二人は何か話し、そのまま酒場の方へ向かった。
エヴァンス夫人は袋を手に取る。
いつもなら、明日の朝には山へ届く。
その日だけは、棚の奥へしまった。
その夜、酒場の灯りが消えたあとも、町の男たちは帰らなかった。
雪は細く降り続いていた。
風はなかった。
だから、通りに立つ者の姿は、窓からよく見えた。
エヴァンス夫人は二階の窓から外を覗き、すぐにカーテンを閉めた。
「まだいる」
サラが言った。
「見なくていい」
「二人?」
「三人になった」
サラは黙った。
棚の奥には、明日の朝に山へ届けるはずだった袋がある。
パン。
豆。
塩。
石鹸。
それだけのものだ。
それでも今は、金塊より重く感じられた。
「私が行く」
「駄目だよ」
「でも、メイが待ってる」
「待ってるからこそだ」
エヴァンス夫人は袋を取り出し、さらに奥の箱へ押し込んだ。
「今夜は誰も出ない」
「朝になったら?」
「朝になってもだ」
「じゃあ、いつ届けるの?」
エヴァンス夫人は答えなかった。
その沈黙が、サラには答えより怖かった。
*
酒場では、髪を買った男が一人で残っていた。
小皿の砂金は、もう片づけられている。
だが金色の髪は、まだ彼の前にあった。
「本当に持っていく気か?」
店主が聞いた。
「どこへ?」
「山だよ」
「行くとは言ってねえ」
「顔に書いてある」
男は髪を布へ包んだ。
「お前は信じてるのか?」
「何を」
「黄金の魔女」
店主はしばらく黙った。
「昔、似た話を聞いた」
「どんな話だ」
「山で金を見つけた奴がいた。見つけた場所を誰にも教えず、次の日には消えた」
「魔女に会ったのか?」
「知らん」
「それだけか?」
「それだけだ」
男は鼻で笑った。
「つまらねえ話だな」
「つまらない話ほど、長く残る」
店主はグラスを拭きながら続けた。
「山には、金より先に見つけちゃいけないものがある」
「何だよ」
「人の欲だ」
男は返事をしなかった。
店主は視線を上げる。
「行くなら一人で行け」
「なぜ」
「大勢で行くと、帰ってきた時に人数が減る」
「脅してるのか?」
「忠告だ」
男は立ち上がった。
椅子が床を擦った。
「明日の朝、川を見てくる」
「髪を持って?」
「持っていく」
「なら、せめて誰にも見せるな」
男は布包みを胸元へしまった。
その動作を、入口近くにいた男が見ていた。
昼間、エヴァンス夫人の宿を訪ねた男だった。
彼は何も言わず、外へ出た。
*
夜明け前。
サラは眠れずにいた。
窓の外はまだ暗い。
雪明かりだけが、通りを白くしている。
階下から物音がした。
サラは起き上がった。
エヴァンス夫人も同時に目を覚ましたらしい。
二人は顔を見合わせた。
音は一度だけだった。
棚の奥。
袋をしまった場所。
エヴァンス夫人が階段を下りる。
サラも後を追った。
扉の前に、泥の跡があった。
外から入ったものではない。
誰かが、濡れた靴で棚の前まで来ていた。
箱の蓋が少しずれている。
エヴァンス夫人が開けた。
袋は残っていた。
だが、結び目が違っていた。
「触られた」
サラが言った。
エヴァンス夫人は袋を開ける。
中身は揃っている。
パンも、豆も、塩も、石鹸も。
それでも、何かが足りない。
サラが気づいた。
「髪の毛」
「え?」
「袋に一本、入れてたでしょう」
エヴァンス夫人は黙った。
メイが落としたものだ。
いつから入っていたのか、二人とも覚えていない。
金色の髪。
それが一本だけ、袋の中に混じっていた。
今はない。
*
町の外れでは、髪を買った男が川へ向かっていた。
一人ではなかった。
後ろから、三人の男がついてきている。
「ついてくるな」
男が振り返る。
「同じ道を歩いてるだけだ」
「朝から山へ行く奴が、同じ道を歩くかよ」
「お前だって行くんだろ」
「俺は川を見るだけだ」
「なら、俺たちも川を見るだけだ」
男は舌打ちした。
川は凍っていなかった。
薄い氷が岸に張りつき、中央だけが黒く流れている。
男は昨日、砂金を拾った場所へしゃがんだ。
雪を払う。
砂を掬う。
何もない。
もう一度掬う。
小石だけだった。
後ろの男たちが笑う。
「魔女は寝てるらしいな」
「髪を出せよ」
「貸せって言っただろ」
髪を買った男は立ち上がった。
「帰れ」
「嫌だね」
「俺のものだ」
「四ドルで買っただけだろ」
「だから俺のものだ」
男の一人が近づいた。
その時、川の上流から何かが流れてきた。
黒い布だった。
氷の縁に引っかかり、ゆっくり回っている。
誰も動かなかった。
男が棒で引き寄せる。
布の中から、小さな金色のものが落ちた。
髪ではない。
細い糸で編まれた、古い腕輪だった。
その中央に、砂金が一粒だけ縫い込まれている。
「……誰のだ?」
誰も答えなかった。
髪を買った男は、胸元の革袋を押さえた。
布の中で、金色の髪がかすかに動いた。
風はなかった。
それでも、袋の中から何かが擦れる音がした。
男たちは顔を見合わせた。
川の上流。
雪に覆われた山道の方から、鈴の音が一度だけ響いた。
誰も、笑わなかった。
鹿は見つからなかった。
帰り道でイーライが兎を一羽仕留めた。
「ほら」
獲物を持ち上げる。
メイはそれを見た。
「小さい」
「文句言うなら食うな」
「食べる」
「即答かよ」
「お腹減ってるもの」
山を下りながら、メイは何度も後ろを振り返った。
赤い角のビッグホーンはもう見えない。
甘い匂いも、焦げた臭いも消えていた。
ただ、あの黒い目だけが妙に頭へ残っている。
「まだ気になるのか?」
前を歩くイーライが聞いた。
「何が」
「赤い角」
「見えてないくせに」
「お前がずっと言ってただろ」
「一回しか言ってない」
「顔に書いてある」
「何て?」
イーライが振り返った。
「変なもの見ました、って」
「そんな顔してない」
「してる」
メイは杖で雪を突いた。
「じゃあ見ないで」
「後ろ歩いてる奴をどうやって見ないんだよ」
少しだけ笑った。
それで、ようやく肩から力が抜けた。
*
小屋へ戻ると、メイが火を起こし、イーライが兎を処理した。
二か月も一緒にやっていれば、それぞれ何をするのか言わなくても分かる。
メイは鍋へ水を入れた。
豆を掴む。
「待て」
背後から声がした。
手を止める。
「何」
「今、何粒持ってる」
「知らない」
「見せろ」
「嫌」
「見せろって」
メイは握った手を胸元へ隠した。
「信用ないなあ」
「昨日三粒入れるところを六粒入れただろ」
「昨日は特別」
「何が」
「寒かった」
「豆と寒さに何の関係がある」
「体が必要としてたのよ」
「便利な言葉覚えたな」
メイは素早く鍋へ豆を落とした。
「おい」
「入っちゃった」
「何粒だ」
「知らない」
「絶対知ってるだろ」
メイは笑った。
鍋から湯気が上がる。
小さな炉。
濡れた手袋。
壁に掛けた外套。
窓際には乾かしている薬草。
隅には薪。
二か月前まで何もなかった場所に、二人の物が少しずつ増えていた。
メイは杖を壁へ立て掛ける。
白い石。
枯れた金。
二つが並んでいる。
その下には、まだ五つの空洞があった。
赤い角を思い出す。
なぜか視線が、その空洞の一つへ落ちた。
「どうした?」
イーライが聞いた。
メイは杖から目を離した。
「何でもない」
鍋を掻き混ぜる。
今は二つで十分だった。
*
翌日の午後、イーライが猟銃をメイへ差し出した。
「持ってみろ」
メイは干していた布を畳む手を止めた。
「何で?」
「昨日」
「昨日?」
「鹿を逃がした」
「私のせいみたいに言わないで」
「言ってない」
「顔が言ってる」
「お前もそれ使うのかよ」
イーライは銃を差し出したままだった。
メイは渋々受け取る。
ずしりと腕が下がった。
「重い」
「両手」
「持ってる」
「右肩につけろ」
小屋の外へ出る。
雪の薄い場所を選び、イーライが立ち位置を直した。
「足、もう少し開け」
「こう?」
「開きすぎ」
「細かい」
「撃った時に転びたいなら好きにしろ」
メイは少し狭めた。
イーライが銃床を肩へ押し当てる。
「ここ」
「痛そう」
「ちゃんと当てない方が痛い」
「嫌な道具ね」
「獲物はもっと嫌だろ」
メイは黙った。
昨日のビッグホーンを思い出す。
角をぶつけ合った二頭。
勝った方は、退いた相手を追わなかった。
イーライが銃身を軽く叩いた。
「今日は撃たない」
「分かってる」
「銃口を人に向けるな」
「分かってるって」
「落とすな」
「それは――」
重さに負けて銃口が下がった。
イーライが慌てて支える。
「だから言った」
「重いんだってば」
「銃に怒るな」
「あなたに怒ってる」
「もっと駄目だろ」
二人で笑った。
それから、火薬の量。
弾の込め方。
撃鉄。
小さな雷管。
イーライが一つずつ説明する。
メイは雷管を指先に乗せた。
「こんな小さいの?」
「なくすなよ」
「これが火をつけるの?」
「ああ」
「これだけで?」
「それだけじゃ撃てない。全部揃って初めてだ」
メイは小さな金属片を見る。
火薬。
鉛の弾。
銃。
雷管。
人間の指。
一つだけでは何も起こらない。
全部揃って、ようやく一発になる。
「どうした」
「別に」
雷管を返す。
イーライが受け取った。
「今度、獲物がいたら撃ってみるか」
メイは猟銃を見る。
「私が?」
「俺がいなくても使えるようになった方がいい」
「どこ行くのよ」
イーライは一瞬黙った。
「例えばだ」
「縁起でもないこと言わないで」
「山では何があるか分からない」
「じゃあ、あなたも何かあった時のために料理覚えなさいよ」
「できる」
「兎を焼く以外」
「焼ければ食える」
「料理じゃない」
「食えれば料理だ」
「違う」
言い合いながら小屋へ戻った。
猟銃は、いつもの場所へ置かれた。
昨日までと同じ場所だった。
けれどメイには、少しだけ違って見えた。
*
三日後。
メイは小屋から少し下った場所にある、大きな樫の木へ向かった。
幹の根元に割れ目がある。
その奥へ、町から食べ物が届く。
毎日ではない。
数日に一度。
パン。
塩。
豆。
ときには石鹸。
一度、新しい靴下が二組入っていた。
手紙はない。
名前もない。
それでも誰が置いているのか、メイは分かっていた。
二か月続いている、小さな約束だった。
樫の前まで来る。
メイはしゃがんだ。
手を入れる。
何もない。
「……あれ」
奥まで探る。
空だった。
少し早かったのかもしれない。
そう思って立ち上がる。
その時、鼻の奥にほんの僅かな臭いがした。
甘くない。
腐ってもいない。
冷えた灰のような臭い。
メイは周囲を見る。
誰もいない。
雪の上にも、新しい足跡はない。
もう一度、木の穴へ手を入れた。
何もない。
「気のせいかな」
杖をつき、戻った。
翌日。
また空だった。
今度は灰の臭いもしない。
三日目。
メイは樫の前に立ったまま、しばらく穴を見ていた。
手を入れる。
やはり何もない。
「今日で三日」
小屋へ戻ると、イーライが兎の罠を直していた。
「何が?」
「誰も来てない」
そこで初めて顔を上げた。
メイは扉の前に立ったまま、空の両手を見せた。
「二か月で、こんなの初めて」
イーライは黙った。
「雪のせいかもな」
「そんなに降ってない」
「町で何かあったかもしれない」
「何かって?」
答えはなかった。
炉の火が、小さく爆ぜた。
メイは外套を脱ぎ、壁へ掛ける。
窓の隙間から外を見た。
いつもの山。
いつもの木々。
白い雪。
二か月、何も変わらなかった景色。
鼻を澄ます。
何も匂わない。
それが、かえって嫌だった。
未来の匂いは、いつだってするわけではない。
分からない時は、本当に何も分からない。
メイは窓から離れた。
小屋は昨日までと同じだった。
それなのに、急に壁が薄くなったような気がした。
三日目の朝、エヴァンス夫人はパンを焼かなかった。
正確には、焼けなかった。
粉も酵母もある。
炉にも火は入っている。
ただ、焼けば包みたくなる。
包めば持っていきたくなる。
だから朝食に必要な分だけを焼いた。
サラは何も言わなかった。
この三日、宿の向かいには誰かがいた。
同じ男ではない。
一日目は酒場でメイのことを聞いていた男。
二日目は知らない若い男。
今日は誰もいない。
それが一番気持ち悪かった。
「今日で三日」
サラが言った。
エヴァンス夫人は皿を拭きながら、
「分かってる」
と答えた。
「イーライは狩りができる」
「それも分かってる」
「でも塩は獲れない」
皿を拭く手が止まった。
「分かってるよ」
少し強くなった。
サラは口を閉じた。
しばらくして、裏口が二度叩かれた。
一度。
間を置いて、もう一度。
エヴァンス夫人がサラを見る。
「誰?」
返事はない。
もう一度。
エヴァンス夫人はカウンターの下から棒を取り出した。
扉を少しだけ開ける。
「何だい」
ベン・クロウが立っていた。
「俺だよ」
「見りゃ分かる」
「じゃあ棒下ろせ」
「用件による」
ベンは通りを振り返った。
「中入れろ」
「嫌だね」
「何でだよ」
「顔が怖い」
「今それ言ってる場合か」
「いつだって怖いよ」
サラが奥から吹き出した。
ベンは何か言い返そうとして、やめた。
「……連中、山へ行く気だ」
エヴァンス夫人の表情が消えた。
扉を開ける。
「入んな」
*
ベンはテーブルの前に座った。
出された水を一口飲む。
「昨日の夜、酒場で聞いた。髪買った奴が仲間集めてる」
「何人」
「今のところ三人」
「今のところ?」
「面白がってる奴はもっといる」
サラが聞いた。
「何しに行くの?」
ベンは答えなかった。
「金だよ」
エヴァンス夫人が代わりに言った。
「まだそんな話を信じてるのかい」
「信じてなくても行く奴はいる」
ベンが言った。
「何かあるかもしれない。それで十分なんだ」
三人とも黙った。
二か月前。
同じような顔を、町中で見た。
金があるかもしれない。
もっとあるかもしれない。
それだけで人は穴を掘った。
今度は、その穴の代わりに人間を探そうとしている。
「場所は?」
エヴァンス夫人が聞いた。
「知られてない」
「なら大丈夫じゃない?」
サラが言う。
ベンは首を振った。
「あんたらが食い物運んでるってところまでは気づかれてる」
空気が固まった。
「誰が言った」
「誰も言ってねえ。考えたんだよ」
ベンは指を折った。
「二か月。山の中。冬。イーライは狩れる。でもパンも塩も火薬も山から生えねえ」
サラがテーブルを見る。
そこには何も置かれていない。
それでも、布袋があるように見えた。
「樫の木は?」
「そこまでは知らねえと思う」
「思う?」
「俺は連中の頭ん中までは見えねえよ」
エヴァンス夫人は腕を組んだ。
「じゃあ今日も行けない」
「行くな」
「明日は?」
ベンは黙った。
「明後日は?」
返事はない。
「いつなら行けるんだい」
「分からねえ」
「食べ物がなくなる」
「分かってる」
「分かってないよ」
エヴァンス夫人が声を上げた。
「山の上だよ。二か月もあんな場所で暮らしてる。あの子は寒いと腹が減るんだ」
ベンが眉を寄せる。
「それ今関係あるか?」
「あるよ」
「どこが」
「あるったらある」
サラが小さく笑った。
すぐに止めた。
ベンは頭を掻いた。
「……俺が行く」
二人が同時に彼を見る。
「駄目」
エヴァンス夫人が言った。
「なんでだよ」
「あんたは目立つ」
「だったら誰が行く」
「だから困ってるんだろ」
「俺なら山も多少分かる」
「多少じゃ駄目だよ」
「じゃあどうすんだ」
誰にも答えはなかった。
サラが窓を見る。
「町から知らせられないかな」
「どうやって」
「煙とか」
ベンが首を振る。
「向こうからも見える」
エヴァンス夫人は溜息をついた。
何をしても、相手にも見える。
何もしなければ、メイたちは何も知らない。
「嫌になるね」
誰に言ったのか分からなかった。
*
午後。
町外れの馬小屋には三頭の馬がいた。
毛布。
乾燥肉。
火薬。
酒。
縄。
雪の中を進むには多くない荷物だった。
長く山へ入るつもりでもない。
髪を買った男が鞍袋を閉じる。
「今日出るのか?」
仲間の一人が聞いた。
「明日の朝」
「雪降るぞ」
「少しだ」
「山じゃ分からねえ」
男は返事をせず、胸元から布包みを出した。
金色の髪。
一本減っているような気がした。
最初に何本あったのか覚えていない。
「それ、本当に効くのか?」
「知らん」
「川じゃ一回だけだろ」
「ああ」
「じゃあ何で行く」
男は髪を包み直した。
「何もしなきゃ、何も起きねえ」
「見つけてどうする?」
「聞く」
「何を」
「金がどこにあるか」
「知らないって言ったら?」
男は少し考えた。
「知るまで聞く」
仲間は笑わなかった。
「殺すなよ」
別の男が言った。
「殺したら聞けない」
「髪も傷つけるな」
「分かってる」
馬が鼻を鳴らした。
*
その夜、ベンは酒場へ行かなかった。
宿にも戻らなかった。
町外れの物置から古い外套と雪靴を引っ張り出した。
猟銃も持った。
弾を確認する。
火薬を確認する。
しばらく銃を見た。
それから舌打ちして、壁へ戻した。
もう一度取る。
「何やってんだ、俺」
答える者はいなかった。
結局、猟銃を持ったまま外へ出た。
雪が降り始めていた。
*
翌朝。
三頭の馬がミダスを出た。
先頭には、金色の髪を持つ男。
後ろに二人。
町道をしばらく進み、途中で東へ折れる。
山へ向かう道だった。
ベンは離れた場所からそれを見ていた。
止めることはできる。
酒場で喧嘩するように殴りかかればいい。
一人なら。
三人なら。
その後は?
銃が出るかもしれない。
死人が出るかもしれない。
何より、騒ぎになればもっと人が集まる。
だからベンは動かなかった。
三頭が見えなくなるまで待つ。
それから反対側の道へ走った。
エヴァンス夫人の宿ではない。
カーター家でもない。
山へ続く、別の古い道。
先回りできるかもしれない。
できないかもしれない。
それでも走った。
*
三人の男は、昼前に馬を降りた。
雪が深くなった。
ここから先は歩いた方が早い。
一人が地面を見る。
「足跡なんか残ってねえぞ」
「二か月前のを探す気か?」
「じゃあどうする」
髪を持つ男が周囲を見た。
木。
雪。
岩。
どこを見ても同じに見える。
「町から近いところを探す」
「広すぎる」
「食い物を運ぶなら、毎回違う道は使わねえ」
男は雪を蹴った。
その下から、古い泥が出る。
細い道のようになっていた。
人が頻繁に歩いた跡。
新しくはない。
だが獣道とも違う。
三人はそれを辿り始めた。
少し進んだところで、先頭の男が止まった。
大きな樫の木。
根元。
雪が不自然に浅い。
しゃがむ。
手で払う。
幹の下に、小さな割れ目があった。
何も入っていない。
ただ、何度も手を入れたように、内側の土だけが滑らかになっている。
男は指を入れた。
奥まで探る。
空だった。
「何だ?」
後ろから聞かれる。
男はゆっくり立ち上がった。
山の上を見る。
「道は合ってる」
その頃、もっと上では。
同じ樫の木を三日続けて覗いたメイが、何も知らずに炉へ薪を一本くべていた。




