ミナソコ 急
ミナソコ 急
ミナソコ 急
トーマスの遺体が見つかったのは、二日後だった。
セントルイスから少し下流。河岸に引っかかっているところを、朝早く漁に出た男が見つけた。
知らせを持ってきたのは、サイラスだった。
昼前、ホロウェイ宿の食堂には、まだ客が三人いた。
母は厨房に、父は帳簿に向かっていた。ルーシーは窓辺の椅子に座り、メイは階段の手すりを拭いていた。
玄関が開いた。
誰も「飯」と言わなかった。
それだけで、メイには分かった。
サイラスは帽子を被っていなかった。右腕には白い包帯が巻かれ、火傷した頬は赤く腫れている。
「パトリック」
父が顔を上げた。
サイラスはそれ以上何も言わなかった。
父は帳簿を閉じた。
「どこだ」
「下流だ」
「分かった」
母が厨房から出てきた。
「何が?」
父は答えなかった。
エレンはサイラスの顔を見た。
手にしていた布巾が、床に落ちた。
「……そう」
「母さん?」
ルーシーが振り返る。
誰も答えない。
「何?」
メイは雑巾を握ったまま動けなかった。
サイラスがこちらを見る。
事故の夜より、ずっと老けて見えた。
「嬢ちゃん」
「違う」
「まだ何も言ってねえ」
「違う」
「メイ」
父が呼んだ。
「違うって」
メイは笑った。
「二日だよ」
誰も何も言わない。
「二日も経ってるんだから、兄さんならどっかで寝てるだけかもしれないじゃない。誰かの家に運ばれて、名前が分からなくなってるとか。帽子だって、あっただけで――」
「確認した」
父の声は静かだった。
「……誰が?」
「俺が行く」
「まだ行ってないじゃない」
「これからだ」
「なら分からないでしょ」
「サイラスが見た」
メイはサイラスを見る。
サイラスは目を逸らさなかった。
「俺が確認した」
雑巾が手から落ちた。
音がしなかったように感じた。
「顔は?」
サイラスが一瞬黙る。
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「絶対?」
「ああ」
「兄さんだった?」
サイラスの口が少しだけ動いた。
「……ああ」
メイは階段の手すりを掴んだ。
木が冷たかった。
二日前から、分かっていたはずだった。
帽子を見た時から。
父が何も言わなかった時から。
夜が明けても帰ってこなかった時から。
昨日一日、誰も「きっと大丈夫」と言わなかった時から。
分かっていた。
それでも、今初めて聞いた気がした。
「兄さん、死んだの?」
誰もすぐには答えなかった。
サイラスが、小さく頷いた。
「そうか」
それしか言えなかった。
ルーシーが椅子から立ち上がった。
「死んだって?」
母が妹を抱きしめる。
「兄さんが?」
ルーシーはまだ泣かなかった。
ただ、母の腕の中からメイを見ていた。
メイも妹を見た。
何か言わなければと思った。
けれど、言葉が出てこない。
「……うん」
メイが答えると、ルーシーの顔が崩れた。
泣き声が食堂に響いた。
病気で寝込んでいた時より、ずっと強い声だった。
母はルーシーを抱きしめた。
父は窓の外を見た。
サイラスは俯いている。
メイだけが泣かなかった。
泣けなかった。
*
パトリックはサイラスと遺体を引き取りに出ていった。
母は食堂を閉め、宿泊客にも今日は食事を出せないと伝えた。誰も文句を言わなかった。
昼を過ぎても、ホロウェイ宿は静かだった。
メイは台所の椅子に座り、目の前のトーマスの椅子を見ていた。
二日前。
そこには誰も座っていなかった。
メルクが水差しから顔を出した。
「待ってる場所?」
メイは椅子を見たまま答えた。
「そうね」
帰ってくるから。
そう思っていた。
「メイ」
「聞こえてる」
事故の夜から、メルクはあまり姿を見せなかった。
「トーマス、死んだの?」
「そうみたい」
「そうみたい?」
「死んだって」
「じゃあ死んだの?」
「そうよ!」
思ったより大きな声が出た。
メルクが肩をすくめる。
「……ごめん」
メイは目を伏せた。
「怒ってる?」
「分からない」
「悲しい?」
「分からない」
「泣かないの?」
メイは水差しを見る。
「泣かなきゃ駄目?」
メルクは黙った。
しばらくして、小さな声で言う。
「メイ。メルク、何をしたらいい?」
メイは少しだけ顔を上げた。
「何もしなくていい」
「でも」
「何もできないでしょう」
言ってから、胸が痛んだ。
メルクの青い瞳が揺れる。
「……うん」
小さく答えた。
「何もできなかった」
事故の夜。
メルクは川の水を船へぶつけ、炎を消そうとした。
何度も。
それでもトーマスは帰らなかった。
「あなたのせいじゃない」
「でも助けられなかった」
「私だって助けられなかった」
「メイは水じゃない」
「関係ない」
「あるよ」
「ない!」
また声が大きくなった。
メルクは黙った。
メイは自分の手を見た。
ルーシーのために働き、皮を剥き、血を流し、金を稼いだ。
メルクと出会った。
ルーシーの熱を下げた。
助けた。
みんなで、助けた。
そのはずだった。
「……何なのよ」
「人間って?」
「違う」
メイは首を振った。
「こんなの」
メルクは何も言わなかった。
*
トーマスが帰ってきたのは、夕方だった。
木の箱を、父とサイラス、それから知らない男二人が運んできた。
母は玄関で待っていた。
ルーシーは二階へ行かされた。
メイだけが残った。
「見るか」
父が聞いた。
「パトリック」
母が言った。
「本人が決める」
メイは箱を見た。
見たくない。
怖かった。
けれど、見なければ後悔する気がした。
ベル先生の言葉が浮かぶ。
何もしなかったことは、あとで長く残る。
「見る」
父が蓋を開けた。
メイは兄の顔を見た。
トーマスだった。
髪は濡れ、頬には傷がある。
肌は、見慣れた人間の色ではなかった。
目は閉じている。
眠っているようには見えなかった。
死んでいた。
眠っている人間と、死んでいる人間。
その違いを、メイは初めて知った。
「……馬鹿」
声が出た。
父も母も何も言わない。
「一晩だけって言ったじゃない」
返事はない。
「パンだって、買ってきてないし」
笑おうとして、できなかった。
「金の石も」
兄の手には何もない。
「ルーシー、待ってるのに」
涙は出なかった。
メイはただ、兄の顔を見つめた。
生きていた時より、ずっと長く。
*
サイラスが帰る前に、メイを呼び止めた。
「嬢ちゃん。これ」
差し出されたのは、トーマスの革袋だった。
中で硬貨が鳴る。
ちゃり。
あの音だった。
「持っててくれ」
「父さんに渡して」
「お前にだ」
サイラスは袋から、折り畳まれた紙も取り出した。
「……地図」
「あいつの荷物に入ってた」
メイは受け取った。
端は濡れ、少し煤けていたが、線はまだ読めた。
セントルイス。
その西。
トーマスが何度も指でなぞった線。
「船の近くに落ちてた」
「何で持ってたんだろ」
「知らねえ」
「仕事なのに」
「知らねえよ」
サイラスの声が荒くなった。
「本人に聞けねえんだから」
二人は黙った。
やがて、サイラスが言った。
「すまなかった」
「何が?」
「俺が仕事に呼んだ」
「兄さんが行くって言った」
「止められた」
「止めても行ったよ」
サイラスは少しだけ目を伏せた。
「……そうだな」
「サイラスのせいじゃない」
それは分かっていた。
サイラスも。
父も。
母も。
ベル先生も。
メルクも。
トーマスも。
誰も悪くない。
それなのに、トーマスは死んだ。
メイは地図を握った。
その時、二階からルーシーの泣き声が聞こえた。
胸の奥で、何かが動いた。
もし。
ルーシーが病気にならなかったら。
トーマスは三年分の金を失わなかった。
あんなに急いで働く必要もなかった。
あの夜の仕事を受けなかったかもしれない。
船にいなければ。
生きていたかもしれない。
そこまで考えて、メイの身体が冷たくなった。
何を考えてるの、私は。
ルーシーは悪くない。
病気になりたくてなったわけじゃない。
死にかけて。
怖い思いをして。
それでも、助かった。
助かってよかった。
本当に、よかった。
なのに。
妹の泣き声を聞くたび、胸の奥で何かが囁く。
――もし、あの子が病気にならなければ。
「メイ?」
メルクが呼んだ。
「何でもない」
「顔が――」
「何でもない!」
メイは地図を胸に抱えた。
妹のところへ行かなければ。
そう思った。
だが、階段の一段目に足を置くことができなかった。
*
階段の前で、どれくらい立っていたのか分からない。
二階から、ルーシーの泣き声だけが聞こえていた。
行かなければ。
妹なのだから。
そう思うのに、足が動かなかった。
「メイ」
メルクの声がした。
「行かないの?」
「行く」
「でも動いてないよ」
「分かってる」
「ルーシー、泣いてる」
「聞こえてる!」
声が尖った。
メルクは黙った。
メイは目を閉じた。
腹が立った。
メルクにではない。
ルーシーにも。
サイラスにも。
トーマスにも。
誰に怒っているのか、自分でも分からない。
怒りの向け先すら定まらないことが、いちばん苦しかった。
やがて階段を上がり、ルーシーの部屋の前まで来る。
扉に手を掛けると、中から母の声が聞こえた。
「泣いていいのよ」
「でも……私のせい?」
「何が?」
「兄さん。私のお薬にお金を使ったんでしょ?」
沈黙。
「私が病気になったから?」
「違うよ。トーマスが決めたことだ」
「じゃあ、誰が悪いの?」
母は答えなかった。
メイにも答えは出せなかった。
船を急がせた人間か。
壊れた機械か。
危険を承知で仕事を受けたサイラスか。
金が欲しくて働いたトーマスか。
治療に金が必要だと言ったベル先生か。
病気になったルーシーか。
誰でもない。
だからこそ、余計に苦しかった。
「メイ姉ちゃん?」
扉の向こうから声がした。
メイはゆっくり扉を開けた。
ルーシーは母の胸に顔を埋めていた。
目も鼻も真っ赤だった。
「そこにいたの?」
「うん」
「兄さん、私のせいじゃない?」
メイは答えようとした。
違う。
あなたは悪くない。
そう言えばいい。
そんなことは分かっていた。
なのに、声が出なかった。
一瞬の沈黙が、ルーシーには長かった。
「……やっぱり?」
「違う!」
メイはルーシーの肩を掴んだ。
「違う。絶対違う。兄さんが自分で決めたの」
「私のために?」
「そうよ」
ルーシーの目から涙が溢れた。
「じゃあ、私が助からなかった方がよかった?」
「そんなわけないでしょう!」
「じゃあ……兄さんは?」
メイは答えられなかった。
ルーシーにも生きていてほしかった。
トーマスにも生きていてほしかった。
たったそれだけなのに。
どうして、両方は叶わなかったのだろう。
「……ごめん」
メイは部屋を出た。
階段を下りる。
今度は足が止まらなかった。
*
葬儀は三日後に行われた。
空は晴れていた。
それがメイには気に入らなかった。
雨でも。
嵐でも。
雪でもよかった。
世界中が暗くなればいいと思った。
宿の前には、近所の者や河岸で働く男たち、宿の客、アビーとその両親、マーサ、ベル医師、サイラスが集まっていた。
メイの知らない人間もいた。
トーマスには、自分の知らない時間がたくさんあったのだ。
河岸で働いていた時間。
酒場に寄った時間。
誰かと話した時間。
西のことを考えていた時間。
兄妹だからといって、すべてを知っていたわけではない。
それが少し悔しかった。
「メイ」
アビーがそばへ来て、何も言わず手を握った。
「何か言ってよ」
「何を?」
「何でもいい」
アビーは困った顔をした。
「……今日、髪ひどいよ」
メイは思わず笑った。
「そういうのじゃない」
「何でもいいって言ったじゃない」
「言ったけど」
「じゃあ、私も何を言えばいいか分かんない」
「そうね」
「ごめん」
「謝らないで」
アビーの目が赤くなった。
メイはまた少しだけ笑った。
それでよかった。
下手な慰めより、ずっと。
葬儀が終わり、人が帰っていく。
メイは墓の前に立っていた。
土の下に兄がいる。
それがどうしても理解できなかった。
「土の下って、苦しくない?」
メルクが聞いた。
「死んでるから」
「死んだら苦しくないの?」
「たぶん」
「何も感じない?」
メルクは墓を指した。
「トーマス、どこにいるの?」
「そこ」
「身体はそこ。でも、トーマスは?」
メイは答えられなかった。
「身体がトーマスじゃないの?」
「それもトーマスよ」
「それも?」
メイは視線を落とした。
「……うまく言えない」
最近、答えられないことばかりだった。
「トーマス、もう西へ行けないね」
「そうね」
「地図は?」
「私が持ってる」
「じゃあ夢は?」
メルクが聞いた。
「死んだら、夢も死ぬの?」
「メルク。今は聞かないで」
「……うん」
メルクは墓の前にしゃがみ、土に手を触れた。
「さよなら、トーマス」
メイは横を向いた。
それでも涙は出なかった。
*
その夜、食卓には四人しかいなかった。
誰もトーマスの椅子に座らなかった。
母はスープを五人分作っていたらしく、鍋には一人分多く残っていた。
ルーシーはほとんど食べなかった。
「もう少し食べなさい」
「いらない」
「身体が戻ったばかりなんだから」
「お腹空いてない」
ルーシーがスプーンを置いた。
「兄さん、私が元気になったの見たよね?」
母の手が止まる。
「見たよ」
「笑ってた?」
「笑ってた」
「本当に?」
「本当」
ルーシーは俯いた。
「なら、よかった」
その言葉を聞いた瞬間。
メイの胸の奥で声がした。
――よかった?
兄さんが死んだのに?
メイは膝を強く掴んだ。
違う。
ルーシーはそんな意味で言ったんじゃない。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥の声は消えなかった。
「メイ姉ちゃん?」
「何?」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「顔怖い」
「疲れてるだけ」
「私に?」
「違うって!」
ルーシーが黙った。
「ごめん」
「……うん」
「ルーシー」
「もういい」
妹は椅子から降り、階段を上がっていった。
メイは追わなかった。
追えなかった。
父も母も何も言わない。
その沈黙が、責められるより苦しかった。
「私、ちょっと外行ってくる」
母はしばらくメイを見てから頷いた。
「遠くへ行くんじゃないよ」
「うん」
メイは上着を取った。
トーマスの地図を懐へ入れる。
そして玄関脇に立て掛けてあった、七つの窪みのある杖を手にした。
あの事故の夜。
兄を探して河岸へ走った時にも、この杖を握っていた。
理由は分からない。
ただ、あれ以来なぜか、手の届くところに置くようになっていた。
玄関を出る。
メルクが、水差しから流れ出るように姿を現した。
「ついてこないで」
「契約してる」
「今は一人になりたいの」
「一人じゃないって言った」
メイの足が止まった。
「誰が?」
「メイが」
「言ってない」
「でも、そうだった」
メイはメルクを見た。
「勝手にして」
メルクは黙ってついてきた。
*
ミシシッピは、今日も流れていた。
事故の跡は残っている。
河岸には焦げた木片が積まれ、壊れた桟橋は縄で封鎖されていた。
けれど川は、何事もなかったように流れている。
メイは初めてメルクと出会った場所まで歩き、岸辺に座った。
杖を傍らへ置く。
地図を膝に広げた。
煤のついた紙。
セントルイス。
その西。
トーマスの指がなぞった場所。
「兄さん、ここに行きたかったんだって」
「うん」
「覚えてる?」
「覚えてる」
二人はしばらく黙っていた。
「ルーシーは助かった」
メルクが言った。
「……うん」
「トーマスがお金をくれたから」
「それだけじゃない」
「メイも働いた。ベルも薬をくれた。メルクも熱を持っていった」
「そうね」
「みんなで助けた」
メルクは少し考えた。
「トーマス、嬉しそうだった。後悔してないって言ってた」
「聞いてたの?」
「うん」
また沈黙が落ちた。
「じゃあ」
メルクが聞いた。
「何が間違ってたの?」
メイは顔を上げた。
「え?」
「トーマスはルーシーを助けたかった。ルーシーは助かった。トーマスは後悔してない。サイラスも、ベルも、メイも、ルーシーも悪くない」
メイは答えなかった。
「じゃあ、何が間違ってたの?」
メイは川を見た。
誰かが間違っていたなら、どれほど楽だっただろう。
怒れる。
恨める。
許さなくていい相手ができる。
でも、そんな相手はいない。
「……答えられない」
メイは言った。
メルクは黙った。
それは、これまで何度も聞いた答えだった。
けれど今度だけは、「また?」とは言わなかった。
川面を、船の灯りがゆっくり横切っていった。
しばらくして、メルクが言った。
「メイは、ルーシーが助かって嬉しかった?」
「嬉しかったよ」
「トーマスも?」
「嬉しかった」
「じゃあ、よかったことだね」
メイは地図に目を落とした。
「そうね」
「でも、悲しい」
「……そうね」
「嬉しいのに、悲しいの?」
メイはすぐには答えなかった。
「そうみたい」
メルクは膝を抱えた。
「人間、難しい」
いつもなら、何か言い返していた。
人間はそういうものだとか。
あなたには分からないとか。
けれど今は、言葉が出てこなかった。
メルクが川へ足を浸す。
小さな足先が水と混ざり、境目が消えた。
「ルーシーが死んだ方がよかった?」
メイの顔が上がった。
「違う」
「でも、ルーシーが病気にならなかったら、トーマスは――」
「違う!」
メイは立ち上がった。
地図が膝から滑り落ちる。
「そんなこと言わないで!」
「メイも考えてた」
息が止まった。
メルクはメイを見上げていた。
責めているわけではない。
ただ、見ていた。
あの夜、水の中から現れた時と同じ目で。
「……聞いたの?」
「聞いてない」
「じゃあ、どうして」
「分かったから」
メイは黙った。
契約した時、メルクは言っていた。
メイのことを知りたい。
人間を知りたい。
水が染み込むように、ずっと見ていた。
「違う」
メイは呟いた。
「違うの」
メルクは何も言わずに待った。
「ルーシーには、生きててほしかった」
「うん」
「病気が治って、本当に嬉しかった。兄さんがお金を出してくれて、よかったって思った。後悔してないって言ってくれて、安心した」
メイは息を継いだ。
「全部、本当なの」
「うん」
「なのに」
喉が震えた。
「あの子が病気にならなかったらって思った」
メルクは黙っている。
「最低でしょ」
「どうして?」
「妹なのよ」
「それでも?」
メイは唇を噛んだ。
「死にかけた妹に、生きててほしいって思ったのに。助かったら今度は、あの子が病気にならなければ兄さんは死ななかったかもしれないって」
「それは本当?」
「知らない!」
声が川に響いた。
「そんなの分からないよ! 兄さんが別の仕事で死んだかもしれないし、次の日に馬車に轢かれたかもしれないし、西へ行って死んだかもしれない!」
息が苦しかった。
「でも考えちゃうの!」
メイは胸を押さえた。
「もし、あの時こうしてたらって。ルーシーが病気にならなかったら。兄さんがお金を渡さなかったら。私がもっと稼いでたら。あの仕事を止めてたら」
「メイ」
「何か一つ違ってたら、兄さんは今もあの椅子に座ってたんじゃないかって!」
声が途切れた。
川だけが流れている。
「……それで」
メルクが小さく言った。
「どれが正しかったの?」
メイは唇を噛んだ。
「分からない」
「ルーシーを助けたのは?」
「正しかった」
「トーマスがお金をあげたのは?」
「正しかった」
「仕事に行ったのは?」
「……分からない」
「西へ行きたかったのは?」
「悪くない」
メルクは首を傾げた。
「じゃあ、どうしたら二人ともいたの?」
メイの顔が歪んだ。
そんな方法があるなら、教えてほしかった。
ベル先生でも。
神様でも。
この川でも。
誰でもいい。
「知らないよ」
声が掠れた。
「そんなの、分からない」
メルクは少し考えた。
そして聞いた。
「メイは、どっちが欲しかったの?」
その問いに。
メイは、迷わなかった。
「両方」
メルクが瞬きをした。
「両方?」
「そうよ」
「でも――」
「両方欲しかった!」
メイは叫んだ。
「ルーシーにも生きててほしかった! 兄さんにも生きててほしかった!」
胸の奥に押し込めていたものが、一気に溢れた。
「どっちかなんて嫌よ!」
息が震える。
「何で選ばなきゃいけないの」
「メイ……」
「二人とも家にいてほしかった。ルーシーがまたうるさく喋って、兄さんが西へ行くって馬鹿なこと言って、父さんが怒って、母さんが笑って」
声が続かない。
「それでよかったのに」
メイは顔を覆った。
「それだけでよかったのに……」
頬を何かが伝った。
一滴。
メイは指で触れた。
濡れていた。
ようやく。
涙が出た。
「メイ」
メルクが立ち上がる。
メイは泣いた。
一度こぼれると、止まらなかった。
声を殺そうとしても、喉の奥から変な音が漏れる。
息が吸えない。
鼻も痛い。
顔もぐしゃぐしゃだった。
こんなものの、どこが綺麗なのだろうと思った。
「これが……」
メルクが呟いた。
メイは顔を上げた。
メルクの頬にも、水が流れている。
いつもの水滴だった。
「泣いてるの?」
「違う」
反射するように、メルクは答えた。
「これは水」
メイは泣きながら笑った。
「あなた、水でしょうが」
「だから、泣いてないの」
初めて会った夜と同じやり取りだった。
けれどメルクは、自分の頬に触れた。
指先の水滴を見つめる。
「……分からない」
「何が?」
「メイが痛いのは分かる」
「うん」
「ここ」
メルクは自分の胸に手を当てた。
「メルクも変なの」
「何が?」
「痛くないのに、痛い」
メイは黙った。
「水なのに、苦しい」
メルクは困ったように笑った。
「これ、人間?」
「分からない」
「また?」
メイは涙を拭った。
「そうね」
メルクも笑った。
二人の間に、しばらく沈黙が落ちた。
やがてメルクが、メイの前まで来た。
「ねえ」
「何?」
「もっと教えて」
「何を?」
メルクは胸を指した。
「これ。悲しいっていうの」
メイは目を伏せた。
「教え方なんて分からない」
「メイの中に行ったら分かる?」
メイは顔を上げた。
「……何言ってるの?」
「メイの中」
メルクは当然のように言った。
「水は入れるよ」
「そういう問題じゃないでしょ」
「じゃあ、どういう問題?」
「説明できないの」
「なら、やってみる」
「待って」
メルクが一歩近づいた。
「契約したでしょ」
「人間を教えるってだけよ」
「だから、教えて」
「こんなの、教えたくない」
「どうして?」
メイは答えられなかった。
メルクは少し考えてから言った。
「トーマス、好きだった」
メイの胸がまた痛んだ。
「……うん」
「メルクも、好き」
「うん」
「でも、まだ分からない」
メルクの身体が、足元から崩れ始めた。
水になる。
「ちょっと、メルク」
「メイが泣いてる理由」
膝が水になる。
腰が。
指が。
「だから知りたい」
「やめて」
「嫌?」
メルクが止まった。
メイは、目の前の小さな精霊を見つめた。
最初は鬱陶しかった。
何でも聞いた。
どうして。
何で。
人間って変。
それでも。
トーマスの名前を覚えた。
ルーシーを助けた。
サイラスを助けたいと思った。
一緒に西へ行きたいと言った。
そして今。
トーマスを失って。
メルクも、分からなくなっている。
「……怖い」
メイは言った。
「メルクも」
「あなたも?」
「うん」
「じゃあ、やめなさいよ」
メルクは少し笑った。
「人間みたい?」
メイも、泣きながら笑った。
「馬鹿」
「それも人間?」
「たぶんね」
メルクが手を差し出した。
水でできた、小さな手。
「メイ」
メイはその手を見た。
そして、握った。
冷たい。
最初に契約した夜と同じだった。
「一緒にいて」
メイが言った。
メルクの青い目が大きくなる。
「うん」
水が、指の間から入り込んだ。
冷たさが手首を上り、腕を伝う。
あの夜より速い。
肩。
胸。
喉。
身体の奥へ。
「メルク?」
返事はなかった。
代わりに、胸の奥で声がした。
――メイ。
メイは息を呑んだ。
――ここ?
「……そうみたい」
――暗い。
「身体の中だからね」
――あったかい。
「生きてるから」
少し間があった。
そして。
――トーマスは?
その瞬間。
記憶が開いた。
トーマスが笑っている。
地図を広げている。
西を指差している。
ルーシーの頭を撫でている。
革袋を卓へ置いている。
『俺は、これでよかった』
朝。
パン。
『じゃあな』
扉が閉まる。
炎。
帽子。
木の箱。
閉じた目。
全部が、一度に戻ってきた。
メイは胸を押さえた。
同時に。
胸の奥で、小さな悲鳴がした。
――あ。
それだけだった。
メルクは初めて知った。
見ていた記憶ではない。
聞いた話でもない。
メイの中にいる、トーマス。
笑い方。
声。
鬱陶しさ。
優しさ。
そして。
その人が、もう二度と帰ってこないということ。
――メイ。
「何?」
返事はなかった。
ただ胸の奥から、何かが込み上げてきた。
メイの悲しみなのか。
メルクの悲しみなのか。
もう分からなかった。
涙が一滴。
頬を伝った。
その雫が顎を離れ、地面へ落ちる。
――そのはずだった。
傍らに置いてあった杖が、かすかに震えた。
「……え?」
涙の軌道が曲がった。
七つある窪みの一つへ吸い寄せられる。
水滴が、窪みの中へ落ちた。
消えない。
白く濁る。
見る間に固まっていく。
小さな石になった。
白い石。
乾いている。
表面には、細かな亀裂が走っていた。
メイは杖を手に取り、指で触れた。
冷たい。
水から生まれたとは思えないほど、乾いていた。
胸の奥で、何かが浮かんだ。
変なの。
声ではなかった。
けれど、メイには分かった。
「そうね」
メイは白い石を見つめた。
これは、メルクではない。
メイだけのものでもない。
二人が同じ悲しみを知った時に流した、一滴の涙。
それが石になった。
なぜなのかは分からない。
どうして水から生まれたものが、こんなにも乾いているのかも。
分からない。
それでよかった。
メイはもう一度だけ泣いた。
今度は、ほんの少しだけ笑いながら。
ミシシッピは何も答えず、
西へ流れていた。
*
翌朝。
鏡の中に、メルクがいた。
いや。
違う。
メイは顔を近づけた。
鏡に映っていたのは自分だった。
髪も。
鼻も。
頬のそばかすも。
いつもの自分。
ただ、瞳だけが違っていた。
青い。
川の底から光を当てたような、澄んだ青。
「……メルク?」
返事はなかった。
メイは鏡を見たまま、自分の目を指した。
「これ」
胸の奥に、きれいだという感覚が浮かんだ。
誰かの声ではない。
自分のものだった。
同時に。
どこか懐かしい感じもした。
「そうじゃなくて」
メイは額を押さえた。
戻せるのか。
このままなのか。
自分でも分からない。
知ろうとすると、そこにまた一つ別の感覚が混ざる。
面白い。
「でしょうね」
鏡の中の自分が、ため息をついた。
見慣れない顔だった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
メルクは胸の奥に、もう一人の誰かとして住みついたわけではなかった。
昨夜。
水が土へ染み込むように。
二人の境目そのものが、なくなった。
メルクが見ていたものも。
メイが覚えていたものも。
どこまでが自分で、どこからがメルクなのか分からない。
けれど。
無理に分ける必要もないような気がした。
自分が少しだけ広がった。
そんな感覚が残っていた。
机の上には、七つの窪みがある杖が置かれていた。
その一つに、白い石が嵌まっている。
朝の光の下で見ても、やはり乾いていた。
水から生まれた石なのに。
メイは指で触れた。
昨夜の涙を思い出した。
自分のものだった。
同時に、メルクのものでもあった。
「ねえ、メルク」
問いかける。
声は返らない。
代わりに。
分からない。
という感覚が、自然に浮かんだ。
「あなた、本当に何にも知らないわね」
口にしてから、メイは笑った。
今の言葉を誰に言ったのか。
もう、それすらよく分からなかった。
それでも。
久しぶりに、自分から笑った気がした。
*
それから七日後。
ホロウェイ宿は、少しずつ元の姿へ戻り始めた。
朝になれば客が起きる。
母はパンを焼く。
父は薪を運ぶ。
ルーシーはまた階段を走って叱られる。
トーマスの椅子だけが、空いていた。
誰も片づけようとは言わなかった。
メイも仕事へ戻った。
洗濯をして。
床を磨き。
客のベッドを整える。
けれど。
前と同じではなかった。
夜になると、トーマスの地図を開いた。
セントルイス。
その西。
指で道を辿る。
一度目は、兄が行きたかった道だから。
二度目は、何となく。
三度目には。
自分が、その先を見ていた。
町。
川。
平原。
山。
地図には描かれていないもの。
兄は何を見たかったのだろう。
そして。
自分なら、何を見るのだろう。
考えているうちに、胸の奥に問いが浮かんだ。
行きたい?
「……分からない」
行きたくない?
「それも分からない」
じゃあ、どうする?
メイは地図の西端に指を置いた。
「見ないと分からないんじゃない?」
その答えに。
自分の中のどこかが、笑った気がした。
*
「西へ行こうと思う」
夕食の途中で言った。
父の手が止まった。
母も。
ルーシーだけが、口いっぱいにパンを入れたまま目を丸くした。
「どこへ?」
父が聞いた。
「まだ決めてない」
「何しに?」
「それも、まだ」
「観光か」
「違う」
「じゃあ何だ」
メイは困った。
自分でも説明できない。
兄の代わりに行く。
それは違う気がした。
トーマスの人生を引き継ぐつもりはない。
兄の夢は、兄のものだ。
復讐でもない。
誰かを探すわけでもない。
「見たいの」
「何を」
「分からない」
父が眉を寄せた。
「お前な」
「でも、兄さんも言ってた」
メイは父を見る。
「何もなかったら、何もないって分かるって」
父の顔が少し変わった。
「覚えてたか」
「うん」
「馬鹿なところばかり覚えやがって」
「父さんも同じこと思ってた?」
「もっと馬鹿だと思ってた」
母が小さく笑った。
久しぶりに、食卓で聞く笑い声だった。
父はしばらく黙っていた。
「一人は駄目だ」
「え?」
「行くなとは言ってない。一人で行くなと言ってる」
メイは父を見る。
「いいの?」
「よくはない」
即答だった。
「娘を西へやって喜ぶ父親がいるか」
「じゃあ」
「止めても行く顔をしてる」
メイは黙った。
父はため息をついた。
「来週、宿に泊まる連中がいる。西へ向かう一家だ。途中まで一緒に行け」
「パトリック」
母が言った。
父は妻を見た。
「トーマスを止めた」
その一言で、母は黙った。
「だから今度は、行きたい奴の話くらい聞く」
父はメイを見る。
「ただし」
「何?」
「生きて帰れ」
メイは答えようとして、喉が詰まった。
「……うん」
「返事が軽い」
「じゃあ、努力する」
「もっと悪い」
母が吹き出した。
ルーシーも笑った。
父だけが、しばらく難しい顔をしていた。
やがて口元だけ、少し緩んだ。
空いた椅子は。
その間もそこにあった。
*
出発の朝。
母は夜明け前から起きていた。
頼んでもいないのに、三日分はありそうな食べ物を袋へ詰めている。
「多いよ」
「途中で誰かにやればいい」
「重い」
「食べれば軽くなる」
「そういう問題?」
「旅なんて、だいたいそういう問題よ」
母は最後に包みを押し込むと、メイの荷物を閉じた。
それから。
壁に立て掛けてあった杖を見た。
七つある窪み。
その一つにだけ、白い石が嵌まっている。
母はしばらく、石を見ていた。
昨夜。
メイは川で起きたことをすべて話した。
メルクと出会ったこと。
ルーシーの熱を下げたこと。
そして。
最後にはメルクと自分の境目がなくなったこと。
母は最後まで黙って聞いていた。
「母さん」
「何?」
「この杖、本当は何なの?」
母は白い石を指で撫でた。
「知らない」
「母さんまで?」
「うちの母親も知らなかった。そのまた母親も、たぶんね」
「そんなものを嫁入り道具にしたの?」
「丈夫だったから」
メイは呆れて母を見た。
「杖よ。杖」
母は笑った。
「歩くためにあるんだから、それでいいの」
メイは杖を握った。
「返した方がいい?」
「持っていきなさい」
「でも」
「もうあなたのものよ」
母は白い石を見る。
「その石が入った時からね」
メイも石を見た。
「どうして白いのか、まだ分からない」
「分からなくてもいいんじゃない?」
母はメイの青い目を見た。
「あなたは青くなった。石は白くなった。それが今分かってることなんでしょう?」
「うん」
「だったら、それでいい」
メイは白い石を指で撫でた。
冷たい。
けれど、嫌な冷たさではなかった。
きれいだ。
そう思う。
その感覚が自分のものなのか。
メルクから来たものなのか。
もう考えなかった。
「……うるさい」
母が首を傾げた。
「何?」
「何でもない」
「便利そうね、その子」
「もう、その子じゃない」
メイは自分の胸へ手を置いた。
「私だから」
母は少しだけ目を見開いた。
それから。
何も言わず、メイの肩を撫でた。
玄関へ行くと、父が待っていた。
荷物を一度持ち上げる。
「重すぎる」
「母さんに言って」
「言って聞くなら三十年前に言ってる」
「三十年前は母さん十歳くらいでしょ」
「その頃からだ」
奥から母の声が飛んだ。
「聞こえてるよ!」
父とメイは顔を見合わせた。
少し笑った。
ルーシーは玄関の前に立っていた。
泣いてはいない。
その代わり、ひどく不機嫌そうだった。
「何、その顔」
「別に」
「怒ってる?」
「別に」
「怒ってるじゃない」
「メイ姉ちゃんも行くんでしょ」
「うん」
「兄さんも行くって言ってた」
メイは黙った。
ルーシーは靴の先で地面を蹴った。
「みんな西に行く」
「父さんと母さんはいるよ」
「そういうことじゃない」
メイには分かった。
しゃがんで、妹と目を合わせる。
「帰ってくる?」
ルーシーが聞いた。
メイは答えようとした。
帰ってくる。
そう言えば、安心させられる。
でも。
あの夜。
トーマスも「一晩だけ」と言った。
絶対なんてない。
「……分からない」
ルーシーの眉が寄った。
「何それ」
「ごめん」
「帰ってくるって言ってよ」
「言いたいけど」
「じゃあ言って」
メイは少し考えた。
「帰ってきたい」
ルーシーが顔を上げた。
「それなら言える」
「ずるい」
「そうね」
ルーシーはしばらく黙っていた。
そして突然、メイに抱きついた。
強かった。
病気だったとは思えないくらい。
「金の石」
「え?」
「兄さんの代わり」
ルーシーは顔を押しつけたまま言った。
「見つけてきて」
メイは妹の背中に手を回した。
「……約束はしない」
「何で!」
「見つからないかもしれないでしょう」
「そこは約束するところ!」
「分かった、分かった」
メイは笑った。
「探してみる」
「絶対?」
「できるだけ」
「メイ姉ちゃん嫌い」
「知ってる」
「嘘。好き」
「私も」
ルーシーが離れる。
泣いていた。
メイも少しだけ泣いた。
悲しい。
嬉しい。
二つの感情が、同じ場所にあった。
どちらかを消さなくてもいい。
どちらかを選ばなくてもいい。
両方ある。
それが今の自分だった。
メイは初めて、それをそのまま受け止めた。
*
宿の前に、西へ向かう荷馬車が待っていた。
荷物。
馬。
知らない人々。
子供の声。
車輪の軋む音。
これまで何度も見てきた光景だった。
旅人が宿を出る。
母が食事を渡す。
父が代金を確認する。
メイがシーツを片づける。
そして。
「お気をつけて」
と言う。
いつもそうだった。
西へ向かう人間たちが、一晩だけ眠る家。
自分はそこで。
彼らを見送る側だった。
「メイ!」
アビーが来た。
息を切らしながら走ってくる。
「間に合った!」
「遅い」
「誰のために来たと思ってるの」
アビーはメイの服装を上から下まで見る。
「ひどい」
「何が?」
「全然可愛くない」
「旅するのに必要?」
「必要よ」
「何に」
「気分に」
アビーは小さな袋を差し出した。
以前もらった薬入れとよく似ている。
赤い星が縫われていた。
「前の、持ってる?」
メイは胸元から出して見せた。
「持ってる」
「じゃあ、それが破れた時用」
「縁起悪い」
「物は破れるものなの」
アビーは言った。
「だから直すの」
メイは袋を受け取った。
「ありがとう」
「手紙書いて」
「どこに?」
「ここに」
「私はどこから?」
「知らないわよ。自分で考えて」
二人は笑った。
そして抱き合った。
「帰ってきなさいよ」
アビーが言った。
「努力する」
「何それ」
「父さんにも怒られた」
「当たり前よ」
荷馬車の男が声を上げた。
出発するらしい。
メイは家族を見る。
父。
母。
ルーシー。
アビー。
少し離れたところには、マーサとサイラスもいる。
ベル医師までいた。
「先生、仕事は?」
「死人より生きてる奴の方が手がかかる。早く行け」
「見送りに来たくせに」
「通り道だ」
「嘘つき」
「頭は治らなかったな」
いつものベルだった。
それが嬉しかった。
マーサはメイの肩を叩いた。
「服を汚してきな」
「洗濯屋が言う?」
「汚れなきゃ、洗うものがないだろ」
サイラスは何も言わなかった。
ただ。
メイの懐に入った地図と、手にした杖を見た。
「嬢ちゃん」
「何?」
「西は広いぞ」
「知ってる」
「知らねえよ」
メイは少し笑った。
「じゃあ、見てくる」
サイラスも笑った。
「そうしろ」
メイは荷馬車へ向かった。
三歩進んで。
振り返る。
みんなが、こちらを見ていた。
変な感じだった。
今まで。
こちら側に立ったことはなかった。
父が手を上げる。
母も。
ルーシーは両手を振っている。
「メイ姉ちゃーん!」
「何ー!」
「金の石ー!」
「分かってるー!」
「忘れないでー!」
「分かったってば!」
笑い声が起きた。
メイは前を向いた。
杖が地面を叩く。
こつ。
白い石が、朝日に光った。
メルクはもう、隣を歩いてはいない。
水桶から顔を出すこともない。
けれど。
いなくなったわけでもなかった。
メイの目で見て。
メイの足で歩き。
メイの心で感じている。
青い瞳。
乾いた白い石。
二人の境目がなくなった夜に、残ったもの。
なぜ白いのか。
なぜ石になったのか。
まだ分からない。
それでいい。
これから知ればいい。
背中の荷物には、母の食べ物。
胸元には、アビーの赤い星。
そして懐には、兄の地図。
セントルイスの町が、少しずつ遠ざかっていく。
メイはもう振り返らなかった。
悲しくないわけではない。
嬉しくないわけでもない。
怖くないわけでもない。
正しいのかも、分からない。
けれど。
分からないから、見に行く。
ステラ・メイ・ホロウェイは十七歳だった。
その日、初めて。
見送る側ではなく。
見送られる側になった。
杖には一つ。
白い石。
そして西には。
まだ知らないものがあった。
第一章 ミナソコ 了




