『絶望は、光によって救済される。』
「ゴパァァァッ! プシューーッ!!」
鉄甲の駆動大釜が吐き出す猛烈な熱気と、ハーブが煮え滾る肉塊スープの湯気が、カルパティアの極寒の長雨を完全に押し戻していた。
老将クトゥーゾフが決死の覚悟で放った十万の槍――ナポレオンの本陣を狙った一点集中の特攻は、血を流す戦闘にすら至らなかった。
隘路に詰め込まれたロシア兵たちは、迫り来る鉄の怪物どもから容赦なく突き出されるアツアツのスープの鉄カップを口にねじ込まれ、その圧倒的な美味の暴力の前に、一人、また一人と涙を流して泥の中に武器を落としていったのだ。突撃の鋭さは湯気の中に溶け去り、数の暴力はただの巨大な炊き出し会場の歓声へと変わっていく。
「……ここまで、へし折られるか、我が聖戦が……」泥塗れの地面に両膝を突き、後ろ手に縛られたクトゥーゾフ元帥は、白目を剥いて笑う自軍の兵たちが次々と「生きた人間の顔」を取り戻してスープを貪る光景を、絶望の濁った眼で見つめていた。
左右をダヴーとランヌの屈強な工兵に挟まれ、老将は冷たい泥のなかを引きずり回され、総本陣の天幕の前へと引っ立てられた。「パカッ、パカッ」長雨のなか、泥まみれの士官制服を纏ったナポレオンが、白馬の手綱を引いてゆっくりと歩み寄ってくる。
二角帽子から滴る雨粒を払うこともせず、彼は白馬の上から、縛られた老将を冷徹に見下ろした。
「ウィーン会談以来だな、クトゥーゾフ。いやはや、元気なものだ」ナポレオンは上着の胸元から片手を引き抜くと、やれやれと冷たい息を一つ吐き出した。
「その有り余る元気を、略奪や焦土ではなく、自国の痩せた土壌を耕すために向ければ、より豊かな国へと発展しただろうに。──っで、一応形式として聞いておくが、まだ吾輩の算術に抵抗するか?」
泥水を顔面に浴びながら、クトゥーゾフはひび割れた歯を剥き出し、呪詛のように吠えた。
「黙れ、フランスの悪魔め! たとえ私一人がここで捕らえられようとも、不敗のロシアを侮るな! 私がいなくなろうとも、我が大地からは第二、第三の私が必ず現れ、いつかこの無念を晴らしてくれるわ!!」
その狂信的な言葉を聞いた瞬間、ナポレオンの漆黒の瞳に、不気味なほど冷たい静寂が宿った。
彼は白馬の上で短く鼻で笑うと、冷たい指先で手帳の表紙をトントンと叩いた。
「ロシアの無念、とは何だ?」彼の低く通る声が、雨の音を圧殺して響き渡る。
「お前たちが欲しているのは、ただの支配だ。そこには民を活かす知恵も、命を育む実りも何もない。結局、いくら武力で土地を奪おうが、恐怖で民を縛ろうが、人間の心というものは、どれほど冷酷な数式を組んでも計算できないのだよ」
ナポレオンは顎をしゃくり、砦の広場でアツアツのジュレックスープを啜り、プロイセンの兵たちと笑い合っているロシアの農奴兵たちを指し示した。
「現に、お前たちが恐怖を煽り、武器も与えずに行軍をさせた兵たちは、今どうだ? 吾輩のスープの温もりを一口味わっただけで、お前たちの『恐怖の数式』など、瞬く間に瓦解したではないか」
かつて、誰よりも冷徹に人間を数字として扱い、算術のみで大陸を支配せんとしていた男の口から出た、あまりにも重い「心」への言及。
その言葉の矛盾に、傍らで聞いていたベルティエやランヌが思わず顔を見合わせて苦笑いを浮かべたが、ナポレオンは至って真面目な顔のまま、白馬の腹を軽く蹴り、数万の連合兵とロシア兵たちが地平線まで埋め尽くす大広場へと、ゆっくりと進み出た。
ナポレオンは天に向かって泥まみれの右手を高々と突き上げ、地鳴りのような大音声で荒野の端まで届く声を響かせた。
「――戦いという名の救済は終わった! だが、本当に大変なのは今ここからだぞ!」
数万の全軍の視線が、白馬の上の不格好な農業士官へと釘付けになる。
「我がフランスの教えはただ一つ。剣を鍬に、大砲を道に変えよ! 目の前を見ろ、ここには誰も飢えさせぬ麦と、湯気立つ芋がある! さあ、敵も味方も関係ない、誰もが腹一杯に食える新しき世のために、共に土にまみれて復興しようじゃないか! ──安心しろ、これからの最速なる開墾の計算なら、すべて吾輩のこの頭脳に任せておけ!!」
「うおおおおおおおおおッ!!!」
その言葉が響いた瞬間、かつてない大歓声がポーランドの平原を震わせた。
フランス、プロイセン、イギリス、そして今しがた救われたばかりのロシアの兵卒たちまでもが、泥塗れの鍬や鉄器を天に突き上げ、涙を流して狂喜の声をあげた。
歓声がこだまする中、金細工の施された重輜重車の傍らから、マリー・アントワネットがゆっくりと歩み出た。
ドレスの汚れなど一瞥もせず、彼女は避難してきたポーランドの子供たちの頭を優しく撫でながら、鈴の鳴るような気高き声を響かせる。
「これまで、多くの血が流れ、たくさんの愛しき人々がこの不毛な冬に倒れていきました。ですが今まさに、三百五十年前の初代聖女ジャネット・パテー様の遺した『誰も飢えさせない』という思想が、本物の形になる時がきたのですわ。今回は、我がフランスの芋と麦、そして各国の素晴らしい特産の知恵を合わせることで、何とかこの危機を乗り越えることができました。ですが、これから先も、ずっと同じ芋と麦だけでいいかどうかは分かりません」
彼女はそっと胸元に細い両手を組み、世界中の誰もが、その優しさに魂を奪われるような極上の笑顔を浮かべてみせた。
「――ですから、みんなで探しましょう。そして私は、またこの言葉を皆さまに贈ります。パンがなければ、ケーキを食べればいいのですわ。この世界には、私たちが未だ出逢ったことのない、美味しくて、温かくて、素晴らしい実りで溢れているのですから。さあ、みんなでまだ見ぬ豊穣のケーキを探しにいきましょう!」
マリーの言葉が響き渡り、数万の民が温かい笑顔で咽び泣いた、その刹那。
「――バリバリバリ、ドガァァァン!!」
カルパティアの夜空を覆っていた漆黒の雨雲が、完全に引き裂かれた。
雲の裂け目から降り注いだのは、戦場全域を白昼のように照らし出す、圧倒的な天からの【黄金の光の奔流】であった。
「ジュウウウゥゥーーーッ!!」とロシアの焦土が残した冷気がことごとく極上の湯気へと還り、荒野のすべてが黄金色の光の粒子で満たされていく。
その光の渦の中心、まばゆい光の向こうに、一人の少女の幻影が確かに揺らめいた。
粗末な甲冑を纏い、しかし誰よりも力強い瞳をした、350年前のフランスの救世主――初代聖女ジャネット・パテーの姿であった。
ジャネットは優しく微笑むと、その泥に汚れた両手で、戦場であったはずのポーランドの黒土へ、そっと最初の一粒の小麦と、じゃがいもの種を植え付けた。
「――お母様。ジャネット様。見ていてくださいませ」
光のなか、マリー・アントワネットが泥まみれのシルクドレスの裾を翻し、弾んだ笑顔で大地のうねりの中へとその身を躍らせた。
彼女が黄金の光に照らされた緑の茎に手を触れるたび、「パチパチ、ピキピキッ!」と小気味よい音が響き、丸々と太った瑞々しいじゃがいもが、次々と地中から溢れ出してくる。
マリーはそれを、これでもかと嬉しそうに、笑顔でいっぱいに編み籠の中へと収穫していく。
「ほら、ボナパルト! 摂れたての一番大きな実ですわよ!」
マリーが泥のついたじゃがいもを天高く掲げると、その傍らでナポレオン・ボナパルトが、やれやれと肩をすくめて歩み寄った。彼は不格好な農業士官のマントを揺らし、王妃が手渡したアツアツの蒸し芋を、大きな口で「パクリ」と豪快に齧りついた。
「サクッ、ホクホク……」じゃがいもの優しい甘みと大地の命の味が、軍神の喉元を温かく満たしていく。
ナポレオンは口元の泥を無造作に袖で拭うと、漆黒の瞳に最高に不敵な、しかし誰よりも穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「……美味いな。吾輩の弾き出した算術の通り、一寸の狂いもない、完璧な復興の実りだ」広場では、ベートーヴェンの『歓喜の歌(第九)』の圧倒的な大合唱が、ルイの蒸気鉄獣の咆哮とともに、世界の果てまで響き渡っている。絶望は、いまや全欧州の胃袋を満たす、温かい光によって完全に救済された。
黄金に輝く地平線を見つめながら、ナポレオンは隣で微笑むジョセフィーヌの温もりを想い、静かに、しかし最高に爽やかに呟いた。
「――やれやれ。これでようやく、静かに本が読めるな」
東の地平線から吹き付ける冷たい風は、欧州連合が放つ圧倒的な飯の湯気と、聖女マリーの笑顔、そして軍神の小さな呟きの前に、今度こそ完全に、跡形もなく溶けて消え去っていった。
____絶望は光によって救済された______
(3部作完結)




