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飢餓と戦うフランス歴史IF  作者: 癒されたい年頃


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『フランス事前会議・軍神の戴冠』

 天幕の分厚い布を激しく叩く冷たい雨の音が、まるで終わりなき太鼓の連打のように、漆黒の夜の底で鳴り響いていた。


 カルパティアの山頂から吹き付ける猛烈な寒風が、布の隙間から「ヒュウ、ヒュウ」と牙を剥いて侵入し、作戦机を照らす数本のランプの灯を、今にも消えそうなほど不気味に揺らしている。


 天幕の中の空気は、前線の赤黒い泥以上に重く、淀んでいた。


「――配給の車軸が、凍りついた肉の壁に阻まれて進みません!」


「プロイセンの鍬が折れた! 敵の数が多すぎる! 地平線のすべてがロシア兵で埋め尽くされているんだ!」


「物資が、時間が、圧倒的に足りない……! これ以上の防衛は不可能です!」ベルティエやランヌ、ダヴーたちが、次々と早馬がもたらす悲鳴のような凶報を地図に書き殴り、誰もが冷や汗を作戦机に滴らせながら絶望の声を連呼していた。


 喉はカラカラに渇き、焦燥で息が荒くなる。全欧州連合軍の完璧な歯車が、後がなくなったロシア軍主力による、人道を捨てた生肉の雪崩――武器も防寒着も与えられず、ただ「飢えと寒さの恐怖」だけで進軍してくる十万の焦土兵団の前に、物理的に押し潰されようとしていた。


 会議は完全に紛旧し、天幕の中が怒号と諦念で破裂しそうになったその瞬間。


「──静粛に」影の中から響いたその低く冷徹な一言が、天幕の騒音を一瞬で凍りつかせた。


 作戦机の前にゆっくりと歩み出てきたのは、農業士官の泥に汚れた不格好なマントを翻した男、ナポレオン・ボナパルトであった。


 周囲の将軍たちが、物資と時間の無さに顔を真っ赤にして息を呑む中。


 この男の漆黒の瞳だけは、狂おしいほどの静寂と、常勝の光を宿してギラリと輝いていた。


 彼にとっては、この絶望的な大群こそが、待ち望んだ不滅の平定をもたらす盤面そのものであった。


 ナポレオンは冷たい指先で地図の上の大群を「トントン」と叩くと、傲慢なまでに美しい笑みを口元に刻み、列強の将軍たちを見据えて言い放った。


「諸君。数という目眩ましの罠に騙されて、この戦の本質を見誤ってはいないか?」


 彼の気高き肉声が、天幕の冷気を微かに震わせる。


「我らはこの地に、救済と解放をもたらすために来たのだよ。敵を殺し、血の海に沈めるために来たわけじゃない。ならば――我らのやるべきことは、奴らの足を止めることだけだ。それすらも、不可能だと泣き言をあげるのか?」


「具体的にどうする、ボナパルト閣下! この数の暴力を、どうやってその算術で受け止める気だ!」


 ランヌが軍刀の柄を「ギュウッ」と握りしめ、食い入るようにナポレオンの顔を覗き込む。


 問い詰められた天才は、しかし、どこか億劫(おっくう)そうに片眉をひそめると、爪先で地図の端を軽く蹴ってみせた。


「単純な話だ。諸君、守るべき場所が広すぎるから足りんのだよ。ならば、守るべき拠点を極限まで減らし――残りの不毛な平原ごと、すべて見捨ててしまえばいい」


 その冷徹な一言が、天幕の冷気をさらに数度下げた。将軍たちが言葉を失い、再び険悪な怒号が跳ね上がろうとした、その時。


「──ボナパルト」作戦机の端、油まみれのスパナを握ったまま、煤で真っ黒に汚れたルイ十六世が、ゆっくりと巨体を震わせて立ち上がった。


 その穏やかな、しかし全てを見通すような瞳が、ナポレオンの顔をじっと見つめる。


「お前がこの地の民を見捨てて拠点を絞ると言うのなら、私は止めん。……ただ、フランス本国でお留守番をしているジョセフィーヌへ、事細かに事の顛末を記した書状を送らねばならんな。『ボナパルトがまた民を駒のように扱いました』と、私の名においてな」


 その瞬間、さしもの軍神ナポレオンの全身が、まるでカルパティアの氷塊を背中に直接突っ込まれたかのように「ビクンッ!」と激しく跳ね上がった。


 一瞬にしてその顔から血の気が失せ、真っ青に引き攣っていく。


 彼の脳裏に、もし作戦が本国へ露見した際、遠いパリから飛んでくるであろう正妻の本気の怒号と、あの容赦のない折檻の光景が、生々しい恐怖の幻影となってフラッシュバックしたのだ。


 ルイが怖いのではない。本国にいるあの女が、心の底から恐ろしい。


「い、いやいやいや! 誤解だ、陛下! 頼むからその万年筆を置いてくれ、話を最後まで聞いてほしい!」


 それまでの傲慢な覇王のトーンはどこへやら、ナポレオンは両手をパタパタと振り回しながら、必死の形相で弁明を捲し立て始めた。


「見捨てるのではない! 広大な平原に我が軍を分散させるから、ロシアの数に押し潰されるのだ! 最初から、我が軍が守るべき『狭間の地(きょてん)』を厳格に絞り込めば、どうなる!? 敵は十万という無駄な大群であるがゆえに、狭い隘路(あいろ)で自らの数が邪魔になり、身動きが取れなくなる! 吾輩の算術は、敵の数の暴力を、敵自身の重さで自滅させる数式だ! 決して民を見捨てるなどという、不味い真似はせん! だからその恐ろしい書状を書くのだけは本当に勘弁してくれ!!」


 息を切れらせ、冷や汗を拭いながら必死に身振り手振りで弁明する天才の姿。そのあまりの必死さと、先ほどの傲慢さとの劇的な落差に、天幕の隅でスープのハーブを整えていたマリー・アントワネットが、たまらず華やかな扇で口元を隠した。


「ふふっ……くすくすくす。まあ、ボナパルトったら。本国の奥様の影に怯えて、せっかくの奇跡の頭脳が縮んでしまいますわよ?」


 鈴の鳴るような王妃の笑い声が、天幕に響き渡る。


 それにつられるように、ランヌが「ハッ」と吹き出し、ブリュッヘルが「ガハハ!」と泥塗れの髭を震わせた。


 一瞬にして世界の命運が へし折れるかと思われた緊迫の軍事会議は、フランス宮廷ファミリーの、なぜかほんわかとした温かい空気に、瞬く間に包み込まれていった。


 ナポレオンは「コホン!」とわざとらしく大きな咳払いをすると、真っ赤になった顔を隠すように二角帽子をくりくりと指先で回し、再び作戦机の地図へと視線を戻した。


 その瞬間、彼の漆黒の瞳からコメディの色彩が完全に消え去り、大陸を統べる真の軍神の眼光が戻った。


「……話を戻そう。諸君、吾輩の算術は籠城だ。それも、ただの籠城ではない」


 ナポレオンの低く通る声が、将軍たちの背筋を正させる。


 彼は冷たい指先で、地図上の数箇所、険しい隘路が交わる堅牢な砦をトントンと叩いた。


「我が軍が守るべき拠点をこの狭間の地にのみ厳格に絞り込む。奴らはその圧倒的な数の多さゆえに、隘路で自らの数が邪魔になり、進むことも退くこともできず、勝手にカルパティアの冷気に凍えて自滅していく。なぜこの籠城が成立するか。諸君、我らの背後には、歴史上かつてないほど鉄壁の、全欧州の惜しみない支援があるからだ!」


 その言葉が、すべての怪物の魂に火をつけた。


 ナポレオンが作戦机を「ドン!」と叩き、漆黒の瞳をギラつかせて秒刻みの軍令を発する。


「ベルティエ、全軍の行軍刻限を統括せよ! ダヴーは鉄器破砕班を率いて城壁を死守! ランヌは前線でロシアの先遣隊を抑え込め! ――海の怪物はどう動く!?」


「ハッ、言われるまでもない!」天幕の天窓から身を乗り出したネルソンが、隻眼の奥の青い炎をギラつかせた。


「我が大英帝国は、各員がその胃袋の責務を全うするだけさ! 閣下の泥まみれの芋のために、バルト海を完全に鉄鎖で縛ってやる!」洋上からロシアの退路を轟音と共に封鎖する鉄甲蒸気艦隊。さらに陸からは、プロイセンの老将ブルーヘルが、鍬を掲げて不敵に笑った。


「ガハハ! ならば我が爆速の開墾陣は遊撃となり、お前の口癖通りに動いてやるぜ! 全軍、前進(フォルヴェルツ)だ! 敵の退路をすべて泥の海に変え、ロシアの脇腹を徹底的に撹乱(かくらん)してやる!」


「行くぞ、ブリュッヘル、ネルソン。全軍、前進だ」


 ナポレオンは上着の胸元にそっと右手を差し入れ、一人の男としての、全権責任者としての絶対の覚悟を声に込めた。


「飢えることのない軍隊が、狭い城に立て籠もるのだ。これが負けると思うか? ――いや、あり得ん。敵が自らの大群に溺れて身動きを失ったその瞬間こそ、カレームのスープを奴らの口へ一網打尽に叩き込む、我が算術の完全決着の刻よ。これより、吾輩のいるフランス、そして全欧州連合の辞書から、敗北の二文字を完全に消し去ってやろう」


 全欧州連合が、ナポレオンという一つの天才の脳内算術の歯車として、完全に噛み合った。


 だが、この戦いの真の恐ろしさは、前線の武力だけではなかった。


 塞がれた砦の後方、傷つき、飢えに震えるポーランドの民たちが集まる広場には、かつてない「安らぎ」の湯気が満ちていた。


「さあ、皆さま、もう何も恐れることはありませんわ。まずは温かいスープを」


 ドレスの汚れを気にも留めず、マリー・アントワネットが避難してきた子供たちを抱きしめ、アツアツのポテトスープを手渡していく。


 その隣では、国王ルイ十六世が、油まみれのスパナを片手に移動大釜のふいごを力強く煽っていた。


「ゴオオオッ!」と鉄獣が咆哮を上げるたび、周囲を焦がすほどの熱気と、ライ麦の美味い匂いが、民の凍りついた心を芯から溶かしていく。


 そこは、戦場のど真ん中でありながら、誰もが安心に咽び泣く奇跡の聖域であった。


 そして、その「究極の安らぎ」の中心へ、一台の輜重車が「ズザザザァッ!」と泥を撥ね散らして滑り込んできた。


 荷台の幌が乱暴に跳ね上げられ、姿を現したのは、耳の絶望を抱えた十九歳の青年、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンであった。


 彼は爛々と燃える瞳で、泥塗れの黒いピアノの前に腰を下ろした。


 白馬の上で、泥まみれのじゃがいもを掲げて民を救うナポレオンの圧倒的な背中を見つめた瞬間、青年の脳内に、未だ世界が聴いたことのない破壊的なまでの旋律が爆発的に鳴り響いた。


「……あいつだ。あの傲慢な軍神のために、新しい曲(英雄)の旋律が頭から離れない……! 聴こえぬなら、魂の耳で聴け! この豊穣の地を、我らの音で震わせるのだ!!」


 ベートーヴェンが背後に従えた楽団員たちへ向かって、狂ったようにタクトを振り下ろした。


「ドン、ドン, ドン, ドーーーンッ!!」地鳴りのような重低音が、カルパティアの嵐を切り裂いて荒野に轟き渡った。


『運命』の激しい打鍵音が、ロシアの巨砲の爆音を力ずくで圧殺していく。


 続いて、戦う怪物たちの背中を讃えるような『英雄』の雄大な旋律が響き、マリーの祈りと重なり合うように、静けさを湛えた『月光』第3楽章の激しい嵐が、鍵盤を叩き壊さんばかりの打音となって戦場全域へと吹き荒れた。


 アツアツのスープを啜るヤンたちの喉元へ、そじ泥まみれで鍬を振るう兵士たちの心臓へと、魂を震わせるオーケストラの重低音が、五感の奥底まで突き刺さっていく。


 どちらが未来であるか。どちらの統治が正しいか。全欧州が惜しみなく差し出す鉄の支援、軍神ナポレオンの完璧な算術、そして聖女のスープとベートーヴェンの爆音の旋律。


 天幕の外では、相変わらずロシアの極寒の長雨が激しく大地を叩いていたが、欧州連合の怪物たちの胸には、もう冷や汗の一滴すら流れてはいなかった。


 誰もが最強の盾と、魂の音楽を確信し、泥まみれの鉄器を握り直す。


 ロシアの焦土をじわじわと黄金のスープの湯気と歓喜の音色で塗り替えるため、怪物たちは、暗闇の中で不敵な牙を静かに研ぎ澄まし始めていた。


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