『凍土の聖女と、黄金のスープ』
「初代聖女ジャネット様。……ここには、未だ飢えに苦しむ民と、引き裂かれた大地の傷跡がございます。大天使ミカエル様。どうかこの凍てついた地と、暴力の闇に斃れていった亡き英雄たちに、永遠の安らぎと光を与えてください」
マリーが髪に飾られた、ジャガイモの薄紫色の小さな花にそっと指先を触れた。
その気高き王妃の横顔、泥にまみれることを厭わぬ純粋な祈りの姿に、前線で凍える泥水の中にいた農民ヤンは、激しく胸を揺さぶられた。
「……オラたちも、祈るべ。あの優しい王妃様と一緒に、祈るんだ」
ヤンが震える手で泥を握りしめ、天に向かって目を閉じる。その姿を見た隣の子供たちも、涙を拭って小さな手を合わせ始めた。さらに、その姿をじっと見つめていたブリュッヘルが、鍬を握る泥塗れの両手を静かに組み、ネルソンが隻眼を閉じて深く首を垂れる。
ダヴーも、ランヌも、ベルティエも、そしてカレーム率いる食糧班の職人たちまでもが、ただ一つの「飢えのない世界」を願い、同じように深く、深く祈りを捧げ始めた。
戦場にいる数万の人間が、敵も味方も、国境をも越えて一人の聖女と共に同じ祈りで繋がった。
その瞬間、世界が完全に静まり返った。
「バリバリバリ、ドガァァァン!!」数万の魂の共鳴に応えるように、漆黒の雨雲が立ち込めていたポーランドの空が、耳を聾するほどの轟音を立てて引き裂かれる。雲の裂け目から、天を突くほどの圧倒的な【黄金の光】が、この凍てついた戦場へと垂直に突き刺さった。
きらきらと輝きながら舞い踊る、猛烈な光の粒子。
それはクトゥーゾフの巨砲が降らせた冷害の呪い――カチカチに凍りついていた泥の罠や不毛の土壌へ、容赦なく、かつどこまでも優しく降り注いでいった。
「ジュウウウゥゥーーーッ!!」
着弾した氷塊が一瞬にして激しい白煙を上げて溶け去り、戦場を覆っていた焦げ臭い煙が、一瞬にして生命の息吹を宿した瑞々しい黒土の匂いへと塗り替えられていく。
黄金の光を浴びた黒い炭の跡から、「パチパチ、ピキピキッ!」と無数の弾ける音が爆音となって轟いた。
冷害の寒さを力任せに撥ね退け、瑞々しい緑のジャガイモの芽が、地中から一瞬にして爆発的に吹き荒れ始めたのだ。土を割って湧き出る極太の茎、みるみるうちに盛り上がる大地のうねり。
「おお……おおお……! 救世主の再来だ……!!」泥まみれの農民たちが、地面に額を擦り付けて咽び泣く。
全員の祈りが呼び込んだ本物の「豊穣の奇跡」が、今、目の前の不毛な荒野を鮮やかな生命の緑で埋め尽くしていく。
奇跡の光に包まれて顔を上げたヤンは、自分の瞳から溢れる大粒の涙が、温かい光によって乾いていくのを感じた。感覚の消えていた指先に、劇的な熱がジリジリと戻ってくる。
誰もが声を失って声を上げて泣いていた。マリーはそっと目を開けると、泥と涙を流す子供たちの前に歩み寄り、この世の全ての闇を溶かすような、見惚れるほどに温かい聖女の笑顔を浮かべた。
「さあ、皆さま! ……まずはお腹を満たしてください! それからですわ、みんなでこの土地を、人を、元気にするんですから!」
マリーは立ち上がり、黒い煤で顔を汚しながらも、誇らしげに蒸気車の調整を続けていた国王ルイ十六世へと、悪戯っぽく、しかし絶対の信頼を込めて視線を送った。
「ああ、もちろんだとも、マリー。我がフランスの誇る移動大釜は、いつでも完璧な温度を維持しているよ」
油まみれのスパナを掲げて、ルイ十六世が太い声を響かせる。その合図とともに、宮廷菓子職人の長アントナン・カレームの率いる料理兵立ちが、一斉に大型大釜の重い蓋を「ゴパァッ! パカッ!」と跳ね上げた。
白い濃厚な蒸気と共に立ち上る、圧倒的なコクのある匂い。魚と芋の香ばしい香りが、凍てつく風を一瞬で塗り替えていく。ライ麦の独特な酸味と、ジャガイモの濃厚な澱粉の旨味が混ざり合い、そこへネルソンが海上から運んできた新鮮なタラの身が「ジュワァァッ!」と惜しげもなく放り込まれていく。
特製のジュレックスープだ。神速の輜重によって、アツアツの配給が、動けなくなっていた民衆の喉元へと無限に配られていく。「温かい……。身体の芯から、命の味が染み込んでいく……っ」スープの器を差し出されたヤンは、震える手でそれを啜った。
「ズズッ、ズズズッ!」と喉を焼くような熱さと、濃厚な魚介の旨味が胃袋に落ちた瞬間、死にかけていた全身の血が激しく巡り、生きる意志が指先まで満ちていく。
ロシア軍がいくら土地を焼き払おうとも、フランスの聖女は目の前で大地を正常に浄化し、スープを差し出してくれる。兵士も、民も、その温もりだけでどちらが正しい「未来」であるかを、胃袋の底から理解していた。それらを眺めながら、ナポレオン・ボナパルトは算術手帳を再び開き、冷徹な勝利の笑みを口元に刻みつけた。
全欧州連合軍の「無限の兵糧」、そして王妃の「黄金の浄化の光」
この二つが完全にひとつに重なった今、ロシア皇帝の誇る『冬将軍』と焦土戦術は、もはや恐怖でも何でもない。
ただの、この豊かな黒土に塗り潰されるのを待つだけの、過去の遺物にすぎない。
「ベルティエ、ランヌ、ブリュッヘル将軍。民の胃袋が満たされたな」ナポレオンの手帳には、これより東へ向かって進むための完璧な数式がびっしりと描き出されていた。
「これほどの糧食線があれば、ロシア軍がカルパティア山脈を越えて奇襲してくるなどという、無駄な博打を打つ必要性は万に一つもない。我が算術の勝ちだ。奴らはその険しい雪山の中で、勝手に飢えて自滅する」
天才の脳脳は、自らの完璧すぎる兵站の前に、冷酷な「楽観」の線を地図に引いた。
──だが、その時だった。
「――ほ、報告! 伝令、伝令ッ!!」天幕の裾を「バサァッ!」と激しく引き裂き、凍傷で両耳を紫に腫らした斥候の兵が、血反吐を吐きながら床へ転がり込んできた。
その手には、カルパティアの向こう側から届いた、生々しい血の匂いのする書状が握られている。
「ロシア軍主力、クトゥーゾフの本隊は山脈を迂回していません! 奴ら、自国の農奴兵たちに武器を持たせることすら止め、ただの肉の壁として『カルパティアの雪崩』の如く、山頂からこちらへ向かって滑落、進軍してきています! ──防衛線が、北方の平原が、上から物理的に押し潰されようとしています!!」
一瞬にして、ナポレオンの開いた手帳の上へ、冷たい雨の滴がポツリと、不穏な音を立てて滴り落ちた。完璧な算術の盲点を突く、ロシアの「命を顧みない真の狂気」
軍神の額に、初めて冷たい汗が滲んだ。




